「戦国武将 虚像と実像」(その3)

71EZjio0NIL.jpg 呉座勇一「戦国武将 虚像と実像」の3回目。

昨日は、明智光秀、斎藤道三、織田信長の3人まで紹介した。今日は残りの4人、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁、そして徳川家康の虚像と実像を紹介しよう。

【豊臣秀吉】
信長項で紹介した明治のアンケートによれば、秀吉は、知名度や人気で信長を凌駕していた、というのが江戸から明治にかけての状況だったらしい。
本書では、信長が英雄となったのは大正になってから徳富蘇峰の『近世日本国民史』からとしているわけだが、秀吉は既に明治期から人気物であったという。

維新政府は徳川否定として出現しているわけだから、それまで大っぴらには顕彰されてこなかっただろう秀吉を英雄視するのは自然だろう。
そしてそれには朝鮮侵攻という格好の材料もあった。
本書から転載しよう。
 維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心
 江戸時代には幕府の目が光っていたので、豊臣秀吉を大っぴらに顕彰することはできなかった。ところが明治維新によって、この状況は一変する。体制側が積極的に秀吉を顕彰したからである。
 慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇が大阪に行幸した際に、大阪城付近に豊臣秀吉を祀る神社の造営を命じる御沙汰書が下された。そこには大略、次のような造営の趣旨が記されていた。秀吉は低い身分から出発し、自分の力だけで天下を統一し、大昔の聖人が成し遂げた偉業を継いで、皇室の権威を海外に広く知らしめ、数百年を経た今も外国に脅威の念を抱かせている。 国家に尽くした功績の大きさは前代未聞のものである。その功績に報いようと朝廷は秀吉に神号を贈ったが、不幸にして豊臣家は断絶し、秀吉の大功は埋もれてしまった。明治維新を機に、廃絶した行事を復興したい。今は日本が世界に打って出ようという時代であり、秀吉のような英知雄略の人材が輩出されることを願って、秀吉を祀る神社を造営する、と。

はじめに
 
第一章 明智光秀―常識人だったのか?
第一節 近世の明智光秀像
同時代人の明智光秀像/怨恨説の登場/〈光秀=常識人・教養人〉像の形成/「逆臣」という非難/悪人から「正義の人」へ
第二節 近代の明智光秀像
儒教的主従観念の相対化/山路愛山の野望説/徳富蘇峰の突発的犯行説
第三節 戦後の明智光秀像
〈光秀=改革者〉像の出現/司馬遼太郎による〝先祖返り〟/光秀は比叡山焼き討ちを諌めたか
 
第二章 斎藤道三―「美濃のマムシ」は本当か?
第一節 近世の斎藤道三像
江戸前期には油売り伝説は見えず/油売り伝説の登場/斎藤道三・義龍親子の不和/深芳野伝説の形成/信長・光秀との絆はあったか/近世における道三の評価
第二節 戦前・戦後の斎藤道三像
依然として「悪党」イメージ/直木三十五『斎藤道三殺生伝』/信長とは正反対/「マムシの道三」の誕生/司馬遼太郎『国盗り物語』の道三像
第三節 斎藤道三の実像
親子二代の国盗り/斎藤義龍の実父は土岐頼芸か/道三は先進的な大名だったのか
 
第三章 織田信長―革命児だったのか?
第一節 近世の織田信長像
儒学者に批判された織田信長/「徳川史観」による信長批判/「勤王家信長」という評価
第二節 近代の織田信長像
明治時代も豊臣秀吉の方が人気者/山路愛山による信長評/徳富蘇峰の「経世的勤王家」論/信長の「平民主義」と「帝国主義」/信長は革新者にして勤王家/戦時下の織田信長像
第三節 戦後の織田信長像
「勤王家」像からの脱却/「合理主義者」像の萌芽/「革命家」像の定着/織田信長は本当に革新者か/実は将軍・天皇を重んじた織田信長
 
第四章 豊臣秀吉―人たらしだったのか?
第一節 近世の豊臣秀吉像
江戸時代の庶民のヒーロー/「徳川史観」による秀吉批判/朝鮮出兵否定論/朝鮮出兵肯定論/「勤王家」秀吉像の形成/幕末の攘夷論と秀吉絶賛
第二節 明治・大正期の豊臣秀吉像
維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心/日清戦争・日露戦争の影響/山路愛山による朝鮮出兵の評価/徳富蘇峰の秀吉論
第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像
矢田挿雲の『太閤記』/「読売新聞」による秀吉顕彰/吉川英治の『太閤記』/戦後の秀吉小説/秀吉は人たらしだったのか?
 
