思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

信濃の渤海国人

2004å¹´11月28æ—¥ | é¢¨æ™¯
長野県東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社と呼ばれる神社がある。この神社は下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面に位置する。
 この神社には、木造の船代と呼ばれる人物の木像があり、この人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。
 奈良時代の朝鮮半島には、新羅という国が栄えその北に渤海(ぼっかい)という国が隣国新羅に劣らず栄えていた。
 新羅について知らない人はいないが、「渤海国」になるとほとんどの人が知らないのではないだろうか。
 その理由について「渤海国の謎」の著者上田 雄氏は、「およそ戦争とか、征服とか、ということに縁のない平和な国家であった・・・」、渤海国滅亡後「その跡地にその後数千年以上も国家というほどのものが続かなかった。」の2点をあげている。
 このあまり知られていない渤海国人の木像が信濃国のこの地に古くから(年代不明・昔からある)ある。
 それは、この人(渤海国人船代)か渤海国の関係者を敬い慕う同国人、またその人たちに影響を受けた地元の人がいなければ木像は存在しなかったことは明らかである。
 渤海国は文徳天皇2年(698)ころ高句麗人の大祚榮が、高句麗を再興するために建国した国で当初「振」といった。
 713年唐の玄宋の時に渤海郡王となり国名も「渤海国」となり、約200年続き、延長4年(926)に隣国の契丹に滅ぼされた。
 わが国(日本というよりも大和)と渤海国との交流は、渤海使の記録を見ると神亀4年(727)から30回を越え使節が来朝し、日本側からも15回以上の送使が渤海国に行っている。
 来日の使節団は当初は武官が多くその後文官が多くなった。
 大陸の先進的な武術、戦略は当時の東北蝦夷征討を目指す大和政権の武人である大伴氏にとっては得がたいものであった。
 渤海国人の武官の一部は大伴氏に同行し蝦夷討伐に協力し、彼らは訪れる各地(信濃・甲斐国巨間郡・信濃国・武蔵野国高麗郡等)に住む高句麗系の人々と交流をもち中には、帰国しない者もいたと思われる。
 8世紀の後半になると大伴氏の影響の強かった小県郡下は、中央の大伴氏の衰退とともに大伴氏に代わり大伴氏と関係の深い高句麗系の人々が大和政権の兵器(馬も含む)、食糧献上者や武人としてその地位を高めていった。
続日本紀によると延暦9年(790)3月に大蔵大輔藤原乙叡が信濃守(長官)に、平群清麻呂が介(次官)に任命されるなど信濃への藤原氏の進出が顕著になった。
 延暦10年(791)から延暦14年(795)の間、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂(祖先は渡来人)は征夷征討を行っているが、このころの大伴氏は藤原氏に対し帰順的立場になっていた。
 藤原氏政権下の貴族社会において渤海国の文官のもつ知識は貴族のあこがれるところであり濃密な交流がもたれた。
 小県も延暦14年(795)ころには、信濃介の殺害未遂による藤原氏との関係悪化も回復された。
 この貴族社会においてその一員でもある滋野氏は延暦18年(799)滋野宿祢船白が日本側からの送使(朝貢した渤海国人を送る役目)として渡海している記録が類聚国史巻193にある。
 滋野氏は、渤海国人の通訳人として有力な武器等の調達地である小県との関係を持つようになりその後更に関係を深めていくことになる。
 弘仁5年(814)滋野宿祢貞主と坂上今継が出雲に到着した渤海使の存問兼領渤海客使として派遣され、文華秀麗集の作品等からこの貞主が渤海国人との親密な交流があったことが窺われる。
 延暦18年(799)に蝦夷征討で貢献した信濃国の高句麗氏族が姓氏を賜り帰化したが、特に高麗家継等の賜った「御井」の姓は天武天皇の産湯の井戸の呼称や古事記上では神の名にも使用され、その尊さから家継等は、時の政権に対し相当の貢献があり、また渤海国人や滋野氏の推挙があったものと思われる。
 小県郡における滋野氏といえば、戦国期の混乱の中、菅平で御牧の管理をしていた滋野一族の真田氏が本家である海野氏を粛清し、自らを本家筋にしたて際の清和天皇系滋野氏をいう。
 これは下克上の世の正当な発起を主張するための系図の偽作によるものである。
 これまで述べている滋野氏の遠祖(天孫)は天道根尊で楢原氏である。
 楢原東人の代に黄金を発見し朝廷に献上したことから、伊蘇志臣を賜り(続日本記) その後宿祢を賜った。
 滋野宿祢については、佐伯有清著「新撰氏姓録の研究考証編第三P359に詳しいが、貞主の祖父は大学頭博士楢原東人で滋野宿祢家訳で父は家訳である。「公卿補任」によるとその後、貞主らが朝臣の姓を賜ったのは、弘仁14年(823)正月とのことであるからそれ以前に登場する渤海国送使滋野宿祢船白は、宿祢が付いていることから東人・家訳・貞主の一族であることは確かで東人の子と推察する(望月町の旧家大草家の系図を参考にしてか?)郷土史家もいる。
 これは滋野氏内で最も信濃に関係した人物が船白であったということである。
 渤海国人からの最新式の武具等の製造技術の伝授を受けることは、また地元女性との交流からその子孫を残すことにもなる。そして通訳として来た滋野氏の一族も海野郷の裕福な財力は貴族として見逃せないものであり後の滋野氏の当地の支配を見ても明白である。
 郷土史家で東信地区の民俗を研究した箱山貴太郎先生の著書に両羽神社について調査した結果が掲載されているが、近世まで渤海国との交流時代を彷彿される舞姫の存在があった。
 伝承は時代とともに薄れ当時の有力な渤海人の名はいつしか滋野氏の船白(渤海国関係書では船代と書かれてもいる)と同化し、木像は渤海国人船代と呼ばれるようになったと思われる。

