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愚慫空論

〈システム〉と〈クラウド〉

前エントリーで〈クラウド〉なる言葉を脈絡なく直観的に使ってしまったので、今回は、その追補的エントリー。といって、直観的なのところに何ら変わりはないが。

「クラウド」という言葉は、ネットにアクセスする者なら誰もが目にしたことはあるだろう。「クラウド」はいうまでもなく「雲」の意味だが、ここでいう「クラウド」は「クラウドコンピューティング」というIT技術の呼び名から派生拡大し、現在では、IT技術によって実現されているネット空間そのものを指して「クラウド」と呼ぶようになってきている感がある。

ゆえに、と言ってよいかどうかはわからないが、「クラウド」には明確な定義付けは未だにない。「クラウドコンピューティング」なら明確に定義できるのだろうが、「クラウド」はなかなかそうはいかない。にもかかわらず、ネット空間を「クラウド」と呼び習わす慣習はますます広がりそうな気配。ということは、「クラウド」がネット空間の在り様を的確に表現しているということだろう。

が、私は〈クラウド〉という表現を、ネット空間の意味で用いたのではない。自然を含んだ共同体という〈クラウド〉。ネット空間と自然とはまったく相容れない別世界だが、その在り様は、IT技術の進歩ゆえだろう、似たものになってきている。これはもちろん、私の直観である。

もう少し具体的に語ろう。〈クラウド〉は「不定時法の世界」なのである。

 愚樵空論 『不定時法の世界 (1)』
 愚樵空論 『不定時法の世界 (2)』
 愚樵空論 『不定時法の世界 (3)』
 愚樵空論 『不定時法の世界 (4)』
 愚樵空論 『共同体のイメージ』

〈クラウド〉と対置されるのは〈システム〉である。つまり、〈システム〉は「定時法の世界」ということになる。「定時法の世界」の住人には、“時間は等間隔で刻まれ一定速度で流れてゆく”という信憑がある。これは、時計の普及と軌を同じくして普及した信憑だが、一旦取り憑かれるとなかなか自由にはなれない。「定時法の世界」の住人は、時刻はいつでもどこでも「同じ」である普遍的なモノサシだと思い込んでいる。(「相対性理論」的な話は除くとして。)

対して「不定時法の世界」の住人は、そうした信憑からは自由だ。時刻は相対的なもので、その場所その時、その場の人間関係のなかでその都度決まるものだと思っている。つまり、時刻を定める基軸がない。にもかかわらず、コミュニケーションはちゃんと成立している。このようなコミュニケーションの態様を〈クラウド〉とするのが正確かどうかはわからないけれども、直観的には共通したものがある、と私は思った。そして、「不定時法」的なコミュニケーションの中には自然環境とのコミュニケーションも含まれる。だから〈クラウド〉には自然も含まれる。というより、自然こそがもっとも重要な構成要素だ。

と、いったようなことを念頭に置いて、こちらの動画をご覧になっていただきたい。故小室直樹博士の日本教講義だ。一神教が〈システム〉であるのに対して、日本教が〈クラウド〉であることが理解出来ると思う。


小室直樹 日本教講義 投稿者 chohsuke

ついでにもうひとつ、参考例を。芥川龍之介の『神神の微笑』である。青空文庫から閲覧できる

「事によると泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇(ばら)の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明(ゆうあか)りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」


孔子も悉達多も、そして泥烏須も日本では土人に変わる。孔子・悉達多・泥烏須は、それらが信奉されている世界では絶対の基軸であり、その世界は「定時法」的〈システム〉世界。ところが、それら基軸も「不定時法」的〈クラウド〉世界へやってきてしまうと、もはや基軸たり得ず土人へと変わってしまう。

関連記事:『〈学〉と〈術〉』

不安を引き受ける日本人

宗純さんの記事が面白い。

『日本人の皆さん、少しは怒りましょう』(逝きし世の面影)

『韓国の中央日報日本語版』

07月26日付け中央日報日本語版に、『日本人の皆さん、少しは怒りましょう』と題する皮肉たっぷりのコラムが書かれている。
記事では、
『日本政府はセシウム汚染最大許容値を牛肉1キロ当たり500ベクレルに決めた。 ドイツなど欧州国家(成人8ベクレル、子ども4ベクレル)に比べてなんと62-125倍も高い。
どう考えても非正常的だ。
さらに今回の『セシウム牛肉』からは最高4350ベクレルのセシウムが検出された。
土下座して国民に謝罪しても気がすまないほどのことだ。
ところが日本政府は高姿勢だった。 『長期間ずっとセシウム牛肉を食べない限り健康に影響はない』という言葉ばかり繰り返した。
原発周辺の稲わら一つきちんと管理できないにもかかわらずだ。
実におかしな国だ。』
『さらに理解できないことがある。
それは日本の国民だ。
飲食店・スーパー・給食を通して自分または子どもの口にセシウム牛肉が入ったというのに怒らない。
各メディアのサイトをチェックしたが、畜産農家や消費者の抗議デモがあったという記事は1件もなかった。
これほどになると非正常的というよりも非常識的だ。』
『国民が「これは間違っている」と怒らないため、政府が怠慢になり、勝手に隠蔽するのだ。
それでも我慢して政府の言う通り忠実に節電して汗を流す日本人をそばで見ているとやるせない。』
『・・牽制装置が作動していないからだ。 国民の怖さを知らないのだ。』
『・・韓国国民も覚醒しなければならないが、実体が明らかなセシウム牛肉を食べてもネズミが死んだかのように静かな日本国民はもっと大きな問題だ。 「日本人の皆さん、 少しは怒りましょう」。』


読んで、笑ってしまった。まことにごもっとも。

そして、笑ったあとに思った。なぜ笑ったのか、韓国人は訝しく思うだろうな、と。いや、日本人でもさすがに笑うのまでは訝しく感じるか?

