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愚慫空論

『ばっちゃん ~子どもたちが立ち直る居場所~』

NHKスペシャルの番組です。
1月17日に放送されたらしいですが、知りませんでした。
昨日(11月3日)に再放送があったのを観ました。



いつもは、画像をクリックするとリンク先にジャンプするようにするのですが、今回は敢えてしていません。
リンクは記事の末尾に貼っておくことにします。

番組のページある紹介分です。

去年、刑法犯罪で検挙された少年・少女は3万8921人。このうち再犯者の割合は36.4%と18年連続で増え、過去最高を記録した。格差の拡大や深刻化する貧困に伴い、子ども達が過ちを犯すリスクは高まる一方だが、ひとたび道を踏み外せば、ネット上に実名や写真がさらされ集中砲火を浴びるなど、つまずいた子ども達を支え、見守り、立ち直らせる社会の力は、以前にも増して脆弱になっている。こうした中、そんな子ども達に寄り添い、その立ち直りを支えてきた女性が広島にいる。“ばっちゃん”こと、元保護司の中本忠子(チカコ)さん82歳。6年前に保護司を引退した後も、自宅を開放し、親身になって相談にのっている。集まってくるのは、貧しさのあまり家で食事をとれない少年や、母親から虐待され続ける少女など様々。直面する問題は、現代社会が抱えるゆがみやひずみそのものだが、どんな絶望的な状況にある子ども達も、中本さんと触れあううちになぜか立ち直りの機会を見いだしていく。番組では、子ども達が中本さんとの交流を通して人生を取り戻していく過程をドキュメントする。



それにしても、このばっちゃん。
敵わないと思いました。
女性の最終形だと思います。

(誤解はないと思いますが、もちろん良い意味での「最終形」です。)

どれほど深く悟りを得ようとも、「女性の最終形」に男は敵わない。

ばっちゃんの振る舞いは「不忍人之心」以外の何物でもありません。
いちいち理屈をこねる必要もなく、直に「不忍人之心」を発露する。
とてもとても、敵うものではない。

女性の最終形といえば、こちらの映画の方もそうでした。



ただ、ぼくはこの映画には違和感を抱いた
「女性の最終形」には敬意を抱きつつも。

このドキュメンタリーでは、違和感は感じませんでした。
その差はなんなのか―― いえ、ここで展開するのはやめておきましょう。


紹介の画像にリンクを貼らなかった理由を述べておかなければなりません。
それは【教育】になってしまうから、です。

感じることよりも先に〔言葉〕を与えてしまうと【教育】になる。
情報を入力され、〈からだ〉がディープラーニングをして「特徴値」を出力する。
特徴値(シニフィエ)が出力されるのを待って記号(シニフィアン)と結合させる。

〈順接〉で言葉が誕生するときの悦びは、なにものにも換えがたい。

リンク先には、その〔言葉〕が記されてしまっています。
だから、先には貼りません。
貼っておく必要はあると思うので、後に貼る。

もし、ぼくの拙い文章を読んで、このドキュメンタリーを見てみようと思うのなら、リンク先を覗きに行くのは視聴後にした方がいいと思います。


NHKオンデマンドのリンクは、ここに貼っておきます。

  (^o^)っ リンク


余談です。

このごろ疑問に思っていることがあります。
『論語』の冒頭、学而第一について。

 学而時習之 不亦説乎
 有朋自遠方来 不亦楽乎
 人不知而不慍 不亦君子乎


その第一文。

「学びて時に之を習う」

〔言葉〕のシニフィエとシニフィアンを考えたとき、
 「学」とはシニフィアンの取得、
 「習」とはシニフィエの獲得 
であるように思います。

だとすると、「学而時習之」は

 シニフィアン ⇒ シニフィエ

の順番だと考えるのが妥当でしょう。
先にシニフィアンを取得し、追ってシニフィエを満たす。
先に言葉を覚え、後に(愚慫語でいうところの)霊性を獲得する。
そして、そのことを

