思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

本当は何も変わるところはない話

2012å¹´07月31æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 反原発、再稼働反対デモはデモは

 再稼働反対叫び国会包囲 民主党議員に「帰れコール」

と、国会議事堂周辺だけのことかと思っていたところ、

「野田総理自宅前デモは今日だ!」

と22日(日曜)のデモを呼びかける実名入りのサイトもネット上に発見した。

 今朝はパソコンを開けると、

「どじょう」野田首相の散髪代がうなぎ上り 1000円→4515円→12600円→ついに2万円?

というニュースがあり、その真偽のほどは分かりませんが流れていました。

就任当時は、10分1000円の「QBハウス」を利用だったものが、

4月22日は東京・紀尾井町のホテルニューオータニの理容室「ヘアサロンONO」料金はカット、シャンプー、剃り全て込みで1万2千600円

5月27日は東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急のスパ&バーバー「カージュラジャティアド」で散髪した。この店は「美の真髄を追求」「最高のおもてなし」をすると公式ホームページに書かれていて、値段はシャンプー、カット、髭剃りなどの基本メニュー「ヘアカットベーシックコース」がビジターで1万3860円。この上の「ヘアカットプレミアムコース」は1万7430円。ただ、オプションがいろいろあり、客単価は2万円を超えるとみられる。

ということで、一挙手一投足を見守られるということは実に恐ろしい話です。

「どじょうの精神」を持つ庶民派首相をアピールも・・・・今は・・・。

という論法で批判的精神を煽ります。

 野田さんの自宅傍に住む甥っ子から「野田さんの家だよ」と今年のはじめに一枚の写真をもらった。

そこには民主党の宣伝カーが駐車され、ポリス用の立哨ボックスもあるようです。

 どうも甥っ子の家よりも小さいようで、“どじょうの精神」を持つ庶民派首相”の言葉に「なるほど」と納得したものです。

 今は違うのか。というとそうではなく仏教用語の「無自性」という言葉が浮かびました。同時に「絶対矛盾的自己同一」という言葉も浮かびました。

 西田哲学の難解な言葉「絶対矛盾的自己同一」は、自分では限定された言葉のように感じていましたが開放系の限定のない現れの表現のように今は思います。

 単なる直覚であり直感で言葉で表現難いのですが、「自性」というものがあると思ってしまいますが、そもそも無いというのが仏教の教え、囚われますね・・・私自身も。

囚われついでに、
 
「政党も労働組合も関係ない。若い人の怒りが国会を包囲した。これは事件だ」。夕闇迫る午後7時から始まった「原発再稼働への抗議集会」は、ルポライターの鎌田慧さんの挨拶で幕が開いた。鎌田さんの肩越しに国会議事堂のシルエットが浮かぶ。

という内容のニュースの一文にありました。

「政党も労働組合も関係ない。」

烏合の衆、草莽の志士、在野の常民

すべてが差別(しゃべつ)無しの現れ、これが無自性であり、平等の現れなんだと思う。

というわけの解らない話を今朝は書きました。

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「くりかえし」からの脱却神話

2012å¹´07月30æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 先週度土曜日の早朝に放送された、“朝まで生テレビ!”という番組を録画で観ました。
 
 激論!「護憲・改憲・新憲法」施行65年を迎えた現憲法。東浩紀さんを中心にしたゲンロン友の会が作成したゲンロン憲法委員会『新日本国憲法』を話題に憲法問題が論議されていました。

 番組中でも言われていましたが憲法問題を個々の条文を取り上げて話題にするのではなく改憲を視野に入れた憲法全体像についての討議というものは、ある時代まではタブー視されていましたがやはり国のあり方を見ると論議の必要性は必要と思う人が多いように思いました。

 日本のあり方という壮大なビジョン、基本になるのはやはり憲法なのでしょう。

 自分とは何かという身近な問題も、国の中にある「わたし」ということを忘れることはできません。ビジョンが描ける国でないと不安で仕方がありません。私自身の老後は目前に迫った問題、社会情勢は数年前とはがらりと変わりつつあります。

 喜びや苦しみがついて回る人間がまず始めることは何だろうか。ある時点までに「こうなっていたい」と考える到達点、ビジョンだと思います。漠然とした力への意志はありえません。

 番組の憲法改正の一般視聴者からの意見集計は「改憲」が多数でした。時間帯や個人的な好み番組か、投票に関するメカ的な知識や意欲を持っているかの影響もあるでしょうが、一応そのような結果でした。

 護憲か改憲かという話しではなく、このような話し合いが民間の憲法委員会から「新日本国憲法」草案が提案され、現実化はの段階で参考にされませんでしたが明治維新後に全国で新憲法案が作られたように、そのような情熱国民になるよう触発されればと思いました。

 ただついて行く、従っていく、御上に委ねる的なところに個人の生命の危機が直接影響することが現実に示されているのが今の日本です。

 昨夜も国会前の原発稼働反対集会が1万数千人が集まり開催されたようです。ツイッター等の呼びかけに応えて参集する人々、そういう現実が毎週くり返されています。

 安保闘争や学生運動が盛んだったころにはとんでもない騒動に移行しましたが、間違いなく理性的な行動のように思います。

 再稼働には大きな問題があるのは確かです。3.11東日本大震災で瓦解した原発の安全神話。ある面安全神話があったのである一定の繁栄があったことは事実で、その恩恵は確かにありました。

 実際は山岳の馬の背を渡っているようなもの、風が吹けば転落する。

 グリーンランドの氷河が融解している事実と全世界で発生している異常気象。「二酸化炭素」が問題なのは誰でも知っていることです。日本の各地の洪水被害はこの事実の顕現したものではないか。遠くの出来事。3.11とは異なり身近に見る人は少ないのが現実。

 離接的偶然性から見れば、わたしもその災害を受けた場所に生まれていた可能性があったいえる思考を持つことができます。だから他者の痛みが解る。

 呼びかけに呼応する人々には、ビジョンがある。ソーシャルメディアの世界に呼応し新たな神話が作られていきます。

 国民であり住民であり離接的偶然性において今現在の「わたし」がある。それなのに国会前にいない私はどういうことか。

 危機的状況を認識していながら日々を生きなければいけないという現実の壁があります。野田さんもあくまではないビジョンがあるに違いないのですが、明確にできない何かがある。一国の主的な独創性に富む人ならば何かを言うに違いないのですが、そうではない。

 永劫回帰の現実、価値の転換でクリアーできないものか。ソーシャルメディアの世界に呼応し新たな神話だけが、その転換の契機となるのでしょうか。

 国会前には間違いなく力への意志を感じますが、日本人は穏やか過ぎるのも確かです。

 偶然の輸贏(ゆえい)に身を任す。勝ち負けは時の運。

 ある遊技場界の過大広告が問題になっています。ストレス解消のために偶然性に身を任す。休日であろうが平日であろうが、そのような人々がいるのも事実。

 誤りなく理性的ではないと人は思うが、人権は尊重されねばならない。その投棄される現金が福祉関係のお金でも。

 それが永劫回帰の日本の有様です。

 今朝はまた悲憤慷慨の世界に陥ってしまいました。

 今「くり返す」という言葉を使いました。全く別な話をします。

 「々」という文字があります。入力するときに戸惑ってしまう文字です。

 姪が出産後一ヵ月の女の子を連れてきました。ちょうど所用で外出したので会うことができなかったのですが、義父に名を尋ねると「菜々」との答え。文章にすればこれで終わりなのですが、「どういう漢字を書くの?」というはなしになると、ネックになるのがこの「々」です。

