『カンタ! ティモール』を観た
『カンタ!ティモール』は、正式にリリースされたということらしいけれども、一般の映画館でロードショウされてもいなければ、DVD等が販売されているわけでもない。触れる機会は今のところ、各地で企画される自主上映会しかない――かどうか、正確なところはわからないのだけど、そういった状況らしい。
そのような映画を、機縁があって観ることが出来た。私が出会った映画の中で、最高のもの。おそらく。本や音楽を含めて「出会った作品」と範囲を広げても、間違いなく五本の指に入る。洗練された作品なんかでは、決してないのだけれど。
実は昨日は、招待状が届いて見に行くつもりでいたのだけれども、キャンセルしようと思っていた。上映会は午前と午後の2回の予定になっていて、午前は仕事に出て、午後から観に行こうと思っていたのだが、作業の場所が、昼から一人で引き上げるのが難しいようなところだった。映画を一本観るために、仕事を一日休むのももったいない。そう思っていた。
ところが幸いなことに、天気予報が外れて朝から雨。ならば、観に行こう。それが大正解。あれならば、一日仕事を休んで観る価値はあった。けど、そんなのは事前にわからない。だから、これは機縁。
『カンタ!ティモール』は、どのような映画か。他の作品との比較で言うならば、『ガンジー』から受けた印象に近い。ただ、『ガンジー』よりずっと、素朴で力強い。それは映画『ガンジー』と違って、こちらはドキュメンタリーだからというのもあるけれども、それだけではない。文明化したインドと、文字さえ持たない人々との差。文明は素晴らしいものだけれども、反面、私たちから「大切な何か」を奪ってしまった。そのことを思い知らされる映画だ。
マハトマ・ガンジーの偉大さは、言うまでもない。非暴力不服従を掲げて、インドを支配していたイギリスからの独立運動を主導し、勝利を収めた。ガンジーは多くのインド人を目覚めさせて、そのことがインドの独立に結びついた。東ティモールの場合は、非暴力闘争ではなかったのだろう。が、インドのように、偉大な主導者によって目覚めさせられたのではない。人々は初めから目覚めていた。「大切な何か」をずっと忘れずにいた。
だから。『カンタ!ティモール』には、素朴なガンジーがぞろぞろと出てくる。「非暴力」をガンジーのメルクマールとするなら東ティモールの人たちはガンジーではないだろうが、「赦し」がメルクマールなら、立派にガンジーだ。24年間で人口の3分の1を失うという、狂気のような殺りくを受けながら――その最中には、当然、家族や仲間が惨たらしく殺される瞬間を目の当たりにした人、自身も筆舌に尽くし難い扱いを受けた人がいるわけで、そのような人が映画に登場してくるのだけれど、皆、悲しみは抱えていても、恨み、怒りを抱いてはいない。
「悲しい。いつまでも悲しみは消えない。でもそれは怒りじゃない。」
「日本、ティモール、インドネシア。みな同じ。
母一人、父も一人。大地の子ども。
叩いちゃいけない。怒っちゃいけない。」
⇒「Canta! Timor]ストーリー
なぜ、そんなふうに赦すことができるのか。彼らは、「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出すべし」などいった「教え」を守っているわけではない。そのように振る舞うのが、彼らにとってはごく自然なこと。文明によって傷つけられた大地が黙々とその傷を癒やすように、彼らもまた、自分たちの傷を自分たちで癒やしていく。その力強さと優しさには、圧倒されてしまう。
『カンタ!ティモール』は、残酷な描写もかなりあるにもかかわらず、悲壮感がほとんどない。笑顔がたくさんある。涙はあっても、観る者の心を掻き立てはしない。むしろ鎮めてくれる。
東ティモールの独立は、軍事的・経済的状況からいえば、インド独立よりも、ベトナムの独立よりも、ずっと奇跡的なものだったようだ。東ティモールに直接手を下したのはインドネシアで、その戦力差も圧倒的。戦争が始まれば一日で制圧できると言われていた。
インドネシアの背景にはアメリカ、そして日本がいた。日本は軍事支援はしないけれど、ODAといった形でインドネシアを支援し、その支援が形を変えてティモールに襲いかかっていた。日本は、ティモール近海で発見された油田からの恩恵を享受するために、インドネシアに協力したのだった。そういったことは、映画ではあまり語られはしないけれども、東ティモールの人々はよく知っているのだという。
映画『カンタ!ティモール』で一つだけ残念なのは、巡り合うチャンスがとても限られていること。体験を誰かとシェアしたいと思っても、その機会が少ない。数少ない自主上映会を探すか、自分で企画するか。なかなかハードルが高い。
既存の映画配給のルートに乗せず、『カンタ!ティモール』を広げていきたいというのは、監督である広田さんの意向だそうだ。その姿勢には大いに賛同する。だが、それにしても、もう少しやり方はないものかと思う。
現状では、『カンタ!ティモール』は「リリース」されていない、と私は考える。「リリース」というのは「手放す」ということだが、現状のやり方は、まったく「手放されて」いないと思う。自主上映という形で、管理されてしまっている。
既存のシステムに対して「リリース」はしない、というのはいい。だが、誰にも「リリース」しないというのはどうか? それが東ティモールの人々から学んできたことなのか? 資本主義というものの呪縛の強さを感じさせられるところだ。
