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愚慫空論

読書メモ ~『蠱物としての言葉』 その1

一昨日と昨日にかけてツイートした

蠱物としての言葉

についての読書メモを、まとめて上げておく。

本書を読み直してみようと思ったのは、こちらがきっかけ。

日本語の主語についてよしこの芽@yoshikonomeと安冨先生@anminteiとの会話


 ***

1: 言葉はこれを使っている人間に対して、事象の間に見られる関係を意識に与えると同時に、別の面においては、ある魔術的な威力を、同じ人間に対して振う。言葉の後者の側面を「蠱物(まじもの)としての言葉」と呼ぶ。

2:言葉とものとの接触の態様が、ヨーロッパ語では「判断的」であるのに対し、日本語では「蠱惑的」。「蠱惑的」とは日本人がものと接触する差異の性格の特徴をそのままあらわしている。(←山本七平のいう「臨在感的把握」か?)

3:日本語の言葉の経験が「蠱惑的」性質を持つのは、ものとの接触が「語」的であることからくる。「語」的な経験は接触が直接的で、それゆえ感覚的・欲望的・嫌悪的。言い換えれば「単語的」。

4:「判断的」性質を持っているヨーロッパ語では、ものとの接触は「文章的」で、間接的。ゆえに、感覚や欲望をこえた広がりに向かう可能性がある。文章⇒広がり⇒ものは相対的に縮小⇒接触の一要素⇒「判断」が成立。言い換えれば「命題的」。

5:人間の自由は、ものとの「命題的」接触に属している。なぜなら命題はその性質上、肯定、否定、疑問、懐疑、推測などの態様の可能性を同時に含んでいて、はじめから精神的な広がりが可能性としてあり、この広がりが明確化の道程をとったとき、そこに「自由」が意識されるから

6:「単語的」接触では、この道程が閉ざされている。ここでは、言葉の経験がもっぱら対象(もの)を補強しながら、主客合一的事態を目指す。そういう閉じた関係のなかで、「蠱惑」が「判断」に代わり、「自由」を排除する。

6-2:主客合一の事態は完全に実現されることはない。どこまで行こうが空想的性質を脱することが出来ないが、それゆえにこそ、あくまで「蠱惑」が続けられなくてはならない。このような言葉の経験が、日本人の社会的な人間関係の伝統的基盤を提供している。

7:推論を進める過程は言葉の積み重ねによる論証の過程になりやすいが、「語」が蠱惑的な働きを求めている過程はそうはならない。日本語による話し方では、論証という手続きがほとんど効果を持ず、説得にならない。聞き手は話し手の「語」に蠱惑されるのを待っている。

8:蠱惑する者とされる者との関係は、現実社会の反映。「蠱惑」の主たる源泉は共同体における階層関係。ある人が話し手に、お互いの社会関係を拠りどころとして蠱惑されるとき、同時にその話し手の言葉に説得されることになる。

9:西欧の社会においては、シニフィアンの解放は二千年以上の長きにわたって阻害され続けてきたが、その原因は一神教の神学が主張する三位一体の位格(科学、人間、理性)にあったと、ロラン・バルトは語った。

10:一神教の位格にしたがってシニフィアンが整然と序列化されているような環境では、記号(シニフィエ/シニフィアン)があるひとつの地点に達すると、その働きは無理にも停止させられてしまう。これは、人間の世界に最終的なシニフィエがあるとの思い込みがあるからだ。

11:「神」は、何か別のシニフィアンによって代理させることを認めない究極のシニフィアン。ゆえに、単なるシニフィエでしかなく、シニフィアンとしては存在できない。にもかかわらずそのようなシニフィアンを追求するのは、記号を袋小路へと追い込むことになる。

12:バルトは、記号がつまるところ空虚であると説く。そのよい例が辞書。50音順やアルファベット順に配列された全体の構造にはどこにも中心がなく、ひとつひとつの記号は、それぞれが他の記号のもとに送られるだけで、それ自体ではなにも語らず、中身は空虚。

13:日本は、バルトの目に、中心のない構造をもつ辞書のような文明のひとつの見本と映ったようだ。シニフィアンは非常に豊かで、洗練されているにもかかわらず、けっして最高の存在に向かって整序されることがない。記号にとって幸福なユートピアである無神論的世界。

14:西欧人に対して、日本等の東洋の文明に目を閉じさせ、その理解を阻んでいるのは、一神教的な伝統とそれが必然的にもたらす文化的帝国主義。究極のシニフィエに向かって個々の記号に意味を詰め込みつつ全体として隙のない構造を作り上げようとする、記号の中央集権的体制。

15:バルトは東洋に対する西欧の無理解の理由を、キリスト教徒帝国主義の伝統の中に見るが、それなら同じように日本人の側にも、西欧に対する無理解があるはず。それは個々人の知的能力・努力の不足ではなく、個人をこえた文化の体制の問題が根底にある。

16:日本人が記号の中央集権化を免れたのは、一神教とは異なった宗教的伝統と社会的な封建主義の存続の所為。封建主義とは社会的上下関係の際限のない個別化であって、これが専制的な全体かに向かうのを防いだ。

17:社会的な個別集団が内部の情動的な団結によってどれほど固く結ばれていようと、この団体を支える精神的な中心存在の力を他のすべての個別集団にまで及ぼそうとして、究極のシニフィエを練り上げることはなかった。天皇制という難しい問題はあるが、意味論的には極めて曖昧。

番外1:「東大話法」を「蠱惑的話法」として捉えても、スジが通るような。 「蠱惑」の主たる源泉は共同体における階層関係。ある人が話し手に、お互いの社会関係を拠りどころとして蠱惑されるとき、同時にその話し手の言葉に説得される。

番外2:「判断的」言語はつまるところ「究極のシニフィエ」に向かっていくものなので、「欺瞞的で傍観者的」にはなり得ない。それは「蠱惑的」言語だからこそ可能。日本人はその言語特性から容易に蠱惑されてしまい、意味の整合性に注意を払わない。とはいえ、日本人から日本語を引き剥がずことはできない。

番外3:では、どうすればいいか。意味の源泉を突き詰めていくしかないだろう。意味の源泉を「立場」から「個」へ。「個」の自立。空虚な言語に意味を持たせるのは、あくまで「個」。

番外4:「蠱惑」という文脈でいえば、「助けてください」と言えるようになるということは、「私に蠱惑されてください」「私の意味をあなたが見出してください」ということ。相手を蠱惑し、意味を見出してもらうことが「自立」という、一見倒錯した関係。正と負とが、ちょうど打ち消し合うような関係。

番外5:そのようにして調和した関係性は、「コムニス」から離脱したものになっていることだろう。

18:なるほどわれわれは、バルトが憧憬にも似た賛嘆の念を表明した記号のユートピアに住んでいるのかもしれない。しかし、同時に、記号がはじめから究極の拘束力を欠いたこのユートピアは、知的な営為という面においては、まったく不毛のような環境である。

番外6:上の意見には同意できない。このユートピアには「方便論的個人主義」という知的営為のための方法論がある。 「方便論的個人主義」は「判断的」言語では原理的に不可能。「蠱惑」的言語でこそ、その威力を発揮するはずだ。

番外7:「蠱惑的」言語解析の一例
   ⇒ 「ヲシテ」による「は+か」の構造解析 by @ShiwaWoshite @julian_beace 

番外8:山本七平『「空気」の研究』p.69より。「一体これはどういうことなのか。一言でいえばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪になるのである。」⇒「命題的」ということ。

番外9: 「この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。(略) これでは“空気”は発生しえない。発生してもその空気は相対化されてしまう。そして相対化のこの徹底が残すものは、最終的には契約だけということになる。」 

番外10:「契約」を為すには、「意志(行為)する主体」つまり「自我」が確立されなければならず、その結果、言語構造は「主語」が軸となる「主語+術語」と形式になる。そしてそれは、「文化の帝国主義」を必然的にもたらす。

19:「天皇と記号」と題されたチャプターは、山本七平のいう「言葉の天皇制」にかなり近い感触を受ける。

20:天皇は、いちども究極のシニフィエであることを要求しなかった。むしろ天皇の表象は、機能としては、記号が空虚であり続けることを根底から支えいるかに見える。バルト流にいれば、「天皇は記号の本質を現実化させるのに、このうえなく力を発揮してきた。

21:戦後「天皇」が担ったのは、意味の空虚な個々の記号が拡散的に増殖するのを助ける機能。「民主主義」や「言論の自由」が、このような極端な肥大現象と手を携えている。日本人にとって「言論の自由」なる表現に含まれている自由とは、誰からも罰せられないような状態こと。

番外11:日本という国には天皇制が存続しているということもあって「クレオール」という意識はまず皆無だろうが、言語的にはクレオールなのかもしれない(「クレオール言語」の意味ではなく)。そう考えてみると、「東大話法」とは宗主国に使える植民地支配層の言語、とならないか。

22:戦後の「天皇」の機能は、もっぱら、記号から意味を抜き取ることに集中している。したがって「天皇」を信奉する「民主主義」者がいかに高く「民主主義」の旗を掲げようと、ただひとつ確実なことは、その「民主主義」には、まったく“意味がない”ということ (自民党?)

23:そういう人たちは「民主主義」を脅かす動きを探すことにもっぱら力を注ぐ。外部の悪意の存在が、ただひとつ、自分たちの存在を正当化してくれるからである。 (典型例が「北朝鮮」か)

24:日本ではシニフィアンが究極のシニフィエに向かって組織されないにも関わらず、記号を全体として包んでいるコードは非常に堅固。シニフィアンはコードのなかで、身軽に運動し交代し増殖する。際限なく増補版を発行し続け、決して時代遅れにならない超歴史的辞書のように。

25:三島由紀夫は日本の「天皇」について透徹した考察を残したが、「民主主義」者は理解しなかった。三島はバルトが賛嘆した、言葉が蠱物としてしか働かないユートピアを地獄と感じ、自分の生命と引き替えに「天皇」に意味を込めようとしたが、「気狂い」として片付けられた。

26:戦前の「天皇機関説」を巡るについて。今日、この論争を振り返って興味をひくのは、終始そこにおいては「言葉遣い」の問題が大きなウエイトを占めていたこと。その論争は、はじめから「意味」の検討を巡る戦いではなく、「字面」の戦いであった。

27:当時の検事総長平沼騏一郎の言。「この議論は明白だ。天皇を「機関」などと唱えるのは乱臣賊子だ。日本の天皇は統治の「主体」であらせられる。それを機関などといえば主体ではない。そんな議論は日本では言うべきではない。」

28:要するに、「天皇」の憲法上の地位に関する解釈の問題も、当時の検事総長にとっては、煎じ詰めると「言葉の使い方」の問題、表現の問題になる。(ますます早川先生の「問題」とそっくりだ。その主張が正しい否かより、その主張の仕方が福島県民にどう響くかが問題。)

29:ここに言葉についての興味深い問題が露呈する。それは言葉(文字)によって相手を威圧しようとすること。相手を説得するのに、推論に拠らないで、字面の直接的効果に頼る。こういう方法は、字面によって威圧される相手がいなくては成立しない。

番外12:「福島県民の気持ち」という字面に威圧される人間がいなければ、威圧は成立しない。そして、そういう文字に威圧されない者に対しては、「人でなし」(昔なら「非国民」)といった類の、直接的な言葉による威圧がなされる。現代日本において、最も威圧に用いられる言葉は「気持ち」かもしれない。あるいは「弱者」。「マイノリティ憑依」というのは、そのマイノリティという「弱者」を「天皇」の位置に据えたものだといえる。

30:「威圧」を言い換えれば「想像的に取り込まれること」。つまり「蠱惑されること」。文章中の表現の如何によって、総体的な意味が「よろしい」にもなれば「怪しからん」にもなる。言葉に対するこのような情動的反応のなかに、本質的な問題のひとつが隠されている。

31:ある記号に情動的に反応することと、その記号の意味が空虚なままに維持されることの間には密接な関係がある。そうした記号を用いる者の心は空虚であり、記号はその空虚を埋めにやってきたものに過ぎず、しかも依然として記号は空虚。当人は空虚が埋められたと錯覚するのみ。

32:我々はいつも「空虚な記号」を探し求めている。際限なく、想像的に交わり合うべき一語の言葉を探している。その努力の過程には、本質的な推論もなければ、論証も理性もない。あるのは心の空虚を埋めようとする脅迫的衝動。ゆえに、言葉には終始感覚的な快感を求める。

33:美濃部達吉が法理的定義した「機関」という言葉は、当時の指導者たちを説得できなかった。一方、「主体」という定義できない言葉は、人々を蠱惑し続けた。「機関」も「主体」も、すぐに限定された領域からはみ出して、文字として独り歩きを始めた。

