思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

祈りの竪琴に思う

2018å¹´11月28æ—¥ | å“²å­¦

先週のEテレ「こころの時代~宗教・人生」は宣教師・音楽サナトロジストのキャロル・サックの「祈りの堅琴(たてごと)」という番組でした。

番組紹介には、

アメリカ人宣教師のキャロル・サックさんは、日本に暮らして35年余り。52歳の時、死に直面する人をハープや歌声を用いて看取る「音楽サナトロジスト」の資格を取得。以後その学びを発展させ、ホスピスや病院、高齢者施設、刑務所などで広く、苦しみや困難の中にある人に音楽による祈りを届ける活動を続けてきた。一人一人の呼吸に合わせて奏でる音楽は、その人がかけがえのない存在であることを伝える祈りとなる。その力とは。

とあり、ハープの音色と彼女の歌声に癒される方々が紹介されていました。

死が着実に訪れるているとき、この世との別れの苦しみにあるとき、苦しみに打たれているときに、その音色・歌声は何事かが体現されます。というよりも己の内に何かが起こるといったほうがよいのかもしれません。

表現を変えれば内在的超越により「神なき所に真の神を見る」といったところでしょうか。

実存的虚無感にあるときに、真の自己否定のときがおとずれると、おのずから神を見る方向にみずからの自覚が展開される。

自然法爾的に、我々は神なき所に神を見る

という言葉をつくる。

神を仏に変えれば真宗の世界になります。仏教では「不生」という言葉を語る人もいました。盤珪禅師の言葉があります。悟りの境地と言われる。豁然(かつぜん)を悟られた「不生」という言葉。盤珪書『御示聞書』に

皆親のうみ付けてたもったは、

仏心ひとつで御座る。

余のものはひとつもうみ付けはしませぬ。

其親のうみ付けてたもった仏心は、

不生にして、霊明(れいめい)なものに極まりました。

不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって

不生で一切事がととのひまするわひの。

不生にして霊明な仏心に極まったと決定(けつじょう)して、

直ちに不生の仏心のままで居る人は、

今日より未来永劫の活如来(いきにょらい)で御座るわひの。

今日より仏心で居るゆへに

我宗を仏心宗といひますわひの。

 

とあります。ここに「霊明(れいみょう)」という言葉を見ます。この言葉は、盤珪の説法を受講した者が残した「盤珪仮名(かな)法語」には次のような盤珪の語りが書かれています。

「禅師のいわく、仏心は不生(ふしょう)にして霊明(れいみょう)なものに極まりました。不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの。」そして、「したほどに皆不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。尊いことではござらぬか。仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの。これを決定(けつじょう)すれば、いま不生でおるところで、死んでのち不滅なものともいいませぬわいの。生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、そうじゃござらぬか。」

 

このように不生の仏心は生まれる前から人には備わっているもの、生死に関係なくあるもの、生死に関係しないということは不滅を説く必要もないということです。

 

死後に成仏するということでもなく、修行により即身成仏するというものでもない。

 

また、坐禅による仏性の目覚めも説かない。さらに念仏も厳しい修行も必要なし坐禅もいらない、というわけです。

 

霊明とは霊妙かつ神明(しんみょう)なことであり、己を展開する働きで心を突き起こすことだと言われています。

 

これに似た言葉に、霊性、聖霊という言葉もあります。「霊性」と言えば鈴木大拙先生を思い出しますし、「聖霊」という言葉にはキリスト教の三位一体の父と子と聖霊の「聖霊」を思い出します。

 

実在しないが働きの内に在るという絶対確信においてそれは真の実在に成る。

 

こころの時代に観たキャロル・サックさんのハープの音と歌声が、聖音と歌聖に思える時この私も共有できたということでしょうか。


「よばれる」からの思考展開(転回)

2018å¹´11月24æ—¥ | å“²å­¦

食事に招かれて、目の前の料理を前にしていざ食べる際に「よばれます」という時があります。厳密にいうと言わないときもあるのですが詳細は後程語ることにします。

最近ラジオでこの言葉は方言なのかどうかという専門家ではないアナウンサーとゲストの方々のトークを耳にしました。私も確かにこの言葉を使いますし使うことに何も疑念が出ません。

 どうも方言ではないようで、最近の若い人たちはたぶん使わないから不思議に思うのかもしれません。どうしても発声音「よばれ」に「呼ばれ」という漢字を重ねてしまうからかもしれません。

 

 先ほどこの言葉を使わないときがあると言いましたが、目上の方に招かれたとき、集団で招かれたとき、「ではよばれましょう」と発語する方の集団での位置、招いた方との関係のあり方によって「いただきます」「ちょうだいします」などという言葉に変化してしまう場合があります。

 

 今日の予定としてこの招かれがある場合、第三者に尋ねられた時に「今日は御呼ばれがあるので」などと「御」をつけたりする場合もあります。

 

ということで、さっそく調べてみることにし私の好きな古語辞典を開いてみました。結論から言うと「呼ばれる」という当てはめた漢字も誤りでないことがわかりました。

 

