偏差値競争の弊害
【佐藤優の眼光紙背】石川知裕衆議院議員に対する第一審有罪判決について
の文章が的確だと思ったので、引用させていただくことにする。
今回の判決は、検察の完全な勝利だ。筆者は、この裁判を「誰が日本国家を支配するか」という問題を巡る政治エリート内部の権力闘争と見ている。もっともこの権力闘争に加わっている個々のプレイヤーは自らが果たしている社会的、歴史的役割を自覚していない。検察庁は「国家は資格試験で合格した偏差値エリートが支配するべきである」と考える官僚階級の集合的無意識を体現している。これに対して、「小沢一郎」という記号が、民意によって代表された政治家を代表している。ここで、実際に小沢一郎氏が民意を体現しているかどうかは重要でない。官僚から見れば、国民は無知蒙昧な有象無象だ。この有象無象から選ばれた国会議員は無知蒙昧のエキスのようなものだ。資本主義社会において、カネと権力は代替可能な関係にある。カネの力で無知蒙昧な有象無象の支持を取り付け、国家を支配しようとする「小沢一郎的なるもの」を排除しないと、日本が崩壊するという官僚階級の危機意識から、この権力闘争は始まった。
つまり、小沢一郎は実在の人物だが、〈小沢一郎〉は虚構なのである。それは主にネットを棲み処とする「民意」という名の虚構。
ネットの住民といっても中身はさまざまだ。だが、〈小沢一郎〉を構成する「民意」は有象無象ではあっても無知蒙昧ではない。だからこそ「資格試験で合格した偏差値エリート」たちは敵意を向ける。彼らが日本を支配するのに「国民が無知蒙昧」であるということが必須の条件だからだ。国民が“偏差値が高いからって威張るなよ”と言い出さないくらいに無知蒙昧でなければならない。そして〈小沢一郎〉とは、それを言い出した者たちなのである。
この〈闘争〉の行方を握るのが「無知蒙昧な有象無象」であることはいうまでもないが、問題はどのような形で彼らが判断をするかだ。どちらかに賛成するか? あるいはどちらかを拒否するか?
“偏差値が高いからって威張るなよ”という〈小沢一郎〉は自身に賛同が得られると思っている。確かにどう見ても偏差値エリートたちは威張りすぎだ。それは有象無象も徐々に気がつきつつあるようだ。だが、彼らの意思表示は賛同という形で現れることは少ない。たいていは拒否である。つまり「偏差値エリート、ウザイ」もしくは「威張るなよという奴ら、ウザイ」という形になって現れる。ネット上にも「威張るなよという奴ら、ウザイ」という輩は少なからず存在する。
現状、「無知蒙昧な有象無象」の多くは“偏差値エリート、威張るなよ”と声を挙げている〈小沢一郎〉の存在を知らない。偏差値エリートとそれに追随する連中が隠蔽している彼らに都合の良い【小沢一郎】を作り上げているからである。そして〈小沢一郎〉は、【小沢一郎】ではなく〈小沢一郎〉が広く知られさえすれば、国民は「偏差値エリート、ウザイ」と声をあげるに違いないと期待している。
だが、そうだろうか? 私は逆に「威張るなよという奴ら、ウザイ」という声もかなり大きなものになるだろうと思っている。
私がそう見る理由は、「無知蒙昧な有象無象」の多くは偏差値競争から無意識のうちに降りたと見るからだ。、そうした者たちにすれば「偏差値エリート、威張るなよ」に賛同せよとの要請は「再び偏差値競争に参入せよ」に聞えるだろう。無意識にせよ自ら降りた者にとって、そうした要請が「ウザイ」のは自然なことであろう。
「無知蒙昧な有象無象」は〈闘争〉から降りたということに、無意識のうちに負い目を感じてしまっている。これこそが、偏差値競争という〈闘争〉がもたらす最大の弊害だ。「無知蒙昧」は本質的に無知蒙昧なわけではない。彼らを無知蒙昧たらしめているのは、この「負い目」なのである。〈小沢一郎〉はその「負い目」を刺激してしまう。
このまま偏差値エリートと〈小沢一郎〉の〈闘争〉が続けば、日本国民はますます「負い目」を深くし、中国人のようになってしまうだろうと私は懸念する。日本人の心性が失われてしまう。
では、どうすればよいか。〈闘争〉から降りたことは正しい選択だったというメッセージを発することである。同時に〈闘争〉ではないプラットフォームを示すことだ。それはそんなに難しいことではない。なぜならそれは、つい最近まで日本人が送っていた暮らし方なのだから。そのメッセージが届けば、「無知蒙昧」は自ら無知蒙昧の殻を破ることになる。
社会には、単独で内発的に無知蒙昧の殻を破ることができる者も存在する。それは「学びへの痛切な理由」を持ち合わせているものである。そのような者は、何が「無知蒙昧」を無知蒙昧たらしめているかを見出すことが使命だと私は考えているのだが。
社会は虚構でまわる
私には詳細はよくわからない。が、報道を見る限りではわけがわからない。わけがわかないゆえに、不当判決というのがおそらくは「正しい」と私は思う。
だが、社会的に正しいのはいうまでもなく、不当な判決の方だ。社会の秩序にとって重要なのは判決が不当かどうかではなく、「判決は正しい」という信憑=虚構なのである。それが真実であるかどうかは関係がない。みんなが信じておりさえすればよい。
判決を下した裁判官は、自らが不当な判決を下したと意識しているだろうか。情報によると、検察の主張以上の事実認定をしたということだから、それが正しいのなら意識していないはずはないだろう。裁判官は事実を捏造したのである。なぜ彼にそんなことが出来てしまうのかといえば、彼の地位が虚構を創造することができるものだったから。その点、“無”から貨幣を創造できてしまう銀行と同じ。その創造物に信憑さえあれば、それが真実かどうかとは無関係に社会は回る。社会とはそのようなものでしかない。
エリートと呼ばれる者たちの役割は、そのようなものでしかない社会に真実を持ち込むよう努力することである。高度な教育を修めるのは、そのための手段でしかない。
だが、往々にして手段は目的化する。複雑な現代社会は高度な教育そのものに信憑を与える。信憑を与えるということは真実の追究を放棄し「誰か」に託すということだ。託された者は虚構を創造する力を持つことになる。
部族と呼ばれる程度の小さな社会では、「誰か」に信憑を託す必要はない。小さな社会では誰もが真実にアクセスすることが出来るという信憑が存在している。ゆえに、ルールは誰もが確認できる真実である。ただしそれはその社会でしか通用しない「小さな真実」であるが。
ハイエクは「小さな真実」を「部族感情」と呼んで否定した。確かに「小さな真実」では「大きな社会」はまわらない。しかし、「大きな真実」を人間は把握しきれない。そこには必ず信憑が混じり、虚構を創造する者が必要とされてくる。権力者である。そのことに気がついた権力者は必ず事実を都合の良いように創造する。
私たちが暮らしているのはそんな社会である。しかも、虚構の賞味期限が切れつつあり、虚構が歪みになってしまっているそんな社会だ。虚構はいつまでも信憑ではいられない。
そんな私たちに必要なのは何かを考える必要がある。新たな虚構がいいというのなら、支配者達は新しい虚構を用意してくれるだろうし、認知コスト的には楽な選択だ。ただし何らかの代償は要求される。真実がよいというのなら、それはそれで大きな認知コストを支払うという代償が要求される。どちらも嫌だというのなら、文明の成果を放棄して「小さな真実」に戻るしかない。