自然の摂理

2004å¹´11月25æ—¥ | é¢¨æ™¯
 昨夜のテレビ番組で百獣の王ライオンのある一面を知った。
 百獣の王ライオンの雄は生殖能力が備わると今までいた家族集団を出て行かなければならず、雌を求めて原野をさ迷う。
 他の集団(雄1匹と雌とその子供たち)を発見すると集団内にいる雄と死闘を重ね、集団内の雄に勝つと同じ集団内にいた子ライオンをすべて殺し雌を手に入れる。

このような自然の摂理で分かるのは、このときのライオンには人間が持つ愛などという感情は無く、ただ動物的な生殖本能があるだけで、その本能がそのような行動をさせているという事実である。

 このような内容のテレビ番組を見ると子供を殺すなんて考えられないことである。が、最近は人間社会でも自分の子供、他人の子供を平気で殺す事件が頻繁に報道されている。

 こんなことが無いために古より「愛」を叫ぶのであるが、人をそれとは反対の行動に駆り出す動物的な本能は消えることなく今日に至っている。

 何千年何万年何億年経れば動物的本能は消えるのであろうかなどと考えるが、動物的本能があるから人間は生きていける。

 本能には欲もあるが、欲の無い人間は生存できない。苦は生きるという意欲を失わせ「死」という選択をさせる。「死」は人間に必然的に到来する事実であるが、「苦」はそれを許さず、同類相憐れみの愛で集団自殺を行う。

