思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「マスカラまつげ」とエックハルト

2008å¹´02月29æ—¥ | å®—æ•™

 最近のいろいろ興味を引かれるものを列記すると先ず、2週間ほど前の朝日新聞の記事である。やまと言葉を初めとしかつての古代研究の欲求が湧き出てきて関連のある生地が目に留まるのである。

 その記事は、社会面コラムで人骨に含まれるミトコンドリアDNAの研究成果の話であった。この中で聖マリアンナ医科大学の平田和明教授(形質人類学)の「古い時代から現代にまで列島の日本人は遺伝的に連続して可能性が高いことが裏付けられた」とのコメントがあり、さらに小見出しには「縄文人・弥生人の融合が進む」と書かれ時代ごとの日本列島に住む人々の融合が語られていた。思うにそれは征服という力関係からみれば、弥生人が縄文人を包み込みながら現在の日本人を形作ってきたのである。

 文化とはなんぞやという定義めいたことは別にして、文化面から見れば縄文文化は、弥生文化に包まれながら、またその後の渡来人文化、遣隋使、遣唐使のもたらした文化的知識などが時代という流れの中で日本文化が形作られてきた。
 そんなことを考えながらミトコンドリアDNAを頭の片隅において置いたところ、また最近、産経新聞の日本人解剖第3章ルーツ「試行私考」というコラムが目にとまった。

 このコラムには「縄文語」を研究されておられる崎山理滋賀県立大名誉教授と小泉保元大阪外語大教授の研究成果が掲載されていて最後にコラム担当者が次のように語っている。

 崎山教授と小泉元教授の研究は、地名や方言と言った形で縄文語が現代日本語に受け継がれているという点で一致する。現代日本人が、縄文人のミトコンドリアDNAやY染色体を受け継いでいることを実感させてくれる見解だ。

というコラム担当記者のコメントが書かれていた。
 このように古代人に関わることに気が引かれていると、今度は全く異なることに遭遇した。何気なく古書店のある神学者の本が目に留まった。すでにお亡くなりになっている方であるが、名は有賀鐡太郎という方である。

 題名は、「キリスト教思想における存在論の問題」という創文社から出されている本である。索引を見ていると以前にこのブログ

 直感の人マイスター・エックハルト
 ルカによる福音書第10章38節から42節
  直感の人マイスター・エックハルト(2)
  唯一と信仰そして火花
 マイスター・エックハルト(3)
 こころの時代~宗教・人生 鎮魂の模型船・戦没船乗員遺族の思い

で書いたことのある「マイスター・エックハルト」という中世ドイツのキリスト教神秘学者が出ているではないか。早速購入しその中の「第三章 エックハルトにおけるesseについて」という中の次の文章が印象に残った。

 神の超越性はしかしながら霊魂の表面からは隠されているが、本来霊魂と無縁なものではない。それは却って霊魂の奥底においてこそ見いだされ、自覚されるものなのである。エックハルとにとって、霊魂の深淵にまで掘り下げることが、とりもなおさず神に到る道である。それはシャンカラの道(われ〔このアートマン〕はブラーフマンなり)に通じる。両者はともに「内なるもの」と「外なるもの」とを対比させる。究極的なもの、いとも純粋なものは心のうち深くに隠されている。そこにこそ真の自我がある。そのうちなる自我へと、それを囲む防壁を破り内庭を通過して突き進むことがわれわれ人間の任務である。アートマン、または霊魂、とは正にそのようなものでなければならない。神が言表を越えたものであるがごとく、霊魂もまたその根底において言表を超えたものである。それをエックハルトは霊魂の基底、火花、シュンテレシスと呼んでいる。それは「内なる第三の天」である。そこに神の生命は花開き、神の泉は湧き出ずる。そこには神の隠れ家がある。そこに神はその永遠の言葉を出して、霊魂との語らいに入りたもう。もとよりこの真に自我は一般に自我と考えられているものと峻別されなければならない。それはいわゆる「我」ではなく、一切の我執を去ったところにこそアートマンはかがやき出るのであり、そこでは知りものも、知られるものも、また知ることもない。シャンカラにおいてもそうであるように、エックハルトにおいても霊魂の根底においては一切の差別は消え、主観もなく客観もなくなる。それは完全に一であり、従って一者である。エックハルトによれば、霊魂はそこにおいて本来の「貴人」、セラピムやケルピムよりも高く、被造者を遙かに引きはなした驚異に値するものとなる。

