思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」に思う

2019å¹´10月30æ—¥ | å“²å­¦

 Eテレ100分de名著『善の研究』の全4回が終了した。今までの自分なりの学びが洗い流されるような、説得力のある番組でした。

 いろいろな方が西田哲学を語り、それはその人の理解の完成であるわけで、他の西田哲学を研究されておられる方も全面的に共通の理解の内にそれはあるのだろうか。

 最終回の第4回では「絶対矛盾的自己同一」という用語が解説され、永遠の今、多と一という言葉が語られる。

 個人的な理解で、今という現時点は差異のの移行、流れのある時点の連続の形跡を感じる。私という存在が矛盾を抱えながら一を求め存在し続ける、とそんな理解も「絶対矛盾的自己同一」にはあるのではないか。

 「善(ぜん)の研究」は「善(よし)の研究」ではないか。善悪(ぜん・あく)の次元、価値判断ではなく、動かしがたい存在の今ある姿それ自体が自己による「善(よし)」の「在り」なのである。

 「絶対矛盾的自己同一」を日々の変化の内を含むのではないかとう語ったことがあるが、その理解は誤りと指摘されたことがある。しかし私の西田哲学は、その理解も含み動的な生命現象として、それを語る方もおられる。

 そうだと理解の完成を感じることは、これもまた過程の内であろう。


現存在の負い目

2019å¹´06月13æ—¥ | å“²å­¦

「老い」という言葉が気にかかる。そういう年齢にきたなぁと思う。高齢者の交通事故、杉良太郎さんの運転免許証返納などのニュースを見ると「老い」について真正面から考えるべきなのではないかという良心の声が出てきそうである。樹木希林さんのことば集が話題になっています。その中で希林さんは「老い」について、「若いときにはできたのに、歳をとるとできなくなったことを悲しむよりも、歳をとると、こういうことができなくなるのか。」と「そうなることを知ることが面白い」と語っていたことに現代の妙好人を感じさせる。

「おい目を感じる」と語る時に、この「おい」という言葉が「老い」に漢字変換され「老い目」となってしまう。「負い目」が正しいことはだれもが知っていると思うが、なぜかこの漢字が出てしまう。

「負い目」の意味は、ネット辞典で、「恩義があったり、また自分の側に罪悪感があったりして、相手に頭が上がらなくなるような心の負担。」と解説されているように、「負い目あり」と感じる側の「何かしか」の欠如の意識があるように思う。

 「心の負担」であるから、「老い」は子供らに負担をかけることにもなろうかとネガティブな感情になる。そんな思いも去来するのでついつい「老い目」などとしてしまうのである。

成されるべきことが成されていれば負い目などはないわけですが、若さは永続できないのが当然の理、老化というものは自然の成り行きであり、老いない人はこの世には存在しない。

成るべくして老いて行く(成って行く)のであって、成すべきことを成していないわけではないといった能動的な話ではない。現存在そのものが「老い目」が聞こえる場であるとも言えそうだ。

それは声として聞こえるわけではなく「沈黙という様態において語る」、内なる声であり、この呼び声は意のままにならない性格のもので、おのずから現れるものである。自分の期待や意志の反映でもなく、思考視点を転回させるならば「存在の呼び声」とも解せそうである。

 自己という現象を相依的な自己の二重性の織りなしと考える私にとって、「存在の呼び声」は現存在で意志活動する意識側にある主とは相依する側(沈黙する主)の声であるかのようである。

「存在の呼び声」と書いたが、現存在において自己を裸の実存へと思考転回するならば「有りて在る」という人生の意味が問いかけられる機縁にもつながる。自己の計らいでもなくおのずから然りの現存在である。虚無感を補うような計らいがあるとしか思えない。

 「存在の呼び声」という言葉に、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』第二章に出てくる言葉ではないかとしてくする人があろうかと思うが、その通りで彼は次のように語っている。

 

<じっさい、呼びかけは決してわれわれ自身が計画したり準備したり随意に遂行したりしたものではない。思いがけなく、それどころか、心ならずも、《呼び声がする》のである。そうかと言って、その呼び声が、私と共に世界の内に居るほかの人からきこえてくるのでないことも、疑いのないところである。良心の呼び声は、私の内から、しかも私を越えて聞こえてくる。(『存在と時間』下、マルティン・ハイデッガー著・細谷貞雄訳、筑摩学芸文庫、p111)>

 

 樹木希林さんのことばに戻りますが、希林さんの言葉は癌に罹患する前からも含みます。何か彼女の生き方そのものに観照する何かがあるように思う。そして、それを受け取る側にある読者は内なる声を聴いているに違いない。

 希林さんの言葉に耳を傾けたい、心を傾けたい、触れたいと思う人が多いことに安ど感が起こる。

人間は自とその一にとどまり呼吸するのみの存在ではない。食事もしなければならないし、閉じこもったところで、他者からの気遣い負う存在である。そういう負い目がある。歳をとるとそこに老い目が生じくる。存在という根底にある虚無の現存在を補完するためのように。


「もの・こと」(論)から主人公になるために

2019å¹´04月19æ—¥ | å“²å­¦

個人的に興味をもつブログに「もの・こと」(論)が書かれていました。最近の思考課題の一つとして自己の二重性といった心理学にも関係する問題に関心を持っていると、この「もの・こと」論がかかわってきたので、ブログ記事を読んで世の中は共時的な「もの・こと」にあふれていることを実感しました。そこで今回は思考視点を「もの」「こと」論から展開してみようかと思います。

