人間は敵か味方か? その2
2013-12-30
年の瀬の日本社会をぬるく賑わわせている靖国参拝問題をネタに。
靖国神社にお国のために尽くした(とされる)「英霊」が祀られている。
国際社会の論理、もっというと戦勝国の論理では、A級戦犯は「平和と人道に対する罪」を犯した重罪人であっても、日本人の宗教観では同じ英霊――という感覚を理解できるような気がする。
人間は人間の味方、という感覚。
現世での役割を終え、死して純粋な『人間』となったとき、その魂は人間の味方という感覚。
たとえ現世に怨恨を抱いて死んでしまったとしても、きちんとお祀りをすれば人間の味方になってくれるという、ある意味では「甘え」かもしれない。
しかし、この感覚は世界のスタンダードではないようだ。
人間は敵という感覚。田中良紹さんの記事は、その感覚を的確に映し出していると思う。
「戦争に勝ってからやれ」とアメリカは考えている
アメリカ人が理解不能なのは日本人だけではないだろう。中国人だって理解不能だろう。理解不能な相手は敵なので、征服しない限りは安全は保てない。たとえあの世へ行こうと関係がない。
靖国参拝を支持する人たちは、「平和と人道に対する罪」は戦勝国がねつ造したものだという。
それはその通り。「人間は敵」だというエートスを元にしている。
しかし、それをいうならば近代国家という枠組みだって「人間は敵」だというエートスを元に作られている。
だからこそ靖国神社に祀られる人たちは、特に「英霊」と呼ばれる。敵と戦ったから「英霊」。
いくら「不戦の誓い」と言ったって、ダメ。
「人間は敵」のエートスの元では、平和とは、戦勝国の論理が機能している状態を指すのだから。
すなわち、パックス・アメリカーナ。
「靖国の心」を世界にアピールしたいならば、そのベースは、戦後日本ならば9条がよいだろう。
9条のエートスは「人間は味方」。
「人間は味方」というエートスを体現することが出来る人間が靖国へ参るのならば、その心も理解してもらえよう。
靖国神社にお国のために尽くした(とされる)「英霊」が祀られている。
国際社会の論理、もっというと戦勝国の論理では、A級戦犯は「平和と人道に対する罪」を犯した重罪人であっても、日本人の宗教観では同じ英霊――という感覚を理解できるような気がする。
人間は人間の味方、という感覚。
現世での役割を終え、死して純粋な『人間』となったとき、その魂は人間の味方という感覚。
たとえ現世に怨恨を抱いて死んでしまったとしても、きちんとお祀りをすれば人間の味方になってくれるという、ある意味では「甘え」かもしれない。
しかし、この感覚は世界のスタンダードではないようだ。
人間は敵という感覚。田中良紹さんの記事は、その感覚を的確に映し出していると思う。
「戦争に勝ってからやれ」とアメリカは考えている
日本人は昭和20年の8月15日で戦争は終わったと思っている。しかしアメリカは日本との戦争は永遠に続くと考えている。ドイツと違い日本はアメリカにとって理解不能な国家であり、日本民族をアメリカ流に洗脳し続けなければアメリカの安全は保てないとアメリカは考えているのである。その事を日本人は全く理解していない。
アメリカ人が理解不能なのは日本人だけではないだろう。中国人だって理解不能だろう。理解不能な相手は敵なので、征服しない限りは安全は保てない。たとえあの世へ行こうと関係がない。
靖国参拝を支持する人たちは、「平和と人道に対する罪」は戦勝国がねつ造したものだという。
それはその通り。「人間は敵」だというエートスを元にしている。
しかし、それをいうならば近代国家という枠組みだって「人間は敵」だというエートスを元に作られている。
だからこそ靖国神社に祀られる人たちは、特に「英霊」と呼ばれる。敵と戦ったから「英霊」。
いくら「不戦の誓い」と言ったって、ダメ。
「人間は敵」のエートスの元では、平和とは、戦勝国の論理が機能している状態を指すのだから。
すなわち、パックス・アメリカーナ。
「靖国の心」を世界にアピールしたいならば、そのベースは、戦後日本ならば9条がよいだろう。
9条のエートスは「人間は味方」。
「人間は味方」というエートスを体現することが出来る人間が靖国へ参るのならば、その心も理解してもらえよう。
人間は敵か味方か?
