飼い主になんとやら
白猫弟が、にゃあにゃあ鳴きながら四六時中べたべたしてくるのです。
猫ってこんなに甘えるもんだとは、懐くもんだとは思ってなかったので、こんだけあからさまに依存されると、さすがにうっかり情が入りそう。
名前は相変わらずつけようと思わないけれど、顔を寄せてくるたびに「どうした?」「なに?」という声のかけ方ばかりしてるので、それが名前だと思っているかもわかんない。かけた声の抑揚に応じたトーンで「にゃあ」と返事するのはおもしろい。表情も豊かで笑える。
依存されるのはキモチが良いけれど、野良猫なのに家の中から出ていこうともせず、ずっと部屋の中でぼーっとしているので、なんつうか、もういい年なのに実家に引きこもっている息子を持っちゃった親みたいな気分(たぶん)になってきて、姉はもう子持ちなのにこの子ったらみたいな、思わず 「おまえずっと家の中にいないでさ、外に出てお嫁さんとか探したらどうなの」 などと心配してしまう。
そんでも白猫弟は毎日わりと満足そうで、いいのかなぁって感じで、逆にこっちが切なくなるありさま。なんなんだもう。
まあ、このまま懐かせておけば、そのうち忙しい時に手でも貸してくれるようになるだろうと勝手に期待しておこう。
おれは両手でシンセ弾くから、君はツマミ回してください。
想像したらちょっとしあわせになってしまった。
階段の昇り方
自分に、こういうところはあの人から学んだ、こういう部分は彼/彼女から学んだ、と言える部分があるというのは、実に嬉しい事だなあと思う。
その人と知り合ったのは良い事だった、と信じることができるこの喜びというのは、つまるところ、自分の人生におけるその人と接した時間は後悔の無い価値のあるものだったぞ、という、自分が選択した過去に対する安心感と満足感を少しでも得るための材料なのかも知れないなぁ。
僕の、プレス業者にギリギリの納入期限を図々しく要求する姿勢は、しまさんとたいしょさんから学んだものです。
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日常を戦う理由は、アイデンティティの確保のためであることにずっと変わりが無い。
けれど、
日常で戦う対象は、いつからか年を取るにつれ、「理想と自己実現」から「過去を無駄に過ごしてきたのではないかという恐怖感」になりつつあるような、気がする。
もしその故に! 作品に悩み、作品に喜び、
人への感謝を深くし、人間的成長を求め、
過去があっての自分を愛し、その自覚によって精神的足場を確保し、
自分に勝った気でいる、
そうやって優しく丸くなっていくのだとしたら、
嘘もいいところだ。
気を付けねばならない。
気を付けねばならない。
リアルに心胆震え上がるほどの、醜悪さである!
衝動
普段つとめて綺麗事を抜かしている僕ですが、今日はひさしぶりに人でごった返す横浜駅前を急ぎ歩く用事がございまして、急いでいるというのに人に阻まれながらよたよた歩かされていると、さすがに僕なぞも、目の前にいる人間、目の前を横切ろうとする人間、目の前にやってくる人間、それら全てかたっぱしから顔をぶん殴ってなぎ倒していきたい衝動に駆られるのであります。
腕を曲げて、ガン、とこう、上なりの放物線を描いて、振り抜くように顔面を殴り飛ばしたくなる。
あと満員電車なんかも、完全に満員だと逆にどうでもよくなるのだけど、満員のちょうど半分くらいの混雑率だと、急に目の前のおっさんをガツンと殴り倒したくなることがあるよ。
なんというか、要点は、イライラしたからとか他人が嫌いだとかそんな事ではなくて、「やっちまった」という衝動の達成による、日常のスイッチの切り替わりを欲するようなものなのかも知んない。つまり人に本心から優しくしながら、楽しい気分のまま次の瞬間に殴り倒す、みたいな話で、倫理観とかすっ飛ばしたところにあるどうしようもない一つの衝動だとは思う。