第五章 石田三成―君側の奸だったのか?
第一節 近世の石田三成像
江戸時代は「奸臣」イメージ/「奸臣」イメージの確立/「奸臣」イメージの肥大化/三成に好意的な逸話も/石田三成「忠臣」論の登場/石田三成 「好敵手」 論
第二節 明治・大正期の石田三成像
「徳川史観」からの脱却/渡辺世祐と山路愛山の石田三成論/三上参次と福本日南の石田三成論/大森金五郎の挙兵正当論/リアリスト徳富蘇峰の「野望説」
第三節 戦前・戦後の石田三成像
戦前の歴史小説における石田三成/戦時下の石田三成顕彰/司馬遼太郎の『関ヶ原』/石田三成の意外な側面
 
第六章 真田信繁―名軍師だったのか?
第一節 近世の真田信繁像
江戸初期は有名ではなかった!/「徳川史観」における真田信繁/真田信繁伝説の形成/「真田幸村」の誕生/真田幸村の超人化/真田十勇士と幸村生存説/「徳川史観」における真田幸村/民間で広がる幸村人気
第二節 明治・大正期の真田信繁像
明治期の真田幸村/『名将言行録』と『通俗日本全史』/福本日南の真田幸村論/立川文庫と真田十勇士
第三節 戦前・戦後の真田信繁像
戦時下の真田幸村/戦後の娯楽作品における真田幸村/池波正太郎の『真田太平記』/真田信繁は軍師だったのか?
 
第七章 徳川家康―狸親父だったのか?
第一節 近世の徳川家康像
人質時代の苦労は本当か/「信康事件」の真相/方広寺鐘銘事件はどう描かれたか/大坂城の内堀の埋め立ては良策?
第二節 明治・大正期の徳川家康像
明治期の徳川家康評/中村孝也の家康擁護/山路愛山の家康擁護/大森金五郎の家康評/徳富蘇峰の家康批判
第三節 戦後の徳川家康像
太平洋戦争と大坂の陣/山岡荘八による家康像の転換/方広寺鐘銘事件の真実/大坂城内堀埋め立ての実相
終 章 大衆的歴史観の変遷
「革命児信長」像は戦前からある/司馬遼太郎によって作られた伝説/時代に翻弄された英雄像/江戸時代の人物像の複雑さ/歴史を教訓にすることの危険性
 
あとがき
大坂城にある豊国神社って新しかったんですね。
京都の豊国神社も、秀吉死後に創建されたものの、すぐに廃絶されており、再興されたのはやはり明治になってからである。

江戸時代以来の支配的な歴史認識では、諸大名(就中家康はだろう)は内心では朝鮮出兵に反対だったという。これも秀吉を貶めるために徳川が創り出した歴史認識なのかもしれない。これに対して、明治から大正初期の評論家・歴史家 山路愛山は次のように主張していることが紹介されている。
 では、開戦理由は何か。 山路愛山の答えは至極単純である。勝てると思ったから、である。「今日においてすら強国の威力は常に防備に乏しく独立の実力なきものに向かって残酷に働きつつあるに非ずや。 我輩は当時の大勢を観察して、統一したる日本の武力が、そのふるいたる鉄拳を大陸に加えんとしたるのむしろ自然なるを見る」というのだ。
 山路愛山は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三)、自身が立ち上げた雑誌「独立評論」創刊号に「余は何故に帝国主義の信者たる乎」を発表した。帝国主義とは適者生存であり自然淘汰であり、健全な世界を作るための思想であると説き、内村鑑三の非戦論を批判した。弱肉強食を肯定する愛山が、朝鮮出兵に対して倫理的非難を加えるはずがない。
これについては高橋典幸・編「中世史講義【戦乱篇】」の記事でも、同様の見方があることを紹介した。

ところで本書が指摘していることだが、一般に幕末の政治対立は、尊皇派対佐幕派、攘夷派対開国派と整理されがちだが、当の江戸幕府が「尊皇攘夷」を唱えており、 尊皇と攘夷は絶対の正義であった。という。
たしかに幕府将軍家は、実力もない天皇に対し奉りどこまでも低姿勢で、天皇を担ぐ周囲の勢力をなんとか殺ごうと苦心していたように見える。外国勢力とも事を構えないように苦労した。ありえない外国うち払いと大御心を勝手に騙る「尊攘」っていうのは、明治になってから作られたのかもしれない。