 答えは簡単というかパソコンで打つときには「くりかえし」と入力すれば、

と出てきます。些細なことですが感動しました。

 金子みすゞ

 今は自動変換されますが、自動車メーカーの「いすゞ」からCtrl+C・Ctrl+Vをしたことを思い出します。

 「々」は佐々木から、「〃」はどうしていたか忘れましたが今度は楽です。

 今「おなじ」と何気なく打つと、



「くりかえし」と同じようにバーが出ていました。5文字よりも3文字の方が効率がいいので「くりかえし」を撤回し「おなじ」と打つことにしました。

「くりかえし」も「おなじ」もおなじ文字が現れます。

 ソーシャルメディアが新しい神話を作り出しているのは確かです。神話は現実話ではないと言いますが、ソクラテスはそうは言いませんでした。文字のない時代に人々は物語で世の中の理を覚え継承しました。

 メモをしなくても覚え日々を生きたということです。そういう意味で神話は現実離れではなくリアルな世界であったわけです。

 安全神話の負の意味での神話ではなく、新たなる物語、神話をつくる時代が来ている、そのように感じます。

 「くりかえし」くり返される現実を見つめたいものです。

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超高速データーベースが作る出す世界

2012å¹´07月29æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 2ヶ月程真前の話になりますが、Eテレで“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”という番組が放送されました。

 番組の詳細は、

 世界トップを目指す科学者が、次世代を担う若者たちに、自らの研究内容や、世界と闘ってゆくための心構えなどを熱く語りかける。iPS細胞の山中伸弥さんなどが出演。

 世界トップを目指す科学者が“研究のブレイクスルーは、どんなときに生まれるのか”“世界と闘ってゆくには、どのようなモチベーションが必要なのか”を、次世代を担う若者たちと語り合うシンポジウム。最高速データベースエンジンを開発する喜連川優さん、睡眠と覚醒の謎に挑む柳沢正史さん、iPS細胞の生みの親である山中伸弥さんが、高校生たちとの熱いトークを繰り広げる。

というものでトップクラスの科学者3名と高校生のトーク番組でした。

出演された科学者は、

東京大学生産技術研究所教授…喜連川優

筑波大学・テキサス大学教授…柳沢正史

京都大学iPS研究所所長…山中伸弥

 3月に開催されたこのシンポジュームです。きょう取り上げたいのは喜連川優(きつれがわ・まさる)教授の研究内容の「超高速データベースエンジン」の開発の話です。そんなことも知らないのかと指摘されそうな話なのですが、世の中の進歩の速さには驚かされます。

 内閣府で支援する最先端研究会という組織が開催したもので「2番ではいけないのか」の次元の話に手を抜くこと無く日本も頑張っているんだという安堵感を受けました。喜連川教授の研究はデジタルデーターの処理に関わる話です。

 日々更新されるデジタルデーターの中でケタ違いに多いのはセンサーのデーターです。

道路状況(交通量・車の速度を測るデーター)

気象情報(各地の気温や降水量を測るデーター)

携帯電話(位置情報を伝えるJPSセンサーの伝えるデーター)

これらは多くのデーターを必要としまた発信しています。データーはセンサーによって生み出されその情報がデーターベースとして集約されます。

 莫大なセンサー情報を使って新しい価値を生み出そうというのが喜連川教授の研究内容です。喜連川教授の開発研究は上記にも書いたように超高速データーベースにアクセスする検索エンジン(以下データーべースエンジン)の開発です。

 データーべースエンジンは、データーを蓄積するデーターベースにアクセスし、データーの検索や抽出するソフトウエアーのことで、従来のものは欲しいデーターが複数あっても一つ一つ順番に要求し、順番い受けとることしかできませんでした。

 しかし超高速データーベースエンジンは独自のプログラムによりデーターを要求する順番も受けとる順番もバラバラにし、その結果情報処理は飛躍的増大するというものです。

 従来型のものは、データーベースへのアクセス件数は1秒当たり200回程度、


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

一方超高速データーベースエンジンは、1秒間に1万回


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

と数十倍に処理速度が高くなっています。


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

 その結果どのようなことができるか。

番組では、「可視化」ということでツイートの可視化の事例が紹介されていました。

 3.11東日本大震災の際のツイートの可視化。


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

ここで可視化されている円は一つの話題を表わし、ツイートやリツイートの数が多いほど円が大きくなります。


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

新しいツイートは黄色、時間の経過によりその色は暗くなります。

 地震発生後の様子です。






(以上Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

急速に広まったのは阪神淡路大震災などの過去の震災経験者のツイートが利用していました。


(Eテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”から)

 内容は緊急時の対処法や電車の運行情報、避難場所の設置場所などのじょうほうで、これをウエーブ上にどのような情報が存在し共有されているのかという莫大な情報量の全体像を捉えようというものです。

 これで何ができるのか。「情報を爆発させ価値に転換する」と喜連川教授は語り情報サービスという視点に立った研究なのだそうです。

 個人情報に関わる問題も指摘されていましたが、ともかくすごいの一言。

 世の中には情報が溢れています。目的を持った集約がどのような効果を現わすか。

 番組を離れて考えてみました。可視化された画面を見るとすべての繋がりが実体化されてみることができます。

 人間で言えば五感の感応器官がデーターが集約されて、今現在の意識の現在進行形のようです。

 存在という視点に立てば、一人の人間の他者との関係性の情報(電話等も含めた情報から交際に伴う経費の出資額、面談件数・・・・etc)が集約されればこのような可視化も可能で、織物の網目のような存在であるともいわれる縁起という仏教的な世界観が眼前に見るのではないかと思うのです。

 情報の集約と超高速データーベースエンジンの創り出す世界。

 シミュレーション (英: simulation) とは、実験・訓練を目的とし、複雑な事象・システムを定式化して行う模擬実験をいう(フリー百科事典『ウィキペディア』)、と説明されるようにの飛行訓練などの装置やなどを思い出します。

 行為結果が実際に操縦した時の状態で経験できるもので、これが自然が主体になれば気象情報でも解るように、過去のデーターがあれば、今現在のデーターと照らし合わせながら確実な天気予報になるわけです。地震情報も数多くの地層の移動情報がありより確実な地震発生予想も可能となるわけです。

