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裏面の神から読み直す――『哲学マップ』 貫成人

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うえしん
    

 「哲学マップ」や「見取り図」というよりか、簡明な哲学史や短文哲学史といった感じがしたな。

 哲学者の本を読んでいると細かすぎて、全体としてなにをいっているかわからなくなる。ほかの哲学者も読み進むと、全体としていったいなにをいっているのか、どこに向かっているのかわからなくなる。

 全体として哲学史をざっと理解したいときに役に立つ本だろう。だが簡明すぎる本は、こんどは記憶の定着を見ない。詳細やほかの角度から答えられない。一本の細い丸太を打ったようなもので、がっしりと根を張った複雑な理解をもたらすわけではない。

 だからこんどは個別の哲学者を読むと、森の中の藪の中に迷いこんでしまい、またもや全体の場所や位置が見えなくなる。虫の目と鳥の目は両方をたずさえながら、ゆっくりと進んでゆくしかないのである。

 私は現代思想とかを読んだあとに、神秘思想を学んだ。これは言葉の世界が実在しないことや、無、実在、生成滅々の世界に向き合おうとする知識である。一般には神との合一や一者とよばれる全体である神を知ろうとする宗教と思われているのだが、内奥をかきわけて見ると、言葉以前の世界に出会おうとする秘教の目的を見出すことになる。

 こういう目をもってしまうと、西洋哲学にもこの思想に接近したものはいないものかと探したくなる。ギリシャ哲学やイスラム哲学もそれへの追究をおこなったし、新プラトン主義は西洋を貫く神秘主義である。スピノザは神が全体であるという汎神論をとなえたし、シェリングやヘーゲルも汎神論の系譜になる。ショーペンハウアーやニーチェはインド哲学や仏教の影響をみないわけにはいかない。つまり神や宗教の世界からの接近を可能にしたのである。

 通常、西洋哲学史を学びたい人は、宗教を毛嫌いしたうえでの科学主義的な見方で哲学を学ぼうとする。神にかんする事柄なんて理解も、摂取もしたくないという姿勢で、西洋哲学に学ぶのではないだろうか。そうすれば神という片翼をまったくもてない哲学史を学ぶことになる。西洋哲学は神という存在と多く関わってきた知識なのであって、この不理解のうえでの摂取は致命的だなという感慨をもつことにならないだろうか。神は西洋哲学史の根幹でもある。中世哲学など神の理解のなにものでもない。

 私は神というのは、言語以前の安心のことだという見方をしているのだが、もちろんこれだけでは神の証明や実在を追い求めた西洋哲学史を読み解けるわけではない。神の実在を信じた人の主観をもたないと、西洋哲学史というのは内側から理解できないものかもしれない。その問いもふくめての新たな西洋哲学史との出会いを私は求めるわけである。

 西洋哲学者の中に、言葉以前の世界、無や実在といったものに言葉なしで出会おうとした哲学者はいないだろうか。哲学者は言葉を使ったうえで、言葉の詳細で繊細な駆使をおこなったうえでの世界の素描をめざす。言葉を手放そうとしないし、言葉という道具の点検や検証もおろそかになる。言葉の懐疑や不信をたずさえないのである。あくまでも言葉内の世界の追究に終始するのである。

 ニーチェは真理も事実もただの虚構にすぎないといった。言葉の不信の先には、仏教や神秘思想があるわけである。そして神を追い求めたキリスト教も、言葉を脱ぎ捨てた先の世界へ至ろうとしたのである。こんにちでは反知性主義だとか、反時代的だとかいわれるだろう。まずは言葉の懐疑や不信がなければ、言葉を放棄した先の世界には向かおうとはできないだろう。

 私は神を追い求めた西洋という見方から、哲学史をもう一度把握し直したいのである。言葉が立てた塔ではなく、言葉が立てられない世界を垣間見たいのである。それをやったのが東洋思想や仏教であるわけだが、宗教と思われているので、崇拝や信仰として遠ざけられるのである。言葉の頑なな信仰が西洋哲学史といえるかもしれない。






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うえしん
Posted byうえしん

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