思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

うつろふ(移ろう)・無常・もののあわれも・やまと言葉の世界

2010å¹´09月30æ—¥ | ã“とば

 いきなり能面の写真ですが、これは「深井の面」で今朝は世阿弥の話も出ますのでこの写真としました。

 やまと言葉(古語)の「にほふ」、現代の「匂う」と言う言葉ですが、この言葉に継承されている日本語独特の感覚的な意味に、香りと漂うという表現が含まれるほかに、色彩も、音の風景も「にほふ」という言葉の概念に息づいていることを見てきました。

 今朝は日本的な特徴とされる「無常」「もののあわれ」にも関係するやまと言葉の「うつろふ」に焦点を当てたいと思います。

 過去に「もの」という「やまと言葉」(2)というブログで扱った万葉集の歌があります。

万葉集巻18-8に

 久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

 紅(くれない)は、うつろふものぞ、橡(つるばみ)の、なれにし来ぬに、なほしかめやも

という大伴家持の歌です。

 歌全体の意味についてはいろいろな解釈があるようですが、今朝はこの中の「うつろふ」というやまと言葉に注目したいと思います。

 過去のブログの中では、「もの」というやまと言葉についての考察の中でこの歌を参考例で出して言います。その内容は次のようなものでした。

<過去ブログ>

 その時は大野晋先生の本から引用しその歌が含まれていました。掲出した時の記事は、

<「もの」という「やまと言葉」(2)>から

 国文学といえば大野晋学習院名誉教授がおられ最近岩波新書から「日本語の源流を求めて」という本を出されている。タミル語と「やまと言葉(ヤマトコトバ)」の関係、したがって南インドとのかかわりで日本語の源流を論じているが、その中に「もの(モノ)」という言葉について次のように述べている。

 ① 世の中はむなしきものと知るときしいよよますます悲しかりけり(万葉)
   (人の死に際会して、ああ人の世は空しい。これが運命というものだと自 覚するとき、いよいよますます悲しみの感を新たにする)
 ② かくばかり恋ひむものぞと思はねば(万葉)
   (別れるとこんなに恋に苦しむののがきまりだと思わなかったので・・・・・)
 ③ 紅はうつろふものぞ(万葉)
   (美しい紅色もあせるのがきまりだ)
 このようにモノは「自分の力では変えられないさだめ、きまり」という意味が最も古かったと見られる。しかし、右(上記)に挙げた「紅はうつろふものぞ」のモノは「色が変わってしまう物だ」ともとれなくはない。こうした使い方からモノが「物」へと発展した。

と語っている(同書P68)。

・・・・・・・・・・・・

ここでは、

 紅はうつろふものぞ=美しい紅色もあせるのがきまりだ

というように、故大野先生は「うつろふ」を「色あせる」と訳しています。現代人からすれば少しピンときませんが、ほとんどの万葉集解釈本は「色あせる」に訳しており普通の解釈なのです。

 つまり「うつろふ」という言葉には「色あせる」という感覚的な概念があることになります。

では得意の辞書調べと行きましょう。どんな古語辞典にも「うつろふ」というやまと言葉(古語)を二種類に分け説明しています。

●うつろ・ふ【移ろふ】
① 位置が変わっていく。住むところが変わる。
② 変遷していく。時世が変化していく。
③ 色があせていく。
④ 色づく。染まる。
⑤ 散っていく。
⑥ 心変わりしていく。

●うつろ・ふ【映ろふ】
 <意味略>
 
という言葉があり(けさは「にほふ」を問題にしますので【映】については略します。
 この言葉の元になる言葉は、言葉の活用からも、元になる言葉は、

●うつ・る【移る】[自ラ四]
① 位置や場所が変わる。移動する。
② 官位や職務が変わる。転じる
③ 色や香が他の物に付く。染まる。
④ 色があせる。
⑤ 花や葉が散る。
⑥ 物の怪が祈祷によって、寄りましにつく。乗り移る。
⑦ 病気が伝染する。
⑧ 時間的に変わっていく。時が過ぎていく。
⑨ 死ぬ。あの世へ行く。
⑩ 心が他に移る。
⑪ 前とちがった状態になる。

●うつ・る【映る・写る】
 <意味略>

となります。実に一語の中に多くの意味概念があることが分かりますし、【映る】の意味も含めると過去にも話しましたが、「うつる」というやまと言葉の不思議な世界があります。

 しかし今朝は、「うつろふ」に注目していますので、その話に戻します。

 うつろふ=褪(あ)せる

 日本語で「記憶が薄れる」「記憶が褪せる」と表現します。これは日本語だけの特徴ではなく英語の「あせる(褪せる)」は、

 fadeは、(色)がさめる。(音)が消えていく。

で、日本語と同じように

 fade(away):記憶が薄れる。記憶が褪せる。
 

 と使われます。しかし英語のfadeという単語は、あくまでも事象が消えていくと概念を表す言葉で、やまと言葉のような多義の意味概念を有していません。

 分かると思いますが、英語の「移す・映す」は表記するまでもなく別単語です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今朝は、「うつろふ」という「無常」に関係する言葉を考察していますので、次の二人の宗教学者の分を紹介します。はじめに原始仏教典の研究家でもある故中村元先生の著書からです。 

 著書『日本思想史』(中村元英文論集 春日屋仲昌編訳 東方出版)の第3章中世思想(p99~p100)の「時と移ろいの概念」からの引用です。

<引用>

五、時と移ろいの概念

 日本的思惟方法の一つの主要な特徴は現象世界における現実性を絶対的なものとして受容する態度であった。
 日本人は、普遍よりも直観的・感覚的・具体的事物に重きをおき、また事物の流動的・端緒的な性質に重きをおく態度をとってきた。この思惟方法は現象世界そのものを絶対者と見なし、現象世界を超えて絶対者が存在するとの認識を拒否する。明治以後の哲学者に「現象即実在論」として広く知られているものは日本の伝統に深く根ざしているのである。
 
 あらゆる種類の事物のなかに霊が宿っているという信仰は古代日本人の宗教観の特徴であった。すなわち、人間の霊以外の他のあらゆる種類の霊を人格化して、それらをすべて祖先神とし、あらゆる霊を神々の本体とみようとした。こうした一連の思惟から神道における神社が誕生した。すなわち、宗教的な儀式を行なうために神々や霊はある特定の場所に固定されたのである。

・・・<中略>・・・

 仏教哲学も同様にこの思惟方法に基づいて受容され、同化された。日本仏教は現象世界の移ろいやすさを強調した。しかし、この移ろいやすさにたいする日本人の態度はインド人の場合と非常に異なっている。日本人の気質は、普遍的なものよりも、直観的に把握される感覚的・具体的な事柄をいっそう強調する。
 
 これはインド人が移ろいゆく世界に対して示す特徴的な反応と正反対である。インド人は、移ろいゆく世界を回避し、究極的な実在すなわち超越的な絶対者にこそ、現象世界の絶え間ない流動からの心の安らぎを見いだすことができるとする。それにたいし、日本人の反応は、現象世界の流動性やはかなさを受容し、歓迎さえするのである。

中村先生は「移ろい」という言葉のインドと日本の比較を述べています。実に分かり易い解説をされています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 では次に「うつろう」を「無常」との関係で故田村芳朗先生の著書からの引用です。著書は当該ブログで時々使用すろ『人生と仏教9 伝統の再発見』(佼成出版社)からで、分かってもらうために長い引用になります。
 
<引用>

 宣長は、日本人本来の自然の情を愛し、儒教であれ、仏教であれ、教訓くさいものをしりぞけた。「此物語の本意を、勧善懲悪といひ、殊には好色のいましめ也といふは、いみじきしひごと也」「もののあはれを見せむと作れる物語を、教誡(きょうかい)にとりなすは、たとへば花を見んとて、植おふしたる桜の木を、伐(き)りくだきて、薪にしたらむがごとし」(『玉の小櫛』)というところである。「いみじきしひごと」とは、たいへんな心得ちがいという意である。※宣長の著書『玉の小櫛』
 
 こうして、宣長は仏教渡来以前の日本を是とし、日本の文化や文学から仏教の色彩を取り除こうとした。しかし、実際は形だけでも仏教の影響が見られるのであるから、宣長の意図には、いささか無理であるといわねばならない。ひいては、彼の『源氏物語』評釈にも、故意と偏見が感ぜられる。その点は、割引して考えねはならないが、それにしても、『源氏物語』の特色を「物のあはれ」と規定したところには、宣長の鋭い洞察力が働いており、当を得たものといえよう。

 日本人は、移ろいゆく人生のはかなさに美を見いだし、その中にひたる。それを一口でいうならば、宣長の主張した「物のあはれ」である。「物のあはれ」とは、人生の無常なさまに趣を感じ、美を見いだすにある。吉田兼好の『徒然革』に、それが、はっきりと説かれている。すなわち、
                
 「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山(とりべやま)の姻(けむり)立ちさらでのみ住みほつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」(第七段)

 と。鳥部山とは、京都にあった火葬場のことである。また、「折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ」(第一九段)ともいっている。
 ここから、人生・自然の移ろい、衰えていく姿にこそ、かえって興趣が感ぜられ、美があると強調するにもいたった。同じく『徒然草』に兼好が、
 
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衛(ゆくえ)しらぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきはどの梢(こずえ)、ちりしをれたる庭などこそ見所おほけれ」(第一三七段)

 とて、花しおれ、月かくれるところに、あわれに情ふかさが感ぜられるといっている。

 能楽の大成者・世阿弥も、『風姿花伝』(花伝書、一四〇〇年)において、「花のしをれたらんこそ面白けれ」(第三)とて、さかりの花よりも、しおれた花に高次の美を発見しようとした。
 
 興味ぶかいことは、移り変わりに美を見いだすということが、独特の芸術理論を生みだすにいたったことである。世阿弥の能楽における序破急(じょはきゅう)、千利休の茶道における守破離(しゅはり)がそれである。
                                        
「序破急」は、世阿弥の 『風姿花伝』や『花鏡(かきょう)』(一四二四年)に論じられているが、特に後書には、「序破急之事」という条項のもとに、くわしく解説している。

 『花鏡』の初稿本と考えられる『花習(かしゅう)』(一四一八年)には、「能序破急事」とて、その部分だけが残っている。「守破離」は、『利休百首』の中に見られるもので、茶道の心得を百の歌にしてよんだ、その百番目に、「規矩(きく・意味:きまり)作法守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」とうたわれている。茶道の心得を締めくくったものである。

 序・破・急は、もともとは舞楽の術語であって、それを世阿弥が取り上げて、高度な理論づけをほどこしたのである。いわば、日本的弁証法とでもいうべきものである。この序・破・急は、いけばな(立花)にもとりいれられた。十五世紀の半ば以降、いけばなに関する種々の口伝ができてくるが、それを編集したものに『仙(せん)伝抄』があり、その中で、真・行・革が序・破・急に当てて説明されている。茶道のほうの守・破・離も、序・破・急と似たカテゴリーで、やはり一種の日本的弁証法として、すぐれたものといえよう。
              
 最初の序あるいは守ということであるが、それは、まず形を整えるということで、破は、それが次にくずれ、破れていくことを意味する。三番日のうち、急は、破がゆきつくところまでゆくこと、いいかえれば破が速度を加えて最後的段階に達することをいったものである。離のほうは、そこにおいて突破が生まれること、いいかえれば型を破り、離れて、新たな局面を生みだすことをいったものである。

