「戦国武将 虚像と実像」(その2)

71EZjio0NIL.jpg 呉座勇一「戦国武将 虚像と実像」の2回目。

昨日は本書の執筆スタンスというか執筆意図について書かせてもらったが、本日は本書がとりあげている個々の武将の虚実を追いかける。

【明智光秀】
歴史学で論拠にされるのは、同時代に書かれた史料とされる。しかし当事者と利害関係などがあれば、その記述には当然、偏りがあると考えるべきだろう。曰く、大村由己(『天正記』)は秀吉に、太田牛一(『信長公記』)は信長に近侍していたので、光秀のことを悪し様に言う。フロイスも、キリスト教に好意的だった信長に感謝していたとする。

であるけれど、同時代の興福寺僧侶 多聞院英俊は、信長から恩義を受けたわけではない人だが、光秀を冷酷で恩知らずな策略家とみなしており、彼に同情を示すことはなかったのだという。
本書ではさらに続けて、中世社会において源義経を非難する声がなかったことを考えると、やはり光秀の謀反は同時代人から見て正当化できるものではなかったと考えられる、としている。

はじめに
 
第一章 明智光秀―常識人だったのか?
第一節 近世の明智光秀像
同時代人の明智光秀像/怨恨説の登場/〈光秀=常識人・教養人〉像の形成/「逆臣」という非難/悪人から「正義の人」へ
第二節 近代の明智光秀像
儒教的主従観念の相対化/山路愛山の野望説/徳富蘇峰の突発的犯行説
第三節 戦後の明智光秀像
〈光秀=改革者〉像の出現/司馬遼太郎による〝先祖返り〟/光秀は比叡山焼き討ちを諌めたか
 
第二章 斎藤道三―「美濃のマムシ」は本当か?
第一節 近世の斎藤道三像
江戸前期には油売り伝説は見えず/油売り伝説の登場/斎藤道三・義龍親子の不和/深芳野伝説の形成/信長・光秀との絆はあったか/近世における道三の評価
第二節 戦前・戦後の斎藤道三像
依然として「悪党」イメージ/直木三十五『斎藤道三殺生伝』/信長とは正反対/「マムシの道三」の誕生/司馬遼太郎『国盗り物語』の道三像
第三節 斎藤道三の実像
親子二代の国盗り/斎藤義龍の実父は土岐頼芸か/道三は先進的な大名だったのか
 
第三章 織田信長―革命児だったのか?
第一節 近世の織田信長像
儒学者に批判された織田信長/「徳川史観」による信長批判/「勤王家信長」という評価
第二節 近代の織田信長像
明治時代も豊臣秀吉の方が人気者/山路愛山による信長評/徳富蘇峰の「経世的勤王家」論/信長の「平民主義」と「帝国主義」/信長は革新者にして勤王家/戦時下の織田信長像
第三節 戦後の織田信長像
「勤王家」像からの脱却/「合理主義者」像の萌芽/「革命家」像の定着/織田信長は本当に革新者か/実は将軍・天皇を重んじた織田信長
 
第四章 豊臣秀吉―人たらしだったのか?
第一節 近世の豊臣秀吉像
江戸時代の庶民のヒーロー/「徳川史観」による秀吉批判/朝鮮出兵否定論/朝鮮出兵肯定論/「勤王家」秀吉像の形成/幕末の攘夷論と秀吉絶賛
第二節 明治・大正期の豊臣秀吉像
維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心/日清戦争・日露戦争の影響/山路愛山による朝鮮出兵の評価/徳富蘇峰の秀吉論
第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像
矢田挿雲の『太閤記』/「読売新聞」による秀吉顕彰/吉川英治の『太閤記』/戦後の秀吉小説/秀吉は人たらしだったのか?
 
第五章 石田三成―君側の奸だったのか?
第一節 近世の石田三成像
江戸時代は「奸臣」イメージ/「奸臣」イメージの確立/「奸臣」イメージの肥大化/三成に好意的な逸話も/石田三成「忠臣」論の登場/石田三成 「好敵手」 論
第二節 明治・大正期の石田三成像
「徳川史観」からの脱却/渡辺世祐と山路愛山の石田三成論/三上参次と福本日南の石田三成論/大森金五郎の挙兵正当論/リアリスト徳富蘇峰の「野望説」
第三節 戦前・戦後の石田三成像
戦前の歴史小説における石田三成/戦時下の石田三成顕彰/司馬遼太郎の『関ヶ原』/石田三成の意外な側面
 
第六章 真田信繁―名軍師だったのか?
第一節 近世の真田信繁像
江戸初期は有名ではなかった!/「徳川史観」における真田信繁/真田信繁伝説の形成/「真田幸村」の誕生/真田幸村の超人化/真田十勇士と幸村生存説/「徳川史観」における真田幸村/民間で広がる幸村人気
第二節 明治・大正期の真田信繁像
明治期の真田幸村/『名将言行録』と『通俗日本全史』/福本日南の真田幸村論/立川文庫と真田十勇士
第三節 戦前・戦後の真田信繁像
戦時下の真田幸村/戦後の娯楽作品における真田幸村/池波正太郎の『真田太平記』/真田信繁は軍師だったのか?
 