とインドのシャンカラとエックハルトの共通点を語っている。ここで改めてエックハルトが興味の中心になるかと思っていると、2月26日夜「爆笑問題のニホンの教養」に京都大学の宗教学者カール・ベッカー教授が登場し爆笑問題と熱い語らいがなされていた。

 太田光さんというコメディアンは、中沢新一さんとの語らい「憲法9条を世界遺産に(集英社新書)」の中でもユニークな発想をしていたので興味をもっていたが、この番組でもそのユニークな発想に驚かされた。
 それはドリカムの「マスカラまつげ」という曲の中の「こっちを見ない あたたはだあれ?」という歌詞から刹那消滅と思しきことを語る部分である。

 「恋人同士の二人。いつものなら笑顔で見つめてくれたのに、まったく同じ場面なのに、今は振り向いてもくれない」という雰囲気の歌であるが、その「振り向いてくれないあなた」というものは、主人公にとっては死んでいる人とまったく同じではないか。また人は昨日とは異なる話をする。すると昨日のその人は死んだことにはならないか。と考えると人は毎日死んで毎日つくられる。死の間際だけを特別視することはないのではないかという主張である。

「マスカラまつげ」から刹那消滅を発想するなんてなんとユニークであろうか。
 この発想は、自分にとって実に火花であった。
         


「しきり」「世間」とやまと言葉

2008å¹´02月24æ—¥ | å¤ä»£ç²¾ç¥žå²

 空間、場所の論理、コモンセンスの境、無分別智などが頭の片隅に置き、「しきり」の文化論(柏木博)、「世間」とは何か(阿部謹也)」「あいだ」(木村敏)、「場所」(上田閑照)、思考にふけると現象学の視線(鷲田清一)の日常と非日常も含め読み進めていると「ある種の線引き」「あちらとこちらの線引き」ということが気になってくる。

 たまたま今夜のクイズ番組を見ていると「冠婚葬祭」のクイズが行われていた。その中で「葬儀とは、この世とあの世の境目」という話があり「赤飯」は、穢れを祓うものであるからお通夜に出しても不謹慎ではないということであった。

 「この線引き」という個々の判断を考えると哲学的、現象学的な論理的な思考の世界に陥るが、最近「やまと言葉」も頭の片隅にあるので、この問題に対して「日本語」という方面に思考が進んだ。

 別に結論を出すような話ではないのだが、メモ的に記録しておきたい。
 「しきり」という柏木先生の「しきり」だが、本の主内容に関係なく、このことばに興味をもち現代語の辞書を調べると「しきり(仕切り)」ということになる。中国語の辞書では「仕切」という言葉はなく「隔」という言葉が該当する。

 古語辞典では、「しきり」という語は、「頻りに」という「しきる」という言葉の連用形から発生した語しか出ていない。
 「頻りに」の意味は、「絶えず。繰り返し。たびたび。むやみに。異常に。ひじょうに。」などの意味がでてくる。

 この意味だと「仕切り」には程遠くなるので、他の古語を調べると「引き隔つ」という言葉が意味的にも近い言葉であることが分かった。
 この「引き隔つ」の意味は、「さえぎる。隔てる」で用例を見ると「御几帳をひきへだてたまひければ、女御例ならずあやし、とおぼしけるに(枕草子)」現代語訳「帝が御几帳を立てて女御との間を隔てになったので、女御が、いつもと違ってへんだ、とお思いになったところ。」となっていた。

 御几帳となると以前言及した「壁代(かべしろ)」と同じように西洋的な現前と固定した「壁状」のものとは異なり、壁という「遮る」「隔てる」という働きの面では同じだが、完璧に空間を遮断するという面では、あやふやな「日本語的」な面が見えてくる。しかし、日本人としてはそう言われれば思考の時間経過かとともに「あやふや」とも思うが、瞬間のそのときは決して「あやふや」という心の動きはない。と思う。