34、35、36:このような文字を「包み」に喩えてみる。バルトが日本の「包み」について見事な感想を残している。

「たいていは幾重にも包み込まれたこの包みの完璧さそのもののために(人はなかなか包みを解きおおせない)包みが包み込んでいる内容の発見を包みは先へ押しやる――そして包み込んでいる内容は概ね無意味なしろものである。つまり、内容の不毛が包みの豊穣と均衡が取れていないという、そのことこそが、まさに日本の包みの特殊性なのである。(略) つまりは相手に贈る肝腎なものは、包み箱そのものであって、包み箱の内容ではない。包み箱は記号の役目を果たす。包みとして遮光蔽い、仮面としての包み箱は、それが隠し保護しているものと等価である」

36,37:蠱惑的とは、「包み」としての外見によって、人をうっとりさせるような性質をもつことである。人々は、この「包み」に対して、感覚的、欲望的、ときには嫌悪的に反応する。むしろ内容は空虚のままに維持される必要がある。すなわち、西欧人がものの中心にある実質と考えている「包みの中にある内容」「記号の中にあるシニフィエ」といったような“何か”を見定めることは、日本人にとっては、それを捨てること。

38:空虚な記号から空虚な記号へと、包み箱としての記号を絶えず運搬することが、日本人の最も情熱的な営み。言い換えると、蠱物の包みを、休みなく相互に贈答し続けている。

番外13:以降、本書は「精神分析」の方向へ舵を切っていくことになる。著者はラカンの著作を数多く翻訳したその方面の専門家であるようだ。

(ここまでで49ページ。読書メモツイートは、まだ続けるつもり。)
 
  ***

『蠱物(まじもの)としての言葉』にであったのは、アキラさんのブログがきっかけ。あわせてどうぞ。

光るナス:「蠱惑的」「判断的」シリーズ


「空気」が生み出される「現場」

今回の話のネタは、私の生業である林業から。

現在、私は「除間伐」という作業をしている。

林業という仕事は、木を育てて収穫するのが目的。スケールは違うが基本は農業と変わらない。

除間伐という作業は、農業でいえば「雑草取り」と「間引き」である。

森林・林業学習館より。

◆つる刈り(つる切り)・除伐

苗木が雑草よりも大きく生長し、下草刈りの必要がなくなっても、クズ、フジ、ツタなどのツルが幹に巻きついたり、木の全体におおいかぶさったりするため、これを切らなくてはなりません。この作業を「つる刈り」といいます。

スギの場合、植栽後10年ほどすると背丈が5m前後に生長します。この頃には、植栽木(=苗木が苗木とは呼べない程度まで育った木)の生長を邪魔するような灌木なども生えてきます。そのため植栽木の生長を妨げる他の樹木を伐る作業を行います。この作業が「除伐」です。「除伐」では雪などで曲がってしまったり、途中から折れてしまっている植栽木や、生長が悪く大きく育つ見込みのない植栽木を伐る作業も行います。通常はチェーンソー(エンジンつきノコギリ)を使って行ないます。


◆間伐

植栽、下刈り、枝打ち、除伐と保育作業を行って来た樹木は、競争しながら、まっすぐに育っていきます。順調に生長し、20~30年くらいたつと、林の中は混み合ってきます。 混み合ったまま放置しておくと樹木はひょろひょろともやし状となり、病害虫にも弱い木となってしまいます。そこで、「間伐」と呼ばれる間引き作業を行い、林内環境を良くして、樹木が健康に育つようにします。植えた木の本数を減らす代わりに、残された木が健全に育つように手を入れるわけです。

間伐もチェーンソーを使って行ないます。 間伐をすることにより、地面に日光が差し込み、さまざまな草や木が新たに生え、それを食料とする昆虫や鳥が生息するようになるなど、生物の多様性が向上します。また、地中の根もしっかりと張り巡らされ、台風や大雪、土砂災害などに強い森林となります。


この説明を素直に読むと、「除間伐」の意味はわからない。除伐と間伐は、施行する時期が異なるから。
けれど「除間伐」というのは、除伐と間伐とを同時に行なう施業。

今私の入っている「山」は、樹齢は30年を超えている。もしかしたら40年に達しているかもしれない。そんな「山」では、順調に育っていれば除伐はないはずなのだが、ないはずのものがあるというのは、順調に育っていないということ。


ひどいところは、こんな状態。すなわち、適正に管理がされていないということ。そういう「山」の後始末としての除伐を、間引きの間伐と同時に行なうという意味での、除間伐。

が、“適正に管理されていない”というのは、樵の目から見たとき。除間伐というのは、正規の事業ということになっているから、その前提は“適正に管理されている”である。適正に管理された上での適正な事業ということに「なっている」。

「空気」の研究こういう食い違いが「空気」というものを生む大元だと考えるが、詳しくは後述するとして。

このような作業では、使用する機械の選択が難しい。下刈り機がチェーンソーか。

セオリーもしくはルールからいえば、チェーンソーである。が、実際は、除伐⇒下刈り機、間伐⇒チェーンソーという「図式」が出来上がってしまっている。

そうなる図式は、もちろん私には理解できなくはない。チェーンソーでは、フジやらヤマブドウやらのツルに対応しにくい。樹木の幹に巻き付いているのはまだいいが、下木と一緒になってグチャグチャになっているのを“潰す”のは大変。下刈り機で遠くから、ツルも枝も一緒くたに刈り払うのが手っ取り早い。

が。そういった下刈り機の使い方は、おそらくはルール違反。危険だから。ところが、得てしてルール違反は効率が良いもの。稼ぎのために行なうのだから、効率は重視される。

そもそもでいえば、“潰す”必要などないのだが。“潰す”というのは、ただ伐るだけではなくて、地面へ低く伏せ込むということ。本来の目的でいえば、伐っておきさえすればあとは枯れるのだから必要がないことなのだが、検査では潰せと言われるから、そういう無駄なこともしなければならなくなる。だもので、除伐⇒下刈り機 という「図式」が出来上がる。

それでもこの「図式」はあくまで暫定的なものであり、状況によって適切な――安全で効率が良い――機械は変わってくる。なのに、そういった適切な選択を阻むものがある。それは「空気」である。

私の身の回りで起こっているケースで言おう。今、実際に使用しているのは下刈り機だ。

チェーンソーか下刈り機か、その判断を下すのは、なぜか、直接作業をしない上司が決める。なぜそんなことになるのは、部外者には不思議だろうが、これこそ「空気」である。

私は幾度か上司と、作業を一緒にしている同僚に、ここではチェーンソーの方が良さそうだから、そちらにしようと意見をしたみた。現場をつぶさに見ていない上司がそのような意見を取り入れないのはありがちだが、さらに不思議なのは、同様に作業をしている者も、一定の同意はしつつも、私に同調して上へ意見しないこと。上司には意見しがたいという下らない「空気」が出来てしまっている。自らの意見よりも、上司の意見を「忖度」しようとする態度である。

が、「忖度」というなら上司も、その上に対しては同じ。発注者である行政から検査があって、その検査を「忖度」している。事業としては検査にパスをしないと事業費が下りてこない構造だから、どうしてもそのようになる。上司はそういった「忖度」を強いられているがゆえに、自らもその下に対して「忖度」を強いるような態度に出る。

【ハラスメント】の連鎖だ。

では、上司の上、事業を発注し検査をする役人はどうなのか。

私はそういった役人を直接には知らないが、「樵の目」でみるならば、大方の予想は付く。おそらくは“見当外れ”のことに誠実なのだろう。

“見当外れ”というのは、上で述べた“適正な管理”だ。

林業の目的は、人間にとって都合の良い樹種を生産すること。そのためには、適正に林を管理しなければならない。適正に管理された林では、そもそも「除間伐」などといった事業が必要になるようではいけない。ツルが生い茂ったり、不要な樹種が繁茂する林になっているということ自体が、もうすでに「適切な管理」ではない。

「樵の目」で見るならば、適切な管理とは林を不適切な状態にしないこと。ところが、役人には違う。彼らにとっては、不適切な状態になった林を適切な状態に戻すこと、なのである。

この違いは、樵と役人の「生態」の違いから生まれる。端的にいえば、「計画」の有る無しだ。

樵には「計画」はない。あるのは「イメージ」だけである。適正な林の、漠然とした「イメージ」。その「イメージ」に従って山を観て、その都度、「手入れ」をする。そうすることで適正な状態を維持し続ける。そして、そうした「手入れ」をする為には、山に棲んでいなければならない。

対して、役人の棲む場所は役所だ。彼らにも「イメージ」はあるだろう。それはもしかしたら、樵の持つ「イメージ」と同じであるのかもしれない。が、彼らは「計画」を立てる必要がある。漠然とした「イメージ」だけでは彼らは役所には棲んでいられない。そして、「計画」を立てる為には、不適切な状態が現われ可視化されなければならない。樵の適切な管理が為されてしまうと、役人には出る幕がなくなってしまう。

役人には役人の「生態」に従った「適正」がある。現在の日本の人工林の多くは、役人によって“適正に”管理されていはいるのだ。

そもそもでいうと、林業に役人の出る幕などはなかったのである。ところが、林業が構造的な不況に陥って、その経営を行政の補助金に頼らざるを得なくなった。そこから役人たちの「計画」が出しゃばるようになってきた。

今、現場にある「空気」は、役人の「計画」が侵入してきたことで生まれたものだ。「手入れ」というのは、現場で身体感覚を働かせる者によってなされる。その〈感覚〉は、チェーンソーか下刈り機かという選択にも当然及ぶ。が、「計画」は、そうした感覚をスポイルするのである。役人の事業者に対する【ハラスメント】が連鎖して、〈感覚〉を働かせるべき者にまで及び、「空気」となって支配する。そうした感覚支配が「空気」として感知される。

「空気」を生む大元の「計画」は、これはこれで「誠実」から生み出されている。そして、これが今回気がついたことなのだが、現場で「空気」が生み出す鍵もまた「誠実」なのである。

  ***

「現場」というのは、技術が要請される場だ。そして、技術が適切に発揮されるためには、技術者によるフィードバックが欠かせない。それはいかなる現場においても、不変の原則だろう。

また「現場」とは、人間が環境に働きかけ環境を改変していく「場」でもある。それは林業で“適正な”林を育成するののでも、超高層ビルディングを建設するのでも同じだ。技術者は環境とフィードバックを行ないながらそれぞれに適切な技術を発揮させて、それぞれに環境を改変していく。この改変には、技術者の「誇り」といった類の感情が付け加わる。

「誇り」と「誠実」の間には、深い関係があることはいうまでもない。この関係は、しばしば自身への感覚を裏切り隠蔽してしまうほどに、深い。

話を下刈り機かチェーンソーかというところへ戻そう。

自身の感覚に正直であるならば、適切なのはチェーンソーの方である。ところが、不適切ではあっても、下刈り機でも作業は出来てしまう。そうした不適切さをクリアするのもまた技術。技術というものがそもそも環境改変の「術」であるわけだから、つまり「不適正」を「適正」へと改変するのが技術であるわけだから、自身の感覚を裏切る「不適正」を技術上の「不適切」と取り違えてしまって、「誠実」をもって、自身の「不適正」をさらに不適正なものへと改変してしまう事態が起こりうる。

「誠実」をもって「不適正」へ改変するのは、【ハラスメント】だ。
「誠実」に付随する「誇り」がその「不適正」を覆い隠してしまうが、こうした場合の「誇り」は、良くない意味での「精神主義」になる。

問題は出来てしまう、ということだ。これがもし、下刈り機では作業が不可能ということであれば、技術上の「不適正」ということになる。技術上の「不適切」と「不適正」は異なる。「不適正」は不具合が生じ、それは誰の目にも明らかだから、「空気」が生じることもない。が、「不適切」はなんとかなってしまう。そして日本人の特長として、なんかしてしまうのは得意であり、また「誠実」の発露でもある。このことが感覚的「不適正」の技術的「不適切」への取り違えを助長してしまい、「空気」を生み出すことになる。。

さらにまた「不適切」の度合いが強いほどに、精神主義的な雰囲気が強くなってより「誠意」が発露され、「空気」による支配が強力なものになってしまう。そうした「誠意」を誘導するものとして「誇り」が用いられたりする。そうなると、これを打ち破るのは「誠実」な者ほど容易ではない、という事態に陥ってしまう。

  ***

以上のようなことを考えると、どうしても思い起こされるのが「フクシマ」だ。放射能汚染へ抗う、あるいは無視するという「空気」。

低線量であれ、放射線被曝は「不適正」である。

放射線被曝についての科学的な不適正基準には議論の余地はあるし、それは現在も喧しく続けられている。が、ここでいう「不適正」は法的基準だ。3.11以前の基準であり、現在も未だ法的基準は3.11とは変わらないはずだ。

ところが、この「不適正」が「不適切」へと入れ替えられてしまった。この「入れ替え」に「誠実」はまったく認められないが、多くの科学者がそれに力を貸した。「不適切」どころか「適切」だという者すら、なかにはいる。