第七章 徳川家康―狸親父だったのか?
第一節 近世の徳川家康像
人質時代の苦労は本当か/「信康事件」の真相/方広寺鐘銘事件はどう描かれたか/大坂城の内堀の埋め立ては良策?
第二節 明治・大正期の徳川家康像
明治期の徳川家康評/中村孝也の家康擁護/山路愛山の家康擁護/大森金五郎の家康評/徳富蘇峰の家康批判
第三節 戦後の徳川家康像
太平洋戦争と大坂の陣/山岡荘八による家康像の転換/方広寺鐘銘事件の真実/大坂城内堀埋め立ての実相
終 章 大衆的歴史観の変遷
「革命児信長」像は戦前からある/司馬遼太郎によって作られた伝説/時代に翻弄された英雄像/江戸時代の人物像の複雑さ/歴史を教訓にすることの危険性
 
あとがき
 怨恨説の登場
 ところが江戸時代になると、実は光秀は横暴な信長に翻弄された気の毒な人だったという話がだんだん出てくる。怨恨説の嚆矢は寛永三年(一六二六)に成立した小瀬甫庵の『太閤記』(以下、『甫庵太閤記』と略す)、『甫庵太閤記』より数年早く成立したとされる川角三郎右衛門の『川角太閤記』あたりだろう。『甫庵太閤記』は、光秀が徳川家康の饗応を信長に命じられて、食事などの準備を念入りに行ったのに、信長から急遽毛利攻めを指示されて無駄になったため恨んだと記す。ただ、これは〝いじめ〟という程の仕打ちではないだろう。
そして本書では、こういう〝いじめ〟は同時代史料では確認できないとする。
怨恨が積もり積もって、暴虐な信長をやっとの思いで弑逆するカタルシスと悲劇性が受けて、そうあってほしいになったのではないだろうか。


【斎藤道三】
道三について一番意外だったのは「マムシ」といわれたというのは、少なくとも同時代には確認できないということ。
 近年、歴史学者の木下聡氏が指摘したように、斎藤道三を「マムシ」と呼んだ初の文学作品は、坂口安吾の『信長』と思われる。江戸時代の史料には見えない表現なので、安吾の創作だろう。連載に先がけて安吾が発表した「作者のことば」にも、「信長に良い家来は少くないが、良い友達は一人もいない。多少ともカンタン相てらしたらしい友人的存在は斎藤道三と松永弾正という老いたる二匹のマムシであろう。歴史にも類のない悪逆無道の悪党とよばれた二人が揃って彼のともかく親友的存在の全部。むろんマムシの友情だから、だましたり裏切ったり、奇々怪々な友情だが、ともかく友情の血は通っていた」と記されている。

また安吾は道三と信長が親密であったように書くのだが、戦前は信長は天皇を尊重する正義の人とされていたから、大悪党の道三と仲が良かったとは書けなかった。戦後の信長像の転換でこういう話が作れるようになったとする。

道三は義龍と戦って敗死するわけだが、これをめぐっては義龍の本当の父は土岐頼芸という説が広く語られている。しかし本書では、義龍の名前の変遷を追いかけて、道三が実父でなければこの改名はないだろう、あるいは、土岐の血筋なら違う名乗りになっただろうと、複数の史料をひいて否定している。
また、六角承禎は「これまで土岐頼芸を保護してきた六角氏としては頼芸の美濃帰国に尽力すべきであり、斎藤義龍との同盟などあり得ない」と述べ、義龍を「親の頸を取り候」と非難するなど、頼芸の息子とは全く考えていないという。
義龍頼芸子説は「父(土岐頼芸)の仇(道三)を討つ」というわかりやすさが受け入れられたのか。

なお、現在は、道三の美濃取りは、親子二代の仕事という説が有力である。本書もそれに従っている。


【織田信長】
若い頃、友人に好きな武将は誰かと訊かれて「織田信長」と答えたことがある。ちょっと狂気じみた天才肌で実際いろんな改革も行ったというイメージを持っていたからだと思う。

こうしたイメージは私の場合、やはりNHK大河ドラマの影響が大きいと思う。

本書では司馬遼太郎の影響を特に重視するのだが、私は「国盗り物語」は読んでいない。戦国武将のイメージの多くはこの司馬作品にある。司馬が拾い出したものか創作したものかということはあるが。

