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2009年1月 4日 (日)

結局答えは出なかった

内海さんに頂いたコメントへの返信兼ねて。

※武術に興味の無い方は、読まない方がいいです。長文・乱文の上に、結論は出ていませんから(それが結論なのだけど)

内海さんの問いは、武術論でもしばしば話題になる、非常にむつかしくて議論も盛んなものですね。

まず前提として、古流の剣術が現代剣道(竹刀を用いて競技を行う)を非難し、現代剣道が古流(剣術や居合)を非難するのも結構見られる、というのを押さえておきたいと思います。

たとえば、古流の剣術をやる人は、現代剣道を「当てっこ」などと揶揄する事がありますね。つまり、竹刀を用いてちょこちょこ当てる練習や試合ばかりしていて、実際に真剣を扱う事は出来ないであろう、という論法ですね。内海さんがご紹介下さった評論家氏も、そういう方向性で考えていたのだろうと思います。

逆に、剣道家が古流の人を非難する場合には、型ばかりやっていて、結局動き回る相手に対応出来ないだろう、という言い方が見られますね。据物切り、つまり巻藁などを真剣で切る練習などについても、止まっているものを切ってどうする、という風な非難があります。
空手なんかで、静止している瓦を十何枚割ってなんになる、というのがありますが、それと似ているでしょうか。

さて、本題の、現代剣道と古流剣術の操法・身法の違いについてですが。

まず言えるのは、具体的な運動の形態はかなり違う、という所ですね。これはもう、剣道の試合と剣術の型とを見比べれば、すぐに解ります。

それで、古流剣術が真剣を扱うに特化した体系である、というのは言うまでも無い訳ですね。真剣を用いて自身の身を護り、場合によっては相手を斬り殺す、という目的に従って、長年をかけて構成されてきた体系。だから、体系を変容させないようにして保持されてきたと前提すれば、(元々の体系の完成度によるけれど)そもそも真剣を扱うという合目的的体系になっているのは間違い無いと言えます。

対して現代剣道は、競技化されて久しいので、竹刀を用いて競技の構造(ルール)に従って有効打を決めて試合に勝つという目的に最適化されるように発達してきた、と見て良いと思います。

そこで、考えるべきポイントとしては、そのように発達してきた現代剣道の体系が、実際に真剣を扱う方法として高度に機能するか、という所でしょうね。

これは非常に難しい問題です。と言うのも、実証がほとんど不可能だからですね。

つまり、剣道家と古流剣術家に真剣を持たせて戦わせる、というような実験が絶対に無理だ、という事です。

ですから、たとえば異種格闘技戦のような実践は不可能。防具を着て模擬刀で試合をしてみる、というのも、あまり意味が無い訳ですね。真剣を使えるかどうか、という文脈なので。模擬はどこまで行っても模擬。もちろん、異種格闘技戦においても、ルールをどうするか、という問題はある訳ですが、真剣で戦うかどうか、といった場合、質的な違いがあると言えます。

従って、どうしても、理論的に考察していくしか無い訳ですね。どこまで行っても推測の域を出ない。基本的に、確定的な事はほとんど言えないだろうと思います。

なんか、一般論と曖昧な言い方に終始していますが、そこまで慎重にならないと語れないほどに難しい問題だと思って頂ければ。

ちょっと内海さんのコメントを引用してみます。

少し前に、マンガ関連の本(マンガのブックガイド的なものだったと記憶してるんですが)をたまたま読んでいたら、るろうに剣心の事を語っているページがありまして、そこで評者(これも評論家だったとしか記憶してないんですが)が「るろうに剣心の劇中に描かれている剣術は「竹刀剣術」であり、真剣を使用する実戦の型とは根本的に違うものだ」という風に発言していたんです。
で、その後に「作者の和月伸宏氏は学生時代剣道部だったので、その時の感覚で真剣を使った戦闘シーンを描いたんだろうが、竹刀を使う時の剣術の技法と真剣での剣術の技法とでは、剣の握りや体の使い方一つとっても全く違うものであり和月氏の描写は間違いである」とも書いてあったんです。

ここでは、

  • 真剣の扱い
  • 実戦とはどういう状況か
  • 体の使い方とはどういう意味を持つか
  • 剣の握りの違い

このような、いくつかの論点を見る事が出来ます。

真剣の扱い方という面で言うと、・金属で構成された ・ある程度の反りを持ち ・鍔元まで刃のついた 日本刀という武器を用いるにはどうするのが合理的か、という論と見る事が出来ます。

