運転免許と科学のアナロジー~あなたは運転免許所持者が車を運転出来る事を「信仰」しますか?~
「科学ってのも、信仰の対象になってる感があるね。最近のニセ科学批判者の言動を見ていると、ある種の狂信性を感じる事もあるよ。」
「ほう。確かに、人間は何でも知る事は出来ないから、信じるという面では、たとえば宗教を信じるのと同じような所はあるかも知れないね。ただ、似ているからといって、大部分が同じな訳でも無いと思うのだが、どうだろうか?」
「というと?」
「自動車の運転免許でたとえてみようか。我々は、そこら辺を走っている車に乗っている人が免許を持っている事を信じているね。中には無免許運転の愚か者もいるだろうが、基本的にはそれは、少数の例外として考える。
それで、免許を持っているという事はつまり、その人が、運転の技能が一定以上に達して、公道で運転出来ると一応判断された者だ、というのを示している訳だ。そして我々は、一々車を運転する人の技能を確認する事無く、大部分の運転手が免許を持っていて、最低限の技能もある、と看做す訳だね。」
「うん、確かにその通りだ。わざわざ、走っている車の運転手が免許を持っているか、というのを一々疑うなんて、そんなの非合理だし、その前に不可能だよ。」
「そうだね。実は、科学も一緒なんだよ。」
「ほう。それは興味深いね。」
「うむ。科学というのは、実験や観察で得られたデータを色々処理して、そして、理論なり仮説なりが成り立っているか、というのを確かめる訳だね。
それで、その研究がちゃんとしたものかどうか、というのを審査する。これを査読というのだが……まあ、厳密には違うが、教習所でハンコを貰うようなものだね。坂道発進でエンストしたらハンコは貰えず、もう一回やり直し、となる訳だ。」
「ああ、私も坂道発進では苦労したものだよ。いや、それ以上に、クランクでは見事に脱輪したものだ。お陰で修検も一回落ちたよ。試験を受けるのにも結構な額が掛かってね。なかなかにショックだった……。」
「うむ。それで、この運転じゃあハンコはやれないな、もう一回受けてもらう必要がある、というのと同じようなのが、科学の研究の世界でもあるという事だね。つまり、審査を受けて、それで、データの採り方や解析の仕方、結果の解釈の仕方などがきちんとしているか、というのを判断してもらう。ダメなら論文は採用されずに、もう一度出直して来い、となるのだね。」
「なるほど。つまり、科学の理論として認められているものは実は、免許を取った運転手のようなものな訳だ。」
「そう。そして、実際の運転のレベルなどが他の人達にも評価されて、確かに腕の確かなドライバーだ、と周知され、信頼を得ていく。物理や化学の教科書に載るような知識はいわば、50年毎日運転し続けて無事故・無違反の超優良ドライバーのようなものなのだね。」
「ふむ……しかし、免許の場合だと、それを取得したとしても、運転が下手な人もいるし、事故を起こしたり飲酒運転をしたりで、免許を失ったりする訳もあると思うのだが。教習所によっても審査が甘い、という事もありそうだ。」
「その通り。運転免許と同じで、審査に通ったからといって、それが即優れたドライバーだとは限らない。君の言うように、教習所によって、教官によって、審査の厳しさも変わってくる訳だね。極端な話、不正すら起こり得る。
だから、さっき言ったように、免許を取った後の評価も大事という事になる。優良ドライバーは、それだけ腕前が確認されてきた、という実績があるのだね。」
「なるほどね。君の話を聞いて、科学について、何となく解った気がする。ただ、思うのだが、そういう事情に詳しいのは、科学に明るい人だけではないのか、という疑問が出てくるね。現に、私はそこまでの話は知らなかった訳だ。運転免許の場合は、そういうシステムがあるのを大部分の人は知っているのだと思うが、科学についてはそうとは限らないだろう?」
「うん、そこに関しては、君の言う通りだと私も思う。私も、色々と勉強して初めてそういう事情を知ったからね。だから、科学にはどういう手続きがあるのか、というのを広く知ってもらうのが重要だと思うのだよ。そうで無いと、科学に対して信仰のような認識を持つ、というのは確かにあり得るのかも知れない。
我々は、科学技術によって生み出されたものに囲まれて生活しているのだから、そういった知識は必須と言っても構わないと、私は考えている。道路を自動車が走り回る社会の中で、運転免許のシステムを知らないでは済まない、というのと一緒だろうか。」
「そうだね。確かにそう私も思う。何と言うのか、そうなれば、科学というものを、一歩引いた所から見られるのかも知れない。……それで、それがニセ科学批判とどう繋がってくるのかな?」
