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視野の広さはかなり先天的なものだから、訓練で劇的に向上することはない。
訓練の仕方を提案する人はいるし、わずかの改善ならあるとしても、鈍足が韋駄天にはなるまい。
ロンブーや津田大介のように、瞬間的に全体把握する野生の勘を身につけるのは無理である。
だが、瞬間的ではなく、時間を掛ければ全体をよく観ることは可能である。
要するに椅子取りゲームのように競い合う感じだと、ロンブーや津田のチンコがマンコに漏れ無く挿さっていて、立ち遅れた人間はどうにもならない。
だが、そういう時間制限がある場合ばかりではない。
ごく普通に周辺を見る場合は、時間を掛けていいこともあるのである。
落ち着いて、できるだけ全体をよく見ることはできる。
マンコと当意即妙のやり取りをするとなると、瞬時に読み取る野生の勘が必要なのだが、それだけの話である。
長考しても構わない、もしくは長考することで思索が深まることもある。
じっくり見渡しながら、いろんなことに気づいていくことは、視野の狭い人間でも可能である。
津田大介やロンブーは注意欠陥ではないから、発達障害的に上の空になることはないが、知能指数が低いから理詰めで長考することなど出来ないし、すぐに息切れする。
やたらと目端が利くかと思えば、所詮は知能指数100未満の猿知恵ということが多々あるのだ。
われわれは野人ではなくて人間なのだから、時間を掛けてじっくりと全体を見ればいいだけである。
これだとマンコには対応できないし、やはり瞬間的な全体把握こそが、津田やロンブーのようなビクトリーロードを歩むための武器なのだろうが、とはいえ、時間を掛けてじっくりと観察するのがまったくの無価値というわけではあるまい。
なぜ芸能界にはプロ野球のようなFA制度がないのかと考えると、 周防郁雄のようなヤクザが原因という簡単な問題ではなく、芸能人はかなり知名度に頼った存在であり、その芸名が大文字であるほど凄いのである。そして、その芸名が本名だとしても、事務所の作り上げた名前なのである。芸能界は一般人の関心をかなり侵食しており、熱病を起こさせる神経毒として深く根を張っている。さすがにネットの発達で、テレビメディアという業病から恢復しつつあるが、まったく縁が切れたわけでもない。野球選手であれば無名でも150キロ投げられれば価値があるが、芸能人はこれが不鮮明であり、やはり芸名の重み、もしくはそのアイコンの強度なのである。世間に名前を知られているというのは、それ自体が大文字の主語として重みを持ち、大文字であればあるほど歴史上の人物のようになってくる。全盛期のビートたけしなどは、本当に代わりがいないレベルだが、これだけ才能が突出しているのはかなり珍しいケースである。たいていは事務所の力で芸名が大文字になったというだけである。島田紳助のような実力者でも代役はたくさんいるわけである。明石家さんまは島田紳助の上位互換とも言えるが、さんまでさえ代役はいる。紳助とさんまで絶対的な差があるとは言えないからだ。やはり吉本興業ありきであり、ダウンタウン松本でもそれは同じである。交換可能という現実からすると、「代わりがいるならもっと自由に移籍させてやれ」という話もあるだろうが、やはり事務所の代紋あってこそだし、それだけプロモーションしたのだから破門状を回すという話にもなる。売り込んだ事務所こそが主役である。山口百恵は時代そのものであろうし、そして、あれだけの力量の持ち主は稀であるにせよ、代役がいないわけではあるまい。その幻の代役は、つまり現実化せずに潰えた未来であるから、時間の一回性に基いて、山口百恵が大文字の主語として時代を物語ることになるのだ。これが山口百恵ではなくピンク・レディーとなると、いくらでも交換可能だが、ピンク・レディーは山口百恵より価値が低いというわけでもない。山口百恵の代役を見つけるとなるとかなり大変なのに対して、ピンク・レディーは誰でもよいのが実情だが、それでもピンク・レディーが時代を席巻した規模の大きさは山口百恵と同等以上であり、山口百恵とピンク・レディーは大文字の主語として、ほぼ同じ重みがあるのである。自分で演奏も作曲も出来るミュージシャンだと本人の価値ということになるし、売り込みに成功したプロモーターが何かしら成功報酬を得る方式も考えられるだろうが、そうでなければ、「別の誰かに歌わせる」という選択肢もあったはずで、その選択肢を消して自らが傑作を歌わせてもらったのだから、事務所移籍は恩を仇で返すということにもなる。そこらの兄ちゃんや姉ちゃんが大文字の芸名を持ったからと言って、そんなのは芸能界のシステムありきなのである。