その観点から考えると、現代剣道はそのような目的に沿って作られてはいない、というのは一応言えると思います。要するに、真剣を用いていた「としても」有効な打突に競技上の有効打の評価を与える、という風にはなっていない、という意味です。それは、剣道において有効とされる打突の箇所が限定されている事からも、そう言えます。競技として普及するには、評価のシステムを、ある程度厳密に、明確に判断出来るように構成する必要がありますから、あまりにも超複雑にすると、競技が成り立たなくなるからです。

そしてそれは、技術の汎用性を下げる事になります。具体的に言うと、真剣だと、場所によっては刃が少し擦れただけで恐ろしいダメージを食らう事になるが、競技だと、ある程度無視出来る訳です。有効打突というのは記号なのですね。

次は、実戦の場面について考えます。

約束事の試合で無い真剣を用いた戦い、というのを想定すると、それは当然、一対多の戦い、あるいは多対多の乱戦というのが考えられます。

その意味で言えば、やはり現代剣道は、多数の相手を初めから想定している訳では無い、というのは一般的に言う事が出来るだろうと思います。見方を変えると、仮に、多数を想定したような動きや認識で剣道の試合に出たとするならば、現代剣道の体系での激烈な動きには全く対処出来ない、となるでしょうね。

体の使い方について。

まず、具体的な動きがかなり違うので、そういう意味では、「体の使い方」が異なる、というのは一般に言えると思います。空手の流派の違いによって異なる、というのと同じような意味です。

足捌きなどは相当違うので、それに関わるバイオメカニクスは当然異なる、と言えると思います。特に後ろ足のポジショニングが異なるでしょうか。

ただ、どちらも細長い物体を振る運動ですので、腕や肩甲部の具体的な動きに共通性が出てくる、というのもあるでしょう。これは、剣の持ち方とも関わってくるでしょうね。つまり、竹刀であれ、より速く正確に相手を打つという目的に従って技を練磨するならば、結果的に、真剣を扱っても合理的に使えるようになる、というのはあるかも知れません。これは、優れた剣道家に真剣を持ってもらい、剣道の動きのままに動いてもらって、それを科学的に解析して見ていく、というのが出来るかと思います。静止しているものを切ってもらうのも良いかも知れません。

ちなみに、古流を積極的に研究する人でも、現代剣道の高レベルの人は刃筋も通り、きちんと「切れる」操法が出来る、と主張する人もいます。私もそう思っています。

上にも書いたように、現代社会において、真剣を用いた実戦が実現する可能性は、ほぼ無いと言っていいんですよね(もちろん、そんな事が実現する社会であってはならない訳です)。そういうのを知っている人もどんどん亡くなってしまって、もはやほとんど存在しないのではないでしょうか。当然、剣での斬り合いがあったのは、ビデオの存在しない時代の話ですので、記録は文字によるものしか存在しません。

ですから、本質的にこの問題、誰も出来ない事に関して推測を積み重ねる、という面が大きいのですね。現存する体系から、おそらくこうであろう、という風に言っていくしか無い。特に、現代剣道家が真剣を用いて戦った事など、絶無と言っていいだろうと思いますので、剣道の操法では真剣は合理的に扱えるか、というのは、推測しか無いと言っても過言では無いでしょう。

また、真剣で斬ると一言で言っても、それには様々なシチュエーションがあります。静止しているものを正確に切る。動いている物を切る。動いている人を斬る。こちらを攻撃してくるのを避けながら相手を斬る。

当然、ここで話題にしていているのは、人と人が自由に真剣で斬り合う戦いですが、それは究極的です。真剣で勝つというのはつまり、相手を戦闘不能にするという意味であり、真剣で相手を戦闘不能にするとはすなわち、斬って重傷を負わせるか、もしくは死亡させるのを意味するのですから。その段階でどうなるか、というのを考えるのは、やはり難しい。

もちろん、剣道家の動きを見て、これは他人数には向いていないかな、と思う事はあったりするのですが、しかし、あのスピードにはやはり目を見張るものもあります。真剣に持ち替えたとしても、高レベルの人はものすごい動きをするでしょう。古流の人を見て、固すぎてまともに動けていないじゃないか、と思う事もあったり。