 守破離は、茶道の名人の域を表現したものでもあるが、さきの歌の「本を忘るな」とは、規矩作法にこだわらず、それから自由になりながら、しかも、基本の型を忘れないという意である。この守破離に関して、千利休に次のような逸話がある。
 
 彼は、あるとき師匠から庭掃除を命ぜられ、庭に出たところ、すでにきれいに掃除されていた。しかし、利休は、すぐ師匠の心をさとり、樹をゆすって数枚の葉を庭に落としたという。
 
これが、守被離だといわれる。
 序破急にしても、守破離にしても、一種の弁証法(正・反・合)といってもいいような、すぐれた論理をそなえている。日本人は論理性に欠けるとの批評をよく耳にし、一章のところでも、その批評を紹介したわけであるが、この序破急や守破離の説、そのほか前にあげた種々の概念など、その批評をくつがえすものといえよう。ただし、西洋的な意味における論理とは、質を異にすることは事実である。
 
 たとえば、ヘーゲルやマルクスの弁証法において基底をなすものは、対立の観念である。その対立、ないし対立に対する止揚(アウフヘーべン)は、人為的なものである。つまり、人為的変革である。それに対して、序破急や守破離は、あくまで自然的変移を基底としたものである。
 
 つまり、四季の自然、あるいは物みな移り変わっていく姿にことよせ、そこに美を感じて立てられた論理である。ここにまた、日本的特色がにじみ出ているといえよう。西洋側からすれは、それは論理でもなく、弁証法でもないというかもしれないが、ともあれ、日本的弁証法といえば、いえなくはないであろう。
 
 このような日本的思考は、古代から日本文化史の底に流れつづけてきた。そうして、それが室町期あたりで理念化し、文芸の各分野の成立・発展の礎となった。いけばな(立花)についていえば、「古今遠近(ここんえんきん)と立つべし」というような口伝も生まれたところである。
         
         せんげい
 この口伝は、池坊の専慶(十五世紀半は)が言い伝えたものとされているが、いけばなの伝書として最も古いといわれる『仙伝抄』には、「奥輝之別紙(おくてるのべつし)」という項のところに、「三具足の花はしょくだい(燭台)につい(対)して。右長左短。古今遠近と立べし。ひらく枝は慈悲。いだく枝は知恵と心得べし」との口伝がのせられている。ちなみに、専慶は池坊の第十二世と伝えるが、実際は、池坊の創始者である。
(同書p227~p231から)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二人の宗教学者の分を引用しました。私見をはさむまでもなく、この文章を自分のものにするのは、それぞれの現在持ち得る理解力からです。頭ごなしに否定もできますが、私の場合は両者に納得なのです。

 「やまと言葉」の不思議と素晴らしさ、素晴らしいというのか現代的ではないと批判されそうですが、忘れてはならない日本の心があるように思います。

 「匂い・いろ(色)・音・うつろふ(移ろう)」の言葉から、無常やもののあわれも含め言葉の世界を思考しました。

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「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」・Lecture1-2

2010å¹´09月29æ—¥ | ãƒãƒ¼ãƒãƒ¼ãƒ‰ç™½ç†±æ•™å®¤

Lecture1[イチローの年俸は高すぎないか?]後半

<東大の入学資格はお金で買えるか>

【サンデル教授】
 君たちに”正義 ”についての問題の最後の例を出したい。お金や所得や富の分配ではなく、高等教育、実際には最高学府への誰に認められるべきものか、という問題だ。

 ここで仮説的な問題を考えてみよう。東京大学は入試の成績でほとんどの学生の合否を決めたとする。

 入試ではまずまずだが、トップレベルではなく入学すれば授業で合格点を取ることはできるけれども・・・そのままでは合格ラインに届かない志願者がいたとする。

 しかし東京大学事務局は、この志願者の両親は非常に裕福で大変な慈善家であることを知った。自分の子供が合格したら東京大学に新しい図書館や新しい科学実験室を作るために、5000万ドル(44億円)寄付する用意があるという。

                    

 お金が余ったら暑い日のために東大に新しいプールもできるかもしれない。その学生を合格させれば・・・みんなのためになる。みんなの教育が改善する。

 君たちの中のどれだけが東大がすべき正しいことは、そのお金持ちの親を持つ一人の学生を入学させることだと思うだろう。

アキラ! 君は手を挙げてないね。我らが功利主義者はどうしたんだ。(場内爆笑)君が手を挙げたのは見なかったが?

【アキラ】
 私は功利主義の立場に立っても、これは認められるべきものではないと思います。

【サンデル教授】
 君はそう思わないのかい。みんなのためになるだろう。もっといい図書館にもっといい実験室だ。君は図書館を使わないのかい?

【アキラ】
 助かるのはその学生だけであって、社会の公正さが害されるのでその不効用の方が大きいと思います。それに東京大学は、公立学校であることを忘れてはならないと思いますし、公立学校ということは当然、公平性とか平等性が順守されると思います。

 そのような公平性や平等性を害して裏口入学を認めることは極めて不利益なことだと思います。だから認めるべきではないと思います。

【サンデル教授】
 これが1億ドルだったらどうかな?
 君は功利主義者だ。金額を十分に吊り上げれば、君を納得させられるかな?

【アキラ】
 金額が増せば増すほど不正度の度合いが大きくなるので、認められるべきではないと思います。

【サンデル教授】
 いいだろう。じゃあこれは不公正だ。東大が間違っていると思う人は? ほとんどだね(挙手者) では誰かこれを擁護する人、5000万ドルや1億ドルなら入学させる・・・問題ないという人は? (君)理由を教えてくれないか。


【ヨンジュン】
 その生徒が頭が悪くて授業(単位)をとれないいう程度ではなくて、しっかりパスできる水準であるし、あともう一人受け入れることによって優秀な学生が入ってこれなかった、と言うわけではなかったのでこの場合は認められると思います。程度の問題で一か八かではなくて、その制度を不正な形ではなくてしっかりした制度のまとめてそれを設けておくのであるならば、いいのではないかと思います。

【サンデル教授】
 ヨンジュン、二人のとても優秀な学生がいて、どちらの両親も5000万ドル寄付したいとしよう。君が二人を合格させれば、1億ドル貰ってたくさんいいことができる。これはどうかな? 君は二人を採るだろう。

【ヨンジュン】日本語から英語に変わります。
 学生は何人ですか?

【サンデル教授】
 およそ3000人ぐらい入学するのではないかな・・・そんなところだ。

【ヨンジュン】
 それなら、私は2人ぐらいはOKです。

【サンデル教授】
 君は多分、3人でも4人でも問題ないだろう。3000人もいるんだから。

【ヨンジュン】
 すみません、線は引けません。

【サンデル教授】
 いいだろう。しかし君は何人かは入学させるんだね。じゃヨンジュンに反対な人は?
 少数の人数をこのように入学させられる枠があるとしよう。親が東大に5000万ドルる寄付するならば誰でも入学させる。これなら公正だろう。

【コウイチ】
 大学でレベルの高い教育を受けるというのは、それまでにどれだけ勉強してきたかという努力に対する見返りだと考えるのが一般的だとおもいます。それに関して言うとお金があるから大学に入っていい授業が受けられる、(それに反して)お金のない人は大学に入れないというのは、すごく不公正な感じがします。

【サンデル教授】
 コウイチは、いくつかの入学枠をうるのは不公正だという。というのもテストの成績、学業成績によって入学させるのは一生懸命勉強した彼らの努力への報いだからだ。これが不公正だという理由だ。

 コウイチに反対意見がある人?

【C・男子】
 大事なのは動機であったり目的だと思っています。大学の目的は、学問を追及することとであったり、広く教育をすることだと思っていて、高い教育をするにはそれに対応する学力が必要だと思われているから試験をするのであって、寄付金やそのような金額でパスを買うような発想は、(大学の)目的にあっていないからおかしいと思っています。

【サンデル教授】
 よろしい、では大学の目的は学問や科学、学術性の卓越性で一般に貢献することである。だかたコウイチが言うような個人の努力の見返りとして入学を考えるべきではないと言うんだね。

【リョウタ】
 例えば東京大学に実際入っている学生の親の年収を見てみると非常に高いものがある。学力でジャッジするのはアンフェアでそこに金銭的な、親の所得は関係ないと言いますが実際には、親の年収だとか経済的な支援というものが既にそこに加味されているという現実も考えねばならないと思います。

【サンデル教授】
 東大の学生の過半数は、年間10万ドル以上の収入がある。平均所得よりもはるかに高いのだ。入学枠を裕福な人に売るという仮説は、ほとんどの人が拒否した。しかしそれを脇に置いたとしても君は、自分の努力だけが入学につながるのではない、と主張しているのだろうか。富も既に一役買っていると言っているのかい?

【リョウタ】
私の考えとしては、その都度いろんな尺度があっていいと思います。例えばそこには学業で非常に努力してパスした人もいれば、例えば経済的な形で他の人たちに貢献する人たちもいるでしょうし、例えば別の学力以外の部分でタレントを持っている人が集いあってお互いに自分の持っているものを公開しあうことが、大学であったりとか社会、経済、また文化の発展につながる大学の役割だと考えます。

【サンデル教授】
 君はこのことを不公正だと思うだろうか。つまり大学の入学審査が間接的にでもあっても裕福な家族の出身者に有利に働くことは不公正だと思うかい。これは日本と同様アメリカでも実際に起こっていることだ。君はこれを不公正だと思うだろうか?

【リョウタ】
 アンフェアだとは思いません。それが現実社会だという風に、私はそのリアリスティックに物事を考えるタイプであって・・・・。

【サンデル教授】
 アメリカの多くの大学では、日本と同様に大学に入る人の経済的環境と人口全体の経済的特徴に違いがある。

 私たちはここで経済的不平等についてどのような所得と富の格差が不公正なのか、社会が公正であるためには、生活のどんな点でのどの程度の平等が求められるのか議論してきた。この議論から明らかになったのはこうだと思う。

 テストで高成績をとった人は、その努力に報いるために入学が許される、という考えを出した人がいた。これは君コウイチが主張した議論だね。でも努力しても入学できない人もいるからそれは違うという人もいた。そこで出てきた答えは、成績が重要であるべきであり、その理由は、大学の目的はお金儲けではなく、学問や科学、学術の卓越性を促進し、世界をより良くすることだからだ。新入生の入学枠の売買に反対するこの議論は、大学の目的は何か、ということに訴えるものだ。

 それはある意味ではアリストテレスの議論で、私たちが議論した三つの正義の理論の三つ目のもので・・・思い出してほしいが、アリストテレスによれば何が公正かを理解する唯一の方法は、そのものが果たす目的について考えることだからである。

 アリストテレスは正義とは美徳についてであり、この場合学業の成績やその見込みを持っていることが美徳であると考える。そして新しい図書館を建てられる裕福な親を持っていることは、美徳とは言えない。

 これが東大の入学枠を売ることに反対するアリスト派の議論だ。さて功利主義の議論をすることもできるがアキラは、自分の功利主義を入学枠の販売を擁護することには当てはめなかった。

 それは社会全体の高等教育システム全体の腐敗につながり、かえって効用が減少すると考えたからだ。しかしそこが問題だ。アキラ私たちは一般に社会の中であるいは大学生活の中で何を腐敗や不公正とみなすのであろうか。