「まず、君はさっき、ニセ科学批判にはある種の狂信性を見る、というような事を言っていたね。」
「ああ、確かに。」
「それはどうして?」
「うーん、そうだね……なんというのだろう。科学という正しいものがあって、その立場からあるものを批判する、という、そういう姿勢に対してそういう印象を懐いたのかな。」
「それはつまり、科学を何か絶対的なものだと見て、それにはずれるものを叩く、という図式を描いた訳だね?」
「そうなるね。」
「ところで、”ニセ科学”の意味は知っているかい? ニセ科学という言葉で無くてもいいが、君が触れた人達がそういう言葉で何を指しているか、という事だね。」
「え、ニセ科学の意味かい? 科学的に間違っている、という事なのでは?」
「じゃあ、”科学的に間違っている”というのは? いや、具体例を挙げて貰ってもいいのだが。」
「そうだね……超能力とか占いとか、そういうのがあるだろうか。後は、水からの伝言やゲーム脳もよく聞くね。スピリチュアルというやつもそうなのかな。」
「ああ、やはり君は、勘違いをしているようだ。」
「え? それはどういう事だい?」
「うむ。さっき私は、科学について、運転免許の喩えで説明したね。」
「ああ。」
「その喩えを再び持ってこよう。科学とは、免許を与えられた運転手のようなものだ、と私は言ったね。」
「うん、そうだった。」
「ここでちょっと視点を変える。免許を持っている運転手というのは、ある程度運転出来るというのを保証しているし、その事を期待してもいい、と言えるね。”期待してもいい”というのは、”信頼出来る”と言い換えてもいい。
次に、”免許を持っていない”人というのを考えてみる。ここでちょっと質問だが、”免許を持っていない”というのは、”運転出来ない”のを意味するかい?」
「……いや、免許を持ってないからといって、運転出来ないとは限らないね。運転出来るかどうかは、練習して技能を身に着けたり交通ルールを知るという事だから、別にそれは、独学で不能では無いね。尤も、車や場所の問題はあるが。」
「そう。そこまで理解して貰えれば、後は簡単。実はニセ科学というのは、免許を持っていないのに持っているかのように言っているドライバーのようなものなんだよ。」
「もう少し詳しく説明してくれないか。」
「ああ。今君は、免許を持っていない事と運転出来ない事は同じでは無い、というのを説明してくれたね。それで、これはさっきも話に出したが、世の中には、無免許運転や免許証偽造で運転する人間もいる訳だね。ニュースでもたまに目にする事だ。」
「それはあるね。私が中学生の頃、別のクラスの奴が親の車を勝手に運転したというのが話題になってね。随分得意げに話していたようだよ。尤も彼は、後で大目玉を食らっていたが。」
「うん、実はニセ科学というのも、それと似ているんだよ。つまり、免許を持っていないのに運転を出来ると言い張ったり、無免許なのに運転している人間のようなものなんだ。」
「なるほど。さっき君に話を聞いたから、何となく解るね。つまり、審査を受けてもいないのに、周りに正しいと言いまわる。そういう感じなのだろうか?」
「そう、そういう事だね。ニセ科学は、査読も通らない、それどころか論文すら出していないのに、自分の説は充分通用する、と言い張るという事だ。」
「うむ、だいぶ解ってきたよ。君がさっき、免許を持ってないのと運転出来ないのは違う、というのを説明したのはつまり、ニセ科学は”運転出来ない人”の事を指していないのを教えるためだった訳だ。」
「さすがに鋭いね。その通り。要するに、ニセ科学批判というのは、運転出来ない事では無くて、免許を持っていないのに運転出来ると言い張ったり、実際運転したりしているのを批判している、というのに近いんだね。あるいは、免許の偽装もあるね。その意味では、占いとか超能力辺りは、基本的には”ニセ科学”とは言われない訳だね。それらは、車を運転出来ると言っているのでは無いからね。
もちろん、これはあくまで喩えだから、厳密には異なる部分もあるだろうから、それは押さえておいて貰いたいが。」
「今言った”基本的には”というのは?」
「ああ、これはたとえば、無免許なのに公道でバイクを運転していて、それを咎められたら、”いや、これは自転車だ”、と言い逃れをするようなものだね。占いや超能力を信じる事自体は、免許を持っていると言っているのとは違う訳だが、占いの根拠として統計学を挙げたり、水の結晶の出来かたを実験で確認した、などと主張してしまえば、それはもう、運転しているようなものな訳だ。
