「卑怯者の発想」
興味深い記事を見つけたので、所感を。
江川発言の元になった琉球新報の記事。
<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを
安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授)
江川さんのFaceBook記事 ⇒ リンク
江川さんの発言は、ある前提のもとに立っています。
これを考えるには、まず、
沖縄vs日本国
という構図を設定する必要があります。
沖縄のなかにもいろいろな考え方の人がいますから
この構図は安直なものですけれど、わかりやすい理解のために。
この構図の元、江川さんは
日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない
という現状認識をしていると推測します。
だから
>安冨氏の発言に対して「暴力の奨励じゃないのかな」と指摘
するようなことになってしまいます。
が、この現状認識は正しいの? という話です。
日本国の沖縄における活動が合法かどうか。
裁判で争えば、合法という判断が出るかもしれません。
だけど、合法=非暴力 ではない。
国家が暴力装置だということを鑑みると、
合法であるということは、暴力をふるってよい条件のことでしかない。
だから、合法=暴力 ということがありえます。
安冨さんは、このように指摘しています。
>猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。
>今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。
この安冨発言の基底にあるのは、
差別構造は差別意識から生まれる
ということです。
そして、もうひとつ重要なことは、
差別意識は、差別を為している当人からは見えない
ということ。
精確には「見えない」ではなくて、「観ようとしない」ですけれど。
江川さんには、安冨さんのこの文章は見事に見えないようです。
差別意識が見えないと、差別構造が見えない。
差別構造が見えないと、現に暴力行為が行われていることも見えない。
繰り返しますが
合法かどうか
ではありません。そういう見方ではない。
日本国の暴力行為が見えないと
日本国も沖縄も、(いまのところ)暴力を振るっていない
という現状認識になり、安冨発言が
暴力の奨励
に見えてしまう。
ですけど、「沖縄」の人はもちろんですが、「日本国」以外の人にも
暴力行為は見えている。
差別構造も見えている。
さらには差別意識も可視化させた。
この可視化がどんどん進めば
必死で「観ようとしない」人たちも
周囲から攻撃されて観ざるを得なくなるはず。
これが安冨戦術の骨子でしょう。
現に暴力が振るわれていることが見えれば
可視化戦略は卑怯なものでも何でもないということは
何の疑問もなく理解できます。
米国は人権を重視する国のはずだから、沖縄人を土人呼ばわりする日本の警察に米軍が守られている状況をどう思うか、聞いてみたらいい。
「はず」は、実は、怪しいんですけどね。
江川さんにその意識はないでしょうが
実は江川さんには「沖縄」に対する差別意識が
無意識下にあることが露呈してしまいました。
何が観えて、何が見えないのか。
その事実で、その人の意識がわかるということ。
江川「卑怯」発言。
成り行きが興味深いところです。
『ピダハン』
追記前提のフライング・エントリーです。
今、思っていることを、今、書き留める。
完成形ではなく、未完成のままで表出してしまう。
そうした“形式”が、なぜか楽しいと思うようになってきています。
というわけで、読みかけの本。
予想していた以上に、楽しい読書を味わっています。
当初、予想し期待していたのは「懐かしさ」でした。
『逝きし世の面影』を読んだ時のような。
読書をしていて懐かしいと感じるとき。
それは、本の中にある現象の記述が
私たちが普段体験している文化的現象の震源だと感じられたとき。
普段、何気なく為している言動のルーツを見出したと思ったとき。
その文化的現象が失われつつあるものだとしたら
懐かしさはさらに強調されることになります。
『逝き世の面影』は
僕たち日本人が失いつつある日本人としての文化的の震源を
再発見させてくれる読書でした。
あるいは、『浜辺の歌』。
浜辺を彷徨った経験などないにも関わらず
歌を聴いていると、いつの間にやら同調して
“昔を偲ぶ”という気分に誘導されてしまう歌。
「懐かしさ」の発見は、根源への思索を誘うものです。
『ピダハン』もまた根源への思索を誘うものですが
これは「懐かしさ」を超越しまっています。
懐かしいというには、逞しすぎる。
「生」と「死」の距離が
僕たちの文化的体験から想像不可能なくらいに近い。
いえ、想像不可能ではないかもしれません。
ただし、その近さは異常事態です。
敵と殺し合う戦場でならあり得るかもしれないと思うくらいの近さ。
その近さが、ピダハンにおいては、健全な日常生活になっています。
ピダハンのある女性が赤ちゃんを産んだ。名をポコーという。
母子とも順調に生育したけれど、母親が病気になって死んでしまう。
同時に赤ん坊も弱ってしまう。
ピダハンの集落で暮らしていた著者は、その赤ん坊を救おうとします。
私たちは、誰がポコーの娘の面倒をみるのかみんなに尋ねた。
「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」みんなは言った。
「ケレンとわたしが世話をしよう」私は言ってみた。
「いいだろう」ピダハンたちはうなずいた。「だが赤ん坊は死ぬよ」
ピダハンたちには、死が見えるのだ。いまはそれがわかる。だがわたしは赤ん坊を助けると誓ったのだ。
(前略)ジョギングから戻ってみると、我が家の片隅に数人のピダハンたちが集まっていて、強烈なアルコール臭が漂っていた。集まっていたピダハンたちは、何やら申し合わせたような顔でこちらを見据えてくる。怒っているように見える者、恥じ入っているように見える者。自分たちが取り囲んでいる地面のあたりにただ目を落としている者もいた。わたしたが近づいていくと彼らは場所を開けてくれた。ポコーの赤ん坊が地面に横たわり、死んでいた。カシャーサ(酒)を無理やり飲ませて死なせたのだ。
「赤ん坊はどうしたんだ?」わたしは、目に涙がにじんできた。
「死んだ。これは苦しんでいた。死にたがっていた」
しかしこの出来事について考えれば考えるほど、ピダハンの立場からすれば最善と思われるやり方で始末をつけたに過ぎなかったのだと思えるようになってきた。彼らは意味なく冷酷にふるまったわけではない。生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見抜けてしまうのだ。ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。わたしが素晴らしい思いつきだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。
「死相が見える」ということがありえることだという感覚がなければ
上記の出来事は野蛮人の蛮行にしか見えないでしょう。
僕には「ありえること」という感覚はあるという自負があるので
野蛮に見えるピダハンたちの行為の合理性は理解できなくはない。
だけど、それでも、驚かざるを得ません。
ここまで「生」と「死」は近くはない。
アタマでは「生」と「死」は表裏一体だと理解はしていても
〈からだ〉はそのようにはなっていません。
現在、読書はピダハンの言語について
