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怒るとよくないとされる。
価値相対主義の時代であるから、正義のつもりで怒るのがやたらと敬遠されているのである。
その怒りが正しかろうが、暴れているDQNと同じ扱い、というより、DQNなら正義ではないから乱痴気騒ぎをしているだけで若い女が寄ってくるし、つまり、つい声を荒げてしまうような頑迷さが疎まれているのである。

かつて父親が怒鳴り散らしていたのは、家父長制の中で正義は確固たるものだったのであろうし、「どちらとも言えない」という流動性は乏しかったからである。
現在では白とも黒とも言えないような事象の羅列として世界を捉えることになっており、悪事を容認するというよりは、判断が保留されているのである。
神経症的な抑圧が衰退し、社会から厳格さが失われたが、それによって風紀の紊乱が底知れぬものとなったかというと、1980年代や1990年代は頽落したソドムの光景も垣間見られたが、これはマスメディアの影響が大きいし、少なくとも、2017年現在ではずいぶん落ち着いたように思える。
昔の厳しい時代に比べてモラルが低下したとは言えないから、規矩正しい古風な厳格さを取り戻さなければならない、ということはない。

新聞社やテレビ局は要するに、そこで働いているのはサラリーマンか、もしくは下請けであるから、命令されているだけだと弁解できるし、巨大な法人の暴走であった。
ネットが普及してから名誉毀損云々言われるが、個人は独房で叫んでいるのと同じであるし、街宣車で押し掛けているわけでもあるまいから、ご丁寧にエゴサーチしなければ見えないものである。
巨大な新聞社やテレビ局が、法人として社会を紊し、人間を蝕んでいく無責任さに比べたらたかが知れている。

モラルが失われたというよりは、むしろ個々人の立ち振舞いの問題に帰着したとも言える。
父親から抑圧されなくなった代わりに、分散的に相互監視する世の中になったのである。
何もしないうちから怒鳴り散らされて戦々恐々とする時代は終わった。
善悪よりは、人間として言動がしっかりしているか、というのが問われるようになった。
インターネットも初期の頃は、ネチケット云々と言いながら、他人に難癖をつけて謝罪させるような光景が見られたが、それもすっかりなくなった。
違反する前から怒鳴っておくというような恐怖政治は、地上からもワイアードからも消えた。
自ら愚かな行動を始めない限りは炎上することもない。
善と悪、つまり禁止されていることはやらないという次元ではなく、普段からのしっかりとした行住坐臥を重視する境地に至ったとも言えるし、これを肯定的に捉えるのも可能である。
昔であれば、馬鹿をひょうきん者として面白がることは普通だった。
もちろん馬鹿を蛇蝎のごとく嫌う人間はたくさんいたが、面白がって受容する人も少なからずいたのである。
今日だと、馬鹿を迂闊に面白がってしまうと、馬鹿が自爆した時に累が及ぶ可能性があり、得体の知れない管理責任が立ち現れてくることもある。
共犯者というだけでなく、善管注意義務や管理責任というところまで潔白であらねばならないから、馬鹿を面白がることなど出来ない。
馬鹿は無資力なので、金の有りそうな責任者を探す訴訟社会が勃興したということであるが、もはや当人をスルーして、いきなり管理責任者に非難が押し寄せる。
人間はその時代背景に縛られて生きているのだが、2017年現在で言えば、馬鹿と関わらないのが求められる。
われわれはもはや個々人の道徳は気にしておらず、ただひたすら管理責任の目線で見ている。
かつて人間の言動を個々人の善悪として完結させていたのは、野放図で粗野な社会とも言えるし、このところ社会的責任という集団的観念が強くなってきたのは、社会の成熟とも言えるのだが、この価値観の根底にあるのは民事訴訟への畏怖である。
発達障害というものが障害として立ち現れてきたのも、もはや馬鹿は黒死病、もしくは、居合わせたら自爆に巻き込まれる危険性が増しており、われわれは馬鹿が自爆しないように教育したり、出来る限り距離を置いたり、ともかく爆発に巻き込まれないようにしている。
中国のような後進国でも人肉検索なるものが流行っているそうで、何か問題を起こした人間を徹底的に暴き立てる正義が台頭しているらしい。
一人っ子政策があるから、人間が簡単に死んだりするわけにはいかないのだろう。
誰しも社会的責任を玩具とし、社会的制裁を愉しむ思想警察である。
ドナルド・トランプが大統領になれたのは、今のところ有権者がコンプライアンスを問われることがないからであり、善管注意義務を放棄した上で投票できるからである。
民間のコンプライアンスが非常にうるさいので、それに対する反動が政治的に浮かび上がってきている。
もし有権者が自らの投票行動について責任を求められるとしたら、できるだけ無難な人を選ぶということになるだろう。
人体=宇宙というイミフな意見を言う人がいるが、三次元空間の性質からして、そういうレトリックも可能になのであろう。

