中世哲学のトピックの一つである普遍論争について、従来的な図式を壊して解説するもので、語り口は平易なのに難解な本。
難解なのは、中世哲学独特の単語や言い回しのせいだが、テクストを引用した後、ちゃんと噛み砕いてくれているので、見慣れない単語に目をくらませずにいけば、一応読める。とりあえず、難しいなーということは分かるw
あと、中世哲学って時代がとても長いことに読んでいる最中に気がついた。11世紀から15世紀くらいまである。当然色んな人が出てくるが、ほとんど名前も知らない。知っていても、それこそ名前を聞いたことあるレベル。そういうあたりも、中世哲学のとっつきにくさにはなっている。
ただ、この本のすごいところは、後ろに人名小辞典というのがついていて、それがなんと本のおよそ3分の1を占めていることで、これを参照すればいいのかもしれない*1。
さて、普遍論争というと、普遍をめぐって、唯名論と実在論と概念論があったという図式が有名である。
普遍というのは、「複数のものの述語となるもの」のことで、例えば「人間である」とか「白い」とかそういうののことで、唯名論というのはそういうのは単に名前に過ぎないよといい、それに対して実在論がそんなことはないと反論し、概念論がそれを仲介したというのが、上の図式である。
しかし、この図式は実は正しくない。
話を単純化しすぎているし、そもそもそこで説明されている「唯名論」や「実在論」、「概念論」が本当にあったかも疑わしい*2。というより、その説明を念頭に個々の哲学者のテクストを読むと、例えば実在論者とされるオッカムは概念論者に見えてくるし、概念論者とされるアベラールは唯名論者に見えてくるといった次第なのである。
(id:jimusiosakaさんの指摘を受けて再確認。「唯名論者とされるオッカム」が正しいです。アベラールは19世紀頃に概念論者であると言われていたようです。20110115)
つまり、実際の中世哲学者の考えを理解するにあたって、使えない図式なのだ。
どうも、中世というのは長い時代で、その末期においては既に正確に理解されていなかった可能性があり、また、なおかつ、近世・近代に入って意図的に矮小化されていたようなのである。
第4章では、普遍論争にとどまらず中世哲学が、その後どのように受容されていったかということの小史が論じられている。
中世哲学というと、神学の婢と言われており、キリスト教とアリストテレスの注釈に追われ、瑣末な問題に囚われていたと思われがちである。
著者は、中世哲学と近世哲学の間には連続性があり、実際にはよく似ていたのではないかと考えており、そして似ているからこそ、近世の哲学者達はあえてそのように批判することで自らと中世との違いを際立たせていたのではないだろうかと論じている。そして、時代が下るにつれて、その「あえて」が忘れ去られ、本当に瑣末な学問のように思われていった、と。
さて、ものすごく大雑把にまとめると、
まず「普遍」という語の使われ方に関して、論理学的な普遍と形而上学的な普遍を区別しなければならないことに注意が促される。
そして、普遍論争は、普遍が名前に過ぎないのか実在するのかという論争なのではなく、形而上学的な普遍が一体どのような存在性格をもつものかを巡っての論争であった。
著者は、中世哲学を<見えるもの>と<見えざるもの>の図式において整理しなおしつつ、普遍論争といのが実は、「代表」理論を巡る論争の一側面であったことを描き出そうとする。「代表」理論というのは、論理学なんだけれど、記号論みたいなところがあって、しかし中世には記号論はなくてー記号とものについてーみたいな話が<見えるもの>と<見えざるもの>の話をしているところでなされている。
「代表」理論というのは、中世論理学に特徴的な理論で、近世以降の論理学では煩瑣な議論として姿を消すものの、20世紀の論理学者によって再び注目を浴びたもの。
項辞(記号作用を有するもの。音声項辞、所記項辞、心的項辞に分類される。英語だとterm)に、意味作用と代表作用という二つの作用があって、代表作用についての理論。
意味作用:語に対して事物を意味するという働きを付与すること
代表作用:そのような意味作用を行う名辞を事物に代わるものとみなすこと
代表にもいくつか分類があって
例えば、質料的代表というのは、以下のような使い方
