馬に頼るということ
2013-03-21
本当に久々の更新になってしまいました。忙しいのも忙しいんだけれども、それ以上に余裕がなくて。粟島に渡ってきてから2ヶ月半、“構造改革”に取り組まざるを得ないことを実感して取り組んでいた訳なんですけれど、その間は何かを出力しようという気持ちに全くならなかった。出力すると、どうしても構造改革前の者担ってしまうと感じていたので...。
その構造改革についてはまた別の機会に語ろうと思いますが、ざっくり言っておくと、「強さへの感性」から「弱さへの感性」へ、といったところ。
構造改革はまだ道半ばですけれど、3月に入ってから、ボチボチ何かを出力したいなという気分にはなってきていました。が、ブログといったようなものは継続性が高いといいますか、途切れるとなかなか再開するきっかけをつかむのが難しい。書くなら馬のことだよな~、と思いつつ、書くきっかけをいまいちつかめずにいたところへ、やってまいりました、きっかけが。
光るナス 『変わらないからこそ 変わっていく 前編』
ここでアキラさんは、「どうやら僕らは「思わず頼っちゃう存在」らしいな」と仰る。私たちの身体はそういう風に実は出来ているということを、ご自身の修練を通じて発見しました、ということらしい。
光ナス 『変わらないからこそ 変わっていく 中編』
この話が実に面白くて、そして、なぜ馬に頼るのか? というところへ話がつなげて行くことが出来るなと思った。それで、今、久々に「空論」を更新しているというわけです。
*****
アキラさんのブログ記事を読んでわかることは、野口整体という技法は(身体的に)完全自立を目指すものだということですね。そこが前提になっている。だもので、前編の冒頭で、野口整体は健康法ではありません、といういつもの「お断り」が出てくる。要するに、頼るな、ということです。自前で何とかしなさい、それが「全生」です、というのが野口整体。ごくごく簡単に言ってしまえば。
ところが「馬に頼る」というのは、この前提がまったく逆。だって、はじめから「頼る」と言っていて、そこを目指しているわけだから。
初めから「頼る」と言ってしまうと、自立することが当たり前と思っている近代人は妙な感じがするんだけれども、身体的自立を追究しておられるアキラさんが発見したように、人間ってもともと頼るように出来ているんだ、というのが本当であるならば、実は何かに頼る方が「生きる」ためには合理的だということになる。逆に、思わず頼ってしまう身体でありながら、完全自立の身体を目指そうなんてするのは不合理。ま、不合理を追究するからこそ修行であったりするわけですが。
では、なぜ馬か? ということになる。
私は現在、寄田勝彦という人が代表理事を務めるNPO法人インフォーメーションセンターというところの「一味」に加わっています。「一味」というのは...、説明省略。また機会があれば語りましょう。とにかくこの寄田さんという人が私のボスということになっている。私と同い年ですけど、ちょっと凄い人です。いつかギャフンとと言わせてやろうと思っているけど、ギャフンと言わされて続けている。実に楽しい体験をさせてもらってます。
その寄田さんがいうに、馬は修行の近道である。この話は、アキラさんの「発見」とも符合する。
ではなぜ馬か? 馬は常に「全生」を生きているから、と野口整体的には答えておくのがいいかもしれません。
*****
「全生」とは、一日一日を全力で生きる、ということだと言います。じゃあ、馬は常に全力なのかというと、それはおそらく違う。彼らだってサボれるところでは結構サボって生きている(たぶん)。これもおそらく近代人特有の癖だと思うのですが、“一日一日を全力で”というと、“全力”の方に重きを置いて解釈してしまうけれど、そうではなくて、“一日一日”の方が大切であるように私は思う。つまり「リセット」ですね。
で、馬という生き物は、身体構造的に“一日一日”。例えば、特定に人に懐いたりということはしない。馬は、他者のと関係性が常に更新されてしまう生き物。群れを作る生き物なのに、非常に特異な性質を持っているんだそうです。