2013-12-23
「ばらばら」の続きで考えている。人間は、人間自身の敵か味方か?
常識的にミクロに考えれば、ケースバイケースだろう。人間の中に敵もいれば味方もいる。
では、大きくマクロで考えればどうか?
いろいろと突っ込みどころはあるけれども、味方というのが大方の答えではないだろうか。
エートスという学術用語がある。
一定の社会集団(民族など)を暗黙のうちに支配する倫理的な心的態度というような意味だが、「人間は人間の味方」というのは、最もベーシックなエートスのようにも思える。人間が社会を営むことができるのは、味方同士だからのはず。
しかし、これはもしかしたら、日本人のような特殊な人々のエートスでしかないのかもしれない。
ずいぶん前から、民主主義は闘争が前提だと私は考えるようになっているが、だとすると、「人間は人間の敵」がエートスだということになる。
人間は敵同士。なので殺し合う。戦争をする。
が、殺し合っていては大変なので、殺し合わないで済むための仕組みを作った。その方法のひとつが民主主義。
近代民主主義に欠かせない議会は、ホンモノの殺し合いを回避するための代替機関。
憲法は、国家というバケモノが国民を殺さないようにするための契約書。
「人間は敵」がエートスだとして、殺し合いを回避するのに民主主義以外に合理的な方法があるだろうか?
民主主義よりもずっと昔に殺し合わない方法論を確立したのが中国――と上掲書で明記されているわけではないけれども、橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司の鼎談から浮かび上がってくるのは、そういうことなんだろうと思う。
鼎談は、中国は「国家」なのか? という疑問提示からスタートする。
中国が国際社会から主権国家として承認され振る舞っていることは厳然とした事実だが、その中身はどうも国民国家(nation state)ではないようだ。中国は国民国家を作り上げた西洋の物差しでは測ることができなさそう。では、中国を中国たらしめている「同一性」は何なのだろうか?
中国は歴史上最も早く、しかも大規模に統一を成し遂げた場所である。
そのような偉業が成立した最大の理由は、地形。真っ平らな平原がどこまでも広がる。中華平原。
集約的かつ大規模な農業が行いやすい。そうなると「獲物」を狙って大勢の人間が集まる。戦争になる。
広大は平原は、戦争をしやすいと同時に、政治的統合を成し遂げるにもコストが安くて済む。
中華平原を最初に統一した秦は、統治理論として法家を採用した。信賞必罰の思想だが、うまく行かず秦は短期で崩壊。つづく漢は儒教を採用し、うまく行く。
儒教は統治の技術を提供するノウハウの塊。
儒教の根本は先祖崇拝である。トップリーダー(君主)が有能であった古代を理想化し、有能君主を確保するための「禅譲」を最善とする。しかし、「禅譲」では政治は安定しない。それで次善の策として、君主を支えるブレーンに有能さを求め、君主を支えることを是とした。
先祖崇拝は同時に、中国を支える農民にもアイデンティティを提供する。さらに、農民のなかから有能な者を選抜する仕組みも出来上がる。
儒教は「天」という思想も提供する。
「天」は「天子(皇帝)」に中原の統治を託す。
統治を託された天子は、有能な人材を選抜して統治を実践する。
このようにして秩序づけられた社会では、人間同士が味方である必要は必ずしもない。
その意味では近代民主主義と同じ。
西洋式近代民主主義と中国方式の違いは、統治を託されるのが大勢かひとりかの違い。