いずれを選択するかは難しい。だが目安はあると思う。それは虚構は人間は人を傲慢にし、真実は謙虚にするという法則である。
貨幣ネットワークの民主化
【妄想】孫正義の野望・ロスチャイルドの支配【陰謀説】
で、提示した話の決着をつけておくことにしよう。
私たちが暮らす人類社会が何者かによって支配されいるのかどうかは、不明である。しかしながら私たちの社会には、市場と呼ばれる需給調整および資源分配ネットワーク機能が備わっているのは事実。また、その市場の機軸は無から創造された貨幣であり、にも関わらず私たちは市場というネットワークに金利という使用料を「誰か」に対して支払っているのも事実である。
前編では、市場というネットワークと比較のために、商品は単一だが需給調整機能を備えたスマートグリッドという送電設備を取り上げた。設備ならばそれを建設した「誰か」は確定できるし、その「誰か」に使用料を支払うこともまた納得がいく。ならば、私たちが市場に使用料を支払うことへの合理性を見出そうとするならば、「誰か」を確定しなければならないことになる。
では、その「誰か」を確定することはできるのか。
答えは、そのような「誰か」は存在しない。言い換えれば、市場ネットワークに参入する誰もがその「誰か」なのである。というのも、貨幣とは、経済活動という非平衡開放系のなかに出現する散逸構造だからだ(『経済学の船出』p.17~23)。すなわち貨幣や市場とは、人間が経済という営みを行なえば自然に生成されるものであり、「誰か」が発明したり創造したりするような性質ものではないということだ。ゆえに、私たちが金利というネットワーク使用料を支払わなければならない合理的な理由もまた、存在しない。
しかし、信用創造が行なわれ金利が徴収されるという現在の不合理なネットワークシステムにもメリットはある。それは、貨幣そのものに流動性が備わるという点だ。自然は非平衡開放系であるがゆえに、どのような経済にもかならず流動性はある。人間は生産し消費しなければならないが、この生産→消費がそもそも流動だ。貨幣の自生により社会分業が行なわれるようになると、流動性はさらに増す。この流動性は金利とは無関係である。
貨幣に金利が発生すれば貨幣自体が流動するようになると、それに伴ってモノの流動性も増す。信用創造が行なわれれば、流動性はさらに増大する。私たちが暮らす現代社会はそのようにして拡大してきた流動性の究めて高い社会であり、私たちはその恩恵を大いに享受しているのである。科学技術の進展・繰り広げられきたイノベーションも、高い流動性の要請 に従って実現されてきたといってもいい。
が、その結果は良いことばかりではない。環境破壊、「誰か」による支配(格差社会)、そして金融危機である。これらは有限の世界で無限の増殖が行なわれてきた、当然の帰結である。現代社会の高い流動性は、無限増殖によってもたらされた副作用でしかないのである。
では高い流動性を維持しつつ、無限増殖を抑える方法はあるのか。
ある。原理的には簡単な話だ。貨幣ネットワークを民主化すればよいだけのことである。
貨幣ネットワークは「私たち」が作り上げたものである。ゆえに、誰からも使用料を取らず、信用創造もおこなわないという方法は当然選択できるし、一見民主的であるように見える。無限増殖も抑えられる。しかし、このネットワークは流動性が低くなるのみならず、民主主義社会に必要な再分配機能がない。そのためこれらを実現しようとすると、貨幣ネットワークの外側に強制的にこれらを実現する権力機構を整備しなければならない。
この方法は悪くはない。しかし、良くもない。社会が民主的になるか否かは、外部権力機構に依存する。ゆえに、貨幣ネットワークそのものが民主的とはいえない。
貨幣ネットワークそのものを民主的にするには、ネットワーク使用料を徴収することが必要である。つまり、金利をとるのである。ただし、マイナスの金利である。
マイナスであれ、金利が生じると貨幣そのものに流動性が生じる。そしてマイナス金利ということは、放っておくとネットワークの貨幣の総量が減少するわけだから、貨幣を補充する必要が生じてくる。この必要性に応じて貨幣は創造されるが、その際、その補充はネットワーク参加者に平等に分配すればよい。これで貨幣ネットワークの民主化は実現できる。
マイナス金利は、ネットワーク使用量に応じて料金が徴収されるということ。そしてその使用量は、貨幣の補充という形でネットワーク所有者すなわち「私たち」に平等に支払われる。これはベーシックインカムという名の再配分になる。減価する貨幣+ベーシックインカムである。
このような貨幣ネットワークの民主化の民主化は、単に物質的な経済の話に留まるものではない。これは必然的に【良心】の民主化にも繋がっていく。資本は良心が固定化された【良心】であり、それが減価するようになると【良心】も減価し良心へと回帰していくことになる。
そのあたりは次回以降に譲るとして、ここでは再び陰謀説に戻ってみたい。もし陰謀を企てている者たちがいたとするなら、貨幣ネットワークが民主化されてしまうことは都合が悪い。が、無限増殖システムはもはや限界に達している。戦争もそれを解決するひとつの方法だが、ネットワークの入れ替えという方法もある。それはどのような形になるのか。宗純さんのところへ私が投稿したコメントを、ここにも掲示してみることにする。
『欧州銀行のリスク・エクスポージャーが3000億ユーロ』(逝きし世の面影)
通貨戦争もいよいよ最終局面か (愚樵)
破天荒な数字がゾロゾロと並んでいますが、我々の感覚からはほど遠い「彼岸の世界」という感じですね。こんな世界は日々を良心的(庶民的あるいは小市民的)に生きている人間には理解不能です。良心を【良心】へ、さらには【悪心】にまで変換させなければ不可能。とはいえ、良心的な者からみれば「彼岸の世界」で起こっているようにみえることは紛れもなく社会現象ですから、同じ社会でくらいしている庶民・小市民も巻き込まれることは必至です。
もしかしたら原発で騒ぐ余裕すらなくなりかねない。
ドルvsユーロの通貨戦争も、そろそろ最終局面といった様相ですね。FRBはQE3を見送り、量的緩和でさらに儲けを企んでいた強欲共は、利益を確定させるための新興国から資金を引き揚げだした。一部は金・銀からも撤退しているようで、ゆえに一時的にドルが値上がりしているようですが、もしかしたらこの値上がりがドルの「終わり」なのかもしれません。もはやアメリカの実体はスッカラカンのですから。あるのは軍事力だけ...、おっと、その手はまだアメリカには残っていますね。その場合、鍵は財布となる日本ですかね。
(菅が止めたのは、オバマから米国債の棒引きを迫られたからという噂もありますね)。
ドルはもはや張り子のトラですが、一方の欧州ユーロも深傷を負っている。ギリシャがダメダメなのはずっと以前から分かっていたはずですが、それでもユーロに引き入れたのは、やはりヨーロッパ文明発祥の地だからでしょうか。「【平和】の祭典」(←【 】に留意のこと)だっていまだにアテネで聖火ですし。