そもそも「よぶ」という古語【呼ぶ】他動詞・ハ・四で、その意味するところは

â‘     呼ぶ。

â‘¡    招く。招いてごちそうする。

とありますから、呼ぶというイメージから招かれる、ご馳走になる、というイメージも浮かんでも不自然ではないようです。そしてこの言葉が辞書に掲載されている以上方言ではないことがわかります。

 

話の追加でもう一つ。この言葉の掲載場所に近くに同じ「よば」がつく言葉で、「よば・ふ」という言葉がありました。

 【呼ばふ】

â‘     呼び続ける。何度も呼ぶ。

â‘¡    言い寄る。求婚する。

二番目の言い寄るという解説にどういうわけか、「夜這い」という言葉を連想してしまいました。すると辞書のこの言葉の前に「よばひ」があるではありませんか。

【呼ばひ・婚ひ】

â‘     求婚。男が女に言い寄ること。

â‘¡    (男が)女の寝床に忍んで行くこと。妻問い。

単なる「よぶ」という二語の発声音ですが面白いですね。

 

 「よぶ」「よば」と言う二語の日本語ですが、音声を耳にしただけで意味のイメージが転回します。コペルニクス的転回のようにイメージする切り替わりがの瞬間があります。

 

 変化する画像の変化のように時間をおいてその違いが分かるのと違い、この転回は一刹那以上と呼びたいほどに瞬時です。思考の展開も、視覚の視線の先にある意識されるものの認識も、この言葉の意味展開と同じように瞬時に体験しています。

 

いま「展開」という言葉と「転回」という言葉を同時に使っていますが「てんかい」という言葉もまたその理解の先に浮かび上がる言葉のイメージは、全体の流れと、そこで起きる瞬時の思考転回を理解しながら文章を読んでいます。

 

「よばれる」という言葉から話を展開していますが、人間の思考の旅はこのようなページめくりが瞬時になされているものということができます。当然視覚作用も全く同じ場で同じように展開されます。

 

このような思いつきを書き続けていると私の場合、西田哲学が重なってきます。

 

『善の研究』の序文に「余の思想の根柢である純粋経験の性質を明らかにしたもので」とありさらに「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」とあります。

 

本文の中には「真の知的直観とは純粋経験における統一作用其者である」「されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファであり」という言及があります。

 

このようにさらなる展開に「エポケーを介して自己はおのれを自己として新たなる可能性の前に立つ」という現象学を語りたくなります。私の場合はこの場合に不可能性に転回したい情動にかられるのですが、一般的には可能性とするのが現象学的な理解でしょう。

 

なぜ私にはこの奇妙な可能性を不可能性に転回したくなる情動が生まれるのか。

 

パンドラの箱のギリシャ神話が影響しているわけで、災厄の世から箱に残された魔の根源の名を読んだときに、災厄の世に聴こえる名は「希望」でありました。

 

そもそも古代の神話ですから何ものかが創造したものに違いないのですが、箱を開けなければ箱の中は「混沌」で満たされていたわけで、現世における無秩序、災厄の顕現は不可能性に満たされていなければ、どうも私には理解できないのです。

 

「混沌」だと断定し理解してしまうのはわたしなのですが、止めがたい情動が湧くからで説明不可能なことでもあります。

 

「よばれる」からとりとめのない思考展開、転回をしてしまうのですが、これが私の悪い「癖」というものでしょう。


自分の情動を抑えるすべ無し

2018å¹´11月22æ—¥ | å“²å­¦

 「情動」と「感情」そして「理性」などについて思いめぐらす昨今、暇と言われればそれまでで、留めがたい衝動が私を作り出します。

 最近のニュースでは、人格者と思われたような国際人が、何があなたをそうさせたと思われるような理性のなさを公に晒し出しています。

 アリストテレスは「人間は理性的動物である」といったとのこと。ポリス(国家)に帰属することは、個々は集団の中の一員として社会を構成する役割的なものを担う立場でもあったように思われます。

集団という言うことになれば人間以外の動物も群を成しますから、国家というときには、動物の群のような単純な集団ではなくある程度、経済活動をはじめとして組織的を構成する担い手としての役割を他の動物とは異なり意識して生活しなければならなかったと考えられ、おのずと秩序なるものが保たれていたように思います。

一方現代人から見れば暗部として奴隷制などが歴然とあったわけで、そこでは生まれながらの従属的関係が決定付けられ疑問の衝動え起こらず当然のごとくに必然的な運命の内にあったということができます。

人間の本質は理性的思考をするところにあるとデカルトはいいますが、理性というものは集団組織における守るべき理、すなわち従うべき義務的要素は自然に内に芽生えるように思います。そこにあればそこの場の雰囲気に合わせるのは当然で、外部からの帰属は、自己の持つ対人関係性の構築知識とは異なり対立抗争が発生するのが当たり前です。

ことわざに「郷に入っては郷に従え」というものがあります。その意味するところは、「郷に入っては郷に従えとは、風俗や習慣はその土地によって違うから、新しい土地に来たら、その土地の風俗や習慣に従うべきだということ。また、ある組織に属したときは、その組織の規律に従うべきだということ。」です。