近代民主主義は、絶対的存在である創造神から一人前の存在として認められた市民が闘争しながら政治を行う。
中国では、絶対的存在である天から、一人前として認められるのは天子ただひとりで、有能な手足(官僚)を使いながら政治を行う。
そして、近代民主主義的闘争も、天子の治政も、目的とするところは同じ。殺し合いの回避である。
ただ、殺し合いを回避するために殺すことは許される。この倒錯した論理は、近代民主主義社会においては主権国家間の戦争を是認する論理になるが、中国式では統治のために人民を殺害を認める論理になる。
人民を殺害できる論理が働く社会で、「国民」などという幻想が機能するはずがない。
互いに敵同士の人間が、ぎりぎりで衝突を回避しつつ秩序を構築している闘争社会。
あからさまな闘争社会を秩序づけているのは、天-天子という基軸である。この軸さえしっかりしていれば、統治手段である儒教でさえ捨てることが出来る。
大勢の犠牲を強いた文化大革命は、天子の位置に座った毛沢東が、統治手段である儒教を廃棄することによって生じた混乱だが、この混乱を通過することで、中国は「近代化」へのステップを超えることができた――というのが、橋爪大三郎が提示する見解。
近代化した中国人は「毛沢東」を求める。なぜなら毛沢東こそは、人民に直接政治へ参加する道を拓いたから。闘争社会に生きる中国人は元来徹底的に個人主義だが、儒教は社会を徹底的に序列化したため、実際はごく限られた人間しか政治に参加することが出来なかった。
以上のように考えてみると、どうしても比べたくなるのは日本人。日本人エートスは「人間は味方」だと、どうしても思ってしまう...。
常識的にミクロに考えれば、ケースバイケースだろう。人間の中に敵もいれば味方もいる。
では、大きくマクロで考えればどうか?
いろいろと突っ込みどころはあるけれども、味方というのが大方の答えではないだろうか。
エートスという学術用語がある。
一定の社会集団(民族など)を暗黙のうちに支配する倫理的な心的態度というような意味だが、「人間は人間の味方」というのは、最もベーシックなエートスのようにも思える。人間が社会を営むことができるのは、味方同士だからのはず。
しかし、これはもしかしたら、日本人のような特殊な人々のエートスでしかないのかもしれない。
ずいぶん前から、民主主義は闘争が前提だと私は考えるようになっているが、だとすると、「人間は人間の敵」がエートスだということになる。
人間は敵同士。なので殺し合う。戦争をする。
が、殺し合っていては大変なので、殺し合わないで済むための仕組みを作った。その方法のひとつが民主主義。
近代民主主義に欠かせない議会は、ホンモノの殺し合いを回避するための代替機関。
憲法は、国家というバケモノが国民を殺さないようにするための契約書。
「人間は敵」がエートスだとして、殺し合いを回避するのに民主主義以外に合理的な方法があるだろうか?
民主主義よりもずっと昔に殺し合わない方法論を確立したのが中国――と上掲書で明記されているわけではないけれども、橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司の鼎談から浮かび上がってくるのは、そういうことなんだろうと思う。
鼎談は、中国は「国家」なのか? という疑問提示からスタートする。
中国が国際社会から主権国家として承認され振る舞っていることは厳然とした事実だが、その中身はどうも国民国家(nation state)ではないようだ。中国は国民国家を作り上げた西洋の物差しでは測ることができなさそう。では、中国を中国たらしめている「同一性」は何なのだろうか?
