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もし五輪がないとすれば、ワクチンの争奪戦があるにしても、徐々に高齢者にワクチンが供給され、段階的に日本社会がコロナを克服していくことが予想される。ワクチンが充分に行き渡るのが秋冬、もしくはその先になるとしても、8月あたりなら、ウィルスもそう流行らないであろうし、今よりだいぶマシな社会生活ができそうである。だが、オリンピックがあるとなると、箍が外れた惨状を呈する可能性もあり、8月あたりに楽観的な見通しを立てることが出来ない。まず観客を入れる可能性はほとんどないので、無観客開催をするかどうかであるが、放映権料はIOCに入るので日本は儲からない。とはいえ、そういう巨大利権から見放されるとしても、マスコミや広告代理店は広告枠を埋めて日銭を稼ぐために強行したいであろうし、中止とは限らない。東京五輪という毒杯さえなければ、8月あたりに、もっと経済再生に繋がるような人間的活動を(税金ではなく民間でそれぞれが勝手に)企図できそうなのだが、五輪開催という不安があると、そこに向けた投資をすることはできない。オリンピック中止が決まらないのは宙ぶらりんの状態であるし、ましてや決行されたら恐るべき大不況が待っている。微々たる広告収入のために決行されたらたまらないので、暖かくなったらデモをやるべきであろう。コロナなのにデモをやることに日本人は嫌悪感を抱くが、それで中止が引き出せるのならたいしたことはない。日本人のデモで生じる感染など、外国人の入国に比べたら些細なものである。何が何でも外国人の入国を封じ、秋冬にワクチンが行き渡るまで凌げばいいだけである。国境封鎖が必要なときに五輪開催というのはありえないし、夷狄を排撃するためにあらゆる活動を惜しまない。自民党の年功序列で降り積もった悪魔を祓わなければならないし、最終大戦は目睫の間に迫っている。五輪に賛成している僅かの人間は、なにか利権に絡んでいるか、この一年間のマスク生活で何も学習しなかった木偶人形と言える。生命の回復のために蒙を啓かなければならない。
なぜ心理学が毒親云々の話ばかりになるのかといえば、やはり他人に強いるのは楽しいからであり、親という立場だとそれが最もやりやすいからである。そして、心理学の本では、毒親がいなければ自分自身の素晴らしい人生があった、みたいな話になるわけだが、これはインチキだと思う。やはり誰しも自分でやるのはしんどい。毒親がいてもいなくてもどっちみち怠けていた、とも言える。普通の家庭で情緒が安定していると(つまり気性が激しくなく温厚な性格なら)、物事を素直にやれる傾向はあるだろうが、とはいえ、やはり自分でやるのはしんどい。毒親が云々ではなく、そもそも人間の業病として、他人に強いるのは楽しく、自分でやるのはしんどいというのがあり、この快楽主義を直視しなければならない。他人に強いてみたところで、なかなか都合よくいかないし、イライラするストレスも大きいから、しんどくても自分でやった方が結果として達成感があるのだが、そこまで辿り着けるかという問題があり、それこそ、親に強制されたほうが捗ることすらある。ともかく、自分でやるのがしんどいから、他人に期待するのである。たとえば絵が下手な人が、絵の上手い人と友達になりたがるというのがあり、ではそういう寄生が成功するかというと拒否されるのがたいていであろうし、万が一寄生に成功して「俺はあの有名イラストレーターと友達なんだ」と自慢しても虚しい。これが親子関係だと、自分ができないことを子どもにやらせるというのが(そう都合よくいくかは別として)成り立ってしまうので、人間の業病が発現しやすい。なんにせよ、自分の力で頂上まで登るのがしんどいから安易な方法を考えるわけで、そこが問題の根底だから、毒親がいなければ素晴らしい人生になっていたとか、それは妄想である。だからフロイト的な心理学は誤謬であるし、これこそが最大の毒である。