「不適切」だと、日本人は「誠実」を発揮する。その結果、「現場」である「フクシマ」に「空気」が生まれてしまう。
放射線被曝は、どこぞのバカがいみじくも言ったとおり“直ちに健康に影響はない”。ゆえに、しばらくの間は、何とかなってしまうのである。

何とかすることを強いられる構造も林業とよく似ている。ともに、頼りは補助金であり「計画」が「現場」へと浸透してしまっている。役所の「生態」に従った「適正」が福島という「現場」へ【ハラスメント】が連鎖して侵入し、「現場」に棲む者の〈感覚〉を麻痺、支配してしまっている。

そうした「空気」に“水が差される”のは、「不適切」ではなく「不適正」だったのが明らかになってから、つまり、放射線被曝の悪影響があからさまになってから、というのでは悲しすぎる。

脱原発の勇気と希望の先

結論から先に行こう。

脱原発の「勇気」と「希望」の先には何があるのか。

エネルギーの自治。食の自治。技術の自治。
シンプルでいて豊かな社会。
そこへ至る過程としての勤勉革命。

スモール・イズ・ビューティフルもちろん私の勝手な空想ではあるけれども、そういった空想を描く者は何も私一人だけではない。他にはたとえば、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーとか。

イギリス石炭公社の経済顧問であった著者は、来るエネルギー危機を本書で予言し、それは第一次石油危機として現実化した。また、大量消費を幸福度の指標とする現代経済学と、科学万能主義に疑問を投げかけ、自由主義経済下での完全雇用を提唱した。経済顧問として招かれたビルマで見た仏教徒の生き方に感銘を受け、仏教経済学を提唱した。


ここで言われる「自由主義経済」「仏教経済学」がどのようなものかは立ち入らないが、原発危機はでエネルギー危機であることは間違いないわけ。エネルギー危機を早くに予見してその対処法を提示していたシューマッハーの思想の重要性は、さらに増したと言える。

  参考:脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(5)
     エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー(金貸しは、国家を相手に金を貸す)


シューマッハーが唱えたのは、経済成長には限界があるのだから人間は生き方を変えなければならない、というとてもシンプルな命題。(「原子力」というのは欺瞞語だから使わないことにして)核エネルギーはそのシンプルな命題を否定する、これまたシンプルな命題だからこそ支持されてもきたのだが、それが実は複雑怪奇な欺瞞話法(東大話法etc)で支えられてきたに過ぎないということは、もはや明らか。

もっとも、その現実から目を背けたい者どもが牛耳っている国家がわが日本なんだけれども。
嘆かわしいことに。
強欲な者たちと、強欲に抗えない【弱虫】たちが作り出す【空気】に支配される、現在の日本。

脱原発を唱え行動しているからといって、【弱虫】でないとは限らない。
原発の代わりの代替エネルギーが必要ないとは言わないけれども、それが必須だと考えるのであれば、やはり【弱虫】である。

そのような【弱虫】を告発したのが、こちらの記事だろう。

原発問題に対する私の考え方1 (風の旅人 編集便り)

原発に賛成かどうかは、安全性とか、電気の需要とか、原発の動向に関係なく、今日的生活が維持できるかのような錯覚のなかでの議論ではなく、生存への覚悟のうえで行われなければ、話にならない。つまり、原発を動かすのならば、自分の住処が福島のようになる可能性があっても生きていく為に仕方ないと思えるかどうか。(津波だけが不安要因ではないから)。原発を止めるのであれば、今の快適で便利な生活ができないようになり、さらに自分の子供が日本で就職できなくても仕方ないと思えるかどうか。
 (中略)
だから、原発は反対、企業が海外に出ていくのも反対、就職難になるのも厭、政府が何とかせい、という手前かってな論調での原発反対は、単なる空疎な騒ぎにしかならないと思う。原発に反対するのは、たとえそうした生活困難になっても構わない、という覚悟を伴ったものでなければ意味ない。


まこと、ご説の通りだと思う。

私は昨年の震災後すぐの記事で、これからは社会丸ごと「自分探し」になるだろうと書いたが、現在の原発あるいは放射能汚染を巡る議論は、社会の「自分探し」が対立軸になっているように思う。いまだ「自分探し」をしたくない人たち――その多くは既得権益者――が、いろいろと理屈をこねて「自分探し」を拒否しているという印象。

もっともこの「理屈」はかなり強固なものだ。シューマッハーを引っ張り出してきたのも、そのことが示したいため。『スモール・イズ・ビューティフル』はもはや古典と言っていい名著だけれども、経済学の主流においてまともに取り上げられたことなどなかろう。現行の経済学のほとんどは既得権益者の為の「理屈」であり、シューマッハーはそのことを告発した。だからこそ、主流からは省みられることがなく、現在でも「自分探し」を拒否する者たちは、自分たちの為に作り上げた「経済学」を盾に、いろいろと理屈をこねまわしている。そして、その理屈に抗いきれない【弱虫】たちがたくさんいる。

とはいえ、「自分探し」肯定派にしてみたところで、「自分探し」の旅を始めたとはまだまだ言えない状態だ。「自分探し」否定の否定、というのが現状だろう。経済性がどうの、安全性がどうの、という議論の枠の中に留まってしまっている。それは大切なことだけれども、それだけでは足りないと思う。「覚悟」を固めて「勇気」を出し、「希望」を見出していかなければ。

  ***

歴史人口学で見た日本私たちの日本という国は、江戸自体の初期から中期にかけて、「勤勉革命」なるものを経験してきたという。

勤勉革命は以前に取り上げたことがある。

・農村の世帯の在り方が大世帯制(15人~20人)から小世帯制(4~6人)へ変わった。
・結果、結婚する者の割合が増え、人口増加。
・労働が小世帯の家族労働となった。

なぜそうなったのかというと、

・兵農分離が行なわれて城下町(都市)が成立。
・都市=消費地/農村=生産地という構図が出来、交易が成立。
・日本の傾斜地地形では、小規模の家族労働が最適。

小規模家族労働となったために、

・資本に相当する家畜数が減少し、労働集約型の生産形態へ移行。
・長時間の労働が美徳という倫理観が成立。 という欧州の産業革命とは逆の現象がおこった。

しかも、

・年貢を取られるということはあったが、農村は基本的に自治であり、
・自分たちの労働の成果を(すべて)搾取されず、生活水準が向上。

ということになった。日本人の識字率が同時代の先進国であった欧州と比べて断然高かったのも、高い生活水準と比較的自由な交易があったためで、「読み書き算盤」は交易のために必要だったから、と推測できる。ヨーロッパのように農村に支配者の屋敷があって、交易を独占するといったことは日本にはなかった。それどころか、生活水準の向上とともに富士講や伊勢講といった形での旅行すら庶民によって行なわれるようになった。

以上の江戸時代日本の体験は、成功体験だったといってよい。欧米では産業革命、市民革命という成功体験を経て国民国家意識が成立させていったように、日本人は勤勉革命の成功体験によって日本人という共同幻想を培ってきた。江戸期の日本はもちろん近代国家ではないから「国民」という意識があったとは考えられないが、おなじ日本人という「仲間意識」を持つことができるようにはなっただろう。

勤勉革命のことは「自分探し」拒否組の代表格、池田信夫氏も取り上げておられる。

「勤勉革命」を超えて(池田信夫 blog(旧館))

イギリスの産業革命では、市場経済によって農村が工業化され、資本集約的な産業が発達したのに対して、日本では同じころ逆に市場が農村に取り込まれ、品質の高い農産物をつくる労働集約的な農業が発達した。二毛作や棚田のように限られた農地で最大限に収量を上げる技術が発達し、長時間労働が日常化した。そのエネルギーになったのは、農村の中で時間と空間を共有し、家族や同胞のために限りなく働く勤勉の倫理だった。

日本が非西欧圏でまれな経済発展をとげた一つの理由が、この勤勉であることは疑いない。それを支えていたのは金銭的なインセンティブではなく、共同作業に喜びを見出すモチベーションだった。サラリーマンは命令されなくても深夜まで残業し、仕事が終わってからも果てしなく同僚と飲み歩いてコミュニケーションを求める。こうした濃密な人間関係によるコーディネーションの精度の高さが、多くの部品を組み合わせる自動車や家電で日本企業が成功した原因だった



もちろん、池信氏のことだから“勤勉革命を超えて”と題されているとおり、それは超克されるべきものだと捉えられている。そしてそのバックグラウンドのあるのが既得権益者たちの経済学。無限に成長することを義務づけられている経済学だ。

もうひとつ、池信氏の記事から。

モラルハザードと勤勉革命(池田信夫blog part2)

自分が諸外国の低賃金労働と日本のブラック企業が違う生態系の生物だと考えるのは、労働者使い捨ての部分ではない(使い捨ては途上国も酷い)。それは低賃金、長期労働なのに現場の労働のモラルハザードが起きていない点である。それどころか賃金低下、サービスの価格低下に反比例するかのように神経症的にサービスを特化させている印象すらある。これはわが国外食産業で象徴的だ。


このモラルハザードの使い方は正しい。それは「倫理の欠如」ではなく、情報の非対称性を利用した合理的行動である。不思議なのは、なぜ日本の労働者が(この事件のような20代の女性でさえ)低賃金と苛酷な労働条件のもとでも怠けないのかということだ。

それは、このブログ記事も書いているように日本軍の行動様式に似ている。補給もろくにないのに脱走せず、特攻隊やバンザイ突撃など自殺的な攻撃を仕掛けた日本軍は、世界の戦史の中でも特異な存在である。このブログ記事は「自分も含めて日本人の精神性は家父長的な村社会構造に根ざしている」からだろうというが、なぜ村社会ではこうした長時間労働が起こるのだろうか。

池信氏でさえ、不思議と言いながら、この「倫理」(というより「エートス」と言うべきだと思うが)の存在を認めている。そしてそれが、山本七平氏が提唱した「空気」と深く関連していることを指摘。(「空気」についてはここでは触れないが、この指摘は重要なので、あえて引用に含めた。)

池信氏が、勤勉革命を不思議といい、乗り越えるべきものと捉えるのは、既得権益者御用達の経済学信奉者だからだ。なので、そのようなものは悪質なプロパガンダでしかないと見る私のようなものにとっては、勤勉革命は乗り越えるべきものであるどころか、その正反対に、その成果を継続・維持・発展させていくべきものだということになる。

労働は美徳であり、同時に悦びである。

勤勉革命は、江戸時代の人口を増加させ、生活水準が向上した。が、それだけではない。「生活の〈質〉」も向上した。ここでいう〈質〉とは、“モノの豊かさ”として測ることが出来る生活水準とは別次元の「質」である。現代風にいえば、GNHであろう。GDP(国内総生産)の対立概念であって、ブータン国王が提唱していることで有名な「国民総幸福」。

産業革命では、資本の集中と技術の寡占が起こった。技術者は労働者となり資本家に雇用される存在となった。対して、勤勉革命で起こったのはその逆だ。資本に相当する家畜の数が減少、ということは労働は労働者の自発的な意志によって行なわれていたということであり、同時に技術も一部の者によって独占されることが少なかったということだ。もちろん特殊な技術は独占されていたのだろうけれども、「生活の〈質〉」を向上させる、俗に「生活の知恵」と呼ばれるような技術が広く普及したと想像される。労働者=庶民は、そうした知恵=技術を自発的に発揮することで、生活水準を向上させると同時に、幸福感に結びつく「生活の〈質〉」も向上させていった――と想像される。

その想像を裏打ちする書物がある。

逝きし世の面影

当ブログでは、何度も何度も紹介した、渡辺京二著『逝きし世の面影』。この本で描き出されている近代以前の日本の幸福な姿は勤勉革命を経由したからこそ、あり得たのではなかったのだろうか。

そうであるとするならば、いまだ私たちの中に棲む労働を美徳とする「エートス」は、「希望」への鍵を握っているということができる。

私自身の実感として言えることは、人間はそれが幸福感をもたらすからこそ、長時間の労働にも耐えられるのである。強いられた労働、あるいは強いられていることも意識することがない自己欺瞞のための労働は、心身を蝕む。かつての日本人が長時間労働でありながら幸福な社会を築き上げることが、それが幸福であったからというごく簡単な理由に過ぎない。また、この実感は、決して私だけのものではあるまい。

膨大なエネルギー消費に支えられた現代文明は、確かに生活水準を圧倒的に向上させてきた。これも生活の【質】だというならそうであろうが、それは幸福感に繋がる〈質〉と引き替えにしてきたものだ。私たちは、昨年の3.11でそのことに気がついたのではないのか。「自分探し」とは「幸福探し」である。