 次に世間体の「世間」という言葉だが、これは仏教用語で古語辞典にも掲載されており、現代中国語でも「世間」である。
 古語辞典で用例を見ると「生死の無常を観じ世間の受楽をを厭ひて出家し給ふなり」(今昔物語)などがある。用例からすると世間は、出家するか否かと、心もちはっきり区切りがある。

 世間に近い古語として「空蝉、現身」「うつせみ、うつそみ」がある。このことばは「やまと言葉」であり「うつ」は以前にブログにも書いたが、「写す、映す、移す」の「うつす」と同じ意味を成し「本質は変わらない」移動、転写の動的状況を言葉にしたものである。そこには異なるものだが、同じに把握する「あやふや」な心の目が見え隠れする。

 2月22日付けの読売新聞に日本の知力というコラムに「言葉を生む本能」の謎という記事が掲載されている。聾唖者の子どもが身につける自然言語「日本手話」や双子の兄弟の双子語などが紹介されているが、この記事から感ずるのだが、原初的な言葉は海を見て「う」という一人孤独の有節音声は意味がない。他人とのコミュニケーション、意味の共有がために言葉が作られることは当然といえる。


「給食費の未払い」小論試験

2008å¹´02月11æ—¥ | ä»æ•™
 給食費の未払い保護者が話題になっているが、「私どもは、給食費を支払っていますので、昼食を食べるときに『いただきます』と言わせないでください。」と学校に抗議をするお母さんがいました。あなたはこれについでどのように考えますか。」という小論文を書かせる試験があったことを娘から聞かされた。

 ある試験の中の一つの問題なのでありこの問題だけが単独で出題されたわけではない。
 娘に聞くと、どうもこの抗議話は実際にあったようだ。実にユニークな話で家族三人で思考の志向性などについて会話が進んだ。

 「いただく・いただき」という日本語を「ひらがな」で表記すると、日本人は漢字で表記する、いわゆる「どういう字(漢字)で書くの」病に罹る。
 頂戴する、山の頂なのが頭の中に浮かぶのが普通ではないかと思う。

 ひらがな表記した言葉は、「やまと言葉」であり、これを感覚的につかむには、イメージする「もの」の現象なり存在なりの中に、共通するもの、「何ものか」のつながり、関係を思考するしなければならない。すると出てくる感覚は私の場合は、「うえ」である。このときに「どんな字病」に罹ってはならない。

 「上」という漢字を思ってしまうと「上様から頂戴する」などとつまらん発想になってしまう。
 表も裏もないのだが、あえて言うならば「裏の裏の奥深くにあるつながり」であろうか。

 今日は、「やまと言葉」について語ろうというわけではない。そもそも上記の母親の「心もち」というか思考の発動の源が気になるのである。
 感覚的には「薄い」。薄いも篤い(厚い)もないのだが、表現するということは難しい。

 現象にみる、こころの受け止め方が、即一なのである。多くの中の一ではなく、「只一(ただいち)」なのである。これを他人(ひと)は「決めつけ」という。このような人は信仰の世界にも居り、民主的な政治の世界から偏狭的な国家ではほとんどの関係する人はそのような人ばかりであるように思う。

 このような人々に足りないもの(足り、足らないとつい言ってしまうがこの方が便利なので使用します。)は「不生なる何ものか」なのだが、「生かされている自分」を「いただく」ことだと思う。

 1999年になくなられた、東大名誉教授で比較思想学会名誉会長であられた中村元先生が、青土社から出版された「自己の探求」の中の「自己」という章に「普遍者を具現する自己」という一節がある。