著者が体験を綴っているところにさしかかっています。
読書のさなかに僕のアタマに浮かんできたのは
「真如」
という言葉です。
「真如」とは、「言葉以前の言葉」を表す言葉です。
僕たちにとって言葉とは〈世界〉を“分割するもの”です。
言葉に〈世界〉は分割され、分割されたことによって「輪郭」が与えられる。
言葉が“分割するもの”であるという理解が生まれれば
論理的帰結として“分割以前”という発想が生まれてきます。
「真如」とは、現実を越えた“発想”です。
仏教とは、現実を越えた発想から現実世界を観る方法論だと思っています。
だから、発想は現実的ではない。
むしろ現実的であってはならない。
現実は小説より奇なり。
ピダハン語は、言葉でありながら、どうやら〈分割するもの〉ではなさそうな雰囲気です。
だとすれば、「真如」だということになる。
「真如」でありながら、
コミュニケーションを可能なさしめるツールとして機能しているように思えます。
が、これもまた、現段階での僕の発想です。
読書を進めて確認してみたいと思います。
『ロルナの祈り』
ずるい映画だと思いました。
この映画は、僕がチョイスして観たわけではなかったんです。
とある会で、観ることになった。
なんの予備知識もなしに観ました。
なので、エンドロールで
僕には耳馴染みの音楽が流れてきたときには
かなり面食らってしまいました。
また、ここでもベートーヴェン。
しかも、最後のピアノ・ソナタ作品111。
そういう閉じ方をするか――。
ロルナという名前。
ヨーロッパの人ならば、その名前だけで出身地は察しがつくのかもしれません。
移民も身近な存在なのでしょう。
合法的に国籍を得る為の偽装結婚。
もちろん違法なビジネスです。
ロルナは犯罪者です。
ロルナにはその自覚がありません。
もちろん、ロルナは自身の状況を知らないわけではない。
知っていても、わかっていない。
アタマではわかっていても、〈からだ〉にまで届いていない。
なので自身のおかれた状況からは許されない振る舞いをしています。
偽装のはずが偽装ではなくなってしまいます。
この映画のなかで重要な役割を果たしているキーアイテムがあります。
紙幣です。
幾度も幾度も“お札”が画面に出てきます。
お金を知ってしまっている人間はお金を無視することができません。
お金の効用を実感として識っているので
その【価値】が〈からだ〉まで届いてしまっています。
なので、視聴者は
登場人物がロルナも含めて
お金に支配されていることを理解することができます。
加えていうならば、お金の使い方で「愛」の存在がわかる。
そのように作られた映画です。
映画の中の現実では、お金の支配から逃れることができません。
「現実」から逃げられないから
「現実」ではないところに逃げる。
その「逃避」を祈りだといい 奇跡だといい
ベートーヴェンの音楽を被せて
美しいものであるかのように印象づけようとしていると感じる。
ショパンならまだしも、ベートーヴェンでは嘘くさい。
僕は、嘘くさいと感じます。
ショパンであったなら
製作者には「逃避」の自覚はあったろうと思ったでしょう。
「逃避」してしまうことから逃れられない人間。
弱い人間。
「逃避」から逃避することなく
人間の弱さを真正面から見つめるなら
それは大いにありだと思います。
だけど製作者自身が「逃避」してしまうことは、どうか。
映画の「現実」のなかでロルナは追い詰められてしまいます。
ロルナは身の程を弁えていませんでした。
ロルナの“身分”では、〈からだ〉を素直に発動させることは許されない。
なのに、ロルナはそれをしてしまったがために、追い詰められることになります。
理不尽な「現実」です。
追い詰められて、ロルナは想像の世界に逃げる。
想像と現実の区別が付かなくなっていく。
区別が付かなくなってしまうことが
当映画がいうところの「祈り」であり
予告編がいうところの「奇跡」です。
繰り返します。
「逃避」することが避けられない弱い人間の「現実」を描くのはありです。
が、「逃避」しているフィクションの人間のなかに
製作者自身が「逃避」してしまうのは、どうかと思う。
僕はずるいと思うし、
もっと強い言葉で言えば、怯懦です。
現実に怯えていると感じてしまいます。
『仮想通貨革命』
なんとも迂闊なことです。
こんな本が、もう、2年も前に出ていたんですね。
まだ未読なのにエントリーにあげるのは、いつも以上にフライングですけれど。
技術革新で貨幣そのものにイノベーションが起きて、社会の在り方そのものが大きく変化する――
歴史の大きな流れからすれば
ごく自然なことであるはずなのに
なぜか、そうした「大問題」を正面から取り上げる著作に出会わない。
僕が迂闊なだけだったんですけど。
著者の野口悠紀雄さんは、超絶スペックな頭脳で有名な人。
そうした人が予想する社会の未来図は
僕なんかが夢想する図とはかなり食い違っているだろうと思います。
思うけれど、でも、読んでみたいです。
『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』
楽しい映画です。
まあ、娯楽作品ですし。
いろいろ違うよなぁ~とは思うんだけど
目くじらを立てるのも野暮なこと。
だけど、みっつだけ言わせてもらいたい。
ひとつめ。
前半の見せ場で105年の木を伐るという場面があります。
が、あの腰高はありえない。
伐る位置が高過ぎます。
ほぼ腰の高さで伐っていますよね。
そのあとのシーンに原木市のシーンがありました。
伐りだした105年の木は市で競りにかけられて高値がつく。
35万とか、36万とか。
あれ、一本の値段ではありませんから。
立米単価です。
原木の体積は末口(細い方)の直径の二乗×長さで計算します。
仮に直径80センチで、長さが50センチとすると、
0.8×0.8×0.5=0.34立米です。
で、立米単価を30万円とすると、
0.34×30=10万2千円ナリ
腰高に高く伐るということは、
それだけのお金を山に捨てるということです。
ありえません。
市から帰る車のなかで親方が良いことを言います。
「植えた木が育って価値が分かるまで見届ける事は出来ない馬鹿みたいな仕事だ」
人間の都合を越えた、息の長い仕事だということですよね。
なのに、せっかくの木を腰高に伐って
山に捨てるだなんて、ありえません。
ふたつめ。
気になったのは、伊藤英明演じる役がイヤーマフをしていたこと。
ありえないとは言わないけど、僕の感覚ではない。
映画では追い口を入れている最中に風が吹いて
伐っている木が揺れて
そばにいる人が肩を叩くシーンがありました。
イヤーマフなどしていると、ああいうことになる。
風の気配に気がつかないんです。
これはとても危険なことです。
突風など吹こうものなら、自分の想定外の方向へ倒れることがある。
そのような時は無理な力がかかりますから、どんなことが起るかわかりません。
突然、木の幹が真っ二つに裂け上がったりする。
そういうことは一瞬で置きますから、気がついたときには遅いことがある。
だけど、気配は察知できるし、身体が察知していれば
すでに身体はアタマが意識するよりも先に逃げる準備をしている。
だから間に合うんです。
なのに、大切な聴覚を封じ込めるなんてありえない。
あれは「社会の都合」なんです。
長年のチェーンソー使用で難聴になると、労災認定がおります。
林業業界の労災保険は大赤字ですから。
だから、難聴防止のための策が奨励される。
『WOOD JOB!』も、そうした部分では「社会の都合」に沿ってしまっています。
聴覚を塞ぐと、生命の危険があるのに。