日本の古代も含めて国というものが成立していたということはそこには立場における義務や規則が自然法のごとくにあったのではないかと推測できます。

理性は形を変えて義務だ規律だという話になると「~しなければならない」「~してはならない」という命法的な言語で内心を形作ります。

自分の行動が公の理に適うように行動する。

カントが言うように、それは自然的に人間に備わっている傾向性なのだと思います、が。

後の世にこの傾向性は大きな影を落とすことになります。公の理が徹底され盛んに個人を高揚させ個々の情動は思わぬ方向に落ちていきます。その結果、驚愕の地獄を形づくりに加担していきます。

理性というものはそもそもV・E・フランクルが語っているように精神的無意識に位置するものだと思います。徹底したプロパガンダに対して自己を見失わないためには今の私はどうあるべきなのか。

真の理性を深層から浮かび上がらせる、これぞ命法というものはないものか。

日産のゴーン会長逮捕

他人の抱ける理性は知りえることはできませんが、どういうものなのでしょう。その時彼はどのような気持ちで数字を描いたのか。描いた先に見た夢。50億円過少申告で得る夢。

過少申告しなければならない。正確な申告はしてはならない。

という理性、まさにこの命法は内に沸く情動です。理性が補助役というよりも自己理性が自分を作り出すといえるように思います。人格はまさに作られてゆく。

普遍的な理性はないものだろうか。とふと思う。

「人を殺してはならない」

という神の言葉としての時代から、これほど意味をなさない言葉はありません。人は豹変します。紳士、人格者と見えても粗暴の輩、虚栄心だけは人一倍もつ無頼の徒。

人を殺すことに意味を見出し理由づけをする。

その理由を是認する人は、自己の理性的判断として重ねます。

感情におぼれずに、筋道を立ててものごとを考え判断する能力を理性と言いますが、理性というものはどこまでも情動の補助役なのでしょうか。

冷静沈着を旨とした行動力、自覚の形成はどのようにすればよいのか。

昔からいろいろな人が大いなる導きの実践、教えを語りますが、何か大きく変わったことがあるのでしょうか。

50億うらやましいと思う感情が私を突き動かします。このような情動を抑えるべきなのか。きっとそうなのでしょうが止めるすべがありません。


私は信ずるというとき

2018å¹´11月16æ—¥ | å®—教哲学

 宗教学では、宗教は当事者によって「信じられている文化現象」といわれます。「信じられて」とは信仰の対象である「神」や「仏」をその対象として崇めるという理解でよいかと思います。そして「信じる」という言葉は、対象物(このように呼んでよいものかわかりませんが個人的な理解として使用)を存在するものと意識して使う場合が一般的ではないかと思います。

 しかし、宗教学や神学的な理解においては、「信じる」という言葉は「信じない」という反語的な範疇で理解する場合だけではなく、そもそもこの言葉を使用することさえ不適切な場合があるようです。

  2014年9月に新教出版から出版された『人生の意味と神について』という実存精神分析療法家V・E・フランクルとユダヤ教神学者ピンハス・ラピーデの信仰をめぐる対話集があります。

 この中で「信じる」という言葉についてラピーデが次のような興味深い話をしています。

 まず「信じる」(Glauben)は、ドイツ語では「誓う」(Geloben)あるいは「結婚を誓う」(sich angeloben)に由来し、「信じる」とは「身も魂も或るものと結婚する」ことを意味するそうです。

 ラテン語では「信じる」credereでこれは「心を与える、心を献げる」から発生しているとのこと。

 ギリシャ語では「信じる」(pisteuein)で、「知的に虚弱である」ということで、その意味するところは「或ることを信とみなすこと」であり、その際に頭と心が協働していることを指しているとのこと。

 ヘブライ語ではそもそも「信じる」という言葉はなく、不可欠な絶対信頼、疑いのある「~ということを信じる」という言い方はなく、「(彼)に信をおく」というのが「神」との関係性を示しているとのことでした。


このようにドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の「信じる」という言葉を解説しています。ここで語られているのは、最初に言ったように「神を信じる」といった場合の「信じる」という言い方についてで、ヘブライ語以外は主語は変更可能で、それを信用するか否かの疑念を抱いた心の表現もできるように思います。

 評論家の小林秀雄先生かと思いますが、“「信じる」とは足りない部分を補うことである”と語っていたのはギリシャ語が由来であることが解ります。これもなかなか面白い話で、知識不足の私は学ばなければ虚弱なままで、信頼し自己の知識として吸収することによって体つくりをしてゆくといったところでしょうか。

 さて、ヘブライ語の話ですが、不可欠な絶対信頼という見方は、旧約におけるモーゼの十戒の第一は「われヤハウエは汝の神である、我のほかに他の神々を崇拝してはならない。」という言葉からもうなずけます。神と人間とはそもそも「信じる」「信じない」という言葉の使用不可能な関係性にあることがわかります。