 照合する速度はスパーコンピューターの世界ですがハードとソフトの飛躍的な性能向上は恐ろしいほどに可能性の世界を切りひらきます。

 これは単に情報化社会の話ですが、これが人間という生物に照らし合わせれば人間の行為と結果の世界の拡大版のようです。

 人間も同じようなことをしているということです。このような行為はこのような結果をもたらす。単純な因果関係の世界です。

 負の結果は誰も望まないこと。考えればこれも単純明快な話です。

 過去の経験情報から他者からの情報・・・・あらゆる情報があり、シミュレーションできる能力があれば負の結果は回避される、という話です。

 経験がものを言うのも確かですが、それだけでは負の回避は不可能であることは誰もが承知の事実です。情報を数多く持ち理性的な判断を加えなければなりません。「理性的な判断」の際の「理性」というのも情報です。情報量で形づくられ人間のもつデーター検索ソフトで抽出するということと同じだと思います。

 超高速データーベースエンジンとは何に相当するか、これが直感ではなかろうかと思うのです。情報量が豊富でデーターベースエンジンも性能が良いとかしかもリアルになります。可能性もリアリティーを増すということです。

 リアリティーを増すには。エンジンの性能を増すには。

 負の解消として瞑想という方法があるようです。自分にそのように言いきかせる。スポーツ選手が活用している例がありわたし自身もその経験があります。

 リアリティーを増すとは、日本語に直すと現実性を高めるということになります。いかに現実を鳥瞰的、俯瞰的に掌握できるかが現実性、リアリティを増すということです。

 現実は今現在、リアリティを増すは未来的な思考です。

 超高速のアクセス

この概念というものはとても不思議な感じを受けます。面白いと思うのは「わたし」だけなのでしょうか。

※このEテレ“TVシンポジウム「日本の未来を切り拓け!世界トップ科学者と若者のトーク」”大変勉強になりました。

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ゲンロン憲法委員会の「新日本国憲法」草案について

2012å¹´07月27æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 長野県では、民放の長野朝日放送が金曜の深夜というよりも土曜の早朝に放送される“朝まで生テレビ!”という番組があります。

 今度の番組7月28日(土) 01:45 ~ 04:45では、
 
激論!「護憲・改憲・新憲法」 施行65年を迎えた憲法ですが、自民党は、4月に憲法改正草案を発表。天皇は「元首」、自衛隊を「国防軍」と明記。
また今月、評論家の東浩紀氏らが「新日本国憲法」草案を発表。そこでオリンピック開催の日にこの問題を議論する。

という内容で、ゲンロン友の会が草案した「新日本国憲法」を話題にした討論がなされるようです。

出演者は、

【司会】田原総一朗
【進行】渡辺宜嗣、村上祐子

<パネリスト1>
辻元清美(衆院憲法審査会委員、民主党・衆議院議員)
西田昌司(党憲法改正推進本部起草委員、自民党・参議院議員)
東浩紀(早稲田大学教授、ゲンロン代表取締役社長)
荻上チキ(評論家、「シノドスジャーナル」編集長)

<パネリスト2>
小林節(慶應大学教授)
小森陽一(東京大学教授、「九条の会」事務局長)
宋文洲(ソフトブレーン創業者)
八木秀次(高崎経済大学教授)
金慶珠(東海大学准教授)

と番組案内に書かれており、非常に楽しみにしています。

 話題の中心はゲンロン友の会の憲法草案なのですが、個人的には東浩紀さんという若い(私よりも若いという意味)の考え方です。

 最近のブログにソーシャルメディアや神話などを題材にした記事を書くのは東さんの影響もあるからで、新しい思想の捉え方における思考の志向性に多角的である点に興味をもつからです。

 ソーシャルメディアといえばブログやツイッター、フェイスブックの他いわゆる情報ネットワークのによる情報共有システムで家庭においてもテレビでさえネット回線により即時共有の場のシステムとして機能しています。

 このような現代社会においては個人の意見や感情も含め情報は即時に集積され、全体的に総合記録社会としての気のを持つようになり、それが政治システムの一要素に変貌しつつあります。

 そこに重要性を見い出して活動しているのが東さんでこれまで思想地図という著書を出されて現代社会の思想の流れや未来像を描いてきています。この人の発想はどこから来るのか。著書『一般意志2.0』(講談社)には、その題名から分かるようにルソーの『社会契約論』における「一般意志」という概念を現代的に可視化して行く世界のようです。

 さてゲンロン友の会の「新日本国憲法」草案ですが、100条からなるもので現憲法が確か103条からなりますから3条少ないものです。

 一読してして思うのは、当然ですが、本質的な部分が大きく変わると思う人。穏やかにやり過ごしなるほどと感心する人等のいわゆる賛否両論が起きそうです。

 今朝はこの憲法草案から統治権についての規定について紹介したいと思います。第一章が元首についてで、第二章が統治の規定になっています。

<ゲンロン憲法委員会「新日本国憲法」草案から>
 ※第一部は政体を規定し第一章は元首です。

第二章 統治

第一六条
 日本国民は、日本国籍を有する者を言う。

第一七条
 日本住民は、法律で定める期間、日本国土に適法に継続的に居住する者を言う。

第一八条
 国民および住民は、国際紛争を解決する手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。国の交戦権は、これれを認めない。

第一九条
 国民および住民は、生命、自由ならびに財産の保全を脅かす自然災害と人的災害に対して、国民および住民それぞれの能力に応じ、自衛ならびに相互援助する権利を有する。

第二〇条
① 国民および住民は、前条の目的を達するため、自衛隊を設立する。
② 自衛隊は、国際相互援助の精神に則り、法律の制限および諸国民の同意のもとで、国外においても活動しうる。

第二一条
① 国民および住民は、法律の定めるところにより、公務員を選定し、およびこれを罷免する。
② すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕着ではない。
③ 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。


第二二条
 総理および国会議員の選挙に関する事項は、選挙人たる日本国艮または日本住民が居住地、世代、性別、人種、信条、社会的身分、門地、教育、財産または収入によって差別されることなく、等しくその権利を行使できるよう、法律でこれを定める。

第二三条
 統治についで、国民および住民は、基礎自治体と国に運営を委託する。

第二四条
① 基礎自治体は、住民の生存、生活、出産養育の支援および教育の実施なと、地域共同体の運営と維持に関する事項についで条例を制定し、その事務を行う。ただし、法律で国に授権された事項についてはそのかぎりではない。
② 国は、国家の存立に関する事項、国家として対外的に代属すべき事項および国民と住民の福祉の向上に関する事項について法律を制定し、その事務を行う。

第二五条
 基礎自治体は、住民自治と団体自治を原則とし、運営の組織と形式は住民の総意と創意に基づき選択する。

第二六条
① 基礎自治体は、必要に応じで連携しで運営にあたることができる。
② 基礎自治体は住民の総意に基づき、憲章を設けることで広域行政体を担う組織を設置することができる。

