様相実在論についての本
D.ルイスの本は、以前、デイヴィッド・ルイス『反事実的条件法』 - logical cypher scape2も読んだ
『フィクションは重なり合う』の構想段階で、タイトル案として『虚構世界の複数性について』というものも考えていたので、やはり読まねばならぬだろう、と
面白いは面白いのだけどやっぱり難しいのでまあいつもの如く飛ばし読み。特に後半。
形而上学の議論なので、やはり決定打はない。どちらの立場をとる方が、よりマシかという話がなされている。
その理論を採用するメリットと、理論的一貫性や常識や科学との整合性などから考えられるコストとを比較する。
様相実在論については、やはり、あまりにも常識から逸する存在論を要求するという点がコストであり、ルイス自身もそのことは重々承知している。承知した上で、そのコストを引き受ける価値はあるし、またその価値を享受するには高いコストを支払わざるを得ないのだという形で論じている。
第1章で、様相実在論がどのような理論であるか説明がされる。
第2章は、様相実在論に対する反論の検討。
第3章は、もっと安いコストですむと主張する代替案に対する検討
第4章は、様相実在論とともにルイスが主張する対応者理論についての諸々の検討。
個人的に、面白かったところ・勉強になったところなど
1
まず、様相実在論で一番気になるのは、様相的な言明をする際に、しかし我々は別に可能世界について何か言っているわけではないのでは、ということ。ルイス自身が主張するように、可能世界は時空的にも因果的にもこの世界から切り離されているので、可能世界について我々は知ることができない。そんな世界のことを指示したり量化したりできるのか、と(ちなみに、ルイスは何か「指示」とは言わずに「意味論的値」という)。
これについてルイスは、数学だってそうでしょみたいなことを言ってくる。なんか言いくるめられているようにしか思えないのだけど、「数学か、確かに、むむむ」とはなる。
ただ一方で、「抽象的」ってそもそも何言いたいのかわかんねーよとか、可能世界が具体的な存在者だと困るけど抽象的な存在者だと問題ないってなんでだよとかには、言われてみればそうかも、と思った。
2.性質について
いわゆるクラス唯名論だと思うのですけど、恣意的なへんてこなメンバーを選んで集合作っても性質ってことになってしまう、というのがよく問題点と指摘されているわけだけれど、ルイスはむしろそういう性質もあってしかるべきでは、という感じ。
自然的性質というのをいかに説明するのか、というところにポイントがあるとアームストロングはデイヴィッド・M・アームストロング『現代普遍論争入門』(秋葉剛史訳) - logical cypher scape2で言っていた気がするのだけど、ルイスは、不自然な性質も当然あるよねって感じなので、そこは立場が違いそう。ルイスのそういう主張はわりと首肯しやすいのだけど、ただ、ルイスの立場だと自然的性質が原始概念として残ってしまうらしい。
3
それから、科学における理想化と可能世界の関係とかに触れているのも面白かった。信念代替の分析も面白い。どういう到達関係を考えるかで、対応者と信念代替は必ず一致しない話。
4.言語的代用主義について
エイリアンな性質について記述できないという指摘は、なるほどーと思った。
5.対応者理論について
これ、イメージがだいぶ変わったというか、よくわかってない部分が多かったのが、なんかイメージが掴め始めたというか、そんな感じ
類似性によって対応者が選ばれる。
類似関係なので推移性はない。
その類似性は、問題となっている文脈によって違ってよい。
時には、同じ世界にいる別の個体が対応者となることもある(可能性は、可能世界だけでなく可能個体にも対応している)。
時間的存在や起源のパラドクスや物質的構成といった、形而上学入門で出てくる話も出てきて、面白かった。
それから、八木沢解説で扱われてるけど、xの対応者yってxとは別人なのだからyについての述定はxと関係なくないという批判に対して、ルイスがそもそも貫世界的述定と世界内述定を区別しているのだ、と。xが別の可能世界W2でFをもつことの真理条件は、xがW2でFをもつではなくて、yがW2でFをもつ、であるというのがルイス理論
オーバーラップ認めてないものなあ。
貫世界的個体やこのもの主義に対する反論もまた面白いというか、貫世界的個体とかが変なもので、対応者の方がより直観にそっているということがわかる。
序 文
第1章 哲学者の楽園
1・1 世界の複数性テーゼ
1・2 様相実在論に何ができるか —— 様相
1・3 様相実在論に何ができるか —— 近さ
1・4 様相実在論に何ができるか —— 内容
1・5 様相実在論に何ができるか —— 性質
1・6 世界の分離
1・7 具体性
1・8 充満性
1・9 現実性第2章 楽園にあるパラドックス?
