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愚慫空論

贈与の限界を知る

内田樹氏の『教育=贈与論』というエントリーを拝見しました。エントリーに曰く、

・教育というのは本質的に『教える側の持ち出し』である

・「どういう価値があるのかよくわからないものを受け取った」というのが「贈与」の本義

・教育の目的はただひとつである。それは人を成熟に導くことである。

・教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。


そして、

・等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。


内田氏の端的な言説には、いつも感心させられます。

贈与は人の営みの中核部分を為す活動です。それは学校教育に限ったことではなくて、人の為すあらゆる活動から贈与は必要です。そのことを指して内田氏は、

・真に優れたビジネスマンは、経済活動においてさえ、その本質は「贈与」にあることを知っている。


といっています。

しかし、ここで疑問が湧いてきます。では、人の活動は贈与でありさえすればそれでよいのか? 人々は贈与の中に浸っていても、主体的に「成熟しなければならない」という強い決意を抱くものなのでしょうか?

どうもそうではなさそうです。このことは子ども成熟について考えてみればわかります。俗にいう過保護、すなわち親などからの贈与に溺れる子どものわがままに育つのは、誰しもが知っていることです。わがままとは未成熟に他なりません。

子どもがわがままから脱するのは、贈与の限界を知ったときです。自らに与えられる贈与が無限ではなく、有限なものであることを発見したときに、子は成熟への決意を固めることになる。と同時に、自らに贈与を与えてくれる共同体の意味性も発見します。
(共同体の意味性の発見⇒愛郷心の発露、でしょう。)

人が贈与の限界を発見する契機には、いろいろな形があります。等価交換もその契機となります。例えば、親が子に贈与する、親は子への贈与のために社会へ出て働く。これは世間一般で「家庭を守る」といわれる営みで、社会に出て働くとは、社会という場で他者と等価交換を行うということです。子は親が行っている等価交換の意味を知ることで、贈与の限界を知ることになる。してみれば等価交換の経験もまた、人に成熟への決意を抱かせる契機になり得る、ということです。

ここで大切なのは、「贈与の限界を知る」という順序です。まず先に贈与を受けるという経験がなければ、その限界を知ることなど出来るはずもありません。贈与だけでは人は成熟しませんが、贈与なくしては人は発育しません。

発育無くして成熟なし。成熟なき発育に価値はなし。

このことは何も人に限ったことではありません。植物でも動物でも、生命を生み育ててゆくいでゆく存在すべてに言えることでしょう。
今の世の中、特に日本の場合は、発育を促すべき贈与が成熟を妨げ、成熟を促すべき等価交換が発育を妨げいる。倒錯した世の中になっているように思えて仕方がありません。

貨幣の摩耗と腐敗

「静かなる革命2009」(旧名「エクソダス2005《脱米救国》国民運動」)というブログを運営しておられる馬場英治さんという方が、一般取引税という税を提唱されています。

一般取引税を導入すると消費税を廃止できるばかりか他の所得税や法人税などの税も廃止しでき、税を一般取引税一本に集約して、簡素かつ公平な税制が実現できる可能性があるといいます。大変に画期的な提案だと思います。

その詳細はリンク先を見ていただくとして、一般取引税の特徴を一言でいってしまうと、「通貨の移転」に一定の税率を乗じて課税しようというもの。ごくシンプルなものです。

(「通貨の移転」とは、私たちが買い物をして通貨を支払う取引、逆にモノやサービスを提供して通貨を受け取る取引、これらの商取引で行われる通貨の受け渡しに着目して、通貨が受け渡されて所有者が替わることです。)

一般取引税はそのシンプルさゆえに、自然界でごく普通に観察されるある現象を連想させます。すなわち「摩耗」です。モノ同士が接触して擦りあわされるときに、モノがすり減っていく現象が「摩耗」ですが、一般取引税は、私たちが日常行う商取引をモノ同士の接触と擦りあわせに例えれば、一般取引税として徴収される税金は、「モノのすり減り」にあたることになるでしょう。