素晴らしい映画だから鑑賞の輪が広がっていくことは間違いないだろうけれども、素晴らしいがゆえにもどかしさを感じるのも事実だ。
『飼い喰い 三匹の豚とわたし』を読む
読み物としては、文句なしに面白い。だが、読後の思いは複雑。なんともいえない違和感が残っていて、考えさせられる。つまり、単なる読み物以上に、面白い本。
私はこの本に出会うよりも先に、著者に出会っている。先日、新潟県の粟島というところで第一回馬力(ばりょく)学会という催しがあったのだが、そこに著者の内澤旬子さんも出席しておられた。その催しの中で著者自身から紹介があって、この本の存在を知ったという次第。
内澤さんの印象は強烈に残っている。ほとんど言葉を交わすことはなかったのだけれども。
粟島へ向かう高速船のデッキで見かけた女性。周囲には溶け込まないぞ! といったようなオーラを発していたように思った。見かけた時は、もちろんその女性が内澤さんだとは知らなかった。そんな女性が粟島に何の用事があって、船に乗っているのか? 島民には見えない。粟島のような何もないところ(失礼!)に、疲れを癒やしに来たようにも見えない。まさか、私と同じく、目的は馬力学会? まさかね...、と思っていたが、そのまさかだったのである。ちょっとビックリした。
(馬力学会facebookページから。港に馬車がお迎え、の図。内澤さんも私も写っています。)
そんな印象の女性が、自分で三匹も豚を育てて、しかも育てたその豚たちを食べたみたというのである。もう、本を読む前から、違和感ありまくり。強烈な先入観に囚われながらの読書だった。こんな読書も珍しい。
おっと。読書前の違和感と読後の違和感とは、異なったものになっている。これは記しておかないと。だが、変わらない部分もある。それは、違和感の違和感たる所以。「誰でもない私」を強く感じさせるところ。そこだけは、最初に高速船で見かけたときから読後まで、一貫して変わらない。自我の強さである。
本書を読んで、一番驚いたのは、三匹の豚に名前がつけられたということ。名前をつけて、豚されぞれの個性を際立たせて、その個性を可愛がり、育て、そしてそれを食べる。
あたりまえの話だが、豚は初めから豚肉ではない。豚は生命で、生命は個別的。生命を慈しむということは、個別性を愛するということ。愛するがゆえに、食べたい。残さず食べ尽くしたい。その欲望の在り方。
内澤さんが豚たちの個別性を愛したということmp記述の一部が、幸いにして発行元岩波書店のHPから見ることが出来る。ちょっと覗いてみてもらいたい。⇒ リンク
「名前をつける」という行為は、「個別性を愛します」という構えである。個別性を愛するならば、食べない。“猟師も懐鳥は撃たず”というが、これは「個別性」を認識してしまったから。生命の個別性は、自身の生命との間に波紋を産む。これを「情」という。
「情」にまったく感応することにない人間は、しばしば“鬼”と呼ばれる。本書の中にも、内橋さんがそのように呼ばれる場面が出てくる。
人間が「情」を生み出すのは、持って生まれた性質だ。「情」はもはや自身の一部であり、その対象を食べるというのは、その前に殺すということだから、「情」を殺すということ、つまり「自分自身」を殺すということ。
ここでいう「自分自身」は「自我」ではない。「自己」である。「自我」とは、私がしばしば“アタマ”と表記するところのもの。「自己」は“カラダ”。つまり、「情」が発露した対象を殺すというのは、アタマとカラダとを分離させてしまう、ということ。アタマとカラダが分離してしまった人間を、私は“アタマデッカチ”と蔑称で呼んでいる。
人間とて一つの生命なのだから、アタマとカラダの分離傾向はあったとしても、それを「一」にしていこうとするのが自然なのである。だから、わざわざ「一」になれないようなことはしない。前もって殺すことがわかっている相手に名に「情」を発動させることを回避する。
(「情」を発動させてしまった、私自身の失敗談 ⇒ 『情と殺生、理念と殺戮』)
いわんや、名前を付けるなんて。「情」が発動しない“石女”なのかと、まずは思ってしまう。ところが本書を読んでみると、「情」の発動がある、ある。では、「情」に感応しない“鬼”なのか。
結論からいえば、“鬼”ではない。「自我」の確立した“人間”である。
ただし。アタマが強く、カラダと繋がっていないわけではないが、カラダを感知しようという意志を持たない。すなわち、“アタマデッカチ”である。
私は“アタマデッカチ”はきらいだし、初めに見かけた時は、まさにその印象だった。けれど、本書の読後、“アタマデッカチ”の印象は変わらないが、内澤さんの“アタマデッカチ”な在り様には、好感を抱くようになった。これはこれで、人間としてあり、だろう。
そうした内澤さんの在り様が、見事に映し出されている写真が本書の284頁に掲載されている。食べられてしまって、骨になった豚の頭に、優しく手を載せる姿。とてもいい。夢、秀、伸と名付けられた三匹の豚の個別性をも“食べて”しまって、「自我」の一部とした姿。
けれど、私としては、やはり違和感を持つ。それは、私の生き方(行き方)とは違うから。そちらの生き方(行き方)を尊重するけれども、私は違うという違和感。
