普遍についての現代形而上学の入門書
普遍論争というと中世スコラ哲学が連想されるだろうが、現代の哲学においてもなお論争の続いているトピックである。
普遍についての問いというのは、「トークンa、b、c……が同じタイプFであるとはどういうことか」というもの
よくある例で恐縮だけど、リンゴとかトマトとか郵便ポストとか太陽とかはみな「赤い」。つまり、同じ「赤い」というタイプのトークンなんだけど、それは一体どうやったら説明出来るのか、と。
(ここでは「赤い」という性質を例に挙げたが、「aはbより前にある」とか「aはbを愛している」とかいった関係もまた本書では同様に扱われている)
これに対して、アームストロングが6つの立場(さらにもう少し細かく分かれるけど)について解説し、それぞれの道具立てや問題点を挙げ、比較を行っている。
各説の問題点などを比較考量した上で、その中でも最も伝統的な立場である普遍者説(その中でも特に実体-属性説)が最も評価できるとして、アームストロング自身はこの立場をとっている。
そういうわけで、アームストロングは明らかにある特定の説の立場にたっているのだが、どの説に対しても詳しく解説しており、現代における普遍論争が全体的にどういう状況なのかということを把握することのできる、よい入門書だと思う。
また、この本は訳注が充実している。
というか、原注が存在していない。訳者あとがきによれば、「註という便利で楽しいものを使わない理由は訳者にはわかりかねるのだが、アームストロングはあるところで「私は決して脚注の愛好者ではない」と言っている。」とのことである。
「註という楽しいもの」っていいw
アームストロングによる説明が足りない部分に対する補足説明や、議論の整理などがなされていて、助かる。
「薄い〜」と「厚い〜」、「強い〜」と「弱い〜」といった分析哲学でよく見られる形容詞についても解説されていたのもよかった。読んでいてなんとなーくは分かるんだけど、ちゃんと言語化して説明できないあたりなので。AがBを含意していて、BはAを含意していない時、AはBより強いとか*1
また、各章の冒頭には訳者による要約も付されている。
本書で検討される立場
- 自然なクラス説→第2章
- 類似性唯名論→第3章
この2つがいわゆる唯名論として検討される。性質や関係の存在を認めない立場であり、アームストロングはそれを塊理論と呼ぶ。塊理論の対義語は多層ケーキ理論。個別者が、性質によって構造化されているか否かの違い。塊理論の立場にとって、リンゴはあくまでもリンゴで、赤くて丸くて甘酸っぱい塊であり、リンゴの赤さとか丸さとか甘酸っぱさとか個々の性質を区別できない。多層ケーキ理論は、リンゴが、赤さ、丸さ、甘酸っぱさというそれぞれの性質によって構造化されていると考えるので、個々の性質について区別することができる。
- 普遍者説
これがさらに2つに分けられる
-
- 束説→第4章
- 実体−属性説→第5章
アームストロングが支持するのは、普遍者の実体−属性説となる
どちらも多層ケーキ理論(ただし、実は塊理論をとる立場もあるのだが、それについては後述)
普遍者と個別的事物との関係について、束か実体-属性かに分かれる。
- トロープ説→第6章
性質や関係の存在を認めるという点で、多層ケーキ理論である。ただし、それらは普遍者ではなく個別者であるというのが、トロープ説である。
トロープ説もさらにいくつかの立場に分かれる。
-
- トロープ版自然なクラス説
- トロープ版類似性唯名論
- トロープ+普遍者説
また、トロープと個別的事物との関係について、やはり束か実体−属性かという選択肢がある。トロープ説をとる論者の大半は束説をとるが、アームストロングはここでも実体−属性説を支持している。
アームストロングが、普遍者説を支持しているのは既に述べたとおりだが、僅差で、トロープ版類似性唯名論がそれに続くとしている。
それ以外の立場については、多層ケーキ理論の方が塊理論より優れている、塊理論の中では、類似性唯名論が自然なクラス説より優れいている、としている。
多層ケーキ理論の中での最下位は束説。
そういえば、序文に「経験的形而上学のプロジェクト」と書いてあった。経験的形而上学というのが一体何であるのか具体的に説明はされていないけど、「経験的」と「形而上学」の組み合わせは、「分析形而上学」という言葉の組み合わせよりもさらに不思議さを感じさせるもののようにも見える。
