
書くうちに、どうしても行き詰ってしまう。
登場人物の年表をつくることにした。
図書館から日本史年表をかりてくる。
何故、行き詰まり、苦しいかというと
読者からみて、納得する整合性が必要だからだ。
事件の背景、人物の動機に必然性がないと
「なんだこれは、文の流れがおかしい」と
読者は読むのをやめてしまう。
読みながら頭が混乱してしまう文など読者は読みたくない。
小説とは現在進行形の文によるドラマである。
時間は読者のテンポとリズム、体内時計によって進行する。
小説を読む読者はくつろぎながら、頭をほぐすために娯楽として
小説を読んでくださる。
五木寛之「戒厳令の夜」下巻を半分くらい読んだ。
海の民と山の民の遺伝子、面白かった。
寺山修司演劇も現在進行形の演劇だが、小説も
現在進行形のドラマである。
小説を読む人は、テレビばかり見ている人ではない
それなりの知識を持っている。
「なにかを発見させてくれる」「うろこのめが落ちた」
「知らなかったことを教えてくれた」
「このような人間も世界に存在していた」
小説を読む読者とは、社会と人間と世界への好奇心に満ちている。
さらには本を読む人は批評能力の感性のレベルが高い。
好奇心に衝撃を与えない小説は、最初から読まれない。
小説を書き、ゼロから世界を構築していくのは
自分とのたたかいでもあり、読者とのたたかいでもある。
演じる人は台本というテキストがある。
ゼロからテキストを構築していくたたかいが苦しい。
舞台は空間を創造するが
小説は時間と人間を創造する。
その世界は仮想現実であるが、現在進行形の時間である。
うまく書く方法などはない。
書きはじめ起動させた「文」の連結による世界の時間を
一秒一分とつくり、重ね合わせていくしかない。
記憶をつくっていくのである。
読者は更地になった記憶喪失者として、記憶の物語を読んでいく。
読者とは「いつも事件は他人様ばかり」と他人様の記憶を読んでいく。
読者とは他人様の家をのぞき見する好奇心の欲望を抑えることができない。
読者に他人様の家庭内事件を提供するのが、小説書きである。
読者は他人様の時間をのぞき見したいのである。
しかし、読者に、他人様のさらけだす時間をつくるのは、たんへんだんべよ。はうはう。
書きながら、その書いたものを冷酷な読者となって読みながら、
「文」を検証していく。次の展開にいくための連結。
自己表現による自己批評の悪無限時間の繰り返し。反復。
どつぼにはまる。逃げ出したくなる。
徹底して付き合ってやると、ど根性をだす。
かたちにしてやると、執念をだす。
しかし、五木寛之「戒厳令の夜」を
29年後に読むとは、自分は、今まで何をしていたのかと
落胆する。
「おれは、それほど本を読んでいない」その事実の荒野が広がる。
本を読んでいない人間が小説など書けるのだろうか……
しかし、書くしかない。