「生活の〈質〉」という時の〈質〉は、私が提唱している〈クオリティ〉と同じと考えてもらってよい。生活水準という【質】は【リアリティ】である。生活の【リアリティ】は目で見てわかるものだし、貨幣という尺度でもって計測することもできる。日本人はこれまで必死になって【リアリティ】を追い求めてきたし、それで満足できた時代も確かにありはしたけれども、それが最終結論なのかと問われて、今に確信をもって「YES」と答えられる者がどれほどいるだろうか。

〈クオリティ〉【リアリティ】などと言葉にすると大袈裟に感じられようが、そんなことはない。たとえば、熱い夏に節電を強いられるというのであれば、「知恵」を働かせばいい。公共の施設、あるいは誰かの家へ集まって避暑に行く。その時間を楽しく過ごす工夫をする。そうした単純なことが〈クオリティ〉を向上させる。もっとも、単純とは言っても手間はかかるだろう。その手間に悦びを見出すことができるようになれば、勤勉革命への道を踏み出したことになる。それには些細な「勇気」が求められようが、それに見合う「希望」もある。

締めに、私が昔、田舎のオジサンから聞いた話を。

今時の季節は、田植えのシーズンだ。昔、田植機と言ったような者がなかった頃は、集落で力を合わせた田植えをした。ところが田植機が出来て普及したおかげで、力を合わせる必要が無くなった。それぞれで田植えができるようになった。そのおかげで、相性の合わない者とは仲良くしなくてすむようになった、と。

気の合わない相手と仲良くしなければならない状況は、確かに束縛感が在って不自由だ。だから田舎の人間は自由を求めて都会へ出て行った。田舎に残った者にも田植機という技術が、自由をもたらした。

しかし、それと引き替えに別の不自由を引き受けなければならなくなった。田植機は購入できるが自前の技術ではない。カネを支払って購入しなければならないものだ。田植機が広く普及したことで、あるいは都会へ出て行くことで、人々は自由になり、GDPは大きくなった。が、その自由な暮らしは、技術を購入しなければ維持することが出来ないもの。自由を維持するに、カネに縛られ不自由になった。

人間同士の相性の悪さから生まれる不自由は、自身の人付き合いの技術で対処できる。自前の技術だから基本的にはカネもかからない。そして人間とは、自前の資源(技術・労働力)が自発的に発揮できたときに幸福感を感じてしまう生き物だ。

誰もが自前の資源を自発的に発揮できるような社会は、きっと「生活の〈質〉」の高い、シンプルで豊かな社会であることだろう。

脱原発の向こう側に、このような希望が描けるならば、勇気も湧いてこようというものだ。
目指すは第二次勤勉革命だ。

愚痴が非難に変わるとき

すぺーすのいどさんのところで出会った歌。



すぺーすのいどさんは、この歌の歌詞をチョーガキっぽいと言われる。同意。

本当の女子高生なら、これでもまあしかたないと思うんですよ。
でもこのレベルで止まっちゃって大人になるとしたら、それは怖いなぁとなんか思っちゃうんですよね。


日本を占領しにやってきたダグラス・マッカーサーが“日本人は12歳”と評したというのは有名な話だが、それを思い出してしまった。

うん、でも、私はとても好感をもった。ここに並べられているガキっぽい「愚痴」に。

  疑いの目で君を見たくないけど
  「どうしてよ? どうしてよ? どうしてよ!?」なんて
  いつもよりもね怒ってみたなら
  少しは考えてくれるかな…?


かろうじて愚痴で留まっている。会う時間を都合出来ない相手への「非難」にはなっていない。
バランスが取れていて、いいと思う。

「愚痴」が出るのは、欲求が満たされないから。この場合の欲求にはいろいろあるだろうけど、思うに、〈学習〉への欲求も含まれている。

 (知/不知) → 知

という〈運動〉が〈学習〉だが、この場合、何を知りたいのか。私の言葉でいわせてもらえば〈霊〉ということなる。主人公の「彼女」がそのインターフェイスの中に抱えている愛しい「彼」の像であるところの〈霊〉。「彼」の〈霊〉が(知/不知)の状態にあるのを(知)へと高めていきたい。その向上を〈クオリティ〉を高める、という具合に私は表現している。

彼の〈霊〉の〈クオリティ〉を高めていくことができれば、会えない理由も知ることができる。会えない理由が「不知」だから“疑いの目”になってしまうけれども、それを彼への「信頼の欲求」が押しとどめている。「信頼の欲求」は「〈学習〉の欲求」と考えていだろう。彼をもっと知ることが出来れば、会えない理由も理解できる。会えない理由が理解できれば、今度は彼女の方が変化することになるだろう。「欲求」の形が変わるのである。

が、〈学習〉には、メッセージの交換が必要だ。会えなければそれも出来ない――と、彼女は愚痴をこぼす。もちろん、それ以外の欲求も含めて。

彼女が抱える彼への諸々の「欲求」が、「〈学習〉の欲求」を飲み込んでしまったとき、「愚痴」は「非難」へと変わる。彼女は自己変革を止め、〈学習〉を停止し、彼への「信頼」を盾に、彼に変化を強要することになる。

 “私と仕事とどっちが大事!?”

ありきたりなところで、こんなセリフが出てくるようになって、彼は「選択」を迫られてしまう。こうなったら、逃げるのがいい。もちろん、彼女から。

〈学習〉を停止した彼女にとって、彼は「知」の状態になる。彼女を愛している(はず)の彼。忙しくて彼女と会うことが出来ない彼。どちらもリアルな彼であり、彼女はその彼を“正しく”認識する。この“正しい知”“正しい認識”を私は【リアリティ】と呼ぶ。

彼にとっては彼女を愛しているのも忙しいのもどちらもひとつの人格に統合されているから、どちら正しいとしか言いようがない。だから選択など出来ない。だから、彼女からの、どちら正しいのかという選択の要求は、人格破壊の要求、すなわち【ハラスメント】である。【ハラスメント】からは逃げるのが上策だ。

とはいっても、そう簡単に逃げられない。逃げようとは思えない。そうなると、待ち受けているのは「破局」という事態だ。双方ともに、魂に傷を負うことになる。

諸々の欲求に飲み込まれず、上手く〈学習〉を継続できれば、恋は愛へと育まれていく。が、愚痴は止らない。何十年連れ添った夫婦でも、聞いてみればパートナーへの愚痴は止らないものだ。いつの間にか「のろけ」になっていたりもするが、それこそ〈学習〉の証し。

  受信箱に増えてく些細な会話が
  恋しくて 愛しくて もうイヤんなっちゃうよ


その些細な会話を問うてみようものなら、愚痴とのろけの混合物を嫌というほど浴びせかけられるに違いない。

そんな混合物を浴びるのは御免被りたいが、けれど、そんな混合物が出来上がっていくのは、とてもいいことだと思う。

そのままで。愚痴は愚痴のままで。愚痴は、たとえそれが正しくても、非難に変えてはいけない。
ま、でも、「そのまま」というのは辛いことでもあったりする。特に若い時分には――と中年オヤジは思うのである。

生命力と形式 ~アウトサイダーアートを超える? 「otto&orabu」

アウトサイダーアートについての『キュレーションの時代』の記述は非常に面白い。

キュレーションの時代


†コンテンツとコンテキストの美しい関係

 コンテンツと、コンテキスト。
 その両方の要素があってこそ、私たちはコンテンツをさらに深く豊かにすることができる。
 そしてコンテンツとコンテキストは相互補完的な関係であって、どちらが欠けてもいけない。コンテキストは決して「コンテンのおまけ」程度の副次的な存在ではないということなのです。


コンテンツとコンテキストの関係の美しさについては、とあるシャガールの展覧会の例があげられているが、その内容は本書を見ていただくことにして。

 もちろんシャガールというコンテンツは、ポンピドー・センターのキュレーターのコンテキストがなくたって、やっぱり天才の作り出した素晴らしい絵として孤高に屹立している。予備知識などなくたって、見た瞬間に心が躍り、胸にナイフが刺さるような素晴らしい感動と衝撃を与えてくれる作品というのは、世の中にはたくさん存在します。その意味では、コンテキストはしょせんコンテンツに寄り添うだけの存在であって、単独に成り立つ要素ではないかもしれない。
 しかしアートの世界には、コンテキストがなければ決してだれにも認知されるはずがなかったコンテンツも存在するのです。
 それが「アウトサイダーアート」。


ここでアウトサイダーアートの代表として、ヘンリー・ダーガーが紹介される。

†キュレーターはアウトサイダーアートを見出す

 アウトサイダーアートを生み出すダーガーのような世捨て人や犯罪者、精神病患者は、作り手本人も周囲も「そこにアートがある」という意識を共有していません。たとえば精神病院に長期入院しているような患者が絵を描いた場合、それはあくまでも治療や教育の見地から絵を描くというようにとらえられているだけで、描かれた絵は本人の居室に飾られるか、そうでなければいずれは看護師によってゴミ箱に捨てられてしまうしまうだけです。


†コンテンツとキュレーションが分離した世界

 アウトサイダーアートは、生々しい表現の欲求衝動のみが存在する世界。そして観る側には、そのような生々しさを、生のまま受けとめたいという欲求がある。それがアウトサイダーアートという分野を成立させているといえます。
 ではその間を取り持つキュレーターは、いったいどのようなことをしているのでしょうか? どうやってその生の衝動を、生のまま伝えるのでしょうか? 
 小出由起子さんは私の取材に、「アウトサイダーアートでは、表現とキュレーションが分離しているのです」と話してくれました。
 アートのメインストリームでは、つくり手は表現者であると同時に自分の作品がどのようにしていまの時代に受け入れられるのか、どこにその場を求めればいいのか、そしてどうプロモーションしていけばいいのかという編集的、ビジネス的センスまでもが求められます。
(中略)
 しかしアウトサイダーアーティストたちは、そのような戦略的発想をいっさい持たない。自分以外には興味がいっさい無く、ただ自分のためだけに作品を作っているような人たちです。だからそこに、キュレーターという存在が必要になってくる。キュレーターが、アウトサイダーアートにコンテキストを付与し、それを現代の芸術界に重ね合わせるという作業を行なっているのです。
 つまりはアートという大きなプラットフォームの上で、表現とキュレーションが分離し、それぞれモジュール化しているという構図になっているということです。



私の過去記事を読んでくださっている方には、以上の引用がどのような意図を持って行なわれたのか察しが付くと思う。


ここへ繋げたいのである。知的障害者たちのパフォーマンス。
 ⇒『心地良い「不揃いな音」』

このパフォーマンス集団「otto&orabu」が所属するしょうぶ学園の福森学園長は、彼ら知的障害者たちには「作品」という意識は皆無であることを指摘していた、とはこちらの記事で紹介したとおり。福森さんは、かれらの“作品”は“行為の結果”であり、それを健常者である施設の方でピックアップして「作品」として提示していると述べていた。まさに表現(行為)とキュレーションの分離であり、その意味で、しょうぶ学園から生み出される作品は「アウトサイダーアート」である。

ただし、これは、実は、「otto&orrabu」のパフォーマンスには当てはまらない(と、福森さんは言及してはいなかったが)。

しょうぶ学園には、他にも「nui project」といった企画がある。こちらは福森さんの言葉通り、彼らアウトサイダーたちの表現/行為を施設の側でキュレーションしたもの。ところが「otto&orrabu」では、「インサイダー」が混ざっている。表現/行為とキュレーションとが分離していないのである。

アウトサイダーアートは、アートというプラットフォームの上で表現とキュレーションとがモジュール化して成立しているもの。しかし「otto&orrabu」の場合、そのプラットフォームはあくまで一個の完成した「作品」である。つまり「otto&orrabu」においては、分離したことで見出されたアウトサイダーたちの表現/行為が、インサイダーと融合している。なので、この作品には「アウトサイダーアート」という表現は相応しくないだろうと思う。

 日本ではアウトサイダーアートはどちらかといえば「知的障害者の作る作品」というように捉えられていて、だから「アウトサイダー」(部外者)ということばが嫌われて「エイブルアート」(可能性のアート)などということばが使われていたりします。「弱者の描く無垢の絵」というような意味合いが強い。
 でもアウトサイダーアートの本来の立ち位置に戻って考えれば、それは決して無垢ではないのです。

†子どもの絵は私たちの存在を揺り動かさない

「芸術は爆発だ!」というセリフで知られる画家の岡本太郎さんは、『新版 今日の芸術』(光文社)という本の中で、子供の絵を引き合いにだして、無垢なアートという考え方を否定しています。

「子どもの絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきとした自由感があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じることがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力は、われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。――なぜだろうか。
 子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です」

 岡本さんは、心に迫ってきて観る者をぐいぐい圧倒するような芸術は「いやったらしい」ものだとも書いています。不快感、いやらしさも一緒にやってくるのです。


正直なところをいって、しょうぶ学園が生み出す「作品」を観た後も、岡本太郎がこのような意見を保持するかどうかは疑問だ。これらの作品は、のびのび生き生きとした自由感があって、すごみがあって、われわれの全生活、全存在を揺さぶり動かす。しかも、許されたあいだだけの自由でしかない。なのに力がある。また、アウトサイダーたちは不自由を感じることないから、戦いもしない。ゆえに無内容ではあるかもしれないが、その力は観る者を圧倒的せずにはいられない。