 だから私たちは最初に、大学は本当は何のためにあるのか、大学の目的は何か、そしてそのための美徳はなにかを決めるのだ。こういった非常に現実的な問題を議論する過程で、私たちは最初に述べた三つの”正義 ”の理論の道徳的力や、またそれらが直面している課題についてみてきた。

 それぞれは幸福の最大化であり、人間の尊厳や自律の権利の尊重であり、美徳の促進、目的の類推して考える。それに伴う美徳を解明し、善を促進することである。

 私たちは高等教育への入学の分配の基準についても、イチローが学校の先生の400倍稼ぐことの公正さについても意見が一致することがなかった。しかし私たちは議論をはじめ、哲学の大きな考え、三つの違う”正義 ”の概念が存在することを突きとめることができた。

 難しい道徳的、政治的問題について普段私たちが行う議論や信念の中にその存在を意識していなくとも可能だった。その結果として私たちは、正義や権利や「共通善」という大きな問題に取り組むのは、決して哲学者だけの仕事ではないことを示したと思う。

 こういった問題に取り組むのは、市民たる者の一部なのだ。

 どうもありがとう。

<控室>
【サンデル教授】
 期待道理みんな積極的に議論してくれた。活発で見事な発言力だ。いろんな意見が聞けていい議論になった。

 リバタリアンまでいたね。いい流れを作ってくれたよ。

・・・発言者感想・・・

【タカシ】
 僕の意見がリバタリアン、リバタリアニズムだと分かっていただけたら満足ですし、議論にちょっとだけでも貢献できたことが満足です。

【リョウタ】
 私が発言したところについていうと、別にお金がかからない現実社会と言うとみんなそれはよくないというふうに帰ってきたので、そういったところで、日本人はモラル、倫理観が高いと感じました。
 
【アキラ】
 私、テンパってていて半分も理解できていなかったかもしれません。合理主義には少し問題はあるなと認識していたのですが、それでもなお功利主義が一番自分に性格上あっているかと思ったのでそれを主張しました。

【ユズハ】
 すごく緊張しました。しどろもどろになりイチローがどこのチームなのかも忘れてしまい、テンパってしまいました。

【B・男子】
 まだまだ全然だめだと思います。テレビを見ていてもアメリカの学生はバンバン自分の意見が言えて・・・そういう機会が、日本人はあまりそのようにしていかないのですが、これからはそういう姿勢を身に付けていく必要があると思うのでしっかり勉強していきたいといと思っています。

【C・男子】
 発言自体はたまたま手を挙げていると勘違いされて・・・ラッキーと思ったりして、棚ぼたで発言させてもらいました。非常に頭を使うので、休憩時間がとても貴重でした。
 
 <Lecture1[イチローの年俸は高すぎないか?]終了>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前半の講義を終え控室に戻ったサンデル教授は、活発な意見が交わされ安堵の気持のようでした。サンデル教授の政治哲学授業の対話式、互いに議論を重ねその中から何かつかんで行く、何かを気づいて、気づかされていく姿勢がとても勉強になりました。

 サンデル教授は、この東大の白熱教室に8月末に来日しましたが、その前後は解りませんが韓国ソウルでも4500人を前に講義をしたそうです。人数が多いため東大のような活発な細やかな対話式の講義にはならなかったようです。

 入学式の問題などで展開される議論は、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)についてですが、韓国では三つのうちの例として「2020年、ハーバード大学の平壌キャンパスが開校したとしよう。優れた教育を受けることができなかった北朝鮮の学生たちに入学優先権を与えることは”正義 ”にかなうだろうか?」というものにしたそうですが(9.19毎日新聞)が、話の前後は解りませんがサンデル教授は面白いですね。 

 12回の「ハーバード白熱教室」もそうなのですが、いろいろな批評を見ると批判的な多くのものは、

 サンデル教授のシナリオ的な演出に乗せられ、操作されているように見える。

と言います。これ滑稽なことで、サンデル教授ははそもそも政治哲学の授業を行っているのであって、講演会ではないということ。それにサンデル教授は対話というものを重視する考え方で、それは自己のリバタリアニズムにおける共通善を如何に共有できるものにするかという問題になってきます。

 教授の講義の姿勢、意見者の主張するところを的確に把握し、問題点等も指摘して行き誰と誰が、どことどこが重なり合う主張なのか。それを参加者に提示しさらに議論を進めていく。

 ある参加者でオーケストラの指揮者のようだったと感想を述べる人が押しましたが、それは批判ではなく、はにかみ屋の日本人にはないディベートという西洋的な未来先行型の理論展開という、虫の音の余韻とは異なる世界であることを示しているように思います。ます。

 サンデル教授教授の講義を批判的に受け止めることもよいのですが、なぜそうなのかと考えるときに自分の力量の過信がそうさせているように見えます。すごい人は確かにいるのです。そうなりたいと思うのが自然であり、また教育の在り方という点からすれば非常に有効な「気づき」の世界を展開させるものです。
 
 何でもそうですが悪い意味で興奮するのは、あまり健康上によくありません。一呼吸、一呼吸で生きたいものです。

 後残りのLecture2「戦争責任を議論する」がありますがもう少し後になりそうです。

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「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」・Lecture1-1

2010å¹´09月28æ—¥ | ãƒãƒ¼ãƒãƒ¼ãƒ‰ç™½ç†±æ•™å®¤

 サンデル教授は、今回の東大安田講堂における「白熱教室」を始めるに当たり、この講義にやる気があって参加できる人を確認(挙手)し、その自信のほどを質問した。

 指名された若者は、流暢な英語で、
【ユウタロウ】
ぼくたちは日本お新しい世代だからディベートをすることができるんです。

とはっきりと答えるのです。

今朝は、

Lecture1[イチローの年俸は高すぎないか?]の

三つの異なる考え方についての部分を起しました。最後の例として最高学府の進学を例にとった”正義 ”についてですが、出勤時間になってしまったので帰宅後アップしたいと思います。

【サンデル教授】
 この授業では、正義とは何かという問いに哲学者たちが出した三つの異なる考え方を君たちと探っていきたい。

1)最大多数の最大幸福~「功利主義」(ジェレミー・ベンサム)
【サンデル教授】
 最初の答えは、正義とは幸福の最大化を意味し、最大多数のための最大幸福を追求するというものだ。

2)人間の尊厳に価値を置くこと(カント)
【サンデル教授】
 二つ目の答えは、正義は人間の尊厳に価値を置くことだ。
そして人間の基本的で、絶対的な権利と義務を尊重するというものだ。

3)美徳と共通善を育む(アリストテレス)
【サンデル教授】
 三つ目の伝統的な答えは、正義についての哲学的な議論によると、正義とは美徳と共通善をたたえ育むことを意味する。

これらの伝統的な思想を君たちとの議論で探って行きたい。

※ここから議論のための質問が始まります。

問題提起「正義についての問題」
【サンデル教授】
 どの位の所得や富の不平等が、社会を不公正なものするのだろうか?

 巨額の給料を稼いだり、巨額の富を持つ人もいるのに、ほんのわずかしか持っていない人がいるのは不公平だ。

 ある人は、自由市場経済の作用で生ずる分配であれ、何であれ、それは所得と富の公正な分配だと言う。

 物とサービスの交換が強制されることなしに、自由に合意されている経済のことを「自由市場経済」と解釈するとしよう。

 その結果を、所得と富の公平な分配とみなすのは、一つの考え方だ。それに反対するものもいる。君たちがどう思うか見てみよう。

※ そこで次に討議の材料として、個人の所得の格差が提示します。

○ 日本の教師の平均年収 4500ドル(約400万円)
○ プロ野球選手のイチロウの所得 1,800万ドル(約15億円)
○ アメリカ・オバマ大統領 40万ドル(約3500万円)

 ここでLecture1の主題の「イチローの年俸は高すぎるか否か」の参加者の意見が示されます。

● イチローの年俸が他の二者よりも道徳的に正しいと思うと考える意見
【ユズハ・女性】流暢な英語
 イチローはそこまでの高額な給料に値しないと思います。単位チームの一員としてプレイするだけだからです。一方オバマ大統領はアメリカ国民への全ての責任を負っています。核兵器についての決定権も持っていて世界の人々にも影響力があるんです。だからオバマ大統領はもっと高額な給料に値すると思うからです。

【サンデル教授】
 イチローがチームのほかのメンバーに頼っているというのは本当だ。しかし彼らもイチローよりは少ないが高い給料を貰っている。

 そしてオバマが重要な仕事をしているのは事実だが、彼もチームに頼っているのではないか。彼には閣僚メンバーがいて議員にも頼らなければならない。君がオバマのチームはマリナーズよりいいか悪いかどう考えるかわからないが。

【ユズハ・女性】
 イチローがチームに頼っていると言うつもりはありません。でも彼の影響が及ぶノハチームメイトだけです。一方 オバマ大統領が核兵器のボタンを押すと・・・国が吹き飛んでしまうかも知れないんです。

【サンデル教授】
君は、どうやらイチローがオバマの42倍の稼ぎに値しない理由は、突き詰めていうとイチローのしていることはオバマ大統領がしていることよりも、重要ではないと考えているようだね。

【ユズハ・女性】
 そうです。

ここで二人目の意見者が登場します。

【A・女性】
 娯楽は生活のために必要だから、お金を支払ってイチローの試合を見るんです。オバマ大統領がやっていることはとても重要ですが・・・扱っているのは「問題」で、わざわざ見たいものではありません。オバマ大統領は税金を使って問題に取り組ものに対しイチローは人々を楽しませて給料を稼ぎます。だから所得が違うんです。

【サンデル教授】
 彼らの間の所得の格差は公正だと思うかい。

【A・女性】
そう思います。

【サンデル教授】
 公正だという理由は、みんなが野球が好きでイチローを見たいからだね。

【A・女性】
 私は熱心な野球ファンではありませんが野球は多くの人にとって・・・生きる支えや楽しみとなり重要な意味を持っています。そういう人たちが払ったお金でイチローがお金持ちになることは悪いことだとは思いません。

【サンデル教授】
 イチローがあれだけの給料に値するとなると日本の貧しい人を助けるとはいえ、その収入の半分を税金として取るのは間違っていると思うかね。

【A・女性】
 私は課税にはちょっと反対です。イチローが金持ちになってその気があるなら貧しい人に寄付するでしょう、それが正しい行いだと思えば・・・

【サンデル教授】
 望むなら寄付できると考えるんだね。

【A・女性】
 その通りです。ビル・ゲイツのように私はその方がよいと思います。

【サンデル教授】
 しかし彼らが、教育や道徳心から慈善を行う気にならなくとも法律的には何ら問題はない。社会はビル・ゲイツやイチローに巨額な収入の40%や50%を貧しい人の医療費のために渡すように求めるのに法的拘束力を使うことはできない。国家はそのために彼らに強制する権利はないということだね。

【A・女性】
ある程度は課税すべきでしょうが、行き過ぎた課税はやる気を失わせます。

【サンデル教授】
 他に税金は不公正だと考える人は?