「社会の都合」によって身体知が抑圧される良い例です。
みっつめ。
大山祇の神の大祭があるということで開かる寄り合い。
研修生の主人公の、祭りへの参加資格が問われるシーン。
これもありえません。
このような設定の下のあるのは、
村人=杣人(そまびと)
という図式です。
だから、一年しかいない人間(非村人)は
杣人ではないということになるし
そのように提示されても違和感を憶えません。
だけど、村人=杣人の図式が成立したのは戦後の話です。
戦前は、必ずしも杣人は村人ではなかった。
長年の伝統を踏まえるはずの祭りが
そういうカンジンカナメのところを外すはずがないんです。
山の神の祭りは、杣人の祭りです。
だから、村の長といえど、参加資格を云々できる立場ではない。
本来の杣人の集団は、この『WOOD JOB!』で描き出されたものとは違います。
少なくとも、僕が感じていたものとは違う。
むしろ『WOOD JOB!』より『攻殻機動隊』のほうが近い。
STAND ALONE COMPLEXE です。
杣人は技能集団なんです。
それも、子孫を残すという期待をかけられていない人間たちの集団。
村人とは、子孫を残す義務を負った人たちですから、そこが決定的に違う。
だから、大祭のクライマックスシーンで、
女性器に男性器が突入するするというのも、ない。
「五穀豊穣」は、農地をベースにし、
農地の守り手であると同時に子孫を残す義務を負う村人のテーマであって
杣人のテーマではないんです。
もっとも、山の神をお祭りするときには男性器を掲げます。
僕が昔、撮影したものです。
山の神の日ではなく、新しい現場に入る日にお祭りしたもの。
「山の神」には女性のイメージがあります。
大山祇の尊(おおやまずみのみこと)は男性神ですけど、
「山の神」というと
大山祇の尊の娘であるところの岩長姫(いわながひめ)とされます。
大山祇の尊には娘が二人いて
もうひとりは木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
富士山です。
神話では、天皇家の子孫である瓊瓊杵尊(ににぎにみこと)に
大山祇の尊は娘を二人差し出したことになっています。
ところが岩長姫のほうはリジェクトされてしまった。
富士山は見目麗しいですが、それ以外の山はそうでもない。
リジェクトされた岩長姫は無聊を託っているに違いない――
だから、男性器を祀る。
そういう意味合いですから、五穀豊穣、子孫繁栄の意味合いはあまりありません。
このことは、当時の経済状況も反映しています。
林業は、現在では地場産業のイメージがあります。
木は動かないので地場に間違いはないが、人間は動く。
林業は、人的には地場産業ではなかった。
現代では、以下のようなイメージ。
ある場所に大手企業が新しく工場を新設。
雇用が生まれ、地元民も、非地元民も働くようになる。
このようにして成立した産業を、ふつうは地場産業とはいいません。
かつての林業もそれと同じです。
大きな林業地には大きな雇用があって、他所から大勢の杣人がやってきた。
その杣人たちは、たいてい次男、三男、です。
長男は、地元で、農地を守り、血筋を守る義務があるから
杣人のように死亡率の高い職業には付かなかったのが普通です。
現代的にいうなら、杣人とは、ノマドワーカーだった。
山の神の祭りはノマドワーカーの祭りですから
半人前の主人公にだって参加資格は初めからある。
ノマドワーカーに必要なのは、その職に適合したスキルです。
樵ならば、樵としての身体知でしょう。
ムラを維持するためのコミュニケーション能力の優先度は低い。
が、なかにはノマドであってもコミュニケーション能力が高い個体もいます。
そういう人材は、地元で目をかけてもらうようになり、
なんらかの理由で後を継ぐ男子がいない家系に採用されたりした。
そうなると、杣人は村人に“昇格”するわけです。
これは、地元部落にとっては、“外部の血”と優秀な人材を確保の方法論。
そのようにして、地元にだけで固まると停滞しがちになってしまう共同体を
活性化したのでしょう。
が、ムラ社会が全域化してしまった現代では
そうした「回路」もあまり機能しなくなったようです。
林業地をよく取材したはずの『WOOD JOB!』は、
林業をテーマしにしながら、
現代的な意味でのムラ社会を描いたものになっています。
もはや林業そのものからも、本来の精神が失われたということなのでしょう。
大衆受けを狙った娯楽作品だからこそ、大衆に響くように作品は作られます。
『WOOD JOB!』もまた、そうした作品のひとつ。
ムラ社会に供された娯楽作品です。
『PSYCHO-PASS サイコパス』
またしてもフライングなエントリー。
第4話まで視聴。
原作は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄がメインライターとのこと。
なるほど、ね。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている――
「怪物と戦う者は、その過程で
自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。」
に続く、広く知られたニーチェの言葉。
作中に出てきますが、このアニメ作品を言い表すのにピッタリだと思いました。
ストーリー設定の説明をWikipediaから拝借。
舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。
その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた 。
そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。
強大な警察組織が厚生省管轄というところが嫌らしい。
「健康」という社会観念が数値化によって強化されてしまうと
そういうことにもなりかねません。
当作品の設定で特筆すべきは
「犯罪係数」の元になる「PSYCHO-PASS」の【濁り】は
伝染病のように他人に感染するものとされていること。
これはフィクショナルな「設定」ではありません。
フィクション作品の中の、非常にリアルな設定です。
【濁り】は、僕の言葉でいえば【毒】や【怨】に相当します。
公安局の刑事にはヒエラルキーが存在します。
【濁り】の少ない監視官。
【濁り】の多い執行官。
執行官は「犯罪係数」が規定値を超えた「潜在犯」でもある。
潜在犯だからこそ、他の潜在犯のことがよくわかる。
ゆえに、適性に「管理」されるなら、犯罪捜査は効率よく進む。
その管理を担うのが監視官。
監視官の執行官への接し方には2つの選択があります。
1は、管理という職務に忠実であること。
ゆえに執行官にも与えられた職務に忠実であることを求める。
犯罪係数は伝染する。
が、互いに職務に忠実でいれば、伝染は避けることができる。
2は、人間であることに忠実であること。
同じく近未来を描いたアニメ作品『攻殻機動隊』の台詞で言うなら
「ゴーストの囁きに委ねる」
もっとも、2のキャラクターとして登場する常守朱(つねもり あかね)は
新米監視官で未熟な存在。
なので、「共振」に陥りやすい。
さて、どのようにストーリーが展開するのか。
楽しみです。
【理不尽】
“理不尽”という言葉は、一般的には悪い意味で使われます。
道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。
「―な要求」「―な扱い」goo辞書より
“理不尽”とは、「理」が不尽であること
では、“不尽”とは?