本書によると信長のイメージというのは随分と時代によって揺れ動いたようだ。それ以前に影が薄い・濃いも時代による。
思えば信長遺跡というのはあまり残っていない。もちろん安土城跡とかはあるわけだが、たいていが「掘り出された」もの。秀吉の大坂城(今あるのは徳川大坂城だとしても)や京都の御土居、家康の江戸城のような、今に続くもので信長が作ったといわれるものは少ないように思う。

本書によると明治時代に行われたアンケートでは信長はそれほど目立っていないようだ。
 明治時代も豊臣秀吉の方が人気者
 だが、明治時代になっても織田信長の人気は芳しくなかった。明治四十年(一九〇七)、言論雑誌「日本及日本人」四七一号が「余の好める及び好まざる史的人物」という特集を組んだ。一二〇人ほどの有名人に好きな歴史上の人物、嫌いな歴史上の人物を問い、その回答(複数挙げても良い)を掲載したのである。作家の島崎藤村幸田露伴、歌人の佐佐木信綱、日蓮宗の宗教家である田中智学など、錚々たる面々が参加している。
 アンケート調査の結果、一位に輝いたのは二〇票を獲得した豊臣秀吉であった。 二位は楠木正成で一一票。三位は徳川家康で一〇票。では織田信長はと言うと、何と一票である。信長に票を投じたのは基督心宗の創始者である川合信水だが、信水は「英雄としては織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を好む」と、いわゆる三英傑を並べているだけなので、信長に特段の思い入れがあるわけではない。
 信長を嫌いと答えた人物も、一人しかいない。 裁判官の三淵忠彦がイヤに神経質なるを嫌う」と答えている。「悪名は無名に勝る」という言葉があるが、明治期の信長は、悪役的な人気すらなかったのである。

その信長を英雄として有名にしたのが徳富蘇峰だとする。
 徳富蘇峰の「経世的勤王家」論
 豊臣秀吉の陰に隠れがちだった織田信長が大英雄として脚光を浴びるきっかけを作ったのは、徳富蘇峰の『近世日本国民史』である。蘇峰は大正七年(一九一八) 七月、自身が主宰する「国民新聞」に「近世日本国民史』の連載を開始した(三七頁を参照)。『近世日本国民史 織田氏時代 前篇』が同年十二月に、『織田氏時代 中篇」が翌大正八年六月に、『織田氏時代 後篇』が同八年十月に刊行された。
 『近世日本国民史』の序文によれば、徳富蘇峰は明治天皇の崩御をきっかけに『明治天皇御宇史』、すなわち明治時代史の執筆を思い立った。しかし明治時代史を書くには、その前提である幕末史を論じなければならない。そして幕末史を書くには、前提である江戸時代史を知らねばならない。このように歴史を遡っていけば際限がなくなるが、蘇峰は明治維新の精神の淵源は織田・豊臣時代にあると考え、織田信長から書き起こすことにしたという。
 徳富蘇峰は織田信長を「旧社会を打破して、新社会を打出するに、最も適当なる、天の配剤」と絶賛する。信長の何が画期的だったのか。実のところ、蘇峰が語る信長の凄さは、そのほとんどが私たちの信長イメージと合致する。というより、蘇峰の革命児信長像が、現代に至るまで強い影響力を保ち続けたのである。

本書ではこの徳富蘇峰の意図を次のとおりとし、歴史を学ぶ行為の陥穽にも注意を求めている。
 徳富蘇峰の意図は明らかだろう。大日本帝国の大陸進出を肯定するために、江戸幕府の鎖国政策を批判し、帝国主義を無意識のうちに実行した織田信長・豊臣秀吉を持ち上げているのである。織田・豊臣時代と明治・大正時代を重ね合わせて解釈しているにすぎない。「現代を理解するために歴史を学ぶ」という行為は、えてして「自分の政治的主張を正当化するために歴史を利用する」結果に陥るのである。

徳富蘇峰の後、評価は揺れ動きながらも、信長は歴史上、忘れてはならない人物という位置を占めることになったわけだ。

こうして信長は持ち上げられたが、その前に京都を支配していた三好長慶はとるに足りない武将として埋もれてしまったのではないだろうか。


ところで、信長につきまとう独裁者イメージは近年変わりつつあるという。
その代表が足利義昭との関係の見直しのようだ。信長と義昭は最終的には決裂するわけだが、今まではその結果から、信長包囲網の黒幕が義昭であるという見方がされることがあったが、少なくとも朝倉攻めなどの頃は、朝倉・浅井・三好はいずれも義昭にとっても敵であったから、義昭は信長を必要としていたとする。
また義昭挙兵時には信長は和睦を乞うなど低姿勢だった、義昭追放後も和解を試みている、征夷大将軍に就任しなかったのは義昭との関係修復を模索していたからなど、多くのドラマとは全く違う信長像が示されている。


記事が長くなるので、秀吉以降は明日に。

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