「人間は2文字である」「猫は漢字である」
ここに出てくる「人間」や「猫」は、「人間」や「猫」という文字を代表している(このとき、意味作用は働いてない)。
質料があるのだから形相的代表もある。
形相的代表は、さらに単純代表と個体的代表に分けられる。
個体的代表というのは、例えば「人間が走っている」というようなもの。このとき、この命題に出てくる「人間」は誰か特定の人間のことを代表している。
一方の単純代表というのは、「人間は種である」「人間は理性的動物である」といったもののことである。
そして問題となってくるのがこの単純代表なのである。
普遍論争に戻ると、この単純代表を認めるのが実在論、認めないのが唯名論ということになる。
単純代表を認めると普遍というものを持ち出さざるをえなくなってくる、というのが実在論的立場。
さて、本書の中の流れとしては、これより前の時点で説明されていることなんだけれど、実在論というのは普遍というのを実体として存在しているとかそういう主張をしているわけではない。
論理学的な普遍と形而上学的な普遍を区別したけれど、論理学的なレベルにおいては、普遍がどういう存在のあり方をしているかはよく分からないけれど、普遍というものを導入しないとうまく説明できないことがあるよねーみたいな話にとどまる。で、そのうまく説明できないことというのが、単純代表の問題なのだと思う。
で、単純代表の「人間」がじゃあ一体何を代表しているのかなあというと、「人間性」とかそういうものなんじゃないかなあと考えられる。
さて、注意しておかないといけないのは、この「人間性」というのは普遍ではないということ。
アベラールであれば「事態」と呼ぶようなもの。ああ、でも「事態」というのは「人間であること」であって「人間性」ではないけど。そしてこの事態というのは、何らかの存在めいたものではない。例えば、「人間でないこと」も事態だし。アベラールは実在論者じゃないし。
で、これが実在論者になると、共通本性(人間性)だとか呼ばれるようになる。これがまあ形而上学的な普遍ということになるのかな。
普遍論争というのは、普遍は名前なのか実在するのか、ということではなくて、事態なり共通本性なり言われているものが一体どういうものなのかということとなる。
実在論者にしてもそういうのが実在していると考えているわけではなくて、共通本性というものを認めないと共通性と個別性みたいなものがうまく説明できないと考えている。
個別化の議論とか存在の一義性の話とかと繋がっていくらしいが、ここらへんはそういう話があるよと触れられる程度で、「存在の一義性」についての説明は特になかった。
共通性と個別性の関係みたいなものを考えないといけないみたい。
この本は、とりあえず、かつての「普遍論争」の形式的な図式を壊して、より実状に近い見通しを与えることを目的にしており、論じ切れていない論点などが結構ある。
おそらく、中世哲学全体からみると普遍論争はその一部に過ぎず、しかし普遍論争自体は中世哲学における他のトピックとも色々繋がってしまっているから、普遍論争だけを取りだそうとすると色々カットせざるをえなくなるのだろう。
そういう意味では、この本は読むとますます中世哲学や普遍論争が分からなくなってしまう本でもあるかもしれないw
しかし、中世哲学に対する古典的な偏見はだいぶ薄れる気がする。
例えば本書では、神やキリスト教への言及がない。中世哲学というとどうしてもキリスト教神学の下にあったという印象があるが、そういった宗教的なものから切り離してもなお十分に読むことの出来る議論が多くあるようだ。
筆者自身、もともとライプニッツの研究をしており、ライプニッツの使う用語の意味を調べているうちに、中世哲学へと迷い込んでしまったらしい(近代哲学の方が神がよく出てくるのではないかとすら、筆者は述べている)。
まあ、確かに神やキリスト教は出てこないけれど、代わりに、非常に論理学であるw
それから、この本を読んでいる分には構わないけれど、中世哲学は語学力がとんでもなく必要だなとも思った。
ラテン語、ギリシア語、アラビア語が読めないとまずそう。
まあ中世に限らず、哲学やるんだったら論理学と語学は最低限必須であり、ラテン語、ギリシア語だって別に特別な言語というわけではないのだが、自分にはとてもじゃないが無理だなあと思いましたw