“尽くさない”なら、故意か、あるいは過失です
“理不尽”での意味は、こちらでしょう
だから、悪い意味になります。
「尽」には、最初から行為者の意思が組み込まれているようです。
でも、どうなんでしょう?
行為者が万全に意を尽くすことを意図していたとして
「理」とは、万全を尽くすことができるものなのでしょうか。
できません。「理」は万全を尽くすこと能わず。
〈世界〉は、残念ながら、そのように出来ています。
先日、ネットでニュースをながめていますと
東京の六本木で不幸な事故があって
男性がひとり、死亡してしまったというのがありました。
マンションを改修工事がなされていて、足場が組まれていた。
その足場の鉄パイプが落下。
ニュース映像でみると、落下したのは、足場の強度を確保するための
“筋交い”のようですが。
筋交いならば、ロックが外るということはありそうなことだと思いますが
本当のところはどうなのでしょうか。
筋交いは直径2センチほどのパイプ2本の組みあわせ。
従ってジョイントは4カ所あります。
ロックと言っても、ロックピンを差し込むだけ。
衝撃が重なると外れるという可能性はなきにしもあらず。
だとすれば、“理不尽”というより「意不尽」だったということでしょう。
非常に稀な確率ではあるにせよ
ピンが4つとも外れてしまうことがないとは言えない。
「万全な注意」をしていれば、可能性を予期できなくはない。
しかしながら、
人間というものが、意を万全に尽くすこと不能なのも事実です。
が。
不幸な事故しかいいようがない――
で済ませてしまうならば、無責任です。
工事を請け負った者には
工事を事故なく完成させる社会的責任があります。
社会的責任を全うできなかったわけですから
誰かが責任を負わなければなりません。
その誰かとは
件のクランプを「意不尽」で取り扱った者ではない。
それが社会というものの構造です。
意不尽だった作業者が悪意を持っていたなら話は別ですが
そうでないかぎり
責任は作業者の使用者にあるとされるのが普通です。
【社会】の仕組み
この【仕組み】こそ、【理不尽】なんだと思います。
確かにこれはこれで「理」に敵ってはいる。
だけど、あくまで【社会】の都合の範囲内だという気がする。
このような【仕組み】をそのままにしている限りは
戦争はなくなりません。
僕自身の体験談をふたつ、記します。
ひとつは、ある人を殺しそうになってしまった出来事。
それは、樵をやっていたときのこと。
ある現場で、僕はトンガケという役をやっていました。
伐り倒した樹木は、集材されなければなりません。
文字通り、材を集める、です。
散らばっている木を一カ所に集めて
枝を落とし
樹種や幹の部位、太さ、曲がりなどを見極めながら
適切な長さに切り落として原木とし
搬出する。
この一連の作業が林業でいう「伐採」です。
トンガケという役は、「採」の方の最前線。
どんな感じかは、百聞は一見に如かず、画像を見ていただいた方が速いでしょう。
これはかなり危ない役回りです。
死亡率はかなり高いです。
正直なところ、僕も何度か死にかけています。
牽きだした木が見えないところで絡まっていて
退避したところへ飛んできたとか。
ワイヤが摩耗してブチ切れて、その端が飛んできたとか。
そのような危険性があることは百も承知で作業をします。
だから、自身の身を守るために
できる限り意を尽くそうとするのはごく自然なこと。
が、そうであっても、意不能尽。
〈世界〉とは、そんな残酷な場所です。
そのときの怪我が元で
僕の下半身にはほんの少しだけ
不具合が残っています。
正座が出来ないという程度ですから、日常、ほとんど支障はありませんが。
この程度で済んでいるのは、幸運なことだと思っています。
今から考えれば、当時はかなり無茶な仕事の仕方をしていた。
この役割は、危険性と効率性の交換比率が非常に高い。
それは構造的なものでしたから、作業者の熟練度などとはあまり関係がない。
仕事の成果は、いのちと引き替え。
そういう実感を味わうにはもってこいの仕事で
その実感を味わうための仕事をしていたのが、当時の僕でした。
そんなわけですから、死にそうになったことも
今にしてみれば、自慢話、笑い話――
いえ、そうではありません。
これはバカな話なんです。
前置きが長くなりました。
そのとき、僕がトンガケの作業をしている斜面の下の方で
「伐」を担当している人が作業をしていました。
仮にSさんとします。
この状態は芳しいものではありません。
上下作業といって、林業ではやってはいけないことの、イロハのイです。
距離は相当、ありました。
数百メートルはあったと思います。
僕の記憶に残っている映像では、その人が親指くらいの大きさに見えています。
下に入ったのは、Sさんのほうです。
僕は継続作業でしたから、もとからその場所にいました。
が、Sさんも、Sさんなりに組み立てた作業の段取りに従って動いたいただけ。
それが運悪く、バッティングしてしまいました。
危険なことはSさんも解っていました。
だけど、距離は相当あったので、大丈夫だろうと高をくくった。
意不尽です。
嫌な予感はしていました。
前日は雨が降って、仕事は休み。
斜面は濡れていて、滑りやすくなっている。
樹種もスギで、これまた滑りやすい。
でも、まあ、大丈夫か。
Sさんは僕よりもずっとベテランだし、僕がここに前からいるのは知っているし...