 エジプトでの長い奴隷生活から解放され希望の地に向かうその前に広がる砂漠。そこには自然の驚異が待っています。普通に考えれば不可能な話ですが、何が可能性を抱かせたか。そう考えると「信じる」「信じない」という言葉自体を持ちえない状況がおのずと現れてくるように思えます。王の僕から神の僕へと展開されるときどのような心作りが必要か。確かに不可欠な絶対信頼ということになるのが自然に思えます。

 では日本語の「信じる」はどうでしょうか。「神を信じる」という言い方ができないわけではありませんが、信頼、信用というような言葉の概念よりも、日本人の無宗教性と言われる特徴からして神に対しては「信じる」という言葉使用よりも、心を寄せるか、頼りにするか、といったところで、「信じない」という場合は、神と対峙しなければよいのであって、私だけかもしれませんが、不信心と言われた所で罪悪感はさほど感じないように思います。

 西田哲学では、主語と述語の関係において、述語は主語との関係性が包まれるなどと言われます。「信じる」という言葉が主語を持つ関係においてどう展開し、その時心にはどのような概念が生まれているのか。主語との関係性を表現するとき実に個が現れるように思います。他者に言葉で表現し理解してもらおうとしても不可能な話です。内心に抱く「信」の意味はこの感覚的理解において成立します。それはフランクル流に言えば精神的無意識から現れるものと言えると思います。

 
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」第11章3節は、

 信仰によってわたしたちは、この世界が神のことばで形造られたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです。

 同6節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、自分を求める者に報いを与えるかたであることを信じなければならないのです。

と書かれています。この6節ですが、別の新約聖書を開くと、

 信仰なくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さこととを、必ず信じるはずだからである。

 さらに別の聖書を開くと、同節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

と書かれています。

3種類の新約聖書ですが、訳し方によってその意味合いが異なることに気がつきます。

 この6節の最後の部分、

・信じなければならないのです。

・必ず信じるはずだからである。

・信じていなければならないからです。

ここに現れているのは「神」です。

 語り部は、

 神を信じなければならない。

 神を必ず信ずることとなる。

 神を信じていなければならない。

とわたしに語りかけてきます。キリスト教徒としてその信仰の内に身を置くということは、こういうことであるということです。徒にない私には訳者によって、使用する聖書によって、語る聖職者によって多様な解釈の内に信仰を持つことになります。

 信ずるものは救われる。

とよく説かれます。

 権力を持つものが生存に有利な社会が形成してくると、体制側にある者ない者では、実存の基盤が失われ生を保証する大なる証が失われ「信ずる」という言葉がまさに疑いの心とともにはっきりと意識されるようになります。新約の世界はまさにその世界に成立したもので、そのご神の存在論的論証などが現れ神の存在証明が話題に、無神論者と言明するものも現れるようになりました。

 モーゼに導かれる民は、不可能性という疑念を可能性という絶対信頼を享受しす。一方その後の新約に導かれる民は、どのように歩み、歩みつつあるのでしょう。

 神は死んだ。

 その後の世界は、論理的な思考が可能性を希望という言葉に変え歩み続けています。


神無月から霜月へ

2018å¹´11月10æ—¥ | å®—教哲学

 神無月から霜月の10日目になりました。

以前「V・E・フランクルは有神論的実存主義者か?」という題のブログを書いたことがあります。ある「実存」という哲学用語について解説するブログに、

 「実存主義と言っても、有神論的なものと無神論的なものがあります。一般的に前者で人気なのはV・E・フランクル、後者ならば・・・ニーチェやサルトルなのでしょうか。ただ、有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので、・・・・。」

という内容の文章があったからで、実存的精神療法家のフランクルの思想は、有神論的実存主義とし「中途半端」なのだと主張するものでした。「中途半端」と語る以上「完成されたもの」が語られてよいのですがそれは語られることはありませんでした。

「有神論」とは漢字から読み取れば「神あり論」となります。先月10月は日本では神無月(かんなづき)で出雲地方は神在月(かみありづき)でした。日本中の神々が出雲に集結する月で、出雲以外には神様がいなくなることからこのように呼ばれているという伝説で、「有」の「ある」ではなく「在」の「ある」を使うところは神の存在論を明示するかのようです。

 これを手掛かりに「有神論」をその意味を経験的知識感覚で理解しようと試みれば、内心に抱く「神」イメージを頑なに信じる人々の論述ということになりそうです。実際に一般的にどのように「唯心論」は語れれるのか? ネット検索で「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」を見ると、


有神論(ゆうしんろん)[theism]

 神の存在を認める哲学的,神学的立場 (単なる信仰ではない) 。ギリシア語で神を意味する theosより 17世紀にキリスト教の内部でつくられた言葉であるが,立場そのものは古代より存在し,一宗派に限定されない。
 キリスト教についていえば,まずそれは無神論に対立し,また神の存在は認めても人間の理性ではそれをとらえられないとする不可知論とも対立する。
 神が世界より離れ,超越して存在するとみる点で汎神論と対立するが,同時にその神は世界や人間精神に内在して働き続けているとする点で理神論とも対立する。また神がペルソナ的存在であり,崇拝されるべきものであるとする点でも理神論と区別される。
 有神論と理神論は語源的には同義であり,同時期に用いられはじめたから,17~18世紀の用語では一部に混同があるが,理神論との区別は有神論にとって本質的に重要なものである。有神論は以上の主張を哲学的,神学的概念をもって理論的に展開するものであるから,その主たる部分は「神の存在の証明」にあてられる (→存在論的証明 ) 。宇宙霊魂の存在によるプラトンの証明 (『法律』 10å·») ,宇宙論的証明の原型を示したアリストテレスを源流として,アウグスチヌス,アンセルムス,トマス・アクィナス以下現代にいたるまで多くの理論が展開されている