2・1 あらゆるものが現実的になってしまう?
2・2 すべての世界がひとつの世界のうちにある?
2・3 実際よりも多くの世界がある?
2・4 いかにして知りうるのか?
2・5 懐疑主義への道?
2・6 無関心への道?
2・7 恣意性が失われる?
2・8 疑いの眼第3章 安上がりな楽園?
3・1 代用主義のプログラム
3・2 言語的代用主義
3・3 図像的代用主義
3・4 魔術的代用主義第4章 対応者か、それとも二重生活者か?
4・1 良い問いと悪い問い
4・2 世界のオーバーラップへの反論
4・3 貫世界的個体への反論
4・4 このもの主義への反論
4・5 表象の一貫性への反論解説 (八木沢 敬)
第1章 哲学者の楽園
1・1 世界の複数性テーゼ
1・2 様相実在論に何ができるか —— 様相
通常、様相は制限された量化である。そして、ある与えられた世界(おそらくはわれわれの世界)の観点から、いわゆる「到達可能性」関係を用いて量化は制限される。pp.8-9
事象様相、すわなち、事物についての潜在性や本質は可能個体に対する量化である。可能世界に対する量化が一般には到達可能性関係によって制限されているように、可能個体に対する量化は一般に対応者関係によって制限されている。いずれの場合も、これらの制限的な関係には通常、類似性の概念が含まれている。p.9
ボックス記号やダイヤモンド記号であらわされる様相について
標準的な様相論理を超えてしまう様相的な言い回しについて
例えば、比較に絡む様相やスーパーヴィーニエンス
1・3 様相実在論に何ができるか —— 近さ
反事実的条件文と世界の近さについて
ある反事実的条件文(引用注「Aだとしたら、Cであるはずだ」)が真であるために、この世界がどのような特徴をもたねばならないかを簡潔な仕方で述べるには、ほかの世界をその説明に持ち込むしかない。(中略)われわれの世界は、世界がどの世界より近いとされる、そのような世界なのである。p.26
反事実的条件文は、因果概念とも深く関係している。
因果の分析について、ほんのさわりであり、他に解明しなければならないことが多いと断りつつ、ルイスは、ある出来事が別の出来事に反事実的に依存しているとき、因果的にも依存していると考えている。
また、科学理論について、反事実的条件文以外でも、世界の近さという概念が役に立つ
間違った科学理論の、間違っていた度合い(真理への近さ)を可能世界の近さによって説明する。
あるいは、摩擦のない平面、理想気体といった理想化についても同様。
このとき、可能世界が利用される。理想的状況は非現実的だが、現実になぞらえて考えるには有用である。理想化を前提する理論は、われわれの世界において偽な理論であることはわかっているが、われわれの現実に近いとされる世界では真である。p.30
1・4 様相実在論に何ができるか —— 内容
知識や信念の内容について
世界に関して有する信念の内容を、信念的到達可能世界によって
自己中心的信念の内容は、可能個体のクラス(=信念主体の信念代替(doxastic alternative)によって特徴づけられる
信念文の色々なパターンについて、分析している
(例えば、ルネは自分が非物質的だと信じている、とか。ルネの対応者が全て物質的である場合、ルネの対応者とルネの信念代替は一致しない)
それ以外に、言語の分析についても取り上げている
意味論的値は、世界、時点、話者などの関数になっている等の話
1・5 様相実在論に何ができるか —— 性質
ルイスは、性質や関係を事例の集合、命題を可能世界の集合ととらえる。
集合説は、まず外延が一致するような性質を説明できないとされる。
例えば、心臓をもつ性質と腎臓をもつ性質のような。ただし、これは可能個体を導入することで解決される。
次に、三角形と三辺形のような、必然的に外延が一致するような性質が持ち出される。
これに対してルイスは以下のように述べる