恐らくは、理性から逃れてみる事でこの世の自由を体感してみたい、そういった潜在的な欲求が、歪んだカタチで瞬間的に表れそうになる、という事なんだろう。どうもこの感覚というのはちょっと変質者に通じるものであるように思うし、なんか彼らが理解出来そうな気がしてやだなあ。こまったもんだ。
勿論普段はそんな衝動なんか無いのだけど、人混みの中だとそう感じることがあるのは、やっぱり他人が居る数だけ自分の中で倫理観の意識が強まるからなんだろうな。そのバインドに反発したくなるんだろう。
改めてこうして考えてみると、わりとダメな感じだ。どうしよう。
音楽としてドラマチックな何か
ブックマークの量が少ないもんで、毎日同じところをなんどもぐるぐる回る僕です。
絵描きさんのサイトや、何かの折りに辿った先のサイトで、たまにACIの名前を見かけることがあって、以前もどこかで僕書いたけれど、絵描きさんや物書きのひとに音を気に入ってもらえるというのは、同業者に気に入ってもらうより嬉しいものがあるなぁ。
音楽だぜ!というつもりでいつも楽曲を作らない、というか、映像的なイメージをどう音にするかというつもりで楽曲を作ることが多いので、というかACIなんか特にそうで、音楽的ボキャブラリーから引っ張ってくりゃいいだけみたいな作り方が出来ないから難しいっていうのがあるんだけど、
そうやって音楽じゃない部分を意識して音にしてるだけに、音楽じゃない部分に感性を傾けているひとたちに、自分の音を好んでもらえるっていうのは、その人達にとってはどうということでは無いかもしれないけど、自分にとっては「ああ、この表現は伝わるんだな」という安堵があるよ。
多分僕は音楽を作りたくて音楽を作ってるんじゃない、という感覚が、この1、2年でずいぶん大きくなってしまった。なんか別のもの………なんだろう。なにかドラマチックなものが作りたくて、その手段として音を作っているような気がする。
ループ
天気が良いと、それだけで酷く切なくなってしまうのは、
この輝かしい世界を謳歌出来る地点に自身が到達出来ていないのに、限りある時間の中でそれを一つ無為に過ごしてしまう罪悪感と、焦燥感が、そうさせるのだなあ。
青い空というのは、目に痛い。
人間って「外」で働くべきなんだろうなぁ。
何を仕事にするにせよ、起きてから寝るまで一カ所に留まる生活っていうのは絶対良くない。毎日誰にも会わねえし。今も隣の部屋で寝ている猫に名前でもつけたらどうなるかな。でもなんだか良くない事になりそうだ。
将来は車買って簡易移動スタジオに改造して、日本中移動しながら音楽作ってみたいなぁ、なんて思ったよ。素敵だろうな。
人生ゲーム
毎日まいにち長々とくだらねえこと書いてやがるなぁ!
と思ってしまったので1回休み。
というのは嘘、でもないけど、寝る前にレコ後の編集作業をしなければならないので、ぐだぐだと下らない文章をしたためる時間がない。健やかなことです。ほんとに忙しけりゃ物事考える時間なんて無いんだよね。でも世の中動かしているのはほんとに忙しい方々ですから、往々にして考える事が社会的価値になど繋がりにくいのも至極納得だ。「考えている暇があったら手を動かせ!」 しかし人間は考える葦なんじゃなかったのか。優先順位はどこにあるんだ。これはゲームで、勝つためなのか。
いやいやまた始まりそうになってしまった。やめよっと。
今日も良い歌が穫れました。ACIでやれなかった、茶太さんの可愛い系の歌でございますので、いつ発売なのかしんないけど、皆様お楽しみに。
自己嫌悪と自己弁護のフーガ
何かを嫌うっていうのは自己嫌悪から生まれるものだけど、
同時に、何かを認めるという事の根っこには、自己弁護がある。
そうでない地点に行きたければ、自己と他人とを完全に無関係であるとして扱う、それだけでいい。けれど人間、実にそれが出来ない。「人と接する事とは、己と接する事だ」というのは、禅問答みたいな話だけど、そういうことなんだなぁ、と実感出来るね。人を好きになるも嫌いになるも、怒るも許すも、全て己を相手としたものだ。