とありました。読んで字のごとくで「神あり」という確信に生きている人を示しているようです。空想であれ、実体的存在としての確信であれ、神なる存在概念を堅持している人の思想ということです。

 さてフランクルに戻しますが、有名になった彼の著『夜と霧』という強制収容所体験記があります。この本の最後の所に次の記述があります。この本は霜山徳爾訳と池田香代子訳があり個々では池田さん訳を使用します。

 そしていつか、解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。そして、人生には、すべてがすばらしい夢のように思われる一日(もちろん自由な一日)があるように、収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。(上記書p156-p157)

とあります。霜山さん訳は最後「貴重な感慨によって仕上げられるのである。」と訳しています。ここで明らかにされているのは「神以外にもはや世界に恐れるものは何もない」とフランクルは語っているということです。

2014年に新教出版社から出版されたヴィクトール・フランクルとユダヤ教神学者ピンハス・ラピーデとの対話集『人生の意味と神』があります。ラピーデはフランクルに対して、「あなたが神というときに、あなたは何を意味しておられるのですか。」と問いています。それに対してフランクルは「宗教が問題になります」と応え、15歳のときに定義した「神とはわたしたちのきわめて親密なひとりごと[自己対話]のパートナーである」という言葉を語り、この問題は未だに解決していないまま、ですがとしています。

私の個人的な意見ですが有神論的実存主義者というよりも宗教的実存を語る人と言った方が良いように思います。

 人は人生から問われ、期待されている存在とするフランクルの思想は、内心に働く問いで汝自身が解していき、そして世界を見る思想に思えます。  

述語的に展開される働きの世界、その時主語である神は働きに包まれています。フランクルの語る「宗教の問題」という言葉に、西田幾多郎先生の晩年の次の言葉を思い出します。

 我々が、我々の自己の根柢に、深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである。自己の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言旧(いいふる)された常套語(じょうとうご)である。しかし多くの人は深くこの事実を見つめていない。どこまでもこの事実を見つめて行く時、我々に宗教の問題というものが起こってこなければならないのである(哲学の問題というものも実はここから起こるのである)。
(『場所的論理と宗教的世界観』上閑照編西田幾多郎哲学論集Ⅲp323)

哲学の根底、宗教の根底に普遍的な共通に通底するところがあるといいます。西田哲学の逆対応にどのような言葉の意味を置けるか。「神」「仏」という言葉の深淵性が響いてくるかもしれません。


ひねり出す、よじり出す、ねじり出す

2018å¹´11月07æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

 人は何かしらの念によって形を作る。分別の心の働きによって何事かを思考して行くということです。脳科学で語るような難しい話ではなく、心の働き、これも「どこに心があるのか」という難解な問いも出さず、何事かを考えてみたいと思います。この場合何事かを想像するということでもあり、この場合想像の「想」で、頭の中に思い描くということになります。目の前にリンゴがあるとしても、想像上の黄金のリンゴを頭の中に想像することができます。

 ほかにこんなことも想像することができます。超長い竿、長さは29.9792KMというとてつもない長い竿。これを地上に立てると、先は天空の宇宙空間をに延びます。この竿が地球の自転とともに竿も宇宙空間を移動します。絶対にそのようなことはありえないことですが頭の中には立派に形作られ、ほかの天体にぶつからないだろうかと考えることもできます。光の速度と同じで、地球の自転とともに先端はどうなるのだろうか、速度はどうなのだろうか、などと空想することもできます。

 ここで話題を変えます。ガソリンの値上げが続き、年金半分支給の経済状態に影響を及ぼしています。産油国からの原油の輸入が難しい状態が影響しているようで世界的に困った状態になっています。原油を運ぶにはタンカーが必要で、輸入する場合には空のタンカーに原油が注がれ規定量で満たされます。全くの「空」状態から「規定量原油」に代わります。余談ですが、日本のタンカー保有は高く、タンカーは空母に改造することも可能で、あくまでも可能性での話ですが戦力は相当高くなるようです。

 タンカーがなくてもパイプラインで隣国ならば原油を輸入できますが、原油というものは器やパイプラインが無ければ扱うことができません。

 もしも原油を注ぐ口を海や大地にに向けれ栓を開ければ大変なことになり、海洋汚染然り大地に向ければ自然発火などで大変な環境汚染を引き起こすことにもなりかねません。したがって原油は結局、経済取引をするにふさわしい器(形)あることを前提にし、取引成立によって空(無)は満たされます。