これこそ“剥き出しの魂”の根源的な生命の力、なのだと思う。その意味で「ソウルアート」と呼ぶか、あるいは「オリジンアート」と呼ぶか。

だが「otto&orabu」は同時に“剥き出しの魂”だけでは伝わらないのだということも教えてくれる。行為が表現として他者に伝わるには「形式」がどうしても必要だ。「otto&orabu」の場合、それはインサイダーが担っている。インサイダーが形作る「形式」の中にアウトサイダーの“剥き出し”が埋め込まれている。だから観る者にも伝わる。

「otto&orabu」から伝わってくるものはふたつ。ひとつは、奇異な印象をまったく感じさせない剥き出しの魂の生命力。それは、「作品」というプラットフォーム上において、アウトサイダーとインサイダーとが分業をし、しかも融合していうことから生まれる。もうひとつは「境界のゆらぎ」である。

†セマンティックボーダーという意味の壁

 先ほど、キュレーションというのはアウトサイダーアートを美術史のどこかの場所へ接続させる行為であるということを書きました。
 これまでアートでなかったはずの作品をインサイダーのアートとしてキュレートするわけですから、これは言い換えればアウトサイダーとインサイダーのボーダーラインを新たに設定し、「これもインサイダーですよ」と定義し直す行為といえる。
 セマンティックボーダー(意味の壁)という言葉があります。
 この言葉を私は、バイオホロニクス(生命関係学)で知られる東大名誉教授、清水博さん『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』(中公新書)という名著で知りました。
 世界の複雑さは無限で、その無限である複雑をすべて自分の世界に取り込むことは出来ません。ノイズの海と私たちが直接向き合うことは、とうてい不可能なのです。だから動物や人間は、さまざまな情報の障壁をもうけて、その障壁の内側に自分だけのルールを保っている。
(中略)
 これを清水さんは「自己の世界の意味的な境界」としてセマンティックボーダーと呼んでいます。


人間のもつセマンティックボーダーの質は、動物一般とは異なる。本能に生きる動物はそのセマンティックボーダーもまた本能によって規定されたものだが、本能が壊れて人間となったヒトの場合、セマンティックボーダーは個人が棲む環境(風土や社会)に依存する。

アートというものは、セマンティックボーダーを揺るがすものである。従来、その力はアート本来のコンテンツにあると考えられてきた。コンテンツに力があるのは現在でも変わらないが、インターネットが発達して膨大な情報の海のなかで暮らすようになった我々にとっては、コンテンツを整理して適切なコンテキストを与えるキュレーションが重要になってくる。また、コンテキストそのものにもセマンティックボーダーを揺るがす力がある――このあたりが『キュレーションの時代』の主張の主旨だろう。

そこはさておき、もう一度岡本太郎の言葉に戻る。「いやったらしいもの」というところ。

アートはセマンティックボーダーを揺るがす。だからこそ全生活、全存在を揺さぶることになる。だが、そこには「いやったらしさ」が伴う。なぜか。それはセマンティックボーダーの揺らぎが、人為的な環境によって規定された範囲に留まるからであろう。“戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由”とはつまるところ社会的なボーダーの揺らぎにすぎない。

その揺らぎが人為的・社会的なところを超えるとどうなるか。「otto&orabu」のパフォーマンスは、そこを示しているように感じる。無意味なのに力強く全存在を揺り動かす。それは“剥き出しの魂”という、パフォーマンスに接したときに得られる印象とも一致する。

先日、葉山で行なわれた「otto&orabu」のパフォーマンスの模様がUstremにアップされているので、再び紹介しておこう。

  http://www.ustream.tv/recorded/22485102

「市民エリート」を考えるにあたって、『聖杯問答』

久々に、アニメネタで行ってみたいと思う。

Fate/Zero

これは始まり(ゼロ)に至る物語――、なんだそうだ。


もともとは虚淵玄の伝奇小説(ライトノベル)なんだそうだが、そちらは読んでいない。観ているのは、アニメのみ。
虚淵玄といえば『魔法少女 まどか☆マギカ』だが、それに劣らず、魅力的なアニメだと思う。なによりキャラクターの個性が際立っている。

今回は、このアニメに登場してくるキャラクターの人物像から「エリート」について語ってみたいと思うわけだが、少しだけ『Fate/Zero』の舞台設定を説明しておこう。

まず、どんな願いでも叶えるという「聖杯」なるものがある。その「聖杯」を巡って7人の魔術師たちが争う「聖杯戦争」が、物語の主舞台となる。また、それぞれの魔術師はマスターとなって、歴史上の英雄(英霊)をひとりサーヴァントとして召喚できる。

で、ここで取り上げるのは、そのサーヴァントのうちの二人。「セイバー」と呼称されるアーサー・ペンドラゴン。「円卓の騎士」をたちを束ね、宝剣「エクスかリバー」を携えた伝説の王。それが、このアニメではなぜか女性の設定になっている。
もうひとりは、「ライダー」と称される征服王イスカンダル。要するにアレクサンダー大王。

第11話『聖杯問答』において、このふたりに英雄王ギルガメッシュを加えた三人が、「王とは何か」について問答をする。この問答がなかなか興味深いのである。(なお、ここではギルガメッシュの主張は省略する。

そのセリフを抜き出してみよう。

セイバー: そうまでして、聖杯に何を求める?
ライダー: 受肉だ。
       いくら魔力で現界しているとはいえ、所詮我らはサーバント。
       余は転生したこの世界に、一個の命として根を下ろしたい。
       体ひとつの我を張って、天と地に向かい合う。
       それが、征服という行いのすべて。
       そのように開始し、推し進め、成し遂げてこその、我が覇道なのだ。
セイバー: そんなものは、王の在り方ではない。
       私は、我が故郷の救済を願う。
       万能の願望器をもってして、ブリテンの滅びの運命を変える。
ライダー: なあ、騎士王? 貴様、いま、運命を変えると言ったか?
       それは、過去の歴史を覆すということか?
セイバー: そうだ。たとえ奇跡をもって叶わぬ願いだろうと、
       聖杯が真に万能であるならば、必ずや...
ライダー: 貴様、よりにもよって、自らが歴史に刻んだ行いを否定するというのか?
セイバー: そうとも。なぜ訝る? なぜ笑う? 
       剣を預かり、身命を捧げた故国が滅んだのだ。
       それを悼むのがどうしておかしい?
セイバー: 王たる者ならば、身を挺して治める国の繁栄を願うはず。
ライダー: いいや、違う。王が捧げるのではない。
       国が、民草が、その身命を王に捧げるのだ。
       断じて、その逆ではない。
セイバー: なにを? それは暴君の治世ではないか。
ライダー: 然り。我らは暴君であるがゆえに、英雄だ。
       だがな、セイバー。
       自らの治世を、その結末を悔やむ王がいるとしたら、それはただの暗君だ。
       暴君より始末が悪い。
セイバー: イスカンダル。貴様とて、世継ぎを葬られ、
       築き上げた帝国は3つに引き裂かれて終わったはずだ。
       その結末に、貴様は何の悔いもないというのか。
ライダー: ない。
       余の決断、余に付き従った臣下たちの生き様の果てに辿り着いた結末ならば、
       その滅びは必定だ。
       悼みもしよう。涙も流そう。だが、決して悔やみはしない。
       まして、それを覆すなど!
       そんな愚行は、余とともに時代を築いたすべての人間に対する侮辱である。
セイバー: 滅びの花を誉れとするのは、武人だけだ。
       力無き者を守らずして、どうする?
       正しき統制。正しき治世。それこそが王の本懐だろう。
ライダー: で? 王たる貴様は、「正しさ」の奴隷か?
セイバー: それでいい。理想に殉してこそ王だ。
ライダー: そんな生き方は人ではない。
セイバー: 王として国を治めるのなら、人の生き方など望めない。
       征服王。たかだか我が身の可愛さの余り、
       聖杯を求めるという貴様にはわかるまい。
       飽くなき欲望を満たすために、覇王となった貴様には。
ライダー: 無力な王など飾り物にも劣るわい!
       セイバーよ。理想に殉じると貴様は言ったな。
       なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な賢者だったことだろう。
       さぞや高貴で侵しがたい姿であったことだろう。
       だがな。殉教などという茨に道に、いったい誰が憧れる? 
       焦がれるほどの夢を見る?
       王とはな。誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する。
       清濁を含めて、人の臨界を極めたる者。
       そうあるからこそ、臣下は王に羨望し、魅せられる。
       ひとり一人の民草の心に、我もまた王たらんと、憧憬の火が点る。
ライダー: 騎士道の誉れたる王よ。
       確かに貴様が掲げた正義と理想は、
       ひとたび臣民を救い、国を救済したやもしれぬ。
       だがな。
       ただ救われただけの連中がどういう末路を辿ったか。
       それを知らぬ貴様ではあるまい。
ライダー: 貴様は臣下を救うばかりで、導くことをしなかった。
       王の欲の形を示すこともなく、道を見失った臣下を棄ておき、
       ただひとりで澄まし顔のまま、小綺麗な理想とやらを思い焦がれていただけよ。
       ゆえに貴様は生粋の王ではない。
       己のためではなく、他人のための、
       王という偶像に縛れていただけの小娘に過ぎぬ。 

ライダー: 王とは、誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉。
       すべての勇者の羨望を束ね、その道標として立つ者が、王。  
       ゆえに、王とは孤高にあらず。
       その意志は、全ての臣民の志の総算たるが故に。

      
このライダーのいう王。これこそまさに「エリート」であろう。

きみがモテれば、社会は変わる。

実はこの宮台氏の新著、私はまだ未読である。なのに、ライダーの主張にこの本を思い浮かべた。いや、逆か。この本の主張から、ライダーのセリフを思い起こしたのだ。この本の主張の「エリート」に関する部分は、こちらにまとめられてある。私が読んだのはこれである。

数学屋のメガネ:
  『きみがモテれば、社会は変わる』 1<宮台真司さんの現状分析の的確さ>
  『きみがモテれば、社会は変わる』 2
    <「モテるやつ」というエリートは日本の「空気」を変えられるか>

  『きみがモテれば、社会は変わる』 3<「エリート」と重なる諸概念>

(よって、私は宮台氏の主張に直に触れたわけではないことになるが、マル激などで宮台氏の主張にはこれまでも接してはいる。それからすると違和感はない。ただし、後日、本書は読んでみるつもりでいる。違った感想を持ったなら、またその時は当ブログで取り上げようと思う。)

宮台さんが語るエリートは、象徴的な言葉で「モテるやつ」と語られる。これは象徴なので、具体的に理解しなければ間違って受け止める。もう少し具体的に表現すると「他人を幸せにすることが出来るやつ」ということになる。これでもまだ抽象的だ。もっと具体的に受け止めるためには、現在の社会との関連で考えた方がいい。そこに「空気」に支配された「悪い心の習慣を持った」「悪い共同体」というものが顔を出してくる。この現状を変える可能性を秘めたものとして「モテるやつ」という概念が出てくる。


私は、象徴的な「モテるやつ」という言葉の具体像として、アニメ『Fate/Zero』に描かれた征服王イスカンダル(マケドニア王アレクサンドロス3世)を想起したというわけだ。

宮台さんは、単なる「いい人」では共同体の存続を支えるだけで改革は出来ないと指摘する。「いい人」は、共同体にとって都合の「いい人」になる。決して他者を幸せにするような「モテるやつ」にはならない。他者一般ではなく、共同体の存続を望む特定の利害に絡んでいる人を「楽にする」存在となる。これは決して本当の幸せではないので「楽」という表現を使った。この「いい人」を脱却して、どうすれば他者を幸せに出来るかと言うことを考えなければ「モテるやつ」にはなれない。


ここで言われる「いい人」は、“セイバー”こと、女性の姿に改められたアーサー・ペンドラゴンである。そして「幸せ」とは、“ライダー”ことアレクサンダーが語る「憧憬」ということになる。

この「いい人」は、自分の正直な感覚を抑えて、他者が期待する像に合わせて自分の心を抑えつける人間のイメージが浮かんでくる。安冨さんが指摘するような、学習に閉ざされた人間だ。だから「いい人」を脱却するには、安冨さんが提唱するように、自分の感覚に正直になり学習に開かれることが必要に感じる。宮台さんが語る「モテるやつ」と安冨さんの学習に開かれた人間とはイメージが重なる。重ならないのは、宮台さんの論理ではそれが「エリート」になり、安冨さんの論理では、必ずしもエリートでなくてもよく、結果的に君子になると言うことだろうか。