 自己を反省してみると、自分の自己だと思って突きとめたその自己が普段に変わって遷ってゆく。人間の自己というものは、一瞬一瞬の連続であるから、一刹那・一刹那が真実であり、絶対のものであり、その中に全宇宙を含んでいる。
 川の水の流れのように進んで行く。既成のものにとらわれない。あるがままの動きをすなおに受けとり、自らの偏執を離れて対決する。錯乱することなく、落ち着いて決定する。すでに起こったことをくよくよするな。未だ起こらぬことには、冷静に対処せよ。
 もし宇宙全体を内に含む者であるならば、とらわれるとか偏るということは無いはずである。それは無色透明であるというのと同じことになる。
 自我の本質を追求して、経験的特殊的なものを洗い去ってしまうと、それは本質規定のみを残した、特殊な概念規定を離れた無内容なものになってしまう。
 真実の自己は絶対の主体であるから、対象化することができない。それは、
(1) 概念的に規定することのできないものである。
(2) 数や量によって限定して叙述することのできないものである。
したがって具現的には形や色をもっているものではあり得ない。もしも言語で表現し得るものであるとすると<語>は他人と共通のものであり、他人と共通の手段または資材を用いて理解しようとする限り、独自の自己がまさにその人の自己として独自である所以のものは逃げ去ってしまう。
 ところで自己はまさにこのような構造をもっている。だからこそ、まさにその故に、それぞれ自分の経験するものを、機縁に応じて生かすことになる。それは、写真のレンズのように無相のものであるからこそ、来るあらゆるものを生かすことができるのである。

 この後の論述の展開は当然あるのだが、今日は、私自身の論の展開の中で、好きな一節なのでここまで引用させていただきました。

 自然というものは、寒いといえば寒さを着せてくれるし、暑いといえば暑さを着させてくれる。しかし太陽の光は暖かさを着させてくれる。

 今日はそんな朝陽です。

冬のこころ

2008å¹´02月10æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜
      冬のこころ

   才無くして
   執するものの
   ただ一つの生き方は
   不屈と
   不退と
   不動の
   精進あるのみ
   そう言いきかせ
   混沌未明
   招喚起床する
   リンリンとした
   冬となる
        
        坂村真民(詩集 詩国第二集)

日本語の奇跡

2008å¹´02月10æ—¥ | å¤ä»£ç²¾ç¥žå²
 昼ごろから予報どおり雪が、降り始めた。
 山形村、波田町、松本市(旧梓川村)旧堀金村、旧三郷村と山麓線を雪の中を午後3時ごろ、有明の自宅に帰る。帰宅後2回雪かきを行う。

 3回目を午後9時30分ごろに行う。ちょうど市の除雪車が自宅前の市道の除雪を行ってくれた。ありがたいことである。
 この程度の積雪の雪かきは、楽しいものである。雪が軽いこともあり、北部の降雪地帯と違い重労働ではない。

  これまでの積雪が50センチ以上になった。市道から玄関まで80センチほどの道を作る。50センチほどの積雪部分に壁を作りながら整えた形にし道を作るのだが、やり終わると芸術的だと独り楽しむ。

 石灯籠の明かりに木々の積雪。そこに雪が落ちてくる。

 NHKの「知るを楽しむ」という番組は、私の中では優良番組だ。
 2月は、「私のこだわり人物伝」「漢字に遊んだ巨人 白河静」という、これまた私の好きな松岡正剛さんが紹介者で、番組が進められている。

 漢字という中国語、これを日本人は「国字」にした。「国字」といえば「峠、裃、辻」などという本来の意味で言う漢字を思うが、この場合の「国字」は、日本人が日本語にしたという意味を言う。
 
 白川氏は、甲骨文字、金文等の漢字起源研究だけでなく万葉集にも精通されている方で、古代日本の精神史の研究には欠かせない人である。

 また、最近「日本語の奇跡」という本を山口謠司さんが、新潮社から出版された。

 日本人は実に不思議な民族である。日本の古代は南から北から西からとたくさんの渡来人が日本列島に来ている。

 論語、千字文、仏教の渡来人とともに日本列島にもたらされ、漢字は独特の「言の葉」の成形に影響を与え、「ひらがな」「カタカナ」を生んだ。

 万葉集の巻14-3400「信濃奈流 知具麻能河能・・・」で解るように、この歌は訓読にすると「信濃なる ちぐまのかわの細石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」という歌である。
 この歌の「知具麻能河(ちくまのかわ)」は、万葉仮名である。