 原油は地下深くに地球の歴史とともに形を形成し、その後人間によって取り出され物として取り扱われてきました。原油は様々な形に加工され人の用に供せられ、それは財と成り争いの根源ともなりました。

 話の視点があちらこちらに飛びますが、考えというものはかなり広がりを持つもので考えながら、別の思考視点が入り込んできます。

 地下に成りて在る原油、あるという状態が人間の知により有用性のあるものに展開し、社会の発展と不幸を招来させています。原油は、

 「置かれていた場所」から「置かれる場所」

その位相によって無から有へと働きを持ちます。「持つ」という述語には、人の思惑を秘めながら原油自体の活用される重みなどが世間の事態を変化させる力を持つことを意味しています。

と書きながら原油の身にもなっていることに気づきます。

 人の手が入ることもなければ無状態であり続けたものが、有に移行し続ける。「あり続けたもの」と語るのは私であって、原油という範疇で捉えるものには意志もありません。主体とはなりませんがその存在は意志があるかのように世の中とかかわりを構築していきます。何かを成し遂げようと主体的意志はないのですが、その存在は絶大です。

 このように「想」をくり返し、何かを描き、何事かを語っています。

 物という存在、人という存在

共に置かれる場所で何事かに描き描かれ続けます。

 ガソリン値上げの連続から財政的危惧を抱き原油の話をしていますが、原油の枯渇懸念が背景にあることは周知の事実で、このような問題に対し人はどうしたものかと思索をします。表現を変えるならば、人は経験的な知識から何事かを捻(ひね)りだそうとします。

 自然光、シェールガス、バイオ燃料などの利用で枯渇懸念を解消しようとしています。あえて「捻る」という言葉を使いましたが、日本語の「ひねる」という言葉、漢字は「ひねる」のほかに「ねじる」「よじる」とも読みます。この言葉を使うと各種知識の複合体つくりを想像します。

 弥生時代よりワラを手で「よじ」て想いのものを作ってきたなごりで「ひねりだす」「よじりだす」は今に続いているように思える言葉に、思考上の感動を覚えます。考えてみれば縄文時代の縄目はワラではないかもしれませんが、縄文の時代から日本人はひねり出しているんですね。

 漢字は、手偏に念、創造とは捻りだすことで、知識技術を駆使して何事かを創造して行く、身体と精神の合体のような言葉です。

 人はどこで捻りだすのか、どこで思考するのか。

 頭の中で空想しながら手仕事のような技術力から最先端の技術までを使い可能性を信じ実現して行きます。

 「ひねり出す、よじり出す、ねじり出す」という日本語は、実におもしろい言葉です。


自分の念が作り出すもの

2018å¹´11月05æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

  世界人権宣言70周年の年、12月は人権デーで、秋のこの季節各自治体、各地域では人権教育のための講演会等が開催されます。私の住む安曇野市の山麓区にある小さな区でも地元の小学校の教頭先生で自称落語家を招き、落語を聞きながら人権を学ぼうという会が月初めの休日にありました。粗忽長屋などの人情噺から他者に対するやさしいまなざしを自覚する機会になったと思います。

 職場がある松本市の広報誌が今朝投函されていたので見てみると、やはり「みんなで築こう人権の世紀」という見出しの記事に、「人権を考える市民の集い」という講演会開催のお知らせ記事が書かれていました。女性の著名なジャーナリストの「混迷な時代を生きる“命の重さ”」という題の公演だそうです。

 ã€Œæ··è¿·ãªæ™‚代を生きる」という題の「混迷な時代」という現在の時代認識に、個人的にも不自然には思わないのですが、どうして「混迷な時代」を疑いなく承認してしまうのか不思議に思う。そう思わないというわけではなく、文章に不自然を感じないのです。

 一般的に人はどう考えているのか。とネット検索すると

 私たちはいま、混迷を極め、先行きの見えない「不安の時代」を生きています。豊かなはずなのに心は満たされず、衣食足りているはずなのに礼節に乏しく、自由なはずなのにどこか閉塞感がある。やる気さえあれば、どんなものでも手に入り何でもできるのに、無気力で悲観的になり、なかには犯罪や不祥事に手を染めてしまう人もいます。
 そのような閉塞的な状況が社会を覆いつくしているのはなぜなのでしょうか。それは、多くの人が生きる意味や価値を見いだせず、人生の指針を見失ってしまっているからではないでしょうか。今日の社会の混乱が、そうした人生観の欠如に起因するように思えるのは、私だけではないと思います。

と語り始めるサイトがありました。出会いました。題が“混迷の時代だからこそ「生き方」を問い直す”です。そして「生きる喜びを見いだし、幸福に満ちた充実した人生を送るための何らかのヒントを本書から得ていただければ ・・」とありますから善き人生の歩み方を教示してくれそうです。

 さて個人的に、今現在不安を抱えているか? 年金半額支給のため第二の就職で生きています。好きな本が購入でき読めて、カラオケさえさせていただければ結構、酒はアルコールアレルギーですのでこの世に存在してもらいたくないほど嫌いですし、かけ事も宝くじも含め当たりませんと確信しているので、しません。不安がないと言えばないわけではなく、あえて伏せ、どうにもならない時というものを経験したことがないので「どうにかなるさ」と他人が見れば気楽に見えるかもしれません。といって気楽という感情はなく、常に何事かが起きている現象の連続的な体験がわたしを作っているように思います。