 過去20年あまり書き綴れば多少満足のいく文章も書けるかと思うと一向に進歩しません。「もの・こと」論は過去に何回か書いていますが、途中で関連する言葉に捉われ網の目のような話になってしまうのが現実です。したがって漏れの多い文章なわけです。

 漢字の「物」と「事」の二字を組み合わせると「物事」は訓読みで「ものごと」となり、「事物」は、音読みで「ジブツ」と何気なく私は読んでいます。決して「ブツジ」とは読まず「こともの」とも読みません。私的な疑問としてこの「こと」は頭の片隅にあるわけで、そういう「もの」だと納得すればよい「こと」なのにどうもそういう疑問癖は抜けません。

 さてこの二語、意味的にはどうかということで、サイト検索するとデジタル大辞泉では、

「物事」は、
意味: 物と事。もろもろの物や事柄。「物事の加減を知る」「物事の順序をわきまえる」

「事物」は、
意味: 1 さまざまな事柄や物。「事」に重点の置かれる「物事」に対して、「物」に重点が置かれる。 2 訴訟にかかわる事件とその目的物。

とありました。

●「事」に重点の置かれる「物事」

●「物」に重点が置かれる「事物」

ということらしいのですが、個人的な感覚として「事物」のほうが品物、物質、事件、事象などの範囲的な、まt固まり的な印象が現れます。一方「物事」になると「事」(ジ・こと)という、まさにどういう「こと」なのか感覚的にその意をつかむのが難しいのです。

●もろもろ(諸々)の物や事柄の「物事」

●さまざま(様々)な事柄や物の「事物」

どうした「もの」かと悩むわけです。

  ã“こで仏教的な話から西田哲学に進みたいと思います。

 曹洞宗の開祖道元禅師は、『正法眼蔵』の中で「祖席の英雄は、臨済・徳山と云う。しかあれども、徳山いかにして、臨済におよばん」と言って徳山よりも臨済の方が優れていると言われていますが、臨済にも徳山にもおのおのその特徴がそれなりに善いところはあると思っています。ここで後者の徳山の話をしますが、徳山が北宋の真宗景徳元年(1004)に大成した「景徳伝燈録」の中に「無事則勿妄求而得亦非得也無事於心無心於事(ぶじなればすなわちみだりにもとむるなかれ みだりともとめてうるもまたうるにあらざるなり)という言葉があります。  

 この話は時々ブログにアップするのですが、この言葉をもとにした、西田幾多郎先生の碑文が、安曇野市豊科高家の旧高家小学校跡、現信濃教育会生涯学習センターの近くの公園にあります。  

 西田先生がよく信濃教育会の講演に来られ関係が深かったことから碑文を依頼し建てられ、今に残っているわけです。 

碑文はかなり大きなものでそこには、

 無事於心無心於事   
 物となって考へ物となって行ふ
        西田幾多郎書

 と徳山の言葉とともに西田先生の言葉が刻まれています。

 前半の「無事於心無心於事」は、『心(しん)に事(じ)なく事に心なし』と読むそうです。 

 西田幾多郎先生はこの言葉について、著書の中で  

 「自然法爾とか無事於心無心於事とかいふ東洋的無心とは、自己がなくなるとか非合理的とか云ふことではない。物を自己となすと云ふに反して、自己が物の自己となることである。自己が絶対者の物となることである。神人合一と云ふことは、人間が神となると云ふことはではなく、人間が神の物となることである。自己は何處までも自己である。唯それは絶對の事物となるのである。故に物となって考へ、物となって行ふと云ふ」(『西田幾多郎全集』第十巻)

と書いています。そして西田先生の友人の鈴木大拙先生は、著書『無心と言うこと』の中で、

 「無事於心 無心於事・・・心に事なかれ事に心なかれとでも訳しませうか。心に事なかれとはぼんやりして、ただ木石のようなものかといふと、手を動かし足を動かすといふことがあるのです。一晩明ければ挨拶もする。御飯も食べる.或は喧嘩もするかも知れぬが、その事に於て心なしで、かうしたらかういふ功徳があるだらうとか、かういふ能率があがるだらうか、かういふ旨い具合に行ったとか、さういふことは何もない。心に何等のはからいがないのが、実際に仕事をやるときに無心であれといふことです。」

と同じように「無事於心 無心於事」について語っています。

 郷土誌にはこの碑文について、戦前の文面ですが

 「物とは歴史的世界に於ての事物である。我々の自己といふのもかかる現実の世界に於ての事物に外ならない。『物となる』とは我々歴史的現実の中に自己を没することによって自己を尽くすといふことであり、自己が物の世界に入って働くことである.したがってこれは物の真実に行くといふことでなければならない。己を空しくして物の真実に徹していくことは日本精神の真髄である。  所謂撫心とか自然法爾(註=哲学上のことば、永久不変の法則、自然そのもの)とか柔軟心とかいふ我々日本人の強い憧憬の境地もここにある。人間そのものの底に人間を超えたもの、それが『事に徹する』といふことであって、事実が事実自身を限定する事事無礙(じじむげ)の立場は、どこまでも『物となって見、物となって考へ、物となって行ふ』ところになければならない。即ち徳山の『無事於心無心於事』である。」

などと紹介しています。  

 個人的に「物」という漢字はどうしても物質的な固形的なイメージがわいてしまいますが、西田先生は「もの」をすべて「物」という漢字で表現します。「神人合一」という場合に「人間が神の物」と「物」と書いています。しかしこれは神の所有物という意味ではなく「命に向かう」ような高揚的一体感、無にして一体とでも言ったところの「もの(物)」表現のように考えています。

