思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

大山田神社考

2006å¹´02月28æ—¥ | æ­´å²

 長野県の南部(南信)に下条村という、小さな村があります。峰竜太さんで全国的にその名が知られるようになりました。長野県の飯田市から南の地方は古代から早く大和朝廷の勢力が根を張ったところで、全国的にも古墳の数の多いところです。

 さて、その下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社があります。
 延喜式内の神社(式内社)があるということは、いかにこの地域が古い所であることが分かります。地域であることが分かります。

 式内社の神社は、「延喜式」によりますと信濃関係の48座の大小神社が掲載されていて現存する大きなものとしては、諏訪大社、穂高神社などがあり、伊那郡下には、阿智村の阿智神社と下条村の大山田神社の2社のみが掲載されています。

 ここで式内社について説明します。延喜式とは、平安時代(794年から1184年)のいわゆる律令社会にあって「延喜式」の式とは、律令格式の式すなわち律令の施行細則であり延喜5年(905)に編纂が開始されたことから延喜式と呼ばれ50巻からなり9巻・10巻が神名帳と呼ばれる神々のリストのことです。

 この時代の中央政府には、神祇官という役所があった。年に4回、四時祭という4つの祭りがあり、そのうち2月4日の祈年祭りが一番重要な祭りで、天皇の名で行う稲の豊作祈願の行事です。

 この祈年祭には、朝廷から幣帛というお供え物が下賜(かし)されこの下賜される対象神社の名が延喜式内に記載されていることから式内社と呼ばれるようになりました。
 この説明からも式内社というものが、地域の重要な神社で、信濃の国の成立直前は、南信濃がいかに重要な地域であったかが分かります。

 さて本論に入りますが、大山田神社の祭神は、「大己貴命(おおなむちのみこと)本社」「応神天皇 八幡社」「建御名方命 摂社」「鎮西八郎明神(源為朝)末社」です。

 摂社とは、本社のに付属して本社に縁故のある神様を祭るものであり、本社の神が大己貴命(別名大国主命)で、その子である諏訪神の建御名方命をお祭りしてあります。

 応神天皇は源氏の神様で、源氏の勢力下には必ず八幡社として存在しているのが常です。したがって、郷土史研究においては、神社の祭神研究は、地域の様子を知る上で必要不可欠な研究になる訳です。

 今は、村内の鎮西地籍にある大山田神社ですが、実は元々鎮西地籍にあったわけではありませんでした。最初の鎮座していた場所については、「下条村睦沢山田河内(かわちではなくゴウチ)説」「阿南町深見字東条の山田説」の2説があります。
 最初の山田河内説ですが、村内に「山田」の地名が残っていることから、山田河内説があるだけで、伝承、古文書に記録があるわけではなく説得力がありません。

 その点、下条村のお隣の阿南町の山田地籍ではないかとする山田説は、山田地籍に山田池明神という古い神社があり祭神が大国主命であることからこの地が最初の鎮座していた場所だといわれていて説得力があります。私もそのように感じています。

 次に現在の大山田神社の話に戻りますが、いまある鎮西地籍には、鎮西というお名前のお宅が3戸あり、その中の造園業を営む鎮西家は、歴代大山田神社の神主の家で、同家の古文書には神社を山田から下条村の菅野に移し、その後現在の地に奉祀したと書かれています。この点からも上記の山田説が正解ではないかと思います。

 ここで疑問に思うのは、今でこそ道路が整備され飯田からもさほど遠くない南信濃の阿南町の山田の地ですが、古代においては大変交通弁が悪かった場所に見え古代の人々が多く住んでいたとは考えられないような土地柄に見えます。

 一つ考えられるのは古代の道です。信濃の国に最初にできた官道は東山道で、古代東山道は下条村の直ぐ隣にある阿智村を通っています。式内社の阿智神社は東山道の御坂峠にありこの峠には、安全を祈願したと思われる遺物が多数出土しています。

 古代の奥深き信濃の地に入るには、古代東山道という街道がいきなりできるわけではなく、縄文・弥生の人々の交易等により道らしきものが徐々にできていくわけです。
 そして現在分かっているのは、諏訪大社は諏訪族の拠点、穂高神社は安曇族の拠点で式内社のあった地域には、古代の部族勢力の拠点があったことが分かる訳です。

 天竜川の氾濫による遺跡の消失も考えられ遺跡の数は少ないのですが、可能性でしかありませんが、上記のことからもかなりの勢力の部族がいたと思います。
 部族集団いたという可能性をもとに、しからば、道ができる前に中国大陸、朝鮮半島、南洋諸島、東南アジアからの人々は、どこを通り内陸に分け入ったかという疑問が出てくる訳です。
 
 そこで考えられるのは河川の利用です。最初人々は大きな河川沿いに新天地を求め日本の奥地に入り、その後交易等を通じ、道が作られていくわけです。
 信濃には信濃川、姫川から安曇族が安曇野や松本平に入り、それと同様に天竜川を利用して先ず山田の地に落ち着き、その後の飯田市周辺の古墳群からも分かるように拠点を飯田地区に移したものと思われます。