 愛も苦も死も全て相互依存性があるようだ。

 貪瞋痴(とんじんち)の煩悩を断ち切るが宜しいのであるが、2000年以上も経ても変わらぬ世界であるところを観ると悲しいかな成るようにしか成らない。

 自然の摂理には美しいものもあれば悲しいものもある。神や精霊が人を慮りになすものならばどんな意味があるのだろうか。

摂理

2004å¹´11月23æ—¥ | é¢¨æ™¯
 市内の進学塾のビル入り口掲示板に「自然は誰かに見せようなんかしていない、なのにその摂理は美しい。」という言葉が掲げられている。
 この場合の「摂理」の意味は、辞書から「キリスト教その他の宗教で、神または精霊が人の利益を慮って世の事すべてを導き治めること。」である。
 秋という季節に入り木々の紅葉だけでなく、夜明け前の明け前の南東の空に浮かぶ月と金星の織り成す風景の中にその摂理を感じることになる。
 しかし摂理は、心地よい美しさばかりではなく、目を背けたくなる光景や、また事態にも現れる。
 世の中のすべての現象がその摂理によるもので、その主体は人間にとっては善のみではなく悪にもなることが分かる。
 然るに「神または精霊が人の利益を慮って世の事すべてを導き治めること。」となると「神・精霊」は善のみの存在ではなく「和御魂」「荒御魂」の総体魂的な存在である。
 したがって日本の古代人の神概念は、荒御魂の鎮魂にも祈願の意を向けた信仰の中にも見出すことができる。
 しかし目を世界に向けると神概念が、争いの中で平和国家建設のための秩序確立のために神の名における啓示という統制の中で形成されてきたものもある。
 絶対であり妥協は許さない。一歩優しさをもって下がるなどという奥ゆかしさなどは無い。最終兵器を使用可能にさせる。
 過去の日本も秩序確立のために、国民総決起のために統一概念を精神上に国民に移植した時代があった。
 ビックバーンという縁起の基が現在という結果を造形している。混沌としたなにも存在し無い状態では摂理などはなく、あるとするのは人が作り出す概念であるからである。
 しからばビックバーンはなぜに発生したのか、「発生した」と考える我があるからそのように想起するのであり、現在という結果の中にアートマンの存在を人が認めるからである。

お釈迦様が仏陀になったとき

2004å¹´11月23æ—¥ | é¢¨æ™¯
 漢訳ではこの経の同本がないという「一夜賢者の経」を探究すると「一大事

とは今日只今のことなり」の正受禅師の詩の持つ意味の重大さに気づいた。
 気づくというよりも釈迦族の王子は苦楽を離れ中道にそれを見出し仏陀にた

どり着いたなどと思うようになった。。
 セイロンのとある仏教協会の瞑想、禅宗の只管打坐、題目の唱導、念仏三昧

もそれぞれ手法は異なるが、同根の瞬間における開眼という目覚めに至る手法

である。それは仏陀(悟れる者)への道でもある。

 悟りという光明が射した時期、仏陀に至った時期については菩提樹下の降魔

成道であるとされるが、近頃は初転法輪がなされたときと思うようになった。
 無我をとる以上魂は存在するはずも無く、輪廻転生は成立しないが、縁起に

よる転生は菩提心の最終的な赴きであろう。
 従って無自性の私(仮名)が赴くところはその後に残された者への生活環境

への影響、遺伝子情報、思想等の形あるもの無いものを残すことである。

 今日只今真面目でなければ、子孫や社会に与える個人の影響は大きい。
 最近の女子小学生誘拐殺害は、犯人の持つ遺伝子、人格形成に至る環境など

を考えたとき、本人の親も含み先祖の罪深きこと、本人を取り巻く環境を形成

した家族、社会の責任は大きいことが分かる。
 

逢魔ヶ刻

2004å¹´11月20æ—¥ | é¢¨æ™¯
 「逢魔ヶ刻(おうまがとき)までには家に帰りなさい。」と親に言われたことがある人は、私と同じ年代か、余程親が迷信深い家庭に育ったかであろう。

 「夕方の薄暮時になると魔物が現れ頃なので、憑依されないうちに家に帰りなさい。」という意味である。
 「逢魔ヶ刻」とは、古い時刻の表し方である。

 魔物について検索すると「幽界の暗部に潜むものたち。姿形や能力は様々だが、欲望、あるいは妄執(もうしゅう)に従って生命あるものに襲いかかる。本来は現世には滅多に姿を現すことはないが、グリフィス復活以降、頻繁に現世に現れては人々を襲うようになっている。」と表現するページもあった。

 最近中学校の生徒に話す機会があり、この言葉を使って悪い人にならないように願い講話をさせていただいた。
 そもそもこの言葉を考え始めたのは、とあることで、深夜の稼動者についてを観察したところ、正常な人たちとは何なのか考えさせられてしまったからである。

 電気がない時代は、日の出とともに起き、日没とともに床につくことが習慣で、夜間徘徊する者は、泥棒ぐらいであったが、電灯というものが発明されてからは、深夜飲食店などをはじめする店舗が立ち並びいつの間にか、夜遅くまで人々の欲望を満たす歓楽街が形成されてきた。
 歓楽街を形成する店舗経営者は、ヤクザからの「みかじ料」要求に屈し、営業せざるをえない者から、暴力バー、エステ、ヘルス等のそのヤクザ組織周辺者などである。
 24時間営業のコンビニ、ゲームセンター、ロックハウス等には、親が子供を干渉しない家庭に育った中高生、職を持たない少年少女がい集している。