ユーロの戦略としては、ドルを無力化することで「合衆国」を解体し(そう考えれば、EUのリビア進出も理解出来ます)、「合州国」へとしてしまうことでしょう。「合衆国」は対テロ戦争だのなんだのと、あまりに好き勝手をやり過ぎましたからね。ただ、その前に自身のユーロが崩壊しては目も当てられない。だから手当てに必死ですが、陰謀論を支持するブログを見回ってみると、こちらは何とかなるだろうという意見が多い。鍵はスイスフランでしょうか。スイスにどれだけ「実弾」が貯め込まれているか。通貨など所詮は紙切れですから、最後にものをいうのは「モノ」です。
日本は、橋本政権時代に企てたアジア版IMF構想をクリントンに潰されたのが今さらながらに悔やまれます。それだけの「実力」がなかったと言えばそれまでですが、もし、それが成っていたら、ドルvsユーロの戦争を高みの見物とまではいかないまでも、余裕をもって見ることが出来たでしょう。もしかしたら漁夫の利を占められたかもしれない。今、その位置にあるのは中国ということになりますかね。
このまま行くと、日本もドルの崩壊とお付合いさせられることになりそうです。危ないと囁かれているバンカメあたりが逝くと、3大メガバンクも同時に飛ぶ可能性もある。三○住○あたりは生き残るかもしれませんが。
「日本国」として出来る最終手段は政府通貨の発行ですが、これは禁じ手とされているようです。場末のブログ当たりで騒ぐ分には同ってことはないようですが、それなりに影響力のある人間が口にすると「闇」がやってくるようです。小沢一郎を陥れた連中と同族ですね。そしてその連中は、日本国の実質的な支配者でもある。
そうなると「日本人」に残された手は、自主的な通貨の発行ということになりますが、おカネはお上が作るモノというマインドコントロールに冒されているので、その可能性すら思い浮かびません。それを唱えても気が狂っていると思われるのが関の山。となると、後は個人で防衛策に走るしかないということになってしまいます。残念ながら。
このような状況では、都市は不利です。私も故あって現在は地方都市に居住していますが...、その選択をせざるを得なかったことが返す返すも残念。以前の場所で暮らしてれば、台風12号の攻撃をマトモに喰らっていたことにはなりましたが、それでも防御策のオプションはこちらよりも遥かにある。もしかしたら12号による被害は、防御策をさらに高める地域の連帯感を高めることにすらなったかもしれません。
懐かしい夢 (愚樵)
アメリカン・ドリームの「ドリーム」の意味するところは欲望です。そして人間の欲望とは他者の欲望なんですね。すなわちアメリカン・ドリームとは、他者の欲望を奪い取ること。〈闘争〉のプラットフォームです。
一般的なアメリカ人は、自身の価値観を至上のものと考える素朴な人たちです。アメリカン・スタンダードをグローバルと言い換えて何の疑いも持たない。自分たちの価値観は他人も受け入れるべきだと思っている。そうでなれば途端にクルセイダーになってしまう。プラットフォームというのは、その上に載っかっている間は気がつかないのですね。そして彼らのプラットフォームは、国家と同じだと言ってよい。
この点、日本人もあまり変りませんね。9条を掲げる護憲派ですら。
その点、欧州人はもっと複雑ではないでしょうか。
>そもそも国家とは無関係な『ユーロ』には根本的な矛盾が内包しているのです。
そうでしょうか。プラットフォーム=国家と捉えれば矛盾ですが、そうとは限りません。特に以前の東欧などは、国家と貨幣との関係は矛盾したものだった。自国の通貨への信用は低かった時代が長かったのですから。ユーロは、そうした矛盾を解決するための方策だったとも言える。
そもそもです。国家と通貨とが直接的に結びついているというのは、歴史的にみればごく最近の現象です。中国は歴史的に国家の力が強く例外的に国家通貨をずっと発行していましたが、欧州あたりでは、貨幣の信用の根源は貴金属だったのです。今でも合衆国憲法には金兌換通貨の発行が規定されているというのは、宗純さんが指摘されたことです。国家が金貨・銀貨を鋳造、あるいは兌換紙幣の発行は行ないましたが、しかし、これは国家が直接ではなく、間接的に関わっているに過ぎないのです。そのことは現在も基本的に変っていません。
国家と通貨との関係が直接的であるのなら、それは政府通貨でなければおかしい。でも、それは禁じ手です。通貨は中央銀行が発券するものでなければならない。そしてその中央銀行と国家とは、一般に信じられているように一体であるとは限らない。FRBもそうです。ECBもです。その意味で、ドルとユーロは同じ性質のもの。ただ違いは背景にある暴力組織です。欧州はEU。アメリカは合衆国。アメリカを合州国にするというのは、EUと同じ連合体にするということです。
つまり。もはや地域を統合するのでは暴力装置ではなく資本だということです。通貨最終戦争の意義はここにあります。国家VS資本なのです。ドルはアメリカ政府と直接関係のないFRBの発行でありながら、あまりにも強く合衆国と結びついてしまっている。暴力装置との関係が強すぎるのです。それは資本による直接統治には障害になる。ドル機軸体制および管理通貨体制は、仰るとおり国家への信認が背景なのですから。
となると、通貨最終戦争の結末は、国家依存からの脱却。すなわち金・銀本位制への復帰です。それがアメリカで為されるか、ヨーロッパで行なわれるか。すなわち「実弾」がどこにあるのか、ということです。ニューヨーク連銀の地下かノーフォークか、はたまたジュネーブか。またヨーロッパの富裕層が自身への増税を主張するという怪奇現象も、その流れで負えば意味も理解出来ようというものです。彼らにとってもっとも大切なのは資本(という信憑)であり、今、この時点でそれを崩壊させるわけにはいかないのです。
(この怪奇現象を良心的に解釈する向きも多いですが、あまりにもナイーブです。)
最終戦争に資本が勝利することになれば、そこからは新たな資本主義の幕開けです。国家は弱者のため、すなわち弱者を適当に生かすために存続することになるでしょう。そこにはもはやアメリカン・ドリームはありません。懐かしい夢もありません。不気味な夢があるだけです。
一筋縄で
アタマが良すぎて、なんでもかんでも「一般化」してしまうから。
(要するに【良心】)
人の心が一筋縄でいくときは、個別的なとき。
だから、人の心を一筋縄で表現しようとする言葉や歌もまた、個別的なもの。
といったようなことを今朝、ゆめさんにコメント返しをしながら思い浮かんできたのは、金子みすずの「みんなちがって みんないい」だった。
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
それから、ルイ・アームストロングの『What a wonderful world』が出てきた。NHKの番宣で少し前によく流れていた、宇宙から見た地球の映像と一緒に。
(BSで放映されているらしい『ウェイクアップコール』での『What a wonderful world』の動画はみつからなかった。そのくらい気前よく提供しろよ、NHK!)