中国は歴史上最も早く、しかも大規模に統一を成し遂げた場所である。
そのような偉業が成立した最大の理由は、地形。真っ平らな平原がどこまでも広がる。中華平原。
集約的かつ大規模な農業が行いやすい。そうなると「獲物」を狙って大勢の人間が集まる。戦争になる。
広大は平原は、戦争をしやすいと同時に、政治的統合を成し遂げるにもコストが安くて済む。
中華平原を最初に統一した秦は、統治理論として法家を採用した。信賞必罰の思想だが、うまく行かず秦は短期で崩壊。つづく漢は儒教を採用し、うまく行く。
儒教は統治の技術を提供するノウハウの塊。
儒教の根本は先祖崇拝である。トップリーダー(君主)が有能であった古代を理想化し、有能君主を確保するための「禅譲」を最善とする。しかし、「禅譲」では政治は安定しない。それで次善の策として、君主を支えるブレーンに有能さを求め、君主を支えることを是とした。
先祖崇拝は同時に、中国を支える農民にもアイデンティティを提供する。さらに、農民のなかから有能な者を選抜する仕組みも出来上がる。
儒教は「天」という思想も提供する。
「天」は「天子(皇帝)」に中原の統治を託す。
統治を託された天子は、有能な人材を選抜して統治を実践する。
このようにして秩序づけられた社会では、人間同士が味方である必要は必ずしもない。
その意味では近代民主主義と同じ。
西洋式近代民主主義と中国方式の違いは、統治を託されるのが大勢かひとりかの違い。
近代民主主義は、絶対的存在である創造神から一人前の存在として認められた市民が闘争しながら政治を行う。
中国では、絶対的存在である天から、一人前として認められるのは天子ただひとりで、有能な手足(官僚)を使いながら政治を行う。
そして、近代民主主義的闘争も、天子の治政も、目的とするところは同じ。殺し合いの回避である。
ただ、殺し合いを回避するために殺すことは許される。この倒錯した論理は、近代民主主義社会においては主権国家間の戦争を是認する論理になるが、中国式では統治のために人民を殺害を認める論理になる。
人民を殺害できる論理が働く社会で、「国民」などという幻想が機能するはずがない。
互いに敵同士の人間が、ぎりぎりで衝突を回避しつつ秩序を構築している闘争社会。
あからさまな闘争社会を秩序づけているのは、天-天子という基軸である。この軸さえしっかりしていれば、統治手段である儒教でさえ捨てることが出来る。
大勢の犠牲を強いた文化大革命は、天子の位置に座った毛沢東が、統治手段である儒教を廃棄することによって生じた混乱だが、この混乱を通過することで、中国は「近代化」へのステップを超えることができた――というのが、橋爪大三郎が提示する見解。
近代化した中国人は「毛沢東」を求める。なぜなら毛沢東こそは、人民に直接政治へ参加する道を拓いたから。闘争社会に生きる中国人は元来徹底的に個人主義だが、儒教は社会を徹底的に序列化したため、実際はごく限られた人間しか政治に参加することが出来なかった。
以上のように考えてみると、どうしても比べたくなるのは日本人。日本人エートスは「人間は味方」だと、どうしても思ってしまう...。
おおかみこどもの雨と雪
2013-12-22
ばらばらとか、ひとつだとか考えながら、思い出していたのが...
「ばらばらでひとつ」が際立つお話。
おおかみおとこと恋に落ちて、ふたりのおおかみこども雪(姉)と雨(弟)をもうけた花。しばらく都会で幸せに暮らしていたが、おとこは事故で亡くなる。花は、おおかみこどもを育てるために、田舎暮らしを始める。雪と雨が、人間とおおかみのどちらを選択してもよいように。迫る選択の時――
といった感じでストーリー紹介が公式HPでなされているけれど、「選択」なんてあっただろうか? 雨と雪は、それぞれがそれぞれに行くべき道を行く。
未来を想像することができる大人からすれば、おおかみこどもの行く手に「おおかみか人間か」の選択肢があることは、容易に予想出来てしまう。けれど、子どもにはそういった「選択」は、そもそもない。そういった「選択」を押しつけるのは、大人である。
『おおかみこども』でも、「選択」の押しつけは登場する。母親である花の困惑という形で。
