(2)旧浅香宮邸・都立庭園美術館よ、もう一度。
- 2020/12/30
- 08:19
東京都庭園美術館を再訪。「建築をみる2020 東京モダン生活 東京都コレクション1930年代」。浅香宮邸が生まれた時代、モダンライフは始まった——。
東京都庭園美術館は、1933年に浅香宮家の邸宅として建てられた建物を解放し、美術館になっている。
“アール・デコの館”とも言われる朝香宮邸(現在の都立庭園美術館)は、邸宅の設計にフランス人装飾美術家のアンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ガラス工芸家のルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコを積極的に取り入れている。
朝香宮は、久邇宮朝彦親王第8王子・鳩彦王(やすひこおう)が、1906年に明治天皇から宮号を賜って創設した宮家だ。
鳩彦王は、1910年に明治天皇の第8皇女・允子内親王(のぶこないしんのう)と結婚し、2年半余りのパリ生活を経て、この邸宅を建築した。
1923年にフランス北部ベレネー近郊で、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が事故を起こし、同乗していた鳩彦王は重傷を負う。成久王は死亡。
怪我の療養のため、フランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。
特に看病のため、渡仏した宮妃と共に1925年のアール・デコ博を観覧し、同様式に対して、強い関心と理解を示した。
1947年にGHQの指令により、皇籍を離脱し、同年、浅香宮家の方々は邸宅を離れた。
熱海に移り、余生は趣味のゴルフ三昧の日々を送った。東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁にも就任した。
東京ゴルフ倶楽部が東京駒沢から埼玉県膝折村に移転された際には、膝折村が浅香宮にちなんで、朝霞町(現在の朝霞市)と改名されたことは有名だ。93歳で逝去。
今回の展覧会は、1933年に竣工された浅香宮邸(現・東京都庭園美術館)の魅力を紹介するもの。年に一度、カーテンが開け放たれ、建物内部が公開される貴重なチャンスだ。
1930年代の東京は、関東大震災によって、江戸・明治の面影を失いながらも、「帝都復興」のかけ声とともに近代都市として、新しいスタートを切った。街には、ガラスや鉄筋コンクリートの近代的な建物が並んだ。
地下鉄も走り、着物を脱ぎ捨てたモガ・モボたちが闊歩した。やがて、戦争の惨禍にさらされるまでのわずかな間、東京は日本の都市文化の中心地として花開いた。
ルネ・ラリックの手によるガラス装飾。玄関を入ると、すぐに対面することができる。
初めは、ルネ・ラリックにより、裸婦像を提案されたが、宮内省内匠寮(たくみりょう)は、着衣にするようにと指示した。
玄関のタイル張りの床。宮内省内匠寮が制作した。
大客室へと続く部屋。巨大なオブジェが美しい。
今回の展覧会のポスターにも載っている大客室。前回訪れたときには、見るのを忘れた。この部屋が見たくて訪れたのに、あいかわらずドジですな(笑)。
写真を撮るために人がいなくなるのをじっと待ってたんだけど、最後までお兄さんがどいてくれなかった。邪魔なんだけどなぁ、お兄さん。
来客用に使用された部屋ということで、ルネ・ラリックの照明器具(パイナップルとザクロ)やエッチング・ガラスの扉などに果物がモチーフにされている。
大客室のソファ。
マックス・アングランが制作したエッチング・ガラスの扉。展覧会では扉が開いていた。
マックス・アングランは、ガラスを素材とした室内装飾を数多く手がけ、ノルマンディー号ほか豪華客船の内装にも携わった。
大食堂のステンドグラスや両開き扉にはめ込まれていた、エッチング・ガラスを手がけている。
大食堂。こんな素敵なところで、ディナーを食べてみたいな。
第一階段。階段の手すりのデザインは、アール・デコの特徴であるジグザクのラインが強調され、照明柱や天井とともに、アール・デコ特有のパターン化された花模様で統一されている。
建物の中央にある第一階段は、一階の客間から二階の家族の居間へと通じる階段である。フランス仕立てのアール・デコの空間から「日本のアール・デコ」の居間へ移行する階段とも言える。
二階広間。二階広間に始まる居住空間は、主に宮内省内匠寮の技師たちによって、デザインされた。
当時の二階広間の写真。
ラジエーターカバーには、日本の伝統模様の青海波(せいがいは)が使われるなど、随所に和の要素が取り入れられている。
