宗谷本線・名寄駅から列車に乗り北へ。
癒羽:本当に周りに何も無いですねえ。
宗谷本線・紋穂内駅。
長年の風雪による錆びが美しい模様を描いています。
開業は1910年。 1日平均利用者は1.6人。
過疎化により、今では駅周辺には5戸くらいしか家がありません。
駅が立地する美深町が廃止を容認したので、来年3月での廃駅が決定しております。
紋穂内の由来は、アイヌ語で「モmo・オo・ヌプnup・ナイnai」。
静かな・河口に・原野がある・川という意味です。
癒羽:またどうしてこの「秘境駅」に?
(10年前の癒羽)
このブログを始めてからちょうど10年。
冬音家のドールの中でもかなり古参組の癒羽が来てからもう10年が経ちました。
癒羽:これはディケイドとしての旅行ということね。
元々はちゃんとした木造駅舎があった紋穂内駅も、国鉄末期に貨車駅舎に置きかえられてそれから30年以上。
来年3月、その長い役割を終える時が来ます。
今回は、癒羽と静(1年目)の2人が担当しています。
追記に続きます。
続きを読むからどうぞ。
紋穂内駅内部。
静:本数はとても少ないです。
癒羽:来年はここから北星・南美深・紋穂内・恩根内・豊清水の5駅が一気に廃止されます。
癒羽:これから紋穂内駅を訪れる鉄道ファンも増えていくのでしょうね。
静:今はまだ、いつもの紋穂内という雰囲気ですね。
紋穂内駅を遠くから。
この道路は道道445号紋穂内停車場線です。
駅前の廃屋。
かつて日通の営業所だったとも、商店だったとも。
おそらく木造の本屋は大昔に潰れて、コンクリブロックの水回り(お風呂やトイレ)部分だけが今も残っているのでしょう。
この道路の突き当たりまでに、かつて7~8軒の家が並んでいた時代もありました。
今は1軒だけとなってしまいました。
道路のつきあたりから。
「右折:紋穂内駅」
こんな淋しい土地ですが、道路の青看板は今日も黙々と機能しています。
駅から進むと左に曲がり、紋穂内橋で天塩川を渡ります。
道道445号の全長1.1kmの内、約1/3となる350mの長さがある橋。
癒羽:この狭さでは車2台は通れませんね。
橋の途中に2箇所、待避所があり対向車が来た時にはそこで待ってすれ違います。
静:幅の広い天塩川に橋を架けることはお金もかかったでしょうね。
1960年代前半にこの橋が完成するまでは渡し船が両岸を結んでいました。
そのあたりのエピソードはまた別の機会に。
天塩川を渡ると、国道40号と接続し道が終わります。
写真は紋穂内停車場線の終点側から。(駅側が起点です)
ボロボロに錆び付いた道道445のヘキサ。
道道認定は1962年。50年以上使われているのではないかと思われる位。
取り付けられているポールは綺麗ですが。
癒羽:本当にあなたヘキサ大好きよね。
時間に余裕がある時は、北海道各地の道道のこの六角形の看板を撮っています。
特に、こうしたボロボロになったヘキサが好きです。
先ほど左折した交差点に佇む一軒の建物。
昨年春、ここに3室だけのささやかなホテルが開業しました。
そのホテルの名前は、「青い星通信社」。
今回は、このホテルに宿泊してきました。
ただ、それはまたどこかの機会に。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
コメント
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こんばんはです(^^)/
今回はまた趣のある駅のご紹介ですね。変わった模様が描かれているなと思いきやこれは錆だとは…歴史を感じさせますね。
周囲の景色も静かな感じで、こちらも街の歴史を感じさせます。ホテルも気になる所です!機会があれば是非紹介して頂きたいです(^^♪
癒羽様、静様もお疲れさまでした。今回も楽しませて頂きました。
この前、所さんの番組で、以前放送した安田団長の番組を(コロナの影響で番組が作れず)、再放送してました。
