メタフィジクスをやるとモテるという噂を聞いて、ゆるふわに近づくために読んでみた。
読んでみての感想は、メタモテへの道は遠い、というかこんな道は諦めるw
そもそも形而上学って何なのよ、単なる言葉遊びじゃないの、と思われる向きに対して
まああながち間違ってないというか、よっぽどの変態じゃない限り、こんなところに来なくてもいいだろうとは思うが*1、やはり色々なものの基盤についての思考であることも確かである。
この本で扱われているのは、全て存在論に関する議論だが、こうした議論は、同一性に関する議論、因果や法則性に関する議論、あるいは自由意志や行為に関する議論をする上で重要な基礎となる。同一性も法則性もやはり形而上学のトピックなのだが、法則性や因果則とは何かということが分かれば、何故科学は世界を説明できるのかという問題に解決を与えることができるかもしれない。
本に関して、少し注文をつけるとするならば、編訳者解説は巻末ではなく巻頭に欲しかったかもしれない。
論文読んで、解説読んで、論文読んで、解説読んでという順で読んでいたのだけど、解説を先に読んでおけばもう少し論文の内容が終えたかもしれない。それは単に、読者の側がどう読むのかという話なので、本の構成にケチつけても仕方ないかもしれないけど。
形而上学の専門用語に関しても、適宜訳注などがついているけれど、もう少し解説が欲しかったかもしれない。
デイヴィド・ルイス「たくさん、だけど、ほとんど一つ」、トレントン・メリックス「耐時的存在者と永存的存在者の両立不可能性」
前者は、猫のティブルスがカーペットの上に一体何匹いるのかという、1001匹の猫のパラドクスを取り上げている。こういうパラドクスの話は、まだ読んでいて分かりやすいし、面白い。
沢山の粒子で構成されているような個体の同一性ってどうやって考えるの、という話。
形而上学者ってよくもまあこんなお話考え出すよなあ、と思う一方で、確かにこういうこと考えとかないと同一性の話とかできないかもなあと思う。
で、後者は、時間的に同一とはどういうことか、ということに関して、耐時と永存という2つのあり方と、現在主義と指標主義という2つの考え方を紹介し、それぞれが両立しないことを証明していく。
そもそも耐時とか永存とかって形而上学用語であって、それが両立しないから何なのとか言いたくなるが、メリックスが正しければなかなかに衝撃的な結論が待っている。それは、三次元的存在者と四次元的存在者が両立しないということだ。四次元的存在者っていうのは、出来事のこと。
ジェグォン・キム「性質例化としての出来事」、ドナルド・デイヴィドソン「出来事についてのクワインへの返答」
というわけで、出来事の存在論。
出来事eventも存在者と見なすらしいのだけど、その上で、出来事って一体どういう存在なのかを考える。
出来事というのはとても日常的な用語だけど、そもそも出来事って何? って聞かれるとそれに答えるのはなかなか難しい。こういうみんなが何気なく使っている概念に対して、考察を加えていくというのは、まさに哲学の役割であるようなあと思う。
出来事について考えていくと、例えば「ブルータスがシーザーを刺すこと」と「ブルータスがシーザーを暗殺すること」って別の出来事ではないか、とかそういう論点が出てくる。
そんな話して何が嬉しいのかっていうと、因果とか行為とかの説明するための基礎となるかもしれないから。原因となった出来事や結果となった出来事というのは、正確には一体何なのか、とか。
デイヴィドソンの論文の方は短すぎて内容がよく分からなかったけど、クワインのことをヴァンと呼んでいたのがちょっと印象に残った。
あとは、副詞をどうやって考えるかとかそういう話だったかな。これはキム論文の方にも出てきたけど。
「ゆっくり散歩する」というとき、「ゆっくり」は出来事の構成要素なのか、出来事についての性質なのかとか。
ピーター・ヴァン・インワーゲン「そもそもなぜ何かがあるのか」
すげータイトル、だけど、哲学の究極的問題。
で、どうやって考えていくかというと、何もないことは不可能であることを証明すればよい、そのためには必然的に存在するものがあることを証明すればよい、となる。
まあでもこの証明はなかなか怪しい前提を持たざるを得なくなるので、不可能というのを確率ゼロという条件に弱めてやる。
そんな感じに進んでいったのだけど、肝心の内容の方はよく分からなかった
デイヴィド・ルイス「普遍者の理論のための新しい仕事」、ピーター・サイモンズ「個別の衣をまとった個別者たち」
現代の普遍論争である。
このルイスの論文がこの本の中では一番長い論文で、おそらくこの本のメインだったのだろうけど、正直これが全然読めなかった。ティブルスの話は面白かったんだけどなー。これを読んで形而上学を諦めたw
普遍者じゃなくて自然的性質を使えばよくね、みたいな話である。
そうすると、複製、スーパーヴィーニエンス、分岐する世界、唯物論、法則と因果性、言語と思考の内容といった様々なトピックにとって役に立つ、と。
なぜ自然的性質がわれわれの態度の内容のなかに登場し重要な役割を占めるのかといえば、それは、自然さが、内容において重要な役割を占めるということが意味することのまさに一部だからである。自然的性質に特別の関心を持つようにわれわれが作られているからではないし、たまたま関心をもった性質にわれわれが自然さを付与しているからでもない。
(213頁)
サイモンズの論文は、トロープの束説vs基体説に対して、核説というものをもってきて解決をはかるというもの。トロープトロープ!
この論文は、かなりフッサールが出てくる。
また、最後に物理学に対して適用できるかということの試みもなされている。
エリザベス・プライア、ロバート・パーゲッター、フランク・ジャクソン「傾向性についての三つのテーゼ」
傾向性について、因果性テーゼ、区別性テーゼ、そして無効力テーゼという三つのテーゼを提案する。というか、最後の無効力テーゼは、前の2つのテーゼから導き出される。
この無効力テーゼってのは、傾向性というのは因果には何の効力ももたらしてないぜってテーゼ
何故これが重要なのかというのは、ライルとか読めって話。
メレオロジーって言葉の意味が分からない
訳者解説によれば(というか収録論文を読んでいると分かるが)、アームストロングという人が現代形而上学のキーパーソンである。
あと、こんなことも書いてある。
オーストラリアは現代哲学の知る人ぞ知る中心地の一つである。「オーストラリアの哲学」と聞いてどういう反応を示すかによって、哲学という学問に関してはその人が素人かどうかを見分けることができる。
(332頁)
イーガンってオーストラリアだよね。
あと、NHKでフルハウスとかやってた海外ドラマ枠で、なんか毛色の違うドラマがあると大抵オーストラリアのだったりするんだよね。
形而上学やっている人のセンスって素晴らしいよなあと思う、こんな一文。
耐時と永存という訳語に関する注
なお、持続を説明する概念の表現に「持」の字も「続」の字も使われていないというのは、美しい風景である。
(54頁)
自分は形而上学者にはなれなさそうだなあと思ったけど、この世の中に形而上学者という生き物がいるということは素晴らしいことだなと思う。