連想を続けます。

「摩耗」と同様に、自然界でごく普通に観察される現象にはもうひとつ、「腐敗」があります。そして、一般取引税が貨幣における「摩耗」だとするならば、貨幣における「腐敗」にも考えが向くことになる。すなわち減価する貨幣です。

ただ、減価貨幣と一般取引税とでは、大きく違うところがあります。それは、減価貨幣は「腐敗」が貨幣の性質として付加されていますが、一般取引税はそうではなく、「摩耗」の性質がビルトインされていない貨幣から権力が税という形で摩耗分を徴収するという形をとります。「摩耗」や「腐敗」といった自然現象に類した性質を貨幣に付加するか、それとも「摩耗」や「腐敗」と同様の効果を権力が課すのか。この違いです。

このように考えてくれば、「腐敗」する貨幣に類した「摩耗」する貨幣も構想することができるでしょう。「腐敗」する貨幣も「摩耗」する貨幣も、どちらも減価する貨幣です。そしてさらに連想を進めていけば、一般取引税によって構築される経済は、「摩耗」する減価通貨による自然主義経済になるのかもしれません。

(「腐敗」する貨幣の効果を権力によって実現しようとすれば、一般資産税という形が考えられます。一般資産税による経済もまた、自然主義経済なのかもしれません。)

************************************

私が今抱えている問題意識はここにあります。貨幣に自然現象に類した性質を付加するか、それとも同様の効果を権力によって実現させるか。経済現象として表れる効果は表面上同じでも、その現象を引き起こす文化的精神的な背景は大きく違うのではないのか。私たちが現在直面している社会のさまざまな矛盾の根源は、表面的な現象の背後にある文化的精神的な背景の部分にあるのではないか。

貨幣を自然現象の形に近づけることは、いうなれば「二項同体」です。対して、同じ現象でも、それを権力によって実現するやり方は「二項対立」、すなわち近代合理精神に基づく方法論です。

自然主義経済という名に相応しいのは「二項同体」であるような気がします。

〔近代〕という〈システム〉への隷属

さて、今回は、資本主義下の〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任はどこにあるのか? というところからでした。民主主義(立憲主義)下の〔国家〕では「革命=崩壊」の責任は「市民≒国民」にある、すなわち〔国家〕という〈システム〉を構成する成員全員にある、ということですが、資本主義〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任も、同様なのでしょうか?

その答えは明らかでしょう。

ここで敢えて「資本vs労働」という“古い”対立構図を用いてみます。資本家も労働者もともに〔経済〕という〈システム〉の成員であることでは同じですが、その崩壊の責任ということになると、責を負うべきは資本家であるということになる。労働者は自らの労働力を資本家に売ることで貨幣を得、その貨幣を日々の暮らしに必要な物資やサービスと交換する経済を営みますが、その労働者の経済の内部に崩壊の要因などあるはずもない。労働者の経済の崩壊は常に外部からもたらされます。資本主義〔経済〕が崩壊を孕んだシステム、労働者の経済を含む資本主義〔経済〕全体は、これまで見てきたように崩壊(=再起動)を内包している。が、労働者の経済の中には崩壊の要因はないとなるならば、考えられるのは労働者の経済の外部、すなわち増殖する貨幣の恩恵に与る資本家があやつる経済にある、ということになります。

いま、「資本vs労働」という構図を“古い”と言いました。今時「階級」といった言葉を持ち出されると、感覚的にはどこか過ぎ去ったことのように感じがするからです。が、その“古い”はずの言葉が新たな現実味を帯びて感じられるようになってきたというのもまた、今時の傾向でもあります。これは奇妙なことですが、この奇妙さにはわけがあります。

私は前々回の終わりで、〔国家〕も〔経済〕も崩壊を内包していながら、その内包の在り方が大きく違うとしました。すなわち、〔国家〕の方は、前回示したように、国民による「革命」を前提とされることで権力と国民との間に(現状では不完全ながらも)相互性がうまれて崩壊の責任を国民が負うことになる。これは、崩壊の原因と責任との対称性が確保されている、ということです。が、一方で資本主義での〔経済〕では、この対称性は確保されず、非対称になっています。崩壊の原因は資本の側にあり、その責は資本が負うべきであるにも関わらず、そうなっていない。結果としての責任は労働者を含む〔経済〕で負うことになる。