こういう話をする人を耳にすることがあります。  「この世界に本当の意味で存在するのは『物』だから、人を道具として利用しても構わない」

 カントは「利用してはいけない」と語りましたが、現代社会は、こういうものの見方をする人が多いような気がします。人体ですから形成された形ある物(ブツ)に見えて当然ですが、自分自身も物として感じてしまっている、ということです。カントが言うくらいですから、そう考えてはいけないということではなく、そういう思考展開をするとという話です。

 「道具として使われている」「従うための道具とされている」

 以前ブログで「令和に支配される」と国を訴えた弁護士さんのことについて話題に取り上げましたが、まさに彼は自分は支配される物と見ていると言えるように思います。

 西田哲学で言うならば包む側である「支配される」述語が、包まれる側の「私」主語をそもそも置いているということです。つまり「支配」という言葉を語り始めたときからすでに彼は存在する、ということです。

 支配的、封建的、権力的・・・等の言葉を想定する述語においては必ず主人公がいるということで、そのような状況(こと)に「ある」と考える者やそのような状況(こと)に「する」者がいるわけです。そして全くそのように思ってもいない人が「令和の支配」という言葉を聞くといつの間には支配に包まれる側に変容してしまいます。

 そもそも人間は命ある生命体として実存します。そこに多くのものを着飾ります。それは事実そのままが多様に変化し、様々な事物世界を創造していきます。人々は諸々のもの的世界に「物」を作り上げていきます。しかし、物は働きの内に物になるのであって重要なところはその働きです。働きの内に人は「人成り」になると思うのです。

 もの(物)となって考へもの(物)となって行ふ 物とは即ち主体そのものです。「~である」「~になる」存在としてその主体たる主語の私は自らを限定し「~である」存在として顕現します。様々な人成りの特性をもって事物として存在する。

 幸せを求めるものは幸なる姿を描き、夢を実現したいものは実現した姿を描きます。「そうありたい」「そうなりたい」と描き出すのです。

 そのように描き出せるのは、同時に正反対の状態を内に持つ(描きだしている)からで、

「幸せに思えない事」「そうなれていない事」

という思いの描きが影のようについて回るのです。そのような働きの内にあるからです。

 私の考えるところは、心理学で語るW・ジェームズの自己の二重性のように「I」と「me」がそれぞれの主体(主語)が述語で思い描いているのではないでしょうか。 事的世界即ちリアルな現実を顕現するには明確なる主語的自己を主人公にした自覚のもとに述語で表さなければなりません。事に限定する主語たる主体にも注目すべきなのは確かにあるように思うのです。

 反省的であったり、自省的であったりするのは自戒する自己と自戒無き自己が表裏(相依)に現れ理性を求めようとするからであり、喜んだり悲しんだりするのはそれぞれの感情を意識する自己が表裏(相依)にあるからであるように思う。

 選択する私は選択しない私を押し切って選択する。

 現在パチンコ依存症、、競馬依存症などの対策が検討されているということです。施設出入り口に顔認証システムを導入し家族などから要望があれば入場規制をするようなことも検討しているようです。

 止むに止められない依存症の私。止めたい私とやりたい私の葛藤が病的に一方の主人公の私がもう一人の私を抑圧してしまうからです。これが心のシステムが壊れた病(やまい)の状態なのだと思う。

 「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

以前ブログで宮沢賢治の物語から引用した言葉です。理性的とはこういう事なのだと思う。主人公がこのような理性的な思考にあるとするならばどうだろうか。

 「考えないではいられない」主人公です。

西田先生は、「私は述語である」と語り「述語に包まれる私」と「包まれる側の私」があると言います。それを基にしたのが先の思考展開です。 「事に徹する」「無我の境地」というものは「包まれる側」が自覚において今まさに、直中(ただなか)の事象を限定していくことであり、また働きの中で邁進(突き抜けて行く)することに思います。

もの(物)となって考へもの(物)となって行ふ という言葉の「ものとなって」とは統合的自己の意識が、徹する心境において働くということだと解したいのです。

 雑念無きを無我の境地というならば表裏で展開される二重性の自己意識が統合されて述語に包まれるということではないでしょうか。これこそ事実そのままの体得のように思います。

 主人公に徹する。 「本当のいいことが何だかを考えないでいられない」主人公になる。

 長々と語って「もの・こと」論から真の主人公になる話になってしまいましたが、この辺で終わりたいと思います。


雑念と私と汝について

2019å¹´03月29æ—¥ | å“²å­¦

「雑念」というと、集中力が衰える原因と考えるのが普通です。辞書的には「気持ちの集中を妨げるいろいろな思い」などと説明され、「思い」とあることを見れば、真面目に考える私の中にあたかも別人のような私が不真面目な「思い」の姿で登場し、真面目な私を翻弄させているように見え、それを「雑念がわく」などと表現します。

 「なぜこんなことが、私に起きるのか」と悩むとき、「私は何か罰当たりなことをしたのか」と神罰の祟り思う私もいれば、「何かミスをしたのだろう」と考える私もいます。

 こう考えが起こるのは、平穏な日常生活に突然の苦難が生じ平穏な日常との対比から悩みが生じているわけで、平穏な日常で何も急変するような事態が起きていない時の私なるものの常態的な感覚的記憶背景があるからこそ、悩めるような身の上になった私が先の私の体感記憶との対比に曝され、その身の上の差異が悩める主人公である私を存在させるわけです。

 平穏な生活の経験が無ければ、今現在の苦難しか存在しないのですから、当たり前の日常が常態化しますので、悩む以前の感覚的記憶背景が消滅しない限り永遠に悩みはあり続けます。

