「戦国武将 虚像と実像」
呉座勇一「戦国武将 虚像と実像」について。
まず本書から、代表例を紹介しよう。
ドラマなどではよく家康の代表的な言葉として紹介されていて、私もこれは家康の遺訓だと信じていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
偽作だったとしても、家康の生涯を見事に言い表しているから家康遺訓と信じられたわけで、それで良いではないか、という人がいるかもしれないが、実際にそういう生涯だったと信じる根拠はあるのだろうか。
家康遺訓は明治という比較的新しい時代に作られたわけだが、本書によると、武将の言行として知られるものの多くは、一次史料で確認できない。それが伝えられた(作られた)時代を反映した創作であることが多いという。
そうした言行から英雄像を作り上げて崇拝、あるいは親近感を持つ人間には、本書は実に冷たく感じられることだろう。大衆的歴史観―武将像が次々に否定される。
日本社会の未来を描くかどうかはともかく、本書によると、その武将の同時代ぐらいであっても、武将を顕彰あるいは誹謗することを目的として「盛った」話や流言が作られる。パターンとしては徳川が豊臣を貶め、家康様は偉かったとするものである。歴史は勝者が書くというもの。
後世の創作というのは、ずっと時代が下ってからの再評価ということになるのだが、江戸期には徳川を貶めるようなことはご法度である。ただ幕府は気に入らなくても秀吉人気はあったので、秀吉を偉いとすることを他の武将に仮託して芝居などにしたようだ。だが、秀吉についての一次史料が民衆の手に入ったはずはなく、随分と作られた話が多いのだろう。
この江戸時代に作られた話というのが、どうやら現代でも伝えられる「現行録」の中核にあるらしい。
そして時代の空気に合わせた咄が選ばれ、盛られるのだが、明治期には徳川への遠慮がなくなったことで、秀吉が顕彰される。さらに昭和の帝国主義日本の時代には、秀吉の朝鮮侵攻も壮挙と評価されることになる。
それが戦争に負けて一転、朝鮮侵攻は耄碌して常軌を逸した秀吉の愚挙とされ、当時の武将はみんなが本心では反対だったという話になる。
このように評価は二転三転する。
であるけれど、武将の毀誉褒貶は時代に合わせて「作られる」というほど割り切って考えられるものではないという。終章には次のようにある。
「今は三成さんは大悪人みたいに言われてるけど、本当はそんな人やなかったようですわ」と陰で語り継ぐ人たちがいたのかもしれない。
さらにややこしくしてくれるのが、そういう話を拾い集めて、独自の解釈による小説に仕立てる、そしてそれが人気を博して、「真説」であるかのように受け入れられる。まさに大衆歴史観の誕生となる。
今日のところは、個々の武将の評価は措いて、本書の執筆スタンスについてにとどめることにする。
まず本書から、代表例を紹介しよう。
徳川家康の名言として人口に膾炙しているものに、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」がある。これは、実は家康の言葉ではない。旧幕臣の池田松之介が、水戸光圀の遺訓と伝わる『人のいましめ』を元に偽造したものだという。これを高橋泥舟らが日光東照宮など、各地の東照宮に収めたことで有名になったらしい。
とある。そうだったのかとネットを検索すると、この「家康遺訓」は明治になってから、池田松之助が花押も含め家康自筆文書を偽造したもので、これを広めた高橋泥舟(山岡鉄舟の義兄)は偽物としってたのかどうかはわからない。ドラマなどではよく家康の代表的な言葉として紹介されていて、私もこれは家康の遺訓だと信じていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
偽作だったとしても、家康の生涯を見事に言い表しているから家康遺訓と信じられたわけで、それで良いではないか、という人がいるかもしれないが、実際にそういう生涯だったと信じる根拠はあるのだろうか。