そしてさらに言うならば。個人として「自我」を確立する生き方はいい。だが、社会の在り方としては限界に来ていると私は思っている。さすれば、内澤さんの在り方は、現代社会の病理を垣間見せているということになる。ここに「正常さという病」の一例を見ることが出来ると、私は思うのである。
カラダを感知しようとする意志の喪失から、生じる病。
もう少し私自身の話を続けさせてもらう。
今年の一月。私は三日間の断食を試みたことがある。(⇒『大根の煮汁が美味かった』)
この三日間。もちろん空腹感はあった。だが、不思議なことに食欲はなかった。自分は空腹であるにも関わらず、周囲でだれかが食事をしていても、欲しいと思わなかったのである。これは「意志の力」だったのだと思う。
食欲は、空腹感をアタマが感知することで生じる。私のカラダは空腹感を感じていた。この場合の空腹感は「お腹が空いた」ではない。それはもう、食欲。そうではなくて、欠乏感。それが時として、痛みのように感じられたり、反対に充実感のように感じられたり。
この状態は、アタマとカラダの接続を遮断していたのだろう。意志の力で。人間は、「スイッチ」が入ると、その
ようなことが出来てしまう生き物のようである。断食をしていた三日間は、食欲という回路に切断スイッチを入れいた。スイッチを切っていたと表現するのが適切かな。
言うまでもないが、カラダは食物を必要とする。人間のカラダは三日食べない程度では大したダメージを受けないものだけれども、三日以上は危険な領域に入るから、それなりには受けている。アタマとカラダの回路を切断すると、食欲を感じないと同時に、カラダのダメージの感知もしない状態になる。それが常態化すると、れっきとした病気だ。
話を「情」へと戻す。「情」はどこへ効くか。どこにダメージを与えるか。カラダである。
ここでいうカラダは、断食のときにダメージをうける物理的・生物的なところではない。生物として生命を維持していて、私たちのアタマでは解析するのが不可能な神秘の部分。「魂」と呼ぶのが相応しいようなところ。「情」はそこへエネルギーを与え、またダメージも与える。
食物の欠乏は食欲という形となって、アタマに感知される。「情」の欠乏は、寂しさとなってアタマに感知されることになる。食欲が具体的な食べものを想起させるように(白いご飯が食べたい、とか)、寂しさも具体性――生命の個別性を想起させる。「名前」である。
本書『飼い喰い』の著者である内澤さんは、「夢」「秀」「伸」という名前で想起される個別性は“食べて”しまった。内澤さんの「自我」の一部としてしまった。なので、アタマのほうの平静は保つことが出来ているのだろう。
が、カラダの方はどうか。もし、ここにダメージがまるでないのなら“鬼”ということになるが、ちゃんとある。
豚に名前を付けて飼って、思い切り感情移入してみれば、かわいそうだと言い立てる気持ちも理解出来るかと思った。屠畜の瞬間には、かわいそうとは思ったものの、やっぱりそれよりも関わってくださったみなさんへの感謝の気持ちが大きく勝った。よくぞちゃんと殺してくださった、切り分けてくださったと、今でも思う。
けれどもこの感覚は何だろう。私がかわいがって育てあげ、私が殺し、私が食べた三頭。その三頭が死後も消化後も排泄後も、私とともにいるという感覚。
私はずっと三頭と一緒に暮らした方のだろうか。そうとも言えるし、そうではないとも、言える。三頭と一人のうち、誰かが自然死を迎えるまでともに暮らすという選択肢は、かなり困難がともなったことだろうが、やる気になればできたかもしれない。秀に出産まで経験させるまでとか、嫌がった夢だけ手元に残すとか、そんなやり方があったかもしれない。けれども、あれから二年経つ現在までの間に、実際に残せば良かったと悔いたことはない。時折発作のように、もう一度豚を飼いたいという気持ちに襲われるだけだ。(p.278~289)
もう一度豚を飼いたいという気持ちに襲われる。これこそ、ダメージを受けたカラダが発するメッセージだ。それを“だけ”と捉えるアタマ。見事に“アタマデッカチ”である。
くり返すが、こういう人間の在り方は、あってもいい。このような「ダメージ」は、うまく取り扱えば「意欲」として現れるから、必ずしも悪ではない。
内澤さんに関して言うと、彼女はそういう扱い方に長けた方のようではある。まだ未読だけれども、前著に『世界屠畜紀行』というのがあって、察するにそこでも彼女は「ダメージ」を被ったらしい。本書を書き上げる意欲――というより、三頭の豚と対峙した意欲は、そのときの「ダメージ」から生まれたもののようだ。馬力学会への参加も、そうした「意欲」からだったのではと想像する。
だが、この「ダメージ」/「意欲」の構図を、文明/自然環境に当てはめてみたらどうなるか。これは、とんでもなく恐ろしい。文明が「ダメージ」を受けるたびに、自然環境への「意欲」へと変換される。人間という個別のカラダは、「ダメージ」を「意欲」という形で環境へと逃がすことが出来る。しかし、環境は、その外へ逃がすことができない。ダメージを蓄積した環境はどうなるか?
アタマとカラダの接続を喪失した文明は、そこへの想像力すら失ってしまっている。
貨幣価値説vs人間価値説
全財産として1万円を所持している人物Aと、100万円を所持している人物Bとがいたとする。
人物Cが、作品Dを制作した。AとBは、Dを所望して、それぞれ5千円で譲って欲しいとCへ申し出る。
Cは、DをAに譲るべきか? Bに譲るべきか?