 つまり悩みに悩む蟻地獄のような状態は、そもそも平穏体験があったことと、生まれながらに不幸と思う人も、その後の人生において他者の境遇と自己の境遇を対比させ、あの人のような境遇にあればと思う私と、今の現実にある私との対比によって生まれながらと詩的とも思えるような表現をしているだけです。

これは知らないことを知るからこそ知ることができるのと同様で、知らない前提があるからこそ知ったという体感があるわけです。

 知る機会が展開されるその意味の場には常に主人公の知らない主体が存在し、その念をもち続けながら知りつつある私を経過し、知った私を形成します。述語の変化によって主体の私も変化します。しかし、知ったことに気づくのは知らない私が背景に存在するからであり、私が私であり続け差異(その違い)を語れるのはそういう現われを成す存在であるからです。

 言葉を変えて説明するならば、私の思考する中では、思考する主体が述語をもって、私の考えを「そうではないか」と語りかけ、また別人の私が「このほうが正しいのではないか」と語りかけているようなもの。あたかも二重人格の私のようですが、互いの意識の分離、認識の分離があるわけではなく常に私は同一の私を連続させて私であり続けます。

 このような訳の分からないことを考えるのですが、私という存在の自覚は、私に対応する、私が常に寄り添っているからこそ私は私であると自覚するのではないかと考えているということです。

 私の存在とは、相依性の関係にある私が存在するからで、薬物依存などは依存しない私と依存する私の相互の対話での決裂の結果であって、薬物の薬害は依存しないという意思決定する私を破壊するという害ということです。

 くり返しの話になりますが、私の内に自と他があるようなもので、私は自の表現でもあり他の表現でもあるということになります。元々は生において一であったものが他の目覚めによって自とともに創造的に私を表現するようになりました。それぞれが物語る存在として相互依存していると考えられます。

 西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫・藤田正勝編)の第3編台9章善(活動説)に次のように書かれています。

 最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳成るものはない。(同書p190)

 我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能くこの力を発表したものである。(同書p191)

 『善の研究』以降の先生の言葉に有名で難解な「絶対矛盾的自己同一」があります。今ある私という存在はまさに自他の私の内面的統一の働きの現われで、表現する私です。自他ではあるが絶対矛盾を抱えながら同一体としてこの場に成る者と理解できます。

 前回のブログでは、NHKドキュメンタリー - 震災ドキュメンタリー「あの日の星空」で語られた「悲しいくらい星がきれい」という言葉を心理学の視点から見つめてみましたが、悲哀の只中にいる私に、別の私が語りかえるようにささやいているように感じます。私は、その別の私を「汝」と考えたいのです。「汝自身を知れ」と有名な言葉を私は、無知なる自分に気づけという意味だと理解します。知らない自分に汝が語りかける、それが知に思えます。私と汝ははっきりと分離されているものでありながら本来的な一へと常に統合される形成体の持続です。西田先生の著に次の言葉があります。

「私に対して汝と考えられるものは絶対の他と考えられるものでなければならない。物はなお我に於いてあると考えることもできるが、汝は絶対に私から独立するもの、私の外にあるものでなければならない。しかも私は汝の人格を認めることによって私であり、汝は私の人格を認めることによって汝である。汝をして汝たらしめるものは私であり、私をして私たらしめるものは汝である。私と汝とは絶対の非連続として、私が汝を限定し汝が私を限定するのである。我々の自己の底に絶対の他としての汝というものを考えることによって、我々の自覚的限定と考えられるものが成立するのである。」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・上田閑照編』岩波文庫・「私と汝」p342)

 『善の研究』における「最も深き自己の内面的要求の声」とは後の論文における「汝の声」に相当するものと理解すると悲哀の現実における体験体としての私に、先に書いた自他の「他」は悲哀の現実体験と相依する満天の輝きの星という自然を観照し呼応するのです。その声が「悲しいくらい星がきれい」で、心の中でささやくのです。その時に不謹慎なのにと思う私も現れているのです。

 そしてこの「声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳成るものはない。」と語られているように思うわけです。

 何故にその場にいなかった私にも叱咤激励する星空を感じさせるのでしょう。

 今の私は、厳しい現実の中にいるわけではありませんが、「あの日の星空」に意味を問いかけられました。

 以上の話は、解離性同一障害を語っているわけではありません。誰にも二面性は持っているのは明らかな話で、あくまでも統一体の自覚の中でささやき合う私と私のことです。

 西田先生の語る「汝は絶対に私から独立するもの、私の外にあるものでなければならない。」は善し悪しの完全なる分離を意識できる己が明らかにあることを意味し、統合体の私がどちらかをチョイスできる一に成ろうと迷うわけです。

「まじめですか?」

 夏目漱石の『こころ」の先生はそう青年に問いかけました。

私はまじめか否か、多様なまじめさを考え、多様な不まじめを考えます。そして最終的に答えるならば多即一の答えを言うのでしょう。それは、また多様な私の顕現でもあるわけです。


「目に見えない皇帝が哲学」という言葉が意味するところ

2019å¹´02月27æ—¥ | å“²å­¦

 また「新実在論」のドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが語っている話になります。この話は、『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書)に書かれている話で、関係したテレビ番組でも話されたものです。
ロボット研究家の石黒浩さんとの対話の中で、
「今のドイツでさえ、1989年からの姿です。国境を変え、共産主義独裁政権を統合しました。そのため今のドイツは社会主義色が強いのです。・・・それで私たちは厳格な論理的構造を持っているのです。なぜなら現実はまったく統一されていないからです。ドイツは概念レベルのみので統一されているのです。」