おおかみこどもの雨と雪を育て上げようと、二人を連れて田舎へ隠遁する花。けれど、そこで直面するのは、人間同士の絆。助け合って生きていく素朴な人間の社会。結局、人間は社会なしでは暮らしていけない。
しかし、おおかみこどもは、悲しいかな“化け物”である。本性を自在に発揮してしまったら人間社会で平穏に暮らすことはできない。自在に本性を発揮しようとするおおかみこどもに、花が困惑するのは無理もない。つまり、花には選択肢がない。
選択肢のない花は、人間であることをおおかみこどもに強いることになる。否応なく「選択」の押しつけが生じてしまうが、この「押し付け」は、子への(人間の)母親の愛情である。
雪が、雨が、どのように「選択」を撥ねのける、あるいは躱すのかは、書いてみたいけど、控える。
(12月20日にTV放映がなかったら、書くのだけど)
花と雪と雨は、ばらばらである。しっかり家族だけど、ばらばら。むしろ、しっかり家族だからこそ、ばらばらになることができた。「家族だからこうあるべし」といった論理がもしこの家族に強く働いたら...、
ちょっと言葉が飛躍しすぎだな。
「ばらばら」は「自立」の基礎である。花の愛情によって育まれた雪と雨は、愛情を糧に成長し自立する。
生き物の本性は「ばらばら」である。「自立」は、その本性が発露することだ。
『おおかみこどもの雨と雪』というファンタジーは、ヒトとオオカミが交わるというあり得ない設定を元に描かれている。だからこそ「ばらばら」が際立つ。そして、その「ばらばら」を眺める私は、なぜか「世界をひとつ」に感じるのである。
なぜなんだろうね?
「ばらばらでひとつ」が際立つお話。
おおかみおとこと恋に落ちて、ふたりのおおかみこども雪(姉)と雨(弟)をもうけた花。しばらく都会で幸せに暮らしていたが、おとこは事故で亡くなる。花は、おおかみこどもを育てるために、田舎暮らしを始める。雪と雨が、人間とおおかみのどちらを選択してもよいように。迫る選択の時――
といった感じでストーリー紹介が公式HPでなされているけれど、「選択」なんてあっただろうか? 雨と雪は、それぞれがそれぞれに行くべき道を行く。
未来を想像することができる大人からすれば、おおかみこどもの行く手に「おおかみか人間か」の選択肢があることは、容易に予想出来てしまう。けれど、子どもにはそういった「選択」は、そもそもない。そういった「選択」を押しつけるのは、大人である。
『おおかみこども』でも、「選択」の押しつけは登場する。母親である花の困惑という形で。
おおかみこどもの雨と雪を育て上げようと、二人を連れて田舎へ隠遁する花。けれど、そこで直面するのは、人間同士の絆。助け合って生きていく素朴な人間の社会。結局、人間は社会なしでは暮らしていけない。
しかし、おおかみこどもは、悲しいかな“化け物”である。本性を自在に発揮してしまったら人間社会で平穏に暮らすことはできない。自在に本性を発揮しようとするおおかみこどもに、花が困惑するのは無理もない。つまり、花には選択肢がない。
選択肢のない花は、人間であることをおおかみこどもに強いることになる。否応なく「選択」の押しつけが生じてしまうが、この「押し付け」は、子への(人間の)母親の愛情である。
雪が、雨が、どのように「選択」を撥ねのける、あるいは躱すのかは、書いてみたいけど、控える。
(12月20日にTV放映がなかったら、書くのだけど)
花と雪と雨は、ばらばらである。しっかり家族だけど、ばらばら。むしろ、しっかり家族だからこそ、ばらばらになることができた。「家族だからこうあるべし」といった論理がもしこの家族に強く働いたら...、
ちょっと言葉が飛躍しすぎだな。
「ばらばら」は「自立」の基礎である。花の愛情によって育まれた雪と雨は、愛情を糧に成長し自立する。
生き物の本性は「ばらばら」である。「自立」は、その本性が発露することだ。
『おおかみこどもの雨と雪』というファンタジーは、ヒトとオオカミが交わるというあり得ない設定を元に描かれている。だからこそ「ばらばら」が際立つ。そして、その「ばらばら」を眺める私は、なぜか「世界をひとつ」に感じるのである。
なぜなんだろうね?