常識的な価値観、すなわち貨幣価値説で判断するならば、A、Bが提示した5千円は、同価値。なので、Cは、これだけの情報では判断を付けることができない。
ところがCは、Aは貧乏だが、Bは金持ちだという情報も所持している。
Cが今回の売買を通じて、より多くの貨幣を得ようと目論むならば、つまり自身の行動を貨幣価値説に基づいて判断するならば、Bと契約する方が有利であろう。
Cは、Aとの縁か、もしくはBとの縁を選択できる立場にある。どちらの縁を選択するのが多くの貨幣獲得へ有利かと考えれば、多くの貨幣を所持しているBとの縁を持つことが有利だと判断するのは合理的だ。
【問2】
全財産として1万円を所持しているXと、100万円を所持しているYがいたとする。
Zがいて、XとYは、Zと結婚したいと希望した。婚姻の申し込みに、それぞれが5千円の贈り物をした。
Zは、Xに嫁ぐべきか。 Yに嫁ぐべきか。
Zは、X、Y、それぞれの財産についての情報を所持している。
Zは、貨幣価値説に基づいて行動するならば、Yと結婚するのが合理的である。
人間価値説に基づいて行動するならば、Xと結婚するのが合理的である。
人間価値説を定義。
人間そのものに価値があるとする考え方。貨幣を価値の表現のためのツール。
人間価値説に立つと、XとYは同価値。Xは、自分の所持する貨幣の1/2でもって、Zへの贈り物を表現した。Yは1/200。
Zは結婚において、貨幣価値説を選択すべきか。 人間価値説を選択すべきか。
貨幣価値説を選択した場合、Zは社会のなかで有利に暮らすことができる可能性が高い。社会システムは貨幣価値説で駆動しているから。
人間価値説を選択した場合、Zは幸せに暮らすことができる可能性が高い。
なぜそうなのかを説明する言葉が思い浮かばない。ということは、「人間価値説⇒幸せ」の関係が人間にとって根源的である可能性が高い。
人間価値説が根源的であるにもかかわらず、人間が営む社会システムが貨幣価値説で駆動する理由は、「信用」にある。人間は複雑な関係性を取り結ぶ。貨幣は複雑性が収斂した極限なので、誰もが信用することができる。
複雑な関係を処理するには大きな処理能力が要求される。人間同士の複雑な関係性は、貨幣を介すると単純なものに変換される。単純なものを処理するのは、小さな処理能力しか要しない。小さな処理能力で済むことが「信用」である。
しかし、人間は小さな処理能力で処理されることに幸せを感じない。大きな処理能力が費やされていることに悦びを感じる生き物。この悦びは幸福感である。
人間は大きな処理能力を持つ生き物だが、無限ではない。有限な処理能力で処理できる範囲が、社会である。処理能力が小さくて済む貨幣を介すると、「大きな社会」を構築することができる。現代社会は「大きな社会」である。
「大きな社会」に適応するというのは、有限な処理能力を薄く広く使うのに長けることである。「大きな社会」に適応するほど、一つの対象に大きな処理能力を費やすことが困難になっていく。そうやって、誰も幸せにしない社会が出来上がる。
【問3】
現時点で1万円を所持している人物Aと、100万円を所持している人物Bとがいたとする。
人物Cが、作品Dを制作した。AとBは、Dを所望して、それぞれ5千円で譲って欲しいとCへ申し出る。
Cは、DをAに譲るべきか? Bに譲るべきか?
【問1】と【問3】の文面の違いは、一点だけ。「全財産」か「現時点」か。すなわち、スットクか、フローか。
【問3】は、【問1】とは問うている前提が異なる。【問3】の貨幣はストック不可能な貨幣であるとする。たとえば期限付貨幣。Cに支払った後、A、Bにはそれぞれ残金が5千円、99万5千円残るわけだが、この残金は期限が来ると消滅してしまうと仮定してみる。
Cは、人間価値説に立ってAと契約するようが有利か。貨幣価値説に立ってBと契約する方が有利か。
続く。
『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』を観た
『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』 剣舞は、「けんぶ」ではなく「けんばい」と読むのだそうだ。タイトルが示すように、ドキュメンタリー映画。
一言で言ってしまうのは乱暴だと承知しつつ、敢えて言ってしまえば、この映画で描写されているのは「伝統」。身体の記憶として受け継がれていくという意味での〈伝統〉である。
今日、「伝統」という言葉が示すところは大半は【伝統】である。内実が失われて形骸化し、形式を守ることで辛うじて保たれている【伝統】。【伝統】に類するものはいっぱいあって、【国家】とか【結婚】とか。あるいは【絆】とか【愛国心】とか。
内実が喪失したがゆえに、【伝統】をめぐる議論は二分する。(内実がないので)破棄せよという、主に左側からの意見。(内実がないからせめて)形式を守れという、主に右側からの意見。どちらも私に言わせれば「アタマデッカチ」で、尊重すべき内実のことをさっぱり忘れている。そのような近代教育を受けてきたので、仕方がないのかもしれないけれども。
(ついでにいうと、左側は近代教育への適応度が一般に高く、ゆえに「形式」の矛盾には敏感。左の主張は、自分が授かった近代教育の「形式」を至上とし、その形式に合わないものは破棄せよと主張する。対して右は、近代教育への不適応度が高い。その反撥から伝統の「形式」を尊重せよと主張するが、反撥が動機であるために、「内実」へはなかなか進んでいかない。)
『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』において焦点が当てられているのは、鬼剣舞という「形式」ではない。鬼剣舞を通じて繋がっているコミュニティであり、そのコミュニティのなかで差異を際だたせている〈個人〉である。この〈個人〉は、前記事で取り上げた「分人」と対立する「個人」ではない。〈個人〉はほぼ「個としての身体」。鬼剣舞は、記憶として身体に刻まれるが、その記憶が具現化する(鬼剣舞が踊られる)とき、個の差異性が際立つ。コミュニティは、あくまで個の差異性を際立たせる「舞台」として成立しており、その「舞台」の縁を象(かたど)っているのが、岩崎鬼剣舞。
〈伝統〉における〈内実〉というのは、カラダに在る。それは、『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』から感じられることでもある。この映画の目線は、客観的な分析の眼差しではない。踊り手たちに同調している。
映画上映の後、監督・三宅流のトークがあったのだが、そこで三宅氏は、撮影の多くは、踊り手たちと一緒に酒を飲みながら行なっていたと語った。酒にはアタマを鎮める効果がある。
三宅氏のトークで印象に残っていること。それは東北人の自己意識の在り方。3・11の津波の折、防潮堤を閉めようとした消防団員が数多く流されて命を落としたという現実がある。そのことを岩崎(は、内陸の北上市)の踊り手たちと議論をした。たとえ、自分の命が危ういことはわかっていても、コミュニティの危機を放り出して逃げることはあり得ない。自分よりもコミュニティ(共同体)の方が優先順位が高い――そのように話をしたという。
このようなメンタリティがどこから出てくるのはよくわからないけれども、記憶の身体性と深く関連していることは間違いないと思う。身体に刻まれた記憶から立ち上がってくる情動・感情が、自身を第一とする自我を抑えるということではないか。
思うに、このような、身体の記憶としての〈伝統〉は、日本のみならず、世界中、あらゆるところに存在してはず。近代化に伴って、その多くは〈内実〉が消失し、残っても形骸化した【形式】のみということになってしまった。その理由が、『岩崎鬼剣舞』を観ていて思い当たったような気がする。それは、岩崎鬼剣舞が生き残った理由でもある。
〈伝統〉の身体性は多くの場合、身体労働にあったのではないかと思う。生産と一体化した身体性に〈伝統〉の〈内実〉があった。そう考えれば、「働かざる者食うべからず」という格率が重視されたことも納得がいく。働かない者=身体の差異性を際立たせることのない者は、コミュニティの成員だとは認められなかったということ。それが、近代化の侵食とともに身体労働は機械労働へと置き換わっていき、〈内実〉が失われた。結果、〈伝統〉は【伝統】となり、【形式】を辛うじて保とうとして成員を抑圧するものへと変じてしまった。
岩崎鬼剣舞が〈伝統〉として生き残ったのは、1300年という「歴史の重さ」などではあるまい。そのカッコ良さ。際立った身体性が鬼剣舞にあったということではないか。
【追記】
先日の10月6日(土)に、河口湖のステラシアターでフラ・コンサートがあって、これもたまたま観る機会に恵まれたのだが。
フラからも、同様の〈伝統〉の身体性というものが感じられたように思う。特に、古典フラといわれる踊り。
踊りというのは、人間にとって大切なものかのかもしれない。
「分人」と霊魂
・ 『私とは何か---「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎~諸悪の根源は「個人」(現代ビジネス)
『私とは何か---「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)---この度、刊行した本書の副題に、おや?と思った方もいるだろう。「分人」とは、何なのか?