【タカシ】
 市場の原理の中で、お金を得たわけですから・・・イチローならばプレー、本人の努力、才能で金銭を得たわけで、それは市場が決めて市場にいる人間が彼に対してお金を払ったのだからそれは適正であり、国家はそれに対してさらに再分配を強制することはできないと思います。

【サンデル教授】
 なぜ国家が富を再分配することを強制するのが間違っているのか、彼の基本的な権利を侵害しているのだろうか。

【タカシ】
それは元々、市場の中にいる人間同士が取引をして社会ができてきていると思います。国家というものは、社会の上に成り立っていて、その市場の中で例えば犯罪などが起きた場合にそれを取り締まるという機能を持っていますが、その富が偏在したような場合においても、個人の権利を侵害て金銭を取り上げことは国家の役割をすでに侵害していると思うので間違っていると思います。

【サンデル教授】
 君は自称リバタリアンかね?
※リバタリアン:個人尾権利を侵害すると考え方 自由至上主義者とも市場原理主義者とも呼ばれる。

【タカシ】
 はい、自分はリバタリアンだと思っています。                  

【サンデル教授】
 いいだろう、今ここで基本的人権が問題となっている。しかし君が問題としている基本的権利は、財産であって生命に関することではない。国家は慈善を行うかおこなわないかについて、人々の意思や選択の自由を尊重しなければならないと言うんだね。

 それなら君は自分のこと自分で決めるという自立の考えに賛成しているようだ。
 ※自律:自分のことを自分で決める
 ビル・ゲイツやイチローが貧しい人を支援するために、自分の意思に反して課税されたらその基本的権利は侵害されると思うかい?

【B・男子】速い流暢な英語
 彼が正しいとは思いません。政府は課税してよいと思います。政府は貧しい人に最低生活基準を保証する役割を担い・・・それを実現するために、社会の誰もが協力しなければなりません。

 そもそも 金持ちになれない理由は、社会が機会を与えてくれたからです。だから貧しい人を気に掛ける義務があると思います。

 政府は金持ちに課税して、貧しい人々を助ける責任があると思います。

【サンデル教授】
 しかし自分のことは自分で決めるという自律の権利はどうだろう。リバタリアンはその権利をビル・ゲイツやイチローまで広げるべきだという。慈善を行って貧しい人たちを助けたければ自由にできるべきだが強制されるべきではないというのだ、このけんりはどうだろう。

【B・男子】
 確かに、自律の権利はありますが他人への危害など、制限されることもあります。貧しい人々を救うことの方が、豊かな人の権利よりも大切です。政府の課税は正当化されると思います。

【サンデル教授】
 こんな風にリベートが展開していくとは面白い。

【アキラ】
 はい、私はOKです。私はそもそも10億ドル稼ぐ人に5億ドルの税金をかけたとしても、その人は痛くもかゆくもないと思います。何ら不公平を感じないと思います。しかしそれを再分配することによって貧しい人たちは多大な効用を得ると思うので・・・最大多数の最大幸福が実現できるので私は賛成です。
<会場から拍手>

【サンデル教授】
 OKアキラ。自分は功利主義者だと思うかい。
※功利主義:正しい行いとは効用を最大限とするという考え方。

【アキラ】
 はい、そうです。
<会場から笑い>

【サンデル教授】
なるほど君は功利主義の理論を所得の再分配に当てはめている、貧しい人の幸福が増すことは、少なくとも等分は、ビル・ゲイツやイチローの幸福が減少する割合よりも大きいからだ。彼らから100万ドル取り去って、多分気づきもしないかも知れない。

 幸福の最大化という功利主義の考えは、所得と富を裕福な人から貧しい人に再分配する唯一な正当な根拠なのだろうか。

 誰かこれについて功利主義ではない別な正当化の理由がある人は?

【マミコ】
 私が思うのは、そもそ人類はも自分自身の生命、他人の生命は傷つけられないという権利を持っているという考えに照っているので、お金がないことによって医療を受けられないで死んで行く命を自分のコミュニティーから排出すること事体を避けるべきであると考えるからです。

【サンデル教授】
 君は自分のコミュニティーから貧しくて医療を受けられない人を出したくないんだね。それはどうしてかな? それは単に幸福の最大化への最善策だからか、あるいは他に道徳的に配意した重要な理由があるのだろうか。

【マミコ】
 道徳的にです。自分のコミュニティーからお金がないことによって、死んで行く人間を出してはいけない。これが人類の目的・・・やるべきこと義務だと思います。

【サンデル教授】
 人への義務あるいは、適切な生き方というのは、誰にとってもそのために進んで犠牲を払うことだ、ということだね。医療が受けられないほど、あるいは食べられないほど、絶望的に貧しい人がいない社会を造るために、自分で稼いだものをどう課は自分で決める、という人たちよりも、そういう人々は善良な人々だと思うかい?

【マミコ】
 はい、そう思います。

【サンデル教授】
 他の人への義務を認識して、進んで犠牲を行う善良な人々なんだね。いいだろう。

 どうもありがとう。一連の質問・・・イチロー、教師、オバマ大統領の給料や富の分配について意見を言ってくれた君たち・・・。

 さてこの議論の中で、わつぃたちは少なくとも”正義 ”についての最初の二つ考えが出てくるのを見てきた。

 裕福な人から貧しい人への再分配に賛成する功利主義の意見を聞いた。

                   

              ※功利主義の議論(富の再分配擁護)
 金持ちに巨額な富を残しておくよりも幸福が増加するだろう。これが功利主義の議論だ。

 そして”正義 ”の二つ目の伝統的な考え方から再分配について対立する二つの意見が出た。その伝統とは、人間の尊厳と選択の基本的な権利を重視するものだ。

 その一つは、課税を強制だと考える、リバタリアンだ。

          

            ※リバタリアンの主張(課税を強制と考える)
 リバタリアンは、自分のことを決める自律の基本的権利、選択する権利は・・・自分の財産や稼ぎをどうするかの決定も含んでいると解釈する。

 この権利があまりにも強力なので国家が最下層の貧しい人々を助けるために人々に強制し税金を払わせることは間違っているというのだ。

 それに対して、人間の尊厳の伝統と自律と選択の尊重というカント的な考え方に訴えて、

          

              ※カント的考え方(人間の尊厳の原理)
リバタリアンの権利の解釈を退ける人もいる。ちょっと待って、生命に対する権利と財産に対する主張の間には違いがあるというのだ。

 財産はお金であり、生命そのものではない。そしてイチローがこれだけのお金を稼ぎ、オバマが大統領になったのは、チャンスを与えてくれた社会の御かげだと指摘した人もいた。

 したがって彼らは、その社会に暮らす全ての人を少なくとも、まっとうな生活水準まで支える借り、義務があるのだ。だから所得の再分配の問題に関して、人間の尊厳の倫理と基本的権利が導くところに二つの対立する意見がある。

 そして美徳に注目する三つ目の考え方については、私たちはちょうど善良な生活についてマミコの議論を聞いたところだ。善良な性格を持つということは貧しい人々に分け与える倫理や自己犠牲の倫理を持つことである。そして貢献についての議論がでた。貢献の道徳的な価値は、実際オバマの方がイチローよりも大きいと論じられた。

          

 したがってイチローの稼ぎはもっと少なくてよく、オバマはもっと稼ぐべきだという議論だった。私たちの多くは野球ファンであってもオバマのしていることは、道徳的に野球よりももっと重要だからだ。これが正しい所得の分配の考え方として貢献の道徳的価値を物差しにする考えだ。

          

だからこれは公正な分配の根拠を美徳や善や仕事の道徳的重要性におく”正義 ”の三つ目の伝統に関連している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 サンデル教授は一切メモをしていません。それぞれの発言者の意見を聞き、その中で述べられていることが、講義の主題である”正義 ”とは何か?に向けて、生徒に哲学的理論の基となる考えも示しながら説明していきます。(凄い!)

 また発言者が実に流暢な英語で、自分の意見をしっかり述べていきます。実に若いということは素晴らしいものです。

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美の音・禅の音

2010å¹´09月27æ—¥ | ä»æ•™

 話の流れとしては、「音の風景」「虫の音」の続きになります。日本人の耳に特定した話ではないのですが、西洋の耳、東洋の耳それぞれに聞き取る音は同じでも何かが違う、そんな視点に立っての話になります。

 やまと言葉の「にほふ(匂う)」からは、色と匂い、音と匂いの言葉(音)からの深層の共通性を、角田忠信先生からは「日本人の虫の音」に対する特殊性の話を受け、次に西洋音楽と日本音楽との関係から、そして仏教の禅の「音」との関係を見てみたいと思います。

まず最初に、音楽の関係して、小倉朗著『日本の耳』(岩波新書)からの引用です。

  ・・・・・もともと日本の耳が自然音に抱いた感情は深かった。そしてまた、そのような耳は、松籟の響きとともに尺八を、清水の音とともに琴をきくことが出来た。そしてもちろん、そのとき野鳥の声を排斥することもないだろう。いやむしろ、そのような環境にある方が、現代流の演奏会できくより遥かにふさわしかろうと考えられる。
  
 けれども、これは依然条件つきのことで、たとえば、古池に飛び込む蛙の水音、そのしじまを野鳥の声が破ったらどうなるか。あるいはまた、能の鼓がつくり出す張りつめたしじまを、筧の音が破ったらどうなるか。「厳しさ」と僕らが呼ぶ音の世界は、あたりまえだが、他の音の介入を許さぬ緊張をもつ故に、厳しいのである。
 
 ひるがえせは、そのような緊張が弛められたとき、すなわち、情緒的、気分的対象として音が捉えられるとき、音楽はさまざまな段階において他の物音の介入を許す。実際、尺八の音に松籟がふさわしくとも、話し声は無用であろう。そしてまた、琴に激しい夕立も無用である。だが音頭や俗楽、祭りの囃などは、かなりの雑音にたえ、むしろしばしばそれを歓迎しさえする。
 
 一方、ヨーロッパの耳は、音自体を思考の対象として他の音を排除する方向に進んでいった。そして、そのような耳は、遂に奏者の即興さえ許さぬという厳しい構成にむかって音楽を展開させていった。
 
 さて、その思考とは、あたりまえだが、耳をいかにして音に集中させるかという工夫になる。そのとき、日本の耳は音への没入、無念無想の態度を選んだ。が、ヨーロッパの耳は、過去から未来に向かう普の流れをつくり、その流れに乗せて、きき手の耳を「未来に向けて」集中させる工夫を凝らしていった。(これについてはすでに触れたことがあるが、いわは、リズムと調性という二本のレールの上に、音の流れをつくり出すという思考の形をとる。)当然、この思考はリズムと調性への醒めた意識をもたらし、音への態度を客観化する(理論的体系の誕生)。しかし、その多様な展開のあげく、ある極点において、体系への破壊の意識を必然的に招いた(前衛の誕生)。
 
 そこで、この前衛的態度と伝統的態度の相違は、たとえていえば次のような次第になる。すなわち、かりに音という馬が走っているとする。伝統的な音楽家たちは、その馬の動きを刻一刻と時間的に追いながら、いかに巧妙に画面に捉えるかという工夫を重ねるカメラマンのような仕事をしてきた。従って、鑑賞する側は、その時間の流れに乗ってたえず未来を予感するというふうにしてひきずられていく。

 それに対して前衛は、時間的な関連を断ち切って、そのきれぎれの断片を、出来るだけ無関係な状態に配列するカメラマンのような仕事になる。すなわち、歯が映る、ひずめが映る、目が映る、怒張した血管が映る・・・・・・というふうに。こうして、馬は馬でも、次に何が映るか予測がつかない状態に観客を置く。

