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それは実在していない無ではないのか?

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うえしん

■思考は実在しない

 憂鬱な気持ちを長くかかえていた二十代、三十代の私は、「思考を捨てる」という訓練にずいぶん手こずった。頭の中に憂鬱で沈鬱な思考がわき出てきて、あるいは過去の問題にずっとひきずられたりして、なかなか思考のない安楽な気持ちに長居することができなかった。

 「思考は現実ではない」「思考は頭の中にあるだけで、現実にあるわけではない」といくら言い聞かせても、思考がかたちづくる現実に圧倒されたものである。「思考を捨てる思考を捨てる」となんども言い聞かせたり、「頭はまっ白だ頭はまっ白だ」といった自己暗示をくりかえしつづけた。

 そうやって頭の中の思考をやっと落ち着かせることができてきたころには、「思考は実在しない」という思いのほうが強くなった。私たちは自分の頭で考えたこと、自分の思っていることを圧倒的な現実、リアルにあるものと思って、思考と向き合っているのだが、「いや、そんなものはどこにも実在しないではないか」という思いが強くなった。

 頭の中の思考が霞のように弱く、はかないものに感じられるようになった。思考をむりやり消し去ろうとしたり、強引になくす必要もないのだ。思考や言葉といったものは、そもそも「実在しない」。目で見えるものでもないし、形としてさわれるものでもないし、だれひとりとして、その姿かたちが実在しているものを見たことがない。

 言葉や思考というのは、それが実在していると思いこんでいると圧倒的な現実としてわれわれの前にあらわれるが、そんなものはどこにも実在しないものと思うようになると、霞のように弱々しいものになってゆく。

 われわれの心の認識というのはそういうものなのである。あると思えばあるとずっと思いつづけ、ないと思えばじっざいにないように思える。でもたいがいの人が思ったこと、考えたことを圧倒的に「ある」ものとして過ごしている。私の思ったこと、考えたことはすべて「現実」で、圧倒的なリアルである。われわれは自分の思い、考えによる感情の嵐・激流に流されるのが、通常のあり方だろう。私たちはそういった心のあり方を正常なものとして、人生を送るのである。

 われわれは過去におこった人間関係のトラブルをずっと頭のなかで「再演」しつづけるし、未来におこるだろう不安や恐れを「描きつづける」だろう。それを現実にあるもの、あたかも目の前に展開しているかのように、その問題や感情に巻きこまれつづけるだろう。私たちはその問題を「手放してはならない」のである。過去を終わらせることは怒りやプライドが許せないし、未来の不安を考えつづけないことには安心の生活を送れないと思っている。いや、それ以前に思考を手放すことは、人間の知性の放棄である。

 それで私たちは一度もそれが「ほんとうに実在しているのか?」と問うことはないのである。思考や言葉はほんとうに実在しているのか、という問いは思いつくこともないのである。「そんなものはひとつも実在してなかったではないか」と思いを、一度も抱くことはないのである。


■それはほんとうに実在しているのか?

 「それはほんとうに実在しているのか?」とこの世界や自分をあらためて問い直してみると、われわれの実在はじつに怪しいあり方をしていることに気づく。

 さっきまでの私は実在しているだろうか? さっきおこなった行動はいまはどう実在しているのだろう? 今日は忙しい一日で、いろいろなところに行ったり、なにかをおこなったりしたが、そのおこなった行為や自分はどこに消えてしまったのだろう? もうさっきまでの自分はことごとく無に消え去り、行為や過去はページをめくるようにつぎつぎとなくなってゆき、過去は猛烈に無の中に崩落してゆく。このいま確かな現在でさえ、この瞬間に過去になってゆき、いまの私もこの瞬間に消滅してゆく。私とはどこに実在しているのだろう? この瞬間に崩落する過去や私はどのように実在しているといえるのだろう?