<以上>

以下は、
第三章 行政
第四章 立法
第五章 司法

第二部 権利
第六章 原則
第七章 自由
第八章 生存
第九章 財産
第一〇章 保障
第一一章 改正

の順番で規定されています。

 このような憲法が示された時に、この憲法をもとにしてどのような物語を描くことができるか、ということです。

 今現在日本における日本関係の物語は現憲法下で書かれています。

 それは事実ですが、作品に関してはどうでしょうか、SFの世界は現憲法違反の世界です。宇宙戦艦ヤマトは持てない。ドラえもんはとどうでしょう。人を簡単に縮小はできません。憲法に基づく諸法により処罰なり規制されます。

 人体の縮小は「傷害罪」に該当しそうです。承諾があれば許されるか、公序良俗に反する。・・・等の議論を呼びそうです。

 憲法のみに話を戻せば、憲法内容を素材にしなければ、憲法というものは前面に出てきません。

 現憲法の103条からシミュレーションした世界が現代の社会。

 さてゲンロン憲法委員会「新日本国憲法」草案からはどのような世界がシミュレートできるのでしょうか。

 現憲法の問題点があるならば、それは是正されるのか。

 現憲法下で現代の世の中が、成っている。このことは絶対に否定できないことです。

 そこで何が問題になっているるのか具体的な議論がされるのだと思います。
 
 ということで今週の“朝まで生テレビ!”は興味のある話でよかったら観てください。

この草案ですが、ゲンロン友の会の『日本2.0 思想地図βvol.3』に詳しく書かれています。見出し写真は付録です。

この『日本2.0 思想地図βvol.3』には梅原猛先生と東浩紀さんが対談した、3月26日Eテレで放送された「3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく~」の対談状況がすべて書かれています。番組が1時間30分で3時間の対談の全容を知りたく思っていましたので大変勉強になりました。

 梅原猛先生の西田幾多郎の哲学、ハイデガーの「存在」についての考えが詳しく述べられていました。

番組内容と私見ですが参考にしてください。その他にもありますが時間の都合で挿入できませんでした。

哲学者梅原猛先生のお話から思うこと(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6a16b9b8530dbfac08839dc055be6c6a

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さらし者にならないために

2012å¹´07月26æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 万葉集の東歌(武蔵国)で、

多摩川に さらす手作(てづく)りさらさらに 何(なに)そこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき

 多摩川にさらさらさらす手織り布、流れで白さが増すように、さらにさらになんでこんなに、この娘がいとしいのか。

という歌があります。「さらす」とてもきれいな響きのある言葉です。

 この「さらす」という言葉に関係するのですが、似ても似つかぬ哀れな話からはじめたいと思います。

今朝もニュースを見ていると人間ができていないのか怒り心頭に発するです。

>スポーツカーで高速を100キロオーバー ナンバー外し繰り返す 容疑で男逮捕

>亀岡暴走初公判 「反省の色が全然ない」少年へ募る怒り

> 脱法ハーブ吸い事故、危険運転致傷罪で起訴 京都地検

>「免許、取ったことない」死亡ひき逃げで61歳男再逮捕

>「信号停止で意識遠のく」ミナミ暴走男、追送検

枚挙にいとまがないと言いますが、次から愚かな人々の話が起きています。情報化の社会において、各地で発生する同種の事件が一同に集約されるので発生の多さに驚くのですが、数十年前ならばよほどの特異な交通事故でなければ交通の違反事故が紙面を騒がすことはなかったと思うのです。

 私たちは、世の中の現実を突きつけられると言うならば、上記の事実はある種濃縮して知らされ、受け取る側はリアリティの度合いを興起させているともいえると思います。

 さらに別角度で見ると、愚か者の行為、紙面を飾るようなことをすればその愚かな姿は多数人の目の前に曝(さら)される、ということです。

「曝される」とは「晒し者になる」ということです。

「さ・らす」という日本語は「曝す」「晒す」があって、江戸時代の「さらし首」は「晒し首」と書いたので上記の文章は「多数人の前に晒される」と書くのが正解なのでしょう。

ちなみに、

 さらす【曝す】は、日光や風に当てる。またそのようにして湿り気を取り除く。特に、虫干しをする。

 さらす【晒す】は、質をよくするために、布などを水につけたり日に当てたり薬を使ったりする。

という意味があるようです。両語とも好ましくない状態の中に身を置く意味があるとともに、ある変化を期待しての意味があるようです。いわゆる編成換えが同時に概念の腹にあるということです。

 中国でも文化大革命の際には多くの知識人が人々の前に晒され反省させられ、再教育と粛清されたことは公知の事実で、行為自体は日本特有のものではありません。

 今の時代、情報は濃縮され、集約現実社会の物語が構築されて行きます。世の中はこんな流れにあるという物語です。こういう発想はフランスの思想家ジャン・ボードリヤールの「ポストモダン」の考え方のようです。

 「人は物語をつくる」

 人間だけができる物語作り。私は将来こういう職業に就きたい。これも一つの物語です。

 私はこういう人生を送りたい。こういう老後を送りたい。・・・・。

 小さなものがたりですが、「熱いのでジュースを飲もう。」と決断します。これも小さな物語づくり。

 欲望が物語の発動源ともいえそうです。欲望のすべて悪いわけではないのです。

 「無意識は欲望する機械で構成されている」と言ったのは、これもフランスの、今度は哲学者のドゥルーズです。

 この言葉には続きがあって「それがそのまま現れているのが分裂症である」と今では統合失調症という言葉になりますが、そう述べているようです『現代思想の遭遇者たち』(いしいひさいち著 講談社p91)。

 「何があなたをそうさせる」という昔そんな言葉がCMか何かで巷ではやったことがありました。

 いろいろな情報が濃縮され、知らずのうちに私たちは影響を受けています。これが当たり前の日常になってしまうと身の肥やしにはなりません。

 身の肥やしとは、善い物語作りをするための材料、情報をいかに咀嚼していくかということです。

 関西電力の関係者が「原発再稼働を・・・エネルギー政策として・・・・」と発言したことが大きな話題になっています。

 どう見ても世間はこの問題に敏感です。

 愚かさを露呈しているようなものです。このような情報集約能力のない人たちが、物事を決断しているのかと思ってしまいます。

 上記の愚かな人々と同類ではないのですが、発想がまったく同じように思います。あくまでも「安易」という意味です。「悪意のある行為の選択」とは次元が異なります。

 万葉集の歌からつまらぬ終わりに至りましたが、人間、考えなけれまいけません。
 
 「汝自身を知れ」これは神の言葉とされ「人間の分際で身の程を知れ」という言葉であることは誰もが知るところですが、小林秀雄先生も指摘するように「自問自答」とするところにソクラテスの神否定が見えまが、神否定ではなく価値転換です。人間これが理解できないといけないとつくづく思います。

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「此処より下に家を建てるな」とリアリティの濃縮

2012å¹´07月25æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 今朝も昨日に続き先週放送された、NHKの“日本人は何を考えて来たか”シリーズの第7回「魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~」の番組の話を紹介したいと思います。