われわれは三次元空間を認識したつもりになっているが、実際の映像は二次元、もしくは二次元ですらない。
われわれの視空間認知機能が、この世界を三次元空間だと想定して、頭の中で立体的に再構成しているだけである。
つまり、人体が三次元空間を仮想的に体験しているだけなのである。
人体、もしくは地球上の生命体が見当識を持つからこそ、その肉体を物差しとして空間が生成されるのである。

宇宙の片隅にいる塵芥であるわれわれを広大な宇宙になぞらえるのは奇妙だが、人体がどうこうというより、どのようなものも、同時に二箇所に存在することは出来ない。

たとえば東京と大阪に同時に存在することは出来ない。
東京と大阪にまたがるような巨人を思い浮かべることは出来るが、人間の神経の速さは秒速100メートルくらいだし、それだと巨人の中で情報が伝わるのが遅すぎて、とても東京と大阪が同時には思えまい。
では、巨人の神経が光速(秒速30万キロメートル)であれば、東京-大阪の500キロなら、600分の1秒で伝わるから、人体より素早いし、これならいいかもしれない。
とはいえ、距離の差を問題にしない巨人という仮想だと、結局は宇宙と同じサイズの超巨人まで考えるしかないし、こうなってくると、超巨人の身体の端から端まで神経が伝わるのに、光速で何十億年も掛かることもあるわけだ。

頭の先から足の先まで幅があるのに、われわれの意識は身体に遍く行き渡っており、頭と足という空間的に別の場所をほとんど同時に統一的にとらえているのである。
本当は同時ではなくても、脳で補正された意識は同時である。
触覚や重さの感覚も含めて、そういう身体感覚だけが三次元空間の根拠なので、それを宇宙と呼んでみるのも可能だというだけのことである。
ニーチェが言うには、というより、ニーチェが言わなくても誰かが言うであろうことだが、人間は計算可能な存在でなければならず、そのために、刑罰で記憶を刻みつける必要がある。
刑罰(苦痛)の記憶がわれわれを存在させている。
そして他人を罰するのは快楽であり、自ら鞭を振り回さずとも、官憲が他人を罰するのを眺めるだけで快楽が得られる。
刑罰がなぜ罪を贖うことになるのかと言えば、罰するのが快楽だからである、とニーチェは言う。
残酷さは悦びなのである。
他人が鞭打たれて苦悶するのは楽しい。
だから刑罰の記憶は、刑罰を見る側の楽しさの記憶でもある。
稀代の悪党を刎ねて梟首台に載せるような事例だけでなく、無辜の女性を異端審問で火炙りにするのも楽しい。
ヨーロッパ人が死刑を批判するのは、過去に楽しみすぎたので疚しいのであろうと思われる。

敷衍して言うなら、このような具合での刑罰という娯楽の肯定、火炙りなどの不穏なものでなくとも、ごく普通に刑務所があるからには、われわれは囚人なのである。
われわれは誰かが逮捕されると「他人事」として快哉を上げて、その三面記事のドラマを娯楽として楽しむから、管理されている自覚がない。
なぜたいていの人が刑務所と無縁なのか考えてもらいたい。
誰かが生け贄になる事例を備忘録に書き留めながら、投獄されないように計算しているからである。
自らの意志を実行に移した際に、あの畏怖をもって聳え立つ刑務所の檻に繋がれるかどうかは計算できる。
われわれは刑務所に入らないための計算問題に支配されている。
市民社会という開放病練は檻の中よりは自由だが、踏み外せば鉄格子に囲まれる。
檻の中も外側も同一の教条で貫かれ、あちこちに同じ聖典を携えた教誨師がいる。
あれこれと制約がある息苦しさを、いわば言葉の発明により、美しい詩文で書き綴り、心境の変化として反映させて、人間的な煩悶を高潔な禁欲主義に昇華することはできる。
そのような美化を虚無への意志とか生の否定とニーチェなら言うのかもしれないが、いずれにせよ人間は不自由であり、その不自由への解釈の問題なのである。
「白米が健康寿命を縮める~最新の医学研究でわかった口内細菌の恐怖~」花田 信弘
日本人の炭水化物への偏重は、あとで述べますが、天武天皇の時代に出された肉食禁止令(675年)などにその理由が見いだされます。そしてこの主食への偏重は、平均寿命だけでなく、身長にも悪影響を及ぼしていたようです。 古墳時代から江戸時代まで、日本人は一貫して、背が低くなり続けてきました(図3-9)。主食を重視する伝統的な日本食は、慢性的な低栄養による低身長化を招くことが推察されます。