人間にとって、実は一番難しいのはこの「リセット」でしょう。ヒトという生き物は、これも特異的にアタマがいいので、逆に関係性のリセットが非常に困難。昨日の私と今日の私と明日の私は、同一だと思い込んでしまっている。自我というやつです。そして、他者もまた同一性を継続していると無意識のうちに前提してしまい、その他者の非常に生き生きとした「像」を自分のアタマの中に作り上げる。この像のことを私は「霊」と呼んでいるわけですけれど、人間はこの「霊」がとても怖いんですね。常にリセットできればいいんだけれど、アタマが良すぎで出来ない。ヒトという生物の構造的矛盾です。
そういった矛盾を抱えた人間が、常にリセットしている馬に頼る。馬の方はヒトの構造的矛盾を構造的に受け付けないから、頼られたって大丈夫。頼られるのが人間同士だったら、野口晴哉先生のような完全自立でつねに「リセット」できる人はいいかもしれないけれど、ほとんどの人は頼られたことでダメージを負ってしまう。人間はある一面でとても情け深いですから、頼ってもらうことをとても喜んだりはするんだけれども、往々にして頼られた相手と一緒に落ち込んでいってしまう。特に現代社会のように、人間同士傷つけ合うことが構造的に仕組まれてしまっている社会では、もはや人間の手に負えない状態になってしまっていると言えるかもしれない。
でも、馬ならば。頼っても大丈夫。
ここらあたりが寄田さんと、当ブログではおなじみの安冨先生のご両人が「馬力(ばりょく)学会」なるものを設立した理由でもある。で、私は、その馬力学会が縁で粟島で暮らすことになった、という次第であるわけで。
もっとも、馬に頼るといってもそう簡単な話ではない。いろいろとハードルはある。特にやはり近代的自我が厄介。これは、人間が馬に頼るということを無意識的に阻むということもあるし、それ以上に厄介なのは馬を頼ることが出来ない存在に改変してしまう。その厄介さは、こちらの動画をご覧になって頂ければ理解していただけるのではないかと思います。
(11:30あたりからモンティ・ロバーツという人の話が出てきて、その非常に優秀な弟子たちが「メジャーリーグ」になっているという話が出てきます。話しては寄田さん。メジャーリーグはプログラミングだと指摘するのは安冨先生です。)
とっても面白いですよ。
その構造改革についてはまた別の機会に語ろうと思いますが、ざっくり言っておくと、「強さへの感性」から「弱さへの感性」へ、といったところ。
構造改革はまだ道半ばですけれど、3月に入ってから、ボチボチ何かを出力したいなという気分にはなってきていました。が、ブログといったようなものは継続性が高いといいますか、途切れるとなかなか再開するきっかけをつかむのが難しい。書くなら馬のことだよな~、と思いつつ、書くきっかけをいまいちつかめずにいたところへ、やってまいりました、きっかけが。
光るナス 『変わらないからこそ 変わっていく 前編』
ここでアキラさんは、「どうやら僕らは「思わず頼っちゃう存在」らしいな」と仰る。私たちの身体はそういう風に実は出来ているということを、ご自身の修練を通じて発見しました、ということらしい。
光ナス 『変わらないからこそ 変わっていく 中編』
この話が実に面白くて、そして、なぜ馬に頼るのか? というところへ話がつなげて行くことが出来るなと思った。それで、今、久々に「空論」を更新しているというわけです。
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アキラさんのブログ記事を読んでわかることは、野口整体という技法は(身体的に)完全自立を目指すものだということですね。そこが前提になっている。だもので、前編の冒頭で、野口整体は健康法ではありません、といういつもの「お断り」が出てくる。要するに、頼るな、ということです。自前で何とかしなさい、それが「全生」です、というのが野口整体。ごくごく簡単に言ってしまえば。
ところが「馬に頼る」というのは、この前提がまったく逆。だって、はじめから「頼る」と言っていて、そこを目指しているわけだから。
