〈しあわせ〉に〈生きる〉にはどうしたらいいか
2017-11-11
実は、もう少しでこのブログは閉じようと心算してます。
一旦閉じることになるのか、少し休んでまた再開することになるのかは、まだ迷っています。
迷っているというより、流れがまだ見えないという方がいいかな。
理由は2つあって、ひとつは、ブログ執筆に費やす時間。
キーボードに向かっている時間もさることながら、そのための準備の時間がぼくが自由にできる時間のかなりを占めています。いくらなんでも、もういい加減、受験勉強に切り替えないと(^_^;)
受験と言っても冷やかし半分ですが、でも、やると決めたからには、やってみたい。
結果は、それはそれです。
もうひとつは、こちらの方が本質的な理由ですが、ぼくにとってのこのブログの役割は終わったかな、と思うから。
最初は『はてなブログ』でした。
今でもそうですが、ぼくの基本は「考えたい」です。
その「考える」も、後に「思考」と「思索」とにセパレートされて、「思索」の方を追究することをメインにしてきたつもりですが、いずれにしたって言葉を使って何ごとかをしようということには変わりはない。
ブログを始めた時の最初のテーマは「人間の都合と自然のルール」というものでした。
最初のテーマは、今でも生き続けているテーマです。
それに一定の結論が出た。
キッチリとした「形」に整形できているわけではないけれど、ぼくがぼくのために「考える・思索をする」ということにおいては、結論は出たと思っています。
然るべき時期に然るべき理由が見つかる。
こういうのは「流れ」だと思っています。
だったら、次の展開ということになるのが自然というものでしょう。
「言葉を使っての何ごとか」はもちろん続けるつもりではいますが、今の「形」とは違うものを目指してみたいと思っています。
〈しあわせ〉に〈生きる〉にはどうしたらいいか?
考え方は、大まかに言ってふたつあると思います。
〈しわよせ〉を引き受けるか。
【シワヨセ】を他へ押しやるか。
いろいろ考えてきましたが、【しわよせ】の起源はホモ=サピエンスが誕生した進化にあるというのが、今の結論です。
(^o^)っ 『サピエンス全史』その18~サピエンスにおける瑕疵
サピエンスはもともと食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置する程度の生物でしかなかった。
それが、主に女性が大きな【しわよせ】を引き受けることによって、
脳を発達させ、
社会性を発達させ、
乏しい身体能力を補うだけの組織力を備えた。
「瑕疵」はもうひとつあります。
実はサピエンスは多産だということです。
ゾウという動物がいます。
草原の帝王と形容していい動物です。
ライオンが王なら、ゾウは皇帝です。
ゾウたちは長年にわたって帝王の座を維持してきました。
サピエンスにその地位を譲り渡すまでは。
なので、その生態も帝王のそれにふさわしい。
ゾウは少産です。
出産は一度に一頭。
妊娠期間は22ヶ月。
授乳期間は2~3年。
出産間隔は4~9年。
この数字は、おそらくですが、子が親からの庇護を十分に独占できるだけの期間になっているのだろうと想像します。
ゾウには、基本的に天敵がいない。
だから「スペア」を生んでおく必要がない。
サピエンスは違います。
サピエンスは生物史というスパンにおいては、ほぼ食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置していた。頂点に君臨するようになったのは、ごく最近のことです。
ゆえに、繁殖形態はまだ「スペア」を必要とした時代にものに留まっている。
サピエンスの子どもは育てるのに非常に手間がかかります。
大人のリソースを大量に費消します。
十分なリソースを与えられなかった子どもの心身は発育不全になる。
身体における物理的な面については、
無知の革命 ⇒ 科学革命 ⇒ 産業革命 ⇒ 緑の革命
と技術が発達する中で、十分に満たすことができるようになりました。
自然環境に大いなる【シワヨセ】を押しやりながら。
【シワヨセ】を喰らったのはサピエンス以外の自然環境だけではありません。
サピエンス自身にも【シワヨセ】は及んでいる。
無知の革命に続く資本主義の誕生、そして信用創造の発案によって、〔人間〕は時間を奪われるようになってしまいました。
時間を奪われた【人間】は子どもの成長に必要なだけのリソースを用意することできなくなった。現代日本では少子化が社会問題になっていますが、この問題は、サピエンスという種のマクロの視点で見れば、実に健全な反応だとぼくは思っています。
同時に、事ほど左様にサピエンスは社会的な生き物なのか、とも。
現代日本において、〔個人〕が子どもを産もうと思うなら、どこかに【シワヨセ】をしなければなりません。
【社会】に適応して内面まで【人間】になっている〔個人〕においてそれは、端的に言えば収入の問題になります。
子どもを育てるのに、
身体を発育させるのに十分な栄養を与え、
【社会】に適応させるのに必要な【教育】を与え、
【人間】を再生産させる。
【人間】は多量の貨幣を必要としますから、貨幣経済には都合が良いのですが、
サピエンスが持って生まれた《魂》といえばいいのか、
自然性といえばいいのか、
社会性といえばいいのか、
言葉はどうであれ〈何か〉が再生産を阻害している。
【社会】にさほど適応していない〔個人〕においては、収入のことなどあまり考えず、悪く言えば動物的に子どもを産んでしまいます。
また悪く言ってしまうと、これは迷惑行為です。
貧困問題を生むからです。
現代日本の貧困は、身体的栄養を与えるのに足らないほどの絶対的貧困ではなく、【人間】として再生産するのには足りないという相対的貧困です。
ぼくの考えでは【人間】でなければいいということになりそうですが、さに非ず。
【社会】では【人間】でない〔人間〕は迷惑です。
【社会】の秩序に上手に適応できないけれど、でも、生かさなければならないのでコストがかかります。
このコストは【人間】にとってはムダなのです。合理的ではない。
貨幣は【経済】の成長と発展のために使われなければならない。
そうした貨幣の使い方をできる〔人間〕が【人間】。
もっともそうした【人間】たちは、自分たちの役割がAIに奪われそうな時代に怯えていますが。
貨幣は、貨幣が成立した過程を辿ってその霊性を理解するならば、
他者の欲望であり、
誰かの時間であり、
誰かの生命力です。
それらを利用することは悪いというわけではありません。
それらをうまく利用して、生命は生をつないでいる。
「動的平衡」とはそういうものです。
けれど、貨幣は、それらを所有するという一点において、動的平衡を破綻させています。
所有は動的な運動を止めてしまう行為です。
貨幣経済においても、経済活動を活発化させるには貨幣を運動させる必要があります。
所有によって停止した運動を今一度再起動させる必要がある。
その再起動のエネルギーが強欲です。
より誰かの欲望を、
より誰の時間を、
より誰かの生命力を渇望しなければ、強欲は発動しない。
このような【渇望】はどこから生まれるのか?
未熟で生まれてきたサピエンスの子どもに与えるべきリソース不足の結果です。
〔子ども〕たちは満たされない欲求を抱えたまま【大人】になる。
適応能力の高い【いい子】は【人間】になる。
適応能力が高くなかった子どもは【いい子】になりきれず、反抗したり、引きこもったり、いずれにせよ迷惑な存在になる。
再度、問います。
そのような【社会】のなかで〈しあわせ〉に〈生きる〉にはどうしたらいいか?