 3.11東日本大震災で有名になった話があります。岩手県宮古市姉吉集落に建てられた一本の石碑の話です。

 その前に番組でも語られた柳田國男先生の大津波を忘れるなというメッセージが書かれている『雪国の海』の中に一節です。

<『雪国の春』>

・・・・恢復(かいふく)と名づくべき事業は行なわれがたかった。智慧のあった人は臆病になってしまったという。元の屋敷を見棄てて高みへ上がった者は、それゆえにもうよほど以前から後悔している。

 これに反して夙(つと)に経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だとずんずん浜辺近くに出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。

 あるいはまた他処(よそ)からやって来て委細構わず勝手な処に住む者もあって、結局村落の形は元のごとく人の数も海嘯(つなみ)の前よりはずっと多い。

<以上>

 「海嘯」海がうそぶくと書いて「つなみ」と読みます。

 くそぶく【嘯く】とぼけて知らないふりをする。

という意味があります。日本人の自然観を如実に表していること真です。自然と人間との関係が言葉の中に既にあらわされています。

 人と人の関係と自然と人間との関係、「うそぶく」は対等にあるから騙されることもあると同じように「知らぬふりを」されるということです。

 ぼくは知らないよ、何も知らないよ、と戯れる子供のように白を切られる。

「白(しら)」とは「しらないこと。」

 白色の純白は、信頼は見事に斬られるということです。それも見事に。

 岩手県宮古市姉吉集落は、明治、昭和の二度の津波で甚大な被害をこうむりました。


(NHKの“日本人は何を考えて来たか”シリーズから)

 明治の津波で全戸が流出し80人が死亡そして昭和の津波では再び全戸が流出し、117人が無くなっているとのこと。東日本大震災の津波は最大40メートルの高さに達し漁業関係施設の全てが流されました。しかしこの姉吉の集落は浜から離れた高台にあったため今回の大津波では被災しませんでした。

それはなぜか。

「此処より下に家を建てるな」

という文章が書かれた一本の石碑があるからです。


(NHKの“日本人は何を考えて来たか”シリーズから)

高き住居は
児孫の和楽
想へ惨禍の
大津浪
此処より下に
家を建てるな

命運を握っいた一つの石碑。昭和の津波の直後、最高到達地点余地も高いおよそ50メートルの地点に建てられたものだそうです。


(NHKの“日本人は何を考えて来たか”シリーズから)

 ニュース番組等で放送され誰もが知っている話です。民俗学的に見れば伝承で語られた情報です。

 自然に二度も嘯かれた集落の人々は、戒めの言葉を残したのです。不幸を二度と起こさない。人びとの幸せのためにそうしたのです。そうして住民は聞く耳を持って今も守り続けているわけです。

 昨日柳田先生の『魂の行くへ』から

一つの文化のもう少し美しく展開し

一つの学問のもう少し世の中に寄与する

という言葉を上げました。この二番目の言葉

「一つの学問のもう少し世の中に寄与する」

 番組では、

経世済民=社会を治める人々を救うこと

人々の幸せのために学問はある。

と柳田國男先生の思想が説明されていました。

 民俗学が今日の世に示す情報はこのようなものです。

「此処より下に家を建てるな」

という線引きの思想です。

嘯かれる自然に対する態度です。

確実なる線引きです。

高度なシミュレーションの中に生かさなければ、未来の構図は求められません。

 嘯かれる自然に対しては、「リアリティを濃縮する」しかないのです。現実、実在の世界の確たる現前の姿がそこにあるということを。

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魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~

2012å¹´07月24æ—¥ | æ°‘ä¿—å­¦

[思考] ブログ村キーワード

 NHK“日本人は何を考えて来たか”シリーズの第7回魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~が先週の日曜日(22日)放送されていました。

 この柳田国男先生の「魂のゆくえ」については番組とは関係なく日本人の死生観としてブログに書いてきました。最近はこの問題に関して遠のいていただけに大変勉強になりました。

 東北の地震被災、特に津波という災厄は東北という地をたびたび襲い、体験という情報が民俗学的な伝承として残されていることを知り、それが生かされるのはその場所に住む人々の理解と優秀なリーダーの存在であることを改めて確認しました。

 地域性の中にある人と人とのつながり、それは魂のゆくえも共有する一つの精神性です。 
 番組紹介サイトの番組紹介では、

 民俗学の創始者、柳田国男は、1920(大正9)年東北を歩いている。明治の三陸大津波から25年後、復興を見つめ、「雪国の春」を著した。そこには絵馬や板絵で被災前の記憶を伝えようとする人々、「食うが大事」と高台ではなく浜辺に住み始めた人々等、被災後の現実が活写されている。また、柳田の代表作「遠野物語」第99話には、妻を津波でなくした男が見た幽霊の話が採録されている。
 æ­»å¾Œã€é­‚はどこへゆくのか。柳田は、その後、沖縄をはじめ全国各地を歩きながら、思索を深めていく。多くの戦死者を出した太平洋戦争後、柳田国男は、折口信夫と共に魂のゆくえを民俗学の視点で究めていった。
 æ±æ—¥æœ¬å¤§éœ‡ç½å¾Œã€éŽ®é­‚と記憶の伝承という大きな課題に向き合っている今、民俗学から何をくみ取れるのか。番組では作家の重松清さんが、「雪国の春」「遠野物語」を手に東北の現場を訪ね、考えていく。
 
【出演】重松清(作家)、赤坂憲雄(学習院大学教授)、谷川健一(民俗学者)
 î‹“橋美鈴アナウンサー

と書かれています。

 番組ではテロップで紹介されていましたが『魂の行くへ』の最後にある次の言葉が流されていました。

<柳田國男著『魂の行くへ』から>

・・・・・魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるが故か、私には至極楽しく感じられる。できるものならば、いつまでもこの国にいたい。そうして一つの文化のもう少し美しく展開し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するようになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守っていたいものだと思う。

<以上日本文学大系20筑摩書房p393>※一部読みやすくしてあります。

柳田先生は、

一つの文化のもう少し美しく展開し

一つの学問のもう少し世の中に寄与する

そんな姿の日本を死後生の夢に描きます。

「魂」があるのか無いのかの問の愚かさは机端に置き、今現在を思うとき「美しく展開し、学問は世の中に寄与しているか」の問いの重要性を再認識します。

 この番組は29日に再放送されます。民俗学が歴史の中に埋もれつつある現代、東北という地がもつ精神性の深さ、各地に残された伝承、現代に生かされなければならない何かがあるように感じました。

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学校の安全神話を考えるとき問いは残る

2012å¹´07月23æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 日本の古典と言えば記紀のから始まります。古事記と日本書紀の最後の文字をとって記紀といいそこに描かれている時代を記紀時代と呼称する場合もあります。

 今年(2012年)は古事記が誕生して1300年各地で記念イベントなどが開催され書店にも古事記の特集本が並べられています。古事記という書物がこの世にあると知られるようになったのは本居宣長の研究によるもので、それまでは誰も知らなかったと言った方が良いかもしれません。

