そうや【宗谷】
【宗谷】(そうや)
- 大日本帝国海軍二等巡洋艦「宗谷」。
明治末期~大正初期にかけて大日本帝国海軍に在籍した防護巡洋艦。
元々は、帝政ロシアがアメリカから輸入した防護巡洋艦「ヴァリヤーグ」を、日露戦争開戦初頭の仁川沖海戦で鹵獲し、帝国海軍の軍籍に組み入れたものである。
日本海軍編入後は艦隊に組み入れられず、もっぱら海軍兵学校を卒業した少尉候補生の練習艦として用いられ、第一次世界大戦中の1916年にロシアへ返還、艦名も元の「ヴァリヤーグ」に戻されてロシア海軍に復帰した。
その後、1917年に修理のため英国へ渡ったが、母国で革命が起きて帝政が倒れ、共産党政権が修理費の支払いを拒んだため帰国できず、そのまま英国で廃棄されてしまった。
スペックデータ 主建造所 ウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社 起工 1899年10月31日 進水 1900年1月2日 竣工 1901年1月14日 捕獲 1905年8月22日 編入 1907年7月9日 除籍 1916年4月4日 排水量 6,604t 全長 126.8m 全幅 15.8m 喫水 6.1m 主機 3段膨張式垂直機関×2基
宮原水管式石炭専焼ボイラー×30基(出力20,000馬力)
推進用スクリュープロペラ×2基
プロペラシャフト×2基燃料 石炭:12,500t 速力 23kn 航続距離 4,500nm/10kn 乗員 士官:21名
水兵:550名武装 45口径152mm単装砲×12門
40口径8cm単装砲×10門
43口径4.7cm単装砲×2門
45cm水上魚雷発射管×2門
45cm水中魚雷発射管×2門装甲 甲板:5~7.5cm
司令塔:15cm - 大日本帝国海軍特務艦(砕氷測量艦兼運送艦)「宗谷」。
1930年代後半に就役した強行測量艦兼輸送艦。
元々は、ソ連向け耐氷貨物船「ボロチャエベツ」として日本の造船所で建造された船を帝国海軍が買収したもの。
大東亜戦争終戦まで生き抜き、戦後は海上保安庁の船舶(灯台補給船(LL-01)→巡視船(PL-107))として使用された。
詳しくは宗谷(巡視船)の項を参照のこと。
- 大日本帝国鉄道省砕氷貨客船(鉄道連絡船)「宗谷丸」。
1930年代、鉄道省(後の日本国有鉄道・JRグループの前身)が北海道・稚内と南樺太・大泊を結ぶ「稚泊(ちはく)航路」に就役させていた砕氷貨客船。
姉妹船に「亜庭丸」があった。
1945年8月、ソ連軍の南樺太侵攻に伴い、邦人避難民多数を載せた最終便として稚内へ脱出。
以後は稚泊航路が休止(実質上廃止)となったため、青函航路での旅客輸送や室蘭~川崎~戸畑間の石炭輸送、乗務員訓練などに従事し、1960年代に除籍・売却された。
なお、この間の1950年代には「国際地球観測年」で日本が南極観測事業に参加することになったのを受けて、2.の「宗谷」と共に、南極観測船の候補にもノミネートされていた。
スペックデータ 主建造所 横浜船渠 母港 東京港 総トン数 3,593t 定員 1等船室:18人
2等船室:102人
3等船室:670人
計790人乗組定員 87人 全長 103.3m 全幅 14.2m 深さ 9.2m 喫水 6.6m 貨物搭載量 380t 主缶 舶用スコッチ型×4基 主機 三連成往復動汽機×2基(出力5,851馬力)2軸推進 最高速力 17.06ノット - 海上自衛隊機雷敷設艦「そうや」(JMSDF Soya MMC-951)。
1970年代、海自初の機雷敷設艦として就役した艦。
同型艦はなかったが、同時期に就役した掃海母艦「はやせ(MST-462)」と設計が共通していた。
有事において、必要な海域に機雷原を構築する任務を与えられると共に、(「はやせ」と同様)掃海部隊の母艦としての機能も備えていた。
1996年、大型化・機能統合された「うらが」級掃海母艦の就役に伴って除籍・解体された。
スペックデータ 艦種 機雷敷設艦 船型 船首楼型 排水量