一言で言うなら、人間を見る際の「個人」よりも更に小さな単位である。
私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。勿論、妄想的に、勝手に分裂するのではない。常に、相手次第、場所次第である。
職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、決して同じ人間ではない。
当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。
・・・
・河合 隼雄著『 無意識の構造』より
西洋人の意識構造は「個人」的。対して東洋人は、「分人」的。「自我」が「個人」のセルフイメージに相当する。
・個人が諸悪の根源というより、分人的意識構造に「個人」を被せようとした近代教育こそが根源。「個人」とは、魂の脱植民地化理論的にいうならば、「蓋」であろう。
・「分人」が近代教育によって「蓋」をされたものだとするなら、「蓋」をされる以前の人間は、「分人」を意識していたはず。ただし、それは別の言葉で呼ばれていたはず。その言葉が「霊」。
( ⇒ 愚樵空論『霊魂』 )
・霊というのは、魂を持つ〈私〉が他者と相対したときに、インターフェイスのなかに生成される魂の分身。魂=「人」と考えるならば、「分人」は「分魂」。
・「個人」から「分人」への自己モデルのイメージチェンジは相当に有効だと思うが、陥穽に嵌まるおそれもありや、とも思う。東大話法的な無責任・不誠実を肯定しかねない。「個人」は、良くも悪くも自己イメージの中心に居座っていて、その「中心」があるからこそ、責任・誠実という感覚も生まれる。
・人間が、誠実であり責任を持つべき対象は、個人でもなく社会でもなく、自己の中心にある魂である。魂への誠実で責任ある行動を「学習」と定義するのが相応しい、と考える。
「学習」については ⇒
・自己の中心を魂ではく、その分身の一部である自我(=個人)だと勘違いし、自我に対して誠実であろうとする態度を取ると、結果的に魂に対する不誠実になってしまう...ということを記述したのが、『私とは何か ~「個人」から「分人」へ』
・「個人(=自我)」のセルフイメージに対応する他者は「一つの身体」であるが、これは果たして本当か? 「一つの身体」というイメージは、単に物理的に「ひとつ」というだけではなくて、「ひとつに統合されている」というもの。手足は勝手にバラバラに動き出したりはしないもの、というイメージ。
・しかし、このイメージは、「自働運動(活元運動)」というものを実践してみると、必ずしも正しくないということがわかる。
⇒ 光るナス:自働運動ってやつ
その名の通り、体の力を抜いてポカーンとしていると勝手に出てくる運動で、だから、自働運動。
元々の、活元運動という名前は、元を活かす運動という意味合いで、つまり人間が元々持っている力を活用する運動ってことですね。
いわゆる無意識に起こっている運動を、体全体でせいせいやらせてあげようというのが、自働運動なんです。
無意識の運動、つまり、欠伸とか、まばたきとか、寝相とか、内臓の動きとか、そういうやつ。
自分で意識はしてないのに、勝手にやってくれている分野の運動。
そういう健やかさを保つためのことというのは、ひとりでにやっていることなんです。
教えられてやるのではないし、考えてやるのでもない。
それを頭でやろうと思うから不安になるけれども、体はとうに知っているし、とっととやっているんです。
だから余分なことに頭を使わないで、自然に従っていけばいい。
意識で考えてそうしているのではない。自働運動は、常にそこに還るものです。
・「自働運動」に関連して 『マインド・タイム 脳と意識の時間』(Passion For The Future)
私たちが意識の上で「今」だと感じている瞬間は正確には0.5秒くらい前
・【魂とは?】 1.私たちの身体のデフォルトの状態は、各部位バラバラの「自働運動」状態。2.バラバラの身体を(脳幹を中心とする?)神経系が抑止・制御・統合している。 この「統合」のイメージが魂では?
余談。
・ちなみに。自働運動ってはやつは、むやみやたらにやらない方がいい。これは、身体を制御している「弁」を外してしまうものだから、それが癖になると、身体が思わぬ方へ勝手に動き出すという事態が起こる。これは社会生活を営む上では、かなり困った状態。
・実のところ、私は、その「困った状態」の二歩手前くらいのところにいる。一度、自働運動をやってから、どうにかすると、体が勝手に動き出そうとすることがあって、おっと、と慌てて静止することがしばしばある。こうしてPCに向かっているときでも、足が勝手に動き出そうとする (^_^;)
余談、その2.