“古い”“新しい”という観点でいえば、「革命」を経て〈システム〉崩壊の原因と責任との対称性が確保されている〔国家〕の方が“新しい”のであり、いまだ原因と責任との関係性が非対称な〔経済〕の方が“古い”というわけです。上で述べた「今時の奇妙な現象」の理由は、〔経済〕の勢いがグローバル化することで〔国家〕を凌ぐようになった結果なのです。「階級」とは原因と責任の非対称性の帰結ですが、それが今時になって表われるのは、“古い”〔経済〕が勢いを増してきたことに理由があるのです。

そして、“古い”〔経済〕と“新しい”〔国家〕とが複合して出来上がっているのが〔近代〕という政治経済をひっくるめた社会の〈システム〉です。それも単に複合しているだけではなくて、〔国家〕の対称性が〔経済〕の非対称性を隠蔽するような構造になってしまっている。この隠蔽構造が〔近代〕への隷属――自覚なき承認――を促しているのです。

ここでもう一度、前々回にてお借りした池田氏の文章を引いてみます。

前略・・・たいていの(経済)現象は事後的には説明できる。困るのは、いつバブルが崩壊するのかを事前に予測する理論がないことだが、経済のようにきわめて複雑な非線形システムのふるまいを予測するのは、自然科学でも無理だ。たとえば東海地震がどれぐらいの規模になるかは予測できても、いつ起こるかは予測できない。


私はこの文章が「〈システム〉への隷属」を端的に表現するものだとし、その理由を自然現象と経済現象とを同列に置くことだとしました。そして、私たち現代人は〈自然システム〉と〔国家〕〔経済〕の3つの〈システム〉に属しており、そのうち民主主義という形態の〔国家〕と資本主義という形態の〔経済〕が複合した〈人工システム〉の形態が〔近代〕である、としました。

これら3つの〈システム〉の特徴を簡単にまとめてみると、次のようになります。

〈自然システム〉:対立構造は「自然(あるいは創造神)vs人間」で、その関係は非対称
民主主義〔国家〕:対立構造は「権力vs国民」で、その関係は不完全ながらも対称
資本主義〔経済〕:対立構造は「資本vs労働」で、その関係は非対称

前々回でも述べたとおり、私たち人間と自然との関係の非対称性は解消しようがありません。東海地震のメカニズムが科学的に解明できて規模を予測できても、逃れることは出来ない。私たちに出来ることは地震に備えることであり、〔国家〕という〈人工システム〉が構築される理由のひとつは、そうした自然と人間との非対称性に備えることであると言えますし、またこのことは〔国家〕もまた〔自然〕という〈人工システム〉には隷属する以外にないのだということでもあります。

〔経済〕もまた〈自然システム〉と同様の非対称な〈システム〉です。が、こちらは、人間自身が構築した〈人工システム〉です。人間は〈自然システム〉に働きかけて富を産出しますが、その富の生産と分配を合理的に行うために構築した〈システム〉のはずです。それがいつのまにか、もともとは合理的な分配のための道具だったはずの貨幣に増殖の仕組みが組み込まれてしまったことで、非対称な〈システム〉となってしまった。しかもその非対称性を、「革命」を経由して権力と国民との対称性を獲得したはず〔国家〕が保障してしまっています。この〔国家〕保障が、実は国民が薄々は感じている〔経済〕の非対称性を隠蔽してしまっているのです。

(ここまでの話は社会主義を肯定するかのようですが、それは少し違います。私に理解では、社会主義とは〔資本vs労働〕の対立を暴力によって強制的に解消させようとするもので、とても支持できません。が、暴力のコントロール装置である〔国家〕の廃絶まで視野に入れる共産主義革命ということになると、目指しているところは同じかもしれない。そのあたりのところを、まだ私自身がよく理解できていません。ただ、目指すところは同じ共産主義であったとしても、その経路は一般的に「左翼」と言われる人たちが支持するそれとは異なります。)

