http://pds.exblog.jp/pds/1/200905/29/62/b0086362_1210222.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>『ダライ・ラマの闇』http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm結論をyasuさんがまとめてくれました。
yasuさん、ありがとう、お疲れ様でした。
17 - Conclusion
結論西洋におけるチベット仏教の成功の理由には、愛嬌があって自己表現にたけるダライラマ14世の存在と、悟りへと導くものの存在がある。
タントラの悟りの道においては、自我の解体が関わってくる。西洋人は悟りを得た意識には自己と何らかの関係が残っていると信じているが、 一方密教の教師は、生徒のアイデンティティーがチベットのブッダ、ヘルカ、菩薩、タントラの神々、悪霊などに
完全に乗っ取られてしまうことを知っている。チベット仏教は、個人の悟りではなく、
取り付かれた人々からなる、ヨギや神の超人文化を存続させることを目指し、カースト制度も永続することになる。こうしてチベット仏教において
悟りを得たいという個人の宗教的願望は、ダライラマの政治と宗教的目的のために利用されることになる。性衝動と性欲的な愛、そしてとりわけ女性エネルギーがラマ教システムの原動力となる。タントラのシステムは、大がかりな神秘主義の機械としてADI BUDDHAを創造し、普遍的な政治支配を確立することが唯一の目的である。タントラ儀式は政治であり、また政治も儀式である。
1 タイムタントラの政治は神とヨガ行者により行われ、その神は神聖視される一方で非常に破壊的なものを含む。
2 タントラは、父権的、独裁的で非民主的な修道院の状態を原始仏教の下に作り上げる。
3 仏教徒の政府からなるこの国家は構造的に犠牲に基づく。
4 この政府組織は、無政府主義のモデルを一時的に操作する。
5 チベットの仏教徒の政府組織は、政府に反するものを除くために黒魔術儀式を使うことも躊躇しない。
6 その政治は、民主的なものではなく、むしろPehar(モンゴルの軍神)の信託を中心に行われる。
7 タントラ国家は、戦争と征服(世界のシャンバラ化)という侵略主義を求める。
8 シャンバラ神話は仏教徒がイスラム教徒を全滅させるという終末論的ビジョンを含む。
9 密教は、平和、エコロジー、民主主義、フェミニスト、社会正義、 哀れみなどの歪曲したイメージで西洋の人々を操作する。
12章では、元SSのハインリヒ・ハラーがダライラマの家庭教師であったことや、ムッソリーニの名優ジュリアス・エボラにとってのVajrayana(金剛乗)、ハインリッヒヒムラーのチベットに対する超整然的な関心について述べてきた。チリの外交官ミゲルセラーノは、タントラとナチスの超自然的教義と結びつき、カーラチャクラとヒットラーのSS歴史的役割について述べている。ダライラマ14世がチベットを脱出した後も、SSの熱狂的指導者達と連絡をとりつづけたのも偶然でないことを示している。
1995年の地下鉄サリン事件は、チベット仏教、特にカーラチャクラタントラのシャンバラ神話につながっている。麻原彰晃は、彼自身をRudraChakrin(激しい車輪旋盤工)の化身とみなし、シャンバラ化計画を通して、世界の半分を救うために残りの半分を破壊しようとした。彼はVajrayana(金剛乗ー密教)を練習していただけでなく、ダライラマと良き友として5回にわたって会っている。
チベット仏教の隔世遺伝的なパターンこういった問題点にも関わらず、チベット仏教が全ての宗教の中でも最高のシステムをもち、穏やかな存在としてのダライラマというイメージが広がり続けている。ダライラマ14世を世界政治の上で性格づける時、彼の4つの良い面(a)と、その4つの否定的な面(b)によって巧妙に操作、支配されていることがわかる。
1 (a)人前で同情、愛、平和という大乗仏教の言葉を使って議論をする。
(b)Vajrayanaの性的な魔術的秘技や政治的強迫観念には決して言及しない。
2 (a)どんな議論も仏教でいう無にたどりつく。何も存在せず、全ては無からやってきて全ては無で終わる。
(b)チベットの神々、デーモン、霊たちのことや、シャンバラ神話のもつ地からによる政治プログラムに言及することもない。
3 (a)全ての革新的流れ、民主主義、意見、人権、個人主義、 女性の権利、生態学、ヒューマニズム、その他の自由と言ったものを受け入れる。
(b)タントラシステムの聖職者による独裁的意図や、輪廻の教義を通しての両性具有の仏教僧侶による世界支配にも言及しない。
4 (a)微笑み、親しみやすく、ごく普通で、控えめ、穏やかで人間的。穏やかな聖職者を演じる。
(b)不快感やプライドを人前では見せないようにし、神々やデーモンの破壊的な面にベールをかけている。ラマ教徒の歴史の残虐性には触れることはない。