はじめに | ||
第一章 明智光秀―常識人だったのか? | ||
第一節 近世の明智光秀像 | ||
同時代人の明智光秀像/怨恨説の登場/〈光秀=常識人・教養人〉像の形成/「逆臣」という非難/悪人から「正義の人」へ | ||
第二節 近代の明智光秀像 | ||
儒教的主従観念の相対化/山路愛山の野望説/徳富蘇峰の突発的犯行説 | ||
第三節 戦後の明智光秀像 | ||
〈光秀=改革者〉像の出現/司馬遼太郎による〝先祖返り〟/光秀は比叡山焼き討ちを諌めたか | ||
第二章 斎藤道三―「美濃のマムシ」は本当か? | ||
第一節 近世の斎藤道三像 | ||
江戸前期には油売り伝説は見えず/油売り伝説の登場/斎藤道三・義龍親子の不和/深芳野伝説の形成/信長・光秀との絆はあったか/近世における道三の評価 | ||
第二節 戦前・戦後の斎藤道三像 | ||
依然として「悪党」イメージ/直木三十五『斎藤道三殺生伝』/信長とは正反対/「マムシの道三」の誕生/司馬遼太郎『国盗り物語』の道三像 | ||
第三節 斎藤道三の実像 | ||
親子二代の国盗り/斎藤義龍の実父は土岐頼芸か/道三は先進的な大名だったのか | ||
第三章 織田信長―革命児だったのか? | ||
第一節 近世の織田信長像 | ||
儒学者に批判された織田信長/「徳川史観」による信長批判/「勤王家信長」という評価 | ||
第二節 近代の織田信長像 | ||
明治時代も豊臣秀吉の方が人気者/山路愛山による信長評/徳富蘇峰の「経世的勤王家」論/信長の「平民主義」と「帝国主義」/信長は革新者にして勤王家/戦時下の織田信長像 | ||
第三節 戦後の織田信長像 | ||
「勤王家」像からの脱却/「合理主義者」像の萌芽/「革命家」像の定着/織田信長は本当に革新者か/実は将軍・天皇を重んじた織田信長 | ||
第四章 豊臣秀吉―人たらしだったのか? | ||
第一節 近世の豊臣秀吉像 | ||
江戸時代の庶民のヒーロー/「徳川史観」による秀吉批判/朝鮮出兵否定論/朝鮮出兵肯定論/「勤王家」秀吉像の形成/幕末の攘夷論と秀吉絶賛 | ||
第二節 明治・大正期の豊臣秀吉像 | ||
維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心/日清戦争・日露戦争の影響/山路愛山による朝鮮出兵の評価/徳富蘇峰の秀吉論 | ||
第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像 | ||
矢田挿雲の『太閤記』/「読売新聞」による秀吉顕彰/吉川英治の『太閤記』/戦後の秀吉小説/秀吉は人たらしだったのか? | ||
第五章 石田三成―君側の奸だったのか? | ||
第一節 近世の石田三成像 | ||
江戸時代は「奸臣」イメージ/「奸臣」イメージの確立/「奸臣」イメージの肥大化/三成に好意的な逸話も/石田三成「忠臣」論の登場/石田三成 「好敵手」 論 | ||
第二節 明治・大正期の石田三成像 | ||
「徳川史観」からの脱却/渡辺世祐と山路愛山の石田三成論/三上参次と福本日南の石田三成論/大森金五郎の挙兵正当論/リアリスト徳富蘇峰の「野望説」 | ||
第三節 戦前・戦後の石田三成像 | ||
戦前の歴史小説における石田三成/戦時下の石田三成顕彰/司馬遼太郎の『関ヶ原』/石田三成の意外な側面 | ||
第六章 真田信繁―名軍師だったのか? | ||
第一節 近世の真田信繁像 | ||
江戸初期は有名ではなかった!/「徳川史観」における真田信繁/真田信繁伝説の形成/「真田幸村」の誕生/真田幸村の超人化/真田十勇士と幸村生存説/「徳川史観」における真田幸村/民間で広がる幸村人気 | ||
第二節 明治・大正期の真田信繁像 | ||
明治期の真田幸村/『名将言行録』と『通俗日本全史』/福本日南の真田幸村論/立川文庫と真田十勇士 | ||
第三節 戦前・戦後の真田信繁像 | ||