日本人はなぜ怒らないのか? 不安を社会へと転化しないから。この性質は、震災直後に世界中から賞賛を浴びた、「秩序正しい」行動と同じ行動原理による。日本人は、不安は個人で引き受けるものだと思っている。だから、社会へは表明しない。不安の社会への表明は、怒りになったり悲嘆になったりするが、どちらも日本人の「美学」からは反する。

日本人が怒るときもある。それは世論が怒ったとき。マスメディアが怒ったとき。全部が全部ではないが、かなりの人が同調して怒る。この場合の怒りは、不安の表出ではない。逆で、世間から取り残されるという不安を解消するために怒る。怒っている自分に安心するために怒る。放射線被曝の問題では、マスメディアは不安を煽ってはいるが、怒ってはいない。だから日本人は怒らない。

こうした日本人の心性はどこからくるのか? 自己確立の在り方からくる。以前にも引用した内山節氏の主張を再掲してみる。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


社会のなかで他人との差異を際立たせることで水平的に自己確立をする者は、不安を不正と捉える。不正を為しているのは当然社会だから、水平的「個」は社会を糾弾せずにはいられない。そういった人間からみると、日本人は「個」を確立していない、不思議で非常識な人間に映る。これは致し方ない。だが、日本人はそのような「個」の確立の仕方をしない。私が笑うのはその差を理解せずに自らの規準で判断してしまうことの滑稽さゆえにだが、笑ってはいられない部分もあって、それは当の日本人自身が自身の自己確立の仕方を忘れてしまっていること。だから、「美学」に従って個人で不安を引き受けるのはいいが、どうやって不安に対処してよいのかわからない。最悪の場合、自殺という方法を選択する。日本人は不安を解消するために共同体を作るのである。社会は〈システム〉だが、共同体はそうではない。いうなれば〈クラウド〉だ。自然を含んだ共同体という〈クラウド〉で自己確立をした者は、不安を〈クラウド〉へ帰することで「安心」を得る。心の安定、近頃では「癒し」といったりする。

このように捉えれば、日本人がマスメディアをどのように捉えているかも理解出来る。〈クラウド〉だ。だからテレビは「茶の間」なのである。あらゆる番組にタレントが出てくる。自然の美しさを伝える番組にくだらない俳優が出てきたりする。スポーツの放映にジャリタレが出しゃばる。ニュースキャスターをクイズ番組の司会者が務める。

文明国は基本的に〈システム〉型だ。欧米も中国も。韓国も、もちろん同じ。それは、〈システム〉は効率が良いからである。だが、人間という生き物は基本的に〈クラウド〉。〈クラウド〉は〈システム〉よりも効率が悪い。高い情報処理能力が要求される。日本は高度な文明を発達させながらも、基本形の〈クラウド〉志向を保持した希有な例だ。そのことを〈システム〉型の教育に適応した者ほど忘れている。和魂洋才、漢心(からごころ)と〈システム〉がしっかり分離されていたことを忘れているのだ。

贈与とブリコラージュ

もしかすると、内田・中沢・平川の三氏は『大津波と原発と金融崩壊』というテーマで再び鼎談をすることになるのかもしれないが。

平川 今回のことで、「ブリコラージュ」と「贈与」という動きが、両面出たんだよね。
中沢 そうですね。じつは「贈与」と「ブリコラージュ」は、人間の心のなかでセットなんです。
ここには日本人の心の特質といった者がくっきりと出てきている。贈与精神みたいなものが、こんなに根強く生命力をもっているということに、ちょっと感動しています。


「ブリコラージュ」というのは、

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 "bricoler" に由来する。
ブリコラージュは、理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。(Wikipediaより)


日本人てのは、もともと「エンジニアリング」は苦手で「ブリコラージュ」が得意。科学の粋だったはずの原発も実はまったく「エンジニアリング」にはなっていなくて、「ブリコラージュ」だった。そして、現在、原発事故収束にむけての作業も「ブリコラージュ」で行なっている。原発収束がどれほど実現しているのかは、エスタブリッシュたちの情報操作もあって不明だけれども、現場の人たちが「ブリコラージュ」を駆使して必死で対処していることは、だいたい想像がつく。そして、最終的にうまく行くかどうかはわからないけど、これまでのところはなんとか凌いでいるようにも見える。米仏日合作のの除染装置なんか、「エンジニアリング」でみればダメダメらしいが、止りながらもなんとか動いている。

それだけではない。原子力は、生命の壮大な「エンジニアリング」の歯車すら狂わせてしまった。放射性物質が満ちあふれる日常のなかで私たちが健康を維持していこうと思うなら、「ブリコラージュ」で凌いでいくしかない。

だから、「ブリコラージュ」が活発化していくのは必然ですらあるのだ。飯山式乳酸菌運動も、野口整体も、放射能被曝対策という意味では「ブリコラージュ」だ。なんとかなるかどうかなんてわからないが、でも、とりあえずなんとかしようという動き。で、ここらを支えていくのはやっぱり「贈与」なんだろうな、と思う。

「子どもを思う親の気持ち」なんてものは、「贈与」の精神以外なにものでもない。子どもは大人からの「贈与」なしでは生きられない。人類は子どもなしでは滅びる。ヒトという種の、もっとも根本的なところ。

こうした「ブリコラージュ」と「贈与」にダメダメ「エンジニアリング」が文句を付けるという構図は笑える。未だ、ダメダメだということに気がついてすらいない。もはや国家も経済も、安心して寄りかかれる存在ではない。自立しなければ。

頭脳の身体に対する「罪」



ヒトは、アタマとカラダとがなかなか上手くバランスしない生き物だ。

バランスを崩す原因を作るの大抵、頭の方である。アタマは、アタマの快楽を追求するなかでカラダを酷使する。カラダとは筋肉主体の肉体の意味ではない。消化器系、呼吸器系、さまざまな臓器の集合体という意味でのカラダである。ヒトの場合、大抵の臓器の欲求よりも脳の欲求のほうが強い。例外は生殖器系くらいのもの。

たとえば、美食は快楽だ。カラダにとっても、食物を食べ栄養分を摂取することは必要であり、必要を満たされるのは快楽だろう。だが、アタマの快楽は、カラダの要求を容易に超える。自然な要求を超えた負担が快楽であるはずがない。美味しいもの食するのは楽しい。楽しいから食べ過ぎる。アタマの快楽は、カラダの寛容の上に成り立っている。

タバコもそうだ。喫煙で体内に取り込まれるタールやニコチンが呼吸器系にとって快楽なはずはない。だが、アタマはそれを快楽と感じてしまう。ストレスからの解放、依存症状の中和、あるいは虚栄が満たされる。複雑怪奇なアタマは、タバコからさまざまな快楽を引き出すことができる。これは、一面では素晴らしいことではある。