肉食が解禁されたのは、なんと明治維新以降のことです。第二次世界大戦後は、食生活の西洋化が進み、主菜と副菜、つまり「おかず」も重視することで栄養バランスが改善し、米の消費量が減ったことはすでに見たとおりです。そして日本人の身長は伸びたのです。

とくに着目したいのが、江戸時代の身長の低さです。古墳時代から低くなり続けた日本人の身長は、江戸時代から明治初期にかけて、歴史上もっとも低身長になっているのです。  一方、戦後の身長の伸び方を30歳男女の例で見てみると、男性の平均身長は、1950年の160・3センチから2007年の171・4センチと、10センチ以上、割合にして6・9%も伸びています。同時期の女性についても、148・9センチから158・0センチと、やはり10センチ近い、6・1%の伸びを示しています。  わずか60年程度の間に、大幅な身長の変化が起きているのです。


日本人の身長は明治時代が最も低くて男性の平均は153センチだったようだ。
鎌倉時代は158センチ、室町時代は156センチ、江戸時代は155センチである。
これは米を中心とした食事の結果だというのである。

最近の日本人は平均で172センチまで伸びているが、前掲書では、これを肉食文化の浸透だとしている。
この本では触れられてないが、ヨーロッパだと、身分によって身長が極端に違っていたとされる。
日本だと、身分の高い人が高身長とは限らないが、これは食生活の問題だと思われる。

「肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見」(鯖田豊之著)によれば、気候の問題からして、高温多湿の日本には稲作が向いており、そうでないヨーロッパでは酪農が向いているという。
日本だと雑草が堅く立派に育ちすぎて家畜が食べられないという。
ヨーロッパでは雑草があまり育たないから柔らかくて食べやすいのだという。

むし暑い夏のないことは、ある意味では、植物の生育に不適な条件である。植物が十分に繁茂するには、一般的にいって、暑熱と湿潤が何よりも必要である。どちらが欠けることも好ましくない。ヨーロッパで日本のような雑草がみられないのは、実は、こうした暑熱と湿潤のむすびつく時期が、一年を通じて全然ないからである。
(中略)
第1図と第2図をくらべても、このことははっきりする。東京では気温の山は同時に湿度の山である。気温が高くなれば、湿度も高くなる。これに対して、パリでは、両者は逆の関係にある。気温の山は湿度の谷である。気温がさがると、湿度があがる。こういう状態であれば、ひとりでに生える草類も柔らかなままで生長がとまり、日本の雑草のように、家畜の歯にあわないほど、固く太くなったりはしない。それが牧草として利用されるのである。
(中略)
ヨーロッパでも水稲を栽培してもよさそうなものであるが、ここでわたくしたちは気候条件につきあたる。水稲の栽培には、生育期に三ヵ月以上摂氏二〇度を越す気温と、年間で一〇〇〇ミリを越す降雨量が必要であるが、ヨーロッパでこのような条件を満たすところはほんのわずかである。水稲栽培が可能なのは、本来的には、役にたたない雑草を繁茂させる、暑熱と湿潤のはげしい所だけである。


わたしは筆を補うだけの科学的知識がないので、特に付するところはないが、それなりに興味深いのでまとめてみた。
有村悠さんは庵野秀明の後継者と言っていたわけだが、まったくアニメ制作とは縁遠い環境で育ったからこそ、アニメ監督という目標が閃いたのである。多少なりとも美術でもやっていれば、そんな畏れ多いことは思いもしない。もしくは美術をずっとやっていて腕前が本格的な人なら、「30歳までにイラストレーターになれなければ自殺する」などと公言せずとも、ごく普通に挿絵の仕事でもするだろうし、アニメのキャラデザに関わることだってあるだろう。

ワナビーとは、おそらくスタート地点で出遅れている人のことを言うのであり、三浦カズが活躍していた頃、サッカーをやったことがないのにブラジルに渡る馬鹿がいたが、まったく積み重ねがないゆえに、未知の世界へのフロンティア精神が閃くのである。有村悠さんであれば、貧困母子家庭からの東大入学であるから、周囲の金持ち東大生と比べてかなり劣っていたはずであるし、高嶺の花の美人東大生に告白したら面罵されて、大好きな東大に通わなくなってしまった。いくら東大の中で最底辺とは言っても、東大に合格しているのだから、普通に勉強してればいいと端からは思うわけだが、やはり優れた集団の中で自分だけが劣っていることに自尊心が耐えられなかった。だからサッカーをやったことがないのにブラジルに渡ってワールドカップを目指したのである。勉強には限界が見えたが、サッカーには限界が見えてなかったからである。黴の生えた三等室を終の棲家として、冴えない歴史学徒の余生を送るなど耐え難かったのである。そのような変わり映えしない世界なら滅びるべきであったし、未知なる世界の幕開けのために戦端を開く必要があった。