「友が遠方より訪ねてきたことのように楽しい」

という。

確かに楽しい。
でも、これは〔逆接〕なのではないか? と思います。

〔逆接〕が悪いと言いたいわけではない。
でも、やっぱり シニフィエ ⇒ シニフィアンの〔順接〕よりはハードルが高いように思う。
ハードルが高いからこそ、悦びも大きいと言えるでしょうけれども。
また、ぼくたちが置かれている学習環境からすれば、〔逆接〕がどうしても多くなってしまうということもある。

でも、やはり〔逆接〕を行くには特殊な才能が必要なように思えて仕方がありません――


余談はここまでにして、NHKスペシャル『ばっちゃん ~子どもたちが立ち直る居場所~』 のHP。
リンクはこちら (^o^)っ リンク


なお、続きを書きたいと思っています。
続きのほうは、このドキュメンタリーの「シニフィアン」を知っていることが前提で。

なので、しばらく時間を措くことにします。

コメント

追記コメント

書き忘れていたことを思いだしました。

女性の最終形には敵いません。
人生の充実という意味において。
男はとても適わないと思ってしまいます。

比較できるものではありませんが、たとえば、孫正義さんやスティーブ・ジョブズのような男性とこのばっちゃんの人生の充実度を比較したとしましょう。人生の充実度といったようなものは主観的なものに過ぎませんが、それでも敢えて比較するとすると、ぼくはばっちゃんの方に軍配を上げたいと思う。ほんと、ぼくの主観ですけれど。

こんなことも考えてみます。

たとえばもし、孫正義さんのような人物がばっちゃんの生き方に感銘を受けて、援助を申し出たとしましょう。莫大な財力があるでしょうから、ばっちゃんの活動は、もっと大きなものにすることができる。あるいは、行政の支援でもいい。

でも、そうなったら、ばっちゃんの人生は充実度という尺度においては、下がってしまうような気がします。やむにやまれぬ「不忍人之心」は、確固たる支援を受けてしまうと何か別のものへと変質してしまうような気がする。

その変質がどういったものなのかは、今のぼくには言語化できそうにはありませんけれども。

そんなことを考えてしまうこと自体が「男」って感じですな。 (^_^;)

こんちは。
アキラさんとコメするエントリーが重なってしまいましたが(笑)、偶然です。他意はありません^^;

昨夜、ビデオで「ばっちゃん」を観ました。
偶然、ツレアイが録画していました。
で、今朝エントリーを読みました。
エントリーのタイトルだけみて、自分で観てからエントリーを読む。
最近、こういうパターンが多いです。
「子は親を救うために…」もそうですし、「マル激トーク」もそうです。
どうも、影響されやすい体質なのでまず自分の感覚で感じる、ということにしようとしているようです。
自己の感覚→自己の言葉 のち 他者の言葉(→他者の感覚を探る) です。
逆は困難である、、ということがエントリーでも書かれているのでしょうか? そうであれば同感です。

さて、「ばっちゃん」ですが、いいなぁ、と感じました。ハンベ寸前ですww・・でもやっぱり違和感がorz
前の「里にきたら…」のときとか、「子は親を救う…1−3章」とか、もしかしたら「この世界の…」なんかもそうなのかもしれませんが、95%のいいなぁ、、と5%の違和感があったら、どうしても5%の違和感が気になり、思考としては5%の違和感が95%になります。
95%の「いいなぁ」は別に「言葉」にしなくても感じたままでいいや、と思っているのかもしれません。
今回「も」やはり違和感をほんの少し(5%)だけ感じました。

その5%を考えていたのですが、なんとなく考えているのは、「ドキュメントという番組にする」「インタビューして言葉で返答させる」ということなのかもしれません。特に「何故やっているのか?」という質問。これはいただけない。これに答えようと言葉にしたとたんにウソになる、、、と感じるのはワタシだけかな?、笑。この違和感、、、全てに共通する違和感かもしれません。
ばっちゃんの子どもたちに対する言葉さえ、カメラを通すと違っているのではないか、と感じます。

とはいえ、言葉を経由しないと知らないことばかりなのですが、、、
これでまた、先の問題に回帰しますね、爆!!