(基準/満載)2,150t/3,300t 全長 99.0m 全幅 15.0m 吃水 4.2m 機関 川崎造船/MANV6V22/30ATLディーゼル(機関出力:6,400PS)×4基 2軸推進 最大速力 18ノット 乗員 180名 兵装 68式50口径3インチ連装速射砲×1基
エリコン FF 20mm単装機関砲×2基(後にJM61Mに換装)
68式3連装魚雷発射管×2基
機雷敷設装置一式艦載機 なし、着艦スペースと給油装置 C4I 72式1型B射撃装置 レーダー OPS-14対空レーダー
OPS-17水上レーダーソナー SQS-11A
ZQS1B機雷探知ソナー
【同型艦】
艦番号 艦名 主造船所 起工 進水 就役 退役・除籍 所属 MMC-951 そうや
(JMSDF Soya)日立造船
舞鶴造船所1970.7.9 1971.3.31 1971.9.30 1996.11.29 第2掃海隊群
(佐世保基地) - 海上保安庁砕氷巡視船「そうや」(JCG Soya PLH-01)。
(初代南極観測船も務めた)2.の「宗谷」が解役になった代替として、1978年に就役した砕氷巡視船。
海保の巡視船で、初めてヘリコプターの搭載能力を備えた船でもあり、ベル212を1機搭載できる。
現在は第1管区釧路海上保安部に属し、北海道・釧路港を母港としている。
スペックデータ 艦種 ヘリコプター搭載巡視船(PLH) 主建造所 日本鋼管鶴見建造所 母港 釧路港 竣工 1978.11.22 排水量
(常備/満載/総トン数)3,700t/4,089t/3,139t 全長 98.60m 全幅 15.60m 深さ 8.00m 喫水 5.20m 機関 ディーゼル×2基(機関出力15,600hp) 2軸推進 航続距離 5,700海里 乗員 71名 武装 ボフォース 40mm単装機関砲×1基、20mm単装機関砲×1基 搭載機 ベル212ヘリコプター×1機
【宗谷(巡視船)】(そうや(じゅんしせん))
MSA Soya(PL-107).
1950年代~1970年代にかけて活躍した、海上保安庁の砕氷巡視船。
1956年に開始されたわが国の南極観測事業に参加し、「初代南極観測船」として国民に親しまれている船である。
現在は東京・お台場の「船の科学館」にて繋留保存されている。
また、(後述するように)大東亜戦争時は旧帝国海軍に籍があったため、旧海軍に籍があった艦艇の中では数少ない現存艦艇でもある。
その生涯
本船は当初、ソ連向けの砕氷貨物船「ボロチャエベツ」として、1938年(昭和13年)に竣工した。
当時、日本がソ連から満州・東清鉄道の権利を買収した契約の一部として、同国通商代表部から発注された3隻の貨物船のうち1隻であったが、第二次世界大戦開戦前という情勢からソ連には引き渡されず、日本の海運会社に買い取られて耐氷型貨物船「地領丸」として就役した。
発注・建造の経緯から氷海航行能力を持っていたため、海軍が北方海域での強行測量艦として欲しがっていたが、ソ連との契約があるため直接海軍に編入できなかった。
1938年末に海軍が本船の購入費を予算に計上したが、ソ連側が「契約違反」だとして抗議、一時は日ソ両国の政治問題にまで発展した。
1940年に正式に海軍へ編入、「宗谷」と改称され、特務艦(強行測量艦兼運送艦)となった。
このとき、武装として8cm単装高角砲1門と25mm連装機銃1基を装備し、測量用として海軍制式の音響測深儀や10m測量艇2隻(定数4隻)を搭載。また、測深儀室・製図室・測量作業室なども設けられた。
1941年12月に大東亜戦争が開戦すると、本船は南太平洋に進出し、物資輸送や測量任務に活躍した。
この間、数度の戦闘に巻き込まれるも大きな被害を受けることなく1945年の終戦まで生き延び、北海道・小樽にて終戦を迎えた。
終戦後は小樽~樺太間を往復して、邦人の引揚者多数を北海道へ運んだ。
その後、本船は海上保安庁に移管され、オホーツク海沿岸の灯台に勤務する職員に生活物資を運ぶ「灯台補給船」として使用されていたが、1956年の「国際地球観測年」において、日本が南極観測事業に参加することとなったため、観測隊の人員・資材輸送を行う「南極観測船」として改装されることになった。