ダライラマの微笑みややさしい言葉は、彼の人柄のごく表面上のものにすぎない。ダライは麻原のようなオカルトセクトやミゲルセラーノといったヒットラー主義者たちとも密接な交遊を持ち、彼らはVajrayanaの哲学や戦闘的なシャンバラ神話を彼ら自身の破壊的世界観の中心とした。世界にとっての脅威というのは、ダライラマと中国の争いではなく、ラマ教のチベットの雪獅子による、中国の龍の文化的征服にある。シャンバラ神話は、攻撃的で、汎アジア的超権政治と、仏教徒による聖戦思想を示している。Yama(閻魔)死の神であり、女性を破壊する時間神カーラチャクラを具現化するのがダライラマである。
チベットの民衆は、国を離れているものでさえも専制政治の下で常に管理されている。ダライラマは国家の元首ではなく、生き神であり、聖観音菩薩(Avalokiteshvara)の化身でありカーラチャクラの神である。チベットの歴史はシャンバラ神話という神聖なものを中枢に持つが、ダライラマの政治活動や追放されたチベットの民もこの終末論の中にある。しかしこのシャンバラ神話の黙示録的な闘争または世界的な拡大の計画についてはメディアで触れられることはない。
アメリカは中国との関係において、抑圧されるチベットを利用したいと思っている。中国とアメリカの反目の中、チベットの非民主的な状況も客観的な学者たちによって米国に報告されているが、国務省はチベットを擁護している。
「宗教の衝突」:ラマ教の原理主義者の貢献3000年期の入り口にあるまでのこの15年間、シャンバラ神話のような宗教的世界支配に基づく政治の強烈さや、カーラチャクラのような魔術的・秘技的な政治の実施が展開できるのを、西洋は非常な驚きをもって目の当たりにした。イランでの事件は西洋にショックを与えた。 かつての隔世遺伝的な態度と暴力、戦士倫理的体系、人種主義、狭量、 性に対する差別、聖職者の独裁、無信仰者への迫害、徹底的な調査、世界戦争の展望と世界の終わりといった、中世の時代にあったような神政の(そして、Buddhocratic)システムが、現代の問題となっている。
ハンチントンによると、急激な原理主義者でさえ宗教的伝統とテクノロジーとを両立させるようになっていて、また今や貧富という社会的紛争は戦争の要因ではなく、その要因は一般の宗教であるという。西洋とその価値感が弱くなっているその一方で、イスラムと中国は力と自信を増しつつあり、西洋との間の利害や価値観の対立も増し、世界戦争すら避けがたくなっていると彼は述べている。この説を深刻にうけとるなら、 ダライラマのカーラチャクラタントラとシャンバラ神話が危険なイデオロギーなのではないか問いかける必要がある。タイムタントラはイスラムとの黙示録的週末戦争を予言し、2327年には、RudraChakrin(憤った車輪旋盤工)がイスラムとの戦いを始めると言う。歴史的理由で、イスラムは西洋と反目し合ってきた。キリスト教の西洋と、イスラムの東洋との争いは伝統的なものだ。
しかしカーラチャクラタントラとシャンバラ神話のもつイスラムに対する敵意は今や世界の政治舞台にも影響を与え、米国の中心部にまで広がりつつある。ハンチントンは、中国は東アジアの中心となり、近隣の国々を文化的に支配し、台湾と中国も統一されるだろうと言う。イスラムとは対照的に、 現在の中国で有力な儒教は表面的には攻撃的でもないし、征服を指向しているわけでもない。しかしこれまでの中国はキリスト教や共産主義と言った外部からの文化の影響を広く受けてきたことも忘れてはならない。中国には、精神的、神話的な世界支配の要求が常にある。毛沢東の時代をへて、共産主義時代の今もそういった要求が生き残っていて、これにダライラマ14世も気づいている。彼は5年間にわたり台湾国民政府で集中的な布教を行ったが、
この先台湾が中国に戻ることになった時、チベット僧侶の中国浸透の足がかりになると思われる。合理主義に戻るのか?啓蒙運動の時代から、西洋文化は教会と国、科学と宗教、テクノロジーと魔法、政治と神話、芸術と神秘主義といったものの間に明確な線を引いてきた。チベット問題でも、西洋はタントラ仏教とその秘技を、政治的な人権問題や、民主主義の概念、チベット人民の国益といったものと切り離そうとするが、ダライラマと彼のシステムでは、政治と宗教は何世紀もの間結びついてきた。彼とラマ教徒にとっての政治的決断は、 カーラチャクラタントラとシャンバラ神話にある世界征服計画の戦術的な要素からなる。
西洋の合理主義は実際はオカルティズムの原因といえる。例えばニューエージ思想のようにその難解な教義は地下にもぐって広がり、突然強力な力を持って表面に現れ、社会全体を引っ張っていくことになる。しかし、われわれは、全ての伝統的宗教(この場合は仏教)が退けられるという結論に達したいわけではない。様々な宗教的な教えや信念、戒律や展望は価値があり、平和な世界を作るためには必要なようにも思われる。
われわれは、「悟り」や「合理主義」は、もはや単独では世界を敏感に解釈して、変えていく力を持っていないと考えている。世界における相互の繋がり、技術化、経済の越境、交通の拡張といったことが、グローバルな文化の夜明けについて議論を交わす条件を作り出した。少なくとも人権、平等、民主主義などの西洋的価値観は国際社会において助長されてきた。しかし宗教的レベルでは何も変わっていない。
異文化の持つ多様性や色とりどりの見事さを犠牲にすることなしに人類の調和を目指す、新しい神秘というものがあるのだろうか?