この記述は『きみがモテれば、社会は変わる』の枠を超えた、数学屋・秀さんのもの。

私はこの記述に基本的に同意するが、「君子」というのもやはりエリート的なイメージが強いので、宮台氏のいう「ミメーシス」と安冨先生の「学習」の差異が明確なっていないように感じる。なので私は、次のように言ってみたい。
ライダー
宮台氏の「ミメーシス」は、アレクサンダーの造形に象徴されるように、極めて父権的。対して、安冨先生の「学習」は男女を問わない。男性的にも、女性的に「学習」は行なうことができる。

(ちなみにいうと、私は宮台的「エリート」「ミメーシス」に、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を想起するが、ここいらは直接『きみがモテれば、』に当たって検証してみることにしよう。)

セイバー『fate/Zero』において、セイバーが女性として設定されている意味は、ここにあるのではないかと私は想像している。セイバーは、女性でありながら男性的騎士王である。これを「学習」という観点から見てみると、女性が男性の姿をなぞっているがゆえに、母権的学習を阻まれている、ということになる。その結果、誰も憧れもしない、「理想に殉じる」という悲劇に陥る。

母権的学習となれば、思い起こされるのは、同じく虚淵玄による『魔法少女 まどか☆マギカ』だ。主人公の鹿目まどかは、母権的学習をくり返した後に、「希望の純粋形」とでも言うべきところへ立ち至る。『fate/Zero』はかなり複雑な展開を見せているので、どのような形で結末するのかはわからないけれども、主人公がセイバーであるのなら、再び母権的学習の形が提示されることになるのかもしれない。

思うに、父権的学習の鍵が「憧憬」であるなら、母権的学習の鍵は「負い目」だろう。そしてさらに言えば、「憧憬」は魂の属性。「負い目」は霊の属性であろう。

魂とは、生命の〈本来的運動〉である。よって、生物なら、あらゆるものが魂を持つ。対して、霊を持つのはヒトのみ、あるいはごく限られた生物種のみ。ヒトは、インターフェイスに霊を持つことで人間になる。

生命の〈本来的運動〉である魂は、生きることそのものである。「憧憬」は、霊的生物でなければ持つことのない感情ではあろうけれども、規定された本能を持たないヒトの魂の〈本来的運動〉への希求と考えられるから、魂の属性としてよいだろう。不思議なのは「負い目」である。

こちらで示したように、人間はなぜか根源的な「負い目」を持つ。西洋的には「形而上の罪」という形で。日本的には「人情」という形で。生きてあることそのものになぜか疚しさを感じてしまう。

人間が美を求め、自身の能力の枠を超えた秩序を求めるのは、霊の属性になる「負い目」に因るところが大きいと私は思っている。「生きる」ことは美でもなければ真でもなく、また善でもない。霊的動物でない者たちは、各々懸命に生きようとするが、己が生きているという事実と生かしてくれる自然とに「美」を感じることはなかろうと想像する。「正」である「生」に「負」が組み合わせるからこそ「美」は生じ、「美」が生じるからこそ、「真」も「善」もある。

私が、ずっと以前から宮台氏の主張にどこか違和感を感じていた。確かに論理は明快だし、その上に情熱もある。非の打ち所がないように思えるが、何か欠けているものがあるようなずっと気がしていた。今、思うのは、それが「負い目」だということだ。といって、宮台氏の論理に「真善美」がないというわけではない。そうではなくて、宮台氏に「負い目」が感じられないということ。それはつまり、その論理の「美」は借り物でしかないということになってしまうが、そう言葉にしてみると、私の抱いている違和感とピッタリ一致してしまうのである。

といって、私は「市民エリート」という概念そのものを批判しようというのではない。“生きてあること”の負い目を、イエス・キリストの一身に背負わせてしまったといった類の「負い目」を感じるなら、「市民エリート」はバランスの取れたものとして機能することはありえると思う。が、日本人には、まず無理だろうと思う。

魂に「蓋」をするもの その2

5/5に葉山で行なわれた

 語る+聴く「しょうぶ学園」 福森伸・皆川明・中村好文と、otto & orabu

での、ライブパフォーマンスの様子がUSTREAMにアップされた。

 http://www.ustream.tv/recorded/22485102

以上、紹介しておいて、その1の続き。

その1では、知的障害者の魂が“剥き出し”なのは、魂を“コーティング”するインターフェイスが未発達であるため、ということだった。インターフェイスが発達する健常者の場合、魂に「蓋」をするのは、ハラスメント連鎖の結果とはいえ、自分自身である。

我々健常者は、“健常”とはいいながら、多くの場合、インターフェイスの発達は甚だ不健全なものでしかない。その結果として生じるのが「魂の植民地化」である。健常者はインターフェイスを発達させてしまうばかりに、魂が植民地化されてしまう危険性も背負うことになる。

(右図は『ハラスメントは連鎖する』よりの引用。
ハラスメント魂/インターフェイス/外界 「切断」の三態様。)

「魂の植民地化」と不健全なインターフェイスによる「切断」とが、大きく関係することは間違いないだろう。問題はインターフェイスの「中身」である。私はこれまでも、インターフェイス(器)の中に存在するものを〈霊〉と表現してきた。


ヒトはインターフェイスを発達させることによって人間になる。インターフェイスとは人間の心・人格の外側である外界に実在する他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、ここが自然に発達すると、インターフェイスのなかで他者の「像」が結ばれることになる。この「像」が〈霊〉である。(『〈霊〉を定義する』


ここでいう「他者」の定義をしておきたいが、これが難しい。“他人”の意に留まらず、ヒトが感覚するさまざまなモノ・コトが「他者」である。さらには言語や過去の記憶、未来への想像なども「他者」に含まれる。安冨先生の言い方を借りれば「地平」ということになろうか。

「魂の植民地化」および「魂の脱植民地化」は、「地平」という言葉で定義されている。

【定義1】 魂の植民地化とは、自らのではなく、他人の地平を生きるようになること、である。
【定義2】 魂の脱植民地化とは、他人のではなく、自らの地平を生きるようになること、である。


私は、〈霊〉という言葉を用いて、この定義を以下のように言い換えてみたい。

【定義1】 魂の植民地化とは、【悪霊】によってインターフェイスが満たされた状態になること、である。
【定義2】 魂の脱植民地化とは、〈霊〉によってインターフェイスが満たされている状態になること、である。

(ちなみにいうと、魂にとってはインターフェイスが「世界」である。よって、当ブログの標語して掲げてある“世界を〈霊〉で満たせ”というのは“魂を脱植民地化せよ”と同じ意味になる。)

【悪霊】が出てきたので説明しなければなるまい。【悪霊】とは学習を停止した「霊」のこと。また、〈霊〉とは学習を継続しその質〈クオリティ〉を高め続けている「霊」を指す。
(【悪霊】を【霊】と表記しても同じ意味になるが、より意味を明確にするために【悪霊】としている。)

健常者のインターフェイスを不健全なものにして魂に「蓋」をし、魂を植民地化させてしまうものは【悪霊】である。人間は【悪霊】に「憑依」されてしまうことで、魂が植民地化してしまうことになる。

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自己表現の悦びと技術について

今朝ネットにアクセスすると、まず目に飛び込んできたのがヤフーのヘットラインにあったこの記事。

脳科学で解明、人が自分について語りたがるわけ─氾濫するSNS
ウォール・ストリート・ジャーナル 5月9日(水)10時9分配信

 自分について話すことが、食べ物やお金で感じるのと同じ「喜びの感覚」を脳のなかに呼び起こすことが、7日発表された研究で明らかになった。個人的な会話であっても、フェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアでの発信であっても、それは変わらない。

 日常会話の約40%は、自分が何を感じ、どう考えたかを他人に話すことで占められている。米ハーバード大学の神経科学者らが脳画像診断と行動に関する5つの実験を行い、その理由を解明した。脳細胞とシナプスがかなり満足感を得るため、自分の考えを話すことを止められないのだ。

 「セルフディスクロージャー(自己開示)は特に満足度が高い」と同大学の神経科学者、ダイアナ・タミール氏は話す。タミール氏は同僚のジェイソン・ミッチェル氏と実験を行った。両氏の研究は米国科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載された。タミール氏は「人は自分のことを話すためには、お金さえあきらめる」と指摘する。


この研究報告は、私たち自身の実感としても納得がいく。私たちは、自分のことを語りたい。自己表現をしたい。そうした欲求は間違いなくあって、その欲求が満たされたときに悦びを感じる。

これに関連して思い出したのが、先の記事で紹介したしょうぶ学園の学園長福森さんが、先日の葉山のイベントで語っていたこと。知的障害者たちはとにかく「足し算」なんだ、と。

「足し算」というのは、自己表現であろう。もっとも知的障害者には“自己表現”という意識もなく、とにかく「行為」することに悦びを見出していて、それがそのまま“魂の発露”になるわけだが。つまり、自己表現は人間という存在のかなり深いところから出てくる欲求なんだということであり、その欲求に自己規制がかかってしまうことが「魂の植民地化」ということなのだろう、ということ。

では、魂が植民地化されてしまった不健全な健常者も、自己表現の悦びを感じるのだろうか? 間違いなく感じているだろう。ネット上に溢れる批判ないしは誹謗中傷もまた自己表現に他ならないわけで、そしてそうした自己表現を為すのは「悦び」を欲求しているからに違いなくて、つまり他者の否定が悦びになっているという「現実」がある。否定された他者は嬉しいはずがないから、そうした荒れた場では「悦び」の争奪戦になってしまう。植民地化された魂は、他の魂を植民地化することに悦びを見出す、と言っても良かろう。あるいは「ハラスメントの連鎖」だ。

そうなると、健常者の場合には、単純に「足し算」すればよいといったことではなくなってしまう。「引き算」という「技術」が必要になってくる。

 ボソボソとつぶやく(光るナス)

技術は ある意味、徹頭徹尾「自分」を消していく作業だけれど、技術を使って相手の中に入った後は、もろにその「自分」が出る。
勝負どころはその「自分」が出るとき。
結局「自分」が問われてしまう。

技術の稽古や研鑽が必要なのは、その「自分」というか「我」に気がつくことが必要だから。
「我」を否定していく技術の稽古がないと、これはなかなか難しいように感じる。
だから、「思い込み」を排したいなら、やっぱり技術の稽古はどうしても必要。


 スッと入って「ね♪」って笑う(光るナス)

「型の動き」が伝えるもので、相手の無意識の抵抗をもスッとかいくぐって、いきなり相手の懐のど真ん中に入ってしまう。
「型の動き」が出来るようになると、それが可能になってきます。
カギがかかっていても、スッと入れちゃう。

だけど、そのあとが問題なんだな・・・、この話を聞いていて それが得心できました。
いくらスッと入れたって、「うらめしや~」じゃダメなんですよね。 (^_^;)
そのあとにどうするのか、どうなのか、そこが最大の問題なんだ。
イエスの「シャローム」に、そんなことを想いました。

スッと入れてしまう技術があっても、自分が「お岩さん」じゃどうしようもないわけです。
やっぱり「自分」が問われてしまう。
技術ができるに越したことはないんですが、それは結局 便利なツールでしかない。
動けたからといって「素晴らしい人」「懐かしい人」になるわけではない。
「型の動き」が出来るようになっても、「動けますね」というだけの話なんですよね。


人間という生き物が他の者たちよりも優れている点のひとつは、「技術」を編み出し修得することができるというところ。複雑怪奇なレベルにまで技術を高めてしまうことができ、いろいろな用途に使える。自身を隠蔽するためにも使えてしまったりして、そのことが「魂の植民地化」を生み出すもとになる。

アキラさんがここでいう“スッと入れてしまう技術”とは他人の中へと入ることを言っているのだけれども、それは必ずしも他人にだけ働く性質のものではないと思う。むしろ、自身にスッとかどうかはわかならいけど、入り込んでしまう技術。特に現代人はそういう【技術】を発達させてしまっているように思える。

(その典型が「東大話法」か?)