以上の記述から何が言えるのかということですが、芸術鑑賞において、視覚の世界、聴音の世界を観るときに前衛芸術の世界に現代日本人は違和感を持つことはないでしょうが、私のような古い人間はどうも瞬間に違和感を持つ方です。

 そこには未来性を置く西洋的な感覚から、瞬間における音の世界、その世界が瞬間の他の音との交わりの中にも瞬時の和の静寂を感じる、そこに日本的な「音」の世界の捉え方があるように思います。

 ここで気になるのが、仏教の世界得に禅の世界の悟りと音の関係です。現代社会は禅の流行もあり世界的なものとなっています。

 しかし、ある面そこには日本の禅が連綿と継承されてきた風土と環境があったことを意味するように思います。

 中国の禅の衰退が歴史的な背景、その後の西洋思想に基づく統一国家の形成に深くかかわっていることは自明の事実であると思います。そこには輸入文化を咀嚼する才能に長けた日本人の特殊性もあるのではないかと思います。

 禅の世界における「音」と言うと「隻手」が想起されますが、今回はその注釈の素晴らしさから『無門関』(秋月龍著 講談社学術文庫)の「鐘声七条(しょうせいしちじょう)」を引用したいと思います(全文)。

16 鐘が鳴ると袈裟を着る(第第十六則 鐘声七条)

雲門は言った、
「世界はこんなに広いのに、なぜ鐘が鳴ると、七条の袈裟を着て[食堂(じきどう)へ出て]行くのか」

 雲門文偃禅師(八六四~九四九)が言われました、「世界はこんなに広々としているのに、鐘がなるとどうして七条の袈裟を着て出頭するのか」。
 
 公案はこれだけです。世界はこんなに広い、というのはお悟りの真っ只中、「真空無相」の自由境を体験した人の叫びです。それなのに食事の合図の鐘がなると、どうして袈裟衣をつけて食堂に出かけるのだ。それこそが「真空妙用」(「妙用」は”凡夫の思議を絶した働き ”の意)です。「悟ってもひじは外へ曲らぬ」のが、それが真の「自由」なのです。「水鳥の行くも帰るも跡たえてされども道は忘れざりけり」でありましょう。
 
 ここでも、この「甚(なん)に因(よ)ってか」という問題意識が大事なのです。日常ふだんの何の問題もないようなところに、改めて問題意識を起こさせるところに、古人の「公案」の慈悲にもとづく(否定即肯定)の活手段が存することを忘れてはなりません。

 因(ちな)みに、この公案の見解は、天龍僧堂の滴水・龍淵下にすばらしい独特の調べがあります。

無門は評して言う---
 およそ禅道を参学するには、音声について廻り色相を追っかけることを切に忌 嫌う。かりに[香厳(きょうげん)のように]音声を聞いて道を悟り、[霊雲(れいうん)のように]色相を見て心を明らめたとしても、それでも、やっぱり[禅者上しては]世の常のことである。[そんな所で満足している人は]とりわけて次の大切なことが分からぬのだ、すなわち禅家たる者は、音声を騎(の)り廻(まわ)し色相を使いこなして、一つ一つのうえで明らかに見て取り、一手一手のうえで思議を絶する働きをするものだということを知らぬのだ。

 それはそうだが、まあ言うてみよ、声が耳のほとりに来るのか、耳が声のあたりに往くのか。たとえ、音響と静寂と二つとも忘れた境地になったとしても、ここに到ってそれをどう説明したものか。もし耳で聞いたら会得しがたいであろう、眼で音声を聞いてはじめて親しいであろう。

無門和尚は言われます---
 いったい参禅修行には、声(音声、耳の対象)に従い色(形あるもの、眼の対象)を逐うといって、環境の事々物々について廻ることが大の禁物である。たとえ声を聞いて道を悟り(香厳の撃竹)、色をみて心を明らめ(霊雲の桃花)ても、そんなことは禅者としては当たりまえのことである。禅僧たるものは、まず真実の自己を自覚して、主体的に声と色とを使いこなして、一事一事に明らかに、一手一手にうまい手がうてる、という境地を知らねばならん。それはそうだが、いったい声が耳のほうへくるのか、それとも耳が声のほうへ行くのか。
 
 かりに心(主観)も境(客観)もともに忘じて(声をきけば、声と我と内外打成一片、ただ天地ひた一枚の声となり)、心境不二の境を体験したといっても、そこのところになると、それをどう説明したものか? もし耳できけば会得はむずかしい。目できいてはじめて、親しくこの間の消息に通ずることができるであろう。
 
  聞くままにまた心なき身にしあれば
 
          己なりけり軒の玉水 (道元禅師)
  耳に見て眼に聞くならば疑わじ
        おのずからなる軒の玉水 (大燈国師)              

 眼で聞くというのは、全身全霊で聞くということです。天地ひた一枚の声になりきるのです。「なりきる」というのは、本来の自己でおることです。「直下無心」です。
 
 ”ずばり無心で聞く ”ということです。「世界恁麼(いんもん)に広闊(こうかつ)たり」という体験の真っ只中から、そのままに聞くのです。おやじがせきをしたら、すっとお茶をもってゆくのです。「因甚麼(いんじんも)」は、問いかけて問うことの要らぬ境涯を得させるための手段に外ならないのです。これが「公案」の眼目です。これを先にも言ったように、「東山下の暗号密令」と言います。「東山」というのは、公案禅の大成者である宋代の禅匠五祖法演のいた山の名です。

 無門は頌(うた)って言うⅠ
  倍ればみんな同じ身内のこと、
  悟らねばばらばら。
  倍らなくても同じ身内のこと、
  悟ってもまたばらばら。

悟れば平等、迷うから差別。迷っていても平等、悟っても差別---、二句はいわゆる「始覚門」で、三、四句は「本覚門」の立場です。悟っても迷っても本来平等、世界は広い、人間本来「自由」(無縄自縛)なのですが、この本覚門の「衆生本来仏なり」の真理も、悟ってはじめて平等の体得という「始覚門」の「修・証」(修行と悟り)があってはじめてその真理がほんとうに体得できるのです。そしてその「平等」の悟り(本覚・本証) の中にも厳として「差別」の働き(妙用・妙修)がなければなりません。「不落因果」 のところが、ただちに「不味因果」です。鐘がなったらただ如法に袈裟をつけて出頭するのです。

以上の引用です。ここで注目したいのは悟りについてではありません。

>かりに心(主観)も境(客観)もともに忘じて(声をきけば、声と我と内外打成一片、ただ天地ひた一枚の声となり)、心境不二の境を体験したといっても、そこのところになると、それをどう説明したものか?<

 声をきけば、声と我と内外打成一片(ないげたじょういっぺん)、ただ天地ひた一枚の声となり

 この感覚的なものが、虫の音を聞く日本人の耳の音感的な感覚性とどのような共通性を見出すことができるのか、という点です。

 共通土台に立っていないと考える方もおられると思いますが、しかし同じ「音」と世界の話として、同じ音の場として、何かを直観的に思うのです。

 それは禅が日本に今日まで時代や異文化の輸入があろうとも続き継承される、日本の風土や歴史的な身体的素養を思うのです。

 それは瞬間の美、未来性を前提においたそのようなものではなく瞬間の響きであるように思います。

 ある面ジャズがその瞬時の形成音であり継続性、未来性はその音の瞬時の感覚の継承で、クラッシックのような未来性の和音を前提にしません。

 また民族的な抽象画これは前衛的な感覚の美ではなく、伝統と象徴的な歴史的な新体制の継続のように思います。

 日本の美を考えた場合民族的な象徴の美も、音も瞬時の何ものかによる形成が根底にあるように思います。

 それは禅における音と少々重なる点があるのではないかと思うのです。

 実にくだらない話かもしれませんが、秋の無言(しじま)に聞こえる虫の音にそう思うのです。

 虫の声は今聞こえ未来には続きません。

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ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」

2010å¹´09月27æ—¥ | ãƒãƒ¼ãƒãƒ¼ãƒ‰ç™½ç†±æ•™å®¤

 ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」が放送されました。

 マイケル・サンデル教授の来日は4回目、今回はNHKの招きで東京大学安田講堂で行われる白熱教室のため、空港での言葉は、

【サンデル教授】
講義をとても楽しみにしています。そして私の希望は、”正義 ”についての対話に参加者が果敢に取り組んでくれることです。大丈夫ですか?

という迎えに来たNHK担当者に対する不安の言葉でした。

 1時間30分の内容でカットされ部分もあると思いますが、昨日の”NHK総合の「増刊 きょうの世界」・いま“正義”を考える~「白熱教室」サンデル教授に迫る~“のブログで語っていた、マイケr・サンデル教授の話のとおりで、私は個人的に実際のハーバード大学で行われている「白熱教室」十分匹敵するような熱い対話形式の講義であったと思いました。


>道徳的に何が正しいのかを無視すれば、社会はとても貧弱なものになってしまいます。社会全体の幸福を目指す「共通の善はなにか」を見出すために徹底的な議論が必要です。<

と口癖のように語るサンデル教授教授、そこには可謬的な謙虚さがみられます。しかし番組でサンデル教授の質問に答えていた若者が一個人として意見が述べられた、機会をもたせてもらったことに感謝していましたが、これは単なる「よかったね」、話ではなく、私の意見を聞いてくれる機会の付与に重要な意味を感じました。


【ナレーター】
サンデル教授は、市場万能主義の行き過ぎに危機感を抱き、公共性や善の概念を重視しています。意見が分かれる倫理的な問題も議論をすることで、より良い社会に近づけると考え対話的な授業を続けています。

【サンデル教授】
学生たちにとって、親しい友人やクラスメート、1000人の前で立ち上がり意見を言うにはかなりの勇気が必要です。


 意見を言うだけではなく、なぜそう考えるのか議論を展開しなければなりませんし、反論を受ける覚悟も必要です。これができるようになれば、社会に出て民主主義社会の市民となって活躍するとき、大きな力を発揮し自信につながると思うのです。

と番組冒頭で語っていました。
 参加者は若い学生ばかりでなく、「ハーバード白熱教室」に感銘した主婦・中年の団体職員・大学職員・看護婦・中には僧侶の姿もありました。国会議員も来ていたのには驚きました。


 民主主義国家においては、人の意見に耳を傾ける非常に重要なことです。今回の日本版は大きな違いがあるように思いました。学生ばかりではなかったという点からではなく、若い人の意見の中に、また会場の拍手の中に、義理や人情の日本的な倫理観を見たような気がしたからです。

 私もそのような意見に拍手したい衝動に駆られましたので、見るような気がしたからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

          

 講義は「正義」についての議論で、正しいだしい社会をつくる意味について考えるものです。

 講義の冒頭でもサンデル教授教授は、日本人の友人に「日本人は恥ずかしがりやで政治的なリベートには参加しない言われた」と言うほどこの白熱教室を心配している様子でした。

          

 しかし1時30分の番組を見る限りとても良い講義であったと思います。今回の日本版のこの「白熱教室」は、時間をかけて自分の意見も織り交ぜながらブログに掲出しようと考えています。