最後に、話の口火となった池田氏の文章についてもう一言。氏のブログ記事のタイトルは『経済学は役に立つ』というものでしたが、このタイトルに私も同意できます。ただし、“役に立つ”対象が池田氏が考えているものとは異なるでしょうけれども。

私の観点からすれば、経済学は一種のプロパガンダです。確かに経済学は論理的であり、さまざまな現象の事後的説明も、ある程度の未来予測も可能でしょう。論理的だということは、論理を組み立てる原則があるということになるのですが、その原則は自然現象のそれとは違って、いついかなる場合にでも表れる普遍のものではありません。経済原則に基づく理論は、経済行為を為す人間がその原則に則って行動するから成り立つのであり、人間には既成の経済原則を踏み外す「自由」もあるのです。経済学とは、その「自由」を自主的に放棄するように促し、〔近代〕という〈人工システム〉形態に隷属するよう導くプロパガンダです。

「〈システム〉へ隷属」とは、「自覚なき承認」

前回からの続きです。資本主義も民主主義(立憲主義)も崩壊を内包しているというところからでした。

貨幣が増殖する仕組みが組み込まれた資本主義という〔経済〕形態は、いずれかの時点で崩壊(再起動)することになる。現下の金融危機=経済危機は、そうした崩壊の局面であるということでした。では、民主主義(立憲主義)下の〔国家〕も崩壊を内包しているというのはどういうことか。それは端的に言うと、「革命」を前提としているということです。

民主主義は国民主権、すなわち国民ひとり一人の主権があるという考え方ですから、民主主義国家において支配者とは国民自身のことです。

民主主義国家にも権力は存在します。権力なき統治などありえませんから、国民主権であっても国民は自らが持つ主権を何者かに委託して行使せねばならない。その制度が代議士制というやつで、国民は選挙によって自らの意思で権力者を選択します。権力は国家という統治機構が振るう暴力を背景に統治を行いますが、その行使に際しては憲法という定めに行うことになっています。権力者は憲法に従うと国民と約束し、その約束があるから国民は権力に従って秩序を保っていく。これが立憲主義という考え方です。

立憲主義では暴力を否定いるわけではありません。暴力の有効性を認めつつもその危険性も省みられています。暴力の危険性をコントロールするために、暴力を振るう〔国家〕の主人を暴力によって最も被害を受ける国民そのものだとするところから制度が構築されて、国民を支配する権力を国民が支配するという、権力と国民とが相互に支配し合い牽制し合うという構図になっています。

この相互性は現実には甚だ不完全なものです。どうしても権力側が力を持つ方向に傾きがちになるという不完全さがある。この不完全さを自覚して、完全なものにしよう――民主主義を成熟させよう――という志を持つ者たちが「市民」という存在です。現代の民主主義は「市民」が主役になって「革命」を起こしたところに起源があるわけで、「市民」が「国民」として権力と憲法という契約を交わす。もし権力が国民の意に反するような悪政を敷けば、国民は権力との契約を破棄して、また再び「革命」を起こすことができる。

つまり民主主義(立憲主義)とは、「市民≒国民」の側に「革命=崩壊(再起動)」を為す主導権があるというところが根っこのところにあるわけです。国民の側に崩壊の主導権があるということは、崩壊の責任も「国民」にあるということですから、「国民(≒市民)」は、憲法という契約を通じて確保される権力との相互性を完全なものにする責任も負うことになるのです。

ところで日本ではつい先頃、政権交代という「革命」がありましたが、これは正真正銘の「革命」ではないにせよ、擬似的には「革命」と呼べるものです。正真正銘の「革命」とは〔国家〕を完全に崩壊させることですが、本当にそんなことになってしまうと暴力をコントロールする箍が外れてしまって大変困ったことになるので、民主主義という〈システム〉は、選挙という制度を設けて擬似的に「革命」を演出することになります。選挙とは、暴力がコントロールを失って剥き出しになることを防ぐ、利口な制度だということができます。