利便性の追求も、間違いなくアタマの快楽追求の一派だ。文明社会に生きる私たちは、さまざまな利器に取り囲まれている。その利器たちは、アタマの欲求を速やかに満たし、さらには拡大する。アタマにとっては欲求が満たされるのも拡大するのも、快楽である。その快楽は膨大なエネルギー消費によって支えられている。

原子力は夢であった。それはもちろん、アタマにとって。原子力を実現すること自体も、生み出される膨大なエネルギーが実現するであろう利器たち――アタマの快楽追求装置――を空想することは、大人ばかりではなく、無垢な少年少女にとっても快楽だった。また一部の利にさとい大人達にとっては、原子力が生み出す莫大な利潤も快楽だった。そして、私たちはカラダのことを忘れてしまった。これからは、そのツケを支払わなくてはならなくなった。

原子力の使用によって私たちが犯した最大の「罪」とはなにか。それは身体が培ってきた叡智をひっくり返してしまったことだ。自然界にも放射性物質は存在する。身体の叡智は、その危険性を上手くやり過ごすよう適応してきた。同時に危険性のない物質は、効率よく再利用するようにした。人工放射性核種は、この身体の叡智を落とし穴にしてしまった。これを「罪」といわずしてなんと言えばいいのか。

アタマが快楽を追求できるのは、寛容な身体があってのことである。身体が寛容でいられるのは、叡智を持っているからだ。アタマの快楽追求はその叡智を台無しにしてしまった。そのツケは、これからアタマの快楽を追い求める子どもたちの無垢な身体が多く支払うことになる。 この理不尽は私たちのアタマが生み出した。それを是正する術を、私たちのアタマは持っているのか。

米とぎ汁から乳酸菌溶液をつくる

米とぎ汁乳酸菌の運動が始まってから,はや3ヶ月が過ぎた.
いま,実際,百万人もの人たちが米とぎ汁の乳酸菌で豆乳ヨーグルトをつくり,
さらに,乳酸菌で浴槽を放射能ゼロ空間にして,「1時間の疎開」をしている.
これは,かつてなかった生きた乳酸菌運動であり,社会現象にもなっている.
これだけ大きな運動になれば,反動もでるし,批判や非難も湧いてくる.
なにしろ,生米を洗った水をペットボトルに入れ,発酵したら肺に吸い込め!
という,「世の常識人」から見ると,無謀きわまりない提案なのだから…,
「米を洗った汚水など雑菌で一杯だ! お前は子供を肺炎で殺す気か?!」
という非難は当然のことである.
とくに「殺菌・消毒の思想」に凝り固まった「常識人」は,非難ごうごうだ.

なぜ? どうして3ヶ月も経ってから,「米を洗った汚水など雑菌で一杯だ!」
などと言い出すのか? と怪訝(けげん)な気もするが….
殺菌・消毒が主流の世の中なのに,雑菌も含めて発酵菌を増殖させろ!
部屋の中を菌やカビ(酵母)で一杯にしよう! その菌を毎日飲もう!
というのだから,「常識人」は穏やかではないだろう.


何を隠そう、我が家では飯山式の米とぎ汁乳酸菌溶液を毎日のように製造している。もちろん、豆乳ヨーグルトも。

主犯は妻だ。3.11以降、妻もツイッターに目覚めた。といっても、ツイートはしない。私のアカウントから閲覧しているだけ。たまにリツートしたり、フォローしたりはしているようだが。
(ちなみに大のお気に入りは、。といって、信奉者ではないので、一応、念のため。)

飯山式乳酸菌培養術は、妻がネット上で“発見”した。以来、実践している。

ネット上にはこの他にも、さまざまな放射能対策の「民間療法」が蔓延している。『SPA!』という雑誌で、それらがひとまとめにされて批判されたらしいが、そういった批判はいずれ出てくるだろうと思っていた。私が見た範囲では、BLOGOSにもその手の批判記事が出ていた。

『子供を守りたい親の気持ち? 知るかそんなもの!』

こうした記事の主張は理解出来る。飯山氏がいうところの「常識人」の思考だ。乳酸菌が放射能に効くはずがない、という「常識」は私も共有する。そればかりではない。

 震災以降ということしか覚えておらず、どんな文脈だったかも忘れてしまったのだが、ツイッターで「子供を守りたい親の気持ちをないがしろにしないで」という旨のツイートを目にしたことがある。そのツイートを私は、「なるほど、ある種の人たちにとって、守りたいのは「親の気持ち」であって、あくまでも子供は気持ちを体現するための器に過ぎないのだな」と読んだ。

この指摘にも共感するところは大。守るべきは、「子どもを守りたい親の気持ち」より「子どもの健康」。そこを見誤って、神経質になってしまっている人も多いという指摘は正しいだろう。

だが、私はこうした批判には共感しない。下敷きにしている「構図」に違和感を感じるから。その構図は、こうした民間療法を採り入れる人たちは、そこへ“縋っている”のだという先入観から生じてきているように思う。

“縋る”とはつまり「依存」。短絡的に“乳酸菌が効く”と考えるのは「依存」であろう。医薬品と同列に乳酸菌を捉えるのは、私も支持しない。私が乳酸菌を支持しているのは、それが「自立」であるから。効くかどうかは判然とはしない。効くに越したことはないが、効かなかったからといって提唱した飯山氏を批判するつもりはまったくない。「自立」のために採用したのであれば、提唱者の批判はまったく筋違い。責任は自分たちで引き受けるのが筋だ。「常識」はこういった図式は排除して、「依存」を批判する。

その構図は、結果としては「自立」を妨げる方向へ作用していると私は感じるし、そこを批判したいと思う。「依存」の構造を意識せずして「依存」している方法だけを批判するのは、暗に別の「正しい方法」へ依存せよというメッセージを発することになる。『子供を守りたい親の気持ち? 知るかそんなもの!』は、まさにそういうメッセージを発しているように私は受け取る。ここにあるのは、“「殺菌・消毒の思想」に凝り固まった「常識人」”の思考だ。

ことの順序を間違えてはいけない。親の気持ちよりも子どもの健康。これは当たり前。が、これらは二者択一ではない。親の気持ちを上滑りさせずに、子どもの健康を考える。政府は当てにならない。自ら方法を探すしかない。「自立」するしかない。米とぎ汁から乳酸菌を培養するという方法は、その方法の当否はともかく、「自立」的な方法である。免疫力を高めようという目標設定の在り方も。というわけで、私は飯山式を支持する。