三角形のすべてが、そしてこれらのみが三辺形である。だが、この二つは別個の性質であると言いたくはないだろうか。/言いたくなるときもあれば、言いたくないときもある。私には、これが論争を呼び起こす問題だとは思えない。ここには、われわれが性質について述べることにおける食い違いがある。われわれは、単に二つの異なる捉え方をしているのである。p.61
こういうような話は、先の節の言語のくだりでも実は出てきた。例えば、「意味する」という言葉の意味について、はっきりと決められたものがあるわけではない、と。ここでも、「性質」というときに、どういうものが性質なのかはっきりとした共通見解があるわけではないことが指摘されている。
そのうえで、三角形と三辺形を区別するような、構造付きバージョンの性質も作れることを論じている。
集合論は、雑多な、不自然な集合も性質にしてしまうということも問題点として指摘されている。
これについてルイスは、「豊富な性質」と「まばらな性質」という、やはり「性質」についての食い違いを指摘する。
ルイスが、性質を集合と考える時の性質は「豊富な性質」である。そして、「まばらな性質」は「豊富な性質」の部分であるとして、少数派を「自然的性質」と呼ぶ
自然的か否かの区別を原始概念として受け入れるか、それ以外の選択肢として普遍者理論ととロープ理論がある。
1・6 世界の分離
可能世界は部分をもっている。その部分とは、可能個体である。二つの事物が同じ世界の部分である集合、私はそれらを、世界をシェアする仲間という意味で「世界メイト」と呼ぶ。世界はその部分である可能個体すべてのメレオロジー的和である。なので、世界とは、お互いが世界メイトどうしの関係にある可能個体すべてのメレオロジー的和であるとも言える。世界はまた極大のメレオロジー的和でもある。p.75
可能個体の和のうち、可能世界であるものとそうでないものの違いは何だろうか。何が二つの事物を世界メイトとして束ねているのだろうか。p.76
貫世界的な比較は可能だが、貫世界的な時空的関係は不可能である。p.76
世界は、その部分どうしのあいだで成り立つ時空的相互関係によって、ひとつにまとめられているになる。p.78
この時空的関係は、類比的な時空的関係でもよいとされる。
世界が分離している方法はもうひとつある。ある世界から別の世界へと及ぶ因果関係はないのである。もし必要ならば、この因果的に分離していることを、時空的に分離していることとともに、世界の線引き原理として採用しよう。だが実際にはその必要はない。因果関係を反事実的依存によって分析するならば、世界が因果的に分離していることは自動的に導かれるのである。p.85
世界をまたぐ因果関係はありえない。そしてこれは、私が世界の線引き原理としてそのように約定したからではなく、因果関係と反事実的条件法に対する私の分析の結果としてそうなるのである。またこれは、他の世界を見ることができるような、とても強力な望遠鏡がありえないことの本当の理由である。p.87
可能世界と可能世界とを移動することは不可能だということを述べている。
ただし、複数の世界類似部分をもつような巨大な世界がありうる可能性は認めている。このような世界であれば、ifの歴史の世界を行くというようなことはできる。
私はまっとうなSFを哲学的に妥当でないと批難するような人間ではない。むしろ逆だ。「他の世界」を見たり訪れたりする物語は完全に整合的である。そうした物語は無数の可能世界において真となる。ただ、どうやって見たり訪れたりする「他の世界」は、私が「他の世界」と呼ぶものではあれないのである。p.88-89
1・7 具体性
可能世界は、この世界とかわることがない。
クリプキは可能世界が抽象的だというが、ルイスは可能世界が具体的な存在であると言われるが、ルイスはここで、そもそも「具体的」とか「抽象的」とかは一体どういう意味なのか、と問う。
具体的存在者と抽象的存在者の区別が以下の4つの方法によって行われているという。
(1)例示法
ロバや水たまりや陽子のようなものは具体的存在者であり、
数のようなものが抽象的存在者である