・生命を作った神が「生命の在処」として私たちのなかにいる。そんな論理矛盾を信仰という形で語ったシスターのことを思い出した。
⇒ 志村建世のブログ:いのちの歌とお話
そうした信仰を持つことができれば、「個人」であっても矛盾は生じないのだろうと思う。
魂と霊のイメージ
〈魂〉のイメージで最初に思い浮かぶのは「トーラス」である。
変わることで変わらない
福岡 経済と同様に、回していた貝が価値を持ち始めるということが、生命現象の中にも起こっています。それは、私たちが呼吸で吐いて出す二酸化炭素が、いまや取引の材料になっていることでも言えますよね。二酸化炭素自体が価値を持ってしまっているのだから。
二酸化炭素は別に悪者でも何でもなく、私たちが次の生命に手渡すための「貝」なわけです。しかも、グルグル回していく呼吸の産物であって、最後に吸収してくれるのは植物しかない。植物には太陽のエネルギーを利用して水と二酸化炭素で光合成を行なってエネルギーを作り、それを次の生物に渡す形に変えてくれる。だからこそグルグル回っていき、ついにはそれが私たちの体の中を回るようになる。回っていることに生きる意味があるのだと内田先生はおっしゃいましたけど、それは生物学でもその通りなのです。回すことに意義がある。
20世紀の生物学はずっと細胞の様子を観察してきました。どうやって細胞は遺伝子を作り、タンパク質を合成するのかという、細胞のもの作りをずっと調べていた。
ところが、ここ10年の間に生物学が注目しているのは、作り出すことではなくて、壊すことのほうに、細胞がずっとたくさんのエネルギーを費やしているということなんです。
タンパク質を作り出す方法は非常に精妙で、素晴らしいのですが、たった1通りしかない。なのに、壊す方法は、私たちがいま知っているだけでも10通り以上あり、それ以上あるかもしれない。細胞の中のタンパク質が酸化したり変性したりして、使いものにならなくなったから壊しているのではなくて、できた端からどんどん壊しているのです。新品同様でも何でもかんでも壊していく。
一生懸命に壊すのは、壊さないと新しいものが作れないからです。それから、壊すことによって捨てるものがあるからです。細胞の内部にたまるエントロピーを捨てているのです。宇宙の大原則はエントロピー増大の法則というものに支配しされています。エントロピー増大の法則とは、秩序あるものを秩序なきものにしようとする動きで、その動きの方向にしか時間が流れない。エントロピーは、正確には物理学的なプロセスとして、物質の拡散が均一なランダム状態を目指すことですが、無秩序あるいは乱雑さの尺度といってもよく、一生懸命に机の上を整理整頓しても、2、3日でグチャグチャになってしまう場合にも仕えます。入れたてのコーヒーもぬるくなるし、熱々の恋愛も冷めてしまう(笑)。
じゃあ、それに抵抗するにはどうすればいいか。頑丈に作ればいい――これは工学的な発想です。頑丈に作ってもやはりダメなものはダメになってしまう。そこで発想が逆転するわけです。生命現象は、細胞を頑丈に作るのをやめて、ユルユル、ヤワヤワに作ってグルグル回す方向を選んでいきます。それが唯一の変わらない方法だった。「変わることが変わらない方法だ」として採用したのです。
作って壊してグルグル回して変わらない、生命の営み。その中核にあるもの――かどうかはわからないけれども、仮にあるとするなら――を〈魂〉と呼ぶのに違和感はなかろう。グルグル回る流れの「ゼロポイント」だと言ってもいい。
が、ここでは「渦巻き」のイメージでいくことにしたい。なぜかというと、「トーラス」では完結しすぎていて、イメージが発展しないから。
さて、次に、〈霊〉のイメージ。私はこちらも、「トーラス」ないしは「渦巻き」だと思っている。〈魂〉と〈霊〉は、どちらも似たようなイメージであるのは、もともとのイメージが同じだからという身も蓋もない話(トートロジーとも言う?)である。ただし、違いはある。それは、〈魂〉が主だとすると、〈霊〉は副。〈魂〉の渦に応じて副次的に発生する渦が〈霊〉。
イメージを膨らせてみよう。
〈魂〉という主渦は、個体として自然界のなかで生存する、私たち自身の在りよう。ゆえに、生まれたばかりの赤ん坊であろうが、成人した大人であろうが、等しく持つもの。対して、副渦である〈霊〉は、人間として成長し「インターフェイス」を発達させるようになるまで、持つことができない。〈霊〉にとって、インターフェイスは必須条件。
「インターフェイス」が発達することで、人間は外界の対象を認識することが出来るようになる。対象を感覚すると、そこに〈霊〉が発生する。〈魂〉は〈霊〉を認識する。
〈魂〉による〈霊〉の認識は、基本的に「学習」であるが、そうでない場合もある(後述)。
〈霊〉の基本的な役割は〈魂〉に対しての「補佐官」のようなもの。そして、近代人の〈霊〉には、「首席補佐官」のというべきものが存在する。それが「自我」と呼ばれるもの。【自我】は自身の身体を「外部対象」として感覚することから生じる。
(本来的に言えば、自身の身体が外部のはずはない。しかし、頭脳-意志を「主」だと考えてしまうと、意志に従って動く身体が「従」だと位置づけられることはあり得るし、実際にある。ここでいう「従」は、頭脳にとっては「外部」である。)
(頭脳が「主」となる意識構造は、主語―述語からなる言語構造の影響も大きいだろう。)
「自我」が確立した人間にとって、「認識」とは、「自我」と他の〈霊〉との間の関係性のことを指す。
〈魂〉と〈霊〉との関係は双方向、つまりフィードバックがある「学習」であるのに対して、首席補佐官たる【自我】と、副補佐官である他の〈霊〉との関係は一方向。【自我】は他の〈霊〉を整理・区分し、支配下に置く。【自我】の支配下に置かれ、命令を受けるようになった〈霊〉は、〈魂〉との関係性を断たれ、【悪霊】へと変質する。