最後に余談だが、豆乳ヨーグルトの食べ方について。今、私が気に入っているのは梅ジャムと一緒に食べる方法だ。ヨーグルトといっても元は大豆だから、風味は豆腐に近い。なので、普通のジャムはもうひとつ合わない。が、梅ジャムはいける。我が家では紀州棲息時以来、梅ジャムを作る習慣もあってちょうどいい。あとは、黒ごまも良かった。オーソドックスには醤油だったりするが、これだと、まんま豆腐になってしまう。ま、それはそれで美味いけど。

『街場のメディア論』を読んでみた

私は最初、この本を図書館で借りて読んだ。読み終わった後、2冊購入することを決めた。1冊は自分の本棚に飾るために。もう1冊は、高校生の姪っ子に読んでもらうために。

高校一年生の姪には、まだこの本全部を読みこなすのは難しいかもしれない。大学生を相手の講義が元の本だから。だが、『第一講 キャリアは他人のためのもの』は、読めるだろうし読んでもらいたいと思った。これからキャリアを積み上げていく彼女に、キャリアとは何か、何のために勉強しなければならないのかを考えてもらうのに、絶好の文章だから。おそらく彼女も、おそらく彼女も、キャリアを積み上げるのは自分自身のためとごく「常識的」に思っているだろうから。

私のこのような行動は読者として至極まっとうな行動であると、内田氏は評価してくださるに違いない。内田氏によると「読者=購買者」ではない。私が2冊買うのは、たまたまであるに過ぎない。たまたま、贈与したい相手が2人(自分と姪)いたというだけのこと。

 著作物は書き手から読み手への「贈り物」です。だから、贈り物を受け取った側は、それがもたらした恩恵に対して敬意と感謝を示す。それが現代の出版ビジネスモデルでは「印税」というかたちで表現される。けれども、それはオリジネイターに対する敬意がたまたま貨幣のかたちを借りて示されたものだと僕は考えたい。すばらしい作品を創り上げて、読者に快楽をもたらした功績に対しては、読者は「ありがとう」と言いたい気持ちになる。言わなければ済まないような気持ちになる。とりあえず、それはいくばくかの貨幣のかたちを取ってオリジネイターに向けて返礼される。
 作物の価値は、贈与が行われた後になってはじめて生じる。だから、それをどうやって贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステムを整備するか。それが最優先の課題になります。


本書における内田氏の主張を乱暴にまとめてしまえば、「メディアの不調(=知性の不調)の原因は、情報を商品として扱うことにある」であり、「情報は、贈り物である」になる。そこから導かれる結論は、「贈り物は知性を活性化させる」。この構図は、第一講の『キャリアは他人のためのもの』と同じであり、電子書籍への批判として提示される「本棚の理論」とも同じ。本棚に本を並べるという行為は、「自身への贈与をディスプレイする」ことに他ならないわけだから。

 これまで繰り返し書いてきたように、どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では脅威的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人闇の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。
 今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛ての贈り物」だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。現実から眼をそらしたり、くよくよ後悔したり、「誰のせいだ」と他責的な言葉づかいで現状を語ったり、まだ起きていないことについてあれこれ取り越し苦労をしたりしている人間には、残念ながら、この激動の時機を生き延びるチャンスはあまりないと思います。


ここで言われる「今遭遇している前代未聞の事態」とは、本書の範囲内で狭く捉えると「出版業界の危機」なのだけれども、内田氏が言わんとしているのは、それだけのことでなかろう。そして、フクシマ後に生存する私たちにとっては、この言葉は非常の重くのしかかってくる。事故ばかりではなく、事故後の「知性の不調」を嫌というほど思い知らされたからでもある。

私たち人類が、原子力を使うに至るほど繁栄したのは、交易のおかげだと言ってよいだろう。なかでも、交易の中の一形態である商取引が大きな役割を果した。もちろん、メディア業界も同じだ。それはたまたまではない。歴史の必然だった。が、その必然は必然的に限界を露呈し始めた。前エントリーで持ち出したガンディーの言葉をここでも提示してみよう。

「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」

「個人」を「知性」と置き換えてみてもいい。内田氏が指摘しているのは、商取引が限界を露呈して、知性を蝕み始めたということだ。ということで、「どうやって贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステムを整備するか」が、内田氏の言葉通り、最優先の課題になる。

ところが、少なくとも本書のなかでは、そのようなシステムの話はまったく出てこない。ただ、既存のシステムに飲み込まれてしまっては生き残ることは出来ないと警告を発するだけ。これが私には不満だった。

商取引ビジネスモデルが抑制するのは、自発的な「ありがとう」である。「ありがとう」は大切だが、それだけでは経済は回らない。経済はモノを循環させるシステムだから。商取引が極大化し、社会の成員が商取引を行なうことを社会からシステマチックに要請されるようになった現代では、「ありがとう」が抑制されるのは当然の流れであり、その典型が「クレーマー」だ。 ならば考えるべきは、自発的な「ありがとう」を促成するシステムであろう。

貨幣経済システムの基軸は「価値=価格」である。価値と価格とは本来別個のものだが、別々に振る舞われてはシステムは成り立たない。システムを機能させるには価値は価格にフィックスされていなければならない。これは大前提であり、その証拠に貨幣経済システムの振る舞いを研究する経済学には、価格理論はあっても価値論はない。

価値理論の中心は市場原理だが、これは人々の欲求(需要)とモノの希少性(供給)とが均衡するところで価格が決定されるというもの。人々は個別に欲求つまり価値判断を持つが、それらは市場というメカニズムを介して社会的に、つまり個々の価値判断とは離れた場所で他律的に決定されることになる。

このようなシステムに順応する人間は、その価値判断をメカニズムが他律的に決定する価格に委ねるようになる。「価格→価値」である。一方で人間は自分の価値を高いものに設定したい欲求を持つから、自身の「価格」を高額なものにしたいと欲すると同時に、価格のつかないものに価値を見出すことがなくなってしまう。

内田氏の常々の主張は、この「価格→価値」の精神構造は知的パフォーマンスを発揮させるには甚だ具合が悪い、というものだ。というのも、それはことの順序を間違えているから。