【シワヨセ】を他人に押しやろうとするなら、考えないことです。
【シワヨセ】には全力で目を背ける。
目を背けるのに一番良い方法は、「誰かの役に立つこと」です。
そして、それに見合った報酬を得ることです。
この言は皮肉に聞こえるでしょう。
誓って言いますが、ぼくにはそういうつもりはまったくありません。
ぼくに見えるままを言っているだけです。
誰かの役に立って、正当な報酬を得れば、その報酬となっているものがどういった性質のものなのかは問わずに済みます。
そのことを問おうとするインセンティブは働かないし、役に立っているということを根拠に反論できるからです。
実は反論してしまうということは、そこに〈何か〉を感じているからなのですが。
【我】を減じていけば、その〈何か〉を素直に認められるようになるはず。
ミヒャエル・エンデがそうであったように。
ぼくなどの場合は、そのことを問うインセンティブが存在がありました。
このブログを始めた理由がまさに、そのインセンティブです。
ですから、貨幣とは何かを問うことが【我】という構造になっています。
だからこそ不思議でした。
なぜ、大半の者がそこに何も感じないのかが。
インセンティブがあれば、感じます。
感じたことを言語化することについては、ずいぶん前に完了していました。
【強欲】とは「強いられた欲」のことであるという言葉が出てきた時点でそれは完了していました。
そこから先の思索は、なぜ大半の【人間】はインセンティブを持ち得ないのかということが焦点でした。
それは歴史的な積み重ねによるものだというのが、今のぼくの結論です。
同時に理解できたのは、歴史は、その積み重ねを覆す方向に進む可能性もある。
だから、希望も見出すことができる。
幾度か取り上げた『日本的霊性』からの引用です。
正直、幾度読んでも感銘が色褪せません。
この文章に溢れているのは、〈しわよせ〉の自覚。痛いほどの自覚。
こういった心性は熊野で暮らしを教えてくれた老人たちも持っていました。
彼らは貨幣の使い方を知らなかった。
身に余った貨幣はパチンコで蕩尽するくらいのことしかできなかった。
でも、とても〈人間〉的な行為だと思います。
これも何度も何度も掲示しました。〈円環〉です。
サピエンスには、いえ、〈いのち〉にはそもそも〈円環〉が内蔵されています。
貨幣や権威のような【他力】に頼らなくて、自身の〈自力〉だけで十分に〈円環〉を回す力があります。
【他力】とは【虚構】です。
サピエンスは【虚構】の力を借りて、ネアンデルターレンシスとの生存戦略に勝った。
アフロ・ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸、オーストラリアに先住していた大型哺乳類たちを食料とすることができた。
そして食物連鎖ピラミッドの頂点になった。
その進撃は食物連鎖ピラミッドの頂点にたっただけでは終わりませんでした。
随所で同じ他のホモ・サピエンスを駆逐した。
今では自身すら駆逐しようとしています。
もはやサピエンスに【虚構の力】は必要ありません。
が、それは、〔虚構〕が必要ない、〔虚構〕を廃絶せよと言いたいのではありません。
【力】のない〈虚構〉をデザインせよ。
それは技術的に可能なはずだと言いたいのです。
【虚構の力】とは何か。
サピエンスがデフォルトで持つ社会構築能力を上回る〔社会〕を運営する【力】です。
サピエンスの情報処理能力(脳力)では150の集団が上限だというのは、科学が解明した事実です。
人類社会を成員150の小社会に分割せよ、というのでもありません。
小さな折り合いが織りなす大きな社会になればいい、ということです。
ひとりの〔人間〕は、150人の〔他人〕と繋がることが出来ます。
この150は、閉じている必要はまったくありません。
仮に人物AとBとがつながっているして、残りの149がABに共通である必要はまったくない。
必要はまったくないけれど、そうならざるを得ないのが歴史的な必然でした。
狩猟採集社会ならまだしも、定住社会になればどうしてもメンバーは固定的になる。
固定的なメンバーであっても、サピエンスの情報処理能力は150までです。
1000のメンバーからなる社会を運営しようと思えば、どうしても社会の中の情報量を減縮させる必要が生まれる。
その必要性から生まれたのがルール。規範。道徳。法。
どれもこれも虚構を操ることができる【人間の都合】に過ぎないけれど、サピエンスが力を持つにつれて、その【都合】を自然にまで適用するようになってしまった。
その最大の一歩が【所有】であり、その極点が【貨幣】です。
【所有】は時間の流れを止めます。
【貨幣】も同じく。
【所有】が及ぶのは〔人間〕以外の〔社会〕ですが、
【貨幣】の時間停止効力は〔人間〕にも及びます。
だからこそ、【貨幣】が最大の征服者になりうる。
この理路がわかれば答えはカンタンです。
〔貨幣〕に時間を内蔵させればいい。
時間と共に減価する〈貨幣〉にしてしまえばいい。
〈貨幣〉は〔虚構〕でありながら、【力】を持ち得ません。
【虚構の力】は【大きな社会】を構築可能にしますが、その【力】とは、人間以上の【信用】を獲得できるという【力】です。
【虚構】は成立してしまえば、生身の人間以上の【信用】を獲得する。
その【信用】によって【秩序】が保たれる。
が、【秩序】の依存することと〔人間〕を信頼することは相反します。
それはどちらも脳の情報処理能力を必要とするから。
片方の比重が増すと、片方の比重が減る。
処理能力は有限なのだから、当然のことです。
【虚構】が【力】のない〈虚構〉になれば、
もっとも【力】の強い【貨幣】が〈貨幣〉になれば、
〔人間〕の情報処理の比重は自然に〔人間〕対象へと移っていくでしょう。
そうなれば、集団の規模は自然に150に落着いていく。
集団という言い方は適切ではありません。
ひとりにとって150です。
ですから、150人だったら、150×150=22500。
ひとりにとって、一次のつながりは150。
二次のつながりは、原理的に22500。
三次のつながりは、506250000。
四次のつながりは...、計算機が表示してくれません(笑)
(2.56289×10の16乗)。
こうしたつながり方とインターネットは相性がいい。
最近登場したブロックチェーンという技術ならば、つながりつつもセキュリティを確保できる。
貨幣がコンピュータネットワーク上では単なる記号として扱われていることは、いまさら言うまでもありません。
――と、希望は見ようと思えば見ることが出来ます。
もちろん、現時点ではまだまだスカスカの希望でしかありません。
でも、スカスカは埋めればいい。
希望があって、そこに〈生命力〉を注ぎ込めば、スカスカは埋まります。
今までもサピエンスはその脳力があるし、そのようにして生存競争を勝ち抜いてきた。
希望に向かって生命力を注ぎ込むことは、〔人間〕にとって〈しあわせ〉です。
それはもしかしたら、どこかで行き詰まるかもしれません。
行き詰まりを先延ばしするだけのことかもしれません。
が、例えそうであったとしても、行き詰まるまでは〈しあわせ〉でいられるでしょう。
でも、ぼくはもっと大きな希望を持っています。
この方向性は、〈生命力〉を発露するという〈しあわせ〉だけではなく、
〈しわよせ〉を自ら引き受けるという意味での〈しあわせ〉に向かうものだと思うからです。
なぜ、そう言えるのか?
ここはまだまだ言葉を足さなければならないし、まだその言葉の用意はぼくにはできていません。が、少しだけ言えることがあります。
〈しわよせ〉を自ら引き受けるとはいっても、生身の人間。
限界はあります。
限界超えてしまうと、壊れる。
生身であってもなくても、壊れる。
これまでの【社会】は限界を上げることばかりを求めてきた。
そして壊れる【人間】が大勢出ている。
日本など平和なはずなのに。
【虚構】が蔓延っているからです。
【虚構の力】に頼ってしまっているからです。
〔虚構〕は使うけれど、頼らない。
そうなれば、〔人間〕には、自然に愉氣のような〈力〉が働くでしょう。
さて、あともうひとつ。
一旦閉じることになるのか、少し休んでまた再開することになるのかは、まだ迷っています。
迷っているというより、流れがまだ見えないという方がいいかな。
理由は2つあって、ひとつは、ブログ執筆に費やす時間。
キーボードに向かっている時間もさることながら、そのための準備の時間がぼくが自由にできる時間のかなりを占めています。いくらなんでも、もういい加減、受験勉強に切り替えないと(^_^;)
受験と言っても冷やかし半分ですが、でも、やると決めたからには、やってみたい。
結果は、それはそれです。
もうひとつは、こちらの方が本質的な理由ですが、ぼくにとってのこのブログの役割は終わったかな、と思うから。
最初は『はてなブログ』でした。
今でもそうですが、ぼくの基本は「考えたい」です。
その「考える」も、後に「思考」と「思索」とにセパレートされて、「思索」の方を追究することをメインにしてきたつもりですが、いずれにしたって言葉を使って何ごとかをしようということには変わりはない。
ブログを始めた時の最初のテーマは「人間の都合と自然のルール」というものでした。
最初のテーマは、今でも生き続けているテーマです。
それに一定の結論が出た。
キッチリとした「形」に整形できているわけではないけれど、ぼくがぼくのために「考える・思索をする」ということにおいては、結論は出たと思っています。
然るべき時期に然るべき理由が見つかる。
こういうのは「流れ」だと思っています。
だったら、次の展開ということになるのが自然というものでしょう。
「言葉を使っての何ごとか」はもちろん続けるつもりではいますが、今の「形」とは違うものを目指してみたいと思っています。
〈しあわせ〉に〈生きる〉にはどうしたらいいか?