地球と宇宙とを、ルイ・アームストロングのだみ声が一筋縄に置いてしまう。おセンチなこの歌の何処にそんな力があるのかはよくわからない。
それから思い浮かんだのが、『天国への階段』。LED ZEPPELIN。
一筋縄という点では文句はないけど、最後はやっぱりけたたましい。私にはそこがやや難。
文句なしというならば、トドメはこれ。
いや、マリアさまと「一般化」されているところは、やっぱり難か。「バイアス」がかかってる。
が、音楽は文句なしに素晴らしい。
『困ってる人』
この本はベストセラーになっているようだし、ネットでにも掲載されているからご存知の方も多いと思う。私はビデオニュース・ドットコムで知って読んでみようと思っていたら、訪れた図書館で新着図書のコーナーに並んでいるのを発見。即、借り受けてきた。
で、就寝前に少しだけ読んでみようかと読み始めたら、これが面白くて止らず、結局最後まで読み通してしまった。文句なしにお勧めの本で、しかもほぼ万人向け。「ほぼ」というのは、読まない方がいいかもしれないと思われる層がないでもないからだが、そのあたりの理由は後述する。
著者である大野更紗さんは、不運なことに難病を患ってしまう。彼女はその難病とそれに伴う「困難」によって難民となり、難民の境遇から抜け出すための闘争を開始する。病気の性質ゆえ彼女は未だに闘争中のはずだが、この本は難病と「困難」への闘争へのプロローグだといってもいい。この本は、「困難」との闘争の部分が秀逸なのである。
この「困難」の原因になるのが【良心】。
【良心】とは「固定化され良心」だが、もう少し説明しておくと、
・人は自身の心の中に悪心が生じるのを嫌う。
・そのために、悪心が生じてしまう事象そのものにコミットメントするのを避けようとする。
・コミットメント回避のための口実として使われるのが、【良心】である。
この説明でもはわかりにくいかもしれないが、本書を読み進めてもらえば容易に理解出来ると思う。
体調不良の原因が判明せず、あちこちの病院を放浪するさなかでの医師達。
やっかいなものにはなるべく関わりたくない。が、そうは言えないので【良心】的に振る舞う。
当初は困り果てた彼女にとても良心的に接してくれる友人たち。彼女もそれに縋るようになる。
だが、やはり、次第に重荷になってゆく。そして【良心】的な言葉を更紗さんに告げることになる。
やっと巡り会えた彼女を受け入れてくれる病院。凄まじいばかりの闘病。きわめて良心的な素晴らしい医師達。
だが、そんな医師にさえも、【良心】は存在する。自活のための闘争を始めようとする彼女に、その【良心】が立ち塞がる。
そして極めつけは「困ってるひと」を救済するはずの行政。【良心】ですら形骸化しモンスターのゾンビかゾンビのモンスターか。
更紗さんは難病と闘いつつ、さらにこれらの「困難」とも闘い、ときに折り合う。「生きる」ために。
本書を読むと、「生きる」ということの意味が本当によくわかる。
このように羅列するとヒジョーに重たい感じに思われるかもしれないが、さにあらず。軽やかとも言える筆致で、快調に読み進めることが出来きてしまう。文面に「生きる」力が踊っているから。驚異的な、もの凄い生命力である。
更紗さんが「生きる」ことを決意する場面がある。その決意をもたらすのは、なんのことはない、恋である。
彼女は20代半ばの女性。恋が決意をもたらすのは、ごく普通になんのことはない。
だが、心身の状況はまったくもって、なんのことはなくはないのだ。
誰もがご存知だと思うが、恋は力を生み出すが、恋に踏み出すのにも力がいる。
彼女は、どん底の状態で恋に踏み出す。なんのことはない、まだどん底ではなかったというわけだが、この「なんのことにはない」には驚嘆させられてしまう。ふつうなら「なんのことはない」とはいかないだろう。
(もうひとつ言うと、彼女が決意する理由は命懸けの「なんのことはない」をふつうの「なんのことはない」とうけとられてしまったこと。これも【良心】のなせる業なのだが、詳しくは本書をどうぞ。)
先に触れた、読まない方がいいかもしれないと思われる層がある理由は、この驚異的な生命力である。
元気な人は、本書から更なる「生きる」力を受け取るだろう。
少々元気をなくしている人も、受け取ることが出来る。
だが、「生きる」力が萎えてしまっている人には逆効果になる可能性が高い。
そんな者を元気づけるために読ませたりしない方がいい。
更紗さんだって、自身がどん底のときに本書を読みたくはなかっただろうと思う。
それにしても、この驚異的な生命力はどこからくるのだろか。
子どもを産む性ということだろうか。
私は「ムーミン谷」出身というところも大きいと踏んでいるが。
【良心】ほど始末に負えないものはない
が、そうではない。それは、良心と悪心との間がキレイに線引きできると考えてしまうからだ。キレイに分離してしまって、良心は良い、悪心は悪いとしてしまう単純思考。人の心はそんなに単純ではない。人の心は良心と悪心とが入り交じっていて、そう簡単に分離することなど出来ない。
良心や悪心が立ち現れるのは、人が他者と関係性を取り結んだときである。
たとえば、目の前にたわわに実った果実があるとする。美味しそうだと手を伸ばし、実をもぎ取り、かじり付く。こうした行為自体に良いも悪いもない。自然な欲求に従うことは良くも悪くもない。
だが、ここに他者との関係性が介入してくると善悪が生じる。その果実は誰かが所有する果樹園に実ったものであった。そのように関係性を発見したとき、人はそこに良心や悪心を見出すことになる。
良心も悪心も、その時々の関係性によって立ち現れてくる分には問題もない。いや、社会生活のなかでは問題は生じるだろうが、個々人の心にとっては問題はない。だが、良心や悪心が固定化されてしまうと問題が生じる。私が始末に終えないというのは、固定化された良心のことだ。
(以下、固定化された良心、悪心を【良心】【悪心】と表記する。)
それでも、始末に負えないのは【悪心】だと考えるかもしれない。
確かに【悪心】は迷惑だ。しかし、大抵は始末には負えるのである。それは【悪心】が行為となって現れ、誰にでも把握できるから。個人で始末に負えなければ社会が始末をすればよい。社会には国家というものもあり、そこは合法的に暴力を振うことも出来る。【悪心」は排除することができるのである。
ところが【良心】はそうはいかない。だれもが良心は尊重しなければならないからだ。そうでなければ人間同士の関係性を維持できない。
なのになぜ【良心】は始末に終えないのか? それは誰にもあるはずの悪心を覆い隠してしまうからである。悪心を生じさせるような関係性を取り結ぶことを阻害してしまうからである。実際にそのような関係性が成立して他としても、そのことに気がつくのを妨げるからである。すなわち、【良心】は「認知コスト」を高騰させてしまうのである。
果実の例へ戻ろう。
果実を盗んだ者は、実はどうしようもなく腹を空かせていたとする。もしくは腹を空かせた子どもを抱えていたとする。