 現代社会における深夜というものは、魔物の徘徊が顕在化してる世界のような気がする。
 古い時代における魔物は夜盗以外は想像の域を出ないものであったが、現代社会は、鼻に金属輪、頬に釘状のもの、皮膚にはうろこ状の入れ墨、トウモロコシの毛のような頭髪、サングラスという黒い目を持ち足が短く見えるズボンを穿いた野獣(人)、後は表現ができない程のスタイルの魔物が巣づく魔界の世界(世間)である。

 比丘と仏陀の会話の中に「比丘よ、破壊するが故に世間と称せられるのである。」という言葉がある。

 諸行無常の世界である。


 

日本古代の精神史

2004å¹´11月20æ—¥ | é¢¨æ™¯
 現代日本の精神構造を語る場合に、古代いわゆる縄文、弥生、記紀時代等の古代人の精神構造や文化を引合いに出したり、一神教と多神教などと宗教的な背景の相違などを引合いに語っている場合が多い。
 その中で玉川大学出版部から出版されている津城寛文氏の「日本の深層文化序説」は、歴史主義、文化心理主義、民族主義の3つの深層と宗教文化の深層研究により現在の各研究領域における日本文化の深層を語るもので、お勧めの一冊である。

 大和言葉の「罪(つみ)」という言葉の「つ、み」の響きは「自然の流れを阻害する行為、現象」を人の心に植えつけるものではないかと考えている者としては、日本人の精神構造を知る上には欠かせない書籍である。

 戦前の古典研究書は、皇国史観の批判の中でいまだに評価されてはおらず、歴史的な価値もないものと扱われているように見える。
 宮崎秀春、次田潤、飯田武郷、佐佐木信綱、大西貞治、久松潜一、石井庄司、竹野長次などという第二次世界大戦前の人は、省みられることもなくなり、戦中左翼的とされいて戦後一時評価された津田左右吉や武田祐吉、倉野憲司のように戦後も活躍できその著書が参考文献とされている者いる。

 戦前の研究者すべてが、大和魂や天皇制の正当性ばかりを論じてるわけではなく、古代人の精神を熱く語る者も多い。

 人の考えは、環境も変われば変化するし、自己の主張に誤りがあれば訂正、補正するのが当然で、開かれた社会実現のためには批判的な理性は、ある程度の抑えられるべきものであり、ポーパーの「可謬性」はここにある。

 宗教が人間性に影響を与える場合が多い。

 スコットランドに「フィンドホーン共同体」というのがある。神の啓示を受けた者を中心にその教えを忠実に守る生活共同体である。
 そこで語られている、神の啓示なるものの内容を見ると「今日の大切さ。この瞬間を思い切り生きなさい。あなたにとって今日はすばらしい日。今日は輝かしい日。」というものがある。
 今日という日、今という瞬間の大切さが彼らの神の啓示の一つとされているのである。

 これは「一大事とは今日只今なり。(正受禅師)」と同じっことで、中部経典の一夜賢者の話と同一である。
 ユング心理学の普遍的無意識内の万人共通の深層意識のようである。

 仏陀は、この悟りを神から受けたわけでなく快と苦の中間の中道における悟りから導き出した。
 最近山を登り前常念の石室跡を見て山岳信仰の修験道は、荒行という過程を経て山と山頂からの自然の荘厳さ、自然の四季のうつろいを観ることにより「只今」の持つ意味を体得するのではないかと思った。

 最近新興宗教の女性が、竹刀で叩く「修行」という名の行為が原因で死んだというニュースが流れた。

 意識朦朧の状態での悟りなどというものはありえない。意識状態が正常でない状態での真理への到達など確証できないから仏陀は中道をいったのであり、論理的にも当然のことである。

 従って、凡人の知識が真理であるということはありえず、常に誤っている可能性がありそれを認める謙虚さがなければ、開かれた社会は秩序なき社会へと変貌していく。