逆に言うなら、人と接しないことは、己と接しない事なんだろうな。
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例えば、日常で誰かに悪意を向けられたとしても、それが悲しいのは悪意のためではないし、それが腹立たしいのも悪意のためじゃない。悪意を向けるという相手の心理の中にある醜い部分が、己の自己嫌悪に足るもの、つまり自身が経験し理解出来る醜さだからだ。
だから、相手がそれを自分に突きつけてくることに、悲しみと憤りを覚えることになる。人とのやりとりの中で向けられることのある悪意なんて大体こんなもので、純粋な悪意にぶちあたるケースは日常ではそんなには無い。
こんなことはちょっと自分の事を考えればすぐ解る。だからこそ、中高生ならいざ知らず、成人であればお互いがこの仕組みをちゃんと解っているようでありたい、と願ってしまう。けれども、なかなか世の中そうでもない。なおも悪意ある発言をする人間、なおも醜い姿勢を取る人間に対しては、自己嫌悪から目を背ける不実な人間であるとしてその不明を糾弾したくなってしまう。
「自分の醜い心理に、どうして気付かないんだ、あんたは。」
みんな「わかって」いるはずなのに、その上で互いを尊重して生きているはずなのに、それが出来るだけ多くの人が優しくあるためのバランスなのに、
そんな自分の思いを裏切られた、と。相手を勝手に非難したくなる。
この糾弾だって結局、自己嫌悪が呼び起こすものだ。
若干違うのは、自己嫌悪と反省の果てに人間が得ることが出来る「間」を理解しろ! という、一定基準の相互理解を理想に掲げた、線引きがあるということ。そのラインを俺はとっくに理解したのに、お前は未だに理解しないのか、そういった、相手の不明に対する勝手な落胆と憤りが、糾弾という行為となって表れる。
この線引き、ラインっていうのはつまり、それぞれが考える社会的常識であったり、そこから乖離していても皆が目指していると思いたい理想であったり、するね。
普段から自己嫌悪なぞするのは、思春期で終わり。自己嫌悪なぞしなくなって随分久しい事に気付く。けれど、それでも他人を責める時にはこれが土台になっているのだから、己の醜悪さはこういったカタチで延々と引きずられていくのだなぁ。業は深いよ。一旦起きたことは、ずっと、ずっと自分に影響を与え続ける。怖いことだ。
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悪意だろうと不明だろうと、それを迎える糾弾だろうと、立派に我が儘な行為であることに違いは無い。だからといって、自己嫌悪から逃れるために「認める」という行為を意識的に選択するのだとしたら、今度はまたそこに、自己弁護という、まあ自己嫌悪と大体同等に醜いものがある事も解る。
自分もそうだったからな、仕方ない、という自己弁護。
過去の自分を言い訳する材料として、何かを認める。
自分は頑張っている、出来るやつだ、その自分が認めるんだから、あれは素晴らしい。
あれは立派だ、それを解る自分も結構価値がある。
「認める」というのは、決して鷹揚ということではないね。だからそこに、優しさや善があると勘違いしてはいけない。してないなら良いけど、してると相当醜いよ。
多くを否定せず、多くを認める、もしそこに嘘が全く無いのなら、それは素敵な境地だとは思うけど、少しでも嘘があるのならば、それはおかしい。そんな誠実でない自分が、一体何を認めるというのか。途端に全てが嘘になって、ほら、もう破綻が始まっている。人間、何十年も経たないと、好々爺には成れないんだ。若い内に嘘で自分を固めちゃうと、小さい偽物の何かが出来るだけだ。それは、いやだ。
さあ、どうしよう。
自己嫌悪と自己弁護が要求してくることは、ただひたすら、人には優しく、しかし優先して自分に正直でなければならない、ということだと思う。自分に嘘をついてはいけない。