が、やはり嫌な予感というものは当たるものです。
牽き出した木につられて、となりの木が数本、すべり落ちていきました。
あっ、と思って見てみると
ちょうど木が滑り落ちていくところで、Sさんは作業をしていた。
大声で叫んだけれど、声は届くはずもありません。
Sさんもチェーンソーの爆音のなかで作業をしてます。
殺した――
と思った瞬間、Sさんはチェーンソーを放り出して、飛ぶように逃げていきました。
本当に、、、間一髪。
そのときの映像は今でも脳裏に焼き付いています。
今でも思い出すと、背筋が泡立つような感じに襲われる。
もちろん、すぐさまSさんのところへ跳んでいきました。
無事を確認して、謝罪する僕をSさんは軽く受け流してくれました。
それどころか、Sさんに謝られてしまった。
「スマンな。肝を冷やしたか? オレも冷やしたけどな。」
その日は、それで作業は中断したと記憶しています。
帰りの車の車中で、現場のリーダーで集材機運転の役のYさんから言われたこと。
「オレらはこんな仕事やから
自分が死ぬことはどこかで覚悟してる。
死んだ人もいっぱい、見てきたしな」
「だから、自分が死ぬのはしゃあないと思うけど
それでも、殺すのはイヤや」
「オマエは、今、いちばん危ないところで仕事をしてる。
頑張ってくれてるのも、わかってる。
けど、ほどほどにしてくれよ」
「死ぬのはオマエやろうけど、殺すのはオレや。
オレはオマエが合図を送ったら、ワイヤを巻くンや。
その先がどうなってるか、オレには見えん。
だから、オマエの合図を信用して、オレは巻く」
「見えんところでどうなってるのか、オレにはわからん。
わからんけど、オレが巻いたワイヤでオマエが死んだら
オレがオマエを殺したことになるンや」
「オレはいつも、そんな不安を背負ってるンやで。
それがわかったンやったら、気をつけてくれよ」
続きはのちほど。
『鋼の錬金術師』
掛け値なしの名作です。
マンガは全27巻。アニメもありますが、マンガがオススメ。
ガチでオススメです。
作者は荒川弘さん。女性作家です。
僕が荒川作品に接したのは、『銀の匙』の方が先。
作品の創作順としては、『鋼の錬金術師』が先。
『鋼』の存在は知っていましたが、興味が湧かなかったのは人気作だから。
ヘソ曲がりなんです(^_^;)
『銀の匙』については、書いたことがあります。
マンガのとあるシーンに掲げられていた言葉に惹かれて。
勤労 協同 理不尽
これ、荒川さんの作品のテーマだと思います。
もちろん『鋼の錬金術師』も。
『鋼』には、「ほんとうのこと」がいっぱい詰まっています。
「ほんとうのこと」とは
僕の言葉でいえば
〈生きる〉ことの表われ。
身体の作動です。
〈世界〉の理不尽に抗って作動する身体。
大切な人との間に生まれる情愛も
大切な人を奪われたときに芽生えてしまう復讐心も
全部「ほんとうのこと」。
「ほんとうのこと」同士が相容れないから、〈世界〉は救いがたいように見える。
『鋼の錬金術師』を僕がオススメする理由は
実は、救いがたいの〈世界〉ではなく【社会】だいうことを描き出しているから。
物語全体で。
錬金術。
元来は、卑金属から貴金属を生みだそうとした行為のことを指します。
金がもっとも価値あるものとされていることから求められた魔術です。
『鋼』では意味が若干異なります。
価値あるものは、金ではなく、力そのもの。
戦争においても発揮することができる「力」。
元来の意味における錬金も、マンガのなかでは可能な設定。
主人公エドワード・エルリックは、その「力」を
戦争を遂行する国家のために使役すると契約した錬金術師。
「鋼」というふたつ名は、その契約の証です。
『鋼』における錬金術は以下のように設定されています。
ひとつは等価交換の原則。
といって、何が“等価”なのかは曖昧ですが、そこはそれ、マンガということで。
ふたつめは「交感」のためのエネルギー源です。
最後に正体が明かされるのですが
初期は地殻運動エネルギーということになっています。
このエネルギー源が『鋼』における理不尽の焦点です。
具体的に“賢者の石”というかたちで登場します。
錬金術師が“賢者の石”を用いれば、等価交換の法則を無視できる。
そういうマジック・アイテムです。
もし“賢者の石”のようなものが実在するなら
〈世界〉はデタラメだといわざるを得ません。
いかようにも法則を曲げることができるアイテムが存在するということは
それはそのまま世界はデタラメだということの証です。
〈世界〉を創造したと想定する超越神も同じ。
〈世界〉をいかようにも改変しうる存在が実在するなら、
〈世界〉はデタラメだということです。
『鋼の錬金術師』を僕が評価するのは
そのような「デタラメのタネ」は、実は〈世界〉にあるのではなく
【社会】のなかにあるのだということを暴くストーリーだから。
これは僕の世界観と一致します。
『魔法少女・まどかマギカ』と同じく。
いうまでもないことですが、『鋼の錬金術師』は
そのような世界観を描く作品ではありません。
主題はあくまで、主人公をはじめとするキャラクターの活躍にある。
が、その活躍を浮かび上がらせるための舞台設定には
作者の世界観が色濃く反映されます。
〈世界〉の理不尽に抗うこと。
抗うことが〈生きる〉こと。
〈生きる〉ことを通じて見えてくること。
それは
理不尽なのは〈世界〉なのではなく【社会】だということ。
「勤労」「協同」「理不尽」という三位一体のテーマの意味するところです。
ちなみに作者の出自は、北海道の酪農家だそうです。
さもありなんと思います。
人気作品ですから、いまさらネタバレもないのですが、少しだけ。
“賢者の石”の正体は「人間そのもの」です。
等価交換の法則は破れていません。
当たり前ですが、人間もまたエネルギーです。
人間は自身の分のエネルギーだけではなく
他のエネルギーをも利用してしまう存在です。
これができるのは人間だけ。
文明を構築できるのは人間だけ。
こここそが〈世界〉を理不尽にしてしまう【社会】の源泉です。
酪農家出身の荒川さんには、そこがよく見えているのだと思います。
その理不尽から目を逸らす人間が、
人間そのものをもエネルギーとして利用する【システム】を組み上げた。
それが現代社会です。
“賢者の石”は、そのことを、架空の設定で可視化したものです。
では、リアルな社会における【賢者の石】とはなにか。
実在の【賢者の石】は、もっと巧妙にその意図が隠蔽されているものです。
【良心】につられて自身がもつエネルギーを放出するように
無自覚のうちに強いるもの。
余談。
瀬戸内寂聴さんの「殺したがるばかども」発言が波紋を呼んでいるようです。
「殺したがる」のもまた【良心】。
【良心】の発動に無自覚な者を差して「ばか」が適切かどうかはさておき
発言者が言わんとしたところは理解できるものです。
ただ、「戦う」相手は違のではないかと思います。
相手は人間ではない。
【システム】を起動させる理不尽であり【良心】だと思います。
〈うた〉
「歌」。または「唄」。
声によって音楽的な音を生み出す行為のこと。
リズムや節(旋律)をつけて歌詞などを連続発声する音楽。
娯楽・芸術のひとつ。
または、
文学における用語。
詩の一形式または韻律文芸の総称で、和歌などを指す。
――以上、wikipediaより。
僕がここで言いたい「歌」とは、文学における用語の意味に近いものです。
が、音律文芸というカテゴリーで括られるものはない。
言葉そのもの。
言葉そのものが、実は「歌」なのではないか。
「歌」とはうつろいゆくもの。
大和言葉の「うた」と「うつろう」は、近しい親戚でしょう。
その表記から想像できるように。
和歌です。
「うた」というものが、どのように表現されるものなのか。
関心は、音の表現の仕方です。
うつろいゆくもの。
生起し、そして消えゆくものとして表現される「うた」。
「うた」は「ことば」で構成されている。
「ことば」で「こころ」が表現されている。
「うた」は生起し、消えゆく。うつろいゆく。
では、「こころ」は? 「ことば」は?