しかし、選挙にも問題点はあります。それは、正真正銘の「革命」を起こす主導権が国民にあるということを忘れさせてしまう、という欠点です。剥き出しの暴力は恐ろしいものですから、誰しも暴力を抑える箍が外れることを望みはしません。しかし、そこを恐れるあまり、選挙という疑似「革命」を行う〈システム〉が至上のものだと思い込んでしまうと、そこから「〈システム〉への隷属」への道を歩み出すことになってしまいます。

ここで大切なのは、「〈システム〉への隷属」を免れるためには、つねに〈システム〉を「革命=崩壊」を起こす覚悟が必要、というのではないということです。「覚悟」というところから論理が先走ると、これは「暴力革命」を肯定する道に入ってしまいまい、それはそれで困ったことになる。常に必要なのは(抽象的な言い回しになってしまいますが―)、「覚悟」といった臨戦的な姿勢ではなくて、そこから一歩退いた「自覚」という姿勢です。つまり、「革命=崩壊」を本当に実行するかどうかは別にして、そのことを思考の枠の中には入れておけ、ということです。「革命=崩壊」は危ないからと言って思考の枠からすら追い出して「自覚」を失い、暴力を抑え込んでいる〈システム〉を盲目的に承認してしまうと、それは「〈システム〉への隷属」の道に入ってしまうということなのです。


ここまでの話を要約すると、民主主義(立憲主義)下の〔国家〕では「革命=崩壊」の責任は「市民≒国民」にあるということです。だとするならば、次は、資本主義下の〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任はどこにあるのか、という疑問が生じてくることになります。もう答えはわかったようなものですが、そこは次回とさせていただきます。

「〈システム〉へ隷属」とは、どういうことか?

長らく更新が途絶えてしまいましたが、前置き無しにいきます。

昨日の池田信夫ブログで、「〈システム〉への隷属」を端的に表現する記述を見つけました。

『経済学は役に立つ』(池田信夫ブログ)

前略・・・たいていの(経済)現象は事後的には説明できる。困るのは、いつバブルが崩壊するのかを事前に予測する理論がないことだが、経済のようにきわめて複雑な非線形システムのふるまいを予測するのは、自然科学でも無理だ。たとえば東海地震がどれぐらいの規模になるかは予測できても、いつ起こるかは予測できない。


この文章のどこが「〈システム〉への隷属」を表現しているのか? それは自然現象と経済現象を同列に置いたところにあります。

私たち人間は、その存在そのものが自然現象です。ですから、自然という〈システム〉から遁れることはできません。自然科学がどれほど〈自然システム〉の仕組みを解き明かそうとも、科学技術が発達して〈自然システム〉を都合良く利用できるようになったとしても、私たちが自身が自然現象であることを止めるわけにはいかない。どこまで行っても私たちは、〈自然システム〉の枠内に留まるしか選択肢はないわけです。

しかし、〈自然システム〉の枠内に留まるしかない状態を〈自然システム〉への隷属とは普通言いません。「隷属」という限りは、他に選択肢があることが前提です。他に選択肢があることに気が付かず、あるいは気が付いていながら敢えて自ら積極的にひとつの〈システム〉の維持に力をつくすこと――これが「〈システム〉への隷属」の意味です。



文明社会に生きる私たち現代人は、大きく3つの〈システム〉に属していると考えられます。ひとつは今述べた〈自然システム〉。あとの2つは人工的な〈システム〉で、〔国家〕と〔経済〕がそれに当たります。
(家族親族や地域共同体のような小さな規範集団も〈システム〉に含めればもっと多くの〈システム〉に属していることになりますが、そうしたローカルな集団は〈システム〉に含まないことにします。) 〈自然システム〉には、上では隷属とはいわないとはいいましたけれども、結果としては私たちは隷属するしかありません。では、〔国家〕と〔経済〕の2つの〈人工システム〉はどうか? これら2つの〈システム〉に対しても、私たちは隷属する以外に選択肢はないのか? そんなバカなことがあるはずがありません。〈人工システム〉は、どちらも人間が作り出したものです。もし〈自然システム〉に神という名の造物主がいたとするなら、〈人工システム〉の造物主は私たち人間自身に他なりません。神が自分の意図するままに〈自然システム〉を作り上げたとするなら、人間だって〈人工システム〉を作り替えることが出来るはずです。人間は神のように万能というわけではありませんから、思うがままに作り替えることは出来ないにせよ、それでも実際に試行錯誤しつつ〈システム〉幾度となく改変してきました。人類の歴史とは、〈システム〉変遷史だということもできるでしょう。