何故なら後悔は自己嫌悪を要求してくるし、それ以上に嘘は自己弁護を要求してくる。なんのことはない、自分に誠実であれ、ということなんだと思う。多少の嘘はね、そりゃつくけど。自分に嘘ついてなきゃ、他人に嘘はついてもいいよ。多分、自分も含めて誰も痛い目に遭わない嘘だから。自分に嘘ついてる事に気付かないのが、一番悪い。
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これ、うっかりすると忘れちゃうんだ。ものおぼえわるいから。
定期的に思い出すたびに、ああ、最近随分外れて醜くなったものだ、なんて危機感と反省を抱くハメになる。日常は、何かを思うたびに何かの誘惑に負けて、醜い事をする。
何歳頃になったら、本当に身についているんだろうか。
好々爺になりたい。
これ、たぶん最終目標なんだよなぁ。
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しまった。さすがにこんな事長々と書いたら、自己嫌悪でいっぱいになってしまった。
ちょっと後悔。
カラダのしあわせ
運動がしたい。運動がしたいんだ。
ここ数年、食うか呑むかくらいしか日常に快楽が無いので、こりゃあやばいよ、運動しないと太ってしまう。いや実際この3年くらいで、通常の体重が5kgは増えてしまった。うあー。
そんなわけで勢いで鉄アレイ買って、ふりまわしたりスクワットやったりしてるけど、これがなんていうか、ここ数年ですっかり弱った心肺機能をリハビリする感覚で少しずつやっていかないと、汗だくになるような運動そのものが続かない有様。参ったなぁほんとに。
鉄アレイなんて別に、太るからっつってやる運動に選ぶようなモンではないのだけど、でも筋肉使うのっていいわ、やっぱり。少しやるだけでも体が軽く感じられるようになってくるから、活動的な気分になれるよ。
だからといって仕事をやる気に直結するとも限らないんだけど。
むかしバイトでやってた設備&解体関係の肉体労働を思い出した。ビルの屋上で汗だくになった体を涼ませながら昼飯を食べて、昼寝で大の字になって空の青さと広さに包まれて、凄く穏やかな街と空の音が鳴り続いていて、あれはもう物凄い、素晴らしい生の充実感だった。あれ?しあわせだ。 ああ、俺これでいいじゃない、しあわせだ。なんて、知っちゃった。自分さえ拘らなければ人間かんたんに幸せになれるんだって、あの時知ったんだ。
それに、あれだ。青空の下でごはんを食べると、人間って不安が無くなるんだと思う。
あと作業着ってやつも良かった。普段は身だしなみをきっちりしてからでないと外なんて怖くて歩けやしないくせに、薄汚れた作業着を着てタオルを首からぶらさげるだけで、そのへんの道端で昼寝だって出来ちゃうんだ。人目なんか気にならない。とにかく素敵だった。あの自分と外界がシームレスな感覚は、正に子供の頃のそれだったと思う。いつのまにか失くしていた大事な世界だ。
やべーなんか切なくなってきた。
書きながら、思ったことや思い出したことをどんどん書いていくと、必ずこういうオチになってくるのはどうにかならないものか。
ああ、また思い出しちゃった。
高校の頃、「この世で一番美しいものは、きっと過去だ。」なんて思ってしまったのだけど、あれから10年近くも経って、やっぱりまだ、過去よりも美しいものなんて見つかっていない事に気付く。
これは、なんだろう、哀しむべきことか、哀しまざるべきことか。
しあわせ再発見
このところ一人酒をしてなかったのだけど、冷蔵庫の中に日本酒の瓶が1本、クリスマスの時に呑んだ残りがあったのを発見して、ぐびりぐびりと空けているわけでして、いやあ何だ!きゅうにちょうしがでてきたぞ! 最近ね、どうもパッとしないなぁと思いながら、一日が終わるたびに、あれ?2時間くらい前にも1日が終わったような、なんて気分で過ごしてたんだけど、あはは、これだったんだね!酒をのんだら楽しくなってきたよ!わあ!しあわせだ!