ちなみに、真剣には拘らず、剣道家に、硬い木で出来た、竹刀と同じくらいの長さの棒を持たせたら、おそらくすさまじい強さでしょう。そういう意味で「実戦性」を考えると、また違った見方が出来る訳です。つまり、おそろしく複雑です。※剣道三倍段、とかの話じゃ無いですよ。念のため

今の所言えるのは、古流の剣術は、真剣を用いるという目的、現代剣道は、竹刀を用いて競技を成立させる、という目的に従ってそれぞれ構成・洗練された体系であるのは間違い無いだろう、という事です。そして、それぞれ合目的的に構成された体系が、実際真剣を持って戦う場合にどうなるかは、推測するしかありません。

非常に歯切れが悪いですが、こんな感じです。むしろ、この問題に関して歯切れ良く断定する論は、疑ってかかった方が良いのではないかと思います。そういう論は、想像をたくましくし過ぎている可能性がありますので。

いくつかの、書いておくべきポイント

  • 私の触れた剣術が、現代剣道でも古流剣術でも無い、という所(だから、これほど歯切れが悪くなる。よく知りもしない体系について語る際は、極めて慎重になる必要がある)。
  • 剣道家が、居合や他の剣術を稽古して研究する場合もしばしばある、という所。
  • 剣術と言っても、木剣の型中心の所もあれば、真剣や模擬刀での居合を並行してやる所もあり、また、真剣や模擬刀での組太刀をやる所もあるので、そういう意味でも多様のバリエーションがある、という所。
  • 竹刀を扱う操法が、重量の大きい刀の操作についてどの程度の汎用性を持つか、という所。中間からの打ち込みでどのくらい斬れるか、とか。
  • 型だけをやる流派が「実戦性」を論ずるのにどれほどの説得力があるのか、という所。
  • 剣術と言っても、甲冑を着て戦う武術と素肌武術では異なる、という所。※新陰流柳生派の伝書なんか見ると、そこら辺が詳しいですね。その面でも、「実戦」というのは色々考察出来る。
  • 古流をやっている人が、そのまま現代剣道の試合に出て優秀な成績を修められる、と豪語している場合、それは相当疑った方が良い、という所。
  • 剣道でも、大会によっては、ルールが異なったりする所。
  • そもそも、体系の特性を語る際、何を基準とすべきかをよく考える必要がある、という所。構成員の実力を見るか? それは最大値か、平均値か、ばらつきか。あるいは、体系の構造を科学的に分析して特性を記述するか。それはいわゆる「実戦」とどのような関係を持つか、その分析の尺度は妥当か、などの問題が出てくる。
  • 医学・医療が発達した現代において、「剣が触れれば終わり」という考えが通用しない可能性。
  • 逆に、ちょっと指を擦るだけでも、真剣なら指が落ちるから、それで終わり、という事も出来る。場所にもよるか。

どうでもいいですけど、私は、木剣を基本的に使っていますが、鉄で出来た棒状の物や、模擬刀も使います。で、全く同じ動きが出来ます。剣術には廻剣動作がありますが、剣道では、多分一般的に無いですよね? そういう所を見ると、剣術の操法はやはり、重い剣を扱うよう特化されているとは言えますね。

要するに、違いを述べる事は出来るんですね。でも、真剣を持った戦いを想定すると、簡単にものが言えなくなってくる。くどいようですが、ここは重要です。

基本的に、古流の立場から現代剣道を馬鹿にするような態度を採る人は、疑ってかかる方が良いと思います。もちろん、舞台が江戸時代なのに、当時存在しない動きをしていた(たとえば、今の剣道のような動きを)、というような考証の文脈なら、そこで描かれているのはおかしい、と指摘するのは可能です。

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コメント

非常にありがたいまとめです。もの凄く整理されていると思います。成る程なぁ。

 これについては,TAKESANさんが上げられたものと重複しますが,武術と近代格闘技の問題と,実戦性の定義,更には個人の資質とその武技における背景など,様々なものを含んでいて,非常に興味深いものがあるので,私も後でエントリを上げたいと思います。