だから、免許を持っているかどうかを指摘される。水からの伝言が典型的だろうか。あれを言い出した人は、ニセ科学だと批判を受けたら、”ポエム”だ”ファンタジー”だと言い逃れをしようとした。だが彼は、”実験”によって確認したと言ってしまっているのだから、それは通用しないのだね。」
「なるほどね。それで、実際には免許など持っていないのだから、”ニセ科学”という訳か。」
「そう。それで、君は、ニセ科学批判者に狂信性を感じた訳だが、これはつまり、運転出来るとも免許を持っているとも言ってない人を一方的に責めているように見た、と考える事が出来るね。目的地に行くのに車を使わないのは何事か、免許も持っていないのか、と言っているかのように見えた、という風にも考えられるだろうか。」
「実際には、目的地に行くのに車を持っている人を対象にしているのであって、自転車を使ったり人力車を使ったりする人に、強制的に自動車を使え、と言っている訳では無いという事か。」
「うむ。ただ、さっきも言ったように、車が走り回っている世の中なのだから、免許を取るシステムなどについてはある程度知っている必要があるとは思う。そして、確かに自動車は便利だ、というのも押さえておくべきなんだろうね。まあ、実際それは、学校の勉強として習うものではあるのだが、蔑ろにされる事も少なくないように感じるね。
そしてこれは、宗教を信じるような意味での信じ方、つまり”信仰”とはやはり違うと思うんだよ。説明したようなシステムを知らなければ、似る事があるだろうが、それにしても、大部分が同じとはいえないと私は考えている。
少なくとも私は、免許を持っている人間が運転の技能を有しているという事を、信仰はしていないつもりだ。」
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
車の運転免許というよりも、医師免許の方がより切実な例になるかも。
病院に行って医師に診てもらえれば一定水準の医療サービスが受けられると「信じて」いるわけだけど、それはどう考えても宗教的な意味での信仰ではないですよねぇ。
無免許の凄腕医師、というのはマンガか小説の中だけの存在ですし。
無免許で医師を名乗る人が居たとして、「無免許で診療行為ヤメレ」って叩く理由は、医師免許の効力を信じているからなのかというとちょっと違うし。
投稿: apj | 2008年12月 9日 (火) 02:16
apjさん、今晩は。
社会の多くの人が免許取得のシステムをある程度は知っているので、「同じようになって欲しい」(科学の内容や手続きが周知されて欲しい)という願いも込めて、免許のアナロジーを使ってみました。すごく身近ですしね。
医療行為を受けるという喩えも解りやすいですね。
基本的には、宗教を信じるような感じを医療に懐く、というのは無いでしょうね。
で、それでも、医師をある種の超人のごとく看做したり、医療がかなりの程度「万能」だと思う人というのは確かに出てくる事はあるでしょうから、そういう意味で、「科学を信仰」というのは、あるかも知れません。
メタ論に走る人は、そういう部分を一般化し過ぎているように思えます。似ている所があるとしても、違う部分にもちゃんと目を向けなくては。
そうならないためにも、科学を知ろうとしてみては、と思う訳ですね。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 9日 (火) 03:05
TAKESANさん、
>医師をある種の超人のごとく看做したり、医療がかなりの程度「万能」だと思う人というのは確かに出てくる事はあるでしょうから
この先生の言うことをきいていればきっと良くなる、と思うとか、この病院で治療を受ければきっと良くなる、と思うといったことですよね。あっちのおばさんも、こっちのおじさんも、あの病院のあの先生にかかったらすっかり治った、本当に名医だという噂が町内に知れ渡っている、だから自分も……と思ってしまうといったことですよね。
多分この判断は狭い意味での「科学的」なものではないのだろうけど、広い意味で何を信頼するかという点から見ると悪くないですよね。
ダジャレのつもりはないのですが、
制度を作って精度を上げる
ということをしている範囲内で何を信頼するかという話だからうまくいく。
これが、信頼する相手が気功療法とホメオパシーと波動だったりすると、そもそもの(医療としての)精度が悪いからどうにもならない。
投稿: apj | 2008年12月 9日 (火) 03:25
彼岸に届くかどうかは皆目わからないので置いておくとしても、とても興味深いです。免許とか資格というと……なんか誤解されそうな気もしますが、100%合致するものなんかないだろうし。
>>医師をある種の超人のごとく看做したり、医療がかなりの程度「万能」だと思う人というのは確かに出てくる事はあるでしょうから
