上野千鶴子氏の炎上にも一言触れておこう
上野千鶴子氏の文章が炎上している。
意外に思われるかもしれないが、私はわりと保守的な家庭で、「逃げ恥」で言うところの「呪い」をかけられまくって育った。高校は、いわゆる進学校に行ったのだが、それでも母親の呪いはとどまらなかった。
それが、高校生ぐらいのときに、上野千鶴子氏の著作を読んで、かなり衝撃を受けた記憶がある。
(もっとも、母親の呪いはけっこう強力だったので、その時点では、それが人生を変えたほどの影響を受けたというほどのことではなく、実際に私の価値観が決定的に大きく変化するのは、その後の留学生時代のことになるのだが)
とはいえ、上野千鶴子氏にはずっとそれなりの敬意を持っていた。実際にそういう人は多かったはずで、だからこそ、今回、多くの人が「裏切られた感」を持ったのだろう。
私も、その例に漏れなかった。
移民政策に関する氏の見解「移民が増えれば治安も悪化するし反対派も騒ぐ。他の国で失敗してるんだから、日本じゃ一層無理、だからはじめからやめといたほうがいい」という論理は、すでに多くの人がデータをもとに反論されている。
そもそも、
という、氏の提起する選択肢自体が、「カレー味のウ○コを選びますか、それとも、ウ○コ味のカレーを選びますか、それ以外に選択肢はありません」みたいな、わけのわからない二者択一である。
どっちも選ばなけりゃいいだろう。
移民を入れて活力ある社会をつくりつつ、ヨーロッパを参考に、社会的不公正と抑圧と治安悪化が起こらないようなモデルケースを模索していくという選択肢は、頭から無理だと、「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」と断定されるが、日本は、そもそも多文化共生の国である。
古代には、中国や朝鮮、さらにシルクロード渡来の文明文化を受け入れてきた。飛鳥・奈良の時代には、渡来人と言われる「外国人」が政権の中枢近くにすらいた。
日本文化は混交の文化である。
その後、安土桃山時代には南蛮文化を取り入れ、明治維新後は急速なスピードで欧米文化を取り入れた。戦後のアメリカ文化の急速な侵蝕は言わずもがなだ。
日本人は、実は、他国の文化を取り入れることにきわめて長けているのである。
それは「表層的な文化」であって「人間の流入」ではない。話をすり替えている、と言われるかもしれない。しかし私が言っているのは、これだけ「その気になれば、短期間に異文化を取り入れ、独自の形で吸収し、日本化する」ことに長けた日本人であるからこそ、「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」から、移民の増加は、「客観的に無理」「主観的にはツケがおおすぎる」という極めて主観的なご意見は、安易すぎると言っているのだ。
そして、もう一つ。
上野氏は、移民社会は無理だから、選択肢のもう一つ、「このままゆっくり衰退していく」ことを選ぶべきであり、「平和に衰退していく社会のモデルになればいい」「日本の希望はNPOなどの『協』セクターにあると思っています」と言われる。
これまたあんまりな結論だ。
この発想は、まさに、私が、1年半前に批判した平田オリザ氏の「もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。」という認識と同じものである。
これに対して、私は、この論を、熟年の「若いときにやりたいことをやりつくし、おいしいものを一通り味わい、行きたいところに行ってきた。そのうえで、その過去の楽しかった想い出を胸に、これからは、生物学的にも抗いようがなく衰えてゆく肉体の殻に閉じ込められているがゆえに、健康に留意し、食事制限をし、貯めてきた貯蓄を取り崩して、静かな余生を送ればいいという感覚に近いもの」と見た。
http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-738.html
改めて言う。中高年世代はそれでよくても、若い世代にしてみれば、それはないだろう。
上野氏は、日本で最もたくさんの官僚を生み出している最高学府の教職に在った方として、学生に対して、「あなたたちはいくら努力したって、しょせん大したことはできるわけない、どうせ無理に決まっているんだからほどほどに」と教えてこられたのだろうか。
ご自分は、時代の論客・寵児として持て囃され、社会的地位も得、バブルの時代も体験され、高額の給与に加えての十分すぎる年金もあるから、定年後も豊かな一生を保証されていらっしゃる。それで、主観的に「清貧に過ごされる」のは、結構なことだが、そういう隠遁生活の優雅な美学みたいなものに、これから長い人生を生き抜いていかなくてはならない若い者すべてを巻き込まないでいただきたいのだ。
そもそも、「国民負担率を増やし、再分配機能を強化する」ためには、国家レベルでの税制を中心とした政策の根本的な転換が必要なのだが、それをどこが担うのか。
その挙句に「日本には本当の社会民主政党がない」とおっしゃるが、それを作ってこられなかったのはあなた達の世代の責任でもある。