この喜びを分かち合いたいので猫をなでまわしに行こう(超うざい)
歌詞とメロディと日本語
どうにでも歌が載せられそうな曲だと、逆にどうしていいものやら……
大してコンセプトが無いなら良いけど、コンセプトの縛りがある上で曲先で歌を作るのは、自分の場合やっぱりキツいや。
歌詞にぴったり合うメロディを作るのは簡単だけど、メロディにぴったり合う歌詞を作るのは大変だ………と思っているから、先の事を考えて身動き取れなくなっていくわけなんだけど、うーん。メロディ作るのが専門だからそう思うのであって、作詞が専門の人にとっては同様に、作詞ならいくらでもやりようがある、と思っている面がありそうな気はする。
勝手に苦労し続けるより相手に苦労させてみるっていうのも手、かもね。
でも客観的に考えても、メロディよりも歌詞の方が、それを構成する時にパズル要素が2、3次元多いんじゃないかと思う。たとえ詩として完成度が高くても、メロディの抑揚やタイム感に合っていないだけで歌詞としては格段に完成度が落ちるもの。そんだったら始めから、左脳的な完成を得た歌詞を右脳的に展開させて音楽にするほうが、ずっと効率的だ。だってその逆は大変だよ。方程式から答えを作るんじゃなくて、答えから方程式を作らなきゃいけないんだから。歌詞ってのは方程式で、メロディはその必然的な答えだと思う。
まあ勿論、歌詞だって音楽だって、右脳も左脳も両方使うけれど。
あー、どうしようかなぁ。
英語だと、下地となるアレンジのリズムに載せやすいから楽なんだけど、日本語は日本語のリズム自体がアレンジに組み込まれていないと浮いちゃってたまらないから、そのあたりが大変。コンセプト上やりたいアレンジと日本語のリズムが合わない場合に、どうやってうまく両立させるかっていう……
さて………うーん。
信じる酒
年末、みんなで呑みに行った日の夜、寝る時に胸の上で両手を組んだら、その中に何かすごく暖かいものがあって、
それが確かに自分が信じていいものだと思えた時、なんだか情けない話だけど、人生終わるんだったら今がいいなぁ、なんていう沈み込んだ満足感のようなものを味わいながら、眠りに落ちた。
幸せという実感が得られる瞬間っていうのは、残念ながら年に2、3回しか無いものだけど、一年の終わりにそういった瞬間を得られたのは、素敵な事だったと思う。
暖かい人達と呑んで騒いでいる瞬間っていうのは、本当にしあわせだ。
見渡す顔はみんな笑顔で、自分と相手の好意を信じ合う瞬間が連続する、
騒がしいのにとても穏やかで、忙しないのにスローモーションの、ひどく優しい空間だね。
尊ぶべき確かな何かを感じながら、それでも何かが脆くて、
故にその感触を大事に、大切に抱えながら、生きてゆきたくなるよ。
間違いなく、あのしあわせの決算の儀式こそは、年単位での生きる糧になっている。
いや、忘年会がそうだという事でなくて、仲間と呑むということ、の話。
わからない人はわからないのかもしれない。
人の笑顔っていうのは本当にいいよね。なんでこんなに切なくなるんだろう。
泣きたくなるわ。あまりに壊れやすく、大切だ。
カッコイイ音楽
中学ぐらいの頃はテクノやハウスを意識して作ろうとしていたし、
高校ぐらいの頃はそこにジャズを加えたものを作ろうとしたのを憶えてる。
やっぱり、「カッコイイ」音楽のことしか考えていなかったなぁ。
自分と自分の音楽とは殆ど同義だったし、自分の音楽的成長以外に興味が無い幸せな時代だったから、自身の成長を測る指針として「自分がカッコイイと思う音楽を自分自身が作れるかどうか」を選んだのは、至極当然のことだったと思う。
なんで「カッコイイ」が指針なのかというと、当時の青い自分は音楽から「格好良さ」くらいしか感じ取れていなかったから、というのもあるけど、
作った楽曲を評価される事で人生のアイデンティティを得ようとしている自分、それに気が付いたあの頃は、やはり「カッコイイ」と楽曲を評価されることで、アイデンティティを「カッコイイ」ものにしようとしていたんだね。