 私たちはその崩落する時間という捉え方を放棄する。かわりに過去におこなった行為、言ったりしゃべったりした言葉は現在もいきいきと残っているように見なし、過去の学校や会社のことを現在にもつづいているように捉え、過去の業績やおこないを現在の平面上に捉える。過去はなくなったのではなく、現在もつづいている。

 だが、過去の私はいまどこに実在するだろう? 過去の私はいまどこに見ることができるだろう? 私たちにあるのは頭の中にある記憶や心象であって、現実にはことごとく消滅し、無になっている。記憶というのは実在だろうか? 記憶はただ過去のイメージであって、いっさい実在ではないのではないか? 私たちはずいぶんと消滅してしまった過去というものを、現在にもつづいている同一線上のものに見なしているのである。消滅や無になったという側面に、フタをするのである。それが実在しないという面に、分厚いフタをかぶせるのである。

 私たちを悩ませる過去は消滅して、無になったのではないか? 過去のトラブルや人間関係のいざこざは過去に起こり、その過去はもう消滅してしまったのではないか? 私たちは過去の記憶や、それを言葉に話すことによって、現在にも「現存」させる。無でもないし、消滅してわけでもないものとして、過去をいまによみがえらせる。しかしそんなものはとっくに消滅し、実在しないものになったのではないのか。私たちが手にしている過去や問題というのは、記憶や言葉でつくる「幽霊」のようなものではないのか。亡霊を現実のように見なすのがわれわれの認識ではないのか。

 過去の私はつぎつぎと消えてゆき、現在の私も猛烈に過去の無の中に崩落してゆく。実在はあっという間に、時間の中にすり抜けてゆく。眠っているときの私は実在しているのか? 眠っているときの私の主観には、私も世界もない。私がなにかに夢中になっているとき、対象だけがあり、私の身体も私の意識もぶっ飛んでいる。身体は通常はほとんど意識されず、体を動かしたり、なにかをとったり、不調があるときだけその感覚がうきあがる。その他はたいがいは「実在」していない。この怪しげな実在の姿をしているわれわれは、いったいどういう存在なのだろう?

 そしてわれわれは思考や言葉に「憑依」している。私たちは頭の中の思考や思いに「のみ」になっており、その他の身体や世界は忘れ去られている。実在しているのは頭の中の思考や記憶、思いだけの存在になっている。これが私たちのもっともふつうのあり方である。思考や言葉だけになっている。物思いにふけっているとき、身体もこの世界もなくなっている。「われに返る」までこの世界も身体も実在していない。過去の私はもう実在していないし、物思いにふければ私も身体も世界もなくなり、物思いだけの実在になっている。私たちの実在というのは、じつに怪しい刹那的で、部分的なものではないだろうか。

 私たちはこの無や実在していないという側面にフタをして、過去やこの世界をすべて同一平面の上に乗せて、すべてが同時に存在しているような世界をつくりだす。過去は現在にあるし、意識していない世界や身体もずっとありつづける世界を描きつづけるし、たとえ思考や言葉のみの存在になっていても、あたかも世界が同時に展開する世界に囲まれていると見なす。無になった過去、断片的な存在になっていたとしても全体的な世界があると見なす認識を、もちつづけるのではないだろうか。いわば、世界の地図や展開図をこの世界にずっと適用しているようなものである。無であったり、断片になっているありようを糊塗するかのように。

 私たちの実在というのはじつに怪しい。この刹那に自分の実在は無に崩落してゆくし、思考や言葉に集中しているとこの世界は無になる。そして過去を思い出し、過去のことを話していると、あたかもそれが実在しているかのように、われわれは怒ったり、悲しんだりする。それがとっくに消滅した無であるという事実をいっさい見ないで、あたかも現在にあるかのように「よみがえさせる」ことができる。眠っているときには、この世界も私の身体も私の意識も実在していない。無を縫い合わせ、無であるものをあるように思いこみ、無になったものを意識せず、言葉や思考は限りなく無に近く、そしてこの身体は無から無に消え去ってゆく。この怪しげな実在しており、実在しておらず、実在を埋め合わせる危うげな実在。私たちはそれを言葉で埋め合わせるが、その言葉は実在しているといえるものなのだろうか?