>
> この先生の言うことをきいていればきっと良くなる、と思うとか、この病院で治療を受ければきっと良くなる、と思うといったことですよね。
似て非なる例ですが、どこかで読んだ「医者は治すのが仕事だろう、医者なら治せ」とかいう患者のセリフを思い出しました。不適切等の責任を追及できるような状況ではないような場合であっても、「不本意な結果になったら訴える」というのも「治せないなら訴える」つまり「医者なら治せるはず」と同じですよね。
でも、こういうのを「信じる」とか「信仰」というのは、やっぱり違う気がするんですよね。妄信とかでさえなくて、「依存」とか「甘え」「だだこね」という方が近いのではないかと思ったり。
投稿: 亀@渋研X | 2008年12月 9日 (火) 10:07
まず言えるのは、アナロジーというのは二律背反的である、という事です。
喩えとして、構造が似通っていないと話にならないのだけれど、全く同じという訳にもいかない。全く同じを求めるなら、「そのもの」を話すしか無い訳ですしね。kikulogでも出ましたけれど。
私としては、免許の類推はそこそこ似ている、と思ってます。
------
apjさん、亀@渋研Xさん、今日は。
たとえば、学校で科学の勉強もせず、人体の仕組みに思いを馳せる機会も無く……といった場合に、そういう事は起こり得るのかな、と。
フィクションで、比較的年配の人が医者を妄信しているような象徴的な描写があったりしますね。そんな感じでしょうか。
と、こういう風に設定してみないと、宗教を信じるように信じる、という状況は、私には想像がしにくい訳です。だから、いきなり同様に扱うのにとても疑問を感じるんですね。
信念を持つ事そのものを「信仰」と呼ぶのは果たして可能なのか、という話にもなると思います。そこまで行ってしまうと、「信じる」=「信仰」になって、信仰という概念についての社会的認知が蔑ろにされてしまうように思います。
私達は、少なからず、科学を学んでいく訳だし、科学は更新され、時には間違うという事も教えられるのですしね。
自動車が存在しない地域に車を持っていけば、それを信仰の対象とする事は可能かも知れません。それだとどんどん話がずれていきますが。
参考に
▼▼▼引用▼▼▼
しんこう ―かう 0 【信仰】
(名)スル
〔古くは「しんごう」とも〕
(1)神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
「仏教に厚い―を寄せる」「神を―する」
(2)人を信じうやまうこと。
「三郎の為人(ひととなり)を益々景慕し、弥々(いよいよ)―する心を生じた/薄命のすず子(お室)」
▲▲引用終了▲▲
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT=%90M%8B%C2&IE=sjis&type=sleipnir
何でもかんでも信仰と呼んでしまうのは、人文・社会科学的に大雑把な分析と批判されはしないのか、とも思ってしまうのですが、これは余計な心配なのでしょうか。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 9日 (火) 12:35
>TAKESANさん
>>経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
ここ重要ですね。「信仰」と謂う言葉には「仰ぐ」と謂う文字が入っています。人間の営為の上位にある超越的な存在を信じ、敬意を持って仰ぎ見ると謂うことですね。
科学者を「科学教の信者」のように揶揄するのは、科学と謂う金科玉条を己の営為の上位に置いて崇め奉っているのだろう的な言い方なわけですが、科学と謂うのは基本的に人の営みの範疇の事柄なので、そもそもそう謂う見方は成り立たないはずなのですね。
なので、本来は、自然科学の法則や知識に後進が敬意を払うのは、先人の人としての努力や営みの積み重ねに対して払う尊敬の念なのであって、神仏への尊崇とは自ずから異質なものと謂えるでしょう。
投稿: 黒猫亭 | 2008年12月 9日 (火) 15:17
黒猫亭さん、今晩は。
私も、一般的にそう言える、と思っています。
もちろん、敷衍していけば、科学の法則等に対する認識を信仰と同様のものとして見る、というのは出来るでしょうし、哲学的にも心理学的にも興味深い問題ではあるでしょうけど、それにしても、いきなり一般化されるのは困りますよね。
現代の日本において、先に挙げた辞書的な意味での信仰を科学に持つ、というのは考えにくいんじゃないかなあ、と。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 9日 (火) 18:38