このように語り、そこで石黒さんが、
「ドイツに対してそのような認識は持っていませんでした。ドイツはある意味日本のように同質性が高いのかと思っていました。」

と話すと、ガブリエルさんは、
「そうです。実際のドイツ社会はまったく同質ではありません。」
そして石黒さんが、
「でも概念を共有することで違いを埋めようとしているのですね。」
と話すと、
「ええ、日本には天皇が存在していて会うことも可能ですよね。皇居もある。でもドイツには皇帝がいないので、ドイツ観念論主義者は“目に見えない教会”が必要だと言います。ですから私たちには「目に見えない皇帝」があります。その“目に見えない皇帝”が哲学なのです。」

この話が、今回書くに至るのですから記憶に残る印象的な話だった分けです。
 即位30年の宮中茶会が26日皇居・宮殿で開かれ平成に活躍した著名人や、皇室ゆかりの人々が招かれたようです。式典での叡慮(えいりょ)や美智子妃殿下の補佐役の慈愛の姿はなんとも表現できない安寧を感じました。

 このような光景を見てある何がしかの感慨を覚えます。ある人は安らぎを、ある人は滑稽の感情を抱くことでしょう。

 先に「滑稽」から入りますが、これは拝見そのものに封建制の名残の抑圧された庶民の姿をあたかも称賛しているかのごとくに作り出す場と捉え「滑稽」を抱くのかもしれません。
 一方、「安らぎ」は善き心、悪しき心の二元的分別を行うならば明らかに「善き心」の顕現を見ているのだろうと思います。

 私は、上記のガブリエルの「目に見えない皇帝を感じる」という話を知り宗教的実存という言葉が浮かんできました。個人的理解で言うならば実存のバックボーンとしての宗教、人間存在の拠り所としての宗教性の現われともいえるものです。
 哲学者西谷啓治先生は著『ニヒリズム』の中で、
 「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なものであるならば、そういう拠り所の喪失は、歴史の底に、そしてまた歴史に生きる人間の底に、虚無の深淵を開いてくる。」
と語っています。
「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なもの」
 ここで語られている「もの」とは、「こと」に対する「働き」です。そしてその働きは「拠り所」「依処」として本来あった、ということです。

 形而上的な話です。原始仏教典パーリ聖典『長部』大般涅槃経に「法灯明・自灯明」という言葉があります。釈尊亡き後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」と釈尊が言われたと言います。
 思いの念で描かれる世界観、まったくの形而上の話で、概念話です。善き心の永遠性の保持というよりも保守かもしれません。

 根本に同質性がない空間、風土という同質性はないということです。
 「目に見えない皇帝」が哲学なのです。
と語ったガブリエルの教示は何なのでしょうね。

 「国民と心を共にし、苦楽を共にする」存在、「日本の平和を希望します」という叡慮に戦争への歩みを進めることができるのだろうか。大衆は拳(こぶし)をあげ、同質性は乱れに乱れていきます。

 画一的に抑え込まれることへの反感は誰しも持つ心、だからといって哲学の心を失ってはならない、ある意味教示は啓示なのかもしれません。


県民投票近づく

2019å¹´02月21æ—¥ | å“²å­¦

 哲学者の國分功一郎さんが「市民が行政権力に関わることができないという民主主義の欠陥~沖縄県民投票について考えるために~」という題のコメントを今月の初めにサイトアップされていました。

 2月4日が投票日、基地建設反対闘争の一環として行われると記載するとお叱りを受けそうですが現政権の政策に対する反対行動と捉えれば反対の拳(こぶし)をあげているように見え「闘争」という言葉の使用になると思います。

 軍事基地反対の意向を示す闘争
 アメリカ帝国主義の横暴に対する米軍反対闘争
 サンゴ礁等の保護を目的とする自然破壊阻止闘争
 沖縄民衆を抑圧する本土側からの政策に対する闘争

 以前にも書きましたがいろいろな意見を秘めた投票で、結果は現状の政策推進賛成票以外の得票数が多ければ建設反対の意向が多数県民の意思という結論になります。

 åœ‹åˆ†ã•ã‚“は、

 「直接民主制が本当は望ましいが、それはできないから間接民主制にしているのであって、間接民主制は必要悪である」という意見もよく聞くのだが(誰がこんなことを言い始めたのだろうか?)、これも全く問題を捉え損ねている。今述べた通り、問題は直接か間接かというところにあるのではなく、立法権ですべてを制御しようという発想そのものにある。仮に有権者の全員が参加する直接民主制の議会が作られたとしても、実際の政策決定を行政が行うという問題は少しも解決しない。」

と語られていましたが、立憲民主主義そのものに構造的な欠陥があるということになるのですが、確かに、法治国家は最大公約的な構成要件で規制しないと秩序は保たれないのですから保護される人もいれば規制される人もおり満足・不満は消えることはありません。

 こういう構造的な欠陥に対する悲憤が生まれる構造欠陥があるならば県民投票という型づくりも今後は立法・行政・司法を離れ第4の柱とし現れてくるのかもしれません。
 そういえは地方自治の時代は今も叫ばれているわけですが、ふるさと納税に対する立法府の介入に拳をあげる人というよりも自治体はないようにみえます。

 國分さんは、マルクス・ガブリエルの公演会のMCをされていましたね。

 世の中を変えることができる独創的な創造力がこれまで以上に求められているように思われます。今ある言葉のもつ意味や概念を超える超意味、超概念の発想力の声はどこかにあるように思えますし、思いたい。