世界をひとつだと信じる
2013-12-12
それでも、私は世界をひとつだと信じている。
世界はばらばらに違いない。そう捉えることから出発するのが良いと考えている。けれども、信じているのは、ひとつ。
考えていることと、信じていることは整合しない。
が、それでいいと思う。
世界はひとつであるに違いないと考え、そのように信じる。この「信じる」は【信じる】である。
世界はばらばらであると考えつつも、ひとつだと信じる。この「信じる」は〈信じる〉。
【信じる】も〈信じる〉も、どちらも「信じる」としか言いようがないけれども、その構えはまるで違う。
【信じる】は、信じていないこととの境は明瞭で頑固。中は空っぽ。そして、境に綻びが生じてしまうと【信じる】ことそのものが崩壊してしまう。
〈信じる〉は、信じていないこととの境が曖昧だけれども、信じていることの中心へ行くほど、〈信じる〉が色濃くなっていくようなイメージ。
世界がばらばらに見えれば見えるほど、世界をひとつに感じる。
ばらばらであるにもかかわらず、ひとつ。
ばらばらであればあるほど、“にもかかわらず”の逆接が大きくなる。
この逆接こそが〈信〉ではないだろうか。
世界はばらばらに違いない。そう捉えることから出発するのが良いと考えている。けれども、信じているのは、ひとつ。
考えていることと、信じていることは整合しない。
が、それでいいと思う。
世界はひとつであるに違いないと考え、そのように信じる。この「信じる」は【信じる】である。
世界はばらばらであると考えつつも、ひとつだと信じる。この「信じる」は〈信じる〉。
【信じる】も〈信じる〉も、どちらも「信じる」としか言いようがないけれども、その構えはまるで違う。
【信じる】は、信じていないこととの境は明瞭で頑固。中は空っぽ。そして、境に綻びが生じてしまうと【信じる】ことそのものが崩壊してしまう。
〈信じる〉は、信じていないこととの境が曖昧だけれども、信じていることの中心へ行くほど、〈信じる〉が色濃くなっていくようなイメージ。
世界がばらばらに見えれば見えるほど、世界をひとつに感じる。
ばらばらであるにもかかわらず、ひとつ。
ばらばらであればあるほど、“にもかかわらず”の逆接が大きくなる。
この逆接こそが〈信〉ではないだろうか。
ばらばら その2
2013-12-03
環世界という概念のことを知ったのは、去年の今頃だったろうか。
『暇と退屈の倫理学』で紹介されていた。
環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。
すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
(Wikiedia より)
有名なのはダニの事例。
ダニの行動を簡単に記述することができる。
「木の枝などにじっとぶら下がっていて、ヒトやイヌなどの哺乳動物が通りがかるのと取り付いて、吸血をする」
当たり前だけれど、この記述は人間にだけ通用するもの。記述できるのは人間だけなので。しかし人間は、たとえ記述はできなくても、「枝」とか「ヒト」とかいうものをダニも認知しているに違いないと、なんとなく思い込んでいるが、環世界という概念は、それはダニにとっては違うと指摘する。
ダニの感覚装置は、哺乳動物が発散する酪酸という化学物質に反応する感覚(嗅覚)と、動物の体温に反応する温度感覚と、触覚しかない。「枝」とか「ヒト」とか「ぶら下がる」といったヒトが視覚を頼りに作り上げたパーツはダニの世界には存在しない。「酪酸を感知して手を離し」「触覚が何かを感知したら手でつかみ」「温度を感知したら吸血する」といった行動を(人間の基準からすると)機械的に行うだけ。
ダニとヒトとでは棲んでいる(環)世界が違う。つまり、ばらばら。
ここまでは科学的に証明できる話だろうと思う。
では、そこから先。同じ感覚をもつヒト同士では、(環)世界は同じなのだろうか?
違うと私は思う。科学的に検証はされていないだろうけれども。すなわち、ヒト同士でも、ダニほどには違わないにせよ(環)世界は、ばらばら。
根拠(らしきもの)をあげるとすれば、その1、体癖。
ざっくりいうと、身体が違えば感覚も違う、でいいかな?