・毒多さん

>自己の感覚→自己の言葉 のち
>逆は困難である、、

仰るとおりです。
その逆を【教育】と書き表わしました。
同時に、自分の感覚から自分の言葉が湧出することを「霊性」と表現しています。

>これに答えようと言葉にしたとたんにウソになる、、、

「霊性」が湧出するには時間がかかります。
答えを求められると応じようとして、湧出する前に言葉を探してしまう。
探し出した言葉はウソだろうと思います。

本文には続きを書くとしました。
更新するのはちょっと先になりそうですが、すでに半分は書いてあります。
その部分が、毒多さんの疑問に答えることになっているかもしれません。


先の記事で敢えて伏せたところ。

『こんなに大変で、感謝されない事もあるのに、なぜ続けられるのですか?』
『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

取材している時に一番衝撃を受けた言葉を、番組のラストコメントにしました。


『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

この言葉をラストコメントにしたということについて、ちょっとした敬意を抱いています。
もちろん、この言葉を発したばっちゃんには大きな敬意を抱きますが、ラストコメントというかたちで番組にしたディレクターにも。

こういった言葉は、おそらくカメラを向けられていてはでない言葉だと思います。

幾度も投げかけた問いでしょう。
でも、ばっちゃんも上手く答えられなかったに違いない。
そういうものです。
この言葉は、ばっちゃんの生き方の「特徴値」がシニフィアンを獲得したもの。
信頼関係が醸成されないと出てこないであろう言葉。

その言葉に衝撃を受けたなら、カメラを向けて、今の言葉をもう一度、ということは出来たはずです。
それがテレビといったようなメディアに携る者の習性だろうと思う。
でも、そうではなくて、「ラストコメント」だった。

あるいは、そうお願いをしたけれど、ばっちゃんは承諾をしてくれなかったのかもしれません。
実際はわからないけれど、この「かたち」になったことに敬意を覚えます。
言葉が生まれるということの微妙さを察知し、そこに敬意を払っているような気配を感じます。

・アキラさん

ぼくは男には違いないですが、そんなことを考えたのは男だからというのはちょっと違うかもしれません。

ドキュメンタリーには、少年少女が登場してきます。
ぼくはどうしても、自分自身を彼らに重ねずにはいられません。

ドキュメンタリーの中の少年は、ばっちゃんを親だと言いました。
もちろん、親というのは血縁関係のことではない。
心の問題です。

彼がそのように言うのは、ばっちゃんと出会ったのが子どもの頃だったからだろうと思います。でも、ぼくはすでに大人(のつもり)です。だから、母とは感じない。

実はちょっと迷ったんです。
「女性の完成形」ではなく「母の完成形」の方がいいのではないかと。
迷ったけれど、「女性の完成形」としたのは、ぼく自身がばっちゃんを女性と感じるから。
その意味において、ぼくは男ではあります。(^o^)

そこいらのことも含めて、続きを書いています。
よければそちらも読んでみてください。

あぁ、僕が「そんなことを考えてしまう」と言ったのは、以下のようなことを指してです。

>比較できるものではありませんが、たとえば、孫正義さんやスティーブ・ジョブズのような男性とこのばっちゃんの人生の充実度を比較したとしましょう。
人生の充実度といったようなものは主観的なものに過ぎませんが、それでも敢えて比較するとすると、ぼくはばっちゃんの方に軍配を上げたいと思う。