戦時下の真田幸村/戦後の娯楽作品における真田幸村/池波正太郎の『真田太平記』/真田信繁は軍師だったのか? | ||
第七章 徳川家康―狸親父だったのか? | ||
第一節 近世の徳川家康像 | ||
人質時代の苦労は本当か/「信康事件」の真相/方広寺鐘銘事件はどう描かれたか/大坂城の内堀の埋め立ては良策? | ||
第二節 明治・大正期の徳川家康像 | ||
明治期の徳川家康評/中村孝也の家康擁護/山路愛山の家康擁護/大森金五郎の家康評/徳富蘇峰の家康批判 | ||
第三節 戦後の徳川家康像 | ||
太平洋戦争と大坂の陣/山岡荘八による家康像の転換/方広寺鐘銘事件の真実/大坂城内堀埋め立ての実相 | ||
終 章 大衆的歴史観の変遷 | ||
「革命児信長」像は戦前からある/司馬遼太郎によって作られた伝説/時代に翻弄された英雄像/江戸時代の人物像の複雑さ/歴史を教訓にすることの危険性 | ||
あとがき |
ホトトギスの歌で言われるように、家康はじっくり時機を待ったというが、本当は気は短かったと推定されるということも何かの本に書いてあったと思う。
家康遺訓は明治という比較的新しい時代に作られたわけだが、本書によると、武将の言行として知られるものの多くは、一次史料で確認できない。それが伝えられた(作られた)時代を反映した創作であることが多いという。
そうした言行から英雄像を作り上げて崇拝、あるいは親近感を持つ人間には、本書は実に冷たく感じられることだろう。大衆的歴史観―武将像が次々に否定される。
そこで本書では、信長像や秀吉像が時代によってどう変遷したかということと、実際はどういう人だったのかということを述べたい。それによって、時代ごとの価値観も浮かび上がってくるだろう。
要するに、「大衆的歴史観」の変遷を追うことは、日本人の価値観、日本人の自己認識、さらに言えば日本人の理想化された)自画像の変遷を明らかにすることなのだ。それを知らずして、日本社会の未来を描くことはできないだろう。
要するに、「大衆的歴史観」の変遷を追うことは、日本人の価値観、日本人の自己認識、さらに言えば日本人の理想化された)自画像の変遷を明らかにすることなのだ。それを知らずして、日本社会の未来を描くことはできないだろう。
日本社会の未来を描くかどうかはともかく、本書によると、その武将の同時代ぐらいであっても、武将を顕彰あるいは誹謗することを目的として「盛った」話や流言が作られる。パターンとしては徳川が豊臣を貶め、家康様は偉かったとするものである。歴史は勝者が書くというもの。
後世の創作というのは、ずっと時代が下ってからの再評価ということになるのだが、江戸期には徳川を貶めるようなことはご法度である。ただ幕府は気に入らなくても秀吉人気はあったので、秀吉を偉いとすることを他の武将に仮託して芝居などにしたようだ。だが、秀吉についての一次史料が民衆の手に入ったはずはなく、随分と作られた話が多いのだろう。
この江戸時代に作られた話というのが、どうやら現代でも伝えられる「現行録」の中核にあるらしい。
そして時代の空気に合わせた咄が選ばれ、盛られるのだが、明治期には徳川への遠慮がなくなったことで、秀吉が顕彰される。さらに昭和の帝国主義日本の時代には、秀吉の朝鮮侵攻も壮挙と評価されることになる。
それが戦争に負けて一転、朝鮮侵攻は耄碌して常軌を逸した秀吉の愚挙とされ、当時の武将はみんなが本心では反対だったという話になる。
実際は勝つと思ったから朝鮮侵攻に加わったはず。
このように評価は二転三転する。
であるけれど、武将の毀誉褒貶は時代に合わせて「作られる」というほど割り切って考えられるものではないという。終章には次のようにある。
近代に入ると、明智光秀や石田三成を再評価する気運が生まれた。再評価論者は、光秀や光成は江戸時代に不当に貶められたと主張した。けれども彼らが再評価のために用いた逸話は、ほとんどが江戸時代に作られたものである。このことは、江戸時代から彼らを擁護・評価する声が少なからず存在したという事実を雄弁に物語っている。江戸時代の非難から明治時代の礼賛へと評価が逆転した、というような単純な構図ではないのだ。