コロナの記事で怒髪天を突くのは、親の死に目に会えない云々の嘘泣きである。普段から高齢者と接していたら出ない発想である。介護もしないで、都合のいいときだけやってくる連中だから、「死に目に会えない」とか騒ぐのである。臨終とかイベント性のあるときしか来ないから、そういう発想になるのだ。だいたい街をうろうろしている高齢者を見たら、こいつらと一緒にいるのはさぞかし大変だろうと思うわけである。だから、臨終のときに立ち会って感動ポルノに出演するだけにとどめておきたいという都合の良い考えが起こる。人間は死ぬと腐臭を発するが、本当の腐臭は生きている人間である。生者の腐臭が消えたあとに、ご臨終の腐臭だけ嗅ぎに来るというのは、あまりにも都合が良い。この手の感動ポルノが野放しにされ、そして小中高生の自殺者は四割増しなのだから、われわれは生きている人間が嫌いなのではないかと自問自答せざるを得ない。「死に目に会う」ことにこだわるのは、いかにも人情深く思えつつも、やはり、生きている爺さん婆さんに会いたくないのではないか、という強い疑問が付される。老人がうろうろ徘徊しているのも、同居家族から疎まれているからかもしれないし、こういう死にぞこないがいざ死ぬとなると同居してない子どもがやってきて一芝居打つのだからたまったものではない。「子ども」と言っても高齢者の息子や娘だから50歳とかであるし、要するに感受性は枯れているが相続財産だけは欲しいのである。老人が大切だというのなら、臨終のときに駆けつけるのではなく、普段から相手をしてやってほしいものである。実際は暇を持て余している老人と関わると大変だから疎ましいのだし、だから臨終のときに精算しようとするのだろうが、この手の輩が社会を蝕み、小中高生の自死を増やしている。
そもそも大企業が本当に広告を出したいのかどうかとても疑わしいのだが、口止め料としてスポンサー料を出す必要があるのだろうし、今更トヨタが自動車の宣伝をする必要などないのだから空疎な企業イメージをアピールするしかなく、綺麗事にもお付き合いするのであろう。東京五輪はこのままだとコロナの変異種だけでなく、忌まわしきポリコレも伴ってくる。われわれ一般人はスポンサーの顔色を伺う必要は微塵もないのだが、著名人はそうはいくまいし、スポンサーも本音では綺麗事など信じていまいが、スポンサーであるからにはオリンピックの理念を説かなければならない。スポンサーは打ち出の小槌ではないし、広告宣伝費は商品の価格に転嫁されるので、広告が社会から消えてくれると消費者には有益とも言えるのだが、バイデン政権を誕生させた騎虎の勢いで、彼らはどこにでも入り込んでくる。被害を被るのは日本であり東京なので、何が何でもオリンピックは中止に追い込まなければならない。野球が好きだから野球を観戦するのではなく、オリンピックの理念のために競技をやるとかイミフだし、つまるところアスリートとは人権団体の広告塔である。この模範的な広告塔の垂れ流す美辞麗句はわれわれを教化することなく、その嘘くささで大地を蝕むだけである。アスリートの大群は、コロナの魔窟というだけでなく、思想的な動きとして警戒しなければならないし、われわれ思想犯罪者がオリンピックという思想団体のイデオロギーと対決するわけである。人権の何が悪いのかというと、まずは税金を引っ張る物乞いであるし、マイノリティだけが悩んでいるという人間理解の拙さである。マジョリティーはアイデンティティに悩まないと当然の如く決めつけているが、これぞ人間の普遍性を軽んじるものである。人間の悩みを特定の限られた原因だけに求める貧しい人生観は打ち捨てなければならないし、その限られた属性の持ち主だけに税金を注ぎ込む発想もやめなければならない。性的多数派で健常者なら悩まないという阿呆な考えを持たれても困る。このような安っぽい思想に広告宣伝費が注ぎ込まれマスメディアで版図を広げるのが人間の進歩とは思えないし、中身のない包装紙であるから、われわれの血や肉にはならない。思想的に圧死するだけでなく、コロナ克服も遠のくのであるから、われわれ思想犯罪者はオリンピック中止を訴え続けなければならない。