考え方は、大まかに言ってふたつあると思います。
〈しわよせ〉を引き受けるか。
【シワヨセ】を他へ押しやるか。
いろいろ考えてきましたが、【しわよせ】の起源はホモ=サピエンスが誕生した進化にあるというのが、今の結論です。
(^o^)っ 『サピエンス全史』その18~サピエンスにおける瑕疵
サピエンスはもともと食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置する程度の生物でしかなかった。
それが、主に女性が大きな【しわよせ】を引き受けることによって、
脳を発達させ、
社会性を発達させ、
乏しい身体能力を補うだけの組織力を備えた。
「瑕疵」はもうひとつあります。
実はサピエンスは多産だということです。
ゾウという動物がいます。
草原の帝王と形容していい動物です。
ライオンが王なら、ゾウは皇帝です。
ゾウたちは長年にわたって帝王の座を維持してきました。
サピエンスにその地位を譲り渡すまでは。
なので、その生態も帝王のそれにふさわしい。
ゾウは少産です。
出産は一度に一頭。
妊娠期間は22ヶ月。
授乳期間は2~3年。
出産間隔は4~9年。
この数字は、おそらくですが、子が親からの庇護を十分に独占できるだけの期間になっているのだろうと想像します。
ゾウには、基本的に天敵がいない。
だから「スペア」を生んでおく必要がない。
サピエンスは違います。
サピエンスは生物史というスパンにおいては、ほぼ食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置していた。頂点に君臨するようになったのは、ごく最近のことです。
ゆえに、繁殖形態はまだ「スペア」を必要とした時代にものに留まっている。
サピエンスの子どもは育てるのに非常に手間がかかります。
大人のリソースを大量に費消します。
十分なリソースを与えられなかった子どもの心身は発育不全になる。
身体における物理的な面については、
無知の革命 ⇒ 科学革命 ⇒ 産業革命 ⇒ 緑の革命
と技術が発達する中で、十分に満たすことができるようになりました。
自然環境に大いなる【シワヨセ】を押しやりながら。
【シワヨセ】を喰らったのはサピエンス以外の自然環境だけではありません。
サピエンス自身にも【シワヨセ】は及んでいる。
無知の革命に続く資本主義の誕生、そして信用創造の発案によって、〔人間〕は時間を奪われるようになってしまいました。
時間を奪われた【人間】は子どもの成長に必要なだけのリソースを用意することできなくなった。現代日本では少子化が社会問題になっていますが、この問題は、サピエンスという種のマクロの視点で見れば、実に健全な反応だとぼくは思っています。
同時に、事ほど左様にサピエンスは社会的な生き物なのか、とも。
現代日本において、〔個人〕が子どもを産もうと思うなら、どこかに【シワヨセ】をしなければなりません。
【社会】に適応して内面まで【人間】になっている〔個人〕においてそれは、端的に言えば収入の問題になります。
子どもを育てるのに、
身体を発育させるのに十分な栄養を与え、
【社会】に適応させるのに必要な【教育】を与え、
【人間】を再生産させる。
【人間】は多量の貨幣を必要としますから、貨幣経済には都合が良いのですが、
サピエンスが持って生まれた《魂》といえばいいのか、
自然性といえばいいのか、
社会性といえばいいのか、
言葉はどうであれ〈何か〉が再生産を阻害している。
【社会】にさほど適応していない〔個人〕においては、収入のことなどあまり考えず、悪く言えば動物的に子どもを産んでしまいます。
また悪く言ってしまうと、これは迷惑行為です。
貧困問題を生むからです。
現代日本の貧困は、身体的栄養を与えるのに足らないほどの絶対的貧困ではなく、【人間】として再生産するのには足りないという相対的貧困です。
ぼくの考えでは【人間】でなければいいということになりそうですが、さに非ず。
【社会】では【人間】でない〔人間〕は迷惑です。
【社会】の秩序に上手に適応できないけれど、でも、生かさなければならないのでコストがかかります。
このコストは【人間】にとってはムダなのです。合理的ではない。
貨幣は【経済】の成長と発展のために使われなければならない。
そうした貨幣の使い方をできる〔人間〕が【人間】。
もっともそうした【人間】たちは、自分たちの役割がAIに奪われそうな時代に怯えていますが。
貨幣は、貨幣が成立した過程を辿ってその霊性を理解するならば、
他者の欲望であり、
誰かの時間であり、
誰かの生命力です。
それらを利用することは悪いというわけではありません。
それらをうまく利用して、生命は生をつないでいる。
「動的平衡」とはそういうものです。
けれど、貨幣は、それらを所有するという一点において、動的平衡を破綻させています。
所有は動的な運動を止めてしまう行為です。
貨幣経済においても、経済活動を活発化させるには貨幣を運動させる必要があります。
所有によって停止した運動を今一度再起動させる必要がある。
その再起動のエネルギーが強欲です。
より誰かの欲望を、
より誰の時間を、
より誰かの生命力を渇望しなければ、強欲は発動しない。
このような【渇望】はどこから生まれるのか?
未熟で生まれてきたサピエンスの子どもに与えるべきリソース不足の結果です。
〔子ども〕たちは満たされない欲求を抱えたまま【大人】になる。
適応能力の高い【いい子】は【人間】になる。
適応能力が高くなかった子どもは【いい子】になりきれず、反抗したり、引きこもったり、いずれにせよ迷惑な存在になる。
再度、問います。
そのような【社会】のなかで〈しあわせ〉に〈生きる〉にはどうしたらいいか?
【シワヨセ】を他人に押しやろうとするなら、考えないことです。
【シワヨセ】には全力で目を背ける。
目を背けるのに一番良い方法は、「誰かの役に立つこと」です。
そして、それに見合った報酬を得ることです。
この言は皮肉に聞こえるでしょう。
誓って言いますが、ぼくにはそういうつもりはまったくありません。
ぼくに見えるままを言っているだけです。
誰かの役に立って、正当な報酬を得れば、その報酬となっているものがどういった性質のものなのかは問わずに済みます。
そのことを問おうとするインセンティブは働かないし、役に立っているということを根拠に反論できるからです。
実は反論してしまうということは、そこに〈何か〉を感じているからなのですが。
【我】を減じていけば、その〈何か〉を素直に認められるようになるはず。
ミヒャエル・エンデがそうであったように。
ぼくなどの場合は、そのことを問うインセンティブが存在がありました。
このブログを始めた理由がまさに、そのインセンティブです。
ですから、貨幣とは何かを問うことが【我】という構造になっています。
だからこそ不思議でした。
なぜ、大半の者がそこに何も感じないのかが。
インセンティブがあれば、感じます。
感じたことを言語化することについては、ずいぶん前に完了していました。
【強欲】とは「強いられた欲」のことであるという言葉が出てきた時点でそれは完了していました。
そこから先の思索は、なぜ大半の【人間】はインセンティブを持ち得ないのかということが焦点でした。
それは歴史的な積み重ねによるものだというのが、今のぼくの結論です。
同時に理解できたのは、歴史は、その積み重ねを覆す方向に進む可能性もある。
だから、希望も見出すことができる。
播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。
幾度か取り上げた『日本的霊性』からの引用です。
正直、幾度読んでも感銘が色褪せません。
この文章に溢れているのは、〈しわよせ〉の自覚。痛いほどの自覚。
こういった心性は熊野で暮らしを教えてくれた老人たちも持っていました。
彼らは貨幣の使い方を知らなかった。
身に余った貨幣はパチンコで蕩尽するくらいのことしかできなかった。
でも、とても〈人間〉的な行為だと思います。
これも何度も何度も掲示しました。〈円環〉です。
サピエンスには、いえ、〈いのち〉にはそもそも〈円環〉が内蔵されています。
貨幣や権威のような【他力】に頼らなくて、自身の〈自力〉だけで十分に〈円環〉を回す力があります。
【他力】とは【虚構】です。
サピエンスは【虚構】の力を借りて、ネアンデルターレンシスとの生存戦略に勝った。
アフロ・ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸、オーストラリアに先住していた大型哺乳類たちを食料とすることができた。
そして食物連鎖ピラミッドの頂点になった。
その進撃は食物連鎖ピラミッドの頂点にたっただけでは終わりませんでした。
随所で同じ他のホモ・サピエンスを駆逐した。
今では自身すら駆逐しようとしています。
もはやサピエンスに【虚構の力】は必要ありません。
が、それは、〔虚構〕が必要ない、〔虚構〕を廃絶せよと言いたいのではありません。
【力】のない〈虚構〉をデザインせよ。
それは技術的に可能なはずだと言いたいのです。
【虚構の力】とは何か。
サピエンスがデフォルトで持つ社会構築能力を上回る〔社会〕を運営する【力】です。
サピエンスの情報処理能力(脳力)では150の集団が上限だというのは、科学が解明した事実です。
人類社会を成員150の小社会に分割せよ、というのでもありません。
小さな折り合いが織りなす大きな社会になればいい、ということです。
ひとりの〔人間〕は、150人の〔他人〕と繋がることが出来ます。
この150は、閉じている必要はまったくありません。
仮に人物AとBとがつながっているして、残りの149がABに共通である必要はまったくない。
必要はまったくないけれど、そうならざるを得ないのが歴史的な必然でした。
狩猟採集社会ならまだしも、定住社会になればどうしてもメンバーは固定的になる。
固定的なメンバーであっても、サピエンスの情報処理能力は150までです。
1000のメンバーからなる社会を運営しようと思えば、どうしても社会の中の情報量を減縮させる必要が生まれる。
その必要性から生まれたのがルール。規範。道徳。法。
どれもこれも虚構を操ることができる【人間の都合】に過ぎないけれど、サピエンスが力を持つにつれて、その【都合】を自然にまで適用するようになってしまった。
その最大の一歩が【所有】であり、その極点が【貨幣】です。
【所有】は時間の流れを止めます。
【貨幣】も同じく。
【所有】が及ぶのは〔人間〕以外の〔社会〕ですが、
【貨幣】の時間停止効力は〔人間〕にも及びます。
だからこそ、【貨幣】が最大の征服者になりうる。
この理路がわかれば答えはカンタンです。
〔貨幣〕に時間を内蔵させればいい。
時間と共に減価する〈貨幣〉にしてしまえばいい。
〈貨幣〉は〔虚構〕でありながら、【力】を持ち得ません。
【虚構の力】は【大きな社会】を構築可能にしますが、その【力】とは、人間以上の【信用】を獲得できるという【力】です。
【虚構】は成立してしまえば、生身の人間以上の【信用】を獲得する。
その【信用】によって【秩序】が保たれる。
が、【秩序】の依存することと〔人間〕を信頼することは相反します。
それはどちらも脳の情報処理能力を必要とするから。
片方の比重が増すと、片方の比重が減る。
処理能力は有限なのだから、当然のことです。
【虚構】が【力】のない〈虚構〉になれば、
もっとも【力】の強い【貨幣】が〈貨幣〉になれば、
〔人間〕の情報処理の比重は自然に〔人間〕対象へと移っていくでしょう。
そうなれば、集団の規模は自然に150に落着いていく。
集団という言い方は適切ではありません。
ひとりにとって150です。
ですから、150人だったら、150×150=22500。
ひとりにとって、一次のつながりは150。
二次のつながりは、原理的に22500。
三次のつながりは、506250000。
四次のつながりは...、計算機が表示してくれません(笑)
(2.56289×10の16乗)。
こうしたつながり方とインターネットは相性がいい。
最近登場したブロックチェーンという技術ならば、つながりつつもセキュリティを確保できる。
貨幣がコンピュータネットワーク上では単なる記号として扱われていることは、いまさら言うまでもありません。
――と、希望は見ようと思えば見ることが出来ます。
もちろん、現時点ではまだまだスカスカの希望でしかありません。
でも、スカスカは埋めればいい。
希望があって、そこに〈生命力〉を注ぎ込めば、スカスカは埋まります。
今までもサピエンスはその脳力があるし、そのようにして生存競争を勝ち抜いてきた。
希望に向かって生命力を注ぎ込むことは、〔人間〕にとって〈しあわせ〉です。
それはもしかしたら、どこかで行き詰まるかもしれません。
行き詰まりを先延ばしするだけのことかもしれません。
が、例えそうであったとしても、行き詰まるまでは〈しあわせ〉でいられるでしょう。
でも、ぼくはもっと大きな希望を持っています。
この方向性は、〈生命力〉を発露するという〈しあわせ〉だけではなく、
〈しわよせ〉を自ら引き受けるという意味での〈しあわせ〉に向かうものだと思うからです。
なぜ、そう言えるのか?
