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ことばと純粋無――『事象そのものへ!』 池田 晶子

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うえしん
   事象そのものへ 新装復刊 池田 晶子

   事象そのものへ! 池田 晶子



 タイトルが直接知や純粋意識をめざしたものかと古本祭りで手にとった。

 「清冽なる詐術」でそれがしっかりと語られていた。ランボーやマラルメといった詩人を通して、まちがいなく禅的境地といったものを語っていた。言葉なんて使い物にならない詐術と気づいた思索者は強いと思う。間接知しか知らないものはさまざまな落とし穴にはまる。

「私はもはや君の識っているステファヌではない、――それどころか、かつて私があったところのものを通して、見られ、展開する精神的宇宙に属する、一能力なのだ。」(マラルメ「書簡」)



 神秘思想的な世界をマラルメが書簡でのべているのだが、言葉や知覚を抜きにした体験をこの詩人はとらえていたわけである。禅者や修行者がめざす世界である。

「思考が「在る」ものしか思考し得ないならば、そして、ことばもまた、そうとして「在る」ものならば、「ない」表象を意識にもたらすことができるのは、ことばとことばとの全く無関係な結合だけだ」



 思考はあるものしか表象しえない。無を思考は語れない。無こそがこの世界の事象そのものだ。言葉ではなく、事象そのものに出会おうとするのだが、探究者といったものではないだろうか。言葉や概念を操作しているだけでは、そのものにはふれられないのである。

 その先の世界は禅者や神秘主義者がめざしていたものであって、池田晶子はその発見にとどまる。思考を手放さない哲学者ならば。

 ほかは科学の懐疑や心理学の懐疑が語られる。池田晶子は哲学者の紹介説明ではなく、自分の言葉で自分で考えたかった哲学者であったのがよくわかった。掲載誌が『文藝』や『群像』といった文芸誌であって、哲学者研究に飽き足らなかったのだろうか。

 「発現する消失点」で神について考えているのだが、日本人は人間の姿をした神を描くからまちがうのだと思った。インドの神もギリシャの神も、元は見ることも知ることもできないものであった。そういう得体のしれないものに合一するという発想は理解できるかもしれないが、人間の姿をした神にはもう合一はわけがわからなくなる。キリスト教的、日本神話的な人間像の神像は、「隠れた神」の原像を見えないものにするのである。偶像禁止にしないと元の意図が見えないだろう。

 巻末の「禅についての禅的考察」はなんの感銘もうけなかった。神秘思想を読んできたものには、池田晶子の視点はそこまでわかっていたのかという確認にしかならなかった。だが哲学者でも言葉をこえた世界をめざしているのでないと、この世界の事象には迫れない。言葉や概念は「それそのもの」ではないうえに、歪曲や屈折をへることになる。幻想に溺れるだけである。


 考える人 口伝西洋哲学史 中公文庫 い 83 1

 考える人 口伝西洋哲学史 中公文庫




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Posted byうえしん

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