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愚慫空論

身体性=脳の拡張性

当エントリーは、『〔信じる-疑う〕の水平性と垂直性』に掲載した図に、少しばかり加筆したものを掲げるところから始めたいと思います。 信じること2

付け加わったのは、2本の斜めのライン。すなわち、「身体性」とした右上がりの赤いラインと「頭脳性」とした左上がりの青い(緑?)のライン。そのなかでも、今回は「身体性」について取り上げたいと思います。
『〔信じる-疑う〕の水平性と垂直性』のコメント欄で示しましたが、x軸は感性軸、y軸は感情軸と言うことができると思います。)


さて、その「身体性」ですが、上の図でもおわかり頂けるように、ⅢからⅠの象限を貫くものです。そして、Ⅰは「愛」でありⅢは「ニヒリズム」なのですが、このラインがタイトルで示したように、「脳の拡張性」のラインでもある。右上に行くほどに「身体性」=「脳の拡張性」が増す、ということを図は示すものです。

では、「脳の拡張性」とはどういったことなのか? ここは説明の要するところですが、そのことを説明するためにまず、「脳と身体の基本的な関係」から見ていきたいと思います。 脳と身体は神経によって繋がっています。脳は身体に備わった感覚装置から情報を受け取り、その情報を元に身体を動かす。脳の中には、身体の各部位に対応する回路が形成され、例えば右手を動かす場合には、脳の中の右手に対応する回路が活発に作動し、その回路で処理された情報が神経を通じて右手に伝達されて、右手が動かされることになる。

こうした脳と身体の動作を簡単に示したのが上の図であり、「脳と身体の基本的な関係」です。(脳と身体は、神経回路で物理的に接続されています)。

では、「脳の拡張性」とはどういうことになるのか? 下の図が「脳の拡張性」を表す図になります。 この図をご覧になって、これは「脳の拡張性」ではなくて「身体の拡張性」を表しているのではないのか? と思われる方がおられるかもしれません。そう、「脳の拡張性」はイコール「身体の拡張性」でもあります。人間は、身体の拡張として道具を使うことが出来る。そして、道具を使いこなす人間の脳の中には、身体と同様の回路が出来上がる(←断わっておきますが、これは私の直観であり想像です。脳科学の見地から示しているわけではありません)。道具という「身体の拡張」は、人間の脳が身体と同様の回路を道具にも作り出すことができる能力、すなわち「脳の拡張性」があるからそこ実現できるもの。

生きるための経済学―“選択の自由”からの脱却 (NHKブックス)生きるための経済学
―“選択の自由”からの脱却

安冨 歩
この「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」は、マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」や「創発」の概念とも深い関係性がある思われます。私は以前、『創発的コミュニケーション』のエントリーにおいて、右の本からの記述を引用させてもらいましたが、再度、同じ部分を引用させてもらうことにします。
最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば。この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。
この記述は、「創発」についての記述であると同時に、「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」についての記述でもあるということが理解いただけると思います。さらに、『創発的コミュニケーション』のエントリーでは、次の文章も引用させていただきました。
次に、人と人とが向き合っている場合を考えよう。私があなたに話しかける。あなたがそれを受けとめて、言葉を返す。私がそれを受け止めて、あなたに言葉を投げかける。それをあなたが受けとめて……。このやりとりの連鎖もまた、一つの循環するフィードバック回路を形成している。
 この回路に双方が住み込むことで、お互いについて学び合い、認識を新たにしていくことができたとき、そこでは創発的コミュニケーションが成立しているといえる。このとき、お互いが、相手のメッセージを受け取るたびに、自身の認識を改める用意ができていなければならない。それを私は「学習」と呼んでいる。
 メッセージの受信、学習、メッセージの送信、という作動を、双方が維持しているとき、これを「対話」ということができる。それゆえ、「対話」と「創発」とは不可分な関係にある。
すなわち「脳の拡張性」は、身体の拡張である「道具=意志を持たないモノ」にだけ発揮されるのではなく、自らの意志をもつ他者にも発揮されます。「私」と他者である「あなた」との間に創発的コミュニケーションが行われると、「私」の脳内には、「脳の拡張性」によって「あなた」に対応する回路が成立することになります。他者である「あなた」は「私」の身体でないことは明かですから、「私」と「あなた」の創発的コミュニケーションの場合を「身体の拡張性」と呼ぶと不適切でしょうが、「あなた」は「私」にとっての「身体性」を帯びた他者となったということはできると思います。ゆえに「身体性」=「脳の拡張性」であるわけです。

(上記引用には“モノに住み込む”であるとか“回路に住み込む”といった表現がなされていますが、この「住み込む」という態度は、上の直交座標軸において、第一象限に“住み込む”、すなわち、〈信じる〉私を《信じる》態度に他なりません。「私」自身の感覚器官からもたらされる情報を《信じる》ことができなければ、「私」とモノ、あるいは「私」と「あなた」との間にフィードバック回路が形成されることもなく、フィードバック回路が形成がなければ「脳の拡張性」が発揮されることもありません。)



