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「サピア=ウォーフ仮説」の現在――『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』 ガイ・ドイッチャー

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うえしん
 言語が違えば、世界も違って見えるわけ ハヤカワ文庫NF ガイ・ドイッチャー

 言語が違えば、世界も違って見えるわけ  ガイ・ドイッチャー



 「母語は世界観を規定する」という「サピア=ウォーフ仮説」に私もハマったことがある。その後、この「言語相対論」はずいぶんと悪評が立てられていることを聞いてはいた。もうまじめの「サピア=ウォーフ仮説」は語れないとは思っていたが、確証はもっていなかったのでその後のアップデートのためにこの本を手にとった。

 どちらかというと論争史や学説史のようなものであって、結論を知りたいものにとってはまどろっこしい本であった。論争史は読みものとしてのおもしろみはあるのだろうけど、私はとちゅうでなにが正しく、なにがまちがっているのか、頭の中があいまいになってしまう。

 さいしょのホメロスは色弱であったかという論争史はそれなりに魅力なのだろうが、私はスリリングなサスペンスを求めているのではない。めんどくさい。

 母語にその観念や概念がなかったとしても、人はそのような思考や感覚がないとはいえないのであって、いろいろな語彙を駆使しながら、なんとかそれを言葉にしようとするだろう。ただ文化的な習慣によるものは大きいというのが、こんにちの落着点といったところだろうか。

 ウォーフが主張したホピ語には時間の概念がないという説は魅力的だろう。10年ほど前には神の概念もない、左右や色名もないというピダハンの本が話題になったことがある。「サピア=ウォーフ仮説」は言語学者では悪評の的であるが、そんなことはおかまいなしに支持しつづける哲学者や文芸評論家、神学者もいるということである。

 このガイ・ドイッチャーは誤りやまちがいをみとめたうえで、ひきあげるものはひきあげるという立場のようである。

 私は神秘思想を探究しているから、言語学はなぜ言語が実在しないという考えを検討しないのだろうかとかなり不満である。言語はどのように実在するというのだろう? それは霧や煙のように実在が確かなものではないのではないか? 神秘思想や禅はそこから話をはじめるので、言語学は言語の実在性をいちどたりとも突いたりしないので、そこが残念きわまりない。

 言語は確実に実在するものでない。そういってしまえば、言葉を商売にする人たちはたいへん困った事態になる。というより現代は言語の可能性や至上性を信じて、人間の知能の可能性に賭けているわけで、言語が魔法のランプのように消えてしまっては困る。神秘思想はその点で、ふれてはならないゲットーに追いやれているのではないだろうか。

 神秘思想というのは心の平安や安寧をもとめるセラピーである。目的が心の安寧だ。言語学や人々の知識というのは可能性や進歩をめざすものであり、真実を追究したい。そこで目的のたもとは分かれて、セラピーの目的はかえりみられないものになってゆく。スピリチュアルのほうもそれをいいことに詐欺や空想やゲテモノだらけの無法地帯に突入する。言語学もセラピー方面への考察にもふみこんでもらいたいものだ。






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Posted byうえしん

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