彼が求めたのは価値転換のための王権思想であり、暗澹たる受難に満ちた貴種流離譚を生きながらえ、その虚空の肺腑に描いた建国神話の輪郭を具現化させ、天鵞絨のように煌めく須弥山の頂点に超人として姿を現すはずであった。それが現在どうなったかというと、なんかwikipediaから貼り付けて歴史の専門家気取りをやっている。有村悠さんは東大文学部西洋史学科中退だが、ずっとブラジルでサッカーをやっていたから、歴史の本など一行も読んでいない。ごく普通に東大で勉強していた方がよかったというオチだが、当時は金持ち東大生との格差に耐えられなかったのであろう。

このような誤謬は、知性の欠落というよりは、現実的な想像力の欠如である。もしくは、漫画だと主人公はまったくの初心者であることが多々あるし、バスケをやったことがないのに短期間で上達するとか、碁を知らないのに本因坊秀策の霊がうんたらとか、そういうのがずいぶんある。ルールを説明しながらストーリーを進めるには、主人公が初心者であると都合がいいということもあろうが、それだけでなく、やはり「選ばれた人間」という主人公意識なのであろうし、脇役に甘んじないという倨傲である。悪しき選民思想が根底にあり、ノストラダムスの大予言と大差がない。
有限と無限という対概念で考えるのが人間の癖のようなものだが、実際はこの世には有限しかないはずである。
すべては有限である。
それでも宇宙の涯ての向こうがどうなっているかという疑問が生じてくるし、無限の時間とか、そういう概念も考えたりする。
無限というのは、有限性では答えられない謎について、曖昧な名付けをしたものである。
世界のだいたいのことは三次元空間という有限性で説明できる。
この世界に無限など無いし、三次元空間の有限性がこの世界の本質であり、この有限性において人間は生きているから、有限性で用が足りているのだが、宇宙の涯てまで考えるとあれこれ綻びが生じるので、その疑問について無限という名前を付けているだけである。
三次元空間とは、つまり、空間と時間の長さが計測できる世界であるが、この計測可能性を取り払って、無限という言葉を使いたがることがあるらしい。
三次元空間が絶対に正しいとは限らないし、すべては現在であり過去は記憶にしか無いのは明白であるし、またこの空間もゲーム画面の中の世界と同じく位置情報にすぎないと考えることも可能だが、これは思考のほつれのようなものであり、無限という概念はかなり大雑把である。
到底、有限と無限が対等に並び立つことはないのであるし、有限でなければ無限という単純な話ではない。
おそらくこの二年くらい、わたしはほぼ毎日欠かさず南條愛乃さんの動画を見ていると思うのだが、なにしろ実物が不細工なババアなので、未だに飽きないのが不思議である。ポージングの美しさに尽きるのであるが、その本質は静止である。何が美しいのか、というのは、あらかじめ決められている。美しいから美しいというトートロジーである。137億年前に宇宙が始まった時にそんなものは決まっていないから、あくまで地球上の生命体の感性の問題である。たとえば目と鼻と口という並びに根拠はあるまいが、違う並びの人がいたらグロなわけであり、その基準はなんぞやといえば、進化の偶然性であろうし、どこかで発生した美的感覚において美であれば美なのである。美的感覚が主役であり、生命はそれに従う。動作の美に関しての最大の法則は、挙動不審は見苦しいということである。ADHDが教師から馬鹿にされるのは、身体が勝手に動いているからである。わかりやすい事例は貧乏ゆすりだが、しっかりしているタイプの人間はそういうダラダラした動きはしない。なぜ静止が美しく、貧乏ゆすりが醜いのかというと、これはそう決っているからである。中枢神経がコントロールされているときちんと静止しているのだが、EQ的にオツムが緩いと、いわば死体の痙攣のように身体が勝手に動いている不気味さがある。静止というのは動作と対極と見られがちだが、動きの美しさという意味では、どちらも同じである。南條愛乃さんは、静止状態がきちんとしており、余計な動作がない。それでいて、堅苦しさは寸毫たりとも無いのである。ADHDが無理矢理に座らされているのではなく、姿勢が本当にきちんとしているからである。道元禅師が坐禅を苦にすることがないように、南條愛乃さんの折り目正しく凛とした立ち姿は、人類普遍の美学に従って誂えたものであるから、これが窮屈であるはずがない。正装で折り目正しい立ち振舞いをすることに苦痛がないから、肉体が飢え渇いて貪ろうとする騒擾や葛藤とは無縁であり、これは至って無我の境地である。天体の運行のような調和があり、山岳信仰のような端然とした崇高さがある。たとえばアドリブで動いたりしても、美しさはひとつも減じない。南條愛乃さんが動くことで、静止状態が破綻することは微塵たりとも無いのである。制御の糸が切れたような余計な動きがないことが重要である。本人が不細工なババアであるということは、ここではまったく問題ではなく、いわば歌舞伎の女形のように、美の理法を授けられた演者として、その本質を体現していればいいのである。どれが「余計な動き」でどれが「余計でない動き」なのかを言葉で説明するのは難しいが、われわれの美的感覚としては、見るだけですんなり腑に落ちる問題である。邪悪な精神が身体動作の軌道を枉げているなら、それは余計だと言うしかない。
かつて親は「大人の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていた。
つまり、大人というのは、親から委任された存在であり、大人に逆らうなら、親の命令に逆らうのと同じだったのである。
最近では、そこらのおっさんを不審人物だと見做すことになっているが、これは親がそういう判断をしているからであろう。
ごく普通に近所の顔見知りが減ったという事情もあるが、「大人は怪しい」と子どもに教えているのだ。
これは適切であるだろうが、ともかく、誰の言うことを聞くか聞かないかは親が決めている。