講義は、

○Lecture1「イチローの年俸は高すぎないか?」
○Lecture2「戦争責任を議論する」

の二つでした。


Lecture1では、最終で、
【サンデル教授】

・・・・経済的な不平等について、どのような所得と富の格差が不公正なのか、社会が公正であるためには、生活のどんな点で、どの程度の平等が求められるのか議論してきた。

 この議論から明らかになったのは、こうだと思う。テストで好成績をとった人は、その努力に報いるために入学が許される。という考えを出した人がいた。努力しても入学できない人もいるから違うという人もいた。

そこで出てきた答えは、成績が重要であるべきであり、大学の目的は、お金儲けではなく学問や科学、学術の卓越性を促進し社会をより良くするためだ。新入生の入学枠の売買に反対する議論は、大学の目的は何か、というものに訴えるものだ。

 それはある意味ではアリストテレスの議論で私たちが議論した三つの正義の議論のうちの三つ目のもので、アリストテレスによれば、何が公正であるかを理解する上での唯一の方法は、そのものが果たす目的について考えることであるからである。・・・・・・・

といつもの哲学的な授業らしいくサンデル教授教授はまとめ上げていきます。実に見事な十行の運び方の勉強にもなります。

          

 今朝はこの程度にし、番組の第一印象をまず掲出しました。

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NHK総合の「増刊 きょうの世界」・いま“正義”を考える~「白熱教室」サンデル教授に迫る~

2010å¹´09月26æ—¥ | ãƒãƒ¼ãƒãƒ¼ãƒ‰ç™½ç†±æ•™å®¤

 深夜NHK総合の「増刊 きょうの世界」で『いま”正義 ”を考える~「ハーバード白熱教室」サンデル教授~』という番組(再放送)が放送されました。

 サンデル教授による「ハーバード白熱教室」についてはこれまで多く取り上げてきています。今回は、先月東京大学の安田講堂で行われた「白熱教室特別講義」の内容も踏まえ、マイケル・サンデル教授コミュニタリア二ズムをしっかり理解することができるものです。

 サンデル教授の講義の様子をまとめた著書が哲学書としては異例のベストセラーとなりネットの世界でも多くの方が語っていました。

 サンデル教授は日本のメディアの取材に応じ、多くの雑誌に取り上げられていますが、今回のNHKの番組は、非常に分かり易いもののように思います。キャスターの市瀬 卓さんの質問は、私も質問したい内容でもありました。サンデル教授お人柄でしょうか、優しい語り口はわれわれ日本人にとっても、反省を促される内容を含んでいますが素直に受け止めることができました。

 今回も私情を入れないように番組内容を起してみました。政治哲学の参考になればと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

--サンデル教授の正義について--


キャスター 今なぜ正義について議論するのでしょうか。

サンデル教授 私たち人間が互いに尊重しながら生きていくには、正義は不可欠なものです。道徳的に正しい生き方とは何か。価値観が多様化した今の世の中では、相反する意見があふれています。

そのため私たちの世界をまとめるための原理原則を見出すことが、より重要になってきています。その原則こそが正義なのです。

 私の講義を通して有名な哲学者の理論を学びながら、心の中にある道徳的な考えを見つめ直します。そして自らの信念を構築していくんです。

 これは非常に心躍らせる作業です。これまで抱いてきた信念が崩れる危険もありますがね。

キャスター ハーバード大学で教鞭をとられてきて30年になりますが、学生の意識はかったと思いますか?

サンデル教授 学生は今も昔も正義や倫理といった大きなテーマについてじっくり考えることに興味を持っています。私が教え始めた30年前とどのように変わったか、そうですね、学生たちは昔より市場主義や個人主義的な考えに傾倒するようになってきたと思います。

 市場主義が幅をきけせるようになってきたのは、1980年代、レーガン大統領やサッチャー首相からですね。その後市場勝利主義と呼べるほど、大きく広がりました。しかし、今回の金融危機は、その市場勝利主義に終止符を打ちました。今後どうなるのかわかりません。

 市場勝利主義の後にどんな時代が来るのか、政治的にも哲学的にも非常に興味深いテーマです。


--学生に広がる”実力主義 ”--


キャスター 学生たちは、正義についてどう考えていますか? その考え方は変わってきていると思いますか?


サンデル教授 実力主義的な考えをする学生が増えていますね。学生たちは自分は高校時代に一生懸命頑張った、努力して実力をつけてきたからこそ今の地位がある。という考え方が非常に強いです。

 こうした傾向は社会全体にも見られます。実力主義が深く根付いているんです。しかし、こうした考えは本当に正しいのでしょうか。実力主義が蔓延すると社会的に成功している人たちは、恵まれていない人々を顧みなくなってしまいます。

 だからこの点についていつも丁寧に議論するようにしているのです。私は学生たちを挑発します。君たちが成功したのは、家庭環境や運も影響しているんじゃないか、そして過去の哲学者の理論も取り上げながら様々な見方ができるようにするのです。

 
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【ナレーション 8月25日東京大学安田講堂で行われた「特別講義」でも、サンデル教授は学生たちの意欲をかきたてる挑発的な質問を投げかけました。議論がもっとも紛糾したのが、「所得の格差」の問題でした。
 一郎選手がビルゲイツなど巨額な収入を得ている人たちに、一般の人よりも高い税を治めさせることは本当に正義なのか、学生たちに問いました。】

サンデル教授 貧しい人たちを助けるために国家権力を使って一路用やビルゲイツが稼いだ収入の多くを税金として取り上げるのは正しいと思うか。

          

学生A それは市場が決めて、市場にいる人間が彼に対してお金を払ったのだから、それは適正であり、国家はそれに対してさらに再分配するように彼に強制することは許されないと思います。

サンデル教授 君はリバタリアン(自由至上主義)かね。

学生A はい、自分はリバタリアンだと思っています。

サンデル教授 リバタリアンの中には、税金は個人の自由を抑圧する不当なものだという人もいる。彼らにとって一番優先されるべきは個人の権利、個人の自由だ。

 自分の財産をどうするかは、自分で決める権利がある。リバタリアンはそう信じている。その信念は非常に強い。余りのも強いのでたとえ貧しい人を助けることであっても、国家が人々を強制し、税金を払わせることは間違っていると考えているのだ。


【ナレーション 議論を通じてサンデル教授教授は、個人の権利や自由を重んじるだけでなく、道徳的に正しい道を考えることも大切なのだ、と気づかせようとします。】


サンデル教授 最も理想的な生き方とは、どんな生き方だろうか。私たちはどのような人間を尊敬すべきなのだろうか。そしてどのような資質が賞賛に値するのだろうか。アリストテレスによれば、何が正しいのか理解するためには、まず善について考える必要がある。

 社会にとって善とは何かをはっきりさせない限り、どのような権利を重んじるべきなのか、そして正義とは何かを決めることはできないのだ。

【ナレーション サンデル教授が主張する、道徳的に正しい善良な生き方とはどう言うものなのか、さらに追及することにしました。】

キャスター あなたは善について話しました。権利や自由を優先するばかりではなく、社会全体が幸福になることを目指す「共通善」を目指すべきだ。これは、どういう意味ですか?

サンデル教授 私がこれまで一貫して主張してきたのは、道徳的に正しいとは何かということを定義することが、非常に重要なことだということです。そうしないと個人の権利や自由ばかりが優先され、意見の対立をのり越えることはできないのです。

          

 政治の世界おいてもこの問題は避けて通れません。道徳的に何が正しいのかを無視すれば、社会はとても貧弱なものになってしまいます。社会全体の幸福を目指す「共通の善はなにか」を見出すために徹底的な議論が必要です。

 もちろん意見の対立はあるでしょう。しかし、相手の意見に耳を傾け、対立を乗り越えることができれば、よりすぐれた信念を持つことができるようになるでしょう。それが民主主義をより健全にするのです。民主主義は市民が投票をすれば成立するというものではありません。民主主義の本質は市民が「共通善とは何か」について共に議論をすることなのです。

キャスター しかしそれはある意味理想主義ではありませんか。私たちは日々、様々な決断をしなければなりません。「共通善とは何か」という総論について意見が一致したとしても、個別具体的な問題については合意できないかもしれません。

サンデル教授 確かにある意味理想主義的だと思います。しかし民主主義社会の根幹にあるのは、正に人々を幸福にしようとする理想主義なのです。残念ながらほとんどの国で、未だその理想は実現できていません。社会を揺るがす政治家の汚職やスキャンダルが、後を絶ちません。

 そのような脆弱な民主主義に満足してはいけないのです。民主主義と道徳的に正しいこと重要であると捉えるのなら、一定の理想主義は必要です。そして高い目標を掲げ、より良い社会も目指す政治が求められます。その実現に哲学が貢献できるのです。

 哲学は哲学者のだけのものではありません。社会の理想的な在り方を考えるための大事な道具なのです。

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【ナレーション 多様な価値観を持つ人々が共に暮らす現代社会では、何が道徳的に正しいのかについて合意するのは容易ではありません。その厳しい現実を突きつけられる出来事が今アメリカニューヨークで起きています。

同時多発テロで崩壊した世界貿易センターの跡地に、イスラム教徒の礼拝施設”モスク ”が建設されることになりました。

テロで殺された人たちの遺族や近くに住む住民なのだが、これに強く反発、宗教の自由を重んじるアメリカで賛否両論の激しい対立を引き起こしています。サンデル教授はどのように見ているのでしょうか。】

キャスター ニューヨークで起きているモスクの建設問題では、イスラム教徒とキリスト教徒とが激しく衝突しています。文明の衝突とも言われていますが、この対立をどのようにのり越えますか?

サンデル教授 同時多発テロの現場の近くにモスクを建てるべきかどうかの論争は、二つの問題を浮き彫りにしています。一つは宗教の自由の問題です。オバマ大統領はイスラム教徒にも他の宗教の信者にも宗教の自由が平等に認められるべきだと述べています。

          

 もう一つの問題は、テロで亡くなった方々の遺族の気持ちを尊重しなければいけない、ということです。こうした問題を解決するためには関係者が参加してみんなで話し合うべきだと思います。しかし明らかにイスラム教徒にはマンハッタンに礼拝施設を建設する権利があります。これは宗教の自由の基本的原則で保障されているからです。

 宗教の自由という基本原則を守らなければ、危険な事態を招くことになると思います。モスクの建設に強く反対している人々は、アメリカとイスラム社会の間の憎しみを増幅しようとしているオサマ・ビンラディンに力を与えていると言えるでしょう。

 そうなればテロリストの思う壺です。オサマ・ビンラディンを増長させることのないように注意しなければなりません。彼は、文明の衝突を望んでいるのですから。

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【ナレーション 異なる価値観を持つ外国の人々と議論する上において私たち日本人にとって大きな課題となってきたのが、広島・長崎への原爆投下の問題です。原爆投下から65年を迎えた今年、アメリカののルース駐日大使が初めて広島の平和祈念式典に参列しました。広島への原爆投下をアメリカ人であるサンデル教授は、どう受け止めているのでしょうか。】

キャスター 政治的にまた哲学的に考えて広島への原爆投下は、正しかったと思いますか?


サンデル教授 アメリカの駐日大使が初めて式典に参列したというのは、とても良いことだと思います。オバマ大統領がこの問題に本気で取り組もうとしている表れだからです。本当に広島を訪問する意思がオバマ大統領にあればそれが彼が原爆投下が間違えだったと考えているということであり、和解に向けた第一歩となるでしょう。

          

 一方日本側にとっては、原爆投下を招いてしまった戦争責任の重さを改めて認識する機会となりはずです。歴史的な過ちは、双方に責任があると私は考えています。ですから最善の解決策は双方が謝罪し、和解に向けた対話を始めることだと思います。

キャスター しかし原爆投下を正当化できますか?