〈人工システム〉のうち、まず〔国家〕という〈システム〉です。現代の国家にはいろいろと役割がありますが、ここでは単純化して、〔国家〕とは暴力を用いて人民を統治するための仕組みであるとしておきます。この仕組みを機能させているのが(近代国家では)明文化された法律。つまり法治国家であるということです。

私たちは〔国家〕の在り方については、さまざまな形態があることを知っています。例えば日本と呼ばれる地域において、西暦で19世紀末から20世紀半ばにかけて存在していた〔国家〕形態。これは大日本帝国だとか明治政府だとか呼ばれる主権在君の〔国家〕形態ですが、この形態も〔国家〕としての1つの形態であったことには間違いありません。

この大日本敵国という〔国家〕は第二次大戦の敗北で崩壊するわけですが、その崩壊に瀕した局面で唱えられていたのが「国体護持」という言葉でした。「国体護持」を唱えた人たちは、とはつまり大日本帝国という〔国家〕形態が崩壊すれば日本と呼ばれる地域に暮らす日本人という集団は生き残ることが出来ないと考えてそう唱えたのですが、その「考え」こそが「〈システム〉への隷属」に他なりません。

確かに、どのような形態であれ暴力をコントロールする〈国家〉という〈システム〉がなければ、人々は平穏に暮らしていくことは出来ません。しかし、だからといって、現に今ある〈国家〉形態が唯一無二のものではありません。別の〔国家〕形態はあり得るし、現に、大日本帝国と戦後の日本は、同じ日本という地域に成立し同じ日本人が所属する〔国家〕ではあるけれども、これら2つは違った〔国家〕形態、つまり異なった〈システム〉です。

一昨年のサブプライム崩壊、昨年のリーマンショックに続く金融危機=経済危機の様相は、敗戦の気配が濃くなった大日本帝国という〈システム〉崩壊直前の局面とよく似ているような気がします。〈システム〉への隷属ゆえに、当時の日本は莫大な国富と多くの人命を崩壊しようとする〈システム〉の維持、すなわち戦争継続につぎ込んだわけですが、その様子は、崩壊しつつある経済〈システム〉を維持するために、各国が膨大な額の国費を投入する様に似ています。国費を投入するほどに〔国家〕を支える国民が貧窮していくという点でも同じです。

〔経済〕という〈システム〉を〔国家〕にならって単純化しておきますと、〔経済〕とは、人間が生存していくために必要な財やサービスを分配していくための仕組みのことです。この仕組みを機能させているのが貨幣です。つまり貨幣経済ということですが、それも単なる貨幣経済ではなくて、貨幣自身が増殖することが〈システム〉の仕組みの中に組み込まれてしまっている〔経済〕形態。この形態の〔経済〕を指し示す言葉が「資本主義」というものですが、それがいまや崩壊の危機に瀕しているのではないか、といことです。

もっとも、“資本主義が崩壊の危機に瀕している”などというと、池田氏をはじめとする「頭の良い」人たちからは笑われることでしょう。そもそも資本主義とは、当初から崩壊を(池田氏の表現だと「再起動」)を内包した〈システム〉であり、国家の大きな役割のひとつが、その崩壊の被害を最小限度に食い止めること(「再起動」を円滑に行うこと)であり、今回の金融危機=経済危機も、資本主義が当初から内包している崩壊の規模の大きなものに過ぎない――。

しかし私は、こうした考え方もまた〈システム〉への隷属思考だと考えています。なぜそういうことになるのか、ここは次回、資本主義と並ぶ現代社会の2大〈システム〉、民主主義(立憲主義)もまた崩壊を内包していること、その内包の在り方が資本主義のそれとは大きく異なることを示しながら、話をしてみたいと思います。

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