そう捉えてみると、“徹頭徹尾「自分」を消していく”という技術は、自身に掛けた【技術】を解除していく〈技術〉だとも言えるだろう。でも、それができたからといって「魂の脱植民地化」できるのかといえば、まだそうはいかない。その「自分」が「うらめしや~」と言っているのか「シャローム」と言っているのかで違ってしまう。

(ちなみに私は「うらめしや~」って言っています。)

「うらめしや~」と言っているなら、そこへ愉氣をしようよ、と。“スッと入って「ね♪」って笑う”というのは、そういうことなんだろう、と。もっとも、「うらめしや~」と言っている「自分」に出会うことができれば、多くのモノが「ね♪」って笑っていることにも気がついてしまいますけど。自然は美しいし、子どもたちは笑っているしね。植民地化されなければ、魂というのは笑っているもの。そして、植民地化されてしまうのは人間だけ。いや、健常者だけ。

知的障害者の魂は、笑っていた。健常者が抑圧しなければ彼らは笑い出すんだよね。赤ん坊と同じように。そうすると、それが自ずから自己表現になる。この場合の自己表現は、植物が春になると芽吹いて花を咲かせ、秋になると実を結ぶように、自然の「成り行き」でしかない。

自然の「成り行き」には、悦びに満ちあふれているように感じられる。たとえその「成り行き」の末に、「自分」が消滅していくのだとしても。

魂に「蓋」をするもの その1

先の5月5日、「不揃いな音」に出会ってきた。

 心地よい「不揃いな音」


リアルに出会った「不揃いな音」は、“心地良い”という領域を越えて“むき出しの魂”というべきものだった。

(葉山で行なわれた当日の様子は、今週中にUSTREAMにアップされる予定と聞いている。尽力してくださっている方々がいるのだ。感謝。)

 語る+聴く「しょうぶ学園」 福森伸・皆川明・中村好文と、otto & orabu

こちらのtogetterは、5/5のイベントを巡る一連のツイートをまとめられたもの。以下、5/6の私のツイートを抜き出してみる。

・確かに、あれは「むき出しの魂」の鳴動だった。「むき出しの魂」は、技術を用いてアンサンブルしなくても、ダイレクトの観る者の魂へと響く。 RT @yoshikonome: 今日、ここに極楽浄土があった。しょうぶ学園から来た、魂の音楽隊。 http://t.co/2nQKDPbi 

・「語る」も「聴く」も素晴らしかった。加えて、ポンナレット葉山の家で展示されていた“作品”を「観る」ことも。 http://t.co/uiD6Ebdm

・「工房しょうぶ」の“作品”を観た後、私はこれは果たして“作品”なのかと、あそこで用いられているのは果たして“技術”なのかと@tanakazuhikoさんと話をした。「語る」で学園長の福森さんは、“作品”というより“行為の結果”と述べられていた。さすがに現場におられる方の言葉は違う。

・「作品」や「技術」といった言葉は、「健常者の言葉」である。彼らの“作品”は「健常者の言葉」で不用意には語れない。彼らに接すると、私たちは言葉ですらすでに「健常者」という枠の中に取り込まれてしまっていることに気がつかされる。

・福森さんが語っておられたことを、勝手にまとめさせてもらうと、こうなるだろうか。障害者たちに健常者という枠から出てくる「作品」を強要することをやめると、「行為」がむき出しになって出てきた。「行為」とは、何らの目的も持たない、行為することが目的とした言いようがないもの。

・健常者は、障害者たちの「行為の結果」を「作品」として見立てて健常者の世界へ持ち込む。それは銭勘定の世界でもある。が、障害者たちにとってはそういった世界は埒外だ。彼らには「行為」こそが全てであって、「作品」にはもはや関心がない。

・彼らは、「行為」中の“作品”を取り上げられると激しく抗議するが、健常者から見て「作品」となったものは、目の前でゴミ箱に捨てられても意に介さないという。自由な魂とは、まさにこのことか。

・また、作り上げた「作品」を解体することで“作品”にすることもある、という。せっかく(というのは健常者の感覚)縫い上げた刺繍の糸を全部抜き取って、「行為」は終了。魂は「行為」の中にあって、なんらの形も持たない。

・そうした自由でむき出しの魂は、「聴く」の方にもよく現われていた。彼らが奏でたのは「自然の音」だったと思う。たとえば、鳥や虫たちの鳴き声のような。

・今、朝に森へ入ると鳥たちの囀りが喧しいくらいだが、鳥たちは彼ら自身の気の趣くままに「行為」をしているだけだ。もとよりリズムやハーモニーを揃えようなどという意識はない。しかし、そうした「行為」を聴く私たちは、その「バラバラの音」になぜか一体感を感じたりする。

・しょうぶ学園が主宰する「otto」というパーカンションバンドのコンセプトは「心地良い不揃いの音」だという。なるほど、確かに不揃いだ。しかし、“不揃い”という言からして、すでに「自然な音」しか奏でられない健常者の言葉の枠内である。「自然の音」が揃うことは、初めからあり得ない。

・健常者にだって「自然の音」は出すことはできる。何も考えずに音を出せばいいのだから、簡単だ。しかし、それを自己表現として、「自然の音」を出し続けることはできるだろうか。 集中力が持続するだろうか。ほとんど不可能のように私には思える。が、彼らはそれを容易にこなす。

・「障害者」という呼称がそもそも“健常者の言葉”なのは言うまでもない。そのような反省はいままでもあった。とはいうものの、その反省にはどこか空虚なものがあったと思う。現実の問題として、彼らは我々健常者と比較して、機能的に劣っていると言わざるを得ないと考えられているからだ。

・健常者の世界は「作品」を必要とする。障害者だってその生を繋いでいくには「作品」が必要であり、彼らは「作品」を再生産する能力においては間違いなく劣る。機械的に“生きる”という問題に限定すれば、彼らを「障害者」と呼ぶことに誤りはなかろう。

・しかし、私たちは機械的に生きているわけではない。「生きる」というのは魂の作動である。その観点から見てみれば、彼らは健常者には困難な芸当を容易にこなす「異能者」である。ただし、異能とはいっても、彼らと我々の魂は共通だ。だからダイレクトに魂に響く。

・健常者であれば“自然に”という形でコーティングせねばならぬところを、異能者はそのまま“自然”という生のままで表出することができる。それを受けとめたとき、我々は自身の「魂の在処」を教えてもらうことになる。

「健常者であれば“自然に”という形でコーティングせねばならぬところ」。これこそが“魂に「蓋」をするもの”であろう。

福森学園長の話が興味深い。(葉山とは別のイベントでの講演録画)


核心部分の要旨をまとめてみる。

・ある知的障害者には木工で器を作るように、別の者には布で布巾を縫うように、“指導”していたが、上手く行かなかった。どうしても決められたとおりに制作することができない。

・しかし、指導者のほうでさまざまに工夫をしては決められたようにできるように、“努力”をひたすら重ねていた。“障害を乗り越えていこう”の世界へ陥っていた。

・あるとき、どのように“指導”しても上手く出来ない者(器を掘らせると底に穴を開けてしまう)に、好きなように作業をさせてみた。するとその者は、出来ましたと言って「木の屑」を持ってきた。全て掘り潰してしまったのだったが、非常に自慢げだったという。

・指導する側は「いい器」を作るつもりでいた。その者もそのつもりでいるのだろうと思っていて、けれど出来ないのだと思っていた。しかしそれは違っていて、そもそもやろうとしていたことが違うということに気がついた。

・布の工房の方でも好きにやらせてみると、刺繍された布が「塊」になって転がるような事態になった。しかし、その「塊」に大変な魅力があることを発見するようになっていた。

「塊」の魅力。これが“むき出しの魂”の魅力。「作品」の、はなく、魂が「行為」した結果の魅力。魂の痕跡が放つ魅力とでも言えばいいだろうか。



そのような作品群はしょうぶ学園のHPで見ることが出来る。ただ、正直なところをいうと、それらの画像は作品の魅力を上手く伝えているようには思えない。実物にあった迫力に欠けるように思う。おそらく写真には上手く写らないのだ。)

志野茶碗健常者ではこうはいかない。“むき出しの魂”すなわち“生の自然”ではなくて、ほとんどの場合“自然な”ものにしかならない。たとえば、こういった作品。

東京国立博物館所蔵の『志野茶碗』。桃山時代の作。日本の伝統工芸に親しみを感じる人なら、こういった作品の良さは感じられよう。“自然な”風合いではあるが、決して“むき出し”の魂ではない。

この茶碗は“魂のこもった作品”と評されるべきだろう。しかし、彼ら知的障害者たちの“行為の結果”と比較したとき、そこには距離感が感じられる。魂に直に触れるというより、透明なケースに入った魂を眺めるような感覚。先のツイートで「コーティング」と評したのは、そういうことだ。

福森さんが話の続きで言及しているように、健常者であっても「作品」が“行為の結果”であることには変わりはない。「行為」に没入すればするほどに、「作品」よりも「行為」そのものの比重が高まってゆく。しかし、彼らのように、「作品」という意識が消えて無くなり「行為」そのものしかないという境地には、そうそうなれるものではなかろう。

もっとも、彼らのこの「境地」は、彼らの障害からもたらされるものである。

彼ら知的障害者には「コーティング」が欠けることにについては、福森さんは次のように言及している

・右脳と左脳の働きの違い。
右脳は直観的に創造したり表現したり感じたりという、感性的な脳。
左脳は、判断したり計算したり組み立てたりバランスを取ったりコーディネイトしたりといった、理性的な脳。

・知的に障害を持っている人の多くは左脳に障害があって、右脳にはあまり障害はないと思われる。なので、直観的な表現を出しやすい人たち。健常者は、右脳で感じたことを覆い隠してしまう。

私は右脳/左脳という区分けは適切ではないと思う。むしろ大脳古皮質/新皮質という区分けだろうと思うが、いずれにせよ福森さんは、彼らには我々健常者にあるなんらかの「制御」が外れていると見ていることに間違いはなかろう。「制御」はイコール「コーティング」である。

彼らは「制御」が外れているからこそ表現者として優れている。逆に我々は「制御」が外せないという“障害”にかかっているとも言える。これは魂に素直に生きることができないという意味で、偽善的ということでもある。

そうした彼ら知的障害者の魂に「蓋」をするのは、彼ら自身ではない。福森さんが発見してきたのは、彼らには「蓋」(=「制御」=「コーティング」)がもともと欠けていて、「蓋」は外部から、すなわち“健常者の常識”からもたらされているということだ。よって、彼らへの接し方を健常者の方で改めれば、彼らの魂をそのまま引き出すことができる。そうやって引き出されたのが心地良い「不揃いな音」であり、奇っ怪な刺繍の施された服である。

知的障害者は、その障害の程度にもよるが、生まれたままの赤ん坊と同じく、魂がむき出しのままの人格だということができよう。彼らの障害は「インターフェイス」が未発達になってしまっているところにある。では、我々健常者は健全にインターフェイスを発達させているのかというと、答えは否定的にならざるを得ない。我々は健全に「インターフェイス」を発達させることができる可能性を持っているにもかかわらず、実際には不健全な「インターフェイス」を持つことしか出来ないでいる。その不健全な姿を描き出してみると、きっとこのような姿をしていることだろう。

ハウルの動く城


その2へ続く。

「当事者」の時代 その3

『義理と人情―長谷川伸と日本人のこころ―』という本を読んだ。


真っ暗闇じゃあござんせんか

 言い古されたことですが、本を作る時に編集者が頭を悩ますのが書名と帯のコピー。「絶対にコレね」と、強く書名を指定してくる書き手もたまにはいますが、文芸書以外では稀なことです。
 本書のメインタイトルと帯を思いついた時、誤解されやしないかと一瞬迷いました。「この本、あっちの世界の話ね?」と思われたらいやだな、と。「あっち」とは、以下のような世界のことです。
「義理人情」や「任侠」という言葉から私の頭に浮かぶのは、村田英雄バージョンの「人生劇場」の世界や、鶴田浩二、高倉健、菅原文太らの映画「人生劇場・飛車角」「網走番外地」「仁義なき戦い」、長い楊枝を加えた中村敦夫の台詞「あっしには関わりのねえことでござんす」などです。そうした主人公たちの、生きるプリンシプル(主義)は、「義理人情に厚く」「一度受けた恩義は忘れず」「弱者の味方をする」という、まさしく長谷川伸の描こうとした世界でした。そうではあるのですが、銀幕やブラウン管の中で、格好いい台詞を吐く姿があまりにも強烈なため、そちら(うわべ)ばかりに目がいってしまい、ことの本質は語られぬままになってしまいがちでした。
 著者の山折さんは「まえがき」で、長谷川伸の評価が低いことについてこう書きます。「近代的な知性や感性にはそぐわないものとして軽視され、侮蔑され、排除されていった。〈中略〉義理人情の世界では個の自立も個人の尊厳も手にすることはできないとか、〈中略〉断罪されてしまったのである。」
 さて、「個の自立」を一所懸命、学校や社会で学ばされた末、今の日本はどうなっちゃったでしょうか? 他者との関わりは薄くなり、弱者が切り捨てられやすいシステムが出来上がり、勝ち残りたいのなら自己責任で頑張りなさい、という社会が現出しました。居心地いいんでしょうか、この世界(真っ暗闇じゃござんせん?)。
「だから今、長谷川伸を読む意味があるんです」と山折さんは言います。長谷川伸が、主人公を通して描こうとした本質はなんだったのか。私たちが戦後半世紀をかけて少しずつ捨てていったものはなんだったんでしょう。この本にはその答えが書いてあります。