【石田三成】
石田三成は秀吉以上に江戸時代には貶められていた武将だろう。
頭が良いといっても小賢しいといわれ、戦は下手であるとか、はては淀殿との密通(これは淀殿を貶める意図もあったのだろう)まで、マイナス評価は果てしない。
一方で、大谷吉継との友情や最後まであきらめなかったというエピソードなどもある。
これらの真偽はわからない。しかし関ケ原の西軍を組織した事実は三成がただものではないことを雄弁に語っている。
また史料で確認できる行動からは三成のイメージが変わるかもしれない。本書によると、
 キリシタンの名簿を作成するに当たったのは長谷川守知でだが、長谷川は馬鹿正直にキリシタンを網羅した名簿を作ろうとした。三成は長谷川を叱責し、名簿に載る人間の数を最小限に留めた。ポルトガル系の布教団体であるイエズス会になるべく累が及ばないよう努力もしている。また、死刑から追放刑への減刑を秀吉に働きかけている。結果的に、フランシスコ会の宣教師・信徒計二一人、日本人イエズス会士三人、道中で加わった信徒二人の計二六人が、各地を引き回された後、長崎の浦上で殺された。
 歴史学者の谷徹也氏は、「三成には秀吉の怒りを和らげようと弁明を引き受けつつ、現場において穏便な解決の道を探る一面もあった」が、関ヶ原合戦後は往時の権勢の大きさもあって、そうした姿は忘れ去られ、秀吉の命令に従って厳罰を行う酷吏の印象が増幅され、様々な陰謀の主体であったという憶測を呼ぶことになった、と指摘している。  石田三成は豊臣秀吉の命令に唯々諾々と従うのではなく、時に諫言することもあった。こうした側面は、奸臣論においても、忠臣論においても見落とされてきたように思われる。今後、三成のイメージが更新されていくことに期待したい。


【真田信繁】
大河ドラマ「真田丸」の印象が未だ残る真田信繁(幸村)は、あまりにも「何もせずに、見事に散った」からか、これほど潤色されたであろう武将は他にないのではないだろうか。
真田十勇士の話などは、本書でもその成立などが考察されているが、もちろん史実として考証しているわけではない。伝説がどう生まれたかでしかない。

しかしその活躍は、潤色された信繁像から盛られたものではなくて、活躍したことは事実であって、それが信繁の数々の伝説を生むことになったもののようだ。その信繁の活躍について本書は次のように記している。
 大坂の陣における真田信繁の活躍としては、冬の陣における「真田丸の戦い」と、夏の陣における「天王寺口の戦い」が有名であるが、『大坂物語』は信繁の奮戦をほとんど記していない。真田丸の戦いの描写は淡泊で、信繁が敵を挑発して誘い込む様を印象的に描く程度である。そもそも「真田丸」という表現もなく、「真田左衛門佐がたて籠る取出」と記す。
 真田丸の戦いの直後、徳川家康は信繁を寝返らせようと調略を試みている(「金沢本多家所蔵文書」)。したがって、信繁が真田丸の戦いで関東方を大いに打ち破ったことは確実だが、『大坂物語』は控えめな描写に留めている。
 天王寺口の戦いは、真田信繁が徳川家康をあと一歩のところまで追いつめた戦いとして知られる。この事実は同時代史料からも裏付けられる。薩摩藩主の島津家久と思われる人物が大坂落城後に国元に送った書状によると、信繁は家康の本陣に三度突撃したという。同書状は「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」と信繁の勇戦を讃えている(「島津家文書」)。また「イエズス会日本年報』によれば、家康は戦死を覚悟して切腹しようとしたという。 家康に仕えた老臣大久保忠教(彦左衛門)が著した『三河物語』(二四七頁を参照)でさえ、一時は家康本陣が崩壊して、家康を守る騎馬武者が小栗忠左衛門尉(久次)一人になったことを認めている。

ところで本書では全く触れられていないのだが、大坂城の水の守りはどうだったんだろう。


【徳川家康】
本書がとりあげる武将の最後が徳川家康である。というか戦国を完全に終わらせたのが家康だから、これ以降は戦国武将という言い方はできなくなるわけだ。

本書の書評の冒頭で、家康の言葉とされる「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」が、実は、明治になってから偽造されたものであることを書いた。
これが家康の言葉と信じられたのは、家康が苦労人であり我慢の人であるというイメージが先行していて、いかにも家康なら言いそうだということがあったのだろう。

まったく身に覚えがないのに、あいつならやりそうだという話はちょくちょくある。私もそういう「被害」にあったことがある。

ではこの苦労人イメージはどこから来たのか。それは江戸時代にまとめられた家康の伝記類が、神君とまつりあげるとともに、本当は世話になった今川を裏切ったことをそう書くわけにはいかなかったからだろうということになる。本書では次のように推定している。
 徳川家康の以上の行動は、客観的に見れば、「恩を仇で返す」ものに他ならない。そこで「家康主従は今川氏から抑圧されていた」という話を創造し、裏切りを正当化したと考えられる。
実際、家康は他の人質たちとは異なり今川の本拠駿府城で比較的自由にふるまえたこと、当主今川義元の姪を妻として与えられたことなどは、人質というよりも客分待遇とでもいうべきかもしれない。もちろん今川の西の守りである松平をつなぎとめるという本来の人質の意味がなかったわけではないだろうが、だからこそ大事にされたのではないだろうか。

