音楽厨になれ
思えば、格好つけるという事に理性的でいられない中学生の頃、トサカを誇示する雄鳥のように変貌していく小学校来の友人達に嘆息した時に、格好つけることに対する嫌悪感が刷り込まれてしまっていたのだなあ。
この社会で人を相手に生きる以上、結局のところ価値観というモノは、自分のモノではないのだなあ。理性、知性、感性の平均値が払う暴力こそが、様々な価値を産んでいるのだなあ。
カッコイイだろ?というアプローチは、それを行った時点で、受け手に対し共通項の皮を被って迫っていくようなもので、受け手がその音のコスプレに反応し続けて育っていくうちに、その原作を図々しい理念でもって「一方的に共有」しようとする感性が育ち、そうして音楽の歴史は音楽的価値に因らずトサカによって暴虐的に進んでいくのだなあ。そうして生まれた平均値が暴力を働くのだなあ。
音楽を評価する役割が音楽的感性からトサカにとってかわったのは、大雑把に言って Rock が偶像を産んでからなんじゃないか。しかしそれは必然だったろうな。ファッションも音楽も人間のトサカが担当する分野だということを、どうして僕は受け止めきろうとしなかったのか。
その理由が冒頭のものになるのだとしたら、思っていたよりもチープでやりきれない。
結局のところその呪縛から一歩さえも逃れられない僕は、
10年昔からやりなおすつもりで音楽を作るしかないんだ。
という気がし始めた今日この頃。