>こんなことも考えてみます。
 たとえばもし、孫正義さんのような人物がばっちゃんの生き方に感銘を受けて、援助を申し出たとしましょう。


「続き」、楽しみにしています♪

おはようございます。

>『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

まさにコレです!! 疑問ではありません。
スピリットと取り上げ方のズレ。ズレと感じるワタシの感性……やめときます。
「続き」を拝読してからにします^^

>男、、、女、、、母性

以前、NHKの朝のプチ特集で、「男が私設図書室をつくり、そこに入り浸る子どもたち」とか「男が“子ども食堂”をはじめ、そこに入り浸る子どもたち」みたいなことをやってました。
今回「ばっちゃん」に対し初老の男たちを「じっちゃん」みたいな気で思い出しましたが、孫やジョブズではなく、「じっちゃん」らのような等身大ならば「ばっちゃん」「じっちゃん」の性差は関係ないんじゃないか?とか、それでも「母性」は「父性」とは違う何かがあるような気もしたり、とかいうことを考えています。

・毒多さん

>『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

あくまでぼくの想像ですけれど、と、断っておいて。

ぼくは、この言葉は、ばっちゃんの取材陣に対しての信頼の言葉だと受け止めているんです。

「わからないんじゃないの?(君たちにはわかるまい)」
「わからないんじゃないの?(君たちにだってわかる)」

言葉(シニフィアン)は同じでも、意味するところ(シニフィエ)は正反対です。
シニフィエは、毒多さんの言葉では“スピリット”でしょうか。

表現(シニフィアン)と内容(シニフィエorスピリット)は、常にズレます。
けれど、ズレるからこそコミュニケーションが生まれるのだと思っています。
ズレてもなお、相手を信頼して、相手からのメッセージを受け止めた自分の方を変化させる。

そうなれば、ズレていることそのものが、愉悦です。
ズレていてギャップが在るからこそ、そこに自身を〈生かす〉ことができる空間が生まれる。
自身を変化させる覚悟がないなら、ギャップは断絶に過ぎません。

ばっちゃんは無条件に子どもたちを信頼しています。
これはドキュメンタリーのなかで感じ取れることです。
子どもたちは、その信頼に、自分たちのやり方で応えようとしている。

それと同じことが取材をしていた人間たちの間にもあったのではないか。
あくまでぼくの想像ですけれどね。
その信頼に応えて、彼らは、自分自身を変えた。

彼らのポジションは“取材人”です。
そのポジションに留まるなら、「衝撃の言葉」にカメラを向けたいでしょう。
ところが、出てきているのは、“取材人”だったはずの人間の言葉です。
彼らは自分のポジションから少し外れたのだと思います。

ぼくは「外れたこと」は、〈ヒト〉として、実に健全な振る舞いだと思っています。
【ポジション】を守ろうとするのは【人間】の振る舞いです。


>ズレと感じるワタシの感性

やめとこうというのに追い打ちをかけてしまいますが...。

ズレを感じて、なおかつ「感じるポジション」に留まっている。
それは、あるいは「優しさ」かもしれませんね。

毒多さんが「優しい人間」でありたいのなら、それでいいんだろうと思います。

・アキラさん

ほう、そこに「男」を感じますか?
ちょっと不思議で面白いです。

いや、言われてみれば、なるほど...、かも。

このコメントの念頭にあったのは、貨幣です。
ただ、貨幣をあからさまに持ち込むのは、ここではやめにしようと思いました。

ばっちゃんが子どもたちにご飯を食べさせるにも、もちろんお金はかかるでしょう。
ドキュメンタリーのなかには、「このごろは寄付も集まるようになった」などという言葉がありましたから、お金の面でも相当苦労はしていると思います。

ステレオタイプですが、そうした苦労をさせないのが、「男」の役目だろうと。
では、その意味で立派な「男」といえということで、孫さんやジョブズの名を上げてみた。

子どもを軸に置けば、敵わないでしょう。やっぱり。

もっとも、それはオス(♂)が女性の役割を果たすことができないということではありません。
人間はそれほど単純ではないとも思います。

(追記しました)