その2。アスペルガーやADHDといった症例が報告されていること。これらは「発達障害」と偏った呼称をされるけれども、これらは誰にでもある脳の情報処理の癖、言うならば“脳癖”の極端なものだ言える(というのは、私の勝手な解釈だが)。
同じ種だからといってセンサーの精度が同じでないことは感覚的にわかるが、精度に差はあっても、情報処理は同じなので、精度の差という落差は超えることができる。そうなんとなく考えていた。が、どうやら違う。情報処理にも個体ごとに癖がある。感覚とは、センサーからの情報処理によって生じる生体現象なのだから、情報処理が違えば感覚も異なるはずで、感覚が異なれば(環)世界も異なる。
ここでラカンの現実界という概念を引っ張り出してみる。現実界とは、
空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実
なんだそうだ。こちらも言わんとするところは、ばらばら。
だけれども、現実界のばらばらと環世界のばらばらは、同じではない。現実界は空虚だというが、環世界は充溢している。
私は、私の棲んでいる世界が充溢した世界であって欲しいと願うし、そう信じている。たとえ、ばらばらでも。
『暇と退屈の倫理学』で紹介されていた。
環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。
すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
(Wikiedia より)
有名なのはダニの事例。
ダニの行動を簡単に記述することができる。
「木の枝などにじっとぶら下がっていて、ヒトやイヌなどの哺乳動物が通りがかるのと取り付いて、吸血をする」
当たり前だけれど、この記述は人間にだけ通用するもの。記述できるのは人間だけなので。しかし人間は、たとえ記述はできなくても、「枝」とか「ヒト」とかいうものをダニも認知しているに違いないと、なんとなく思い込んでいるが、環世界という概念は、それはダニにとっては違うと指摘する。
ダニの感覚装置は、哺乳動物が発散する酪酸という化学物質に反応する感覚(嗅覚)と、動物の体温に反応する温度感覚と、触覚しかない。「枝」とか「ヒト」とか「ぶら下がる」といったヒトが視覚を頼りに作り上げたパーツはダニの世界には存在しない。「酪酸を感知して手を離し」「触覚が何かを感知したら手でつかみ」「温度を感知したら吸血する」といった行動を(人間の基準からすると)機械的に行うだけ。
ダニとヒトとでは棲んでいる(環)世界が違う。つまり、ばらばら。
ここまでは科学的に証明できる話だろうと思う。
では、そこから先。同じ感覚をもつヒト同士では、(環)世界は同じなのだろうか?
違うと私は思う。科学的に検証はされていないだろうけれども。すなわち、ヒト同士でも、ダニほどには違わないにせよ(環)世界は、ばらばら。
根拠(らしきもの)をあげるとすれば、その1、体癖。
ざっくりいうと、身体が違えば感覚も違う、でいいかな?
その2。アスペルガーやADHDといった症例が報告されていること。これらは「発達障害」と偏った呼称をされるけれども、これらは誰にでもある脳の情報処理の癖、言うならば“脳癖”の極端なものだ言える(というのは、私の勝手な解釈だが)。
同じ種だからといってセンサーの精度が同じでないことは感覚的にわかるが、精度に差はあっても、情報処理は同じなので、精度の差という落差は超えることができる。そうなんとなく考えていた。が、どうやら違う。情報処理にも個体ごとに癖がある。感覚とは、センサーからの情報処理によって生じる生体現象なのだから、情報処理が違えば感覚も異なるはずで、感覚が異なれば(環)世界も異なる。
ここでラカンの現実界という概念を引っ張り出してみる。現実界とは、
空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実
なんだそうだ。こちらも言わんとするところは、ばらばら。
だけれども、現実界のばらばらと環世界のばらばらは、同じではない。現実界は空虚だというが、環世界は充溢している。
私は、私の棲んでいる世界が充溢した世界であって欲しいと願うし、そう信じている。たとえ、ばらばらでも。