どちらも、本来は、〈うつろいゆくもの〉ではないのでしょうか。
本のタイトルは忘れました。
養老孟司さんの本だったとは記憶しています。
たしかマンガについて語った本。
絶対音感の話が出ていました。
哺乳類において絶対音感は標準装備なのだ、と。
ヒトも赤ん坊の頃は絶対音感を持っている。
ところが成長と共に、ヒトは絶対音感を捨てる。
言葉の習得に絶対音感は障壁になるから。
言葉は聴覚が基礎です。
聴覚に、他の4感覚からの情報が統合されて言葉になる。
ヘレン・ケラーのような例外は存在しますが
大多数の「ヒト」は、聴覚を基礎に言葉を生成させて「人間」になる。
土台となる聴覚は“丸められて”絶対音感は失われる。
(詳しい学説は知りません。間違いかもしれません。)
言葉の土台が聴覚であるなら、音であるなら
それは、生成し、消えゆくもの。
〈うつろいゆくもの〉です。
ですが、テキストを操ることに長けてしまった僕たちにとって
言葉が〈うつろいゆくもの〉であるという感覚は稀薄です。
テキストからは「音」が失われてしまっている。
テキストも言葉なのに
テキストの作成・読解には基礎であったはずの聴覚は作動していません。
かく言う僕も、この文章をキーボードに打ち込むにあたって声を発していません。
聴覚はBGMが刺激をしていますが、テキストからは切り離されている。
〈うつろいゆくもの〉である音のないテキストは、もはや【とどまるもの】です。
聴覚で把握される〈ことば〉も、視覚が土台になると【言葉】になってしまう。
そもそもは〈うつろいゆくもの〉である言葉にも
最初から【とどまる】要素は存在します。
言葉の最も原初的な使われ方は、「なまえ」です。
「なまえ」は、分断であると同時に統合です。
〈世界〉からある一部分を感覚によって切り離し
その“部分”を感覚と再接続・統合する。
元来、異質なはずのものの統合は、【とどまる】要素を生みだしてしまう。
【とどまる】ことがなければ、再接続もありません。
ゆえに「なまえ」は同一性をもたらす。
同一性は【とどまるもの】です。
今朝目覚めた僕は、昨夜就寝した僕とは、同一の存在だと認識されます。
就寝といえどエネルギーは消費され
体内の物質は入れ替わっているのに、それでも僕は僕です。
見方によっては別物という認識だって可能なはずだけど
そうした可能性が顕現することはほぼありません。
さらにヒトは、【なまえ】をいくつも留め置く能力を有している。
脳内に留め置かれた【なまえ】はこれまた接合し、知識という体系を築き上げる。
膨大な量になった知識の処理は、ヒトの聴覚の判別能力では難しい。
そもそも装備していた絶対音感まで駆使すれば
もっと複雑な処理も可能だったかもしれないけれど
それでは言葉そのものが成り立たなくなってしまいます。
ゆえに、知識は視覚において処理されるようになります。
文字が発明され
言葉はより【とどまるもの】となっていくと同時に、
より複雑な処理が可能となっていく。
【とどまるもの】の複雑な処理が文明を出現たらしめたことに間違いないでしょう。
アマゾンの奥地に、ピダハンと呼ばれる少数民族がいるそうです。
彼らの話すピダハン語は
人類の言語の常識を覆すものとして注目を浴びているらしい。
ピダハン語において、なにより面白いと思ったのは、
「再帰(リカージョン)」が存在しないということ。
リカージョン(recursion)とは、言葉の入れ子構造のことです。
「私はAである」という文章をひとつの統語(syntax)として、たとえば
「彼は「私はAである」と言っていた」
「彼女は「彼が「私はAである」と言っていた」ことを信じる」
といったような文章を構成することができます。
リカージョンによって言語は有限なルールで無限の表現が可能となりますし
リカージョンがない文章など考えることも不可能です。
なぜなら、表現したいと思う内容そのものが
すでにしてリカージョンによって構成されているからです。
僕も今、この文章を書くにあたってなるべくリカージョンがないように
“平たく”書くことを心掛けていますが、
リカージョン無くして文章を構成することは、ほぼ不可能です。
流れゆく感覚に問い合わせてみれば、リカージョンは【とどまるもの】です。
「彼は「私はAである」と言っていた」
という一回のリカージョンがある文章を構成するに際しては、
「私はAである」
統語を留め置いておかなければなりません。
ひとつ、あるいは複数の統語を
息を止めるようにして、言葉が生成している〈場〉から一端、外す。
そして、「その時」が来たら呼び戻す。
呼び戻したときには、外したものが別物になってしまっていることもしばしば。
言葉が生成している〈場〉においては、
言葉は〈ことば〉であり〈うつろいゆくもの〉です。
が、リカージョンを用い、〈ことば〉を留め置くと、
いつしか〈ことば〉は【言葉】になってしまっています。
【言葉】をふくむ〈ことば〉は、
どうしても【とどまるもの】としての色合いが濃くなっていく。
【とどまるもの】としての【言葉】は、もはや「うた」ではありません。
ピダハンの人たちは歌うように話すのだそうです。
口笛やハミングも区別されることなく、〈ことば〉として扱われる。
まさに〈うた〉です。
そんな彼らは、「不幸」ということを知らないのだとも言います。
僕のなかにはふたりの「私」がいます。
【言葉】をあやつる【私】と、〈ことば〉に操られる〈私〉。
ある「なまえ」を形容する言葉を探す。
複数の「なまえ」を結びつける言葉を探す。
あるいは統語を留め置き、リカージョンを構成する。
このように言葉を使役している主体は【私】です。
一方で、〈ことば〉が生起する〈場〉となっている〈私〉もあります。
五感を刺激によって、立ち上がってくる〈ことば〉。
もしくは、他者の言葉を受けて立ち上がってくる〈ことば〉。
これらの〈ことば〉は、同じ言葉ではあっても、
【私】という主体が探り当ててくる【言葉】とは違います。
〈ことば〉とは、〈ことば〉の方から名乗りを上げてくるものです。
