蛟龍(こうりゅう)とは、大東亜戦争末期に日本軍が用意した特殊潜航艇である。正式名称は甲標的丁型。
蛟龍の原型になったのは、甲標的と呼ばれる特殊潜航艇だった。こちらは2名乗りの小型タイプで、真珠湾攻撃やシドニー港攻撃、マタガスカル攻撃に参加。戦艦ラミリーズを大破させたり、大型輸送船を撃沈するなど戦果を挙げた。
1942年12月、黒木博司中尉が大浦岬P基地に異動。そこで甲標的の個人的な研究や実験を行った。試行錯誤のすえ、船体を大型化して充電能力と水上航行能力を強化し、構造を簡易化して短期間での量産を可能とした甲標的丁型が誕生する。今まで伊号潜水艦を母艦としていたが、大型化により母艦を必要としなくなった。性能も改良され、旋回能力や航続性能、連続行動時間が増進している。海軍はこれを採用し、1944年3月に軍令部が策定した「特殊奇襲兵器」でマルイチ金物の仮称を与えられた。開発担当は艦政部第四部となり、機密レベルを軍機から軍極秘に下げて開発を急いだ。5月頃に試作一号機が完成。このまま試験を行わないまま、なし崩し的に制式採用。呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、長崎三菱造船所で大量生産が始まった。ちなみに開発者の黒木中尉は回天の開発にも携わっており、9月16日に起きた回天の事故で殉職した。丁型の増産に伴って、それを扱う部隊が次々に開隊。瀬戸内海の島々に突撃隊が配備されていった。
5人乗りの特殊潜航艇で、基地から発進した蛟龍は2本の魚雷を使って敵艦船を攻撃する。潜水艦と同じ運用法のため、本来は特攻兵器ではなかった。しかし酸素魚雷不足から、艦首に爆薬を積んで体当たりする「人間魚雷」として使われる予定もあった。要目は全長26.25m、全幅2.04m、排水量59.3トン、45cm魚雷発射管2門、安全深度100m、水中速力19ノット(量産型は16ノット)。航続距離を延伸するため充電装置を搭載している。低速ながら高性能でまとまった優秀な兵器である。連続航行時間は5日とされたが、乗組員の疲労を考慮すると3日が限界だった。
甲標的丁型の量産は順調に進み、完成しだい第1特別基地隊に配備された。1945年1月、第一陣が沖縄に進出する事になり、6隻の甲標的丁型が独力で沖縄へと向かった。しかし故障が相次ぎ、到着できたのは僅か1隻のみだった。これに懲りたのか3月初旬の輸送では2隻が第17号輸送艦で輸送され、運天基地に到着した。3月8日、横須賀鎮守府で甲標的丁型の使い方について質疑応答が行われた。
3月25日、有力なアメリカ艦隊が接近。慶良間列島と沖縄本島東南に猛烈な艦砲射撃を加えてきた。この日の夜、沖縄に進出していた丁型2隻と甲標的丙型1隻が迎撃。敵艦1隻に魚雷を命中させたが、反撃を受けて2隻が未帰還となった。翌26日夜にもアメリカ艦隊攻撃に向かっているが、戦果を挙げられず。またアメリカ軍が運天基地に近づいてきたため、残余の丁型は爆破処分された。3月27日、奄美大島防備隊向けの資材を乗せた大島輸送隊に丁型2隻が積載され、無事加計呂麻島の三浦基地に搬入された。このうち1隻が空襲で破壊され、1隻は終戦まで生き残った。4月30日、三浦半島の泊地に甲標的丁型を係留。訓練を開始したが、先に油壷の第11突撃隊が居住施設を徴発していたため、甲標的丁型の乗組員は余ってたスペースを使わざるを得なかった。
5月28日、蛟龍と命名。必殺の酸素魚雷を扱う事から決号作戦の切り札と期待された。艇員は主に潜水学校の者や志願者から抽出され、開設された各基地へと配備。蛟龍を扱う水中特攻部隊は急激に規模を拡大させ、迫りくるアメリカ軍を撃滅せんと爪牙を研ぎ続けた。基本的には基地からの出撃であったが、洋上での作戦では波号潜水艦を母艦にする予定だった。波号から発進し、魚雷を使い果たせば母艦に戻って補給を受け、再度出撃する。艦首には神棚があったと伝わる。
ところが本格的な本土決戦が生起する前に終戦。実戦を殆ど経験しないまま、兵器としての役割を終えた。終戦時、完成した艇は115隻、建造中496隻、艇員4000名以上が残っていた。工廠内には放棄された大量の蛟龍が残されていたという。
掲示板
1 Ray Noir
2019/08/13(火) 07:07:00 ID: DlaHXCOroI
これこそ日本海軍にとって本当に必要だったものだと思う。
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最終更新:2024/12/26(木) 15:00
最終更新:2024/12/26(木) 14:00
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