 最初に万葉仮名を考え出した古代人は、思うに、どうしても日本語を文字に残し、皆で共有するか、自分の記録として残しておきたかったのであろう。

 日本人は、「やまと言葉」という「あやふやな、合理的でない、直ぐには意味解釈できない」しかし内容が深い言葉を「合理的な、直接的な、直ぐに意味解釈できる言葉」しかし内容が浅い言葉(白川静ワールドでは形記号の組み合わせでみると深い意味をもつ文字)を利用し独特の日本語表記法を生み出した。

 儒教というものは、国家体制確立の中においては社会秩序や部族内、家族内の秩序面において威力を発揮するが、個人的な生きるという精神世界においては、その影響は低い。

 一般人いわゆる統制される側の人々にとっては、学問的なものよりも仏教の教えの方が浸透しやすく、統治する側からすれば仏教の利用を考え出すのである。


 深々と雪降る夜に思うのだが、私自身の今の関心ごとである「やまと言葉」において、大野晋先生の「日本語をさかのぼる」「日本語の源流を求めて」の大野ワールドはどのような意味を成すのであろうか。

 私の周りには、中国人、韓国人フェイスの人は見かけるが、インド人フェイス少なく、食事のときは、箸を使う人がほとんどである。

 日常生活の伝承、伝統、習慣は、歴史的に身体にしみこむ捨てがたい継承文化として現れるのではないだろうか。
  

圧雪凍結路面

2008å¹´02月05æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜
 これからは、日照時間が段々と長くなる。大雪の次の朝は、圧雪凍結路面が定番だ。

  東筑摩郡山形村から東方向に向かうと、間もなく陽が昇り始める。

 時間が早いので、ほとんど車が走っていない。ゆっくりマイペース走行。途中の風景がとてもきれいなので車を止め、思わず撮ってしまった。

 当然後続車はいないことを確認してのことである。
 

しんしんと雪降る

2008å¹´02月03æ—¥ | ã“ころの時代

 雪の降る音には「こんこん」「しんしん」といろいろあるが、今日は「しんしん」がふさわしい。
 経は最近読んだ書籍の中から次の詩句がなど印象に残ったので掲出したい。

自然
 宇宙は何も考えて
 やっているのではないのだ
 自然にそうなっているのだ
 神が動かしているのでもない
 自然にそうなっているのだ
 波も自然
 雲も自然
 一切が
 自然なのだ
 だからあんなに
 生き生きとして
 美しいのだ
「詩集 詩国第二集 坂村真民著 大東出版社」

 求めない
 すると
 前よりもひとや自然が美しく見えはじめる

 ほんとうだよ、試してごらん
 求めないものの美しさが見えてくるんだ!
「求めない 加島祥造著 小学館P96」

 インド北部にアラーハーバードという都市がある。ここはガンジス川とヤムナー川が合流する場所で、ヒンドゥー教の聖地となっている。
 インドでは、この合流点にもう一本の見えない川が流れ込んでいると言われる。
 その名はサラワティー川。ヒンドゥーの古典では最も聖なる川とされ、篤い進行の対象となってきた。しかし現在のアラーハーバードで、その流れを見ることはできない。
 5年程前、私はここの合流点を遊覧する小船に乗った。同乗者のほとんどはヒンドゥーの巡礼者だったふぁ、一人の神経質そうな西洋人が含まれていた。船頭が拙い英語でサラスワティー川の説明を始めると、この西洋人は冷たいまなざしで言った。
「サラスワティー川なんて、どこにも見えないじゃないか! 見えないものを存在すると言うなんてインチキだ」
すると船頭は穏やかに言った。
「君には風が見えるのかい?」
もちろん風は見えない。しかし、髪をなびかせ、、ほおを撫でる「この風」は確かに存在する。
船頭は続けた。
「サラスワティー川は、私たちの心の中に流れていなす。私はその存在を全身で感じます」
 風景は目でみるだけではなく、心や体で見るものなのだということを、私はこの船頭に教わった。
 平成19年3月6日付朝日新聞文化面「こころの風景 中島岳志北海道大准教授」
 朝日新聞の中島教授の文章は、広島県にある株式会社熊平製作所がしている抜筆のつづりから引用しました。