 古事記の前半は神代編で神々の歴史がつづられています。伊邪那美・伊弉諾の両神が神代の始まりかというと既にそれ以前に神は存在し、それではいつごろから日本おかみはいるかといえば気がついたら神がいました・・・という神話なのです。

 したがって神の存在は「ありてあるもの」と世界の共通の神存在と同じとも言えます。

という切り出しで朝から日本神話の話を語り大いに神代の時代を懐かしむつもりはありません。神話といえば「安全神話」。「安全神話」といえば原子力発電と安全神話という言葉の意味の危うさはこうちの事実となりました。

 「安全神話」とは一体どういうものだろうかと考えたときに、一日の始まりからどのような事柄に関わるのか考えてみました。

 日の出に祈るとき「今日一日の安全」を託します。すべての今日の事無きを神に委ねる祈りをする。太陽信仰の新興宗教に信者でもなく、自分で決めた若い頃からのカントでいう格率です。「自分で自分に課した従うべき行動基準」にしているだけでそもそも誰に言われた訳でもありません。

 最近仲間の中にも朝起きるころになっても起きてこない。こんな実話が少なくありません。事故ではなく止まるべくして止まった鼓動です。そう定められていたのだろうと考えるのが私自身の慰めの言葉であり、その者の親族に対する言葉でもあります。

 健康には人一倍気をつけていても、くるべき時はくる。安全には人一倍気を使っていたと言いかえることもできます。

 「気を使う」は「き・をつかう」と読み、「気配(け・はい)」の「け」ではありません。大陸的な響きのあるこの言葉、当然日本人はアジア大陸の東の果てにたどり着いた民ですから当然その伝統を引き継いできたことは確かな話です。

 「気をつけて」という妻の言葉で出勤。車の運転40分です。道路交通法による諸規則を守り、その前に車両運送法に適合した安全走行に適した車であることは車検等を経て万全を期しています。車両保険は当然無制限の任意保険にも加入しています。万が一の時に家族を路頭に迷わさないために。

 それでも3年前の秋。横断歩道で停止し、歩行者の横断を妨害しないようにしようとしたところを追突されました。その直前追突されることもあるかもしれないと思い後方を確認したところ、後続車ははるか遠くにいました。「大丈夫」と「必ず気づき止まるもの」と安全神話を創作してしまいました。

 個人的な私の話で、歩行者は偉い、私の後ろの車にも気を使っていたのです。横断しなかった。その決断の瞬間に、無残にも衝撃と共に我が車は破壊されました。私自身は奇跡的に入院するほどのケガにはなりませんでした。

 「神話」は誰でも共有できる話として継承されてきたものです。「安全の共有」を考えたときにどうあるべきか、そう考えるのが危険性のある仕事に従事する者の使命であるのが常識だと思うのです。

 「学校は安全である」を学校安全神話と呼ぶとします。この「安全」はどのようなものであるのか。それよりも「安全」を提唱する方が「まとも」でないとでもいうのでしょうか。自らの手で自らを破壊して行く、そうな構図がある様に思うのです。

 法律の形骸化という言葉があります。守るべき規則等に従わないことで、法律の拘束力を弱めることです。法律をないがしろにすることが美徳と思う歪んだ話です。

 暴走族のようなものです。

 学校への警察の捜査を不当介入と解し、安全神話が脅かされている論調を耳にします。そもそも捜査側の学校への不当介入は学生自治や教職員の労働運動に対する不当介入時代の産物概念という思いがします。

 法律の形骸化を闘争手段にしてきた人々が、穏やかに暮らす人々の安全・安心を脅かしてきた。東大の学生自治体がある政治団体の指導から独立を図ったニュースがありました。そういう背景が今でもあるように思います。

 きょうのブログは少々過激であると反省し、文頭の「神話」に話を戻します。

  安全神話という言葉は20世紀後半を中心に全盛をきわめた構造主義的な視点から社会構造を分析によりそこに見出される人々の安全に対する安易な他者への妥協、絶大な信頼ではないが曖昧性をあえて回避した他者の決定、発言の承諾という社会構造の産物のように見えます。

 構造主義に対してはポスト構造主義が「大きな物語」は終わったと言う近代の終わりを宣言しますが、日本はようやく今になり「安全神話」の崩壊を体験しているように思います。人間は物語る生き物、今を語り未来を語る。しかしその物語作りも情報量によって単なる誇大妄想にもなり、より多くの情報を得たならば確実性は増します。

 夢かなう。熱き心だけでは夢は実現できません。情熱は必要ですがシミュレーションするには多くの情報量が決めてです。直感だけではどうにもあやふやです。そこはやはり理性的に多くのに夢実現に必要な情報を入手し、分析して実行して行くのが確実だと思います。ソーシャルメディアの時代。個人差があるのですが、情報化の時代は到来していると見るか、更に進んで真っ只中にいると認識しているのか、かなり遅れてまだ到来していないと見るかでは「しあわせ物語」の物語作りは雲泥の差があります。

 夢の実現は、現実性のある話でありリアリティがあるかと言う話です。リアルな未来を構築できるかと言う話になるわけです。

 「高度なシミュレーションは、リアリティを濃縮する確率を高めてくれる、一つの有力な手段。」(『神話が考える』(高嶋亮大著 青土社p27)

 この言葉には説得力があるように思います。余情的な情報も含め集めるだけ集める。地震の発生も多くの過去資料や観測地点の情報等を入手することが発生予測の確実性を増します。

 学校の安全神話、信頼の瓦解を起こさないためには以下にすべきなのか。学校教育の目標である「人格の完成を目指し」をどのようにして実現していくのか。

<教育基本法>

(教育の目標)

第二条
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
 
 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 
 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
 
 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 
 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 
 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

<以上>

これが教育の目標とされる規定です。

 行政行為は法的根拠を必要とする。公立よりも私立の人気が高いのは誰もが知るところです。

 なぜ高いのか。

 そこには教育には直接関係しない市場経済があります。「経営」という企業の営みがあり、運営を阻害するもの排除が最優先となります。

 入学は契約であり、契約違反は契約当事者間では契約事項の履行が求められます。

 今の世の中富裕層はよりよい教育環境を選択することができます。

 どこにどのような問題点があるのか。

 富裕層だけが「安全神話」を享受できるということなのか。

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ウィトゲンシュタインの独我論

2012å¹´07月22æ—¥ | å“²å­¦

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 「汝自身を知れ」という言葉は、古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた格言で、人間として分をわきまえろという、集う若者たちへの自問自答のソクラテスの投げかけの言葉のように思います。

 私自身が「わたし」であることにいつごろ気がついたのか、そんな問いを発し、そのことについて考える人はよほどの哲学好きか、暇人のように言われそうですが、上記の言葉も私を考えるから汝自身を知る「問に」なるように思います。

 私の記憶が確かなら、まだ歩くこともできない頃に母の背にある時の記憶があります。まだ非舗装の道、車もわずかでその道を歩く母の背中にいた記憶です。その記憶は今に思うとではなく、今の年齢に至る間に時々思い出す記憶です。