目玉と鼻と唇の並びを顔として認識し、その顔の世界を生きている。この並びである必然性はないし、目玉が何十個あってもいいだろうが、われわれの感覚ではグロであり嘔吐すべきものだ。たとえば磁力というよく知られたものでも人間の五感では検出できない。しかし渡り鳥は磁力を感知できる。われわれは森羅万象を知り尽くしているわけではないのだ。顔は磁力よりも複雑なテーマであり、本来なら無機質な模様でしかないものに、何かしら特別な枠組みを与えて浮かび上がらせている。顔はあまりにも自明的であり、その自明性の桎梏から遁れることはできない。われわれは誰に設計されたかわからない存在者として生きており、本来ならこの疑問符の重さで圧死するべきなのだが、「親から生まれた」という物語で片付けることにしている。われわれの股間に血肉化している凶々しいケダモノがウィルスを撒いただけであろうし、肉槍も肉壷も顔を持たない。それでも頭部だけは顔を持っており、そしてこれは唯一無二の紋章であり、この美醜が身体の稜線にまで連なるから、誰でも同じチンコが付いている状態とは次元が違う捉え方をしている。われわれは日頃から他人の顔の品評をするのが趣味、いや、お遊びの手相見とは異なり、顔こそが人間世界そのものである。「親から生まれた」という説明原理が成り立つのも、親子の顔立ちが似るからであろうし、「親から肉体をもらった」という実感も、それがゆえである。われわれが他人の家族を見やる時も顔の相似性に着目している。顔が人間そのものであり、その顔が親からの継承なのだから、動かぬ証拠のようになっているのだ。この大地に同じようなチンコやマンコが叢生し、血腥い繁殖をしているだけではなく、あくまで顔という重大な個性を生きている。犬や猫にも顔はあるのだし、人類が初めて顔という概念を得たわけではないが、親に食物を与えてもらう必要性、あるいは親の義務の問題があるとして、血縁を確信させるのは顔なのである。生物の進化を考えれば、血縁の証明のために顔という概念が創造されたわけではあるまいが、人類はそのようにして活用している。他人の空似というものがあり、血の繋がりがないのにやたらと似ていることもあるが、顔が似ていれば自動的に血縁者として判定するわけではない。「親から生まれた」という物語の論拠として顔の近似性は説得力があるだけである。親は性行為をしただけであろうし、そもそもわれわれは多細胞生物なのだが、60兆の細胞がひとりの人間を構成する仕組みも人知を超えており、それを解き明かす端緒さえ思い当たらないから、「親から生まれた」が限界なのであろうし、われわれはその次元に存在してるのだから、天地開闢から地球上に生命が蠢いて、この穢土で人間が瘴気を放つまでの経緯を紐解く必要はあるまいし、人間的な説明として「親から生まれた」は正しいという言い方も出来る。
有村悠さんは、母子葛藤では加藤智大に通じるし、エリートへの怨みでは宅間守に通じるし、女性へのロックオンでは岩崎友宏に通じる。
だから、犯罪者予備軍と言うこともできる。
なおかつ宮崎勤と同一の性的嗜好の持ち主であるから、グランドクロスである。
とはいえ、いくらメンタリティが似通っていても、さすがに凶悪犯罪はハードルが極めて高く、本当にやるとは思えない。

いわゆる不良集団を犯罪者予備軍とは言わないし、やはり犯罪者予備軍という言葉は、悪人でないことを前提としている。
通俗的に言えばオタク嫌悪なのである。

われわれは実は悪人を嫌悪しておらず、それどころか魅力的だと考えている。
それが顕著に見られるのは十代の少女であるが、おそらくそれだけではあるまい。
普通の男であれば、立場的にDQNは敵であるから敵視するのだが、不良に憧れる気持ちがまったくないとも言えないだろう。

有村悠さんは750人からブロックされているそうだから、怖がられているのは本当だが、恐い恐いと揶揄している側面があることも否めない。
もしくは女性絵師であれば、片想いされたら厄介ということで、念のためにブロックしているのであろう。
有村さんをブロックしている女性でも、DQNにチンコを挿されて悦びの声を上げていたりするのだろうし、実は犯罪者のことなど怖がってはいない。
本当は悪事への恐怖ではないのだ。