ここはまだまだ言葉を足さなければならないし、まだその言葉の用意はぼくにはできていません。が、少しだけ言えることがあります。
〈しわよせ〉を自ら引き受けるとはいっても、生身の人間。
限界はあります。
限界超えてしまうと、壊れる。
生身であってもなくても、壊れる。
これまでの【社会】は限界を上げることばかりを求めてきた。
そして壊れる【人間】が大勢出ている。
日本など平和なはずなのに。
【虚構】が蔓延っているからです。
【虚構の力】に頼ってしまっているからです。
〔虚構〕は使うけれど、頼らない。
そうなれば、〔人間〕には、自然に愉氣のような〈力〉が働くでしょう。
さて、あともうひとつ。
コメント
・アキラさん
>「それに見合った報酬」って どう量るんですかね?
ありがたいご質問です(^^)/
まずです。
「見合う」ということはなんなのでしょうね?
かなり迂遠になるでしょうけれども、力一杯答えてみたいと思います(^^;
アダム=スミスという人がいました。
ご存知だと思います。「神の見えざる手」『国富論』。あと『感情道徳論』。
ぼくたちが学校で教わった時代はアダム=スミスの主著は『国富論』とされていましたが、現在は『感情道徳論』が主著だと考えられるようになってきています。
アダム=スミスが「神の見えざる手」と考えていたのは、実は「国富」のほうではなかったようです。「感情道徳」の方だった。社会分業が進んで貨幣経済が発達すれば、感情道徳も自ずと豊かになると、どうやらアダム=スミスは考えていたらしい。
この考え方は、ぼくが考えていることと同じです。
アダム=スミスは、しかし、間違えていました。社会分業と貨幣経済の発達で「国富」はかつて無いほど豊かになったが逆に「感情道徳」はかつてないほど劣化してしまいました。
なぜそうなったのか。
アダム=スミスは、「神の見えざる手」は“sympathy”を梃子に働くと考えた。
この場合の“sympathy”は「同感」と訳すのが適切だろうと思います。
AとBの現象・事象を同じだと思い為すのが「同感」です。
「同感」の媒介になるのが貨幣です。
AとBはどのように「見合う」のか、という問いの前提あるのは「同感」です。
「同感への力学」といったようなものがないと「見合う」ということは起こりえない。
アダム=スミスの考え方が大枠では正しかったとすれば、「国富」は豊かになったけれど「感情道徳」のほうは劣化したのは、「同感」が実は「神の見えざる手」ではなくて、悪魔の方のそれだったということになります。ゲーテが直観したように。
一方で、〔世界〕は福岡伸一さんが“動的平衡”と呼ぶ現象に満ちています。
もう一方で、〔世界〕には動的ではない平衡にも満ちている。
動的でない平衡とは物理学的な現象。
動的平衡は生物学的な現象です。
平衡と動的平衡がどう違うのか。
あくまでアナロジーですが、「同感」で動くのが物理的平衡です。
ことなるAとBが同じになろうとして変化していくのが平衡です。
動的平衡というのは、平衡現象の中の部分最適です。
平衡がより効率的に進もうとして、自然に構造が出来上がる。
散逸構造です。
この散逸構造を維持し続けるのが動的平衡です。
散逸構造が存在し続けるということが、動的平衡が出現する条件。
つまり、AとBは「違い続ける」ということです。
「違い続ける」ということを前提にすると、「見合う」ということは起こりません。
「見合い」はしないけれど、調和は生まれる。
動的平衡という調和です。
いきなり『論語』ですが、
君子和而不同
小人同而不和
というのがあります。
君子は和して同ぜず。
小人は同じで和せず。
優れた人間は動的平衡を求めるといいのかもしれません。
愉氣もあるいはそうかもしれないと思います。
アキラさんの道場に最初に伺ったとき、「ぴったり」ということを教えてもらいました。
この「ぴったり」は「同じ」ではなくて、「同じだと感じるように違い続ける」ということだったと思います。そうすると、身体は自身の裡に内在するアルゴリズムに従って身体の「あるべきよう」へと自ずから変化していく。
もちろん、これはあくまでぼくの考えです。
誰かの役に立つのは、基本は〈しわよせ〉だとぼくは思っています。
報酬など考えずに誰かの役に立とうとするのは、〈しわよせ〉を自ら引き受けること。
が、個人はずっと〈しわよせ〉を引き受け続けることはできません。
が、Aが引き受けた〈しわよせ〉で生じた〈しわよせ〉を、Bが自身の〈しわよせ〉として引き受けてくれれば、AもBも〈しあわせ〉でいられます。
これはAとBが違うからこそ生まれる動的平衡なんだろうと思うんです。
Aが母親だとすると、子を産むことは〈しわよせ〉です。
Bを父親だとすると、子を産んだ母親を気遣い手助けをするのが〈しわよせ〉です。
この動的平衡に「見合う」という基準はふさわしくない。
そのようなものを持ち込んだ瞬間に、AとBとの関係性において生じていた〈しあわせ〉は霧散してしまいます。
母親の出産育児は【シワヨセ】になる。別の言い方をすれば義務になる。
父親の母親への手助けもまた義務になって【シワヨセ】になる。
社会的には、進行の仕方が逆ですけれど。
家族外との経済関係が【シワヨセ】の押し込み合い。
その圧力が時代を追うごとに高まって、家族関係の中にまで侵入してきてしまっている。
【シワヨセ】の押し合いしか人間関係の構築の仕方を知らないというようなことが起きている。
そうした【人間】が子を産まないという選択をするのは、ぼくはごく自然なことだと思う。
・誰かの役に立ちつつ、それに見合った報酬を得ない(あるいは一切報酬を受けない)
・誰かの役には立たないことで(あるいは誰の役にも立たないことで)、それに見合った?報酬を得る
・誰の役にも立たず、報酬も得ない
「同感」がデフォルトになってしまった【社会】への適応からは、こうした疑問が生まれてくるのは【自然】なことだと思います。
でも、この【自然】は【慣れ】です。
【慣れ】に身を委ねてしまうと、【自然】と〈自然〉の区別が付かなくなる。
自身の身に宿っているはずの〈自然〉を掘り起こすには、【慣れ】に抗う修行が必要です。
ぼくたちは日常の動作を、とある目的に沿って作動させることを常としていています。
でも、たとえば自働運動といったような動作は、それとは逆です。
目的のない動作。
目的のない動作が〈自然〉の活力を生む。
だったら、経済もそうだろうと思う。
目的のない経済活動は〈自然〉の活力を生む。
でも、現在の【システム】の中では目的のない経済活動を営むのは非常に困難です。
自身がそのつもりではなくても、周囲がそのようには見なしてくれません。
なんらかの活動には、かならず目的があると考えられてしまいます。
整体は健康になることが目的の活動だと ^^;
ぼくは違うと思ってますけれど。
というか、ぼくがアキラさんの考えを正しく理解しているなら、違うということになるはずです。
アキラさんはそうでないということを何度も言葉にしているとぼくは受け止めています。
そして、その言葉をうまく受け止めてもらえないという落胆(?)も目にしていると思っています。
なぜそうなるか。
アキラさんの言葉と振る舞いとが食い違っているからだと思っている。
定額の報酬を受け取るという【自然】な社会的行動が、アキラさんの言葉をキャンセルしてしまっているんだろうと思っています。
アキラさんにとって「定額の報酬」は、そういうつもりはなくても、相手からしてみれば「目的のある活動の成果」としか受け取ってもらえないのが【自然】です。
そういった【社会】に適応しているんだから。
力余って、返事が行き過ぎたかもしれません。
ご機嫌を害さねばよいのですが...^^;
>「それに見合った報酬」って どう量るんですかね?