サイトの内容は、 

「混迷な時代」そういう時代にもっとも必要なのは、「人間は何のために生きるのか」という根本的な問いではないかと思います。まず、そのことに真正面から向かい合い、生きる指針としての「哲学」を確立することが必要なのです。哲学とは、理念あるいは思想などといいかえてもよいでしょう。

と「何のために生きるか」という哲学的問いをもち学ぶことを進めます。この問いひとつだけではありませんが哲学を学べというところは非常に共感します。

 そのような心持で生きていると、ラジオ番組の武田鉄矢の三枚おろしが聞こえてきます。最近マスコミがにぎわす話題が取り上げられ、スポーツ界のボスの不祥事、医科大学の入試にまつわる不祥事、政治家の不祥事などマスコミが語る的になる人たちは日本を汚い国だと思うっているのではないか、と武田さんは語っていた。参考本にそのように語られていたようですが、確かに、マスコミが前面にさらす人々は「私の方はさほどひどいことではない」調の語りが多く、世間にはもっと悪い人がはびこっている、と言わんばかりの雄弁をふるうというのです。

 確かに確かに、反省そっちのけで、伝統を語り、行き過ぎがあったは語らず、こちらが期待するような反省態度はひとかけらもありません。それは見事の連発でその筋のドン、親分という風体でキンキラに輝いていました。

 さて私が関心を持ったのはドンたちではなく、「彼らは日本は汚い国だと思っている」という分析に感心したのです。これは時代を読むというよりも人を読むの類に入りそうですが、巷には社会分析や精神分析本が数多く出版され、市井に分析家がはびこります。専門家の批評ばかりではなく、SNSでうわさ話が横行し、人のレッテル貼りをする人が溢れます。中には自己自身を分析し納得したり、中には虚無感に落ち込む人も多くいるものと思います。

 「混迷な時代」、経済の先行き不透明ならば他人も何を考えているのか不透明、何かとレッテルを張り、こういう人だと枠にはめないと落ち着きません。錯覚であろうとなかろうと、わけのわからない人々が共存する。そうすることで安心をする。

 日本人は道徳心が高いかと思っているとハロウィン騒動が起こる。善人、悪人、異常者等がうごめき合う現代社会、「あなたも心理捜査官」「あなたも警視庁捜査一課員」「あなたも警視庁特命係」「あなたも科学捜査研究所員」「あなたも刑事弁護士」などのドラマが流行るのもうなづけます。

 「レッテル貼り」「当てはめ」

 これが悪いという話ではなく、本来人間が生存するために敵味方の選別は本能的に備わっていることです。イヌなどだは人を見ただけで犬好きかそうでないかを判別します。好きと分かれば猫などは足元にたわむれます。

 本能では感知できない人間は、型にはめることで補います。「分析」というと難しく聞こえますが、日常生活、朝起き、妻にあいさつし、家を出ます。出勤途中数多くの人々と接します。知り合いは別にして他人を見ると無害か、否か全くの赤の他人の場合にはこの人はどのような人物かと分析を自然に行います。

 最後に面白い人分析の話です。禅僧の井上希道老師が書かれた『坐禅はこうするのだ』(地湧社)に参禅志願者の「分析」の話が書かれています。


 当然まず器を図るべく色々と探りを入れてみる。話の具合から推測するに、大変まじめで気の弱い。一口に言って自分を支える力が虚弱なのだ。このタイプは自尊心がかなり強く、一面的に解釈したり思い込んだりしてそれに毒され、自分が融通がつかなくなっている場合が多い。自分の取り込んだデーターを状況や条件に応じて改善し、適応させるという知的作業が健全でないのだ。

 しかしまずいのは、自分の意見を前面に押し出し振りかざして開く耳を持たず、それを一個人の意見としてそれに対する他人の見解や自分の別の角度からの分析を自由に注ぎ込むことが出来ないところにある。その理由は、自分の考え意見が自尊心に裏打ちされているので、他人に批判されたりするとあたかも自分が丸ごと否定されてしまうかのようにくじけてしまうのである。一意見として導き出す知性としての精神部分と、世間に対する自尊心となる存在観(感ではなくこの字を使用している)、即ち感性としての感情部分とがまだ未分化なのである。精神、感情のどちらかに動揺があれば常に両方が乱れているので、本人は辛いし続かない。そのために複雑な人間関係の現場である社会への適応力が弱いという結果になるのであるが、自分が著しく傷つき被害者になったり自信喪失になったりするので笑ってすませるには少し気の毒な感がある。
 かれがこの通りのタイプとは断定出来ないが、当たらずとも遠からずだろう。

ということが書かれています。鋭い観察力とみますか? 私が参禅希望者ならばこのような分析でみられているのかと思うと、まいったなぁ~です。参禅の志願などは吹き飛びます。