腹を空かせた子どもに食べ物を与えたいという心は、良心である。それは誰もが疑いはしない。しかし、それが【良心】となるとどうなるか。果実を盗むという悪心に気がつかなくなってしまうのである。
逆の例も考えることができる。
手塩にかけて育てた果実を盗難から守ろうという心は、疑いもなく良心だ。しかし、それが【良心】となるとどうか。空腹のあまり果実に手を伸ばしてしまった者を許すことができなくなる。
果実の例はわかりやすい。果実と人間の生命との優先順位は誰の目にも明らかだから。だが複雑な社会では、ものごとの順序をそう簡単に定めることはできない。そんな場では、悪心への気づきを阻む【良心】は極めて厄介なのである。
簡単に順序がつかない顕著な例は、最近ではいうまでもなく原発だ。推進派、反対派ともに拠り所は固定化された【良心】である。電力会社や官僚組織の権益も彼らにしてみればそれなりの理由があるのだ。その理由は、その関係性が生じた時点では間違いなく良心ではあったのだろう。それごく当たり前のことで、最初から他人を搾取することが目的でその職業を選ぶ者など、まずいはしない。その良心が固定化されて【良心】になっただけのことに過ぎない。
だが、その【良心】は他方からみればまごうかたなき悪心である。他人の権益を侵している事実が現に存在するにも関わらず、そこと関係性を取り結ぼうとしない姿勢は「悪」以外のなにものでもない。
とはいうものの、その「悪」は原理的に追求することができない。というのも、誰とどのような関係性を結ぶかはその者の自由であり、他人がそこへ介入することは不可能なのである。強制的な関係性接続は「洗脳」であり、それは人間性を剥奪することに他ならない。
では、このような事態にどのように対処すればよいのか。単純に考えれば答えは3つ存在する。
第一はイスラームのやり方である。人の自発的な良心も【良心】も認めないというやり方。全ては偉大なる神の御心のままに、であり、社会の優先順位はすべて宗教的に定められる。クルアーンやハディースといった良心の体系が厳として存在し、宗教者がその体系に従って優先順位を決定する。実に合理的なやり方である。
第二は欧米流の民主主義だ。これは良心も【良心】も認める。したがって、【良心】同士が〈闘争〉することを認めることになる。これは、キリスト教が政教分離を認めてしまったことから派生したものだ。
第三は、良心は認めるが【良心】は認めないというやり方。実はこれこそが古来の日本流。「和を以て貴しと為す」である。【良心】を認めないというのは、絶対神を認めず八百万の神になってしまうというところにも通じる。
上の三つを眺めても分かるとおり始末に負えない【良心】に対処する方法は、いずれも宗教的プラットフォームだ。他のやり方も存在するだろうが、どんなやり方であるにせよ、宗教的以外の方法であることには間違いない。
現代社会で主流なのは、第二の〈闘争〉型民主主義なのはいうまでもない。確かにこのやり方は優れている。というのも、経済はこのやり方で発展したからである。人類は自然に〈闘争〉を挑み、科学技術という武器を手に勝利を重ねてきた。結果、人類社会は物質的な繁栄を手にし、同時に資本が世界を席巻することを許してしまった。
この資本こそが最大の【良心】である。そして資本すなわち【良心】を許す社会では〈闘争〉も正当化されるという循環が生じてしまう。現在は政治も経済も現在は〈闘争〉の世界なのである。
分業化した貨幣経済社会のなかでは、貨幣を稼ぎたいという心は誰も糾弾することが出来ない紛れもない良心だ。だが、貨幣経済の一変種である資本主義経済では、良心は【良心】へと固定化されていかなければならない。そうでなければ〈闘争〉に敗北してしまうことになるからである。資本主義社会はその原理上、多数の敗者つまり弱者を生み出す。
弱者と関係を取り結ぼうとする人は良心を発動させ、弱者のために〈闘争〉を行なうと意図する。ところが〈闘争〉を継続しようとすると良心は【良心】とならざるを得ない。そしてその【良心】が、どれほど良心的な人であろうともかならず存在する悪心への気づきを阻む。最大の問題点は資本が【良心】であるということに気がつかなくなってしまう点だ。
〈闘争〉のプラットフォームでは、良心的な人も【良心】的に変化していかざるを得ない。結果、弱者を弱者たらしめている真因には目を背け、自身が【良心】的であるために弱者を利用するようになる。そのことへの自覚もなしに。醜悪である。
こうした事態から逃れる方法も単純に考えれば3つ。2つは個人的な方法。1つは社会的な方法だ。
個人的は方法の1つめは、【良心】へのサイクルを自覚すること。この自覚への道が「学び」である。
2つめは、サイクルを阻む「何者か」へ帰依すること。「何者か」とは、超越的な神や仏になる。
社会的な方法は〈闘争〉のプラットフォームを変革することだ。イスラーム流か日本流にしてしまうことである。だが、それを阻むのは、私たちが日々生きていく糧を入手する経済であるというジレンマだ。
私たちは、経済が破綻するまでこのジレンマから逃れることは出来ないのであろうか?
参考記事:『共同体社会の実現に向けて-2 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(上)』(日本を守るのに右も左もない)
【妄想】孫正義の野望・ロスチャイルドの支配【陰謀説】 ~後編
ただし、この妄想は決して実現不可能な絵空事ではない。スマートグリッドという設備は建設可能であり、ということは、それは資本主義社会では資本によって建設されることになる。そして資本主義社会では、建設された設備は資本を出資した者の所有になるのがルール。その所有者が孫氏ただひとりになるのかどうかはさておき、少なくとも「誰か」の所有物にはなる。
そこから拡大させた妄想は、スマートグリッドが電気という単一商品しか扱わないとはいえ市場と同等の機能を果すことから、あらゆる商品の需給調整をおこなう市場そのものを「誰か」が所有するというものだった。こんなことがもし可能なら、それは資本主義社会そのものを所有するということと同義になってしまうわけだが、それが可能で「誰か」がロスチャイルド一族であるとするのが、要するに「ロスチャイルド陰謀説」と呼ばれるものの正体だ。
そのようなことが本当に可能かどうかを想像するのは、スマートグリッドとは違って容易ではない。素朴に考えれば不可能としか思えない。社会を所有するなんて、想像を絶している。
だが、陰謀史観を用いると、そうした思考も可能になってしまう。なぜならそれは、内田樹氏も指摘するように「知的負荷の少ない世界解釈法」だからである。複雑怪奇でわけのわからない事象も、知的負荷が少なくて済む方法を用いるのなら解釈の道筋が見えてくる。これを利用しない手はない。
ロスチャイルド陰謀説が示す社会の所有手段は、「通貨を所有」することである。
ここでいう「通貨の所有」は、一般的な意味で言っているのではない。財布の中に紙幣が入っているとか、預金通帳に残高が記載されているといったようなことではない。普段意識されることは少ないが、通貨は私有物にはなり得ない。社会の公共財だ。それを専有することが所有と見なされるだけのこと。