ありがたいご質問です(^^)/
まずです。
「見合う」ということはなんなのでしょうね?
かなり迂遠になるでしょうけれども、力一杯答えてみたいと思います(^^;
アダム=スミスという人がいました。
ご存知だと思います。「神の見えざる手」『国富論』。あと『感情道徳論』。
ぼくたちが学校で教わった時代はアダム=スミスの主著は『国富論』とされていましたが、現在は『感情道徳論』が主著だと考えられるようになってきています。
アダム=スミスが「神の見えざる手」と考えていたのは、実は「国富」のほうではなかったようです。「感情道徳」の方だった。社会分業が進んで貨幣経済が発達すれば、感情道徳も自ずと豊かになると、どうやらアダム=スミスは考えていたらしい。
この考え方は、ぼくが考えていることと同じです。
アダム=スミスは、しかし、間違えていました。社会分業と貨幣経済の発達で「国富」はかつて無いほど豊かになったが逆に「感情道徳」はかつてないほど劣化してしまいました。
なぜそうなったのか。
アダム=スミスは、「神の見えざる手」は“sympathy”を梃子に働くと考えた。
この場合の“sympathy”は「同感」と訳すのが適切だろうと思います。
AとBの現象・事象を同じだと思い為すのが「同感」です。
「同感」の媒介になるのが貨幣です。
AとBはどのように「見合う」のか、という問いの前提あるのは「同感」です。
「同感への力学」といったようなものがないと「見合う」ということは起こりえない。
アダム=スミスの考え方が大枠では正しかったとすれば、「国富」は豊かになったけれど「感情道徳」のほうは劣化したのは、「同感」が実は「神の見えざる手」ではなくて、悪魔の方のそれだったということになります。ゲーテが直観したように。
一方で、〔世界〕は福岡伸一さんが“動的平衡”と呼ぶ現象に満ちています。
もう一方で、〔世界〕には動的ではない平衡にも満ちている。
動的でない平衡とは物理学的な現象。
動的平衡は生物学的な現象です。
平衡と動的平衡がどう違うのか。
あくまでアナロジーですが、「同感」で動くのが物理的平衡です。
ことなるAとBが同じになろうとして変化していくのが平衡です。
動的平衡というのは、平衡現象の中の部分最適です。
平衡がより効率的に進もうとして、自然に構造が出来上がる。
散逸構造です。
この散逸構造を維持し続けるのが動的平衡です。
散逸構造が存在し続けるということが、動的平衡が出現する条件。
つまり、AとBは「違い続ける」ということです。
「違い続ける」ということを前提にすると、「見合う」ということは起こりません。
「見合い」はしないけれど、調和は生まれる。
動的平衡という調和です。
いきなり『論語』ですが、
君子和而不同
小人同而不和
というのがあります。
君子は和して同ぜず。
小人は同じで和せず。
優れた人間は動的平衡を求めるといいのかもしれません。
愉氣もあるいはそうかもしれないと思います。
アキラさんの道場に最初に伺ったとき、「ぴったり」ということを教えてもらいました。
この「ぴったり」は「同じ」ではなくて、「同じだと感じるように違い続ける」ということだったと思います。そうすると、身体は自身の裡に内在するアルゴリズムに従って身体の「あるべきよう」へと自ずから変化していく。
もちろん、これはあくまでぼくの考えです。
誰かの役に立つのは、基本は〈しわよせ〉だとぼくは思っています。
報酬など考えずに誰かの役に立とうとするのは、〈しわよせ〉を自ら引き受けること。
が、個人はずっと〈しわよせ〉を引き受け続けることはできません。
が、Aが引き受けた〈しわよせ〉で生じた〈しわよせ〉を、Bが自身の〈しわよせ〉として引き受けてくれれば、AもBも〈しあわせ〉でいられます。
これはAとBが違うからこそ生まれる動的平衡なんだろうと思うんです。
Aが母親だとすると、子を産むことは〈しわよせ〉です。
Bを父親だとすると、子を産んだ母親を気遣い手助けをするのが〈しわよせ〉です。
この動的平衡に「見合う」という基準はふさわしくない。
そのようなものを持ち込んだ瞬間に、AとBとの関係性において生じていた〈しあわせ〉は霧散してしまいます。
母親の出産育児は【シワヨセ】になる。別の言い方をすれば義務になる。
父親の母親への手助けもまた義務になって【シワヨセ】になる。
社会的には、進行の仕方が逆ですけれど。
家族外との経済関係が【シワヨセ】の押し込み合い。
その圧力が時代を追うごとに高まって、家族関係の中にまで侵入してきてしまっている。
【シワヨセ】の押し合いしか人間関係の構築の仕方を知らないというようなことが起きている。
そうした【人間】が子を産まないという選択をするのは、ぼくはごく自然なことだと思う。
・誰かの役に立ちつつ、それに見合った報酬を得ない(あるいは一切報酬を受けない)
・誰かの役には立たないことで(あるいは誰の役にも立たないことで)、それに見合った?報酬を得る
・誰の役にも立たず、報酬も得ない
「同感」がデフォルトになってしまった【社会】への適応からは、こうした疑問が生まれてくるのは【自然】なことだと思います。
でも、この【自然】は【慣れ】です。
【慣れ】に身を委ねてしまうと、【自然】と〈自然〉の区別が付かなくなる。
自身の身に宿っているはずの〈自然〉を掘り起こすには、【慣れ】に抗う修行が必要です。
ぼくたちは日常の動作を、とある目的に沿って作動させることを常としていています。
でも、たとえば自働運動といったような動作は、それとは逆です。
目的のない動作。
目的のない動作が〈自然〉の活力を生む。
だったら、経済もそうだろうと思う。
目的のない経済活動は〈自然〉の活力を生む。
でも、現在の【システム】の中では目的のない経済活動を営むのは非常に困難です。
自身がそのつもりではなくても、周囲がそのようには見なしてくれません。
なんらかの活動には、かならず目的があると考えられてしまいます。
整体は健康になることが目的の活動だと ^^;
ぼくは違うと思ってますけれど。
というか、ぼくがアキラさんの考えを正しく理解しているなら、違うということになるはずです。
アキラさんはそうでないということを何度も言葉にしているとぼくは受け止めています。
そして、その言葉をうまく受け止めてもらえないという落胆(?)も目にしていると思っています。
なぜそうなるか。
アキラさんの言葉と振る舞いとが食い違っているからだと思っている。
定額の報酬を受け取るという【自然】な社会的行動が、アキラさんの言葉をキャンセルしてしまっているんだろうと思っています。
アキラさんにとって「定額の報酬」は、そういうつもりはなくても、相手からしてみれば「目的のある活動の成果」としか受け取ってもらえないのが【自然】です。
そういった【社会】に適応しているんだから。
力余って、返事が行き過ぎたかもしれません。
ご機嫌を害さねばよいのですが...^^;
サピエンス全史の記事から飛んできました。特に著者の西洋的価値観の評価には唸りました。
金でしか治せない心臓の病気について言及している記事なんて、このブログだけなので、出来れば後発のためにもブログ自体は残してほしいと思います。
何かを成し遂げられないとしても、挑戦する姿勢は尊い。受験勉強頑張ってください。
金でしか治せない心臓の病気について言及している記事なんて、このブログだけなので、出来れば後発のためにもブログ自体は残してほしいと思います。
何かを成し遂げられないとしても、挑戦する姿勢は尊い。受験勉強頑張ってください。
「【シワヨセ】に目を背けるのに一番良い方法」に使われている語句によって(制限して)考えても 「〈しわよせ〉を自ら引き受けること」を言い表せるとは限らないし、
ほとんどの場合は「そもそもそういうことじゃねーよ」ってことになりがちなので、
敢えて「出ているセンテンスを援用して・・での話ですが」と前置きして、その制限の中でだけの組み替えで提示してみて、どれに一番近いか聞いてみました。
別に僕がそのような選択肢を考えているわけではありません。
ですので、詳しく応えてくれて、少し分かりやすくなりました。
ありがとうございます。
また、僕自身はそもそも「〈しわよせ〉を自ら引き受ける」つもりがありませんので、愚慫さんが僕に対して何かを言っていると思っていません。
でも「そういうことを言う人がいるんだ」ということと、何のことをどのように言っているかは理解しておきたいと思ったので、上のような質問をしてみました。
・・ということを前提として。
1、
〈しわよせ〉はずっと引き受け続けることができないものだということですから、それは ある種の負担のようなものですよね?