「価値あるもの」が立ち上がるとき

 親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、総じてコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。ことの順序を間違えないでください。
「価値あるもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返礼を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。「価値あるもの」を与えたり受け取ったりするわけではないのです。ひとりの人間が返礼義務を感じたことによって、受け取ったものが価値あるものとして事後的に立ち上がる。僕たちの住む世界はそのように構造化されています。


価値は、贈与を受け取った者が価値を発見したときに生成される。価格といったような形で予め存在しているものではない。つまり「価値→価格」でなければならない。にもかかわらず、貨幣経済システムのなかで生きる私たちは「価格→価値」という順序に順応するように要請されている。つまり、知的パフォーマンスを向上させるには「価格→価値」という環境の大きな流れのなかで、「価値→価格」の反転を行なうというアクロバットを演じる必要があるということだ。

ちなみに、イノベーションとは「価値→価格」を実践することだ。またドラッカーは、イノベーションを行なうには「真摯さ」が必要だと説いたらしいが、これは「アクロバット」に相当するだろう。「価格→価値」の大きな流れがあるからこそ、「アクロバット」が成功したときには大きな成果を生む。が、その成功は「価格→価値」の流れをさらに大きくする効果を生み、「アクロバット」をさらに難しいものにしてしまう。

ところで、情報のデジタル化が進んだ現在では、情報の価格を決定するメカニズムが揺らいできている。デジタル情報の再生産に要するコストはほぼゼロであるから、「希少性」は機能しない。これは他律的価格決定機構が破綻を来たしているということに他ならないが、こうした状況のなかでひとり著作権が、価格の他律的決定という信憑を維持しようと奮闘している。だが、破綻した事実は覆い隠しようがない。

著作権というものは、オリジネイターへの向けて為される返礼の受け取り窓口である。贈与には返礼する必要がある。だから、著作権は撤廃してはならない。著作権が撤廃されるとオリジネイターが知的パフォーマンスを行なう動機付けが減退する。それは社会全体の知的水準低下につながる。現在の危機的状況で、それは許容できない。

が同時に、(読者にとっては)他律的な著作権は、社会の知的水準向上を阻んでもいる。社会の知的水準はオリジネイターのみによって為されるわけではない。より重要なのはオリジネイターの贈与を受け止める多数の読者の方であろうし、端的にいうならば、オリジネイターと読者の間で為される贈与と返礼の「経済」である。内田氏の理論が正しいならば、この「経済」が活発であればあるほど、その社会の知的水準は高くなると予測できるはずだ。他律的な著作権は、読者の数の上でも質の上でも、この「経済」の発展を促進するものになっているとは到底いえない。

知的水準に関わる「経済」の源泉は、読者の自発的な「ありがとう」である。「ありがとう」の発語は価値の生成に他ならないけれども、価値だけではシステムは成り立たない。「価値=価格」でなければならない。すなわち、読者が自発的に価格を決定できるシステムでなければならない。そういったシステムが実現できれば、それは「贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステム」になるだろう。

それは可能なはずだ。電子書籍を実現させたテクノロジーをもってすれば。実際、グーグルは実現させている。ただしグーグルの方法は、価格は他律的に決定されるという信憑からは逃れられていないし、読者は自腹を切るわけではない。また、他にもネットの世界では、自発的な価値を表現する方法は開発されてはいる。しかし、価格にまでは至っていなっていないから、「経済」にまで発展しているとは言い難い。

単純に読者が情報の価格を決定するシステムにしてしまうと、大抵の読者は情報の価格を0か、甚だ低いものに設定するだろう。そうなると「価値=価格」とならず、経済は回らない。仕掛けは必要だ。それには「特区」を作ればよい。

たとえば、ひとりの読者がある雑誌を購入したとする。その読者は、ファンであるアイドルのグラビアを見るために雑誌を購入した。そういった行動はありだし、実際に多くの者がそのような購買行動をしているはずだ。新聞でも雑誌でも、複数掲載されている情報のすべてに価値を認める人はあまりいない。できることなら自らが価値があると判断した記事に雑誌を購入した価格を支払いたいものだが、そういった仕組みはこれまではなかった。紙媒体の書籍では技術的に不可能だったからである。が、電子書籍を実現した技術をもってすれば可能なはずだ。

「特区」は、この雑誌と思えばいい。というより、Webそのものを雑誌と捉えることが可能だ。Webの中に「特区」を設定して読者は入場料を支払う。読者は入場料を価値を認めた情報に分配するという形で価格決定を行なう(詳細は過去記事を参照)。問題になるのは入場料の設定だが、これは市場によって解決されるだろう。

この方法の特長はなんといっても、読者がシステムから自発的かつ具体的な価値/価格決定を要請されるという点にある。本書によるならば、他者からの要請を引き受ける者は知的パフォーマンスを向上させる。知的能力の向上は贈与から価値を発見する能力を伸ばし、それが価格と直結し贈与者への返礼となるならば「経済」も活性化する。このシステムのなかでは「価値→価格」の機序は、アクロバットを演じなくても維持できるはずだ。

著作権も維持される。オリジネイターは価格決定権を読者に譲り渡さなければならないが、その代わりに、読者が著作権を保護してくれることになるだろう。オリジネイターは権力機構に頼る必要がなくなる。

ただ、ひとつ大きな欠点はある。それは、経済規模が拡大しないという点だ。だが、これからの時代、経済規模を拡大させることはそれほど重要なことだろうか? その答えは知的パフォーマンスを向上させれば出てくることだろう。

ガンディーの「ナイー・タリム」と「スワデーシー」

モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。インド独立の父。通称、マハトマ・ガンディー。マハトマとは「偉大なる魂」という意味。

ガンディーが主張したのはスワラージ(自治)の考えであったが、それは彼にとっては、たんに植民地支配からの解放だけではなく、インド人が自立と自尊心を獲得することをも意味した。「ナイー・タリム」とは、そのガンディーが提案した「新しい教育」である。

 その原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、そもそも子供のためのシラバス(学習計画)自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだとしたところだ。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。


私の言葉でいうと、〈学〉より先に〈術〉を、ということになる。

ガンディーは人々が「個」を確立することを求めた。「個」の確立を妨げる社会制度に身を挺して反対した。それはインド独立であり、カースト外に置かれ迫害されていた不可触民(ハリジャン)たちの解放だった。同時にガンディーは「個」を確立する方法を模索した。それが「ナイー・タリム」であり「スワデーシー」だった。