>ステレオタイプですが、そうした苦労をさせないのが、「男」の役目だろうと。

わーお、そんなこと思ったこともなかったです。 (^o^)


そうして、
>子どもを軸に置けば、敵わないでしょう。やっぱり。

ばっちゃんには・・というのであれば、そうだろうと思います。
もしもこれが「女性には」ということなのであれば、どうなんでしょうね?
それを聞いて苦しい(苦しむ)女性たちがたくさんいそうな気がします。 (^_^;)

>それを聞いて苦しい(苦しむ)女性たちがたくさんいそうな気がします。

同意します。

誤解を招く言い方ですけれど、それは喜ばしいことだとぼくは思うんです。

苦しむのを「喜ばしい」と言うのは心苦しいけれど。
「祝福に値する」と言えば、すこしはマシかな?

苦しいという感情があることは、喜ばしいことです。
生きている証。
何も感じないより、ずっといいと思います。

女性は子どもを産む機械ではありません。
子育てをするマシンでもない。
それが可能だということと、それが義務だというのは大違いです。

可能であり、そうしたいという意志があるならやればいい。
それは楽しいことに違いないから。

可能であり、そうしたいという意志があって、それでも楽しめない、苦しいと思うのであるなら、そこには「何か」があります。
ぼくの表記なら、【何か】。
【蓋】。

ご存知のとおり、ぼくは性善説に立つ人間ですから、そうした【蓋】は取り除くことができると考えています。
取り除くことができれば、それはもちろん喜ばしい。
取り除こうと意志することも、喜ばしい。

喜ばしいと思いたいのは、ぼくの主観ですけれど。
でも、誰もが喜ばしいと思いたいには違いない。

「子どもを軸に置けば、(女性には)敵わないでしょう。やっぱり。」

・・と言われるような自分ではそもそもない、という女性はたくさんいると思います。
その人の思い込みでも何でもなくて、「向いてないよね〜 (^_^;)」という女性は少なからずいると僕は感じます。

同様に、上記のように言われる以上の、並大抵の女性がかなわないであろう男性というのもいるでしょう。
それに比べて・・と思う女性たちもいることでしょう。

これってどうにもなんない話ですよね。
上で愚慫さんが言っていることとは、また別の類いになります。

その「どうにもなんない」ところに、上記のような「規定」をされてしまうと。。。
そこに発生する苦しさは「喜ばしい」ことなんですかね?
僕はそんなのはイヤなんですよね。

ステレオタイプって言ってましたけど、何か男とか女とかいうことにミョーな「刷り込み」があるように感じちゃうんですよね。
ま、それだけです。

>・・と言われるような自分ではそもそもない、という女性はたくさんいると思います。

ぼくもそう思います。
で、そう思って「私には関係ないからいいや」と離脱する人と、自分ではないと思うけど離脱できずに苦しむ人とがでてくる。

離脱する人は、それでいいと思う。
ぼくが子育てのとの関連で女性を規定したとしても、その規定そのものを受け入れないでしょうし、受け入れないならぼくは無力ですし。権力者はありませんからね。

でも、離脱できない、あるいはしない人には、ぼくは「規定」によって力を及ぼしてしまうことになります。

また誤解を招くようだけど、いいなぁ♪ と思うわけです。

離脱できないのは、離脱したくないからのはずです。
関係を持ちたいけれど、持つ方法がないとか。
社会的に疎外されているとか。
「疎外」を内面化してしまっているとか。

苦しむのはそういった人だと思います。

まあ、といって、ぼくはそういった人たちの力になれるわけではないですけれど...(^_^;)
今のところは。
ただ、苦しんでいることは喜ばしいことだと言うだけで。

とはいえ、苦しむから触らない、では、いつまで経ってもスタートを切ることはできない。
苦しむ人には迷惑をかけるところがあって悩ましいんですけど、どうしても気になって仕方がないんですよね...。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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