下図は、【悪霊】の構造 。
A~Eは、それぞれ〈霊〉に相当する。外部対象を感覚することで生じた〈霊〉が「知識」として【自我】に認識され、行動/役割/人格が、【自我】の都合の良いように〈霊〉に対して命令という形で伝達される。
ここで再度、〈魂〉や〈霊〉を「渦巻き」とイメージしたところへ立ち戻ろう。人間はインターフェイスのなかに、複数の渦巻きを発生させる。渦巻き同士は、互いに相互干渉して、その流れを強化していくこともあれば、互いに流れを阻害しあって弱体化させることもある。
「学習」とは、互いにその流れを強め合う場合。「学習」の起こらない「断絶」は、渦の相互干渉が互いの力を弱め会う、もしくは、主たる渦である〈魂〉の流れを弱めてしまう場合を指す。
「副」であるはずの渦(【自我】【悪霊】)が、主である〈魂〉を圧倒し、〈魂〉の渦を消し去ってしまうケース――自殺――もある。
以上、漠然としたイメージを綴ってみた。
馬は「修行」のハイウェイ
そのことを、この記事では記してみたい。なぜ、馬は「修行のハイウェイ」になるのか。
それにはまず、「修行」の定義である。
先日開催された第一回馬力学会の基調講演(といっていいのかどうかは???だが)で、安冨先生は「馬には異常な治癒力がある」と言われた。(下の動画、5分50秒あたり)
IWJ Independent Web Journal:2012/09/29 第1回馬力学会 ~馬に頼って馬力学会 in 粟島~
馬は何を治癒するのか? それは、アタマとカラダの接続である。アタマとカラダの接続が切れるのは、ある種の病気であり、馬は、その「病気」に対して異常なほどの治癒能力を持っている、という。
しかし、この「病気」は非常に有益な効果の高い病気ではある。特に現代社会において。アタマは、カラダからの接続が切れることによって、クルクルと効率よく回ることが出来るようになる。クルクルとアタマが効率よくまわることを、一般には「アタマがよい」と称されて、そういった人間は東大などへ入ることができたりする。
これは社会に必要とされる能力だが、いかんせん「病気」。そのような「病人」が社会を支配するようになると、世の中は変調を来し、発狂してしまう。当ブログで幾度も取り上げた「東大話法」は、そうした「病気」の症例である。
アタマとカラダの接続を切り離し、クルクルとアタマだけが回る状態になるよう勉めること。これを「勉強」という。「修行」は、その反対。アタマとカラダの接続をよくすること。
そのように「修行」を定義することができるなら、「勉強」という現代社会に適応するには有用な、しかし、それが行き過ぎて、社会そのものに変調を来す元になっている「病気」の治癒に異常な力を発揮する馬が、「修行のハイウェイ」であるとしても、なんら、おかしなことはない。
馬に異常な治癒力がある、というのは、安冨先生に限らない、馬に接したことのある人間に広く共有される「実感」である。それが実際に効果としてあるから、「ホースセラピー」といったことも成り立つ。私もわずかながら、その「実感」を得ることが出来たというのが、馬力学会で得ることができた収穫のひとつ。
話はここで終わらない。もう少し、理論的なところへ踏み込んでいく。
(といっても、私に理論的なことを十分展開できる能力はないので、先にお断りしておきます。)
馬力学会の総会が終わり、懇親会があって、その懇親会も一端お開きになった午後10時頃から。唐突に安冨先生が語り出した「乗馬理論」が、「修行」の核心を突いているように私には思えた。以下は、その理論についての、私なりの解釈になる。(安冨乗馬理論は、そのうち、書籍といった形で陽の目をみることなるだろう。期待している。)
安冨先生は、既存の乗馬理論は全て誤っていると言いつつ、下のような図を描いた。
(実際に描かれたのは、2つの楕円だけ。イラストは、理解しやすいように付け加えた。)
下の太く大きな楕円は、馬の後ろ足の律動。上の補足小さな楕円は、人間のカラダの動きを意味する。
あたりまえのことながらば、馬の持つエネルギーは人間のそれよりも大きい。従来の乗馬理論は、そのエネルギーを人間が恣意的に制御できるものであるかの如く、組み立てられている、と安冨先生はいう。が、どう考えてもそんなことは不可能である。いくら手綱を操作し、拍車を掛けてみても、そもそも持っているエネルギーの量がことなるのだから、恣意的な操作など通用するはずがない。人間ができるのはせいぜい、馬の大きなエネルギーから発生する律動に、自身のカラダを同調させること。
二つの楕円は、その同調の様子を図示したものである。
私はその図を見、説明を聞いて、これは私が今、稽古を付けてもらっている野口整体のカラダの動き。そして、おそらくは合気道の動きと同じではないか、と思った。そのように発言をすると、馬力学会のもうひとりの発起人である、寄田勝彦さんは、その通りだとお答えになった。
(ここから寄田さんは、最新のアメリカの乗馬理論が、日本の古武術を参照したものであるという話を展開されたが、そこは私にはよくわからないので割愛。また、安冨先生は、複雑系の知見から、さらに学術的な理論展開をどんどん広げて行かれたけれども、こちらも、得心は行ったけれども、それを記憶を頼りになぞるのは不可能。なので、割愛。)
野口整体では、「愉氣」ということを行なう。これは何かと一言でいうならば「手当て」。身体の、病んだ部分に文字通り手を当てて治癒を促すという、現代医学の常識からすれば、そんな非科学的なことがあるわけはないじゃないかと言われそうなことをやっているわけだけれども、この「手当て」をする時に、必要とされるカラダの動きが、まさに、馬の律動に同調するために要求される動きと同じ(だと思う。ここは一度、私の師匠であるアキラさんにも乗馬をして頂いて、確認をしてもらいたいところ)。