改めて“真っ暗闇じゃあござんせんか”と言われれば、今の日本社会はまこと、真っ暗闇だ。

長谷川伸は有名な作家なんだそうだ。が、私はこの本を読むまで全然知らなかった。
『夜もすがら検校』『沓掛時次郎』『瞼の母』『一本刀土俵入り』などが本書では紹介されているが、いずれも知らない。名前も聞いたことがない。

要するに「あっち」の世界。股旅ものの義理人情、浪花節の世界。演歌の世界よりも、まだずっと向こう側にある世界。

こうした「あっち」の世界に、どこか琴線に増えるものがあるのは何となく知ってはいた。私は近代的知性なんてものを疑ってかかっているつもりだから、近代的な知性や感性にはそぐわないものとして軽視するつもりはないけれども、「あっち」の世界はどうも商業的な臭いが強いような気がして――同じような臭いはタカラヅカにも感じる――、なんとはなしに敬遠してきたわけだ。

しかし。義理と人情、武士道、任侠道。これらの言葉はそれだけで「あっち」の臭いはするけれども、本書はさすがに「あっち」に埋没しきっているわけではない。そうした世界に潜んでいる、日本人の心性の本質をつかみだそうとしている。

著者の山折哲雄氏は、武士道や任侠道の根っこは「負い目」だという。

 さきに私は、佐藤忠男氏の『長谷川伸論』をとりあげ、そこに展開されている任侠道についての議論を紹介しておいた。任侠道と武士道を、忠誠心という観点から比較したものだったが、そのなかで佐藤氏は、任侠道の究極は弱者にたいする「負い目」を担いつづけることだといっている。これは注目すべき指摘で、さきの義理人情というのも、この相手(弱者)にたいする負い目をまっとうに意識することにほかならない。それが人間の自然の情であり、モラルの源泉であった。だから、義理すなわち公が、人情すなわち私に優先するといったような単純な話ではない。


私たちが昨年の大震災の時からずっと被災者と呼ばれる人々の感じているのは「負い目」ではないのだろうか。

『「当事者」の時代』の佐々木俊尚氏は、そうした「負い目」を感じさせられる相手を「当事者」と呼んでいる。そして次のように言う。

 われわれは望んで当事者にはなれない(p.455)
 他者に当事者であることを求めることはできない(p.458)

それに対して私は、“なれない”のではなくて“なりたくない”なのではないのか、と問うてみた。その問いは言い換えると、私たちが感じているはずの「負い目」に背を向けていないか、ということになろうか。

いや、背を向けているというのは不当だ。「負い目」を感じているからこそ、“なれない”“求めることはできない”というわけだから。背を向けていない。ただ、自身が感じているものに上手く焦点が当てられていない。「負い目」という言葉は、「当事者」に対する私たちのぼやけた風景に、ピッタリと焦点を合わせるレンズのようである。

『曾根崎心中』で徳兵衛とお初が死をもって恋をつらぬく場合でも、浮世の義理にせめたてられたはての受動的な悲劇などではないだろう。徳兵衛のお初にたいする人情、お初の徳兵衛にたいする人情が、義理の顔をしているだけの酷薄な世間の掟を圧倒していく物語だったということになる。
 司馬遼太郎の描く高田屋嘉兵衛もまた、そのような義理人情をその体内に大量に抱えこむタイプの人間だったのだろう。この人情過多の道徳感覚こそ、じつは江戸時代の町人道を底から支えるものだったのではないか。それはどこか、任侠道における弱者への負い目の感覚ともつながっているようにみえるのである。
 武士道についてもふれておこう。任侠道、町人道とくれば、そのことにもふれないわけにはいかない。むしろ問題は、そのような任侠道や町人道のなかに武士道をおくと、どんな風景がみえてくるかということだ。股旅物や世話物にも通ずるような物語の旋律が、そこからきこえてくるだろうか。
 手がかりは、いくらでもあるだろう。ここでは例によって新渡戸稲造の『武士道』をとりあげよう。どこから入ってもいいようなものだが、やはり「仁」にかんする一文(第五章)は逸することができないと思う。仁とは、武士道に不可避の最高の徳だという。愛、寛容、慈悲もしくは慈愛などの属性を含む。それはまた柔和にして、母のごとき徳である。
 まさに、武士道の精華として賞揚されている。が、それらの言明のなかで私がとりわけ胸をうたれるのは、新渡戸がつぎのようにいっているところだ。――武士にもっともふさわしい徳として称讃されたものこそ、「弱者、劣者、敗者に対する仁」である、と。私はこの言葉に出会ったとき、新渡戸の思想の琴線にふれたような気分になった。武士道の精神が倫理的な美の世界へと昇華するのは、そのような場面においてではないかと思ったほどだ。


「弱者、劣者、敗者に対する仁」は、孟子の言葉で「惻隠の情」とも言われる。これこそが「当事者の時代」に求められている、私たちが喪ってしまった「心」なのではないだろうか。

新渡戸稲造が『武士道』を表すようになった切っ掛けは有名だ。新渡戸が欧州に留学していた折りに、日本人とはどういった人間なのかを上手く言葉で説明出来なかった。欧州人の精神的支柱であるキリスト教に相当するものが明確に言い表すことが出来なかった。この負い目から生まれたのが『武士道』という著作だ。

そのキリスト教の精神に、「負い目」と似たような感覚がある。「形而上の罪」と言われるもの。ナチス・ドイツの敗戦後にカール・ヤスパースが著わした『罪責論』のなかに、罪の4分類の1として出てくるものだ。

ヤスパースは戦後まもない講演(『罪責論』)において、戦争責任を、刑事的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任の四種類に分けている。

第一に、「刑事上の罪」、これは戦争犯罪――国際法違反を意味する。これはニュールンベルク裁判で裁かれている。

第二に、「政治上の罪」、これは「国民」一般に関係する。《近代国家において誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんびとも、これを回避することは許されない。政治に携わる人間は後になって風向きが悪くなると、正当な根拠を挙げて自己弁護するのが常である。しかし、政治的行動においてはそういった弁護は通用しない》(橋本文夫訳)
つまり、ファシズムを支持した者だけでなく、それを否定した者にも政治的責任がある。《あるいはまた「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。

第三に、「道徳上の罪」、これはむしろ、法律的には無罪であるが、道徳的には責任があるというような場合である。たとえば、自分は人を助けられるのに、助けなかった、反対すべき時に反対しなかったというときがそうである。もちろん、そうすれば自分が殺されるのだから、罪があるとはいえない。しかし、道徳的には責任がある。なぜなら、なすべきこと(当為)を果たさなかったからである。

最後に、「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。

(出典はコチラ

強制収容所を震災に置き換えてみれば、あの災厄から生き残った「被災者=当事者」は、亡くなった人たちに「負い目」を感じ罪悪感を抱く。そして「被災者=当事者」でない我々は、自身が「当事者」でないことに「負い目」を感じる。

さらに言うならば、「道徳」いうのも「負い目」から出てくるように感じる。予め「なすべきこと(当為)」があってそれが果せなかったから「罪」というのではなくて、自分が感じている「負い目」を解消するように行動しないことが「恥」だという感覚。また、行動できない事情を「浮き世の義理」とする感覚。義理に飲み込まれるのを「弱虫」とする感覚。義理で自身の行動を正当化する行為を「卑怯」とする感覚。そういう感覚があるからこそ、義理の顔をしているだけの世間の掟を酷薄だと感じるのではないのか。

 参考:「当事者」の時代 その2

日本的には「人情」、キリスト教的には「形而上の罪」となる「負い目」の感覚は、おそらくは人類に共通のものだろう。
ヒューマン

「都市が誕生する前、人類は長いあいだ、部族を中心とする小規模な社会で暮らしてきました。現在の狩猟採集社会を見てみると、首長には気前がよいこと、寛大であることが期待されています。首長は、助けを必要とする人々を支援するのが当然だと考えられているのです」
 こうした社会では、「裕福になることは恥ずかしいことだ」、「富むことは品の良いことではない」とする考えが支配的だ。なぜなら、裕福になるということは、社会やほかの人々から富を奪うという側面もあるからだ。
「つまり、他人を貧困に陥れることで、豊かになっていると考えられていたのです。そこで、社会からお金を得たら、それを還元せねぽならないという考えをみんながもっていました。他人から奪った富で私腹を肥やすことは、貧欲として忌み嫌われたのです。貧欲は中毒のような病的状態だとみなされており、人々は『どうやって人を富に対する中毒から回復させるか。どうやって貪欲さから遠ざけるか』と思案していたのです」
 人類が繁栄というものを知りはじめた時代、人々の心には確かに貧欲への戒めが根付いていたというわけだ。それは、長い歴史のなかで人類が培ってきた掟であり、生きるための知恵でもあった。
 格差を嫌う私たちの心。そのルーツは、狩猟採集の時代にある。そうした狩猟採集の暮らしに別れを告げ、農耕をはじめ、さらに分業へと踏み出して、都市を築くようになっても、なおその心は、アマギという社会制度に色濃く反映されていたというわけである。

じつは、この格差を嫌う心は、いまも私たちの脳に刻み込まれているという。
 ラトガース大学のエリザベス・トリコミ博士は、カリフォルニア工科大学との共同研究で、脳が格差に対してどのように反応するか、実験を行った。
 実験に参加した人はまず、くじを引く。プアと書かれたくじ、つまり「貧乏くじ」を引いた人は参加料の30ドルを受け取る。これに対し、リッチ、つまり「金持ち」と書かれたくじを引いた人は参加料プラス50ドルの合計80ドルをもらえる。
 脳の反応を調べるのは、ここからだ。この状態からさらに、リッチ、もしくはプアが、1ドルから50ドルの追加報酬を受け取ったときのそれぞれの脳の反応を調べるのだ。fMRIで観察されたのは、脳の報酬に関わる領域である、腹側線条体と腹内側前頭皮質の反応だ。
「プアのくじを引いた人の脳は、追加で自分たちの手元にお金が入ったとぎに著しく活動、つまり喜ぶ反面、金持ちの人がさらにお金を手に入れると、活動が低下、つまり本当に嫌がりました。これは、理解できる反応です。不公平な状況下で、自分よりも恵まれている誰かがより恵まれる、自分はさらに下になるということは喜べないものでしょう」
 意外だったのは、リッチの脳の反応だった。
「リッチのくじを引いた人はさらにお金を得ると、脳の活動が沈静化していきました。すなわち、お金を得れば得るほど、シグナルは発されなくなったのです。そして、彼らの脳は、自分たちがお金を手に入れたときよりも、プアが少しでも多くのお金を得て、自分との格差が少なくなったときのほうが、大きく活動、つまり喜んだのです」
 この実験結果によって、私たちの脳には、格差に対して嫌悪感をもつという神経学的な特性が示された。


この「格差を嫌う心」とは「負い目」ではないのだろうか。


もう一度、冒頭へと戻ろう。“真っ暗闇じゃあござんせんか”というセリフだ。

日本を今、真っ暗闇へと陥れているもの。そう考えたときに浮かぶもののひとつが「東大話法」である。

原発危機と「東大話法」

そして「東大話法」といえば、立場主義である。

「負い目」から生まれる「人情」という感情から見てみれば、「立場」を背負った人というのは、一種の弱者という感覚がある。“あの人の「立場」だとたいへんだねぇ”などといった言い回しをすることがよくある。この場合の「立場」は「義理」にもよく似た響きになる。私たちは義理に縛られた人をどこか気の毒に思う心性があるからだ。

そう考えれば、『原発危機と「東大話法」』で明らかにされた「立場」とは、「義理」の新たな装いなのかもしれない。ただし、「義理」と「立場」とが大きく違うところは、「義理」は“一宿一飯の恩”と言ったように巡り合わせ、機縁というニュアンスが強いのに対して、「立場」には「選択の自由」の響きが強いのである。“その「立場」に立った、あるいは立たされたのは、あなた自身の選択の結果だろう”という言い方もなされる。以前はそうであっても「立場」に「人情」が働いたが、現代は、「立場」はむしろ酷薄な自己責任論へと結びついていく傾向が強いように感じる。

ここが奇妙なところである。というのは、「立場」を獲得していくにしても、その過程では各々は「当事者」であったはずだからだ。「立場」が「人情」を惹起させるものであったのは、「立場」のなかにも当事者性があると認識されていたからだろう。それなのに、いつの間にか「立場」から当事者性は喪われ、「立場」は「当事者」との対概念のようになってしまった。

考えられる原因は、やはり教育であろうか。だとすれば、「東大話法」というネーミングは実に的を得ていることになる。日本で施される近代教育にもっとも適応した者たちが集まる東京大学という場所こそが、もっとも当事者性を喪失してしまった場所だということだからだ。そして、東大を筆頭に当事者性を喪失した者たちに率いられた日本社会が“真っ暗闇じゃござんせんか”になってしまったという現実とも符合する。

日本は「立場主義」社会から離脱しなければならない。目指すところは「当事者主義」社会だろう。

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