「スワデーシー」は宗主国イギリスに対抗するインド産品愛用運動だとされているが、そんな程度のものではない。機械の拒否。分業の拒否。

 ここでガンディーは「糸紡ぎ」を選んだのだ。極端にいえば、ただひとつ、「糸紡ぎ」だけを奨励したのだ。まことに驚くべき選択である。それをもってスワデーシーの原理としたのだ。
 なるほど、ガンディーの言い分では、糸紡ぎは「最も簡単で、最も安く、最も良い」し、しかも「最小の支出と組織的努力で、最大多数の村人たちに収入をもたらす」という利点があるというのだが、仮にそうだとしても、これには当然ながらいくつもの反論がありえた。
 たとえば糸紡ぎで得る収入よりもすでに高い収入のある者には、こんな方針はとうてい肯んじられないし、糸紡ぎで作るものと見かけも肌触りもそれほど変わらないものが、もっと大量にもっと容易に(ときにうんと安価に)、もっとスピーディに製造できる欧米の機械技術もあった。実際にも糸紡ぎ政策の提案には、こうした反論や無視がいくつもおこった。
 それにもかかわらずガンディーの方針は、これらの反論や不満を押しのけてでも「手製による糸紡ぎで織られたカッダル」を作り、村人たちが手にし、着用するのがいいとしたわけである。当時はそのカッダルの市場すら準備できていなかったのに。

 どんな経済学でも分業を軽視したりすることはない。分業はアダム・スミスから一貫して経済学の大前提になってきた経済の王道なのである。分業を前提にしない生産システムや流通システムなどありえないと言っていいほどだ。産業とは何かといえば、それは分業だと言ってもいいほどなのだ。でもガンディーは「自分のパンを自分で作れ」と言ったのである。これはあきらかに分業の拒否ではないか。
 このガンディー批判は当たっていなくもない。そもそもガンディーが「機械の使用」に反対していたこと自体が分業拒否だった。
 こうしたガンディーの頑迷固陋については、ガンディーにインタヴューしたチャールズ・チャップリンをさえ当惑させた。チャップリンは自由を求めるガンディーには共感も尊敬もするが、その機械に対する嫌悪にはさすがに辟易としたと感想を述べた。あのテーラー・システムによるベルトコンベア式労働を揶揄したチャップリンを当惑させたのだから、そうとうなものだ。


が、ガンディーはすべての機械に反対したわけではない。シンガーミシンの有益性を認めたりもした。

ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。うーん、すばらしい。


ガンディーが示したこの「線引き」は、もっと大きな枠組みにも有効だと私は思う。〈学〉である。市場だって宗教だって。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」。 そのように思考の枠組みを広げてみると、リバタリアンとコミュニタリアンの対立やなども視野に入ってくるような気がする。とはいえ、これらは〈学〉の範疇内だ。少なくともそう捉えられている。が、ガンディーはその枠では捉えられそうにない。その意味で、ニーチェと同格、もしかしたらそれ以上かもしれない。ニーチェの「アンチ・クリスト」は明らかに〈学〉の枠組みを超えてはいるが、〈学〉に替わるものを示すことは出来なかった。だから観念的な「超人」といったようなものを想定することしかできなかった。対してガンディーは、具体的な経済のなかで〈学〉に対抗する「個」の在り方を指し示した。〈術〉の思想である。

(〈学〉と〈術〉という対立軸から、ガンディーとアーベンドカルの対立も読み解けるかもしれない。が、まだまだそこまで手が届かない...)

しかし、ガンディーの思想はインドでも理解されなった。現在、インドは世界のなかでもっとも経済成長著しい国へと「発展」した。インドも〈学〉の国になったということだ。いや、違う。インドだってもともとは〈学〉の国だった。それがもっと強大な〈学〉の国、大英帝国に支配されていたということだ。ガンディーは、イギリスの支配の支配から脱却するのに〈術〉を軸にしようとした。「ナイー・タリム」「スワデーシー」はその方法論だった。だが、それらは受け入れられず、独立後のインドは〈学〉の国へと戻った。

私は『ガンディーの経済学』を読み進めながら、ところどころ奇妙な既視感に捕らわれることがあった。英国-インドの支配従属関係と米国-日本の関係が重なり合うように思えたからだ。教育に関する部分を抜き出してみると、

(英統治下の)インドの教育は、知性を発達させたり、経済的進歩を達成したりするためにではなく、ただ、イギリスによる統治の安定性を維持するためだけに構想されたのである。
 マコーリー卿は、一八三五年二月二日の教育についての有名な覚書の中で、インドにおける教育政策を規定する基本原則を定めた。

我々は目下のところ、我々と我々か統治する数百万の人々の間に立つ通訳者となる階級を育成することに全力を尽くさねばならない。――それは、血と肌の色はインド人であるが、嗜好、意見、道徳や知性においてはイギリス人てあるような人々の階級である。

 この階級の人間が、ゆくゆくはイギリス人の習慣と価値を身につけるようになるためには、イギリス人の考え方と英語に慣れる必要があった。政府が関心をもつべきは、彼らに「イギリス式」教育を与えることだけであった。初等教育を大衆の間に普及させる仕事は、イギリス式教育を受けた「通訳者」に安全に託すことができたのである


アメリカ式教育を修了した「通訳者」。今の日本には履いて棄てるほどいるし、未だ年ごとに生産されてもいる。とはいえ、これらの者たちは、「アメリカの精神」まで修得することはまず、ない。それは当たり前で、日本と米国とでは「国の成り立ち」があまりに違いすぎる。修了し修得した〈学〉と歴史的な積み重ねのなかで醸成されてきた文化とのミスマッチが、日本人の「個(強い絆)」を喪失させる。哀しいことに、頑張って勉強してきた秀才ほどその傾向が強い。頑張ってしかも社会的な評価を受けているがゆえに、棄てられない。だから「個」が取り戻せない。「個」がないから不安で〈システム〉への依存を強めることになってしまう。