 昔ブログにも書いたのですが、これは「客体(参禅志願者)の分析」です。逆にそこから見えてくるのは「優しい人」「怖い人」「恐ろしい人」という私の分析です。

ということで今度は「主体の分析」の話です。仏教の話が続きますが、「中論」で有名な龍樹の中観と世親の唯識を統合してしまおうという人が著した「大乗起信論」に出てくる話で、哲学者の梅原猛先生がえらく感動したという話です。

 「不覚の分析」主体の心の動きの分析が次の通り表現されています。

 一人の男性が、とある女性とすれ違うそこから恋心が生ずるわけであるが、恋も実りばかりではなく、一方的な愛憎は世間の知るところである。

 静かなる心に、一人の女性の影がちらついた。風のない池のように静かであった心が、にわかに風波が立つのである。動く、心が動くのだ(無明業相)。

 彼は、じっと目を開いて、通った女をみた。そうだ、彼の心は、女を見る眼そのものとなった。まさに能見の心となった(能見相)。

 そのとき、女は、彼の前に美しい姿を現わす。それはまことの女の姿であったが、女の姿が去ったのちも、彼の心には女がはっきり見えたであろう(境界相)。

 そのとき以来、彼の心にはその女が住む。女を彼の心ははっきり意識する。そして愛と憎しみが彼の感情となる(智相)。

 その心は、昨日から今日へ、今日から明日へと続くのだ。そして心は、そのように時間の相続にとらわれて、すでに自由を失っている(相続相)。

 そして女への執着、彼の心は、日増しに女と会える楽しみと、女と離れている苦しみにとらえあれた奴隷になる(執取相)。

 その女の名が、彼にとっては、一つのイドラとなるのである。その名の下に彼の幸福があるように幻想する(計名字相)。

 そして、このような名前のイドラ、煩悩が生んだイドラにとらわれて、彼は、狂気にも似た行動をとるのである(起業相)。

 そのような狂気にも似た行動の結果として、彼は、まさに、無量の苦をうけて、彼の心は永久の不自由の中にあるのである(業繋苦相)。

梅原猛著『作集6仏教の思想』(第一章厭世観の克服P31から)

実に面白い話で、人間の本性は不生不滅、清浄無垢なのにどうしようもなく不覚の心が起こり、妄念が湧きだつものです。

 無明の闇の中から、沸沸と煩悩が流れ出てくる。真宗が人間は悪業の凡夫、煩悩熾盛の凡夫というのはそこにあるのかもしれません。

 このように人間は、内に外にと「こころ動かし」生きている。ここで思うのですが、他人の心には決して入れないということです。相手の心はこうだと当てはめても、我の想念でありそこには実際(事実)もありません。あるがままの他人がいて、ただ接しているだけのこと。

 そこに私の分析結果で他者をそういうものと見定めると、自分の性格もあるかもしれませんが永遠に払しょくできない他像を作ってしまい、相いれない人間関係になってしまいます。まぁ、それもよいかもしれません結果はすべて自分持ち、他者の迷惑も顧みない個ができ朽ちるのを待つ人生というわけです。

 人間が現実の世界に生きる以上、念をもたず事実を直視するがよろしいかと思います。そこには誤りもなく正解もない。

自分の念が今何を作りつつあるのか、そう思うだけでも善いのかもしれません。

というのが今回の締めです。


ハチのなかの命を見る時

2018å¹´11月01æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

金子みすゞさんの詩に「はちと神様」という短い詩があります。

はちと神様 

 はちはお花のなかに、 
 お花はお庭のなかに、 
 お庭は土べいのなかに、 
 土べいは町のなかに、 
 町は日本のなかに、 
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに。

 そして、そして、神さまは、
 小ちゃなはちのなかに。

こういう詩を読んで「神は存在するか?」という問いを発する人はまずいないと思う。そもそも無神論者には感慨を与える文章に思えないからです。
実際に庭に咲く花を見る。するとハチが花から花へと飛んでいるのが見えます。まなざしは庭という全体からハチという個へ、そしてハチから花へ、花からハチへ、ハチから花へ、そして庭は土塀に囲まれているという思考視点が広がります。

 ここからはまなざしは現実から空想へと変わります。「世界は神さまのなかに」と神はあまねく照らす空間へと変容します。そしてまなざしは反転して神はハチの命としてあることに気づきます。

「なかに、なかに」は、まさに「中に、中に」で意味するところは「内へ、内へ」と「包まれ、包まれ」ていきます。

 包むもの包まれるもの、論理的に展開する話が突然、論理を超える。しかし不自然は感じず、まさに自然に帰ります。

 ネイチャーという西洋的な概念でまなざしを向けると非論理的な話になりますが、自然(じねん)、自然(おのずからしかり)、天然(てんねん)という古典的な日本語でまなざしを向けると「自然(しぜん)」は非論理的なモノ・コトになります。

 わかる人にはわかる(分かる、判かる、解かる)りますが、金子みすゞにとっては「神は実在」していたのかもしれません。しかし彼女は小さな子を残し自害しました。

 相当な肉体的、精神的な苦しみが彼女を襲ったのだと思います。人間には超えられない時もあるということでしょうか。