自閉的な思い込みの激しさや、溜め込んだ怒りが怖いのであり、いわゆる生理的嫌悪である。
自閉の重力圏に巻き込まれたくないという嫌悪であるから、犯罪予防うんたらの問題ではない。
本当に犯罪が怖いならまずはDQNを避けるべきである。
ド田舎の底辺母子家庭でガリ勉して東京大学にギリギリ合格した有村悠さんは、金持ち東大生との格差を思い知らされて中退した怨恨から不穏な言動を繰り返しているにせよ、普段から犯罪をやっているDQNと対極であるのは言うまでもない。
DQNにチンコを挿されている女が有村さんを怖がっても、犯罪という文脈なら阿呆らしい話であるし、やはりオタクは気味が悪いというだけなのである。
もちろんDQNに無縁の女性が有村悠さんを畏怖するのは構わないが、DQNとセックスしたことがある女が有村悠さんを畏怖するのは、実のところ自閉への差別であろうし、これが定型発達者の真の姿である。
この本は極めて面白い。細木数子は水商売の家庭に生まれ、そのまま銀座のママとして、戦後の混乱期にポン引きのような真似をしていたらしい。暴力団組員と結婚はしてないが、ずっと内縁関係にあった。暴力団の情婦という立場だったと思われるが、店の金を持ち逃げされたとかで、若い衆に指を詰めさせたこともあったという。恋人の手形を裏書きしたことで億単位の借金を背負わされた島倉千代子を守るという格好で1977年から三年間に渡り後見人となり、一緒に生活しながら興行権を握って食い物にした話が面白い。また高名な漢学者である安岡正篤が八十五歳でボケているときに結婚したエピソードもなかなか強力である。細木数子の占いは付け焼き刃であり、ただの無学なおばさんだが、商才というか、人たらしの才能があったのだろう。細木数子がテレビから消えたのは溝口敦に追及されたからだと思われる。これを連載していた講談社は名誉毀損で訴えられたが、訴訟は時間稼ぎであり、最終的には細木数子が訴えを取り下げたという。この本が隅から隅まで正しいわけでもなかろうし、たとえば借金トラブルを抱えた島倉千代子から巨額のピンハネをしたと記述されているが、そもそも正確な金額はわからない。溝口敦は七億五千万円と推定しており、島倉千代子が細木数子と縁を切ってコロンビア・レコードに移籍する際に細木数子は二億円を得たとされる。この合計九億五千万円という推定が事実と一致するかどうかは不明であるし、このくらいの札束が動くのが裏社会の相場とも言える。やはり人間は不安を抱えた生き物であり、特に借金取りが押しかけてくるとか、その個人としては世界恐慌である。島倉千代子の不安に付け込んだとも言えるが、悪辣な債権者への対応は細木数子もしくは内縁関係の暴力団組員がしたわけだし、細木数子がいなければ乗り切れなかった可能性だってあるわけだ。この本の後半に出てくる墓石販売についてはよくわからない。霊感商法だとして溝口敦は厳しい批判を加えている。いろんな意味で他人の不安が飯の種なのだろう。臆病者を見ると勇敢になれる心理もあろうし、細木数子は不安な人間たちを見透かし、そこに食い込んで悪魔的な図太さで生きてきた。戦後は高度経済成長と同時に、ヤクザが派手なヤクザの格好をして平気で歩いていた時代だった。ソビエト連邦も健在であったし、軍艦マーチを奏でる右翼の街宣車は日常的な風景であった。現在よりギラギラしていた粗暴な時代背景であり、コンプライアンスの概念も乏しかったから、裏社会の魑魅魍魎が表側とも関わりを持っていた。細木数子はそういうダーティな部類の人間の典型だったのだ。そもそもそういう旧悪がボロボロ出てきたのは、細木数子が銀座のママの頃の武勇伝を自伝に書いていたからであるし、さほど秘密にしていなかったからである。溝口敦も自伝を手懸かりに取材しているが、細木数子も過去の自伝出版を悔いたか、あるいは時代の変化に慄然としたか、ともかく昭和の黒歴史の痕跡を残していたことがコンプライアンス社会において致命的となり、テレビから消える羽目になった。たとえばビートたけしなどはフライデー襲撃事件からテレビ復帰したときに街宣攻撃を仕掛けられ、手打ちとして右翼の関係者とお友達になったはずだが、これはタブーであるし、そもそも事実が不鮮明である。たけしは未だに支障なくテレビ出演しているのである。たけしは右翼に取り憑かれた被害者であるから、細木数子と同一視はできないが、そのような黒い取引が必要な時代だったのである。問題の自伝である「女の履歴書」は1988年に出版されているが、バブル経済の狂宴というべき時期である。