日本人が取り戻すべきは「個」であり〈強い絆〉だというのは何度も述べたとおりだが、ガンディーの思想は、今の日本人が必要としているものを提示しているのかもしれない。

『花鳥風月の科学』を読んでみた

ここのところ私は、〈あの世〉〈この世〉という術語を連発しているが、実はこれらは松岡氏のものを拝借して改変したものである。松岡氏は「あちら(thera)」「こちら(here)」という言い方をしていて、それはいくつもの著作に見られるが、この『花鳥風月の科学』にも登場する。

 何でもいいのですが、たとえば「リンゴ」というイメージがあります。このリンゴには、すでにいろいろのイメージが付与されている。万有引力の象徴としてのニュートンのリンゴもあれば、ウィリアム・テルのリンゴもある。並木路子の「赤いリンゴに唇寄せて」という戦後に大ヒットした歌、美空ひばりの「リンゴの花びらが風に散ったよな」という歌、あるいはビートルズがつくったアップル・レコードもマッキントッシュをつくったアップル・コンピュータも、みんなリンゴのイメージをつかっている。ニューヨークはビッグ.アップルという愛称をもっているし、むろん紅玉リンゴとか国光リンゴといった果実の種類としてのリンゴもある。誰もがリンゴからはいろいろなモノやコトを思い浮かべます。
 けれども、そのように「リンゴ」が象徴的な使われ方をされるのには、それなりの理由や歴史があるはずなのです。たとえばヨーロッパ人にとっては、リンゴのイメージにはエデンの園のリンゴのイメージが控えます。知識の実としてのリンゴです。ヘビにそそのかされたアダムとイブはこの知識の実を食べて原罪をもつことになったとされている。しかし、そのエデンの園のリンゴにはもっと古いイメージの起源があったのです。古ヨーロッパやケルトの伝承を調べてみると、そこには西方楽園という原型的なイメージがあり、その楽園で魔法のリンゴを栽培しているという話がいっぱいのこっている。ケルトの西方楽園はアヴァロンというもので、そこでは死者たちの女王モーガンが君臨しています。古代ギリシアでは母神ヘラがリンゴ園の持ち主で、そこにヘラの召し使いであるヘビがいた。こういう話がどこかでユダヤ=キリスト教によってエデンの園のリンゴに集約されてしまったのです。そして分母の原型が忘れられ、知恵の実としてのリンゴが肥大化していったわけでした。
 リンゴにはまた別のイメージの分母もあります。それはリンゴが果実であり植物であって、そもそもは生物でもあるということです。どんなイメージにもこのような自然とのつながりや個性性を越えた普遍性の背景をもっているのです。
 私は、本書の中で、リンゴのイメージの起源と分散を追いかけるような気持で、日本の花鳥風月のイメージの変遷を問題にしたいと考えているのです。


情報はひとりではいられない。必ず別の情報へと繋がっていく。 here/there という区分けは、情報の行く末を追いかけていった結果として導き出されたのだろう。

情報はひとりではいられないということは、情報はメディアに乗っかってやってくるということでもある。「リンゴ」は情報であると同時にメディアでもある。「リンゴ」から様々にイメージ(情報)が広がるという事実は、「リンゴ」がメディアであるということを示している。

 そこで、花鳥風月的な気持の問題と、日本の社会的なしくみの変遷を同時に眺めるという新しい視点が必要になるのです。それには、花鳥風月をたとえば神・仏・花・鳥・草・木・虫・魚・雪・月・風・水などのコードの組み合わせによってモードをつくりだすシステムの一種だとみなすことが必要です。すなわち、花鳥風月はその背後にいくつものコードを忍ばせたモードによって、日本人が表現世界を維持していくためのシステムだったのです。私が本書で採用した視点はほぼこの視点です。もっと大胆にいうのなら、花鳥風月は日本人が古来から開発してきたマルチメディア・システムだったということです。


花鳥風月は日本の〈術者〉が古来から開発してきたメディアだった。それを「マルチメディア・システム」として捉える視線は〈学者〉のものだ。〈術者〉達が用いた情報アプローチ法を集めて「地図」を作ろうとする試み。本書が「科学」を名乗る所以でもある。

松岡氏が描いた「地図」の詳細は本書を見ていただくとして、問題は「地図」を眺めた後どうするか、である。ただ「地図」を眺めるという楽しみもある。が、「地図」を眺めたならやはり旅をしてみたい。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。
 もっともこのようなかたちでの個の形成は、精神世界だけでおこなわれるとはかぎらない。技を極めるというようなかたちでも、個は形成される。かつての人々は自分の技を深め、高めることに熱心だったが、それもまた日本的な個の形成のかたちだったのである。自分ならではの世界を極めるのが個の確立である以上、精神世界を極めることも、技を極めることも「個の確立」なのである。


『源氏物語』も『日本霊異記』も『枕草子』も『土佐日記』も、『花鳥風月の科学』の「地図」のなかに描き込まれている。これら日本古典文学の中には明確に「個」がある。私の言葉でいうならば〈術者〉として確立した日本的な「個」だ。ここからさらに内山氏は、「(現実的な)技をきわめるというようなかたちでも、個は形成される」という。こちらも、まぎれもなく〈術者〉である。

欧米人たちは、〈社会〉の中の水平的な人間関係のなかで個を確立する。そして〈学〉は〈社会〉のなかで構築されるものである。欧米社会が知識社会になりうるのは、欧米人の水平的自己確立法と〈あの世〉へと繋がる〈学〉が社会的なものだという構造によるものだ。ただし〈学〉はその性質上、万人に平等にはならない。〈学〉へのアプローチは個々人の持つ人間関係資本の厚さと個人の学問的才能に制限される。そこから必然的に生まれるのは階層社会である。

対して日本的垂直的自己確立法では、〈術〉によって極めて個人的に〈あの世〉へと繋がる。究極的には〈社会〉は関係ない。だから、知識社会になどなりようがない。そのかわり平等な社会が出来る。〈術〉のアプローチ法は人間関係資本に左右されず、しかも〈術〉の多様性に比例してアプローチの在り方も多様になる。さらに言うならば、〈術者〉は人間だけとは限らない。他の動物だって植物だって石ころにだって為しえる〈術〉はあるのだ、というところにまで広がりえる。このような世界観を「地図」にまとめるなど不可能だし、であるがゆえに日本は至る所に「神(〈あの世〉への入り口)」が転がる八百万の神の世界になった。