3~4年位前の放送でしょうか?その時利用していたJKさんは、町内の保育士さんになられたそうで…。
たぶん、18歳になった時には運転免許をとっていたかとは思いますが、
保育士の免許?を取得するために通った学校へは、列車を使って通学していたとか…。
・・・地元の方でよく駅ノートを書かれていた方みたいですはじめっち
そいえばぁ、なんとかジャーナルって本に、橋を渡ったすぐの倉庫が宿になったって見たことありますぅ…。
・・・ちっと高級そうなんでうちらの大蔵省からは許可下りそうにないですぅ…みならいかのん
町内第2の集落「恩根内」からも駅がなくなるっすね。小学校とか残っていたら、駅維持にお金が数百万かかるって言っても、
負担したかもしれないっすね。せっかく小学校リフォームして宿泊施設ばぁ立ち上げたのにっす。
・・・バスも通ってるっすから…ゆたか
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、天塩川境に
国道と鉄道が分かれて通ってるとこは、だいたい渡船があったりしたらしいのだ。
それでも、歌内みたく転覆事故なんかもあって危ないそうだから、橋も60年代ごろに多くできたらしいのだ。
ちょー寒冷期の1月・2月は川が凍結すっから、弱った馬・牛を先にわたらせて氷の厚さを見てから、家畜や荷物を渡らせたなんて話もあるのだ。
・・・橋狭いから丸太とかは冬に対岸に運ぶ方が効率いいらしいのだつるみん
ごにぎり様、コメントありがとうございます。
今の貨車駅舎に置きかえられてから35年、利用者が多少見込める貨車駅は上から化粧板で覆いましたが紋穂内は対象外でそのまま風化が進んで現在に至ります。
自然任せの錆具合は、紋穂内駅を特徴づける大きな個性となっていました。
昔は小規模な炭鉱があり人もある程度居住していた紋穂内地区、今では過疎によりだいぶ減少していますがそうした地に惹かれて開業したホテルもあります。
またどこかで紋穂内のことは記事にしたいです。
コメントありがとうございます。
紋穂内駅を利用する人は、通学の高校生かホテルに宿泊する人か。。。ですかね。
私が乗車している時にこの駅で乗降する人は一度も見かけたことがありません。
紋穂内で開業したホテル「青い星通信社」。価格面ではホスピタリティ面など今回宿泊してみて凄く納得しています。
「休日にやることは本を読みながら珈琲を飲むくらい・・・」というスタイルなら合うと思います。
客室にテレビは備えていないので、夜まで観光してホテルでは寝るだけというスタイルなら合わないと思います。
美深の場合は、名士バスとJRがほぼ並行していてどちらかを残すならバス路線に補助金を費やした方が良いという判断でしょう。
今年度予算では、名士バス恩根内線への補助額は817万7000円です。
この金額は恩根内線維持にかかるの運行経費から、収益と国や道の補助金を差し引きした残りの赤字を名寄市との距離割で負担したものです。 JR駅1駅維持するのに年間100万円近くと考えるとやはりどちらかになってしまいますかね。
美深町内にもかつては地方費設(官設)、民間の多くの渡舟場がありました。
国道40/275号の天塩川に架かる橋の場所には地方費設の渡船場があり、道庁から辞令と取り扱いの契約、補助金を受け運営。
現在の国道40号の恵深橋(美深2線渡舟場)、美深大橋(美深17線渡舟場)、恩根内大橋(恩根内16線渡舟場)は明治期から橋が完成する昭和初期まで舟運が道路として扱われていました。
その中で一番最後まで残っていた渡船場が今回登場した恩根内4線(紋穂内渡船場)。この場所に紋穂内橋が完成したのは戦後、昭和38(1963)年のこと。 国道は橋の完成が早かったですが市町村道になると300m級の長い橋を作るには経験ある建設業者を使うなどかなりの大型予算が必要となるのでなかなか作ることができませんでした。
渡船場のことはまた別の機会にしっかり記事にしたいです。