偽札作りが犯罪になるのがその証左である。通貨が単純に私有物になり得るなら、偽札だからいって私有物として所持していても犯罪に問われることはないはずだが、実際は、たとえ流通を目的としないコレクションのためであったとしても、無許可での偽札製造は罪に問われる。人間がその感覚装置を通じて貨幣と認識されるような物体は、個人では製造・所有はできないのである。
「通貨の所有」とは、個人が持てないはずの貨幣を製造し流通させること。これはつまり、通貨発行権を握ることを意味する。
ロスチャイルド陰謀説の「骨格」は、
・初代の当主が“私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんな ことはどうでも良い”と発言したと伝えられること、
・ロスチャイルド一族が大英帝国時代のイギリスを中心に大発展し巨万の富を手中に収めたこと
・現在の世界に基軸通貨であるドルを発行するFRBは実は民間銀行で、しかもその株主は明らかにされておらず、ロスチャイルドがその大株主である可能性が高いこと。
といったような状況証拠によって組み立てられている。そうすると、どういったことになるのかというと、
『"無"から創造されるお金』(日本人が知らない恐るべき真実)
日本語で紙幣と手形は違うことばで表現されますが、英語では紙幣も手形「notes」「bill」「draft」です。つまり、ドルというお金の正体は、米国政府が発行する国債を担保に、ニューヨーク連邦準備銀行が政府に貸し付けた手形=債権証書なのです。
たとえば、米国政府が1億ドル必要だとしましょう。そうすると連邦準備銀行は、米国財務省から国債を購入し、政府の口座に1億ドルを振り込みます。この1億ドルは誰かの口座から借りてきて振り込んだお金ではありません。連邦準備銀行が何か実物的な資産を提供しているわけでもありません。ただ、米国政府の口座に1億ドルと記入するだけです。連邦準備銀行は口座に数字を記入するという行為だけで"無"から1億ドルを創造するのです。そして、政府は1億ドルを受け取り、公共事業等の出費として米国社会に1億ドルが流れていきます。
さて、政府は時が来たら返済時に利子をつけて返さなければなりません。仮に利子をつけて1億500万ドルを返済するとしましょう。米国政府は国民から税金を集め、1億500万ドルを返済しなければなりません。しかし、世の中に出回っているお金は1億ドル。500万ドル足りません。政府が1億500万ドル返済するには、新しく国債を発行し、世の中に流し、回収するしかありません。一度、財政規律を踏み外した政府の借金が規則的なリズムで大きくなっていく理由がここにあります。
銀行は"無"からお金を生み出し、国民はそれに対して利息を支払う義務を負う。また、政府は財政赤字を積み上げていく。そして、このマジックのようなお金を使って世界中から米国に実質的な富が流れ込んでいく。その利益が最終的には国際的な金融資本に流れ、銀行家は『労働なき富』を築き上げていく。
ここで述べられていることは、それがロスチャイルドの陰謀かどうかは別としても、概ね事実である。FRB以外にも、銀行は「信用創造」を行なって無から通貨を創造し、無から利子を徴収している。ただ、その利息収入は直接銀行家の懐へ転がり込むわけではない。実際の経済の仕組みはそんな単純なものではないし、ここで「知的負荷の少ない」方法を選択してはならない。
しかし、事情は複雑だが「誰か」が、無から利息収入を得ていることには間違いはない。
このことを、今一度スマートグリッドに立ち戻って考えてみる。
スマートグリッドというのは需給調整機能を備えたネットワークである。スマートグリッドの所有者はネットワーク参入者から、参入者同士の自由競争とは無関係に、使用料を広く徴収することが出来る。
通貨とは、とどのつまり、信用に他ならない。市場とは通貨の信用を介して、ネットワーク参入者同士が自律的に需給調整を行なうネットワークである。ロスチャイルド陰謀説は通貨を私有することで一部の者が利子を手にすることが出来るとするが、これは、孫正義氏がスマートグリッドを所有すればネットワーク使用料を徴収できるとするのと、構造的にはまったく同じである。つまり金利とは、通貨の信用によって自発的に形成される需給調整ネットワークの使用料なのである。
市場というネットワークが「誰か」に私有されているかどうかは定かではない。が、市場は現実に存在するし、金利も支払われている。ネットワーク使用料が支払われていることは紛れもない事実である。支払いが行なわれていれば、かならず受け取る者が存在する。その誰なのかは定かではないが、そうした者たちが金融市場といわれるところに棲息していることだけは間違いなさそうだ。
ここではその「誰か」を追求することはしない。それよりも、そもそも私たちはネットワーク使用料を支払わなければならないものかを先に考えるべきだと思うからだ。
何者かが出資をし、労働を投入し、作り上げた設備を使用するのであればそれに応じた使用料は支払われるべき。だが、通貨の信用によって出来上がっている通貨ネットワークはそのような性質のものではない。通貨ネットワークの鍵である信用は、ネットワーク参加者ひとりひとりの「信憑」によって維持されいる。それは決して通貨発行者の手柄によるものではない。通貨は「無」から生み出されるものなのだから、出資も「無」でしかない。あるとしても詐欺的アイディアだけである。
今日の経済システムが必ず破綻してしまう原因はここにある。通貨ネットワークから徴収された使用料はネットワークの更なる拡大に費やされる。しかしその拡大は無限ではない。必ず限界に突き当たり、変調を来す。労働の商品化が進み経済格差が拡大するのも、成長の限界に突き当たったネットワークがその成長先をネットワークの内部に向けざるを得なくなった結果に過ぎない。
もし仮に通貨ネットワークに所有者が存在するとするなら、考えるであろう処方箋は2つ。ひとつは、ネットワークの一部を物理的に破壊すること。つまりは戦争である。通貨ネットワークは、たとえ一部が破壊されたとしても使用料が徴収できる限り再び格差させることが出来る。もうひとつはネットワークの入れ替えである。既存の通貨を後はご破算にし、機軸となる通貨を別のものへと入れ替える。これらの方法はいずれも、それまで得た利潤を確保する何らかの手段がありさえすれば、所有者にとっては非常に魅力的なものに映るだろう。
【妄想】孫正義の野望・ロスチャイルドの支配【陰謀説】 ~前編
アジア全体の電力をつなぐ「スーパーグリッド構想」--孫正義氏が語る
孫氏は、「私が自然エネルギーについて力説すると、ソフトバンクの利益のためにやるんだという見方をする人がいるがいい加減にして欲しい。本来は本業だけに集中したい」と語気を強める。自ら自然エネルギーのモデルケースを作ることで新規参入者が入ってくることを心から願っていると、自然エネルギー事業に取り組む理由を語った。
ふ~む。孫正義氏は、はたしてその言葉通りに「善意の人」なのだろうか?