昭和天皇が崩御したのは1989年の一月七日であるが、まさに昭和の裏社会が清算される手前であった。細木数子は戦後の混乱期の愚連隊がそのまま生きているというか、暴力が野放しになっていた昭和の裏面史を体現している人物でもあるが、暴力性が容認されていた昭和の最後に武勇伝を書き綴り、視聴率女王として悪目立ちしてから、その昭和時代に綴ったメモワールが照魔鏡として魔女の素顔を映し出し、21世紀のコンプライアンスにより追い詰められることになった。昭和という時代を一言で言い表すなら暴力ということかもしれないし、時効という弁明も可能であろう。だが、ヤクザの世界に浸かりすぎて足を洗うことなど出来なかったと思われる。われわれは寸毫たりとも真相は知らない一般人であるから、本当の真偽は不明だが、深く考えても仕方あるまい。おそらく大雑把には事実に近いのであろうし、細木数子はヤクザの女として暴力団関係者と接点が深い人生を歩んできたのである。仔細に渡って真実ばかりではないにしても、溝口敦は暴力団関係者にも取材して書いてるし、そこで得た話が事実とも限らないが、かなりの力作と評して差し支えあるまい。
https://twitter.com/lp_announce/status/919413777908490240
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746人からブロックされ、64人をブロックし、相互ブロックは3ということである。

有村悠さん(38歳)はとてもフレンドリーな性格だが、要するに物乞いなので、あちこちで蛇蝎のごとく疎まれている。
他人に奢られるのが当たり前だという感覚。
親しくして何が悪い、と主観的には考えているのであろうし、他人から疎外されているという被害者意識の塊である。
御本人は受難者気取りであるし、その怨嗟が有村さんの恐怖イメージを作っているのであろう。
親しさというのはかなり相手を選ぶものだが、そういう課題が理解できてないらしい。
他人に好意を持つのは悪事なのだが、道徳の教科書でそう書くわけにもいかず、なかなか難しいところである。
親しさとはお互いのプライベートに侵入することだから、一方的な好意は暴力なのだが、「好意は悪事」だと校長先生が訓戒を垂れることはあるまいし、明示的に説明される機会が少ないから、自ら察するしか無い。
奢る奢られるという問題にしても、岩崎友宏が冨田真由さんに腕時計を送った事例などを念頭に置くと、奢ればいいという話ではない。
結局のところ親しさとはプライベートの共有なのだが、人間はその親しさを嫌悪している。
子供の頃は大人から「友達を作れ」とさかんに言われるが、その大人に友達がいないのが実態である。
「メディア・セックス」という愚にもつかない本があり、一時的に流行ったが、サブリミナル関係はかなり下火になった。サブリミナルは確実にあるのだが、これを科学的に扱うのが困難だというのが大きい。たとえばわたしはスマホでとある対戦ゲームをやっているときに何らかの想念が浮かんできて、よくよく見ると、それが対戦相手の名前からの連想だというのがよくある。そのゲームでは「相手の名前」が重要ではないので、わたしの脳が意識のテーブルから省いているのだと思うが、それが完全に廃棄されているのではなく間接的な刺激になっていると思われる。われわれはスマホの画面くらいのサイズでも、情報をかなり端折っており、しかしサブリミナル的には反応していたりする。サブリミナルの実用化というと真っ先に広告が思い浮かぶし、「メディア・セックス」はそこに偏っていたから話題になり、しかしアバウトにしか言えない話題だから消え去ったのである。われわれの脳が意識のテーブルから省いている情報の重要性や、潜在意識における影響はなかなか数値では現せないし、自分でもよくわからないのである。またここにはかなりの個人差があるはずであり、自閉性が強い人間ほど外界情報の省略が多いと思われる。被験者にいろいろな映像を見せて潜在意識の影響をテストするにしても、やはり個人差が大きいので、統計の信頼性は低いはずである。フロイト心理学が数多の被害者を生み出したオカルトだったのに対して、ここ最近の発達障害の概念は極めて卓抜に人間の本質を突いているが、たとえば発達障害の検査するときには周辺視野を重視する。これはおそらく自閉性があると真正面しか見えてない傾向が強いので、そこを重大な欠陥(診断基準)としているのである。