以下、「身体性」を帯びた他者で思い起こされることをいくつか列記してみます。

・まず、イエスの有名な言葉。すなわち

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

“あなた自身のように”というのは、「私」自身の身体を愛するように、ということであり、そのように“愛せよ”と命令形になっているのは、「身体性」を帯びるように他者と「対話」「学習」せよ、という具合に解釈することができます。また、そう解釈するならば、“隣人”とは、創発的コミュニケーションを行うことができる位置関係にある他者ということになります(つまり、必ずしも〔隣人=すべての他者〕ではない)。

・他者を「身体性」を帯びるところまで愛することになり、その他者を何らかの理由で喪失してしまう事態に陥ると、喪失した「私」は、「私」自身の実際の身体を失ったのと同様の、ときにはそれ以上の痛みを感じることになります。
(典型的な例は、子を失った親の痛みでしょう。こうした場合の「痛み」には「身体性」があるとの表現に、さほど違和感は感じられないと思われます。)

・喜びについても同様でしょう。「身体性」を帯びた他者の喜びは、「私」自身の喜びです。

・「私」にとって「身体性」を帯びるのは意志を持つ他者やモノだけとは限りません。人間は、自身が住む環境にも「身体性」を付与します。「身体性」が付与された環境が、すなわち「故郷=ふるさと」です。



・まとめ

〈信じる〉私を《信じる》態度
(「私」自身の感覚を〈信じ〉、さらにその感覚を〈信じる〉私を《信じる》)
  ↓
他者、モノ、あるいは環境とのフィードバック回路が形成され、創発的コミュニケーションがなされる。
  ↓
「脳の拡張性」が発揮され、他者、モノ、環境が「身体性」を帯びる。
  ↓
「身体性」を帯びることで、絶対的他者が“自分自身のように”認識される。
  ↓
自他合一。差異共振。

コメント

国家という身体、あるいは私は国家である

手足を動かすことを一切禁じた赤ん坊を、数学者に育てることができるだろうか? と考えることがあります。
これは恐らく無理。視界さえ確保できれば、空間や物体についてある程度まで捉えることができても、自分の手足を動かさないことには、運動についてほとんど認識できない。
まあ、勉強ばかりさせていたら科学者になれないよ、という話なのですが。

私達の精神が容易に他者をシャットアウトし、<絶対的な私>になることができるのに対し、その肉体は常に他者の脅威にさらされています。熱湯、電気、日光、濁流、野犬、落石、自動車……。これらを肉体的に撥ね退けられるスーパーマンを私は見たことがない。そもそも、往来を「まっすぐ」歩ける人すら少数でしょう。
私達の運動は、常に他者とのかかわり方において有機的に連動しているのです。
ギリシアの彫刻を見ていると、レスリングをしている二人の男が目につきます。あるいは、オリンピック中継で柔道の試合を見てもいい。明らかにそれは、一人で生活している肉体よりも複雑で高度なメカニズムをもっている。我々の肉体は訓練を重ねることで、常人以上に複雑かつ瞬発的なパフォーマンスを得ることができる。
茶道をふりかえって見ても同じことが言えます。あの洗練された動きは、他者を心地よくもてなす一点のために凝縮されたものです。無人島で生きるロビンソン・クルーソーに茶道は必要ない。

というようなことが、以前のコメント欄で書いた「肉体は他者」ということです。そして私は、このようにくどくど書かなかった。従って、それを読んで何を考えたかは人により異なる。
もともと、私達は家族との関わりの中で言葉を覚えます。「あつい」「つめたい」「おとうさん」「おかあさん」「ありがとう」「おはよう」……私達の耳はこれらの言葉を、家族が示した表情や文脈とセットで覚えていく。だからどうしたって、同じ言葉を使っていても、環境や教育によってニュアンスが違ってくる。私はコレクターだから、そのように違う人々の認識を「あるがまま」に認識して喜びたいと思う。
だからネットで何か書く時、私は何も主張しない。ただ自分の言葉に返ってきたリアクションを見て、その人の考え方を理解するだけ。

さて、このようなコレクターを続けていると何が見えるか。柔道のようにレスリングのように、複数の人間が一つの群として成り立つところのメカニズムが把握できるのです。サッカーの試合で22人の動きを同時に目で追えるように、十人百人からなる集団に、どのような思考と行動が積み重ねられているかが見えてくる。リヴァイアサンを構成する一つ一つの細胞が、肉眼で確認できるようになる。

脳と肉体→二項対立=二項同体

人生アウトさん

脳にとって「肉体は他者」であるからこそ差異共振することができる。

どこかで読んだ話ですが、イルカの脳は、脳という臓器そのもののポテンシャルとしては、ヒトの脳よりずっと高いものがあるらしい。しかし、ヒトの脳の方がイルカの脳よりも高いパフォーマンスを発揮する(しているように見える)のは、ヒトの方がイルカよりも高度な肉体を保有しているから。器用な手先、言語を操ることができる発声器官などによって、ポテンシャルが高いがゆえに「拡張性」が高い脳が、より高い「拡張性」を発揮できるようになっている。