サンデル教授 それは難しい質問ですね。原爆投下は広島の市民にとっては、明らかに不当な行為です。しかしその結果、日本は本土決戦を免れ、日米双方で何百万人もの命が失われずに済んだとも言われています。その重みも考えなければなりません。

 これは非常につらい痛みを伴う問題です。私には明確な答えはありません。日本もアメリカも大きな過ちを犯しました。しかしそれを素直に認めることは容易ではありません。なぜならば我々は皆・・・歴史のしがらみを背負って生きているからです。

 まず日本とアメリカがすべきことは、歴史的なしがらみを拭(ぬぐ)い去(さ)ることです。そして相互に謝罪し、和解することが重要だと思います。

キャスター 私たち日本人にとって個人の権利や自由という概念は、外国からもたらされたものです。伝統的な日本社会では、重要視されませんでした。日本人は和を尊び、社会全体に利益を重んじてきました。その点ではあなたが主張する「共通善」と似ていると思います。あなたは東洋的な考え方に影響されたのですか?

サンデル教授 私の考え方は西洋の思想と東洋の思想の橋渡しになっているとよく言われます。西洋では個人の権利や自由が重視され、東洋では共同体の利益が重んじられます。

          
 
 しかし、誤解しないでください。私は個人の権利は大切だと思うし、自由に反対しているわけでもありません。両方とも非常に重要だと思います。しかし私が言いたいのは、社会全体が幸福になるにはどうすればよいのか、それを議論することが重要だということです。

 そうしなければ、どのような権利が大事なのか定義することができないし、自由の価値もわかりません。

【インタビューの最後、サンデル教授は経済が低迷する日本の現状について語りました】

 サンデル教授 日本は世界二位の経済大国から七位に転落しましたが、経済力の順位はそれほど重要なこととは思いません。重要なのは人生を生きる価値にすることです。国民が幸せであること、民主主義が健全であること、そして社会が健全であることが一番大切なのです。

 いま日本は失われた自信を取り戻すいいチャンスだと思います。経済は低迷しているものの政治的な問題について活発な議論が行われているように考えます。そうした議論を通じて社会にとって何が最も大事なのか、あるいは人生を価値あるものにする為に何が必要なことなか、といった根源的な問題にみんなで取り組むことができると思います。

 これまで政治的な議論は、経済的な議論の脇に押し付けられていました。だから中身のない議論がくり返されてきたのです。これは先進国どこでも似たようなもので決して日本に限ったことではありません。

 日本にとって今は、より良い政治を見出すための絶好の機会かもしれません。活発で健全な民主主義を作り上げることができれば、それは大きな自信にもつながるでしょう。そして経済大国としてだけではなく、他の分野でも国際社会にさらに大きな貢献ができるようになると思います。

 国家や国民の自信というものは、経済だけで作られるものではありません。私たち一人一人がもっと積極的に民主主義者に参加しなければならないのです。重要な問題について公の場で議論し、自分と異なる意見に耳を傾け、問題を克服して行く、それこそが国家や国民が自信を持つために不可欠なプロセスなのです。

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<おわりに>

市瀬キャスター 現代社会は、個人の権利や自由ばかりを強調するあまり、道徳的に正しいかどうか、という根本的な問題を置き去りにしてしまったのではないか、サンデル教授の問い掛けは、そこにあります。

          

 人々の価値観が多様化して、進路を見失いつつある今だからこそもう一度「”正義 ”とは何か」ということを問い直すことで、私たちが目指しているより良い社会、世界が見えてくるはずだ。その挑発的な問い掛けに多くの人々が共感しているのではないでしょうか。
 
 「”正義 ”とは何か」たとえ意見は食い違っても積極的に議論に参加して議論を深めて行く、白熱教室は私たちも身の回りから始めることができそうです。

【ナレーション 東京大学で行われた”白熱教室の特別講義 ”、その最後にサンデル教授は、日本の若者たちに熱いメッセージを送りました。】


サンデル教授 より良い社会を造るには、どうしたらいいのか、その答えを出すのは容易ではない。いくら議論しても意見が合わないのにわざわざ話し合うのかと投げやりになることもある。ある意味それは本当だ。

 哲学は実に難しい。しかしあきらめないでほしい。熱い議論を交し互いの主張に耳を傾けることで必ず何か新たなものが生まれるはずだ。議論することこそが、私たちが社会に参加する為の最善の方法なのだ。

 それはこの安田講堂の外でもできるはずだ。「”正義 ”とは何か」こうした大きな問題に取り組むのは、哲学者だけの仕事ではない。みんなも是非力を貸してほしい。

どうもありがとう。

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以上の内容です。今夜のNHK教育PM10~PM11・ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」が放送されます。

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弘法山古墳・風景

2010å¹´09月25æ—¥ | é¢¨æ™¯

 今朝はブログアップ後、この頃仕事が遅くなり針治療ができなかったため、松本市の治療院へ行きました。7時30分からですが道路が閑散としていたため20分には到着、10ほど早いのですが、さっそく治療をしていただきました。

 極端な肩こりではないのですが、治療費ただに甘え全身しっかり針を打ち、身体が整ったところで、久しぶりに近くのアルプス公園に出かけ、その後松本市の南西の中山丘陵という小高い丘の北側突端部にある弘法山古墳に登りに行きました。

                   

 アルプス公園からは、少々雲がかかった常念岳を中心に北アルプス連峰が一望できました。

 弘法山古墳は、昭和49年ごろ教育施設を造る計画で遺跡保存のため発掘調査を行ったこところ大型古墳が現れ、詳しく調査すると東日本でも古い3世紀末に造られた古墳であることが分かりました。

                   

 現在は、国の史跡指定を受け保存整備されています。古墳の形は方形を前後に合わせた前方後方墳で、全長が66メートル、遺骸は後方部中央の竪穴式石室の埋葬され、その内部から半三角縁神獣鏡等の副葬品が発見されています。

                   

 古墳からは、眼下に松本平から安曇野平が広がり、南には木曽谷の入口、南西には上高地・安房峠に至る入口が見えここからも遠く北アルプス連峰がよく見えました。

                   

 年代的には卑弥呼の時代です。そんな時代にこの小高い丘の上に大きな古墳を作った人々がいて、今は街並みになっていますが、古代は竪穴住居や田畑があったのでしょう。


検察官の理性・訳無・暗

2010å¹´09月25æ—¥ | å“²å­¦

 大阪地検特捜部の証拠改ざん行為、沖縄地方検察庁の中国人漁船船長釈放という突然の行為など検察庁の愚行が続き、行政行為の透明化の一連の流れの中で、取り調べの可視化という、治安維持においては不の行為とも思われる制度が完全実施にならざるを得なくなる状況になってきました。

 これまでも一部の無罪判決により、取り調べにおける違法性が問いただされ、取り調べの可視化の完全実施の流れが、強行犯を対象になされていましたが、これからはつまらん事件もその対象になるのは必至の状況となりました。

 これもすべて取調官である検察官、警察官個人とその取調官の周辺の組織的な愚行からのものでした。

 ルソーは、その著書『人間不平等起源論』という中で次のように語っています(『世界の名著 ルソー』p218から)。

 自尊心(虚栄心)と自己愛とを混同してはならない。この二つの情念はその本性からいってその効果からいっても、非常に違ったものである。自己愛は自然の感情であって、すべての動物をその自己保存に注意させ、人間においては理性によって導かれ、あわれみの気持によって導かれ、人類愛と徳とを生み出すものである。
 
 自尊心は相対的で人工的で、社会のなかで生まれる感情にすぎず、それは各個人に自分のことを他のだれよりも重んじるようにさせ、人々がお互いのあいだで行うあらゆる悪を思いつかせ、また名誉の真の源なのである。

 ルソーのこの言葉は、実に言えてるように思います。世の中には自尊心が高い、プライドが高いといった方が分かり易いかもしれませんが、こういう人種が多くいます。検察官はその最たるものかも知れません。

 今朝は検察官批判はこのくらいにして、エミールの言葉の中にある「人間においては理性によって導かれ」の中の「理性」という言葉に注目したいと思います。理性という言葉をこれまでにカントの自律という概念とともに語っていますので、今朝は志向性の方向を日本語に向けたいと思います。

 明治期に作られたこの「理性」という言葉、いったいどんな言葉で表現していたのでしょう。「理性的であらねばならない」と今では誰でもそうい言う表現をし、説諭的なことを語ります。

 理性とは、「物事を筋道だてて考え、正しく判断する能力」は言われ、日本語の辞書にはそのように書かれています。

 ここ意外に思われる方も思われるかもしれません。もう少し理性には「人間愛」に裏付けされた言葉が含まれているのではないかと・・・・・。

 ここで中山元先生の『思考の用語辞典』(ちくま学芸文庫)の「理性」の一部の解説を紹介します。

理性

 ラテン語系の「理性」という語には比率、計算という意味がふくまれる (reason,raison←ratio)。そしてドイツ語の「理性」には、ききとるという意味がふくまれる(Vernunft←vernehmen)。それぞれ深い意味がある。ラテン語の語源→ratioからわかるのは理性がひとつの尺度だったこと、「計算する理性」という性質をもっていたことだ。
 
 理性には「数学性」という要素がふくまれる。たしかにギリシアの時代から、数学は理性にとってひとつの模範的な学だった。ふとみると無秩序にみえるもののなかに、ひとつの調和と法則をみいだすⅠ数学みたいに。それが理性のだいじな課題だし、機能だった。

 これにあたらしい要素をつけくわえたのがキリスト教だ。この宗教は人間の原罪という考えを導入することで、世界を不透明なものにした。もう人間はそこに、調和と法則をつけるカをなくしたようにみえる。かわりにつたわるのは、啓示としての神のことばだ。これは目にみえるというより、耳にきこえるものだ。「理性」 のドイツ語にふくまれる「ききとる」という意味は、この文脈につながる。

と解説されています。
 
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 ここでさらに視点を日本語の古語の世界に進めます。古語の辞典を調べると「理性」に相当する言葉は、

○ わけもなし[訳無]
○ くらむ[暗]

の二語が出ています(三省堂 古語類語辞典)。
 何じゃこりゃあ!の世界に落とされます。これを古語辞典で見ますと(今朝はベネッセ使用)。

わけ-も-な・し【訳も無し】[連語]
① 筋が通っていない。道理が立たない。
② 理性がない。正気を失っている。

くら-む【暗む・眩む】
1[自マ四]①暗くなる。②目が回る。③理性を失う。判断力ななくなる。
2[他マ四]くらます。隠す

となっており、確かに「理性」という言葉が使われています。

これからすると「わけもなし」(訳無)の方が目がくらむよりも近いような気がしますが、

訳無・暗=理性

ということになり、明治の学者がどんなに苦労したかがよく理解できます。

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 今朝は、検察庁、検察官の愚行から「理性」という言葉をを取り上げ、日本語の古語の世界に入り込みました。

 理性的でないものを主に日本人は言葉として表現し、当たり前のことは当たり前のこととしていたようです。筋道がしっかりしている、心情的に違和感がない共有の場での行いならば、あえて言葉にしないが、これに反するものである場合には言葉にしたようです。