投稿: complex_cat | 2009年1月 4日 (日) 13:49

complex_catさん、今日は。

そう言って頂けると、ありがたいです。

私の力で今の所書けるのは、このくらいですね。complex_catさんはお解りだと思いますが、このエントリーも、高岡英夫氏の初期の論考の影響を受けています。

重要なのは、真剣と模擬刀の断絶だと思っています。人間の身体を武器にしたり、木で作った武器などよりも(模擬刀はこちら)、遥かに殺傷力が高く、かと言って、銃火器に匹敵するような殺傷力は持たない、という所に特殊性があるのかな、と。

 >私も後でエントリを上げたいと思います。

おお、楽しみにしております。

投稿: TAKESAN | 2009年1月 4日 (日) 16:58

こんばんは。
僕は剣道をかじった程度(初段)なのですが、強い人の打突は身体の芯に響くような衝撃がありました。
剣道の場合、相打ちになることも多いので、それが真剣であれば、先に剣が到達していても致命傷を受けてしまう事は間違いないですが、その剣筋には殺傷出来るだけの威力はあるのではと思います。
もっとも竹刀と真剣では重さが違うので、同じだけのスピードで扱えるかどうかという問題はあると思いますが、鍛錬によっては可能なのかなあと、勝手な想像をしています。
僕のような人間には想像するしかないですが、実際に真剣で闘うというのは、そうとうにお互い慎重にやりあったのではないだろうかと思うのですが、どうだったのでしょうね。

投稿: corvo | 2009年1月 5日 (月) 00:44

しばしば見られる古流の側からの批判として、竹刀を扱うものが真剣を持って実際に同じように動けるのか? というものがありますね。

これは、バイオメカニクスや、工学系の力学辺り(材料とか)の問題にもなってくるように思います。
理論的にどうだろう、というのを考えていくアプローチと、実験的アプローチが考えられますが、後者も、静止状態の物体を切るのと実戦とでは全く違うでしょうから、なかなか難しいものがあるでしょうね。

直感的には、corvoさんと同じく、剣道の動きが全く真剣の扱いに適さない、とは思えないですね。

もちろん、剣術は重い真剣を扱うという目的で作られているので、戦い方自体が異なるのは事実ですけれども(武蔵の五輪書とか、柳生派の伝書なんかを見ると、色々書いてあります)。

当時の武士でも、真剣を持って実際に斬り合うというのは、心理的にも容易で無かったろうと思います。逆に考えれば、そういう状況でも安定した心理状態でいられた者が、剣豪や剣聖と呼ばれる実力を発揮したのだと見る事も出来ますね。
武術は身法かつ心法ですね。高度な心身が必要。その秘訣を詠った極意歌というものもありますね。

投稿: TAKESAN | 2009年1月 5日 (月) 01:19

>剣道の場合、相打ちになることも多いので、それが真剣であれば、先に剣が到達していても致命傷を受けてしまう事は間違いないですが、その剣筋には殺傷出来るだけの威力はあるのではと思います。
 フィクションにはよくありますが(例えば「七人の侍」の最初の方とか)、木刀で打ち合った剣士が
「相打ちだな」
「いや真剣ならば拙者の勝ちだ」
「そんなはずはない。では真剣でもう一度勝負だ!」
で真剣で切り結ぶと、相打ちだと言った剣士の方が血を噴いて倒れ、相手は傷一つ無い、とか言ったことは実際に有り得るんでしょうかね?
傷一つ無い(衣服が切れただけとか)のは無理でも、片方は致命傷(即死)、もう片方は命に別状無い程度の負傷、とかならばありそうにも思えますが。
竹刀すら握ったことのない者の戯れ言ではありますが。

投稿: ROCKY 江藤 | 2009年1月 5日 (月) 02:15

ROCKY 江藤さん、今日は。

分けて考えてみると・・

まず、木刀では相打ちだが真剣だと差がつく、というシチュエーションは、多分にフィクション的演出の強い設定でしょうね。模擬刀と真剣では感覚が違う、というのを演出する場合があるのだと思います。

で、一方が無傷で片方が死ぬ、という現象は、現実的にあり得ると思います。いや、これも推測以上にはならない訳ですけれど…。

木刀で相打ちのような状況だったとして、真剣でも同じようになったら、もちろん両方が怪我をして、当たり所の悪い方が死ぬ、という事になるでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2009年1月 5日 (月) 12:53

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