しかし、現在の日本人が強いられているのは欧米的な水平的自己確立法である。他者と異なる個性で自己を確立せよと迫られるが、そうして確立した自己は〈あの世〉とは繋がらない。だから〈社会〉に適応して優位に自己を確立した者ほど、自己中心的な人間になってしまう。〈学〉のもたらす階層社会が下層の者たちを搾取する社会へと容易に転換する。現在の日本の社会の姿だ。

〈学〉と〈術〉

他人に、その人にとって未知の目的地への到達方法を教えるには、2つの方法がある。 ひとつは、地図を提示する方法。現在地と目的地の場所を地図上で示し、目的地へ至る経路を解説する。 もうひとつが道順を教える方法だ。どれだけ行ったら右、目印を見つけたら左、というやり方。 〈学〉は地図法、〈術〉は道順法に相当すると考えてよい。

〈学〉も〈術〉も、どちらも絶対的な真理へ至るための方法論である。〈あの世〉と繋がる〈強い絆〉を取り結ぶための方法論。

内田樹氏が次のように言っている。

 なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的には決定される。


この文章は「マスメディアの嘘と演技」という一節の中のものであるから、メディア=ジャーナリズム、すなわち〈この世〉の現象と解するのがいいだろう。だが、内田氏のこの文章は、メディアを〈あの世〉からの情報も含めたあらゆる情報伝達媒体と解しても十分意味が通る。そう考えれば、「世界」とは、人間の関わる〈社会〉のことではなく、〈この世〉と〈あの世〉を含んだ〈世界〉だと捉えることもできる。〈世界〉がどのように成り立っているかを絶対的に把握したいと欲するならば、〈あの世〉へのアクセスは欠かせない。〈学〉も〈術〉も、「価値ある情報」へのアクセス手段である。

〈学〉と〈術〉の、どちらが優れているかという問いを立てることはできるだろうが、その問いに答えることには意味があるようには思えない。ただ、世界の趨勢としては、現在は前者が優勢なのは間違いない。それは〈学〉が西洋文明の方法だからだが、といって〈学〉が西洋文明の専売特許というわけでもない。イスラームもインドも中国も伝統的に〈学〉を重視する。対して日本文明は〈術〉が主流だと言ってよいと思う。

世界の先進国であるということになっている日本でも、もちろん〈学〉は盛んではある。〈学〉が繁栄度が文明国であるかどうかの規準でもあり、日本は一応、その規準をクリアしていると見なされてはいる。しかし、日本は〈学〉を〈強い絆〉とする伝統を取り入れるところへまで至っているとは言えそうにない。

日本は他の文明国から見ると、非常に不可解な国であるとはよく言われることだ。表向き高度な文明が発達しているにも関わらず、文明国らしからぬ振る舞いをする。それはフクシマの原発事故への国としての対応を見れば明らかで、原発を実現できるだけの技術力があるにも関わらず、原発の危険性を直視することができない。自身の問題として捉えることができない。学者ですらそうなのだ。

これは〈術〉を棄て、〈学〉に走った日本の悲劇である。他文明のような〈学〉の伝統を取り入れられたならいいが、それができないまま〈術〉を棄ててしまった。現在の日本の民は、根無し草だ。たとえ人間がひ弱な葦でしかないにしても、その根はしっかり大地に根付いているものだ。現在、多くの日本人はひ弱な葦ですらないのかもしれない。

 かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、おおくの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく滞在した。「ところが」、という伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、けっして動物にだまされることはなかった」
 いまなら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議なはなしとしてその後も語り継がれた。
 同じ場所にいても同じ現象は起こらなかったのである。おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うから、なのであろう。・・・


〈世界〉が違えば、同一の客観的事象から異なる精神現象が起こる。〈あの世〉へ繋がるアプローチする方法として〈学〉が採用されるか〈術〉になるのかは、それぞれの〈世界〉の在りように拠るのではないだろうか。

日本人の〈世界〉は、〈あの世〉と〈この世〉の境界線がはっきりしていない。混在してしてしまっている。同じ〈世界〉のなかで次元の異なる空間が混ざり合ってしまっていては、〈世界〉の地図など作ることができるはずもない。そういった〈世界〉にアプローチして「意味ある情報」を取り出してくるための方法論は、どうしても〈術〉ということになってしまう。地図のない〈世界〉では、どうしても道順法に拠るしかない。

〈あの世〉と〈この世〉とが明瞭に区分できない〈世界〉観は、日本人の宗教観にも反映されている。日本人は決して無信仰ではない。しかし無宗教ではあるかもしれない。宗教が教義と信仰で成り立つのだとすると、地図に相当する教義を作成できない〈世界〉に棲む日本人が無宗教になるのは当然のことだ。「トイレの神さま」は素直に受け入れる一方で、イエスを神に、ムハンマドを預言者に定義する教義は受け付けないのが一般的な日本人の宗教的態度である。

内山節氏から聞いた話では、1965年あたりを境に日本人は急速にキツネにだまされることがなくなっていったという。私は2005年頃に和歌山で、近所の人がキツネにだまされたという「事件」に遭遇しているが、それは確かに「事件」だった。周りの老人たちはみな“いまどき珍しい”と言ったものだった。キツネにだまされるという現象が日本人の混淆〈世界〉ゆえであるとするならば、それがなくなったということは〈世界〉が変容していったのだと考えてよいだろう。日本人の〈世界〉から〈あの世〉は急速に消滅していき、「価値ある情報」にアクセスするための〈術〉も用いられることがなくなっていった。

フクシマの事故でも明らかになったことだが、現在の日本人は「安心」を求める傾向が甚だ強い。「安心」を追い求め、不安な情報からは耳を塞ぎ、不安情報を発信する者を非難する。思うに、こうした傾向が生じるのは「価値ある情報」にアクセスすることをしなくなったためだ。〈世界〉の成り立ちを知らず〈社会〉の中だけで生きている者は、〈社会〉に強く依存する。〈社会〉が大きく動揺してしまったときには、為す術がなくなる。現在の日本国の権力者は〈社会〉の動揺につけ込んでさらなる搾取を謀ろうとするクズどもが大半だが、彼らがそのように行動するのも不安ゆえにであろう。市民はそれに気がつきつつも、行動を起こせないでいるのも不安ゆえに。不安の乗り越えて進むことができなくなってしまっている。

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