癒えることのない業病のように、同じ失敗や不運を繰り返すことが多々ある。人生において繰り返し繰り返し起こるのはやはり偶然ではなく因果がある。貴乃花の身内がなぜ胡散臭いのかというと、やはり貴乃花本人のソーシャルスキルが極端に低いので、他人と格差が出来てしまうからである。貴乃花くらいにソーシャルスキルが低いと他人から虐められたりするのが普通だが、なにしろあの圧倒的な強さであるから視野の狭さが温存されてしまう。貴乃花の狭量過ぎる真面目さは周囲がいじることも出来ない。業病のようなソーシャルスキルの低さが、身内から軽侮される原因となる。嘘が嫌いな性格だからこそ、家庭内で嘘が蔓延する。正直と嘘が溶け合うことはなく、相容れない異物として分離してしまう。求道者としての気質が強いが故の孤独でもあるから、治すべき欠陥とも言えないが、何かを極めるのに適したパーソナリティが普通の人生を許さず、絶えることない軋轢を生む。もはや現役ではないし指導者ですらないから、普通の人間になってしまってもよいのだが、そう簡単に別人にはなれない。あまり本当のことばかり言っていても世の中は成り立たないので、ひとびとは社交辞令とかお世辞で取り繕って、真相については察しているのだが、その曖昧さが理解できない人間に嘘の効用を理解させるのは難しく、不倶戴天の敵となるしかない。貴乃花くらいに嘘を嫌っている人間はこの世にそうはいないだろうが、それがゆえに家族全員が嘘つきになってしまうのは、妥協なき姿勢が生み出す病である。われわれ赤の他人が貴乃花を遠くから見て立派だと思うのは可能だが、身内として一つ屋根の下で暮らしていたら耐え難く、真逆の嘘つきになるしかあるまい。あの靴職人の息子にしても、貴乃花の背中を見て、そのままやると靴を作る以外に何もしない人生になってしまうので、騙し騙し生きることを選んでいるのだ。
森喜朗の発言に怒っているひとたちの不気味さがあるのだが、やはりオリンピックはスポンサーの固まりであり、著名人は何かしらスポンサーに媚びている。ただの一般人はこれとは一線を画すべきだと思うが、やはりバイデン政権の誕生から言論統制が横行しており、保守系SNSがアマゾンから締め出された件を考えると、有料で発信するのも無理である。なにかしらスポンサーに依存しているのである。そもそもスポンサーは本当に広告を出したいのかどうか疑問であるし、メディアの奉加帳に名を連ねている側面も大きいであろう。言論の自由は古今東西いつでも制約されているので、それは今に始まったことではないが、コロナで他人と会えない現状でSNS規制が強まるのは、囚人の悲しさである。その時代ならではの規制があり、今は本当にSNS依存の貧しさであり、コロナによる文化的貧困である。ワクチンの有効性が高いことを考えると、徐々に脱出はできそうだが、マスクを完全に外すのにあと数年はかかるかもしれないし、憂いは尽きない。そもそも為末大が登場した時点で、国別対抗というスポーツには大きなヒビが入った。国の期待を背負って戦うことを拒否し始めたのであるから、もうオリンピックとかいらないし、根絶やしにすべきである。それぞれの競技には国際大会があるので、それで十分だろう。アスリートがナショナリズムの兵隊ではなく、純粋に競技者たらんとするなら、オリンピックは廃止するべきである。俗的な話だが、オリンピックの選手村ではセックスばかりしているのが実情であり、クラスター発生は確実だから、その意味でも取りやめるしかない。われわれは文化人ではないのだから、スポンサーに媚びる必要はなく、政治的正しさのために怒ってみせる面倒な作業は省いていいので、ただオリンピックを廃止に追い込めばいいのである。
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