【言葉】の操作が、随意筋を意思に沿って動かすことであるとすると
〈ことば〉の名乗りは、心臓が意思とは関係なく鼓動を刻むようなもの。
心臓の鼓動によって生かされている身体。
頭脳の命令に沿って動く身体。
どちらも同じ身体でありながら、その在りようが異なるように
〈ことば〉と【言葉】は、同じ言葉でありながら在りようが異なります。
同様に、〈わたし〉と【私】も同じ「私」でありながら、在りようが異なる。
言葉は元来、〈うつりゆくもの〉です。
それが、リカージョンが生まれ
文字が発明され
印刷技術が発達し
出版資本が生まれて「国語」が生まれ
IT技術の発達でテキストがどんどん【とどまるもの】になっていきました。
僕が今、打ち込んでいる言葉も
どこにあるのかもしれないサーバ内の微少なトランジスタに
電位の差として記録され
容易に検索可能な【とどまるもの】となるでしょう。
ですが、言葉は
生まれるその瞬間は〈ことば〉であるということは変わりません。
人間も同様です。
ヒトは〈うつろいゆくもの〉として生まれ、死んでいきます。
ところが「なまえ」を与えられ
膨大な「なまえ 」を記憶に蓄積し
「なまえ」を体系化して知識と為して留め置くうちに
いつしか自己を【とどまるもの】として認識し始める。
が、いくら認識しようとも、人間は〈うつろいゆく〉ヒトであることは変わらない。
環境がどれほど【とどまるもの】に取り囲まれようとも、
ヒト自身が〈うつろいゆくもの〉であることは変わりようがありません。
ヒトをして人間と為し、【とどまるもの】と為すのは言葉です。
ですが、その言葉もまた、元は〈ことば〉です。
言葉には【とどまる】要素があり、その要素は文明の発達と共に増大した。
これは事実ですし、その事実をよしとしてきたことも事実です。
が、これから先もよしとしてよいのかどうかは疑問です。
【とどまるもの】は同一性を生みだします。
ヒトは環境適応性抜群の生き物で
なおかつ環境か改変能力も群を抜いていますから
自身で環境を変え
変えた環境に自身が適応してさらに環境を変え――
という負のフィードバックを生みだしやすい。
そうしたフィードバックのもとに
ヒトはどんどん【とどまる】人間になってしまいました。
【とどまるもの】に生みだされた同一性は、「所有感」も生み出します。
元来〈うつろいゆくもの〉である人は
【とどまるもの】と認識してしまうことで不安を生みだしてしまう。
不安を隠蔽するために【とどまるもの】を紐付けし確固たるものにしようとする。
その営みのひとつが【所有】です。
同じ作動は言葉にも働きます。
【私】によって操作された【言葉】は、【私】に紐付けされたもの。
【私】に紐付けされ【所有】された【言葉】は、もはや自我。
【言葉】による表現とは、自我の拡張行為です。
そうした【言葉】は、犯されたと感じると隠蔽してたはずの不安が顔を出す。
〈ことば〉は、【私】によって操作される以前のものです。
先に記したように、ピダハンの人たちのように
リカージョンのない言葉を生成することは僕たちにはほぼ不可能。
だから、表出された言葉は、どうしても【言葉】になってしまう。
それは仕方がないことです。
ですが、【言葉】を【所有】から断ち切ることはできます。
【言葉】も、もとは〈ことば〉であったこと。
僕たちが人間になる過程で
〈ことば〉を【言葉】に変換する技術を習得しなければならなかったこと。
技術の習得は可能性を広げることです。
可能性を広げることは、よしとすべきであることは言うまでもないでしょう。
ですが、よしとすることで、見失うものがあることを見失うのは残念なことです。
言葉は僕たちの中で、日々、〈ことば〉として生まれています。
そして、〈ことば〉は、誰のものでもない。
それはそうでしょう。
〈ことば〉は【私】が操作できないものです。
しかし、表現のためにはどうしても操作は必要。
なので、致し方なく〈ことば〉は【言葉】になってしまう。
だけど、伝えたいのは操作後の【言葉】ではなく、操作前の〈ことば〉です。
操作前の〈ことば〉は、【私】による【所有】の前のものです。
自ら操作できない〈ことば〉は
どのように操作をしたとしても
どのように受けとめられるかは不明です。
また【私】の【所有】でない〈ことば〉を伝えようと欲するのであるなら、
〈ことば〉がどのように受けとめられようとも【私】には関係のないことです。
繰り返しますが、僕たちは言葉を【言葉】として表現することしかできません。
ですが、伝えたいものが〈ことば〉だと自覚があれば
【私】を言葉から切り離すことは可能です。
〈ことば〉への自覚が【私】の輪郭を浮き上がらせ
【私】と【言葉】の切断する〈意志〉を生みます。
そして〈意志〉は、〈ことば〉を待ち受けようとする〈構え〉に繋がっていく。
この〈構え〉を保つことは〈生きる〉ことに他ならないと僕は思います。
〈ことば〉に流されながら、流されていることを自覚し、愉しむ。
その愉しみがわかれば
〈ことば〉を【言葉】に変換することなど「方便」に過ぎません。
ですが、そうはいっても、表現は〈うた〉でありたいと思う気持ちはあります。
〈世界〉を感じたままの〈ことば〉で語りたい。
が、〈世界〉は有限な〈ことば〉で語るには複雑すぎる。
だから、リカージョンはどうしても必要だし、【言葉】のアーカイブも必要になる。
それであっても、紡ぎ出す表現は〈うた〉でありたいと願います。
見果てぬ夢だと思い
これはでは妥協を重ねてきましたが「つまらないこと」です。
たとえ「できないこと」であろうとも
「大切なこと」を追いかけていくのが〈生きる〉ということでしょう。
『東京家族』と『東京物語』
良い映画だと思いました。
一口に「良い映画」という以上に、良い映画。
この作品が小津安二郎監督の『東京物語』のオマージュであることは言わずもがな。
オマージュに留まらない作品であることも、また然り。
山田洋次監督は、もう十分に、小津安二郎監督に匹敵すると思いました。
(と言えるほど、小津作品を見ているわけではないのですけど... σ(^^;)