 記憶にあるということはそこに「わたし」があったということ、意識し記憶システムによって情報として記録した、という事実があるのだと思います。

 あるテレビ番組で子どもがいつごろ自分が自分であることに気がつくかという実験が放送されていたことは以前衣ブログに書いたことがあります。オデコに張ったテープ、その姿が目の前の鏡に映った時、その鏡に映しだされたのが自分であることに気がつく。

 テープを張った異様な人物が自分であるということに気がついたとき、オデコのテープに手が伸びるわけです。確か3歳ごろがそのころのような実験であったように記憶しています。

 日々の生活の中で、上記のような「わたし」は「わたし」である、などと確認する人はありません。確実に「わたし」が「わたし」であることに気がつくのは朝の目覚めの時で、確かに昨日寝る前の「わたし」がここにいることが分かり、時間になると定められた行動基準に従って出勤することになります。

  これもテレビ番組からの話ですが、事故で記憶喪失になった夫婦の話がありました。記憶を失ったのは妻で、結婚する前までの記憶はあるのですが、結婚後からの記憶がなく夫と称する男性についてもその承認ができない状態でした。

 そしてこの女性は一晩寝ると前日の記憶がないという疾患があり、男性が根気よく結婚した事実等を丁寧に教え本人も納得した段階で夜を迎え、記憶は失われている、という連続の毎日でした。

 男性はアルバムを作ります。結婚から楽しい夫婦生活の思い出の写真と文章を書き綴ったアルバムです。受精は朝目覚めたときにそのアルバム。枕元に置かれたそのアルバムを見ます。・・・・・そして記憶をつくり「わたし」に重ねて行きます、

 とても感動的な番組でしたが、私自身すごく感動したのは「わたし」自身が「わたし」であることは記憶のシステムにおいては全く関係がないということです。

 「わたし」という存在は、すでにそこに「ある」ということです。ものごとがあるという認識も単純い考えればこの「わたし」の「ある」に等しい話のように思います。飛躍かも知れませんが理論上のハーグ粒子を現前化(観測結果として)したようなものです。

 最近ブログ内に古語の「まとも」を書き入れています。最初の頃に言及しましたがこの言葉は非「まとも」があって相対する概念としてあるのではなく、その境界線の不明確性を言いました。この不明確なる事実は不明確であるのかというと、意味理解の共通基盤をもつ人ならば明らかに境界がある言葉として意味をなします。

 ウィトゲンシュタインの言葉に「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する。」(『論理哲学論考』5-6)がありますが、ある意味そのとおりだと思います。

 ウィトゲンシュタインは続いて次のように語っています。

<『論理哲学論考』5-61>
 論理が世界を満たしている。世界の境界は、論理の境界でもある。
 かくして論理の内部では、これこれは世界のうちにあるが、あれはない、などとはいえない。
 そんなことをいうのは、ある種の可能性を、世界から閉めだせることを前提にしているかのようにも見えるが、そういう閉めだしは、けっしておこりえないであろう。
 もし起るとすれば、論理は世界の境界をのり越えねばならぬことになるだろうから。そうすることによってのみ、この境界は向こう側からも観察できるであろうから。
 思考することのできぬものを思考することはできなない。とすれば、思考することのできぬものを語ることもできない。

<以上『世界の名著』(中央公論)から>

 「まとも」と非「まとも」の境界はあるのだろうか、という疑問があり不明確性で回避しました。確かに「まとも」状態は個々の事態において存在するのですが、世間の場において上記のような共通基盤にある存在にない他者とは意味をなしません。つまり遭遇の事態の解釈を相対的に捉える相対主義をもって解されると、共通の意味理解を相互にもつことができません。

 公共哲学における「共通善」のようなもので、意味理解の共有が成立しなけれな事態の存在の意味理解はないということになります。どこへ行っても対立しか見い出せません。

 ãã‚‚そもここに登場する境界とは何ぞやと問いたくなります。別視点から考えると範疇化し言葉をつくり出す過程によく似ています。牛と馬の違い、類別の違いを語るようなもので語られる時には既に境界線によって牛は牛であって馬ではなくなります。

 その境界は分別による相異の確定です。

 「幸い」「善悪」の境界は線引きの個々にもつモノサシによって異なる、とよく言われますが、事態の尺度はその感じ方で異なるように、快と不快の尺度が違うように確かにそうだと思います。

 「わたし」のブログは時々仏教に言及します。これも以前に書いた話ですが、有名な般若心経には「五蘊皆空」という言葉があります。ここでいう五は「眼・耳・鼻・舌・身」という人体に関わるもので五根と呼ばれる感覚器官とそれに伴うものが「色・声・香・味・触」で、ものがある識別、音の識別、ただよいの識別、うましの識別、さわり、ふれの識別の五境がそれらが線引きし境界設定を行っている現実があり、まともな話ですがこれらはみな空言だというのです。

是故空中無色
無想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界

是の故に空中には色も無く、
受想行識も無く、
眼耳鼻舌身意も無く、
色声香味触法も無し、
眼界も無く、
乃至意識界も無し。

この般若心経の「眼界も無く、乃至意識界も無し」は、眼界から意識界まで、そんなものは無いと言っています。

 「無眼耳鼻舌身意」の「意」は、ブログで時点の意味を書く際に「意」と略しますが、個の意の漢字の下部には心があります。意味を理解することのできる意識を持つ私という心をもつ人間(巧みな絵描き)がいる、がこれさえないのが存在だ、無しが存在の現れで、現れであるから根元があるというとそうではなく、根も無いわけですから現れのはたらき(はからい)のみがある。

 認識は断ち切られ記憶の連続も無く、意識は断ち切られているが眼前にあるがある。

 言葉の限界で、私という主体も断ち切られ境界の分別の刃先から消滅します。

 ウィトゲンシュタインは続いて次のように語ります。

<『論理哲学論考』>
《5-632》
 主体は、世界のうちに属するのではない。それほ、世界の境界なのである。
《5ー633》
 世界のなかのどこに、形而上学的主体が見つかるのであろうか。
 君は答えるだろう。ここで問題は、目と視野との関係に酷似している、と。しかしながら、ほかならぬ目を、そのとき君は、じつは見てはいないのである。
 そして、視野のなかにある何ものといえども、それはある目によって見られているというような推論を、君に許してもいないのである。
 私たちが、ともあれ記述できるすべてのものは、それとは別なものでもありうる。
 事物にア・プリオリな秩序はない。
《5ー64》
 ここからして、独我論は、厳格におしつめてみると、純粋なリアリズムに合致することがわかる。独我論でいう自我は、結局は延長のない点に収縮してしまって、残るものは、それに対置されていた実在だけである。
《5-641》
 ここに、哲学において自我は非心理学的に問題になりうるということの意義が厳存する。
 すなわち自我は、「世界とは、私の世界である」ということを通じて、哲学のなかに登場してくる。
  哲学でいう自我とは、人間、人間のからだ、あるいは心理学で取り扱われる人間の魂などではない。かの形而上学的なる主体、つまり世界のーーーーー部分ではないーーーーー境界なのである。
<以上>

