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記号と純粋無――『シンボル形式の哲学 〈1〉言語』 カッシーラー

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うえしん
   シンボル形式の哲学〈1〉言語 岩波文庫 カッシーラー

   シンボル形式の哲学〈1〉言語 カッシーラー



 言語学は言葉が実在しないことを探究していないのかとずっと探し回っていて、なかなか見つからなかった。私が神秘思想で見つけようとしているのは、言語で描く世界が実在しないことである。

 カッシーラーはそのことをしっかりと意識していて、記号や像は純粋の無からますます遠ざけてしまうものだと理解していた。言語は自己の存在の根源からひき放されてしまうことだとカッシーラーはいっている。「序論Ⅳ 記号の理念的意味――模写説の克服」においてである。

 哲学の概念の論証化は、神秘主義のパラダイス、純粋な直接性のパラダイスを閉ざしてしまうといっている。哲学にできることは、その創造物を形成原理から理解し、意識化することであるという。カッシーラーは直接性を求めるために、間接性の概念の形成原理を見きわめようとした。それがこのシンボル形式ではないだろうか。

 しかし一般の言語学はほかの問題や分析を中心にして、この直接性を問題にしている学者を見つけることはできないのである。だから神秘思想という迂遠で、象徴的な手段に頼らざるを得ないのである。言語の非在を腹に落としこみたいのである。

 この本はひじょうにむずかしい。理解は届きそうになるが、明確に理解できるとことまでには達しないので、フラストレーションがたまる書物であった。おもに言語学の歴史や民族学の言語などの歴史をひもといており、カッシーラーは学者っぽい顔をもっていたのだなと思った。

 いちばんわかりやすいのは、「第三章Ⅰ 空間と空間的諸関係の表現」という章であって、身体が中心になってこれとあれ、こことそこ、近いものと遠いものという言葉が空間をつくりだすというところである。ほかは明確に理解できない沼地に沈みがちである。

 ほかに興味ひかれたところとしては、言語の生成過程に迫ったところである。言語的世界像は客観的な環境の反映ではなく、自己の生命と行為の反映といったところである。まずは世界があって、モノに名前をつけるという順番ではなくて、言葉こそが使われるモノ、必要なものをつくりだすのであるというくだりである。

 これは自己啓発にあるように言葉は客観的に世界を映すのではなく、積極的につくりだすものであるという説と同じことをいっている。唯物論ではなくて、唯心論である。もっともそれは二つにきれいに切り分けられるのではなく、極度に複雑で、変化する精神過程だと断っているが。

 カッシーラーのこの本は四冊まで出ている。続刊を読むかは古本で見つけるしだいにまかせようと思う。むずかしいので、はっきりした理解に届かず、読むのが苦痛になってくるというのもある。私が理解したい直接知を言語学はなかなか考えてくれないのもある。とりあえずはカッシーラーはそれを意識していたことを知った。

 カッシーラーは言語や記号が直接知にたどりつくことはなく、この記号の世界は共同幻想であるといった見解をもっていたとするのなら、私の知りたいことと近いところにいる。もっともこの本は言語学に傾ぎすぎて、幻想やフィクションといったことの言及は認められなかった。


 人間 岩波文庫 カッシーラー

 人間 岩波文庫 カッシーラー




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Posted byうえしん

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