善意の言葉を疑うこと自体悪意と受け取られかねないが、敢えて疑ってみることにする。
孫氏の望みは〈帝国〉である。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが唱えた意味での〈帝国〉。
それをアジアに建設しようという野望。
孫氏は再生可能な自然エネルギーの実用化を主張し、その実現を試みている。原発の危険性が明白となった現在、自然エネルギーの実現は私たちにとっても極めて重要な課題である。
だが、手段と目的を入れ違えてはいけない。自然エネルギーは(物質的のみならず精神的にも)豊かな生活を実現するための手段である。自然エネルギーの実現そのものが目的ではない。
(原子力もかつては、そうした手段だと捉えられてきた。ところが実際は、一部の者が権益を享受するための手段と化してしまっている。)
孫氏は自らの行動の目的に対して極めて意識的な人であろうと私は想像するが、その目的が「私たちの豊かな生活」であるかどうかは疑わしい。自然エネルギーは、目的を実現するための手段としては、私たちと同じである。しかし、その目的は違っている可能性が高い。
自然エネルギーは原発や火力のような大規模プラントと比較すると、ひとつひとつは規模が小さく効率も良くない。さらに発電は自然の条件に左右される。そのため自然エネルギーを大量大規模かつ安定的に使用しようとするなら、水平協調型の電力ネットワークが必要になる。それが「スマートグリッド」である。
大規模な電力ネットワークはすでに各電力会社によって実現されているが、これは垂直統合型である。数少ない大規模な発電所から、社会の隅々にまで電力を供給する。垂直型の特徴は、電力供給者が需用者の需要に応じる義務が発生すること。つまり電力会社は、常に予想される総需要を上回る供給能力を維持しつつ、需要に追随した供給調整を行なわなければならない。そして義務が、電力会社の権益発生源になっている。
自然エネルギーのネットワークシステムは、もっと複雑なものにならざるを得ない。まず発電所の数が圧倒的に増えるし、しかも人間の都合で思うように供給調整をすることができない。そのために需要を調整する必要が出てくる。水平型のネットワークは、ネットワーク自体に需給調整機能を持つことが必要になる。ここが垂直型と水平型の最大の違いである。
孫氏の目的はこの高機能ネットワーク、スマートグリッドの所有であろう。
スマートグリッドの実現は、既存の既得権益を解消してしまう。そのことは私たちの目的とも合致する。だが、その所有は別の形の権益を生み出すことになる。では、その権益とは何か。
スマートグリッドは、そのシステム自体に需給調整機能が備わったもの。そして需給調整は「市場」の機能である。つまり、スマートグリッドの所有は、その商品は電力ひとつではあるが、市場そのものの所有と等しい。電力は私たちが文明生活を営むのに欠かせないエネルギーであるから、その市場の所有は「生権力」の掌握になるのである。
生権力を掌握することができれば、その権力に服する者は、それと意識せずに自発的に「税金」を支払うようになる。税は権力機構である国家が徴収するものであるが、そこには強制感がどうしても伴う。しかし、生活のために消費する電力に対して料金を支払うことには(料金に高い安いの批判はあったとしても)自発的だ。現行の電力供給精度(垂直型)では、電力会社は供給義務があり電力料金はその義務に対する対価であるとも言えるが、スマートグリッド所有になるとその義務はずっと小さくなってしまう。スマートグリッド所有者には私たちの需要に追随して電力を供給する義務はない。ネットワークを維持する義務があるだけ。しかも、その義務は既存の電力会社と同じく、いや、もっと広域的な独占的な義務なのである。これが権益の源泉にならないはずがない。
孫氏率いるソフトバンクも、自然エネルギー発電ビジネスに参入はするだろう。しかしそれは、他の企業に新規参入を促すための撒き餌にすぎない。ネットワークを所有することができれば、ネットワークに参入して自由競争を繰り広げる必要などないのである。ネットワーク所有者にとって望ましいのはネットワーク使用料を幅広く徴収できること、つまり参入企業が増えること。ネットワークの枠内でどのような競争が行なわれようが、それはネットワーク所有者にはどうでもいいことなのである。
こうしたビジネスモデルは、プラットフォームビジネスとして既に多数存在するものだ。グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、日本では楽天やグリー。ソフトバンクももちろんその中に入る。ソフトバンクを率いる孫氏が、電力プラットフォームビジネスの可能性に気がついていないはずがない。ただ、だからといって、直ちに孫氏が野望を抱いているということにはならない。
さて、ここまでは孫正義氏の野望についての私の妄想である。だが、せっかくなので、もっと妄想を広げてみたい。
孫氏の野望は、電力という文明生活には欠かせないとはいえ、たったひとつの商品市場を所有することが狙いである。ここから妄想を広げるなら、あらゆる商品の需給調整を担う市場そのものを所有するという妄想に至ることになる。
以下、後編へ。
学びへのふつうの理由・痛切な理由
私はこの文章にいかにも教科書的な、いささかノーテンキな文章という感想を持った。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
なるほど、これは道理ではあろう。しかし、痛切感に欠けるのである。子どもに対して「痛切な自覚」を求めているにも関わらず、この文章には痛切さが感じられない。中学生がこんな文章を読んで、果して「痛切な自覚」など持ちうるものなのか?
子どもであろうと大人であろうと、人間は学ぶ。学ぶ理由を持つ。人間は社会的な生き物であり、常に社会適応への圧力がかかる。社会への適応が不十分な子どもはもちろん、社会は常に変動するものであるから大人にだって適応圧力はかかる。ことに現代社会は変動が大きいので、大人への適応圧力は子どもに劣らず(もしかしたら子どもよりも)強い。
もし大人が子どもに「学ぶ力」を身につけさせたいと願うなら、もっとも確実な方法は大人も学び続けている姿勢を子どもに示すことである。凡庸な言い方だが、大人は誰もが子どもの師でなければならない。無知の自覚を持てなどと説教を垂れることではないし、そんな説教師を子どもが師と仰ぐことはない。
しかし、これは学びへのふつうの理由である。痛切な理由はふつうとは全く異なる。
この違いは『ソーシャルブレインズ入門』で提示されている「認知コスト」という概念で説明できる。
人間がふつうに学ぶ理由を持つのは、認知コストを軽減するためだということができる。人間の脳はチンパンジーと比較して四倍の大きさがあるらしいのだが、血流を測ると2倍にしかならない。つまり、人間の脳は常にエネルギーが不足気味の状態に置かれている。そんな脳にとっては、コストを節約するというのはかなり切実な問題であるらしい。
人間は習慣というものをもつ。習慣はなかば無意識的な行動だが、考えずに済むためにコストは低くて済む。社会のルールも同様で、ルールに従って行動している限り余計な思考はしなくて済む、つまりコストを軽減できるのである。
学ぶ、考えるという営為には大きなコストが必要だ。社会について、ルールについて、自然について学ぶ。学びを勉強と呼び表すように、そこには大きなエネルギーが必要とされる。しかし、その目的はふつうの場合、認知コストを軽減するためである。学びを重ねることで環境への適切な適応を行なってコストを軽減する。すると「楽に生きる」ことが出来るわけだ。何のために学校へ行き、競い合って勉強するのか。「楽に生きるため」というのが偽らざる本音だろう。
秀才とは、ふつうの理由による学びに秀でた者のことである。
(『秀才について』:内田樹の研究室)
だが、学びへの痛切な理由は180度異なる。
本当に無知な者は己の無知を自覚することはない。人間はある程度の知の体系を構築できてはじめて、己の無知を自覚できるようになる。「痛切な無知の自覚」とは、既存の知の体系を無効だと敢えて思いなすということだ。既存の体系を構築するのには大きなコストを支払ってきたはずだが、それは放棄して新たに大きな認知コストを支払う構えがある。「痛切な無知の自覚」とは、この構えのことである。
人間は、何らかの理由でそのような「構え」をもつことがある。それはまったく認知コストの観点からすると全く非合理的であり、ゆえに理由を合理的に推測することは不可能。そして、それは尋常なことではないのである。