 県民投票も闘争ではなく新しい機構改革の声と聴き取り、芯からの構造変革になって行くならばいいと思うのですが。しかし、マスコミは拳と捉えるでしょうね、野党も。


裏返しの終末論、不可能性の時代に思う

2019å¹´01月15æ—¥ | å“²å­¦

 新年を迎え紙面を開くと何かと今後の日本あるいは世界の動向を語る記事を目にするようになります。

 占いにも似た未来予想ですが、毎年くり返されどの時点をとらえて結果と言えるかわかりませんが、大きく外れることのほうが多いような気がします。

 米朝の危機が問われ北の国家消滅をあるのかと思うと、まったく事態は急変し真逆の事態のように見えてしまいます。

 中国は、過去の歴史から統一国家の長く続かないものだと思えば、あっという間に世界一の大国になり崩壊することもなく存続しています。共産国家は幸福社会と思うと監視カメラは街頭にあふれ昼夜警察国家とも呼べそうな監視社会になり、国民の不満や反体制活動は表には出てきません。

 日中国交回復のころにこんな中国をだれが予想したでしょう。共産主義と言うよりも党員家族の安全を第一に考えればこれが一番いいのかもしれません。

 国外へあふれ出る旅行客の裕福層もあれば、時々報じられる山間地や荒れ野に住む人々の超貧困層もあり、中国は、底知れぬ不思議な国になっています。

 実現可能な未来はあるのか。建設中のオリンピック関連の施設のように時が来れば完成するものと違って、個的に関係してくる未来像を描くことは不可能であるように思えてきます。

 一般的に幸福像は描きにくく、不幸せな危機的事態は描きやすいものです。個々の今ある状態から幸せ像を描くとするとまさに自由選択と決断、努力という方しかなく、棚からぼた餅的な偶然性はまさに偶然で可能性は全くないに等しいものです。

 危機的事態はどうでしょう。自然災害から戦争・・・。彼女ができないという危機は宿命であって受忍する以外に方はありません。

 しかし、自然災害や戦争というものはどうでしょう。活断層の上に建造物を建てなければ大丈夫。大津波に対応できる防波堤があれば大丈夫。地震の起きる場所からは離れる。原発からは遠ざかる。軍事力を持たない。過去の歴史から学ばれることを実践することで避けられる。とそれぞれがその思いを語ります。

 現実はどうでしょうか。個人的に昨日から今日は大きな差はなく推移しています。5日ほど前の地方紙に記者が松本市出身の社会学者大澤真幸さんと対談した内容の「混迷を越えて1989からの社会」という記事が掲載されていました。

 そこで、大澤さんは戦後日本の時代を三つに区分し「理想の時代」「虚構の時代」を経て現在は「不可能性の時代」であると語っています。いつ頃からその「不可能性の時代」に入ったのは、その端緒は1989年に起こったオウム真理教信者による殺人事件だと言います。

 そして、「不可能性の時代、僕たちは自分が何者なのか分からなくなってしまった。30年間、それがどんどん深刻化してきているように見える」と言っています。
 記者は最後に大澤さんの語りとともに次のようにまとめています。

 <どうしたら理想を取り戻せるのか。私たちは主催者の一人としても「国際社会の中で日本がどういう世界観を持って臨むのか、その上で、自分はどういう選択肢に、どういう貢献をしようかと考えることはできないでしょうか」と大澤さんは提言する。「50年先、100年先の世界のために、最も重要な選択肢は何なのか、まず模索することです」>
 大澤さんが3.11が起こる直前に語っておられた「裏返しの終末論」を思い出します。フランスの政治哲学者ジャン=ピエール・ジュビュイの未来における人類の破局という視点にたっての現在という未来にとっての過去における自由選択という問題考察をする中に現在における”正義 ”論を構築する考え方です。

 どういう話かというと未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみます。ということは、その未来の方を現在とする時点において、その破局までの過程が、必然であり不可避の宿命であったと感じられているということになります。「不可避の宿命」ということばにすごく納得します。

 そしてそこで重要な目覚めは、その破局までの過程、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が含まれているということです。

 偶然の選択が必然性を生み出すという原理が効いてきます。つまり未来に想定された破局の位置からは、その破局にいたる宿命自体が未来にとっての過去、つまり私たちの実際の現在の自由の選択の産物である、と見えているということです。

 もっとも正しい選択肢は何か。それは破局を帰結するような宿命、とは別の選択肢で、私たちはその別の選択肢を取るべきだということです。つまりわざと破局的な終末が到来してしまった。と想定し逆にその終末を回避するような選択肢への想像力・イマジネーションを回復することが重要だといいます。大澤さんはそれを「裏返しの終末論」と呼び物語が困難な時代の”正義 ”の第一歩は、この裏返しの終末論にあるとそこでは語っていました。今回の「不可能性の時代」に関係した話、個々人の想像力・イマジネーションの回復、非常に難しく感じられます。いい話であるのに思考力がついていけません。

 このようなことを書いていると哲学者の梅原猛さん死去のニュースが報じられました。

 梅原さんで思い出すのは、3.11東日本大震災の原発事故後に強調され語られていた『勘定草木成仏私記』の「草木国土悉皆成仏」という言葉に意味するところです。元をたどればアイヌの人々にみる縄文文化、狩猟採集民族であったころの日本人の「こころ」の延長線上に仏教伝来後重なった言葉で、今後の社会の中で自然との共存、人と人との共存に欠かせないものだと話されていました。

