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愚慫空論

ピッコマ

『NewsPicks』より。
有料記事です。

『「待てば0円」モデルで見えた、人々の「課金の実態」を全て明かそう』



まあ、でも、有料の中身は特に読まないでいいかと (^_^;)

「ピッコマ」という漫画アプリが紹介されています。



ぼくが記したコメントをこちらにも。

「日本は依然としてITプレーヤーよりも出版社が強く、いまだに紙媒体がよく売れる国です」
「何より、私は漫画というコンテンツが好きなんです」
「「広告を入れる」という手法は取りたくありませんでした」
「では、どうやって読者にお金を払ってもらうか」

状況を見極めた上で、自分は何が好きなのか、どういったことはしたくないかに正直になる。正直になって考える。この姿勢が素晴らしい。

そしてたどり着いたのが、

「「買おうかな、待とうかな、どうしようかな」と迷うのも、ユーザーの楽しみの一つ」。

新しい楽しみをユーザーに提供する。
これこそイノーべーション。
敬服します。


追記

ピッコマのビジネスモデルは、考えてみると、等価交換ではないんですね。交換に時間を入れ込むことで等価交換の原則を一部ですが切り崩している。

そうした「切り崩し」が進むと貨幣経済の形は根本から変わっていくかもしれません。



お察しかもしれませんが、ここで取り上げたいのは追記の方です。


ぼくたちは周囲の〔世界〕を静的に捉えます。
本当の世界は動的ですが、そのように動的に捉えると情報処理量が多過ぎる。
なのでサピエンスの脳は下処理をする。特に視覚系。
多過ぎる情報量を圧縮するために、動的な把握を静的なものにしてしまう。

貨幣経済社会を成立させているのは「等価交換の原則」ですが、
この原則の前提が、世界の静的把握。

とある現象と別の現象とが交換される。
現象がモノであるなら、最初から〔世界〕からは独立しているので問題はない。
けれど、現象が振る舞いだった場合は、何らかの方法で〔世界〕から切り離さなければなりません。
たとえば、労働とか。

労働は、時間を単位にして、〔世界〕から切り離された単一の現象と見なされます。
この「見なし」がなければ、等価交換が成立しません。

この「見なし」を成立させるために、労働者にはとある義務が課せられます。
労働時間内は、与えられた仕事に専心するという義務です。
要するに、サボってはいけない。

現代社会では、サボタージュは労働者の権利ではあります。
が、それは、所与の権利ではない。
労働組合を結成するなりの手続きを踏んで、雇用者に通告しておかなければならない。

労働組合は虚構。
労働者も虚構。
労働も虚構。
〔世界〕から切り離した時点で、すでに虚構です。


「ピッコマ」のビジネスモデルの発案者は、ある一部分ではありますが、「〔世界〕からの切り離し」をやめてしまいました。
「ビッコマ」にアップされるマンガ作品の一部を、時間と共に動くようにした。

 「待てば¥0」

のキャッチフレーズがそれです。

マンガの最初の何話かは無料で読むことができる。
続きを読みたければ、課金――。
これは、すでに存在するビジネスモデルです。

「ピッコマ」は、そこにもうひとつ選択肢を用意した。

「買おうかな、待とうかな、どうしようかな」と迷うのも、ユーザーの楽しみの一つ

この選択肢をユーザーの提供することを可能にした要件が2つあります。
ひとつは、IT革命でデジタルデータのコピーのコストがほぼ0になったこと。

実は、これも見方によっては「〔世界〕からの切り離し」です。
従来は、媒体と媒体物との切り離しが不可能だった。
本は紙に印刷されるのがもっとも合理的な方法だった。
その合理性を打ち破ったのがIT技術です。