 私たちが犯しているいちばん大きな過ちは、固定的な世界がこの世にはあるという思い込みかもしれない。身体があり、物質の世界がある。過去の私はずっと同じ私であり、物質の世界は固定的なものである。視覚の世界がそう思いこませる。言葉だって、固定的で、永続的なものがあると思いこませる。しかしこの世界は流動的で、刹那的で、固定的なものがいっさいない世界というべきなのかもしれない。固定的な世界像を欲したがゆえに、私たちは世界の誤った像を描きつづけるのではないだろうか。


■実在しない無に安らぐ

 思考や言葉が悲しみや恐れをずっと再演しつづけるなら、それらが実在していないことに気づけば、もっと安楽な生を送ることができるだろう。思考や言葉が実在している世界にずっと暮らしているのがわれわれである。そして過去や未来の恐れや不安、怒りをつくりだして、苦しみにさいなまされている。そんなものは実在しない、ただの空想や想像、考え方に過ぎないという思いが及びもしない煉獄に閉じこめられる。

 過去は無に崩落した。過去の私はことごとく消滅した。未来の私はただの空想である。そしていまの私もこの瞬間に過去の無に転落してゆく。この実在は刹那にうきあがっては消えてゆく、実在しないものになってゆくのである。過去にいたあの場所も、かつて旅にいったあの地も、いまの私にはその実在をたしかめることはできない。いまの私には無であり、実在しない。時間と空間は無に崩落しているのだが、いまも存在しているであろうという思いが埋め合わせる。

 私たちの認識は実在しないものを実在すると見なす錯覚に満ちあふれている。実在しない思考や言葉に苦しめられる。消え去ってしまった過去に苦しめられ、まだ来ない未来に恐れおののく。それが無であるとか、実在しないとかの洞察は、いっさい頭に浮かばない。圧倒的な現実としてわれわれを苦しめる。それが実在しているという認識が、あまりにも常態化していて、苦しみの現実から逃れられなくなっているのである。

 それが無であることに気づけば、悪夢から醒めることができるだろう。実在しないことに思いをいたらせば、その悪夢を終わらせることができる。私たちが実在していると見なしているもの、実在してほしいと願っているもの、その非実在に思いいたったとき、空騒ぎを見抜くことができるだろう。

 けれどわれわれはところどころが穴の抜けた亡霊のような存在とは思いたくない。過去の私は実在しているし、考えや思いは実在しているし、あの場所やあそこも実在している。身体や世界がところどころ無に帰していようが、私たちはそれが常態的に実在していると思いたがる。私たちは非二元哲学がいうような断片や刹那だけが実在し、その他は排他的に実在しない存在のありようをしているというのが現実なのかもしれない。フォーカスされたものだけが実在である。その他は無だ。そのフォーカスもことごとく無に崩落してゆく。私たちは無に囲まれて浮き上がるフォーカスだ。

 無であることを埋め合わせるもの、それが私たちを苦しめる。それが実在しないこと、無であることの実感や気づきが大きくなればなるほど、苦しみの圧倒性は霞のように消散してゆく。無であること、実在しないというこの世界のありように気づけば気づくほど、私たちは苦しみから解放されるのである。言葉や思考は実在しているのかと問うことはほぼない。その実在と思われる世界を重宝すればするほど、われわれはありもしない苦しみに呑みこまれてゆくのである。

 実在していないものをとり戻せ。そこが安らぎの地である。無に崩落してゆく世界が救いをもたらしてくれるとは、存続や永続を願う人間の盲点である。



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うえしん
Posted byうえしん

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ブッダマニア
身体感覚

煩わしい思考から解放されるには、意識を身体感覚に向けるのが最も有効だと思われます。例えば、曹洞宗の坐禅では坐相すなわち坐禅の正しい姿勢を保つことをことのほか重視しているし、南方仏教では呼吸の出入りや、動作の一つ一つに「気づく」という瞑想があります。いずれも「いまここ」の身体感覚に注意を向けることによって思考の泥沼から離れることができます。とくに有効なのはタイのルアンポーティエン師が開発された「手動瞑想」です。

  • 2021/06/26 (Sat) 00:21
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