 民主主義の国家で当然法治国家、良し悪しの判断ではなくある意味形式的な意味の正しさで未来への道筋がひかれていきます。

 妥協の選択、絶対確信の選択それが現在の各自の終末論で描かれる世界に見合う最良の選択となるのか。

 それは各自の「こころ」の延長線で描かれて行くのか。

改元とともに新しい時代が・・・とマンネリ化した発想(願掛け)をしてしまいます。


来たらざる未来からの足音の啓示

2019å¹´01月07æ—¥ | å“²å­¦

今年も残りわずかとなりましたという文頭で書き始め、結局年を越え新年あけましておめでとうございます、に改めようとしている間にすでに1週間も経過してしまいました。

昨年の暮れは身近に葬儀があり死ということを意識することになりました。死者の仰臥の姿、寝姿を見、もう語らぬ彼の人を見てそれが死だと思い何事かをそこから意識しているわけです。

意識していることそれは何なのか。自分にも必ずおとづれる事実、しかしそれは実感を伴うものではなくあくまでも想像するわが身の仰臥、寝姿であり私なる人格体はもうそこにはいません。

身体の衰え、人格は日々その様態を変え、他人から見れば死する数年前の私と同一人物とは見えないでしょう。

メメント・モリ(Memento mori)というラテン語の言葉があります。『詩編』の第90第12節の「我々におのが日を数えることを教えて、智慧の心を得さしたまえ」という言葉で、よく「死を忘れるな」という言葉で語られます。

年を重ねるごとに着実な死の足音が聞こえてくるような気がしてきました。詩編は何を語ろうとしているのか、何をわれわれに説いているのか。生への執着に翻弄し、魂なるものの永遠性に翻弄する者への啓示でしょうか。

命をロウソクの灯りに例えることがあります。ロウソクの長さはその人の寿命、それを長いものと交換することは誰にもできないとこととなっています。ロウソクの炎の揺らぎを見ているとあくまでも感覚的なものですが鼓動に揺すられる身体の微動を感じます。

生死という言葉のように生があるから死があるのであって、どちらか一方が単独であるのではないことは確かなことです。「生」はこの世に誕生しわれに気づいたときに、はじめてその生なる言葉を知り、死は他者の死なるものの終焉の過程から「死」なる言葉を知りました。

生と死の大きな違いは、生は偶然で、死は必然であるという人もいます。生誕は直接私自身が原因で生じたものではなく、それに対して死は私自身の健康管理の不適が原因したり最悪自決的な決定打により起きる場合があり事故、自然災害もあります。

病死であろうと自死であろうと存在の自覚は「死」なる事実があってこそ感得されることで、来たらざる未来の「死」があるからこそ「生かされている今」が実感されるのではないかと思います。言葉を変えれば現実存在における生きているという表現そのものが終焉を前提に語られていることは確かではないかと思うということです。

詩篇における「我々におのが日を数えることを教えて」という言葉は何を言うのでしょうか。単純に累積的日を数えることのようには思えません。終焉のある時点から逆算的な数えのように思われ地下ずく足音は未来から聞こえてきます。

 哲学者の田辺元は晩年『メメント・モリ』という小論を書いています。彼はその中で、

 この言葉の深き意味は、旧約聖書の詩篇第90第12節の「われらにおのが日をかぞへることを教へて、智慧の心を得させたまへ」に由来するものと思われる。けだし人間がその短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行を慎み、ただしく神に仕へる賢さを身につけることができるであろう、それ故死を忘れないやうに人間を戒めたまへ、とモーゼが神に祈ったのである。その要旨はがメメント モリといふ短い死の戒告に結晶せられたのであろう。・・・・

 と語っていますが、絶対確信の超越的絶対者を啓信する者だけではなく足音に耳を傾ける年齢になればおのずと何かが問われ解すべき機会が与えられるように思われます。
 田辺先生は『西田先生の教を仰ぐ』(1930年)の中で

「唯私の疑う所は、哲学が宗教哲学(プロティノスの哲学を宗教哲学という意味に於いて)として、最後の不可得なる一般者を立て、その自己自身に由る限定として現実的存在を解釈することは、哲学それ自身の廃棄に導きはしないかということである。」

と西田哲学を批判していました。戦後は「死の哲学」が語られ、

 「大乗仏教の中心概念たる菩薩道というのはこれにほかならない。これこそ、『死の哲学』に近きキリスト教にさえ欠けるところの、絶対無の徹底であると思う。」

となり、

 「生死が自然現象の如く客観的事件として存在するものでなく、あくまでも個々の実存的主体に対して自覚せられる媒介事態であるのみならず、生と死とは、前者の終末限界として後者が前者から予想せられるところの事象であるに止まらず、自ら進んで生の執着を放ち棄てれば、かえって死が生に復活せしめられ、愛に依って結ばれる実存間において、それが実存協同として自覚せられ、死せる先進者の慈悲は生ける後者にはたらくことが実証せられると同時に、その感謝報恩のため、更に自己の後進者に自らの悟得せる真実を回施し、その後進者をして彼に固有なる真実を語らしめる結果は、疑いもなく死復活せる生を本質的に喜びあるものたらしめる筈である。もし果たして「死の哲学」の真実がかかるものであるとするならば、「生の哲学」の窮境を打開する路が、ここに見い出されることは否定できない。」(京都哲学撰書第8巻「田辺元」メメントモリp383-384から)

と語るに至りました。

 絶対矛盾的自己同一なる西田幾多郎先生の造語について「最後の不可得なる一般者を立て、その自己自身に由る限定として現実的存在を解釈することは、哲学それ自身の廃棄に導きはしないかということである。」とその懸念を語っているのですが、西田先生の死生観は悲哀の哲学から確実に足音が聞こえている現実存在の明示化に思えます。