こうした家康イメージを広めた最大の小説が、山岡荘八「徳川家康」であろうとする。
 要するに、徳川家康の実像を追究しようというのではなく、山岡の理想を家康に投影したわけである。したがって、歴史上に実在した徳川家康と、山岡が描いた徳川家康は別物である。ただし、時代劇研究家の春日太一氏の教示によると、山岡自身、執筆を続けているうちに両者の区別がつかなくなったようで、後は家康に心酔していたという。  山岡自身の解説によれば、織田をソ連に、今川をアメリカに、そして徳川を戦後日本に見立てている。米ソ二大国に挟まれながら平和を求める戦後日本の苦難の歩みを、徳川家康を通じて表現したものが、『徳川家康』なのである。同作では、人質時代ので車を処分する様が感動的な筆致で描かれる。
 けれども、徳川家康は世間では「狸親父」として嫌われていたので、連載当初は人気が出ずに苦労したらしい。 山岡は友人や映画会社などから「映画や演劇にタブー(禁制)があるように、小説にもそれがある。太閤記や忠臣蔵ならばきっとうけるが、頼朝や家康では映画化はむろんのこと、ラジオも二の足を踏むだろう」といった忠告を受けたそうだ。当時、大映の製作担当専務取締役を務めていた川口松太郎(四七・一五九頁)からも「豊臣秀吉だったら早速にでも映画化してあげられるのに、どうした徳川家康なんて書くのか」といった趣旨の手紙を受け取ったらしい。
 ところが、昭和三十三年に坂本藤良(経営学入門」(光文社)が話題をさらったことに端を発する経営学ブームの中で、『徳川家康』が「経営者必読の書」「社長さんの虎の巻」として注目を集めるようになった。家臣を何よりも大切にする家康の生き方が戦後に広がった家族主義的な企業経営の理想像とみなされたのだ。企業経営者が尊敬する歴史上の人物を挙げつつ経営理念を語るという、現代ではおなじみの記事が量産されるようになったのは、山岡の『徳川家康』がきっかけである。『徳川家康』の読者層は一般サラリーマン、さらにはOLや主婦にまで広がり、大ベストセラーとなった。

多くの「歴史物」でまことしやかに描かれる家康は、山岡荘八の「徳川家康」から再生産されている可能性は高いだろう。「三国志」と「三国志演義」が全く別物であるのと同様である。

家康の卑怯なイメージを代表するのが、大坂冬の陣の後の大坂城内堀埋め立て事件である。これについても本書では史料から解説している。
 大坂城内堀埋め立ての実相
 大坂城内堀埋め立てについても、学界では通説は否定されつつある。細川忠利・毛利輝元ら関東方として従軍した諸大名は国元宛ての書状で、和睦条件に二の丸・三の丸の破却が入っていると述べている。これに従えば、本丸のみを残して他は全て破却することを、大坂方も同意していたと見るべきだろう。
 加えて、『本光国師日記』(金地院崇伝の日記)や『駿府記』を読む限り、大坂城の堀の埋め立て工事には約一ヶ月を要している。埋め立てが和議の内容に違反していたとしたら、大坂方がその間、手をこまねいていたはずがない。  内堀埋め立てに大坂方が同意するはずがない、と思う読者がいるかもしれない。しかし、それは冬の陣で大坂方が優勢だったという先入観に基づく誤解である。
以前とりあげた「決戦!大坂の陣」(NHK)では、大坂方上層部は承知のうえであった、それは恭順の意を表するものであったとしている。
籠城は援軍が来なければ勝ち目はないという基本中の基本から考えれば当然の結果だろう。

以上、七人の戦国武将の「虚像と実像」を見て来た。
世の中には、というか歴史を語る体裁の書籍やテレビ番組でも、〇〇(武将)はこういう性格で、とか、こういう言葉を残している、などと講釈を垂れてくださる方は結構多いと思う。
だが、まことしやかに語られるそれらをそのまま信じるのは、天真爛漫に過ぎるようだ。

さて、今日から今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まる。
「鎌倉殿の13人」の最終回冒頭、「吾妻鏡」を読む家康が出ていたが、寝そべって手に持って読んでいた。普通の時代劇であれば書見台に置いてうやうやしく読むところだと思う。
さて、どんな家康になるのやら。
松本潤では「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」は似合わないように思うけど。

関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

六二郎。六二郎。

ついに完全退職
貧乏年金生活です
検索フォーム

 記事一覧

Gallery
記事リスト
最新の記事
最新コメント
カテゴリ
タグ

書評 アルキビアデス マイナンバー 飲食 ITガジェット Audio/Visual 

リンク
アーカイブ
現在の閲覧者数
聞いたもん