これに際し、南氷洋の航海に耐えられるように船体の補強と耐氷能力を向上する改装が施され、1957年1月、第1次観測隊を載せて南極・オングル島のプリンスハラルド海岸へ到着。観測隊は同地に「昭和基地」を開設した。
その後も日本~南極大陸を往復し、観測隊員や物資を輸送したが、氷海航行能力は外国の砕氷船に比べて劣っており、アメリカ海軍の「バートン・アイランド(USS Burton Island AG-88)」やソ連の「オビ」などのサポートをたびたび受けていた。
1962年に、南極観測事業の一時中断に伴って昭和基地を撤収した第6次観測隊を日本本土に送り届けたのを最後に、南極観測船としての任務を解除されて一般の巡視船に復帰、北海道に配属されて北方海域の警備・救難任務に従事した。
1978年に海保から解役された後、翌1979年から船の科学館に繋留され、一般公開が始まった。
前述のとおり、現在の本船は博物館の展示物となっているが、公式書類上では「無動力の船」という扱いになっており、必要とあれば舫を解いて動かすこともできるという。
しかし、竣工から70年以上経過していることと長年にわたる酷使、及び長期の繋留により船体の劣化が進行しているため、保存継続のための募金活動が行われている。
スペックデータ
宗谷
宗谷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:22 UTC 版)
1960年(昭和35年)7月1日に準急「宗谷」として札幌駅 - 稚内駅間で運転開始し、札幌駅 - 旭川駅間では「オホーツク」を併結していた。1961年(昭和36年)10月1日には急行列車格上げと同時に、函館駅発着(室蘭本線・千歳線経由)で運行されるようになり、1964年(昭和39年)10月1日には経由を室蘭本線から小樽駅経由に変更の上で、単独運転を開始した。 1981年(昭和56年)10月1日には札幌駅発着に戻され、1989年(平成元年)5月1日には天北線廃止に伴い、札幌駅 - 浜頓別駅 - 稚内駅間で運行されていた「天北」を経路変更を行ったうえで編入し2往復化されたが、1992年(平成4年)7月1日には上下の2便目を別愛称の「サロベツ」として分離し再度1往復となった。 その後、JR北海道と北海道、名寄市などが出資する第三セクター北海道高速鉄道開発を主体とする、宗谷本線旭川駅 - 名寄駅間の高速化改良事業が完成した2000年(平成12年)3月11日ダイヤ改正より、宗谷本線を走行する急行列車4往復はすべて特急列車への格上げ・速達化が実施された。このうち、キハ261系気動車(基本番台)を使用した昼行2往復については、「宗谷」の愛称を引き継ぐ形で「スーパー宗谷」の愛称が起用された。「スーパー宗谷」の運転開始により、札幌駅 - 稚内駅間の所要時間は急行時代の最速列車から52分(うち、札幌駅 - 名寄駅間は38分)もの大幅な短縮が図られた。 2017年(平成29年)3月4日のダイヤ改正では、それまで札幌駅 - 稚内駅間に3往復運転されていた特急のうち2往復を旭川駅 - 稚内駅間に短縮・再編し、引き続き札幌駅 - 稚内駅間で運転される1往復は「宗谷」に再改称されている。 列車名は北見国宗谷郡や宗谷支庁(→宗谷総合振興局)、稚内市にある宗谷岬および走行線区の宗谷本線に由来する。なお、宗谷本線特急列車運転開始時の愛称の一般公募でも「スーパー宗谷」が最多得票であった。ヘッドマークは「スーパー宗谷」運転開始時に制定されたものから文字を抜いたもので、急行時代のヘッドマークをもとに道北地域の地形を図案化したものとしている。 走行距離は396.2kmに及び、これは2017年3月4日以降、日本国内で定期運行されている気動車特急で最も長い。電車特急を含めても、にちりんシーガイア(413.1km)に次いで第2位である。
※この「宗谷」の解説は、「宗谷 (列車)」の解説の一部です。
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