読んでいると分かるが、アームストロングは物理主義で、物理学的な探求によって、何が普遍者かとか分かるんじゃないかとか考えている。
第1章 問題設定
タイプが同じであるというとき、その「同じ」は厳密な意味での同一性なのか、緩やかな通俗的な意味での同一性なのか
前者=実在論者
後者=唯名論者
まず最初にクラス唯名論について
クラスという言葉は、この本に限らずよく出てくるのだが、まあ集合と同じ意味でとってもよいみたい
もちろん、本当はクラスと集合は別物なのだが、アームストロングによれば、普遍の問題に限って言えば同じものとみなしてもよいのと、クラスと集合が別物だと分かる以前から普遍の話をする際には「クラス」という言葉が使われていたので、クラスという言葉を使っているとのこと。
本書ではクラスの自然さ、というのが前提されている。
例えば、トマトやリンゴや郵便ポストからなるクラスは自然だけど、ルート2とオペラハウスのクラスは自然ではないよね、みたいな。前者は「赤」というタイプに対応しているけど、後者はどんなタイプにも対応していないと思われる。
ここには客観的な差異があるとしている。
本書で扱われる普遍論争は、この違いにどのように説明するかということについて、様々な立場が紹介されるものとなる。
極端な唯名論として、述語唯名論と概念唯名論があげられて、これらは本書では扱われない。これらは、クラスの自然さについては説明ができない。
本書での方法論についても軽く説明されている
一撃必殺の論駁はない
他の条件が同じであるならば、倹約性の高い方がよい
このあたりは、『ワードマップ現代形而上学』にもあったのと同じ感じか。
トロープという語について、訳注によると、ウィリアムズが使い始めたものだが、彼は不要なコノテーションが少ないという点でこの語を採用したみたい。辞書的には、トロープというのは比喩表現の一種か何かを意味しているのだが、ウィリアムズは、実際にはほとんど使われていないだろうと判断したらしい。
第2章 原始的かつ自然なクラス
自然なクラス説は、「自然さ」をそれ以上分析できない原始的な概念とみなす立場
この説が必要とするコストは以下のとおり
1.クラスという存在者
2.個物とクラスの間の成員関係
3.クラスの自然さという概念
4.自然さの形式的特徴
自然なクラスはどのようにしたら分かるか
自然なクラス説の支持者であるクイントンは、自分たちが自然に行うクラス分けを規準にするが、アームストロングは自然科学こそがその役割を担うと考える。
自然性には程度があるが、その尺度は非体系的で、不確定的、恣意的なもののように思える
→自然性はさらに他の概念によって分析されるのではないか
自然なクラス説への批判
・共外延性の問題
・クラスの同一性条件にまつわる批判
・タイプがクラスを決定するのであって、その逆ではない
・因果性の問題
・関係についての問題→二階のクラスや順序対を使って分析する必要があるが、それでも対応できない
・高階のタイプの問題→性質同士の比較、順序関係を分析したり説明したりできない
第3章 類似性唯名論
クラスのもつ「自然さ」という性質を、クラスの成員間に成り立つ類似性関係によって分析する
自然さの程度は恣意的であったが、類似性によって分析することでこれを払拭できるか→自然さよりはましだが、類似性も一義的に順序づけられるものではない。
類似性唯名論が、伝統的な批判を回避するためには、類似性を決定するような本性として「個別的本性」というものを、個別的事物とは別に導入する必要があるとアームストロングは述べる。
類似性唯名論にとって必要なコストは、類似性関係の以下の「公理」を許容しなければならないこと
・さまざまな程度を許容する
・上限(厳密な類似性)と下限(類似性の欠如)がある
・常に対称的であるが、厳密な類似性を除いて推移的ではない
・aがある特定の程度Dにおいてbに類似しているならば、aの代わりにaの厳密な類似物にしても、類似の程度は変わらない
類似性唯名論への批判
・同一性条件にまつわる批判→回避可能(類似性唯名論は、適切な類似性構造が維持されていれば、タイプの同一性を揺るがさないので、この手の批判には応答可能。類似性唯名論はクラス理論ではない!)