その事はまったく悪いことではないし、アリだと思うのだけど、
現在の自分はというと、不思議と「カッコイイ音楽」を作ることに対する欲求がほとんど無くなってしまって、だいぶ前にこの事に気付いてから、より「自分自身」の音楽というのが何であるか、深く考えるようになったよ。
自己表現として音楽を作る事自体は、昔から変わらないのだけど、あの頃のそれは「理想を表現」することで自己表現としていたのに対し、いつのまにかここ数年で、「自分の感性を正直に表現」することにシフトしていた。何か、懺悔に近い感覚で。
だからだ。「カッコイイ」音楽に対して積極的じゃなくなったのは。
つまり、「カッコイイ」は自分にとって嘘だ、ということに気が付いちゃった。
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まったく残念ながら!ああ! 「カッコイイ」のは、僕にとって嘘だ。
何がカッコイイかは分かる。それだけに、それが自分には無いというのも分かる。自分はカッコイイ人種じゃない。嫌というほど分かってる。勿論その事実の冷たさが悲しいし、悔しいとも思うけれど、これはもう嘆いても仕方が無い。
嘘をつくのは気持ち悪い。例えば、借り物のカッコ良さで簡単に嘘をついて「曲カッコイイですね」と言われたって、それは自分の中の格好良さじゃないから、なんだか嘘を黙っているような気分の悪さで、素直に喜べない。恥ずかしくなるだけだよ。
だから、作品の完成度というものを正直な自己表現に求める上では ( =自分が表したいイメージを自分の感性の通りに楽曲表現しようとする上では ) 、安易に「カッコイイ」は選べない、選びたくない。そういう潔癖性じみた心理が自分の中にあることに気付いて、そのせいで、「音楽やってる俺ってカッコイイだろう」みたいな、流行ですと言いたげな音色も、それっぽいでしょ!みたいなリズムの組み方にも、勝手に嫌悪感を感じるようになってしまった。数年前はわりと楽しんでやってたのに。ちょうど"Englishman in NewYork"のカバーなんかが、結構ギリギリだった気がする。
他人のそれを聴く分にはあまりそうは思わない、純粋に格好良くて楽しいなぁと思うのだけど、自分でやろうとすると、不思議と嫌悪感が先に出てしまう。「なんかなぁ……」と音楽に対して急にやる気が出なくなっていた時期があったのだけど、その原因がこういうものだったというのは、半年くらい前になってやっとわかった。まあ、わかっちゃいてもまだ引きずってるけど。
逆に言うと、この嘘をつかない事だけが、せめて自身で認めてあげることの出来る数少ない格好良さだ、というプライドがあったとも思うし、嘘をつかずに楽曲表現を出来たときは、やっぱり自分らしい格好良さのある作品が出来た、とも思う。"誓い"のリミックスなんかが特にそういう内容で、あれおきにいり。
要するに、「格好良くない自分」にプライドを持ちたかったんだ。
そうすることで、本当のオリジナリティを持つことが出来ると気付いたんだと思う。
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………でも現実問題としては、この心理をのさばらせておくと非常に生活がしづらいよ。
なにしろ、「このアレンジは自分に対して嘘がないか」、そんなバランスばかり見極めようとするから、アレンジに時間がかかって仕方がない、つまりコストパフォーマンスが悪い。創作に対してコストパフォーマンス、実にいやな言葉だなぁ。でも仕事ってそうだもんなぁ。あーあ。
でも、嘘に気付いたおかげで一番やりたい事も見つかって、「本当」が見つかると今度は嘘を嘘と割り切る余裕が出来て、だんだん嘘CDでも作りたくなってきた。そんな展開を迎える今日この頃。ハードハウスのノンストップミックスCDとか作りたい……
あとは、仕事も嘘でいいのかなぁ、っていうところ。