リアリティという観点から見れば、『東京家族』です。
現代が舞台ということももちろんあるんだけど、それは結果論。
〈時間〉なんです。
東京に暮らす人たちと、上京してきた老夫婦とでは〈時間〉が違う。
その人それぞれに流れている主観的な〈時間〉。
『東京物語』の方も、〈時間〉の差違はよく描かれていると思います。
小津監督がなぜあの映画を「東京物語」としたのかという理由を考えたとき、東京で暮らす者と地方で暮らす者の〈時間〉の差違を描きたかったのだろうと考えると、納得がいきます。当時でも東京は、〈時間〉の流れが際立って速かったのでしょう。
上京してきた老夫婦を邪険に扱うことになってしまったのは、東京の「時間」に適応して〈時間〉が速くなってしまったがゆえ。"Time is Money"となった東京は、Moneyの流れの増大に伴って「時間」が速くなり、そこに暮らす者は、どうしても己の〈時間〉を速くしていていかないと適応できません。
「東京の時間」に適応した身体と、そうでない身体。そうでない身体が、家族であっても東京から追いやられて「宿無し」になってしまう。この構図は『物語』も『家族』もまったく同じだと思います。
『東京家族』は現代作品であるがゆえに、現代人たる僕には〈時間〉がよりリアルに感じられる。ただそれだけのことだろうと思います。
いえ、「ただそれだけ」は違うかもしれません。
山田監督の方は、〈時間〉の差違にもっと意識的なのかもしれない。
そう感じたのは、父親役の橋爪功が友人と飲んだくれるシーンです。
このシーンの描き方は『東京物語』よりも、一歩踏み込んでいると感じられました。
時代に取り残されてしまって(現代的な意味合いで)残念な人なってしまった老人という、これまた現代的にリアルな描写もさることながら、橋爪功に何度も「このままではいかん」と言わせているところ。このセリフは、僕は山田監督のメッセージではないかと思いました。
ダメ押しは、母親が亡くなった後、末の息子と婚約者が東京へ帰る場面で、同じ橋爪功が「東京者は忙しいからな」といったところ。ここを見て、山田監督は、『物語』との時代の差違を伝えたいのかもしれないと思った。
もっとも、『物語』の方は記憶が曖昧なので、笠智衆も同じようなセリフを言っていたかもしれません。だとしたら、「時代の差違の強調」は僕の思い込みに過ぎないことになりますが、「ただそれだけ」は違うことの証拠(?)は他にもあります。
そこは、上記のような微妙なところではなく、物語構成上の違いとなって現われている。
2つあります。
ひとつめ。
『物語』では原節子が演じていた役回りは『家族』では蒼井優になっていて、同じ役回りではない。『物語』では戦死した次男の嫁だったのが、『家族』では末息子の婚約者になっています。
この違いは非常に重要です。『物語』において老夫婦と原節子役は既知の間柄であったのに対し、『家族』では物語中に知り合う関係。この関係性の違いは、物語そのものの「時代」に対する志向性の違いとなって出てきています。すなわち、前者は過去志向、後者は未来志向です。
また、構成の違いは役回りの違いになる。『物語』にあった原節子の見せ所の「説教」の場面が『東京家族』にはありません。
「説教」の場面とは、いち早く母親の遺品を確保しようとする長女の振る舞いに、末娘が原節子に向かって愚痴を言う。母親が死んだばかりなのに節操がない、儒教ふうにいうならば「孝」が足りないと言う。それに対して原節子は「親子の間柄は、それで自然」だと言い聞かせる、というところ。ここがすっぽり抜け落ちている。『家族』にも長女が遺品を確保しようとする場面はありますが、それは単に『物語』を引き継いだだけのもので終わっていて、『家族』のメインストーリーとは無関係なものになってしまっています。
この変更が意味するところは、やはり志向性の差です。
『物語』の「時代」においては、「東京の時間」こそが主調であり、老夫婦の〈時間〉は、もはや過去のもの。原節子の言は、「子が親を捨てるのは自然」と言いつつ、同時にそれは「時代の流れ」だということも示唆していました。つまり、老夫婦は「過去」だということであり、一人残された笠智衆は、その地方(尾道)の暮らしのなかに埋没していくということです。
このことは、ふたつめの違いにも表われています。
『物語』では、冒頭のシーンは東京に出発前の老夫婦の尾道の家でした。そこに近所のお婆さんが通りがかる。このお婆さんは「過去」の象徴であり、物語の最後の締めにも登場します。
対して『家族』では、お婆さんの役は女子中学生に変わっています。そして、犬の世話をするということで老夫婦のセリフとしては冒頭で登場しますが、姿は終盤にならないと登場しない。
『家族』において、蒼井優が担った役割は「未来」です。そして、女子中学生もまた「未来」。『家族』には、『物語』にあった「過去」を強調することで肯定した「東京主調」に変わって、地方――それも尾道より後退した離島――の暮らしにおいて「未来」を提示するという展開がある。
『物語』の「過去」を象徴するお婆さんによる締めに変わって、『家族』では女子中学生が犬をイキイキと散歩に連れ出すシーンになっています。
そして橋爪功もまた、「過去」の人間として、「未来」を肯定するセリフを言います。時代に合わないと見なしていた末息子が、実は死んだ妻の優しさを引き継いだ者であること。そして、その息子を婚約者に、丁寧に託す。男性の「時代」を「過去」のものとし、女性の「時代」に「未来」を託す。
決定的なのは橋爪功が妻の遺品として蒼井優に贈った品物です。それが何であるかはここでは伏せます。『東京家族』をすでに観た人は知っているでしょうし、もし、僕のこの文章を見てから『東京家族』を観ようと思う人がいるなら、せめてそれが何であるかを自分の目で確認してもらいたいと思うから。
僕たち男は、橋爪功がしたように、畳に手をついて丁寧に「未来」を女性に託すべき――これが『東京家族』において山田洋次監督が伝えたいメッセージなのかもしれません。