・タイプ決定するのは何か→個別的本性
・因果性→自然なクラス説よりはまし
・共外延性の問題→クラス理論と同じ困難
・関係の問題→同様
・高階のタイプ→同様
・類似性の無限後退→類似性唯名論への有名な反論だが、アームストロングによれば、この批判は実はどの立場に対しても当てはまり、むしろ普遍者説にとって問題になるかもしれず、類似性唯名論においては無害な無限後退ですむ
第4章 普遍者の束としての個別者
性質や関係を複現可能なもの(普遍者)と考えるか、複現不可能なもの(トロープ)と考えるか
事物と性質の間の関係を、実体−属性と考えるか、束と考えるか
2×2で4つの立場に分かれる
(1)普遍者の実体−属性説、(2)普遍者の束説、(3)トロープの束説、(4)トロープの実体-属性説
それぞれ、(1)伝統的実在論者と筆者、(2)ラッセル、(3)スタウト、ウィリアムズなど多くのトロープ支持者、(4)ロック、マーティンが支持している
束説への批判
・不可識別者同一性(束説は不可識別者同一性を含意するが、これはせいぜい偶然的真理に過ぎない)
・束の構成(共存関係)に関する問題
→ラッセルは「完全な共存複合体が個別者である」としたが、グッドマンの「不完全な共同体問題」で完全な共存複合体が個別者であることの十分条件ではないことが、また双子個別者について考えると必要条件でもないことが分かっている
・普遍者は世界の実体(何にも依存しないで存在するもの)か
→束説は、個別者が普遍者の束で出来ていると考える、つまり(個別者ではなく)普遍者を世界の唯一の実体だとするが、そうだとすると、何の束も構成していないような普遍者の存在も認めなければならない
第5章 属性としての普遍者
まず、どのような普遍者が存在するか、というかどのような普遍者は存在しないかということについて
- 個別例をもたない普遍者
→これについては、例化の原理(全ての普遍者は何らかの個別者によって例化されなければならない)を認めるか否かということで、どのような立場に分かれるか説明される。
以下の3つの軸によって分類できる。
プラトン主義ならば超越説で、超越説をとると塊理論になる(トロープを認めるならば多層ケーキ理論)
非プラトン主義は超越説と内属説のどちらも可能だが、超越説をとる動機はない。内属説は必ず多層ケーキ理論。
- 選言的、否定的、連言的普遍者
選言的普遍者や否定的普遍者は、因果的力能などの問題があるので拒否されるべき。連言的普遍者はその限りではない。
家族的類似性の議論から、(ウィトゲンシュタインが目したと思われる)普遍の問題の解消ではなく、述語と普遍は単純な仕方では結びつかないということを教訓とする
述語と真正な性質や関係が結びついているかどうかどのように判断するか
→述語の有意味性から導く立場=アプリオリ実在論→あまりに楽観的すぎる
→科学的探求によって導く立場=アポステリオリ実在論→より優れている
アプリオリ実在論は、物理学に特別な地位を与える。物理学における諸性質(質量、電荷、延長、持続など)は真の性質普遍者、時空的関係や因果的関係は真の関係普遍者
日常的なタイプ(常識的世界像に属するタイプ)は暫定的で、家族的類似のグループにすぎないことも多いかもしれない
「たとえ日常的なタイプのあるものが、実在世界という野獣をその真の関節に沿って切り分けることがあったとしても、そうしたタイプは依然として、その関節の本来の姿を露わにしてくれないこともあるだろう。」
普遍者説は、個別者、普遍者、例化以外に〈aがFであること〉や〈aとbがRであること〉という「事態」の存在も必要とする
「真にするもの原理」*2から導かれる
真にするもの原理が認められないとしても
(1)我々は事態に言及できる
(2)事態は因果関係の項の有力候補である
(3)普遍者説にとって問題解決の助けになる
以上の3つが、事態を認める理由になる
事態についてのいくつかの論点
(1)クラス唯名論や類似性唯名論は、事態を必要としない
(2)まったく同じ構成要素からなる異なる事態が同時に存在しうる。
(3)事態は、性質や関係を認める立場であれば(つまりトロープ説であっても)必要とする
(4)事態とその構成要素の関係は、全体とその部分の関係(メレオロジー*3 )ではない。
5)事態が非メレオロジー的であることは、束説にとって有利に働くかもしれない。ただし、そのためには束説は新たな定式化を必要とする
世界は事態からなる
個別者も普遍者も、事態の構成要素としてのみ世界に存在する、という描像が提示される
普遍者については例化の原理
個別者については、「裸の個別者の拒否」という原理を認める必要がある
薄い個別者と厚い個別者について
薄い個別者=基体(全く性質をもたない、裸の個別者)
厚い個別者=基体+性質
薄い個別者という考えはロックに由来するが、経験的に与えられないので経験主義者に攻撃されてきたが、厚い個別者という考えなら経験的に与えられる
厚い個別者とは、実は事態に他ならない。よって個別者を構成要素として持つ。
普遍者を「あり方ないし仕方(ways)」として捉える(サージェントの見解)
非プラトン主義にたつと、普遍者を時空間に位置づけることになるが、そうすると同時に複数の場所に位置することになってしまう(プラトンの立場なら避けられた)。しかも普遍者は、異なる場所それぞれに「全体として余すところなく」存在する。
→世界は事態によって構成されている。そして、普遍者は事態の構成要素である。つまり、普遍者は世界の構成要素である。世界そのものを構成しているのだから、世界での位置を問うことに意味がない。
高階のタイプについて
普遍者説は、唯名論と違って高階のタイプに関する困難をもたないし、唯名論では高階のタイプを必要とした類の問題について、高階のタイプを持ち出さなくても解決できる
類似性について
類似性唯名論が「公理」とした形式的特徴について、同一性によって分析が可能になる
普遍者の間の類似性について
→性質の複合性を、自然科学的に探求することによって特定されないかというプログラムを、アームストロングは提案する
→このプログラムがうまくいかないと、普遍者の間の類似性については、類似性唯名論と同様に類似性を原始的な概念とすることになる
無限後退について
言明は無限後退するとしても、それらの言明を真にするものは事態がひとつあればよいから、無限後退は止められる
普遍者版の実体−属性説のコスト
(1)性質と関係の実在を認める
(2)事態の存在を認める
(3)n項関係の例化の概念を必要とする(これは(2)を認めれば自動的に手に入る)
(4)もしかしたら、普遍者間の類似性?