そのうえで、NPOに希望があるって、どういう論理なのか? NPOが法律や税制を変えられるというのだろうか? NPOが募金や啓蒙活動したら、1%の富裕層が感銘を受けて、ほいほい資産の大半を供出してくれるというのなら、一体、世界のどこにそんな例があったのか、エビデンスを出していただきたいものである。
刑訴法改悪で、盗聴や司法取引が可能になることで、警察や検察がさらに暴走しうることを真摯に危惧していることに対し、新刑訴法推進派の江川紹子さんが、「監視については、八木さんのような方の力が必要」とぬけぬけとおっしゃったのと同じ無責任さを感じてしまう。
本当に日本の将来を憂えているのであれば、さっさと自分だけ戦線離脱して、上から目線で、大変で厄介なことは、誰か(もちろん自分以外の)が個人レベルで頑張ればいいんじゃないの、みたいな態度をとることはできないはずだ。
今の日本の問題は、移民問題云々以前にたくさんある。平均賃金や雇用の可能性だけを見ても、男女平等には程遠い。雇用は改善しているというが、増えているのは派遣であって、子育てで離職したら、再就職しようにもパートしかないのが日本の現実だ。20代、30代の死亡者の圧倒的一位は、自殺である。
司法は中世レベル(でしかも改悪されている)し、あれだけの原発事故の後始末もできていない。これみな、あなた方の世代のツケである。
そもそも、日本は「美しく老いて」いるような状況ではないのだ。
しかし、これからの子どもたちには、未来がある。生まれたときからスマホがある世代の子供たちには、私達の世代では思いつかない、新しい発想、新しい価値観を生み出す可能性がある。
さらに言う。日本では「清貧な方」のように紹介されているウルグアイのムヒカ大統領だが、彼が立派なのは、単に個人の好みのスタイルとしての「清貧」を国民に押し付けているからではない。彼は実際に俸給の大部分を寄付していたから、「世界一貧しい大統領」と呼ばれたのだ。
そして、彼の所属する拡大戦線での公約として、ウルグアイでは、小学校の子供全てに一人一台のパソコンが無償供与されていることを強調しておく。その理由は、これからの世界を、IT技術なしに語ることはできないという現実を見据えた上で、現在の、そしてこれからの子供たちが、生まれた家庭の経済状況のために、将来の可能性を削られることがないようにだ。
決して豊かな国ではないウルグアイでも、それぐらいのことは、やろうと思えばできるのだ。
なればこそ、今の日本がいろいろとアレな分、現実から目を背けずに、最後の最後まで、次の世代のために、見苦しく戦ってみせる、ぐらいの気概を見せていただきたかった。そうであってこその上野千鶴子であった、と思う。もう遅いけど。
意外に思われるかもしれないが、私はわりと保守的な家庭で、「逃げ恥」で言うところの「呪い」をかけられまくって育った。高校は、いわゆる進学校に行ったのだが、それでも母親の呪いはとどまらなかった。
それが、高校生ぐらいのときに、上野千鶴子氏の著作を読んで、かなり衝撃を受けた記憶がある。
(もっとも、母親の呪いはけっこう強力だったので、その時点では、それが人生を変えたほどの影響を受けたというほどのことではなく、実際に私の価値観が決定的に大きく変化するのは、その後の留学生時代のことになるのだが)
とはいえ、上野千鶴子氏にはずっとそれなりの敬意を持っていた。実際にそういう人は多かったはずで、だからこそ、今回、多くの人が「裏切られた感」を持ったのだろう。
私も、その例に漏れなかった。
移民政策に関する氏の見解「移民が増えれば治安も悪化するし反対派も騒ぐ。他の国で失敗してるんだから、日本じゃ一層無理、だからはじめからやめといたほうがいい」という論理は、すでに多くの人がデータをもとに反論されている。
そもそも、
日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
という、氏の提起する選択肢自体が、「カレー味のウ○コを選びますか、それとも、ウ○コ味のカレーを選びますか、それ以外に選択肢はありません」みたいな、わけのわからない二者択一である。
どっちも選ばなけりゃいいだろう。
移民を入れて活力ある社会をつくりつつ、ヨーロッパを参考に、社会的不公正と抑圧と治安悪化が起こらないようなモデルケースを模索していくという選択肢は、頭から無理だと、「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」と断定されるが、日本は、そもそも多文化共生の国である。
古代には、中国や朝鮮、さらにシルクロード渡来の文明文化を受け入れてきた。飛鳥・奈良の時代には、渡来人と言われる「外国人」が政権の中枢近くにすらいた。
日本文化は混交の文化である。
その後、安土桃山時代には南蛮文化を取り入れ、明治維新後は急速なスピードで欧米文化を取り入れた。戦後のアメリカ文化の急速な侵蝕は言わずもがなだ。
日本人は、実は、他国の文化を取り入れることにきわめて長けているのである。
それは「表層的な文化」であって「人間の流入」ではない。話をすり替えている、と言われるかもしれない。しかし私が言っているのは、これだけ「その気になれば、短期間に異文化を取り入れ、独自の形で吸収し、日本化する」ことに長けた日本人であるからこそ、「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」から、移民の増加は、「客観的に無理」「主観的にはツケがおおすぎる」という極めて主観的なご意見は、安易すぎると言っているのだ。