かつて医者はすごい偉い存在であり威張り散らしていた。
これも親が「医者にだけは逆らってはいけない」と教えていたからである。
そういう教えがなくなったから、医者に不満があれば逆らう患者がたくさん出てきた。

学校教師も同じ話であり、昔の親は「先生の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていたはずである。
最近は言わなくなったから、それに見合った関係になっている。

核家族化された社会であるし、もう親は「大人の言うことを聞け」と子どもには言わない。
ケースバイケースであろうし、これは家庭の価値観の問題だが、全体的に「大人の言うことを聞け」と言うことが減少している。

良し悪しについて、長々と述べるのは無益であろう。
だいたいの大人は親から委任されなくなったということなのである。
「医者に逆らってはいけない」と親から言われてない患者だらけになったのであり、これは時代の変化に伴い、上の世代まで浸透していると言える。

われわれが親から教育されているというのは、一種の誤解なのである。
実際は親から「教師の言うことを聞け」と言われて教師に隷従するとか、そういうことなのである。
親が「うちの子は悪くない」と居直るのはDQNの特徴だが、親がどれだけ他人に委任するかどうかで子どものパーソナリティーも決まる。
親が「うちの子が悪い」と卑屈に頭を下げるのも困った話だし、DQNのたくましさを考えると、このあたりはバランス感覚である。
かつて有村悠さんが「俺には怒りの感情しかない」と言ったことがあるが、これはADHDにありがちな罠である。
テンションが上がるまで怠けているのがADHDだが、こういう怠け者が立ち上がる撥条になりやすいのが怒りという感情である。
怒りは快楽と真逆ではあるが、瞬間的に沸き立つ衝動性は通底している。

ADHDはリソースの配分が苦手であり、喩えるならマラソンで全力疾走するようなものである。
全力しか出せないから、すぐに力尽きてリタイアする。
定型発達者にはリミッターが装備されていて、適度に力を抜きながら長距離を走れるが、ADHDにはそれがない。
このような短距離走者としての気質があると、スイッチが切れている時間が長くなるし、スイッチが入るとなれば、どうしても快楽と暴力である。
それ以外のことは気長にやらないといけないから向いてないのだ。

ADHDがいろんなことを先延ばしにするのは、全力を出せなければ何もしないという判断なのであろう。
テンションが上がるまで待っているのである。
定型発達者はやる気(高揚感)がなくても活動できる。
そもそも普通の人は全力を出してないし、いろいろと加減しながら生きているから、高揚感が最高度に到達するまで怠けて過ごすことはない。

有村悠さんのケースで言えば、締切直前に過集中で艦これ同人誌を仕上げることで、これまで累計2万部を売っているようだから、たまたま気分の高まりが金銭的な成果(快楽)に結びついており、以前のような凶暴性は見られなくなっているが、相変わらずトラブルメーカーではあるようなので、この小康状態がいつまで続くかはわからない。
こういうドストエフスキー的な人物が小さな成功を収めつつあるのは、何らかのフラグのような気がしてならない。
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