「愉氣」の際に、邪魔になるのは人間の「作為」である。これがあると「力み」となり、余分な力が入ってしまって、「手当て」ではなく「マッサージ」になってしまう。傷んだ患部をマッサージしても、余計に具合は悪くなるだけで、身体がそもそも持つ自然治癒力を引き出すことなど、できない。
そうしたマッサージ的な動きをキャンセルするために、患部に当てる手や指の能動的な動きを地面へと逃がすというイメージで、カラダを作動させる。作動と言っても、実際にカラダを動かすわけではなくて、そういうイメージにピッタリくるところの姿勢を探し、維持する。これは稽古してみればわかるとしかいいようのないところなのだが、実際にそういう身体のポジションはある。
このポジションをいかに素早く的確に探り出し維持するか。それを練習するのが稽古であり、「修行」になるわけだ。
寄田さんは、このように言われた。確かに野口整体や合気道を修行することで、そのような身体を修得することはできる。しかし、それには、二十年三十年という修行期間が必要だろう、と。それに比べると、馬は、まず十分の一の時間で修得することができる。なぜなら、馬に乗って、その動きに合わせればよいのだから――と。
なるほど、「馬に頼る」というのは、そういうことなのかと、深く得心がいった次第。
⇒ 馬力学会HPのトップページを参照
もちろん、馬力に頼らず、人力だけで「修行」を積むことは、それはそれで意味がある。修得に余分な時間がかかったとしても、それは余分な回り道などではなく、その間に掴むことが出来ることには大きいものがある。「修行」の旅路を辿るのに、馬がハイウェイ、あるいは特急列車だとするならば、旅路を徒歩で、あるいは鈍行列車で辿った方が、旅そのものとしては、趣きがあってよいだろうと言えるかもしれない。
参考:光るナス 『ヒトのヒトたるキモ・シリーズ』
『「生きている」の作法』
しかし、現代社会の状況を鑑みてみたとき。徒歩や鈍行では、間に合わなくなる可能性は否定できないところがある。その意味でも、今、「馬に頼る」ということの意義は、非常に大きいように思う。
馬力に頼って。あるいは、人力の「作為」を消す修行を積むことによって。もしくは、「森と生きる」「里山と生きる」といったようなことを体感することによって。花を学ぶ。茶を学ぶ。能を舞う――などなど、「修行」への「道」はいくつもあるはず。少し前までは、日本社会には、そのような「道」の入り口がたくさんあり、多くの人が意識をしないままに、その「道」を歩いていたはず(その代表が「百姓道」だろうと私は考えているが)。
が、現代の社会では、そうした「道」の入り口は、多くの場合、近代教育という名の障害物で塞がれてしまい、「道」を歩く者はめっきり少なくなってしまった。そうした「道」を歩くことで体得することができる、スムースなアタマとカラダの接続と、そこから必然的に生じてくる「作為」をキャンセルする身体の作動。ここには、魂の作動と呼ぶしかないような、生命の神秘がある。
貨幣から馬力まで
・【貨幣について:安冨歩さんが掲げている言葉その1】人を惑わす金を利用して友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、友達はお前たちを永遠の住まいに迎え入れてくれる。(ルカスによる福音16:9)
・【貨幣について:安冨歩さんが掲げている言葉その2】貨幣そのものが人間の紐帯を破壊してしまうのではない。貨幣によって結ばれる紐帯にもとづいた、呪縛なき秩序を作ることもできる。(安冨歩「無縁・呪縛・貨幣」『貨幣の地域史』所収、2007年)
・貨幣が人間関係に及ぼす作用は、切断ではなく、単純化だと思う。単純であるがゆえに、繋がりやすいという特性を持つ。
・良好な人間関係は、複雑さのなかで安定しているもの。そのような関係性が(貨幣によって)単純化していったとすれば、主観的には「切断」と映るだろう。一方、貨幣によって結ばれた単純な関係から、複雑で安定した関係へと発展させることができれば、貨幣は「機縁」である。
・貨幣が厄介なのは、その関係性単純化作用ゆえに、一般に信頼性が高いこと。信頼性の高さは、理解の容易さから来る。貨幣の信頼性は、人間のバカなアタマでも理解できる。ところが、複雑な関係性は、アタマでは理解できない。アタマよりも精妙なカラダを使わなければならない。「魂の作動」が必要。
・人間の身体というのは、極めて精妙なシロモノ。人間は精妙な言葉を持つことができるが、身体の精妙さにははるかに及ばない。その証拠に、微妙な身体感覚を言葉で表現することは、極めて難しい。
・言葉は話し言葉から文字へと移行することで、その精妙さが減衰すると同時に、伝播性が増す。さらに文字から貨幣へ移行すると、精妙さは削ぎ落とされ、伝播性が最大化。伝播性(経済学用語でいうところの流動性?)の高さは、バカなアタマには「信頼性」と認識される。
・人間の身体の精妙性を作動させるには身体を使わなければならないが、ただ使うだけでは精妙さの精度を上げていくことはできない。上げるには「修行」が必要。精度があるレベルを超えると、バカなアタマにも影響を及ぼし始める。
・ただ、人間の身体はあまりにも精妙であるために、「修行」にはかなりの労力を要する。ところが、ここを馬に頼ると、非常に効率よく修めることができる...というのは、馬力学会発起人よりたかつひこさんの言。修行の効率性こそが「馬力(ばりょく)」。「修行のハイウェイ」と換言できるだろうか?
・馬が「修行のハイウェイ」であるのは、乗ることができるという点が大きい。乗ることで物理的に身体へ影響を及ぼし、直接的に身体の作動を起動させることになる。
馬力学会については記事を書くつもり。