そして、もう一つ。
上野氏は、移民社会は無理だから、選択肢のもう一つ、「このままゆっくり衰退していく」ことを選ぶべきであり、「平和に衰退していく社会のモデルになればいい」「日本の希望はNPOなどの『協』セクターにあると思っています」と言われる。
これまたあんまりな結論だ。
この発想は、まさに、私が、1年半前に批判した平田オリザ氏の「もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。」という認識と同じものである。
これに対して、私は、この論を、熟年の「若いときにやりたいことをやりつくし、おいしいものを一通り味わい、行きたいところに行ってきた。そのうえで、その過去の楽しかった想い出を胸に、これからは、生物学的にも抗いようがなく衰えてゆく肉体の殻に閉じ込められているがゆえに、健康に留意し、食事制限をし、貯めてきた貯蓄を取り崩して、静かな余生を送ればいいという感覚に近いもの」と見た。
http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-738.html
改めて言う。中高年世代はそれでよくても、若い世代にしてみれば、それはないだろう。
上野氏は、日本で最もたくさんの官僚を生み出している最高学府の教職に在った方として、学生に対して、「あなたたちはいくら努力したって、しょせん大したことはできるわけない、どうせ無理に決まっているんだからほどほどに」と教えてこられたのだろうか。
ご自分は、時代の論客・寵児として持て囃され、社会的地位も得、バブルの時代も体験され、高額の給与に加えての十分すぎる年金もあるから、定年後も豊かな一生を保証されていらっしゃる。それで、主観的に「清貧に過ごされる」のは、結構なことだが、そういう隠遁生活の優雅な美学みたいなものに、これから長い人生を生き抜いていかなくてはならない若い者すべてを巻き込まないでいただきたいのだ。
そもそも、「国民負担率を増やし、再分配機能を強化する」ためには、国家レベルでの税制を中心とした政策の根本的な転換が必要なのだが、それをどこが担うのか。
その挙句に「日本には本当の社会民主政党がない」とおっしゃるが、それを作ってこられなかったのはあなた達の世代の責任でもある。
そのうえで、NPOに希望があるって、どういう論理なのか? NPOが法律や税制を変えられるというのだろうか? NPOが募金や啓蒙活動したら、1%の富裕層が感銘を受けて、ほいほい資産の大半を供出してくれるというのなら、一体、世界のどこにそんな例があったのか、エビデンスを出していただきたいものである。
刑訴法改悪で、盗聴や司法取引が可能になることで、警察や検察がさらに暴走しうることを真摯に危惧していることに対し、新刑訴法推進派の江川紹子さんが、「監視については、八木さんのような方の力が必要」とぬけぬけとおっしゃったのと同じ無責任さを感じてしまう。
本当に日本の将来を憂えているのであれば、さっさと自分だけ戦線離脱して、上から目線で、大変で厄介なことは、誰か(もちろん自分以外の)が個人レベルで頑張ればいいんじゃないの、みたいな態度をとることはできないはずだ。
今の日本の問題は、移民問題云々以前にたくさんある。平均賃金や雇用の可能性だけを見ても、男女平等には程遠い。雇用は改善しているというが、増えているのは派遣であって、子育てで離職したら、再就職しようにもパートしかないのが日本の現実だ。20代、30代の死亡者の圧倒的一位は、自殺である。
司法は中世レベル(でしかも改悪されている)し、あれだけの原発事故の後始末もできていない。これみな、あなた方の世代のツケである。
そもそも、日本は「美しく老いて」いるような状況ではないのだ。
しかし、これからの子どもたちには、未来がある。生まれたときからスマホがある世代の子供たちには、私達の世代では思いつかない、新しい発想、新しい価値観を生み出す可能性がある。
さらに言う。日本では「清貧な方」のように紹介されているウルグアイのムヒカ大統領だが、彼が立派なのは、単に個人の好みのスタイルとしての「清貧」を国民に押し付けているからではない。彼は実際に俸給の大部分を寄付していたから、「世界一貧しい大統領」と呼ばれたのだ。
そして、彼の所属する拡大戦線での公約として、ウルグアイでは、小学校の子供全てに一人一台のパソコンが無償供与されていることを強調しておく。その理由は、これからの世界を、IT技術なしに語ることはできないという現実を見据えた上で、現在の、そしてこれからの子供たちが、生まれた家庭の経済状況のために、将来の可能性を削られることがないようにだ。
決して豊かな国ではないウルグアイでも、それぐらいのことは、やろうと思えばできるのだ。
なればこそ、今の日本がいろいろとアレな分、現実から目を背けずに、最後の最後まで、次の世代のために、見苦しく戦ってみせる、ぐらいの気概を見せていただきたかった。そうであってこその上野千鶴子であった、と思う。もう遅いけど。