傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

走馬灯を長めに見たい

 あー、死んだ。早いよお、もうちょっとがんばってほしかった。
 彼が言う。オーブンレンジを前にして言う。数ヶ月前からオーブン機能があやしくなり、今日とうとう電子レンジがつかなくなったのである。
 わたしはこたえる。早いってことはないでしょ。十年近く前のやつだもん。彼は真顔になり、それからレンジの側面の製造年を確認して、ほんとだ、とつぶやく。

 わたしにもその傾向があるのだが、彼はなにしろなんでも忘れる。言われれば思い出すが、自分で思い出す記憶に細かい時系列がなく、十年ほどがひとまとまりの薄ぼんやりしたイメージとして想起されるようである。完全に頭からなくなっているのでもないので、「過去が雑」といったほうが正確かもわからない。
 そんなだからこの家に引っ越してくるときに買ったレンジは「ちょっと前に買った」感覚であったらしい。
 年のせいではない。昔からである。
 会社の同期として知り合って二十年ちかく、つきあって十五年くらい、結婚して十年くらい経つが、そのあいだ、彼に近いタイプであるわたしさえ、その忘れっぷりに何度か驚いた覚えがある。

 住処が変わるとさすがに区切りが明確になる、と彼は言う。ここに来る前に二人で住んでた部屋と、その前の一人暮らしの部屋と、実家にいたころは、なんとなく区別してる。あと高校生までと学生時代と社会人になってからも区別はつく。
 そのように言う。わたしもかなり過去が大雑把な人間だが、それにしたってもう少し細かく覚えている。
 子どもがいないからかしらねえ、と訊くと、彼は首を横に振る。それは関係ないと思う、だっておれ自分の子ども時代の記憶も団子状にまとまっちゃってるから。
 そういえばこの人は親戚の集まりで「あんたが北京ダックの中身を食べたいと主張したとき」などと言われて「ああ小六のときね」などと適当に答え、「小三だよ、ほら、おじいちゃんの喜寿のお祝いの時でしょ」と突っ込まれたりしていた。親戚のほうがよほどよく覚えているのだ。

 きなこがやってきて彼の膝に乗る。きなこはわたしたちの猫である。
 このままでは、まずい。
 猫を撫でながら彼は言う。この感じだとおれの走馬灯に掲載されるきなこの写真が三枚くらいしかない。少女きなこ、中年きなこ、よぼよぼきなこ。以上。
 それからわたしの顔を見て少し慌てたように、さすがにあなたは三枚ではない、と言う。でも五枚くらいでしょ。わたしが訊くと、うん、とちいさく言う。新卒のころと、結婚する前後の姿、今くらいとその後で二枚、あと、おばあさんの姿。
 彼はそのように言う。ポケモンみたいである。
 学校とか会社とか、住んできた家とかの景色が十枚くらい、旅行先がアジアとかヨーロッパとかでまとまって五枚、友だちがあわせて十枚、親きょうだいとじいちゃんばあちゃんとかで十枚くらい、しめて四十数枚。
 彼は指折り数える。わたしは言う。走馬灯って写真一枚あたりそんなに長くうつさないと思う。三秒出したらもうくどい。「走」感と「馬」感を考慮したら一秒がいいところでしょう。
 おれの走馬灯、めちゃ短い。
 彼はそのようにつぶやく。いかん。なんか貧弱な人生みたいじゃん。こんなに楽しく生きてるのに。

 ものごとに執着しないから楽しいという側面もあるのではないかとわたしは思うのだが(この男は何のてらいもなく「いつも今がいちばんいいなーって思う」などとのたまう)、走馬灯にはせめて一分以上まわってほしいと思うのも、まあ人情ではある。
 インスタとか、やらないからじゃないの。年に何回かでも写真をあげておけば、それなりに見返すでしょ。わたしがそのように進言すると、彼はキリっとした顔になり、おれにそんなずくはない、とこたえた。断言するけど、この家にそんなことができる人間はいない。
 「ずくなし」というのは彼の祖父の出身地の方言で「面倒くさがり」というような意味である。わたしたちはこの語を気に入っていてよく使う。
 たしかにわたしにもSNSをきちんと運用するような「ずく」はない。アカウントは持っているが、連絡用である。知り合いの投稿を見ることすらできていない(久しぶりに会う、といったシチュエーションではがんばって見る)。なんでみんながあんなにマメなのか全然わからなかった。もしかするとみんなは「記録をつけておかないと走馬灯が短くなる」と思ってやっているのかもわからない。

 協議の結果、盆と正月に互いのカメラロールを見る会を催すことにした。スマートフォンのある時代でよかった。そうでなければ彼の走馬灯は一瞬、わたしのは二瞬くらいだったと思う。