初めから「頼る」と言ってしまうと、自立することが当たり前と思っている近代人は妙な感じがするんだけれども、身体的自立を追究しておられるアキラさんが発見したように、人間ってもともと頼るように出来ているんだ、というのが本当であるならば、実は何かに頼る方が「生きる」ためには合理的だということになる。逆に、思わず頼ってしまう身体でありながら、完全自立の身体を目指そうなんてするのは不合理。ま、不合理を追究するからこそ修行であったりするわけですが。
では、なぜ馬か? ということになる。
私は現在、寄田勝彦という人が代表理事を務めるNPO法人インフォーメーションセンターというところの「一味」に加わっています。「一味」というのは...、説明省略。また機会があれば語りましょう。とにかくこの寄田さんという人が私のボスということになっている。私と同い年ですけど、ちょっと凄い人です。いつかギャフンとと言わせてやろうと思っているけど、ギャフンと言わされて続けている。実に楽しい体験をさせてもらってます。
その寄田さんがいうに、馬は修行の近道である。この話は、アキラさんの「発見」とも符合する。
ではなぜ馬か? 馬は常に「全生」を生きているから、と野口整体的には答えておくのがいいかもしれません。
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「全生」とは、一日一日を全力で生きる、ということだと言います。じゃあ、馬は常に全力なのかというと、それはおそらく違う。彼らだってサボれるところでは結構サボって生きている(たぶん)。これもおそらく近代人特有の癖だと思うのですが、“一日一日を全力で”というと、“全力”の方に重きを置いて解釈してしまうけれど、そうではなくて、“一日一日”の方が大切であるように私は思う。つまり「リセット」ですね。
で、馬という生き物は、身体構造的に“一日一日”。例えば、特定に人に懐いたりということはしない。馬は、他者のと関係性が常に更新されてしまう生き物。群れを作る生き物なのに、非常に特異な性質を持っているんだそうです。
人間にとって、実は一番難しいのはこの「リセット」でしょう。ヒトという生き物は、これも特異的にアタマがいいので、逆に関係性のリセットが非常に困難。昨日の私と今日の私と明日の私は、同一だと思い込んでしまっている。自我というやつです。そして、他者もまた同一性を継続していると無意識のうちに前提してしまい、その他者の非常に生き生きとした「像」を自分のアタマの中に作り上げる。この像のことを私は「霊」と呼んでいるわけですけれど、人間はこの「霊」がとても怖いんですね。常にリセットできればいいんだけれど、アタマが良すぎで出来ない。ヒトという生物の構造的矛盾です。
そういった矛盾を抱えた人間が、常にリセットしている馬に頼る。馬の方はヒトの構造的矛盾を構造的に受け付けないから、頼られたって大丈夫。頼られるのが人間同士だったら、野口晴哉先生のような完全自立でつねに「リセット」できる人はいいかもしれないけれど、ほとんどの人は頼られたことでダメージを負ってしまう。人間はある一面でとても情け深いですから、頼ってもらうことをとても喜んだりはするんだけれども、往々にして頼られた相手と一緒に落ち込んでいってしまう。特に現代社会のように、人間同士傷つけ合うことが構造的に仕組まれてしまっている社会では、もはや人間の手に負えない状態になってしまっていると言えるかもしれない。
でも、馬ならば。頼っても大丈夫。
ここらあたりが寄田さんと、当ブログではおなじみの安冨先生のご両人が「馬力(ばりょく)学会」なるものを設立した理由でもある。で、私は、その馬力学会が縁で粟島で暮らすことになった、という次第であるわけで。
もっとも、馬に頼るといってもそう簡単な話ではない。いろいろとハードルはある。特にやはり近代的自我が厄介。これは、人間が馬に頼るということを無意識的に阻むということもあるし、それ以上に厄介なのは馬を頼ることが出来ない存在に改変してしまう。その厄介さは、こちらの動画をご覧になって頂ければ理解していただけるのではないかと思います。
(11:30あたりからモンティ・ロバーツという人の話が出てきて、その非常に優秀な弟子たちが「メジャーリーグ」になっているという話が出てきます。話しては寄田さん。メジャーリーグはプログラミングだと指摘するのは安冨先生です。)
とっても面白いですよ。