(2)混同法
具体的存在者と抽象的存在者の区別は、個体と集合の区別あるいは個別者と普遍者の区別に他ならない
(3)否定法
抽象的存在者は、(a)時空的位置をもたない(b)因果的相互作用をしない(c)互いに識別不可能とならない
(4)抽象法
抽象的存在者とは、具体的存在者から抽象されたものである。これについては、語源的には正しいが、現代哲学手においては支配的な方法ではないと。
例示法と否定法については問題があるが、おおむね、ルイスの述べる可能世界は具体的なものであるといえると
1・8 充満性
論理空間にギャップが存在しないこと=現実ではないが可能ではあるなんらかの世界のあり方に対応する場所が抜けていることはない=充満性の原理
これは本当に満たされているか
→組み換え原理
異なる可能世界の部分をつなぎ合わせると別の可能世界が生み出される
1・9 現実性
現実性の指標的分析
「現実」という語は、「いま」「ここ」「私」などと同じ指標的名辞
つまり、どの世界で発話がなされたのかということと関連する
こうして、現実性は相対的な問題になる。すべての世界がその世界自身において現実であり、この意味ですべての世界は同等である。これは、すべての世界が現実である、ということではない。p.102
「現実」は、固定的な指標詞か非固定的な指標詞か
例えば「今」は固定的、「現在」は固定的にも非固定的にもなる。
「現実」も固定的にも非固定的にもなる
何が現実と呼ばれるべきかを一度できっぱりと確定的な仕方で決定する必要はない。p.105
例えば、「数」とか、性質(他の世界の事例も含めた集合)とかは、他の世界を含むが、「現実」と呼んでもかまわない
第2章 楽園にあるパラドックス?
いくつかの反論に答える章
4つのパラドックスと、パラドックスというわけではないがコストとなるような3つの問題
2・1 あらゆるものが現実的になってしまう?
イン・ワーゲンやライカンによる反論
「存在するものは現実的である」ということは正しいと考える人たちにとって、ルイスの主張はパラドックスに陥っているように見える
「現実」という言葉の使い方が違う。
「現実」を包括的なものとして使うかどうか。
ライカンは、ルイスがマイノング的な量化を行なっていると批判。対して、ルイスは自分とライカンで量化の仕方に違いはないという。存在するすべてのものが量化のドメインで、制限する方が都合が良い場合は、その一部をドメインとする。
むしろ、「現実」とか「世界」という語の使い方が、批判者とルイスとで異なる。
2・3 実際よりも多くの世界がある?
カプランによるパラドックス
2・4 いかにして知りうるのか?
可能世界は様相言明に対して真理条件を与えるとして、真かどうかどのように知ることができるのか
個人的にも、以前から気になっていたところ
これに対してルイスは、数学を持ち出す
数学的真理にしても、見知りによって真かどうか知っているわけではないけど、と
数学的対象は抽象的だが、(ルイスの)可能世界は具体的であり、そこに知り方の違いがあるという指摘に対して、
すでに述べた通り、まず抽象的か具体的かという区別の不明確さと、なんで抽象的であればよくて具体的だとだめなのかの理由がないと突っぱねる
2・5 懐疑主義への道?
パラドックスではないが、コストになる問題
フォレスト、シュレジンジャー、アダムズ、スマートらによって提起されている反論
様相実在論は、懐疑主義に自動的に陥るのではないかというもの(欺く世界、欺かれる対応者が無数にいる)
ルイスは、懐疑主義は、様相実在論と結びついているものではないとしている
ところで直接関係ないが、注の中で「培養槽のなかの脳が欺かれていないと主張する近年の論証が存在するが、私はこれが間違いだと考える。この論証は、そうした脳が何について間違っており何について間違っていないかを述べる際にどれほど注意を払わなければならないかを示すだけにすぎない。Lewis(1984)を見よ(p.312)」と書いてあった。
2・6 無関心への道?