 兎も角も来たらざる未来からの足音、それが今を限定し変容を促す。

 「智慧の心を得さしたまえ」という詩篇の意はそういうことではないでしょうか。


理不尽と流転する世の中にありて思うこと

2018å¹´12月05æ—¥ | å“²å­¦

 「理不尽」という言葉を目にしました。この言葉の意味は一般的な辞書には、「道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。」と解説され例文として「理不尽な要求」「理不尽な扱い」が書かれていました。


 理不尽の反対語はあるのかと対義的な思考で考えると「理を尽くさない」の反対ですから「理に適う」こと「道理に合う」さまを言うのではないかと思います。


 私もときどき「理(ことわり)」という漢字を使うことがあります。理にあっていないという表現は個人の意に合わない、世間の意に合わないという文章でその思いを述べているわけです。


 目にした文章は「学校の理不尽な校則や指導を調査」という文頭から校則や教職側の所作に意に反する不当なものがあるという確信において述べられています。


 総じていうなれば時代遅れの、世間認識が甘い教育現場ということになるのでしょうか。

 人間心地よさのただなかで自然の恵みに満たされ生きられたらどんなに幸いであろうか。

 と考えるのですが、まさに無常観を意識します。

 世の中は流転する。


 心地悪さがあるから心地よさが認識され、そのような事態がくり返されるの現実、そう思う時に「流転」という言葉が浮かび、その言葉が使う私に意味を問います。なにゆえにこの言葉を使うのか。これもまた一般的な辞書の意味解釈ですが、


1 移り変わってやむことがないこと。「万物は流転する」 
2 仏語。六道・四生の迷いの生死を繰り返すこと。生まれ変わり死に変わって迷いの世界をさすらうこと。「流転三界中」


と解説され類語は「輪廻(りんね)」とありました。私の思うところと重なり、言葉としてある以上、そのように思う人は大勢いるということです。

 話をはじめに戻しますが、理不尽なことと思うこと、自己の内心に描くこととは異なることが世の中には確かに多いように私も思います。

 髪の毛を茶髪にすることの禁止、生まれつき茶髪の子を黒に染めさせる指導。

 善しとするその時点が「時間よ止まれ!」の一声で永遠に固定されるならばと夢想したところでそれは不能であることは確かなこと。

 自己の正しさが万人の正しさであれば・・・カントのようになってしまいそうです。

 理不尽な事と語る方の根底にある基準は、現代社会の趨勢、傾向であり、社会的相当性、客観的相当性であって、これを逸脱するノスタルジックな、封建的な指針には断固と拒否的態度を貫かねばならないという心の働きがあるようにみえます。

 社会もまた対義的な現象といったところで流転は空間と時間の中で弁証的に止揚し続けるようなもののようにみえます。 


人間とは対義的な現象

2018å¹´12月04æ—¥ | å“²å­¦

 前回は対義語の話を書きました。そもそも意識したりそうだと認識すること自体が人間に起こる現象とするならば、人間とは対義語認識存在と言えるではないかと思うわけです。

 臨床哲学者の鷲田清一さんは著『<ひと>という現象学』に「思考とは言えないが、よく似た感受性の癖がわたしにはある。あるものを見ると、それとは逆のものを同時にその背後に見てしまうという癖だ。」と、序文に書いています。この序文の文章からも著書がどういう意図で書かれているかがわかるように思います。

 わたしも鷲田さんと同様な癖があり、わたしはどちらかというと聞くものに「そうではあるまい」と思いながら見聞きすることを見分していることがあります。

 思考する際に頭の中で対義語を背景におき、自己の思いを構築しているわけで、その差異の区分、選別の働きがあってこそ言葉とともに表現する自己が存在を現すのではないかと思うわけです。

 現実を経験しつつあるという時間の推移の中で、見る聞く等の五感の働きによりそれぞれの感覚における差異現象で物事をきわめ(極め・究め・窮め)ていると考えられるわけです。

 鷲田さんの著書の序文にはパスカルの『パンセ』の2つの断章が先の言葉と重なりように紹介されています。

断章358
 「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう。」

断章70
 「われわれの頭のなかには、その一方でさわると、その反対の方にもさわるように仕組まれた発条(バネ)があるのではないか」

 パスカルの自分の思いの表現がなかなか面白く、また、実に鋭く響いてきます。

 そもそも感覚というものは、無感覚状態があるからそれに対応し働き出てくるものとも上記の対義的な思考で行くといえるように思います。無感覚のままにあれば何事もない。日常が無意識の無感覚で推移し、意識すれば視点が生まれ何事かを物語るわけで喜怒哀楽はまさに目覚めのときの物語です。

 正さを大いに語るものは、正しからざるものを大いに強調しその正当性を語る。

 世に賛成運動という言葉よりも反対運動という言葉のほうが響き渡ります。

 消費税値下げ法案に賛成!

 そのような法案が提出されることはないので、在るわけはありません。

 社会進歩、時代の推移というものも対義的な現象という視点から見ると弁証法的な止揚のなる世界にも見えます。

 個人の現象という時の推移において、実存的虚無にさらされ、なす術もないときがあります。そのときに対義的な働きがひしひしと迫りくるのではないか。
 見えないものの中に、物語る何事かを感覚的に知る。

 生きる意味を問われる存在というロゴセラピー的な自覚に目覚める。

このような現象も対義語的な働きの中にあるのであるのではないか。

 存在それ自体、在ることの無の背景の働き。そこに意味が生まれる。意味とはあることの顕現の働きなのかもしれません。