旧「Earth Blue & Moon Cafe」にて
ガラス玉を入れた器、李朝のものなんですが
この後しばらくして割ってしまいました。
今はボンドで接着。
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まずはゆーりさんに謝っておきます。そしてありがとう。
ゆーりさんのコメントの再掲です。
大化の改新がすなわちピダムの乱のことなら
つまり、中臣鎌足は金庾信であるから、新羅であり、その子孫の不比等も当然新羅でしょう。鎌足や不比等が百済人のごとく扱われていることが、百済の新羅隠しであると思うのです。不比等が日本書記を改竄したというのなら、新羅の歴史であるピダムの乱、つまり大化の改新などは記述しないでしょう。新羅は五世紀頃は、倭すなわち百済を駆逐する際、高句麗に朝貢していました。新羅に滅ぼされた百済の残党であり、遺臣が建国した日本が新羅を憎んだのであり、さも不比等が百済人であったかのように見せかけただけだろうと思います。
| ゆーり | 2013/06/24 01:26 |
実は昨日もまたしつこく龍さんに
不比等の出自で辻褄が合わない部分を質問したところ
龍さんも調べてくれてそれでようやく
ゆーりさんの言われていた新羅にたどり着きました!(ペコリ
龍さんはきっと、なんでまゆみさんはそんなにこだわるのかと思われたでしょうね。
不比等のこれが解けないことにはどうやっても前に進まないのです。
今のわたしにはここが一番重要なのです。
まだ完全ではないですがこれでようやく前進できます。
反省点の最初は
崇神(旨・首露・脱解)の「脱解」を加羅と思いこんでいて調べなかったこと。
次にゆーりさんのコメントにある「金庾信」を調べなかったこと
昨夜、龍さんが石渡さんの本で調べてくれたところ
脱解は新羅の始祖王だということがわかりました。!首露(崇神)は加羅系倭国の王であり
同時に金官加羅の始祖王であり
新羅の始祖王でした。昨夜は驚いて興奮してたので昨夜記事をアップしてたら
びっくりマークや、こんなマーク「~~~~)も
たくさんついたでしょう。
「金庾信」をネット検索しました。
ウィキの「
金庾信」にこう書かれてます。
「
金庾信(きん ゆしん、595年 - 673年)は、三国時代の新羅の将軍。新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。・・・648年に高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐と羅唐同盟を結んだ。660年、唐と共同で百済へ進軍し、黄山伐の戦い(英語版)で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除した後、668年に麗唐戦争の末に高句麗も滅ぼした。・・・」
なんと金庾信はあの善徳女王の庾信だったとは。。。
韓国語がわからないから善徳女王の庾信には結びつかなかった。
(金庾信役の俳優さん好きです。
いま彼の現代ドラマみてます。
「ドクターチャンプ」で個性的な医師の役をしててよく似合ってます。
その前は九尾狐外伝に出てました。
不思議なものでドラマでみてるから想像しやすいですね。)
金庾信は金官伽倻の王家の血を引く人!
首露(崇神)の金官加羅です。
首露と庾信は親戚かも知れない。これまたびっくりです。
これはドラマ「善徳女王」でも知っていたけれど
新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人です。
じゃ中臣鎌足が金庾信なら(確信はまだ持てませんが)
不比等も金官伽倻の王家の血を引く人です。
そして新羅とも親密な関係にあります。だけど百済を滅ぼしたのだから逆に百済から恨まれる。
金庾信ほどの有名人なら(鎌足=金庾信なら)
誰もが鎌足=金庾信とわかりますよね。
変装したのかな?
普通に考えれば、朝鮮半島統一の偉業をなしとげた金庾信が、
海の向こうの百済系倭国を放っておくはずはないでしょうね。しかしまた気になることが出てきました。(ペコリ
不比等は生まれるとすぐ山科(京都市山科区)の
田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家に養われ、
フヒトの名は、これによってつけられた、そうです。
これはどういうことでしょうか?
鎌足は不比等をあえて敵陣へ入れた?人質?
それとも潜り込ませた?
養育先の「田辺史大隅」を調べると
田辺史大隅は百済系史官とあります。
百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうそうです。
そして大宝律令の関係者は、不比等の息がかかった人物が多く、
「史」のつくほとんどは百済系史官とありました。
これで考えると不比等は百済を嫌っているようにはみえない。
これはどういうことでしょうか。
敵も上手く取り込んでやる、これぞ官僚政治の見本?
当然、百済系史官は、記紀編纂にも参加してますよね。すると不比等の好きにはできないはず。
しかし百済系史官の取り込みと考えれば、
赤ちゃんの不比等にはできないから
この計画は鎌足が準備したことになります。
これが事実なら、親子二代に渡って、なんといっても歴史を作るのだから、その後の日本の行く末を含めたとんでもなく壮大な大計画になります。*「田辺、大隅」といえば、確か龍さんの記事にもありました。
早速調べてみるとやはりそうです。
武(応神・昆支)の離宮大隅宮とあります。
そして武は離宮大隅宮で死に
武の墳墓である誉田山古墳の周辺には、
田辺氏などの百済系氏族が居住していたとありますね。
<追記>鎌足のカマは加羅の転訛かしら。