アダムズによる反論
あるいは、ラリー・ニーヴンの小説によって示唆されるもの
他の世界が存在していると、道徳に無関心になったり、生きる意欲をなくすことになる(あらゆる可能性がほかの世界で成立しているから)
こうした主張は、間違った前提に基づいているとルイス
つまり、欲求などは自己中心的なものであるということ
生きることを欲求することは、ある種のことがらが世界の総体のどこかで起きることを欲求しそれがどこで起こるかは気にしないことではなく、自己中心的欲求、すなわち私自身が一定の性質をもつことを欲求することである。p.140
2・7 恣意性が失われる?
アンガーによる指摘
この恣意性云々の話は、人間原理みたいな話なので、最後に人間原理についても言及がある。
様相実在論者は「人間原理」を用いることができる。
(中略)
様相実在論者にならなくても、人間原理を使うことは可能である。
(中略)
われわれの世界が生命の存在を許すという驚くべきことがらが説明を要求するように見えるとき、人間原理を用いることは全く問題がない。だが私は人間原理を用いることがそれ自体で説明になるとは考えない。むしろそれは、われわれが説明なしで満足する必要があるときに、なぜ満足できるのかの理由となる。pp.148-149
人間原理が説明になっていない理由として、「世界の因果的あるいは法則論的あり方に関する情報を与えないから」としている。
第3章 安上がりな楽園?
3・1 代用主義のプログラム
様相実在論は確かに、その存在論について常識と食い違っているコストの高い理論である
これに対して、もっと安いコストですむ、代用手段があるという主張がある。
基本的に、この代用主義は、可能世界は表象であるというものである。
ルイスは3つのバージョンに分類する
(1)言語的代用主義
(2)図像的代用主義
(3)魔術的代用主義
ただし、実際には、代用主義は二つに分かれるという。
つまり、言語的代用主義を明示的に支持するジェフリー、カルナップ、スカームズ、(ある時期の)クワイン
これに対して、どのバージョンの代用主義を支持しているかを明示しない論者(プランティンガやスタルネイカー)である
3・2 言語的代用主義
ジェフリーによれば、代用世界とは「完全で無矛盾な小説」
世界作成言語による文の極大矛盾集合を、代用世界とする。
世界作成言語は、日常言語のようなものかもしれないし、理想化された言語のほうがよいかもしれない。
明示的な表象と暗黙的な表象がある
様相実在論で、可能個体は可能世界の真部分だが、言語的代用主義の場合、そういうわけにはいかない。可能個体は、世界作成言語の開放文からなる極大矛盾集合
ルイスからの反論(1)
様相を原始概念とみなさなければならない
←無矛盾の観点から
←暗黙的な表象の観点から
世界作成言語の表現力によって、どちらからは解決するがどちらかは残る
ルイスからの反論(2)
世界作成言語の記述能力の問題
- 不可識別者の問題
→識別できない多くの可能個体を記述できない
- すべての異なる可能性を記述できない
特に性質について
われわれの世界において例化していないエイリアンな性質
言語的代用主義のこれら三つの欠点(引用注:無矛盾な記述の区別、識別不可能な世界ないし個体の区別、記述可能なものの制限)を考え合わせると、私自身の世界の複数性テーゼに対して向けられる疑いの目よりもずっとダメージが大きいと私には思われる。しかし、言語的代用主義の利点と欠点を十分承知の上で、そちらの方がよりよい理論だと判断するならば、それは道理に外れるというわけではないだろう。こうしたことは、利点や欠点の重みづけとバランスの問題であり、決定的な論駁ではないと私は思う。(p.187)
3・3 図像的代用主義
代用世界は絵のようなもの(彫像を三次元的な絵、実動模型を四次元的な絵とみなすとして)
絵は、同型構造によって表象を行う
言語的代用主義と異なり、エイリアン的な性質について問題ない
ルイスからの反論(1)
原始的な様相概念が必要
説明が循環する
しゃべるロバが存在することが可能であるのは、なんらかの代用世界のある部分と同型なしゃべるロバが存在することが可能であるときそしてその時に限る。元々の様相言明の分析としては、一歩も前に進んでいないのである。p.190
ルイスからの反論(2)
識別不可能な複数の問題
ルイスからの反論(3)
そもそも、代用になっていないのでは?