おそらく自閉症スペクトラムに引っかかる人間だと真正面でさえずいぶん略しているはずだが、とりあえず周辺の省略が最も顕著なのであろう。五感からの情報を意識から省くのは知性としては問題がないし、むしろ知性の進化の一つであろうが、社会性においてはかなり大きなネックになり、流動性が高い現代ではなおさらである。これを「メディア・セックス」にからめて言うなら、つまり、サブリミナル云々言っているよりはいろんなことに気づいて幅広く認識しようということである。今の世の中では、認識を省かないでできるだけ色んなことに気づくことが求められており、省いた事象が潜在意識に与える無意識問題への関心は薄れている。前述したが「無意識に動かされている」という前提でカウンセリングを受けて悪化した人もたくさんいるのだし、現状の科学のレベルだと、ここは人跡未踏の地にとどめておくべきであろう。サブリミナル自体はあると思うが、ゴッドハンドでありもしない遺跡を発掘してしまうのは罪障深きことである。
貴族はいつから貴族になったのか、というと、 これは鶏と卵の話ではない。出自をどこまで遡っても貴族というのは変だから、どこかで貴族になったご先祖様がいるのである。一言で言えば経歴詐称であり、名だたる旧家は脈々と経歴詐称を受け継いでいる。由緒正しい家系図も初代は詐称であり、あくまで家系図の捏造から貴族になったのである。 「自分は貴族の生まれ」と経歴詐称したインチキな先祖が必ずいるわけだ。本来なら土牢に繋がれ囚人番号で呼ばれるのが似つかわしい連中が嘘に嘘を重ね立派な家名を手にしたのである。土地の実効支配の問題を考えると地元のヤクザが貴族になるのかもしれないが、ヤクザがやたらと高級ブランドを好むのも興味深いところである。全身を高級ブランドで固めたセレブにはどこかしら胡散臭さがあり、詐欺師と同じ瘴気を発している。ナメられたら終わりという貴族の感覚は要するにヤクザであるし、高貴であるはずなのに卑しさが付き纏う。すべての貴族は、実際の自分を偽ろうという卑しさが根底にある。高級ブランドの正規品とその模造品は、根底の発想が同じなのである。「実際よりよく見せたい」という禍禍しい卑しさは通底しており、正規品の高級ブランドを身に着けていても、粉飾決算と似通ったものである。そもそも正規品に価値があるのかという疑問である。虚栄心も人類の脳に組み込まれている観念であろうし、特に女は高級な虚栄の世界に憧れる。男は下半身を勃起させながらその虚飾に従うべく、あれこれ見栄を張りながら白馬の王子様になろうとするのだが、そのようにして欺瞞だらけのディストピアが出来上がったのである。ネットで経歴詐称してるのはだいたいが人格障害者であるが、ああいうのが「初代貴族」の実態なのだ。彼らはとても卑しいのだが、「実際よりよく見せる」ことに取り憑かれた悪魔である。平気で嘘をつく人格障害であり、見栄を張るためなら何でもやるわけである。ああいうネットの詐欺師はどうにかなるとしても、遠い昔のことはどうにもならない。癲狂院の鉄格子の中の出来事ではなく、史料を平気で捏造するゴットハンドなひとたちが人類のルーツとなり、歴史そのものに組み込まれているのであるし、その由緒正しさにわれわれもお付き合いしているのだが、大元まで辿れば病的な嘘つきだらけなのが人類である。
川島海荷の不倫が純然たる愛なのか、お偉いさんに夜伽する娼妓のようなものなのかわからないが、わたしはただ不倫について語りたいのだから、芸能界の特殊慣行まで揣摩する必要はあるまいし、ひとまず素朴な愛であると見なしておこう。あるいは川島海荷だと事例として曖昧であるなら、例えばベッキーや矢口真里は一欠片もメリットがない相手と破滅的な不倫をしたのである。燎原の火のごとく躰の末梢神経から脳髄まで熱病のように焼き尽くすのであれば、愛としてニセモノではあるまい。つまるところ家族愛というのは人生設計の契約であるし、大恋愛が火柱を上げて蒼天まで届いたら家族の誕生というわけではあるまい。あくまで財布の共有である。このところは特に核家族となっているから、個人の権利意識も強まっており、嫁が涙して終わりではないので、正妻としての利権を高らかに叫ぶしかない。核家族というカプセルでわれわれは分断されており、親子連れに注意したら長期拘留された大学教授もいたし、高卒の警官とか無教養な母親が不審者いねえかと松明に火を灯して凶相を浮かべ百鬼夜行するまがまがしさは、いったいどちらが不審者なのかという話だが、人間理性を破壊するべく水銀が垂れ流されてるのであろうし、われわれも痙攣しながら這々の体でベビーカーから逃げまどうのである。