第6章 トロープ
トロープ説について
実体-属性説か束説か
自然なクラス説か類似性唯名論か
という2つの対立軸で分けられる。
前者について、主流は束説だが、既に述べた同様の批判をもって、アームストロングはトロープ説でも、束説より実体-属性説の方が優れているという。
自然なクラス説か類似性唯名論かについて
これもまた同様に、類似性唯名論の方が優れいているとする。
あくまでも理論上のものだと考えられていた厳密な類似性は、トロープ版だと成り立つことが珍しくない。
厳密に類似したトロープのクラスは、相互に排他的であり、普遍者の代理物として機能する→トロープ説にとって有利
トロープ説も事態を必要とするが、マーティンのいう「移転不可能」を認めれば必要ではなくなる。
事態も移転不可能もどちらもコストであり、どちらを選ぶか迫られる。アームストロングは移転不可能について、世界の個別者と性質と関係が与えられると世界のあり方が定まるという別種の神秘性ではないかとしている。
トロープ版類似性唯名論は、他の説にとって問題とされたことがことごとくクリアできる。
問題点
厳密に類似した2つのトロープの間での入れ替わりの可能性
→世界に何も変化をもたらさない入れ替わりなので、この可能性は認めたくない。「移転不可能」を認めると、この可能性はなくなる
第7章 まとめ
性質と関係は実在する(これはかたい)=塊理論ではなく多層ケーキ理論
もし塊理論のどちらかを選ばなければならないとするなら、類似性唯名論(類似性の基盤である個別的本性を認めることで、自然なクラス説の抱える困難をクリアできる)
多層ケーキ理論の中での最下位は、束説(不可識別者同一性の困難と束の構成に関する困難)
トロープ説は、自然なクラス説と類似性説であれば後者が有利。束説と実体-属性説であれば、束説の方が多数派だが、実体−属性説の方が有利
最終候補は、普遍者説とトロープ版類似説
- 類似説かつ実体−属性説であるトロープ説の困難
(1)厳密に類似したトロープの入れ替わり
(2)類似性の公理について(普遍者説なら同一性で分析できる)
- 普遍者説の困難
(1)普遍者の間の厳密でない類似性の分析が可能かどうか
→部分的な同一性で分析可能ならば、超有利
→不可能ならば、類似性を原始的関係として理解しなければならなくなり、弱められる
- 自然法則の本性の問題
→自然法則とは普遍者の間に成り立つ還元不可能な高階の関係という見解
→このような見解をトロープ説はとれない
→もし正しければ、普遍者説が有利となる
→D・ルイスはこのような見解を批判している
感想
自分としては、アームストロングが「僅差で2番手」としているトロープ版類似性唯名論に惹かれた。
自分が、何故それをよいと思ったのか、論証を組み立てたりはできないが、印象を述べておく。
まず、もともと実在論よりも唯名論の方に何となく好意を抱いているw
普遍者なるものが存在していることについてのメリットは、この本や他の形而上学の本を読むにつれて理解できるようになってきたし、自然主義と相性がいいのも実は実在論なのかもしれんと思いはじめたりもしているのだけれど、普遍者が存在しているっていうのは一体どういうことなのか、感覚的にうまく掴むことができないでいるというのがある。
それからこの本で「なるほど」と思ったのが、タイプが同じであるという時の「同じ」がどういうことかという点で、厳密な意味で同じなら実在論、緩い意味での同じなら唯名論とあった。その点でいうと、厳密な意味で同じとは、個人的にはあまり思えない。リンゴの赤とポストの赤は、同じ赤といっても、厳密な意味で同じ色だとは思えないから。類似性に訴える方が納得いく。リンゴの色とポストの色が同じ「赤」のタイプに属しているのは、それぞれの色が非常によく似ているから、ではないか、と。
それから、アームストロングがコストを高く見ている、マーティンいうところの移転不可能が、それほどコスト高であるように思えなかった。
「このリンゴの赤さ(トロープ)」は「このリンゴ」のものであって、それ以外のものがもつことはないような気がするのだけど。