ほとんど、様相実在論そのものと同じになってしまう
3・4 魔術的代用主義
言語でも図像でもなく、代用世界に何の構造もないと想定
第4章 対応者か、それとも二重生活者か?
4・1 良い問いと悪い問い
貫世界的同一性や、世界はオーバーラップするのか(ふたつの世界に共通部分はあるのか)といった問い
→これらは適切な問いではない
これらの問題から引き出される適切な問いについて以下の節で答えていく
4・2 世界のオーバーラップへの反論
偶然的内在的性質の問題についての節
どのように事象表象されるか
つまり、他の世界のハンフリーをどのように表象するか
よくある考えは、貫世界的同一性、つまり、ハンフリーはこの世界の一部であると同時に他の世界の一部でもあることによって
このような世界のオーバーラップをルイスは否定する
それが、偶然的内在的性質の問題
この世界のハンフリーは5本指であり、他の世界のハンフリーは6本指である。
ハンフリーは5本指であり、かつ彼の指は5本ではなく6本である、ということがいかにして可能なのか。
「この世界では」5本指で、「別の世界では」6本指である、という修飾詞による解決は、指の本数という性質を、内在的性質ではなく関係であるといおうとしている。しかし、これは指の本数が関係であるとは一体どういうことなのか。
他の理論ではこの問題は起こらない。
対応者理論:対応者は類似性によるもので内在的性質について異なることもある
代用主義:表象なので、持っていない性質を表象することもありうる
時間を通じての同一性とパラレル
ある時点で曲がっていて、別の時点でまっすぐ
耐続説vs延続説
オーバーラップしていても、偶然的内在的性質の問題が生じない特殊ケース
(1)普遍者
(2)オーバーラップする世界を制限する
→制限付きのオーバーラップの一例としての世界の「分岐」
→ルイスは、世界の「分岐」を認めず世界の「乖離」を支持する
→未来が複数あるとき、われわれは、どの未来が自分にとっての未来なのかを気にする。それは、分岐ではなく乖離しているからだ。分岐であれば、どちらも自分にとっての未来であるが、乖離の場合、自分にとっての未来は一つで、他の未来は対応者にとっての未来にすぎない。
4・3 貫世界的個体への反論
世界がオーバーラップしない場合、ルイスは貫世界的個体を認める
また、ルイスは、メレオロジー的和の構成が無制限であると主張する
メレオロジー的和を、直観に合致するように制限しようとすると、あいまいな制限が生じてしまう。和は存在するか否かどちらかだが、制限があいまいだと、こう言えなくなるので、あいまいな制限はありえない。すると、制限する動機が失われる。
構成が無制限であるならば、貫世界的な構成も禁止されないので、貫世界的個体は存在する。
貫世界的個体を用いて、対応者理論を再構成することができる。
貫世界的個体による理論と対応者理論は、何が存在するか、様相の分析においては同じものになる。しかし、意味論的に食い違う。
クワインは、事物が時間を通じて延続するように、様相についても世界を通じて延続する貫世界的個体による理論を描く。
しかし、ルイスは、様相の場合、時間と違って問題が生じるとする。
(1)
時間を通じての延続は、類似性だけでなく因果的依存関係があるが、対応者を統合する関係は類似性だけである
(2)
時間は、一次元的な順序があるので、短距離の類似性を徐々に積み重ねている。世界観にはそのような秩序はないので、どのような段階同士でもつながってしまう。
(3)
分裂、融合、別の人間に徐々に変わっていくなどの病的なケースがある
時間の場合、こじつけめいた話でしかなく、奇妙なケースが奇妙な記述になるのは当然だが、様相の場合、簡単に生じてしまう
(4)
時間的に延続する人は、様々な時間的部分における欲求について集合的な自己利益をもちうるが、貫世界的個体の場合、それぞれの世界の対応者と欲求や目的を共有するということはない
(5)