先に触れておきますが、というか、触れる必要もないことですが、
古い合理性のブレークスルーを最も享受しているのが、貨幣という虚構です。

ふたつめは、ビジネスモデル発案者のイノベーション。
考えたんですね。

漫画が好き。
広告は嫌。
とはいえ、マネタイズできないとビジネスモデルは成立しない。
そして、「買う」or「待つ」の選択肢をユーザーに提供することを思いついた。

技術的な進歩の上に、新しい楽しみ(感覚)を提供する。
これこそがイノベーションです。
このイノベーションは、今、広く受け入れられつつあるようです。


さて。
「待てば¥0」は等価交換ではありません。
等価交換ならば、とあるひとつ(と見なされる)の現象と、別のひとつ(と見なされる)の現象との交換でなければならない。「待てば¥0」が、「ピッコマ」が提供するマンガ作品のひとつにしか適用できないのなら等価交換ですが、そうではない。

「待てば¥0」はひとつだけではないんです。
いくつもの作品を、同時に、待つことができる。

ユーザーが提供するのは24時間という「時間」です。
これは「ひとつ」と見なされ得る。
対して、「ピッコマ」が提供する作品は、そのひとつひとつが「ひとつ」です。
そうとしか捉えようがない。
となると、交換は、一対多 になる。
しかも、「多」は、ユーザーの意志によって自由に増減することができる。
これはもはや等価交換ではありません。

もちろん、「ピッコマ」が新たに提供した非等価交換は、撒き餌に過ぎません。
新しい楽しみを提供することで課金を促すというビジネスモデル。
目的はあくまでビジネス、つまり、貨幣を獲得することです。

でも、そうであっても、面白い。
「ピッコマ」の発想にはブレークスルーがあります。

マンガというデータは、技術によって媒介物から切り離された。
媒介物はモノであり、〔世界〕のなかの「ひとつの現象」ですが、モノから切り離されたデータは、どのようにでも〔世界〕と結合できる自由を得た。
「ピッコマ」がやったのは、時間と接合するということです。

時間と接合することで、マンガは時間の性質を得た。
つまり、「時間と共に、勝手にユーザーに向かって近寄ってくる」。
近寄ってくるものにアプローチするしないはユーザーの自由。


これは、情報というものの本来の性質です。
情報は本来、共有物です。
ぼくたちには感覚装置があって、光や音といった情報を感じています。
それらは時間と共にやって来て、時間と共に去って行く共有物。
それらにアプローチするしないは、感覚する者の能力と意志の問題。
そうした〔かたち〕が〔世界〕というものの〈かたち〉です。

「ビッコマ」は一部限定ですが、そうした〈かたち〉に一歩近づいたわけです。
その発想の元になった、別の言い方をすれば、そこに発想を限定したのは、貨幣という「固定点」です。


先に記したように、マンガであろうが、貨幣であろうが、共に本質は情報です。
そして、情報は、サピエンスとは時間を共有することができないモトとは切り離すことが可能になった。
「サピエンスの時間」と接合することが可能になった。
そのような接合をしても、広く共有することが可能になった。
可能になったのに、実現しないのはイノベーションがないからです。

貨幣もまた、(サピエンスの時間)と共にやって来て、時間と共にやってくるようにデザインすることは可能です。
マンガがそのようにデザインされたのと同様に。

貨幣でもマンガでも、どらでもよかったのだけれど、今回はたまたまマンガだったわけではありません。
貨幣についてのイノベーションは最初からあり得ませんでした。
目的がビジネスだったからです。
新しいビジネスを生み出すために、「ピッコマ」の発案者は考えた。
その結果が、マンガと時間との接合でした。

では、サピエンスの〈しあわせ〉という目的で考えればどうなるか。
貨幣と時間との接合の方でしょう。
直観的にですが、そちらがふさわしいと感じるはずです。

ちなみに貨幣と時間とが接合すると、どのような楽しみが提供できるか。
自分の価値を自分で決めることができる、という愉しみです。
この愉しみを阻害することがこそが、【システム】が【システム】たる所以です。

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