 まるで般若心経を知悉しているような語りです。上記の『論理哲学論考』は中央公論社版です。《5ー64》に「リアリズム(realism)」と書かれていますが、岩波文庫の『論理哲学論考』は「実在論」となっていますから原本は「realism」だと考えられます。

 岩波文庫版にはこの実在論に註釈があります。

【実在論】
 唯一の明確な規定を与えることはできないが、とりあえず、実在を主観から独立あるものとしてとらえる立場と述べておくことができるだろう。その対比される立場は観念論であり、観念論は、そのような主観から独立の実在を否定し、主観によって把握された限りでの世界、ないし主観によって構成されたかぎりでの世界だけを認める立場である(野矢茂樹)。

 実在論に対比されるものが観念論で相対する思考の境は、「主観から独立の実在」の在る無しにあります。

 別の話になりますがサルトルの実存主義は己という主体を離れはしませんし、はたらきの根源の主体も想定します。

 蓮の花を観に行く時間になってしまいました。このような思考過程において成立するウィトゲンシュタインの独我論、唯我独尊の意味に理解できます。

 ウィトゲンシュタインが般若心経を入手していたかは知りませんが、般若心経の「空即是色」をどのように解せるか知りたいものです。

ということで、今朝はほとんど唯我独尊の世界を語ってしまいました。

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「止む」と「病む」の話し

2012å¹´07月21æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

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 各地で大雨、長野県内も長野市が洪水に見舞われました。降り続く雨。直接雨の影響が懸念される地域の早く雨が止むことを願うばかりです。

 今日も雨は降り続くようで、まさに「雨障み(あまつつ・み)」「雨障り(あまざは・り)」です。「罪(つみ)」というやまと言葉で以前いも書いたことのある「雨障み」、意味は「雨に降られて家に閉じこもっているいること」です。

岩波の古語辞典には万葉集巻の520が参考詩歌として紹介されています。

「ひさかたの 雨も降らぬか 雨障み 君にたぐひて この日暮らさむ」

「たぐいて」てが「寄り添って」という意味ですから、この洪水にはふさわしくない歌であることは確かです。

 「あまつつみ」のもうひとつの言いまわし「あまざわり」に注目します。素人が考えて「あめ」+「さはり」であることが分かります。「さはり」古語辞典には、

さは・り【障り・触り】 自動詞形と名詞形があり自動詞形の意味は、
 行くてをさえぎるものに引っかかって行き悩むのが原義。転じて、ものごとに持続的に接触する意。
1 障害となる。
2 さしつかえる。
3 ひっかかる。
4 当り触れる。ちょっと接触する。
5 相手から差された盃を受けずに、重ねて相手に酒を飲ませる。

となっています(岩波古語辞典)。

 5番の意味は険悪ムード漂う感じをうけますから、対人関係に引っかかるものがあるようです。

 障害ですので「雨の障り」は止(や)んでほしいということになります。「止む(や・む」とは何か。言うまでもなく「止まる」ことですが、「とまる」が動作主体はそこに存在しながら動作を停止する意を表わすのに対し「やむ」は、継続していた動作・作用が中断して消失あるいは終息する意を表わす(ベネッセ古語辞典)のだそうです。

 このような解説に触れるとなぜか感動します。関係のない話ですが、いまタイプを打つ際に「つまる」と誤打してしまいました。「とまる」「つまる」で両方とも+「まる」の言葉です。「止(と)まり」「詰(つ)まり」と「り」でも意味なす言葉です。そこで「まり」もついでに辞書(岩波)を見ると、

「余(ま)り」 (あまりの「あ」が脱落した形)

「ま・り」 (大小便をする)

がありました。「余計なもの」「持て余すもの」と余りある事態とでも言ったところです。

 話があらぬ方向にそれそうですが「余り」という言葉、前にも言いましたが「余情」という概念を思うとイロハ47文字の組み合わせの日本語の深遠さを感じます。

 参考ですがこの47という数字は不思議な数で「47文字」でサイト検索してください。

 本当に話がずれました。さて「や・む」という言葉ですが、標準で発音すると右上がりの発音になります。聞き手は通常右上がりの発音で「止む」を理解できることになります。

 右上がり(この場合は横書きですので、そう言っているだけです)があるわけで、右下がりになるとどうなるのか。

「止む」という右下がりの言葉です。当然ですが「病む(や・む)」という言葉があります。「患う。傷つく」の意味がある「病む」です。この言葉岩波の古語辞典では「や・み【病み】で出ています。今朝使用している別辞典ベネッセでは「や・む【やむ】」で出ていて「や・み」はありません。岩波の古語辞典を参考にしますと、

や・み【病み】 『四段』《身心が病に侵される意。類語ワズライ(煩)は、心労や病根になるものに、触れ、長くかかずるあう意》
1 病気にかかる。
2 (酒の毒が回って)気分が悪くなる。
3 苦しい思いをする。
4 (怪我などが)痛む。うずく。

 今朝は、「止む」と「病む(病み)」の話しでした。
 右上がり、右下がりの言葉、イントネーションと言いますが、日本語はいろいろな言葉をこのイントネーションによって意味理解をし、またこのイントネーションは方言とも絡むもので<日本>は特別な国とは言わないまでも不思議さを私は感じます。

特別・不思議という言葉に反応して、「まとも」でない話を捕捉します。

今朝のサイトニュースに「鳩山元首相、官邸前の反原発デモに参加」という見出しがありますが昨夜からテレビニュースでも放送されていました。

 首相官邸前で行われた脱原発と原発の再稼動反対を訴える抗議活動に鳩山由紀夫元首相が参加し、「国民の声を官邸に届けよう」などと声を上げた。

というニュースです。一方サイトニュースには、

「ママからまたビッグな『お小遣い』 鳩山兄弟、84億円を今度は何に使うのか」

という見出しが生るではありませんか。

 鳩山兄弟に親族からそれぞれ約42億円も贈与を受け、その使い道に注目が集まっている。
  母親の安子さん(89)から月1500万円もの資金提供を2人が受けていたことが2009年に発覚したときは、「子ども手当」と皮肉られた。このときは、6年間でそれぞれ10億円ほどもの「お小遣い」が出たが、今度はそれをはるかに上回っている。

というニュースですが、私などは大学生の娘が働きがいいので追徴課税と取られました。飲む・打つ・買うには縁遠く穏やかに静かに暮らしているのですが、降ってわいたような話し、娘に干渉しなかった私が悪かったのですが、本人の自主性というよりも「ありのままに生きろ」スタイルがモットーですので・・・・・これが報いなのか・・・・情けなさに涙こぼるる、です。

 日本の国は「やんでいる(病んでいる)」、止めて欲しいのです。

余にもひどい話で、心煩い、病んでしまいそうな国民。止むこと無き、闇の世界の永劫回帰なのです。

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