一般人の意見と非常に食い違う
この貫世界的個体の話は、八木沢敬『神から可能世界へ 分析哲学入門上級編』 - logical cypher scape2で五次元主義として紹介されてた奴ではないかと思う。
4・4 このもの主義への反論
このもの主義:カプランによって名付けられた。二つの世界が、質的特徴において全く異ならないが、ある個体に関して何を事象表象するかということにおいて異なるとき、これをこのも主義的違いと呼ぶことにする。このもの主義的違いが存在すると主張するのがこのもの主義。そのような違いは存在しないと主張するのが、反このもの主義
可能性はいつでも可能世界と対応するわけではない。たしかに可能世界はあるし、可能性もある。そして、可能世界は可能性の一部である。しかし、可能個体はどれもひとつの可能性であり、すべての個体が可能世界であるわけではない、と私は言いたい。p.262
自分が双子の一方だったかもしれないとき
双子の先に生まれた方であった可能性と、後に生まれた方であった可能性とは、世界のあり方という点において、何も質的な違いはない。
このもの主義者は、二つの可能性があり、二つの世界があるという。この二つの世界は、質的特徴は全く同じだが、誰かをどのように事象表象するかという点について異なる(このもの主義的違いがある)
一方ルイスは、この二つの可能性は、一つの世界の中の二つの可能性であるという。一つの世界の中に、自分の対応者が2人いると考える。
私がフレッドだったかもしれない可能性
私がフレッドであると事象表象するような世界を持ち出す必要はなく、フレッドが私の対応者で可能個体である。この世界において、私がフレッドだったかもしれない可能性を述べている。
代用主義とこのもの主義の関係
ポーチエドッグである可能性について
チザムのパラドックス(Aが少しだけBに近く、Bが少しだけAに近い可能世界というのを延々続けると、AとBが入れ替わっているパラドックス)や起源のパラドックス
対応者理論によれば、対応者関係は類似関係であり、類似関係は推移性がないので、このようなパラドックスは生じない。
4・5 表象の一貫性への反論
グレート・ウェスタン鉄道の問題(同じ表象がある世界では同じものをさし、別の世界では別のものをさす。グレート・ウェスタン鉄道は、一部の路線がほかの鉄道会社にとられて欠損している)
物質的構成の問題(物体と材料との二つの存在(プラスチックの塊とトレー)が生じてしまう問題)
対応者理論による説明
対応者関係や類似性の意味は一貫してもいないし確定してもいない
二つの事物が、ある文脈では対応者であり別の文脈ではそうでない、といことがあってもよい。あるいは、二つの事物が対応者であるかどうかは不確定であってもよい。p.288
どの点で比較するかによって、対応者になったりならなかったりする。
「グレート・ウェスタン鉄道」の対応者が、会社全体をさすか、路線を指すか
厳密な意味での固定指示子とは、すべての世界で同じ事物を名指す表現のことである。数などについては、これはまったく結構なことである。だが、世界がオーバーラップしていなければ、人や事物——たとえば鉄道会社——に対して用いられる通常の固有名でさえ、厳密な意味での固定指示子であることを期待できない。しかしながら、通常の固有名が準固定指示子であってもおかしくない。すなわち、そうした通常の固有名は、別の世界では、この世界で名指している事物の、その世界での対応者を名指すかもしれない。(中略)ある名前は、その名前によって喚起されやすい対応者関係のもとでは準固定指示子であるが、同じ事物に対する別の名前によって喚起されやすい対応者関係のもとではそうではないかもしれない。(p.290)
トレーとプラスチック、ロウとロウ人形も二つの対応者関係があるということ
競合理論について