あの核家族が垂れ流している害毒からすれば、不倫の愛の方がむしろ純粋であり、人倫として曲がってないという印象すらある。核家族という大正義。これは決して愛ではないのだし、かなり打算的な人生のパートナー契約である。もはやここまで来ると、核家族すら解体し、経済を共有するパートナーがいなくなり、ただひとりの個人として、誰とも財布を共有せず、それぞれが経済の主体になればいいと言いたくなるが、生まれてきた赤ん坊がポストに投げ捨てられ、それを税金で育てて最高の教育を与えるとなれば箍の外れたモラルハザードが予想されるし、やはり家族愛の物語に基づいて親の責任でやってもらうしかないのである。嬰児にも自然人として権利能力はあり財産は持てるが、現実には親が法定代理人として制御しなければならない。家族愛というのがわれわれの魂を錆びさせる鉄の鎖だからこそ、大過無き人生設計のために妥協した有象無象の善男善女が、禁断の快楽に手を伸ばした咎人を鞭打つのであろう。不倫などなければ、家族愛という嘘を平気で吐きながら生きていけるのに、不倫という本物の愛が家族愛というフィクションを打毀し、家族という役割の仮面を壊死させて、人間は愛されてないという明々白々たる素顔を露わにするのだから、これは悪魔が人間を蝕む悪疫であり、嘘に耐えられないわれわれに真実を教える悪趣味である。
アロマオイルのように効果を厳密に証明できないものはだいたい創価学会と同じジャンルとして扱われるようだが、信じる者は救われるという言い伝えもあるし、生きてるのか死んでるのか知らんが池田大作先生を信仰することで薔薇色の人生を送っているひとだっている。わたしはアロマの版図を拡大させようという布教の熱情もないから、流行らなくても差し支えないし、アロマが世界地図から消えたとしても何ら痛痒がない。だから創価学会のように強引な折伏をするわけでもなく、いわば革命戦線の途次における箸休めというか、星辰の瞬きから遠い暗渠において、筆遊びとして灰色の紙片に稿を起こすだけである。アロマについて、何と言っても強調したいのが風邪の予防である。わたしはアロマを導入してから風邪を引かなくなった。実用性がないオサレなアイテムだという謬見を持っていたが、実際は実用性の固まりである。喉が痛い、鼻水が出るという初期症状にルルは効いてなかったが、アロマを吸うと明らかに菌を消毒してくれるし、予防効果が凄まじい。アロマにはいろいろと種類があるが、風邪の予防としては殺菌効果があるユーカリ、ティーツリー、レモンなどが代表的である。おそらくティーツリーが最もいいと思われるが、わたしはユーカリを好んでいる。気軽に試すには、瓶に木の棒が挿してあるタイプのが簡単かもしれないが、継続的に使うのであれは精油の原液を買ったほうがいい。アロマの瓶になぜ木の棒(リードスティック)が挿してあるかというと、精油は揮発性があるが、そのままだとなかなか蒸発しないので、木に染み込ませて蒸発を加速させているのである。このタイプの安物は人工香料であることも多く、鼻が曲がるような匂いで悪酔いすることもあるから、あまりよくはない。おそらく一般的には加湿器タイプのものがお手軽であろうし、夏場は湿気が懸念されるが、それ以外の季節なら加湿タイプでいいだろう。小皿に精油を垂らす原始的な方法も、手元なら意外と香る。部屋全体を香しくするには不向きだが、自分だけが香りを嗅ぐには適している。あと、わたしは枕に精油を垂らして寝ているが、精油は刺激が強いので皮膚に付けるのはよくない。だからこの方法は一般人には推奨できない。ここまで「アロマ」という言葉と「精油」という言葉を混用しているが、アロマというのは香りという意味である。アロマというと人工香料も含むが、「精油」というのは植物から抽出した天然の原液のことである。精油の購入についてだが、「生活の木」が最も信頼性があるとされる。だが「生活の木」は価格が高いので無印良品が妥当であろう。アマゾンなどでは無印良品の三分の一くらいの価格のものもたくさん売られており、意外と悪くないのだが、やはり微妙に品質が劣るので、品質と価格のバランスからして無印良品が無難。開封して数ヶ月もすれば香りが薄れるから、少しずつ使うことはできないが、せいぜい月額数千円で維持はできるし、役に立たない風邪薬よりはよほどコスパがいい。
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