「今は三成さんは大悪人みたいに言われてるけど、本当はそんな人やなかったようですわ」と陰で語り継ぐ人たちがいたのかもしれない。
さらにややこしくしてくれるのが、そういう話を拾い集めて、独自の解釈による小説に仕立てる、そしてそれが人気を博して、「真説」であるかのように受け入れられる。まさに大衆歴史観の誕生となる。
あとがき
角川新書で『陰謀の日本中世史』を刊行して以降、陰謀論関係の取材や寄稿依頼が増えた。行きがかり上、井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)や百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)などの「俗流歴史本」の批判も行うようになった。
歴史学者が「俗流歴史本」のファクトチェックを行い、勉強不足、事実誤認、解釈の誤りを指摘することはたやすい。だが、「俗流歴史本」は突然発生したものではなく、その歴史観には淵源がある。そこまで遡行して考察しなければ、「俗流歴史本」批判は薄っぺらな揚げ足取りに終わってしまう恐れがある。井沢氏や百田氏を批判しつつ、私はそのような危惧を抱いていた。
たとえば、井沢元彦氏は「隣国との領土争いに終始する他の戦国大名と異なり、織田信長だけは最初から天下統一をはっきりと見据えていた(だから信長は天才だ)」といった主張をあちこちで展開している。けれども、歴史教科書にはもちろんそんなことは書いていないし、そのように説く歴史学者もほとんどいない。
だからと言って、「これこれこういう史料から、信長が最初から天下統一を目指していたという説は成り立たない」と〝論破〟 しただけでは、あまり意味がないように思うのである。それよりも、井沢説の元ネタは司馬遼太郎であり、さらに起源を遡れば徳富蘇峰であり、信長天才論の背景には帝国日本におけるナショナリズムの高揚が存在した、といった検討こそが求められよう。こうした「大衆的歴史観」の歴史的変遷という長い射程の中で、現下の「俗流歴史本」を捉えようという問題意識が、本書執筆の前提にある。
角川新書で『陰謀の日本中世史』を刊行して以降、陰謀論関係の取材や寄稿依頼が増えた。行きがかり上、井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)や百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)などの「俗流歴史本」の批判も行うようになった。
歴史学者が「俗流歴史本」のファクトチェックを行い、勉強不足、事実誤認、解釈の誤りを指摘することはたやすい。だが、「俗流歴史本」は突然発生したものではなく、その歴史観には淵源がある。そこまで遡行して考察しなければ、「俗流歴史本」批判は薄っぺらな揚げ足取りに終わってしまう恐れがある。井沢氏や百田氏を批判しつつ、私はそのような危惧を抱いていた。
たとえば、井沢元彦氏は「隣国との領土争いに終始する他の戦国大名と異なり、織田信長だけは最初から天下統一をはっきりと見据えていた(だから信長は天才だ)」といった主張をあちこちで展開している。けれども、歴史教科書にはもちろんそんなことは書いていないし、そのように説く歴史学者もほとんどいない。
だからと言って、「これこれこういう史料から、信長が最初から天下統一を目指していたという説は成り立たない」と〝論破〟 しただけでは、あまり意味がないように思うのである。それよりも、井沢説の元ネタは司馬遼太郎であり、さらに起源を遡れば徳富蘇峰であり、信長天才論の背景には帝国日本におけるナショナリズムの高揚が存在した、といった検討こそが求められよう。こうした「大衆的歴史観」の歴史的変遷という長い射程の中で、現下の「俗流歴史本」を捉えようという問題意識が、本書執筆の前提にある。
今日のところは、個々の武将の評価は措いて、本書の執筆スタンスについてにとどめることにする。