このもの主義的な対応者理論、反このもの主義的な言語的代用主義、このもの主義的な言語的代用主義は、ルイス理論と同じくらい、この問題に対処できるので、この点について、ルイス理論が特に優れているといえるわけではない。
ただし、オーバーラップすることを認める様相実在論は、困難がある。
解説 (八木沢 敬)
八木沢による解説は、八木沢のサイトにて公開されている。→ルイス解説.pdf
ルイスを有名にしたのは、大学院生時代に書かれた、心身同一説についての論文らしい。機能主義から同一説を擁護するというもの。
『規約』は博論らしい*1。
本書は、ジョン・ロック講義をもとにしたもの
ルイスにとって哲学とは、人々がもっている意見を弱めたり正当化したりするものではなく、強めて体系化させるもの。
翻訳者解説
ルイスは、もともと師であるクワインのような体系的な哲学者ではなく、個々の問題それぞれにベストを尽くす、非体系的な哲学者を目指していたらしいが、結果的には、体系的になっていった、と。ただ、60歳の若さで亡くなっているので、ルイス自身の手によってそれはまとめられていない、とも。
今のところ、ルイスの邦訳文献って、本書以外だと『反事実的条件法』と『現代形而上学基本論文集』収録の論文2本と、「フィクションの真理」と「言表についての態度と自己についての態度」で全てらしい。
いつの間にか、「自己についての態度」以外は全部読んでいた。「自己についての態度」もどっかで見たことあるような、ないような。とはいえ、『現代形而上学』の方は、読んだ時チンプンカンプンだったので、今改めて読んだらどうなるだろうか……。
文献一覧
ルイスの、「言表についての態度と自己についての態度」が一行ずれてる
詮ない感想
それなりに様相実在論に説得されるところもあったのだけど、もし仮に、多くの形而上学者が様相実在論を肯定するようになり、現代形而上学における定説になったとして、その時、一体何かが変わるのだろうか。
というのも、形而上学に興味のない多くの人たちにとっては、可能世界なるものが存在する、という世界観が所与のものになるということは、おそらくないのではないだろうか、と思って。
進化論や相対性理論や量子力学は、まあ、理解されているかどうかは別として、非専門家にも広く知られているものではあるし、また、これらの理論によって現実に様々な恩恵を受けていたりもする。
いやまあ、我々がもともと持っている様相についての直観を理論的に説明するというのが目的であって、それ以上でもそれ以下でもないのであり、そうした科学理論とは少し立ち位置が異なるのだといえば、そうなのかもしれない。哲学は未知のことを明らかにするものではなく、既知のことを教えるものだという考えもあるし。様相実在論が正しかろうが間違っていようが、少なくとも、日常的に様相の概念を使う上で、何かを変える必要はないわけだし、多分*2。
とはいえ、明らかに常識とは異なる存在論を要求しているのであり、もし様相実在論の正しさが認められるのであれば、常識を改訂する必要があるのではないか。でも、そんな改訂をもたらすことってできないような気がする。どうなんだろう。そもそも常識の改訂って何だ?!
まあ、科学哲学だって、別に科学者の行動に影響を与えたりはしないのだし、形而上学に限らず哲学とはその程度のものではないのかといえば、そうなのかもしれない。
ただ、一方で、倫理学なんかは行動に影響をもたらす。功利主義に説得された人は功利的に行動するようになるだろうし、動物やロボットへの配慮の議論に説得された人は人間以外の存在への倫理的配慮を真剣に考えるようになりうる。
でも、今仮に自分が様相実在論の議論に全て納得したとしても、自分の言動がほとんど変化しないように思う。可能世界の存在について聞かれたときの受け答えはもちろん変わるけれど、それって(倫理学と比較すると)日常生活においては非常に特殊な文脈だ。
あと、変化するとしたら、対応者理論を受け入れることで、事象表象における指示の対象がちょっと変わることか。これはそれなりに大きいところかもしれない?