浅香宮邸時代には、自動ピアノが置かれ、ご家族のくつろぎの場となっていた。
浅香宮允子妃(あさかのみやのぶこひ)の肖像(洋装)。
東京都庭園美術館は、1933年に浅香宮家の邸宅として建てられた建物を解放し、美術館になっている。
“アール・デコの館”とも言われる朝香宮邸(現在の都立庭園美術館)は、邸宅の設計にフランス人装飾美術家のアンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ガラス工芸家のルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコを積極的に取り入れている。
朝香宮は、久邇宮朝彦親王第8王子・鳩彦王(やすひこおう)が、1906年に明治天皇から宮号を賜って創設した宮家だ。
鳩彦王は、1910年に明治天皇の第8皇女・允子内親王(のぶこないしんのう)と結婚し、2年半余りのパリ生活を経て、この邸宅を建築した。
1923年にフランス北部ベレネー近郊で、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が事故を起こし、同乗していた鳩彦王は重傷を負う。成久王は死亡。
怪我の療養のため、フランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。
特に看病のため、渡仏した宮妃と共に1925年のアール・デコ博を観覧し、同様式に対して、強い関心と理解を示した。
1947年にGHQの指令により、皇籍を離脱し、同年、浅香宮家の方々は邸宅を離れた。
熱海に移り、余生は趣味のゴルフ三昧の日々を送った。東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁にも就任した。
東京ゴルフ倶楽部が東京駒沢から埼玉県膝折村に移転された際には、膝折村が浅香宮にちなんで、朝霞町(現在の朝霞市)と改名されたことは有名だ。93歳で逝去。
今回の展覧会は、1933年に竣工された浅香宮邸(現・東京都庭園美術館)の魅力を紹介するもの。年に一度、カーテンが開け放たれ、建物内部が公開される貴重なチャンスだ。
1930年代の東京は、関東大震災によって、江戸・明治の面影を失いながらも、「帝都復興」のかけ声とともに近代都市として、新しいスタートを切った。街には、ガラスや鉄筋コンクリートの近代的な建物が並んだ。
地下鉄も走り、着物を脱ぎ捨てたモガ・モボたちが闊歩した。やがて、戦争の惨禍にさらされるまでのわずかな間、東京は日本の都市文化の中心地として花開いた。
ルネ・ラリックの手によるガラス装飾。玄関を入ると、すぐに対面することができる。
初めは、ルネ・ラリックにより、裸婦像を提案されたが、宮内省内匠寮(たくみりょう)は、着衣にするようにと指示した。
玄関のタイル張りの床。宮内省内匠寮が制作した。
大客室へと続く部屋。巨大なオブジェが美しい。
今回の展覧会のポスターにも載っている大客室。前回訪れたときには、見るのを忘れた。この部屋が見たくて訪れたのに、あいかわらずドジですな(笑)。
写真を撮るために人がいなくなるのをじっと待ってたんだけど、最後までお兄さんがどいてくれなかった。邪魔なんだけどなぁ、お兄さん。
来客用に使用された部屋ということで、ルネ・ラリックの照明器具(パイナップルとザクロ)やエッチング・ガラスの扉などに果物がモチーフにされている。
大客室のソファ。
マックス・アングランが制作したエッチング・ガラスの扉。展覧会では扉が開いていた。
マックス・アングランは、ガラスを素材とした室内装飾を数多く手がけ、ノルマンディー号ほか豪華客船の内装にも携わった。
大食堂のステンドグラスや両開き扉にはめ込まれていた、エッチング・ガラスを手がけている。
大食堂。こんな素敵なところで、ディナーを食べてみたいな。
第一階段。階段の手すりのデザインは、アール・デコの特徴であるジグザクのラインが強調され、照明柱や天井とともに、アール・デコ特有のパターン化された花模様で統一されている。
建物の中央にある第一階段は、一階の客間から二階の家族の居間へと通じる階段である。フランス仕立てのアール・デコの空間から「日本のアール・デコ」の居間へ移行する階段とも言える。
二階広間。二階広間に始まる居住空間は、主に宮内省内匠寮の技師たちによって、デザインされた。
当時の二階広間の写真。
ラジエーターカバーには、日本の伝統模様の青海波(せいがいは)が使われるなど、随所に和の要素が取り入れられている。
浅香宮邸時代には、自動ピアノが置かれ、ご家族のくつろぎの場となっていた。
浅香宮允子妃(あさかのみやのぶこひ)の肖像(洋装)。