2、
報酬など考えずに誰かの役に立とうとすることが〈しわよせ〉を自ら引き受けることなんだとすれば、「見合う」うんぬんの話はそもそも必要ないんじゃないですかね?
報酬など考えていないんですから、見合うも見合わないもないでしょう。 (^_^;)
3、
自働運動は、目的のある動作でしょう、心身的には。
4、
整体には目的があります。
「全力発揮して生きる」という。
無目的な活動ではありません。
その目的が、往々にして「健康になること」だと勘違いされるので、困ったもんだとよく呟きますが。
目的がないのではなく、目指す目的が違うという話です。
僕がいただいているのは、その「目的ある活動」の報いとしてのものですね。
すべてが ちょっとづつズレている気がします。
ほとんどの場合は「そもそもそういうことじゃねーよ」ってことになりがちなので、
敢えて「出ているセンテンスを援用して・・での話ですが」と前置きして、その制限の中でだけの組み替えで提示してみて、どれに一番近いか聞いてみました。
別に僕がそのような選択肢を考えているわけではありません。
ですので、詳しく応えてくれて、少し分かりやすくなりました。
ありがとうございます。
また、僕自身はそもそも「〈しわよせ〉を自ら引き受ける」つもりがありませんので、愚慫さんが僕に対して何かを言っていると思っていません。
でも「そういうことを言う人がいるんだ」ということと、何のことをどのように言っているかは理解しておきたいと思ったので、上のような質問をしてみました。
・・ということを前提として。
1、
〈しわよせ〉はずっと引き受け続けることができないものだということですから、それは ある種の負担のようなものですよね?
2、
報酬など考えずに誰かの役に立とうとすることが〈しわよせ〉を自ら引き受けることなんだとすれば、「見合う」うんぬんの話はそもそも必要ないんじゃないですかね?
報酬など考えていないんですから、見合うも見合わないもないでしょう。 (^_^;)
3、
自働運動は、目的のある動作でしょう、心身的には。
4、
整体には目的があります。
「全力発揮して生きる」という。
無目的な活動ではありません。
その目的が、往々にして「健康になること」だと勘違いされるので、困ったもんだとよく呟きますが。
目的がないのではなく、目指す目的が違うという話です。
僕がいただいているのは、その「目的ある活動」の報いとしてのものですね。
すべてが ちょっとづつズレている気がします。
・コメンテーターさん
読み難いであろう文章に目を通していただいたようで、痛み入ります。
「一旦閉める」と書いてしまったのは不適切だったかもしれません。
更新を控える、くらいの意味です。
記事はそのままですし、コメント欄なども開けたままのつもりでいます。
読み難いであろう文章に目を通していただいたようで、痛み入ります。
「一旦閉める」と書いてしまったのは不適切だったかもしれません。
更新を控える、くらいの意味です。
記事はそのままですし、コメント欄なども開けたままのつもりでいます。
・アキラさん
まず申し上げておきますが、ぼくはアキラさんが定額の報酬を得ることについては、一切批判的な気持ちは抱いていません。ぼくも幾度となく報酬をお支払いさせてもらっていますが、それが不当だと思ったことは一度もありません。
ぼくは貧乏人ですけれど、でも、お金を出し渋るというようなことをしたことはないつもりです。
その商品がその対価で提供されているのなら、それは正当なものであると、まずは信じます。
そういった〔システム〕のなかでぼくも生きている以上は、〔システム〕に沿った振る舞いを批判することはしません。
けれど、そのことと〔システム〕を批判することとは話は別。
不当と言えば、たとえばぼくがアキラさんにアキラさんが求める以上の報酬を渡す、ということも可能でしょう。
「貨幣の重力」とでもいうべきものに惹かれている人は、そうした振る舞いを歓迎するでしょう。けれど、アキラさんなら迷惑に感じるだろうと思ったりします。気持ちはありがたいけど、カンベンしてくれ、と思われるのではないか。
ぼくが〔システム〕批判を浮き上がらせるためにしている「話」は、この類いのものです。実社会の中ではそうした振る舞いはしません。けれど、アタマの中では考えるし、そうした振る舞いが迷惑ではなく楽しみになるようなプラットフォームが出現することに期待と希望とを抱えています。
なぜ希望と期待とを抱くかと言えば、現行の〔システム〕はどうみても行き詰まっているようにしかみえないからです。
ですから、このブログの場では希望と期待とを抱いている現行〔システム〕を支えているのとは異なる感覚で文章を書いています。日常生活の感覚とは別の感覚です。ズレるのは当然のことです。
〔システム〕を批判する者は、ぼくを含めて大勢います。
けれど、偉そうに言ってしまいますが、ほとんどの者がルサンチマンでしかありません。
ルサンチマンは我です。
オレを不当に扱うな。
オレに【シワヨセ】を押し付けるな。
それは確かに正当な訴えですが、それが実現しても、誰かのところの別のかたちで【シワヨセ】がいくだけです。
〔システム〕と同じ感覚で〔システム〕を批判しても【シワヨセ】の押し合いだけの話。
それも自ら抱えてしまったルサンチマンの発散でしかない。
八つ当たりです。
ご存知のとおり、ぼくも大きなルサンチマンを抱えた人間です。
でも、ルサンチマンを別の何かを批判することでやり過ごすような振る舞いは、どこからみっともないと感じるようになってきました。
言葉と振る舞いとが一致しないんです。
現在も〔システム〕なかで生きていることは違いありませんが、〔システム〕を支えているのとは別の感覚で生きています。ぼくの中に刺さっていたルサンチマンの棘が抜けてしまうと、それが可能になった。
〔システム〕とは違った感覚で〔システム〕の中を生きるのは正直、大変です。
でも楽しい。とても楽しい。
そういった楽しさを言葉に言葉にできたらいいな、と今は思っています。
それには、『愚樵空論』というぼくのルサンチマンがいっぱい詰まった場はふさわしくないのかな、と考えていたりします。
1、
〈しわよせ〉も【シワヨセ】も負担です。
〈 〉か【 】は、負担する者の主観が違うだけ。
セクハラと同じです。
同様の行為でも、主観が違えばハラスメントになる。
2、
ええ、そうだと思います。
そうなるシステム、あるいはプラットフォームを念頭に話をしています。
3、
アキラさんがそういうなら、そうでしょう。
確かに、ぼくたちの意識からすれば目的を持った行為になります。
自働運動を発動させるには、ちょっとした「スキル」が必要ですからね。
でも、自働運動をしている身体そのものには目的はないと思います。
ぼくたちは日常的に目的をもった動作をしてしまっていて、それを【自然】だと思い込んでしまっているので、自働運動も目的を持ったものだという解釈になってしまうのだ、という主張です。
むすべば柴の庵にて とくればもとの野はらなりけり
自働運動は野原でしょう。
柴の庵は【自然】です。
解くのにスキルが要る。
結ぶのにも要るのですが、そこを意識しないのが【自然】。
4、
3と同じ答えでいいかと思います。
まず申し上げておきますが、ぼくはアキラさんが定額の報酬を得ることについては、一切批判的な気持ちは抱いていません。ぼくも幾度となく報酬をお支払いさせてもらっていますが、それが不当だと思ったことは一度もありません。
ぼくは貧乏人ですけれど、でも、お金を出し渋るというようなことをしたことはないつもりです。
その商品がその対価で提供されているのなら、それは正当なものであると、まずは信じます。
そういった〔システム〕のなかでぼくも生きている以上は、〔システム〕に沿った振る舞いを批判することはしません。
けれど、そのことと〔システム〕を批判することとは話は別。
不当と言えば、たとえばぼくがアキラさんにアキラさんが求める以上の報酬を渡す、ということも可能でしょう。
「貨幣の重力」とでもいうべきものに惹かれている人は、そうした振る舞いを歓迎するでしょう。けれど、アキラさんなら迷惑に感じるだろうと思ったりします。気持ちはありがたいけど、カンベンしてくれ、と思われるのではないか。
ぼくが〔システム〕批判を浮き上がらせるためにしている「話」は、この類いのものです。実社会の中ではそうした振る舞いはしません。けれど、アタマの中では考えるし、そうした振る舞いが迷惑ではなく楽しみになるようなプラットフォームが出現することに期待と希望とを抱えています。
なぜ希望と期待とを抱くかと言えば、現行の〔システム〕はどうみても行き詰まっているようにしかみえないからです。
ですから、このブログの場では希望と期待とを抱いている現行〔システム〕を支えているのとは異なる感覚で文章を書いています。日常生活の感覚とは別の感覚です。ズレるのは当然のことです。