「脳の拡張性」は肉体という高度な他者が在ってこそ。しかし、脳と肉体は互いに他者でありながらも同じ生体のパーツでしかない。すなわち脳と肉体のに二項対立は、同じ生体という土俵のなかで二項同体でもあるのですね。

そして、人間同士の社会のなかで、「脳と肉体→二項対立=二項同体」を生起させる土俵が共同体です。個人同士がせめぎ合いつつ互いに「身体性」を付与し合う共同体が人間のパフォーマンスを引き上げる。他者に「身体性」を付与することのない人間は、たとえ頭脳単体のパフォーマンスが高くとも、「脳と肉体」をひとまとめにした人間としてのパフォーマンスを高めることが出来ない。私は、「人間としてのパフォーマンス」性を霊性という言葉で呼びます。

*******

話は変わりますが、

>私はコレクターだから、・・・・

は腑に落ちました。これまで私は、人生アウトさんのコメントを興味深く拝見しつつも、あまり絡む気が起きなかったことを自分でも不思議に思っていたのですが、その理由が飲み込めました。これまでは、あなたのコメントの意図を図りかねていたのです。

意図がよく見えないコメントは「身体性」を想起できません。言い換えれば創発的コミュニケーション回路を成立することが出来ないと予測される。ゆえに二項対立=二項同体の差異共振が起こることがなく、私自身の言葉だけのマスターベーションを露呈することになってしまう。つまり人生アウトさんの言葉とは、合歓できなさそうに感じていた。

マスターベーションは、エントリー本文でイヤという程露呈させていますからね(笑)。それ以上は勘弁願いたいものです。

憎悪

今回のエントリで分かったことがあります。
私は愚樵様が言われる『身体性』を持たずに育ちました。おかげでひどく苦しみ、ひどい人生を送っていました。だから『人間なら誰でも身体性を持っている』と言う言説が嫌いです。そういう人たちに私は常に手ひどく痛めつけられてきたからです。

私の親は普通の人の親のようには私を愛しませんでした。祖父母たちが普通の親のように彼らを愛さなかったからです。祖父母たちもまた愛されることを知らずに生きてきたのだから彼らを責めることはできません。
しかし親の職場の関係で地域社会にも溶け込めず、学校でも疎外されていた私には友もなく故郷もないのです。『身体性』を得ることなく育った私は、言うなれば『人間失格』だったのです。

そんな私を救ってくれたのが今の連れですが、それでも『当たり前の人間』が何だか知らず、必死で「人間のふり」をして生きてきたつらい日々の記憶は消えません。

だから『身体性』を誰でも当たり前のように享受できるものだと言う人に、『人間なんだから当たり前だろう』と言う人に、私は激しい憎しみを感じてしまうのです。

あなたは恵まれているのだと、当たり前の親を持ち当たり前のふるさとを持っている人間は恵まれているのだと、あなたが『あたりまえ』だと思っているものすら持っていない人が居るのだと、あのつらい日々の血を吐くような呪詛を投げつけてやりたくなるのです。

他人と身体性を共感できない私が頼って生きてきたのは『理性』でした。「あたりまえの育てられかた」をしていない私は『他人』とは『違って』いました。どのように違うのか愚樵様には多分想像もできないと思います。

ともかく共感による友愛はまったく期待できません。理性によって形成された知識だけが私の味方、私の依拠する全てでした。
それは今でもそう変わってはいません。理性によって足りない感性を推測することでしか私は他人を理解できないのですから。

KYDさんへ

あなたと、あなたのパートナーを尊敬します。

これまでひどいことを言ってしまい、すまなかった。

わたしに詫びられても迷惑なだけかも知れないが、

わたしはこれまで、あなたのことをバカにしていた。

そのことを今、この場であやまりたい。

ごめんなさい。

KYDさんへ

大変に正直なコメントだと感じました。
このようなコメントを頂いたことを、大変光栄に思います。

正直なコメントをくださったKYDさんにどのように返答を書こうか迷いましたが、2年ほど前にあげたエントリーでもってその返事とさせていただくこととします。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-38.html

2年前の私は、私であっても今の私とは若干異なります。今読み返してみると書き直したい部分も多々ありますが、KYDさんへの返答に当たる部分については、今でもそのまま、変わりありません。よろしければ一度目を通してみてください。

不完全な人間

前回のエントリのコメントで『理性的ではない』と指摘されて、なぜ自分がこのテーマにこれほどまでに感情的になるのか考えていたところにこの新しいエントリを見て、自分のことを見直して書いたのがこのコメントです。

暖かいコメントをいただきありがとうございました。
もし私のように欠けた人間を見かけたら、声をかけてやってください。

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