「信仰」は人間を越えた存在への敬意であり、「信頼・信用」は人間関係に使うわけですが、「宗教」にも「科学」にも両方の要素はありますよね。科学における「自然」や「法則の存在」は「信仰」のようなものでしょうし、宗教における「教義」の類は人間の営為であり、科学の「説」のような「信頼」の対象かと思います。このように大きな構造で見れば、宗教も科学も同じようなものですが、だからと言って全く同じではありません。「大きな骨格が似ているなら、全く同じ」というのは詭弁でしょう。
また、科学とニセ科学の説も「信頼・信用」の対象であり、程度の違いに過ぎないと言えばその通りかも知れません。ただし、程度問題だから、詰まる所同じだ、と極端な相対主義になるのか、程度の違いが重要と考え定量的に評価するのかが分かれ目のような気がします。
本物の通貨とニセ札は信用度の違いに過ぎないといえばそうですが、ニセ札では経済活動は成り立たないわけで、現実的には大違いです。正統的な医療と怪しげな代替療法も素人の患者からみれば信頼度の違いくらいしかわからないかもしれませんが、現実の治療効果は大違いです。科学とニセ科学も似ているように見えても、ニセ科学では携帯電話も作れないという現実があります。
科学も信仰に過ぎないというのは、現実から遊離した思弁的な「空論」で、正しいとしても内容が無いと思います。また、「信頼・信用」は先人たちが努力して築き上げたものですが、そういう努力を馬鹿にしているようにもみえます。
投稿: zorori | 2008年12月 9日 (火) 20:56
zororiさん、今晩は。
科学というのは、現象の説明や制御に関しては、確かに優れた成果を発揮しているものだと思います。
それで、それに対する信頼というのはある種の信仰だ、という風に論を展開する訳ですね。
それは可能なのでしょう。信仰にも色々な形態が歴史的にあっただろうから、アナロジカルに論ずるのは、文脈によっては意義のある事だろうとは思います。
しかるに、現在の社会状況や「信仰」概念についての社会認知を考慮しない事には、あまり有用なものにはならないと考えます。そういう意味で、大雑把だなあ、とは感じますね。
さすがに、科学がデータを集めて何かする、というのすら知らないのを前提にするのは無理がある訳で、その差異を無視して同様のものとして扱う事には、首を傾げざるを得ません。
投稿: TAKESAN | 2008年12月10日 (水) 00:00
きくちさんがpoohさんの所に書いておられましたが、科学が斉一性を前提にしていたり、帰納的推論を用いて一般化したりするのを、信仰と呼ぶ事は出来なくは無い訳ですね。それは哲学的には重要な所かと思います。
で、ニセ科学批判批判なんかの文脈で、それを、あたかも「新たに発見したかのように」言われると、いや、ちょっと待ってよ、と感じます。
投稿: TAKESAN | 2008年12月10日 (水) 00:03
科学と宗教の関係は歴史的に見るとすごく複雑で、ガリレオの事件のように両者が常に対立関係にあった訳ではなく、例えば、ニュートンが、自身の科学的発見を神の存在の証明根拠と考えたことなどを考慮すれば、親密関係にあったともいえる訳です。さらに、哲学では、神の存在についての議論が今も積極的になされています。科学、宗教、哲学は、歴史的に見ると、切っても切れない関係にあると言ってもいいでしょう。
また、科学と宗教の社会的立場が入れ替わったというのも歴史的な事実です。しかしそれは信仰の対象が宗教から科学に変わった、というのとは全く意味が違います。
たぶん、ニセ科学批判者を批判している人達は、上記のような歴史的事実を誤解あるいは曲解しているのではないでしょうか。
投稿: やす | 2008年12月10日 (水) 17:23
やすさん、今晩は。
おそらく、その辺の事情が絡んでいるのだろうと思います。
科学史や哲学史に関わる話で、それは大変重要なトピックなのだと思いますが、現代における科学への社会的認知という面を考えると、それは社会科学的あるいは心理学的にもきちんと考えられなければならないので、即歴史的な部分に関する考察を現代の「ニセ科学批判」に当てはめるのは、私は早計だと考えています。
------
余談。
この間、ドーキンスをちょこっと読んだのですが、彼は、神の存在証明を科学的な対象として考え得る、という認識のようですね。
私にはそこら辺のロジックが、どうしても捉え切れなかったのでした。
投稿: TAKESAN | 2008年12月10日 (水) 17:54