あと、普遍者説が、同時に複数の場所に存在することについて、あまり説得されなかった。
事態の存在もちょっと気になる。出来事と同じようなものなのだろうか。そうだとすればそんなに問題ないのかもしれないけど。
あと、あまり根拠とかあるわけではないけれど、類似性が原始的な概念でもいいんじゃ、みたいな気もしたりしている。
そもそも真正なタイプはあるのか
真正なタイプ、自然なクラスはあって、客観的な違いがある、ということが前提にされている。
まあ、この前提自体は正しいように思える。
けれど、この前提を認めない人もいるだろうと思えるので、ここについてそれほど議論していないのは気になるといえば気になる。
例えば、グッドマンとか。グルーのパラドックスって、自然なクラスという考えに真っ向から挑戦してるように思える。
あと、類似性について、「見出そうと思えばどんなペアにも無限の類似と無限の相違がある」というのがあるけど、本書では、そういうことをいうと自然なクラスという前提自体に背くのでよくないとされていたけど、グッドマンがrepresentationの類似説を批判したのってそういう議論だったような。
ともかく、「自然さ」というのは、投射やら習慣やらによって成り立っているものなんだ、と言うのではないか。グッドマンは、アームストロング言うところの極端な唯名論者にあたるような気がする。
世界を関節で切り分けるって言葉があったけど、そういう「関節」が世界の側にあるのか人間の側(認識能力なり習慣なり)にあるのか、そして世界の側にあるとして、それを人間は適切に認識できているのかという、前者は形而上学的な、後者は認識論的な問題がある。
もっとも、グッドマン的な立場にたったとしても、投射や習慣だとしても、「客観的な違いがある」ということは言えるかもしれない。記号システムに相対的ではあるけれど、記号システムさえ定まれば、何が「自然か」は定まる。
自然かどうかには客観的な違いがあるといってもいいが、それが世界の側の違いによってもたらされているかとまでは言えないくらいの立場が、グッドマンかも
アームストロングが極端な唯名論と言ってるのは、述語唯名論とか概念唯名論とかで、これらは人間の側(述語なり概念なり)がタイプを決定することになってしまうが、そんなことあるかって一蹴している。
個人的にも、アームストロングの言ってることの方が正しいとは思う。
グルーのパラドックスも世界制作も面白いんだけど、言うてもグルーっておかしいって思うよねっていうw
グルーなんていう性質が不自然だと思うのは、たまたまそういう習慣にすぎないというのがグッドマン
(世界の側で何が正しい色かなんてものは決まっていなくて、だからどういう習慣やシステムかによって「世界制作」される)
そもそも世界の側でグリーンとブルーは分かれていて、グルーなんてものはないというのが、現代形而上学における前提
そういう感じだろうか。
この対立は、そもそも哲学においてはよく見かける奴かもしれないなー
確かに人間にはそういうふうに世界は認識されているけど、世界そのものが一体本当はどういう姿をしているかなんて人間には不可知でしょっていう立場と
そうは言っても、人間の認識能力が世界の本当の姿と結びついてないってのもおかしな話で、世界がどういう姿しているかある程度は言えるでしょって立場
個人的には、かなり後者の立場
この本で前提とされている、クラスの「自然さ」に客観的な違いはあるというのも受け入れるし、その違いは世界の側で生じているものだと思う。
自然主義だったり、科学哲学における実在論だったりを、心情的に支持しているからで、実は、自然科学って正しいよねってわりと素朴に思っている派だと、形而上学との親和性も高いのかもしれない。
で、そうなってくると、唯名論じゃなくて普遍者説の方がいいんじゃねってところまで、あと一歩かもしれないとも思えてきてしまって困るw
でもやっぱり、類似性唯名論の立場にいたい*4。
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