 愚行者は、暗く、姿をくらますのが本来の姿。そういうことに日本人は決めていたようです。

 しかし現代社会では、自尊心・虚栄心がそうさせるのか堂々としています。不本意な借金を苦に自殺する人もいれば、多額の脱税をしても平然と生きる人間もいます。

 いつからこんな日本になってしまったのでしょう。ということ早朝から悲憤慷慨して「理性」を説いてみました。

 「理性」=「仏心(ほとけごころ)」と思った人がいいたならば、私は好きです。

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虫の音がわかる日本人・角田忠信

2010å¹´09月24æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

 秋分の日を境に本当に秋らしい涼しさというよりも一段と肌寒う機構になりました。稲刈りも安曇野平はほぼ終了、これからは新米の季節、味覚の季節となります。

 夜になると虫の音が何かしっかり聞こえるようになりました春先の蛙の声、真夏の雷の音、秋は虫の音は聞こえます。

 昨日は、音が匂う話をしました。音といえば昨日は言及しませんでしたが角田忠信先生の『日本人の脳』が、比較文化論の中でも有名ですが、もう30年以上も前の話であることをその著書を再読し知りました。

 今朝は話の種本ということで、この著書から、虫の音と日本語の特殊性について、耳鼻科の医学者餌取章男先生とのた上部分を紹介したいと思います。

<引用>

虫の音がわかる日本人

餌取 秋に虫が鳴くのを意識して聞くというのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。

角田 ええ、中国人にさえ通じないようですよ。

餌取 そうしてみると右半球・左半球の分かれ方のお話は、日本人だけが特別なのですか・・・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれるのではないのですか。

角田 私がいままでに調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人達・・・・・インドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人にみられるような型は示していないようです。

餌取 欧米と同じパターンですか。
角田 ええ。私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。

餌取 そうすると、日本人固有というわけでしょうか。
角日 そうですね。
餌取 どうして日本人にだけ、そんなに特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角申 それはやはり、母音の扱い方の違いだと思いますよ。

 
日本語の特殊性

餌取 考えてみれは、たしかに日本語は母音主体のことばですし、それに比べて英語などは子音が主体ですね。
角田 速記術の場合なども、英語では母音は省いてしまう、それで充分わかるそうです。日本語だったら子音だけではまるで意味をなさない・・・・・。それから、よく考えてみると、アイウニオそれぞれに意味がある。あ、しまった! とか、あ、いけない! という形のア、井や胃のイ、鵜の鳥のり、絵と柄などのエ、尾のオ・・・・・これは他の国の言葉にはない、特殊な事情ですよ。たしかに朝鮮語にイ、というのがあったのでしたが・・・・・。
餌取 なるほどねえ。それをうかがってみると、イタリア語などが音節などは日本語に似通っているとしても、やはり意味づけという点からは全く違いますね。
角田 イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などは、発音の面ではよく似ているように思って興味をもって調べてみましたけれども、全部違いました。
餌取 母音主体ではあるけれども、その母音の一つ一つが意味を持っていることばではないわけですね。
角田  したがって日本人の脳だけが、母音に対して特殊な反応形式を示すと考えられます。ですから面白いですよ。いろいろ実験してみますと、動物の声のようなものはみんな左側にいってしまうんです。けれども楽器の音のように整然としたものは右側へいきます。これはどうも脳幹にあるスイッチのような機能の作用らしくて、日本人以外では、そのスイッチの作用の仕方が違う・・・・・。
餌取 日本人のスイッチは感度が大変敏感で、西洋人などでは右側にやってしまうような音でも拾い上げる・・・・・。
角田 そうですね。厳密に音節単位のものでなければ拾わない・・・・・単純な音の場合には右側に入れてしまっていますからね、西洋人の場合は・・・・・。自然界の音などは、楽器や機械音と同じように無意味音として処理されます。
餌取 見方によっては、西洋人のほうが、論理的なものを非常に厳しく選別しているともいえますでしょう。そのへんが、日本人は感覚的で西洋人は論理的だ、という点につながってくるのかもしれませんね。
角田 そうですね。よくいえば情緒的、感覚的、わるくいうならば感情的・・・・・。
餌取 論理的でない・・・・・。
角田 しかも、教育を受けたから論理的になる、というものでもないのです。その分野だけは論理的になりますけれども本質は変らない。

以上が『日本人と脳』(大修館書店)に書かれている有名な部分です(p16~p19)。

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 これとは少し違う話なのですが、現在進行中の領土問題にかかわる中国人の反応、そもそも共産主義などという偏狭思想を植え付けるために日本を徹底的に悪の根源のように国民に植え付けてきた、一つの洗脳教育の結果のように思います。

 中国の国民に心の耳を、日中の政治家に心の耳を持ってもらいたいものです。

 彼らの耳を向けさせ対話の世界へと思うのですが、政治家の好きな「話せばわかる」論なぜこのような時に展開しないのでしょうか。そういえば最近福島代議士の顔をほとんど見なくなりました。

 音は消えますが、心までは消えないのが、日本人の音の世界のように思えるのですが、私だけの思いなのでしょうか。

 今朝は、私だけが思っているのかもしれませんが、有名な角田忠信先生著書から「虫の音がわかる日本人」「日本語の特殊性」を紹介しました。

 知らないよりは、知っておいた方がよい30年前の話です。

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音の風景とは何か・やまと言葉・万葉集・にほふ

2010å¹´09月23æ—¥ | ã“とば

 音の風景というと何か懐かしさを覚える。NHKラジオの深夜にそんな番組があったような気がします。ステレオが出始めたころ機関車の音、夜行列車の音などに耳を傾けその情景を想像したことを思い出します。

 「音の風景とは何か」万葉の言葉、やまと言葉の世界と重ねて語りたいと思います。語るといっても私の場合は、第三者の言葉を引用し、直観の世界を語るタイプですので今回もその手法で語ります。

 NHKブックスにちょうど『音の風景とは何か』(山岸美穂・山岸健著)があり、その中に次のように書かれていました(同書P207~p208から)。

耳が触れた世界
 見ることに目が奪われてしまい、見ることに熱中しているときには、耳がおろそかになりやすいのではないだろうか。漂い流れてくる匂いもある。目を閉じながら、コンサート会場で音楽に耳を澄ますことがある。注意力を集中させるためには、いろいろな工夫が必要だ。目で見て確かめることを方法としたのはゲーテだったが、手で触わって確かめる方法があるし、耳に大きな信頼が寄せられることもある。日常性のなかに埋没してしまっていて、ともすると私たちが忘れがちになっているのは、目なのだろうか、耳なのだろうか。それとも手なのだろうか。

 いたるところでさまざまな音がほとんど常時、体験されてきたのである。人の話し声に交じって、なんと多種多様な音が、私たちの耳に触れることだろう。そこで人と人との触れ合いやいろいろな人間関係が体験される人間的世界、社会的世界では、さまざまな音のなかから特別に浮かび上がる状態で私たちの耳に触れるのは、人間の声ではないかと思う。

 人間には自分自身の支え手となってくれるような信頼できる相手が必要だ。たがいに向き合いながら、声をかけ合いながら、ときには同じ方向に∧まなざし)を注ぎながら、誰もが相互的な支え手として、人生の日々を築き上げつづけているのである。日々の生活は、音の世界での出来事でもあるのである。生活の」首と呼ばれるようなさまざまな音もある。

 耳において理解されて、耳からスタートして体験されるような風景がある。音の風景において浮かび上がるような色や色調もある。明暗もある。音の肌ざわりがあるということもできるだろう。

つややかな声もある。さまざまな音によって生み出される雰囲気もある。音の効果がある。音に注意したときに体験される世界の微妙な表情がある。

 感性をしなやかに磨くためには、音体験の意義についてもあらためて注目しないわけにはいかないだろう。人間の目は、目にしたものによってかたどられるとゲーテはいったが、同じことは、耳と耳に触れた音についてもいえるだろう。耳を荒廃させてしきフわけにはいかないのである。音の壁の前で耳を枯死させてしまうわけにはいかないのだ。耳の衰退は人間にとつて軽視されてはならないことだと思う。

文頭に「見ることに目が奪われてしまい、見ることに熱中しているときには、耳がおろそかになりやすいのではないだろうか。漂い流れてくる匂いもある。」という言葉があり、「音が漂い流れる」という感覚に惹かれます。

そもそも「匂う」という言葉はやまと言葉で古語です。「匂ふ(にほふ)」というやまと言葉は、「丹(に)の赤色」に由来し、古代は色も漂う感覚の内にあることはこれまでもブログで紹介しています。

 古語辞典では、一般的に次のように解説されています。

 にほ・ふ【匂ふ】互相
「に」は「丹」で赤い色、「ほ」は「秀・穂」で抜きんでて現れることで、これに「ふ」を添えて動詞化した語。
 「にほふ」はもともと視覚に関する語であり、嗅覚、臭覚に関する語は「かをる」であったが、やがて両者とも視覚・臭覚の両義をもつようになり、中世以降、むしろ「にほふ」が多く臭覚に関することに用いられるようになった。


 このことを念頭において、次に万葉集歌を一首紹介します。

 このところ万葉集の話から遠ざかっています。そういう意味で万葉集歌について話すのではありません上記の音の世界の流れの中でのことですが、このNHK『日めくり万葉集』は今も時々放送されています。紹介されています。

 今日紹介する詩は、3月29日に放送されたもので最近再放送され、それを観て思い出したことがあるのでそれを書こうと思います。

          
 
 歌は、かの有名な小野老(おのの・おゆ)巻2-328

 あおによし
 奈良の都の
 咲く花の
 にほふがごとく
 今盛りなり

 知らない人はいないほどに有名なこの歌を紹介されたのは、平城遷都1300年の歌を作った音楽家谷村新司さんでした。谷村さんは番組の中で次のように語っていました。

         

 1300年前、僕らが思うほど文明が遅れているわけではなく、ひょっとすると今より、国際交流がもっと頻繁だったのではなかったかと思います。

 それで平城京にも、いろんな国の人たちであふれていて、そこでは必ず詩や音楽や踊りが、鳴り響いていた。

 

 谷村さんは、父親が奈良出身であることから、小さい時からこの歌に親しんできたということです。

          

 「にほふがごとく 今盛りなり」の「にほふ」というのは、例えば花の香りも匂うのですが、僕は音も匂うと思うのです。音も咲くし、咲き誇るし、人も咲き誇ると思うし、そしてすごくイメージが明るいのです。色彩ももちろんですが、光にあふれている。

 奈良の都をイメージした時に、世界中いろんな人たちが集まってきて、そこで人が咲き誇っている。そういうイメージができた時に、この歌のもっている「あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく」・・・・「咲く花」というのは人々が人そのものだった。人が咲き誇っていた。そういう理解ができるようになった。そこからこの歌への感じ方が自分の中で変わった、というか、感じるようになりました。

           


 谷村さんも音が「にほふ(匂う)」と表現しています。従来の解釈は「にほふ」は色まででしたが、このように「音の風景」に「匂い」があるのです。私も実にそのように思うのです。

 奈良の都は、人々の行きかう雑踏の音があり、花々の色とりどりがあり、それぞれが匂う。歌をそのように読むと本当に1300年前の奈良の都が見えるようです。

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