〔システム〕を批判する者は、ぼくを含めて大勢います。
けれど、偉そうに言ってしまいますが、ほとんどの者がルサンチマンでしかありません。
ルサンチマンは我です。
オレを不当に扱うな。
オレに【シワヨセ】を押し付けるな。
それは確かに正当な訴えですが、それが実現しても、誰かのところの別のかたちで【シワヨセ】がいくだけです。
〔システム〕と同じ感覚で〔システム〕を批判しても【シワヨセ】の押し合いだけの話。
それも自ら抱えてしまったルサンチマンの発散でしかない。
八つ当たりです。
ご存知のとおり、ぼくも大きなルサンチマンを抱えた人間です。
でも、ルサンチマンを別の何かを批判することでやり過ごすような振る舞いは、どこからみっともないと感じるようになってきました。
言葉と振る舞いとが一致しないんです。
現在も〔システム〕なかで生きていることは違いありませんが、〔システム〕を支えているのとは別の感覚で生きています。ぼくの中に刺さっていたルサンチマンの棘が抜けてしまうと、それが可能になった。
〔システム〕とは違った感覚で〔システム〕の中を生きるのは正直、大変です。
でも楽しい。とても楽しい。
そういった楽しさを言葉に言葉にできたらいいな、と今は思っています。
それには、『愚樵空論』というぼくのルサンチマンがいっぱい詰まった場はふさわしくないのかな、と考えていたりします。
1、
〈しわよせ〉も【シワヨセ】も負担です。
〈 〉か【 】は、負担する者の主観が違うだけ。
セクハラと同じです。
同様の行為でも、主観が違えばハラスメントになる。
2、
ええ、そうだと思います。
そうなるシステム、あるいはプラットフォームを念頭に話をしています。
3、
アキラさんがそういうなら、そうでしょう。
確かに、ぼくたちの意識からすれば目的を持った行為になります。
自働運動を発動させるには、ちょっとした「スキル」が必要ですからね。
でも、自働運動をしている身体そのものには目的はないと思います。
ぼくたちは日常的に目的をもった動作をしてしまっていて、それを【自然】だと思い込んでしまっているので、自働運動も目的を持ったものだという解釈になってしまうのだ、という主張です。
むすべば柴の庵にて とくればもとの野はらなりけり
自働運動は野原でしょう。
柴の庵は【自然】です。
解くのにスキルが要る。
結ぶのにも要るのですが、そこを意識しないのが【自然】。
4、
3と同じ答えでいいかと思います。
多分「目的」という言葉で扱ってるものが違うのでしょうね。
まぁ、僕にはどうでもいい話です。
野口先生は、『愉氣なり操法なりをした相手から「お陰様で」とお礼を言われたら、それは下手くそだ」と仰います。
つまり、こちら側の働きかけたそれが、相手のためになったと相手が思わないように働きかけることこそ上手ということなのだ・・ということなのだろうと思います。
これこそが、
「誰かの役に立つことを 自らに引き受ける」
ですよね、まさに。
そこですべてが完結している。
その意味での〈しわよせ〉は起こらないんじゃないかと思います。
そこには確かに〈しあわせ〉があるかもしれない。
けれど、相手がそれに対して 何らかの迷惑な感触を受けたら、そこには違う意味での「しわよせ」は起こるように思います。
相手の中に・・ですね。
働きかけた側には残っていない。
何だか困ったことになってる気がします。
僕は、このへんのところに「大人の天心」ということが関わっているように感じています。
で、『誰かの役に立つのは、基本は〈しわよせ〉だ』ということだとしたら。
そこにはすでに、何らかのやましさというか、あざとさのようなものが、働きかける側にすでにあると思うんですね。 (^_^;)
報酬をもらおうが、もらわまいが。
だからこそ「しわよせ」になっちゃうんじゃないかと感じます。
それは働きかけた側に残る「負担」なんだけれど、でも相手もまたそれを「自身の〈しわよせ〉として引き受けてくれれば」、確かにそれは双方に「しあわせ」があるように見えます、思えます。
が、それは僕には「しあわせもどき」なんじゃないか・・と思えるのですよね。
先の野口先生の言葉を考えると。
なので、「なんか違うんじゃないかなぁ・・」と感じちゃいます。
身心については観え方が違うでしょうから、すれ違いはしょうがないと思います。
誰に対しても・・ですが。 (^_^;)
まぁ、僕にはどうでもいい話です。
野口先生は、『愉氣なり操法なりをした相手から「お陰様で」とお礼を言われたら、それは下手くそだ」と仰います。
つまり、こちら側の働きかけたそれが、相手のためになったと相手が思わないように働きかけることこそ上手ということなのだ・・ということなのだろうと思います。
これこそが、
「誰かの役に立つことを 自らに引き受ける」
ですよね、まさに。
そこですべてが完結している。
その意味での〈しわよせ〉は起こらないんじゃないかと思います。
そこには確かに〈しあわせ〉があるかもしれない。
けれど、相手がそれに対して 何らかの迷惑な感触を受けたら、そこには違う意味での「しわよせ」は起こるように思います。
相手の中に・・ですね。
働きかけた側には残っていない。
何だか困ったことになってる気がします。
僕は、このへんのところに「大人の天心」ということが関わっているように感じています。
で、『誰かの役に立つのは、基本は〈しわよせ〉だ』ということだとしたら。
そこにはすでに、何らかのやましさというか、あざとさのようなものが、働きかける側にすでにあると思うんですね。 (^_^;)
報酬をもらおうが、もらわまいが。
だからこそ「しわよせ」になっちゃうんじゃないかと感じます。
それは働きかけた側に残る「負担」なんだけれど、でも相手もまたそれを「自身の〈しわよせ〉として引き受けてくれれば」、確かにそれは双方に「しあわせ」があるように見えます、思えます。
が、それは僕には「しあわせもどき」なんじゃないか・・と思えるのですよね。
先の野口先生の言葉を考えると。
なので、「なんか違うんじゃないかなぁ・・」と感じちゃいます。
身心については観え方が違うでしょうから、すれ違いはしょうがないと思います。
誰に対しても・・ですが。 (^_^;)
・アキラさん
>野口先生は、『愉氣なり操法なりをした相手から「お陰様で」とお礼を言われたら、それは下手くそだ」と仰います。
へえぇ~、さすがですね(^o^)
ということは、野口師にとって報酬は報酬ではなかったということでしょうねぇ。
どこの記事でだったか、道場を建てるのに周囲に迷惑をかけまくってというか、〈しわよせ〉を押し付けまくって建てたということを教えてもらいましたが、そういうのと通じると思います。
言葉と振る舞いとが一致しているというか。
もしかしたら、それが「大人の天心」なのかもしれませんね。(^o^)
あくまで予想ですが、野口師も(と言っていいのか憚られますが)〔システム〕のなかで〔システム〕とは違った感覚で生きていたのでしょう。ぼくあたりには楽しくても大変ですが、野口師は大変とも思ってなかったかもしれない。天狗が空を駆け回るようなもの、かな?
>そこにはすでに、何らかのやましさというか、あざとさのようなものが、働きかける側にすでにあると思うんですね。
それはわかります。
というか、それこそがぼくに言わせれば〔システム〕の刷り込みなんです。
原初的な生活を送っている人たちは「ありがとう」という言葉を言わないと言います。
誰かが獲物を仕留める。
誰かが食物を採集してくる。
ぼくたちの感覚では「ありがとう」というのが自然です。
でも、彼らの自然はそうではない。
マルクスが言った「能力に応じて働き、必要に応じて取る」はぼくたちには不自然だけど、彼らには自然なんでしょうね。
人間の環境適応能力はスゴイですから、環境がそうなればカンタンに適応してしまうと思いますし、そうなればあざとさも感じなくなるだろうというのが、ぼくの楽観です(^^)/
>野口先生は、『愉氣なり操法なりをした相手から「お陰様で」とお礼を言われたら、それは下手くそだ」と仰います。
へえぇ~、さすがですね(^o^)
ということは、野口師にとって報酬は報酬ではなかったということでしょうねぇ。
どこの記事でだったか、道場を建てるのに周囲に迷惑をかけまくってというか、〈しわよせ〉を押し付けまくって建てたということを教えてもらいましたが、そういうのと通じると思います。
言葉と振る舞いとが一致しているというか。
もしかしたら、それが「大人の天心」なのかもしれませんね。(^o^)
あくまで予想ですが、野口師も(と言っていいのか憚られますが)〔システム〕のなかで〔システム〕とは違った感覚で生きていたのでしょう。ぼくあたりには楽しくても大変ですが、野口師は大変とも思ってなかったかもしれない。天狗が空を駆け回るようなもの、かな?