『ソーシャルブレインズ入門』には、新たに大きな認知コストを支払うことがどれほどの負担となるかを示す例が2つ示されている。その2つは有名な実験、ミルグラム実験とスタンフォード監獄実験である。
ミルグラム実験
スタンフォード監獄実験
ミルグラム実験が示したのは、人間は残酷なまでに権威へ服従してしまうものだということだ。権威は認知コストを軽減するための方法であり、権威への服従は認知コストの観点からみれば合理的であると考えることができる。しかし、その合理性がいかに強固なものか。人間にとっては己が他人に苦痛を与えているという良心の痛みよりも、権威に従って認知コストを軽減することの方が切実な問題なのである。被験者が良心の痛みから解放されるには、権威という認知コスト軽減手段を放棄してあらたに認知コストを支払う必要があるのだが、良心の痛みと認知コストとが釣り合う比率は、想像以上に認知コスト側に偏ったものであった。
スタンフォード監獄実験でも、同様の結果が示されている。この実験では、もともと平等な者たちが与えられた社会的な役割の違いで抑圧者(看守)と非抑圧者(囚人)へと自然に変貌していくことを示した。社会的な役割もまた認知コスト軽減手段だが、その合理性が人間を容易に非人道的な存在へと変えてしまう。非実験者達の変貌ぶりは実験者の想像を超えて非人道的なものになってしまった。そのため予定は切り上げられ実験を中止となったが、驚くべきは、看守の役割を与えられた者は実験中止を強く抗議し、しかも囚人役がその抗議に異を唱えることがなかった事実だろう。
これらの事実を踏まえるなら、痛切な無知の自覚を持て、すなわち過大な認知コストを支払えと要請することは、非人道的ですらある。そのような要求は、場合によっては人間を非人道的な存在へと変えてしまう。
人間は何らかの理由で、痛切な学びへの理由を持つことがある。その理由は認知コストの概念によっても説明ができない。 人間は不合理な存在であると言うしかないないのである。
私がノーテンキを感じるのはここのところだ。痛切な無知の自覚を持てと要求するのは、不合理な存在であれ言っているに等しい。確かに人間は不合理な存在であり、そのことは事実として認めなければならない。だが、そのことと、主体的に不合理であれと要請することとの間には大きな隔りがある。その隔りは、「痛切な無知の自覚を持て」だの「師を持て」だのといった、一般的な言辞では埋めることができない。個別的な「痛切な言葉」が必要なのである。
断わっておかなければならないが、私は内田氏の『学ぶ力』の文章に価値がないと言いたいわけではない。道理は通っているし、文章としての完成度も高いと思う。一般的な価値は高いのだが、そのことが逆に問題だと言いたいのである。「痛切な自覚」という不合理な領域へと踏み込んでいく場合において、一般的な完成度の高さは美人という以外に特徴のない女性のようなもので、魅力的なようでいて案外記憶に残らないものだ。
不合理な説得力を持たせるには、突き抜けて個別的でなければならない。しかしそれは、社会という集団で生きていかざるを得ない人間にとっては危険なことだ。内田氏の文章がノーテンキなのは危険な香りがしないこと。その意味で教科書的なのである。
「痛切な無知の自覚」を持てといったような危険な要請は、公的に行なわれてはならない類のものだ。そうした要請は私的な場で行なわれるか、もしくは個々人が実在・過去・架空の人物から個別に受け取るしかない。公的な「危険な要請」は公的になった時点で危険が解毒されたものになってしまうし、もし仮に解毒されずに受け取られてしまうと、公的に危険を認めたことになって本当に危険なことになってしまう。
ネット上で死に出合うとき
現実世界で私たちはさまざまな人と関わり合いをもちながら生きている。
人間は必ず死ぬものであるから、どこかで必ず死に出くわす。
いろいろな死があるけれども、もっとも多いケースは知り合いの知り合いが亡くなるというもの。
知り合いの知り合いの知り合いくらいになると、死はそこここにあるのだろうが、「出合う」という感じではなくなってしまって、ありふれた日常の出来事くらいのものになる。
知り合いの身内などが亡くなったりすると、葬式やお通夜へ出かけることになる。
その際の挨拶は「お悔やみ申し上げます」。あるいは「ご愁傷さまです」。遺族への言葉なのだから。
知り合いへの親密度にもよるが、マナーとして、そのように挨拶する。
ネット上での死との出合いも、リアルな知り合いに準じる。
顔見知りではないネット上の知り合いの周囲の者が亡くなる。
死と出会うことになるのは、知り合いがその事実をネット上で報告するとき。
ブログでやりとりしている相手であったりすると、コメント欄に「挨拶」をしに行くことになる。
そういったケースは幾度かあった。そのたび、私は少し困惑する。
どのように「挨拶」をするべきかわからないのだ。
よく見かけるのは、「ご冥福をお祈りします」。
リアルに準じるなら「お悔やみ申し上げます」の方だろうけども、まあ、どちらであってもいいだろう。
だが私は、ネットでは、これらの「挨拶」を書き込むことを躊躇ってしまう。
リアルな場面であっても、こうした「言葉」は多かれ少なかれ社交的である。
自身が述べる言葉と自身の情動とのギャップを感じつつ、しかし、場の「空気」に影響されてと言おうか、「挨拶」を述べるのに躊躇はない。
だが、ネット上ではそういった「空気」は希薄にしか感じられない。
それで困ってしまう。
話は飛ぶ。
私は死刑反対論者である。
よって、死刑賛成論者の言説には、賛同できないことが多い。
もちろん、賛同するしないと好き嫌いとは、全面的にではないが、切り離して考える。
だが、どうしても感情に直結してしまう、つまりは嫌いな賛成論者の言説がある。
それは「遺族の気持ちが理解出来ないのか!」といった類のもの。
私はこういった言葉を書き連ねる輩には、反射的に「ウソつき」の烙印を押してしまう。
見ず知らずの者の死など、日常に転がっているありふれた出来事にすぎない。私たちはそれを日々確認している。
にも関わらず、自身のイデオロギーに交わる出来事があると感情を発動させる。
確かに死にも幸不幸はある。不幸な死に遭遇した関係者の悲嘆・憎悪は深い。それは十分に想像できる。
だが、それは想像であり空想である。リアルな死に出合ったときに湧き出る感情と、想像からくる感情が同一であるはずがない。想像に由来する悲嘆や憎悪には、多分に傲慢な自尊心が混じっている。
傲慢な自尊心は、しかし、死刑賛成論者だけのものではない。
反対論者が死刑廃止の理念の崇高さを賛美するとき。私はそこにも同じ臭いを嗅ぎ取ってしまう。
もっとも、どちらもそれは私の錯覚であるのかもしれないのだが。
しかし、賛成反対の議論が互いへの憎悪に変わっていくのを見るたびに、その思いが強くなるのを感じずにはいられなかった。
言葉を吐き出すときには必ず情動が伴う。
感情的に言葉を書き連ねているときであっても、冷静に論理的に言葉を構築しているときであっても、情動は必ず動いている。
感情は情動が感知されることで生じ、情動が感情へと流れ込んでゆくときに「快感」が生じる。
これがおそらくは〈生〉である。
つまり。悦びの言葉であっても憎悪の言葉であっても客観的な言葉であっても、それがスムースに感情へと流れ込むことができると、人間は〈生〉を感じる。その流れが滞る「不快感」は疎外感へと繋ってしまう。
人間が、悦びばかりでなく憎悪にも〈生〉を感じてしまう理由はここにある。
話を戻そう。私が困惑する理由だ。
有り体に言って、私は死者の冥福など祈っていない。
私に備わっている感覚器官が死を感じているわけではない。
死は事実であろうが、脳がテキストを読み解くことで感知したものでしかない。
つまり、「冥福をお祈りします」という言葉を発するときの情動は、死を感覚器官が感知してのものではない。
ここに「不快感」が生じてしまう。情動と感情の違和感を意識してしまうから。
もちろん、「冥福をお祈りします」が悪いと言いたいわけではない。
むしろ、そのように言葉は発せられるべきだ。
このような文章を書くこと自体、私の自意識過剰、ひいては社会性がどこか欠如していることを表している。
だが、それが〈社会〉へ斬り込んでいくための私の武器。しかも諸刃の剣だ。
...。
書き始めたときから何処へ行ってしまうのか自分でもわからなかったが、最後は武器の誇示になってしまった(苦笑)