>そこにはすでに、何らかのやましさというか、あざとさのようなものが、働きかける側にすでにあると思うんですね。
それはわかります。
というか、それこそがぼくに言わせれば〔システム〕の刷り込みなんです。
原初的な生活を送っている人たちは「ありがとう」という言葉を言わないと言います。
誰かが獲物を仕留める。
誰かが食物を採集してくる。
ぼくたちの感覚では「ありがとう」というのが自然です。
でも、彼らの自然はそうではない。
マルクスが言った「能力に応じて働き、必要に応じて取る」はぼくたちには不自然だけど、彼らには自然なんでしょうね。
人間の環境適応能力はスゴイですから、環境がそうなればカンタンに適応してしまうと思いますし、そうなればあざとさも感じなくなるだろうというのが、ぼくの楽観です(^^)/
愚慫さんの話に、僕が嗅いでいるのは「甘え」のようなにおいです。
拝み釦さんも似たようなものを嗅ぎとっていましたよね。
相手に甘えることで成り立っている世界。
お釈迦様の掌の上だから成り立っている世界。
整体の型稽古の話で言えば、相手にもたれかかって動いているのに、自身は出来ていると思い込んでいる世界。
「しわよせ」話には、それがわりと形になってあらわれているように感じます。
野口先生はそこを否定する人だと、僕は感じています。
その意味で、恐ろしいくらいに厳しい世界です。
僕などは弱い人間なので、とてもムリだと思ってしまいますけどね。 (^_^;)
これで終わりにします。
拝み釦さんも似たようなものを嗅ぎとっていましたよね。
相手に甘えることで成り立っている世界。
お釈迦様の掌の上だから成り立っている世界。
整体の型稽古の話で言えば、相手にもたれかかって動いているのに、自身は出来ていると思い込んでいる世界。
「しわよせ」話には、それがわりと形になってあらわれているように感じます。
野口先生はそこを否定する人だと、僕は感じています。
その意味で、恐ろしいくらいに厳しい世界です。
僕などは弱い人間なので、とてもムリだと思ってしまいますけどね。 (^_^;)
これで終わりにします。
・アキラさん
最後にそこにきましたか。
ぼくはあなた方がそれを言えてしまうのがさっぱり理解できないです。
ここは一対一ですが、アキラさんの場では一対多になりますよね。
一になっている者に対して「甘えている」と言ってしまえる心性がぼくにはさっぱり理解できない。
疚しさを感じないのかと思いますよ。
「ありがとう」の微妙なあざとさは感じ取れるのに。
甘えというなら、それこそ甘えでしょう。「多」への。
ぼくに甘えているところがあるとしても、それは「多」への甘えではないと思いますけどね。
そんな浅いところに甘えてはいない。というか、甘えられる環境ではないんですよ、残念ながら^^;
野口師の世界が厳しい世界だという。
それはそうなのでしょうし、それを自覚するのはいいことだと思いますけれど、その前に「多」に甘えていることも自覚しましょうよ、とぼくは思います。
そこをスルーして、野口師を引き合いに出して、厳しい世界だなんて言ったって、何を言っているという感じです。
最後にそこにきましたか。
ぼくはあなた方がそれを言えてしまうのがさっぱり理解できないです。
ここは一対一ですが、アキラさんの場では一対多になりますよね。
一になっている者に対して「甘えている」と言ってしまえる心性がぼくにはさっぱり理解できない。
疚しさを感じないのかと思いますよ。
「ありがとう」の微妙なあざとさは感じ取れるのに。
甘えというなら、それこそ甘えでしょう。「多」への。
ぼくに甘えているところがあるとしても、それは「多」への甘えではないと思いますけどね。
そんな浅いところに甘えてはいない。というか、甘えられる環境ではないんですよ、残念ながら^^;
野口師の世界が厳しい世界だという。
それはそうなのでしょうし、それを自覚するのはいいことだと思いますけれど、その前に「多」に甘えていることも自覚しましょうよ、とぼくは思います。
そこをスルーして、野口師を引き合いに出して、厳しい世界だなんて言ったって、何を言っているという感じです。
独り言なんておためごかしはやめておきましょう。
気分が悪くなったから、毒を吐きます。
野口師はスゴい人だったろうと、残された写真を見ただけでも感じます。
でも、ありがちな間違いをひとつしでかしたと思わなくはない。
整体協会なるものをつくったことです。
〔システム〕を整備したこと。
〔システム〕に拠って「多」に甘える人間はダメになります。
〔システム〕ができる以前の〔個〕に拠らざるをえなかった者の厳しさを知りようがないから。
サピエンスという生き物にとって〔個〕は厳しい。
それは生物学的進化論的〔しわよせ〕。
その厳しさを身をもって知っている者は、自身に内蔵されている社会性を発動しようとする。
それは甘えでも何でもなく、サピエンスというものの〈自然〉。
甘えという言葉を用いるなら〈いのち〉への〈甘え〉でしょう。
同じ甘えでも〔システム〕への【甘え】とは非なるものです。
〈甘え〉は大いに発動させるべきもの。
【甘え】は排除していくべきもの。
【甘え】は〈甘え〉を阻害するから。
【甘え】に安住したい者にとっては〈甘え〉は迷惑なのでしょうね。
自分たちが愛用している【コルセット】を外さなければならなくなるからね。
【コルセット】を外す覚悟のない者には野口師は厳しいでしょう。
野口師はスゴイ、オレは弱い、でも野口師が編み出した技法にすがっていれば【我】は保っていられる。その意味でも野口師はスゴイ。凄すぎたのかもしれない。
【我】を見つめることでは長い歴史がある仏教では、こう言います。
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
ほんと、厳しいです。
気分が悪くなったから、毒を吐きます。
野口師はスゴい人だったろうと、残された写真を見ただけでも感じます。
でも、ありがちな間違いをひとつしでかしたと思わなくはない。
整体協会なるものをつくったことです。
〔システム〕を整備したこと。
〔システム〕に拠って「多」に甘える人間はダメになります。
〔システム〕ができる以前の〔個〕に拠らざるをえなかった者の厳しさを知りようがないから。
サピエンスという生き物にとって〔個〕は厳しい。
それは生物学的進化論的〔しわよせ〕。
その厳しさを身をもって知っている者は、自身に内蔵されている社会性を発動しようとする。
それは甘えでも何でもなく、サピエンスというものの〈自然〉。
甘えという言葉を用いるなら〈いのち〉への〈甘え〉でしょう。
同じ甘えでも〔システム〕への【甘え】とは非なるものです。
〈甘え〉は大いに発動させるべきもの。
【甘え】は排除していくべきもの。
【甘え】は〈甘え〉を阻害するから。
【甘え】に安住したい者にとっては〈甘え〉は迷惑なのでしょうね。
自分たちが愛用している【コルセット】を外さなければならなくなるからね。
【コルセット】を外す覚悟のない者には野口師は厳しいでしょう。
野口師はスゴイ、オレは弱い、でも野口師が編み出した技法にすがっていれば【我】は保っていられる。その意味でも野口師はスゴイ。凄すぎたのかもしれない。
【我】を見つめることでは長い歴史がある仏教では、こう言います。
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
ほんと、厳しいです。
>【甘え】に安住したい者にとっては〈甘え〉は迷惑なのでしょうね。
自分たちが愛用している【コルセット】を外さなければならなくなるからね。
・・・・・・・・・・
一になっている者に対して「甘えている」と言ってしまえる心性がぼくにはさっぱり理解できない。
ぼくに甘えているところがあるとしても、それは「多」への甘えではないと思いますけどね。
そんな浅いところに甘えてはいない。
<
(^o^)(笑)
(皮肉な笑いではなく、満面の笑みで)
自分たちが愛用している【コルセット】を外さなければならなくなるからね。
・・・・・・・・・・
一になっている者に対して「甘えている」と言ってしまえる心性がぼくにはさっぱり理解できない。
ぼくに甘えているところがあるとしても、それは「多」への甘えではないと思いますけどね。
そんな浅いところに甘えてはいない。
<
(^o^)(笑)
(皮肉な笑いではなく、満面の笑みで)
(T_T)
(悲しいのではなく...)
(悲しいのではなく...)
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【シワヨセ】に目を背けるのに一番良い方法が「誰かの役に立つこと」で、それに見合った報酬を得ることなのだったら、
〈しわよせ〉を自ら引き受けることは、以下のどれになるのでしょう?
・誰かの役に立ちつつ、それに見合った報酬を得ない(あるいは一切報酬を受けない)
・誰かの役には立たないことで(あるいは誰の役にも立たないことで)、それに見合った?報酬を得る
・誰の役にも立たず、報酬も得ない
どれに近いんでしょう?
ちなみに、「それに見合った報酬」って どう量るんですかね? (^o^)