 下条村の東方には、天竜川が流れていて阿南町付近は、谷間でも広い平野部分があり飯田市に至る途中の地として天竜川から上陸した古代人の集団の姿があったわけです。


禁煙は苦行か

2006å¹´02月27æ—¥ | ä»æ•™

 喫煙は、公的施設ではほとんどできない状況にあります。喫煙と肺がんとの因果関係が相当にある以上、国民の公共の福祉上、将来的には禁止されるでしょう。
 喫煙は嗜好です。酒などと同じですが、違うところは酒よりも麻薬に近い中毒性、依存性があることです。
 喫煙欲求に対し堅固な意志で遮断できればよいのですが、依存性というものは深層心理までに及びますから自我欲求を征することは難しいものがあります。しかし、人によっては「止めます」と宣言し、きっぱり止めることができる人もいます。

 愛煙家にとって禁煙は、苦痛という感情を与えるものなのでしょうか。喫煙しない人からすれば、苦痛であるという感情は、理解しがたいものと思いますが、喫煙者にとっては、相当の苦痛を強いるものです。

 ここで、なるほどというお話を西嶋和夫老師の講話集から紹介します。その前に西嶋和夫老師という方ですが、曹洞宗の僧侶で東大法学部を卒業され大蔵省に入りその後、僧侶になった方です。金沢文庫から直感的な思考で現代語訳正法眼蔵、同提唱録等の多くの解説書、講話集を出されています。
 素人ですので学問的な説明しませんが、仏教学の先生から見れば180度視点が違うように見えますが、直感的には同じ世界が観えます。玉城康四郎先生もよく似た思考の方であったような気がします。
 老師の本の中に「仏道は実在論である」という講話集があります。「仏道」という語句がありますが正法眼蔵には、仏のついた語句として「仏教」「仏法」「仏行」「仏道」が出てまいりまして、その中の「仏道」が表題になっているわけです。
 この講話集の「明治維新以降の日本仏教思想」という章の質疑の話です。

 問 僕もちょっと経験したことですけれど、たとえばタバコをやめるという、これも一    つの苦行のようなものがあると思うのですが。(笑)

 答 タバコをやめるということはね、苦行のうちに入らないと思います。生まれてきたときにタバコを吸っていた赤ん坊は一人もいないんです。(笑)そうすると、タバコ  を吸う人のほうが本来の人間のあり方か、吸わないほうが人間の本来のあり方かという点では、タバコを吸わないほうが人間の本来のあり方なんです。だから、本来のあり方に戻るというだけのことであって、人間の本能を抑圧して痛めつけることと事情が違うわけです。だから、タバコをやめるのは苦しいということは事実としてあるわ  けですけれども、努力の方法としては正しい方法に向かって努力しているんだ、だか  ら苦行には入らないというふうに見ていいと思います。

 問 苦しいことは苦しいですね。

 答 うん。その点では、苦しい原因が、過去の慣習が間違っておったから、その過去の慣習から脱け出すための苦しみだといえます。苦しくないということはいえませんけども、それと同時に、苦しくない方向に向かって努力しているんだということがいえると思います。だから、人間の本来の欲望を抑えつけて、苦しみをますます増大させていくという方法とは努力の方向が違うと、そういう面があると思います。
 
 概念の思考方法としては水平思考とか、発想の転換などというものがあり、上記の話もそれと同じように見えますが、観る目でみると直観の思考だと思います。


直感的な智慧の完成

2006å¹´02月25æ—¥ | ä»æ•™

 今日は、春は近くにきてるような天気で、午後近くの丘を1時間掛けてジョギングした。1年365日の内約300日は、早朝同じようにジョギングをするが、冬は坂道が凍りそうもいかない。
 通り過ぎる車のエンジン音、坂道の道の重さ、アスファルトの表面の感触、木立の中から聞こえてくる鳥の声、路側帯の白線等々。それ以外は何もない。

 天気は曇りで、山には雲が掛かっている。この時以外は何もない。過去もなければ、明日もない。意識なんかがしないから思うこともない。淡々と、ヒタヒタと坂道を感じながら坂道を登っていく。上り詰める喜びもなく。空しさもない。
 ありのままがあるだけ。

 山寺に着く。般若心経を本殿と六角堂で2回唱える。森の中に読経が響く。
 十二面観音菩薩がともにあり、六角道には弁財天。読経が木々にこだまする。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見 五蘊皆空 度一切苦厄」は、般若心経の冒頭であるが、その部分の訳を二つ紹介する。
 
 求道者にして聖なる観音は、深遠なる智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見極めた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見きわめたのであった。 「中村元訳 般若心経の世界 学研P144」

 観音菩薩が深く直感的な智慧を得るための修行法である坐禅の修行をしていたときに、この世の中の一切のもの、「色・受・想・行・識」という五つの集合体によって表されるすべてのものが、空であることに気がついた、そのことを体全体で感じた。
 そこで「空」という言葉が、何を意味するかということでありますが、今日までは「実体がない」という意味に解釈されております。
 ただ、道元禅師の思想を勉強していきますと、この世の中は実在である。「ダールマ」が実在するという考え方が、仏教の基本思想でありますから、その考えからしますと、この「空」という字は、何もないという意味ではなく、一切のものがありのままにあるという意味だということをお話したわけであります。「西嶋和夫著 般若心経・参同契・宝鏡三昧金沢文庫P29」

   ※ダールマは「ダルマ」のこと。老師はこのように表現する。

 禅僧である西嶋老師の訳にはその後の解説も付けたが、禅僧らしい訳であると思う。
 空間の広がりと過去にもさかのぼる時間の広がりの中で思考すると縁起の構成や縁起で満たされた宇宙全体を意識する。その中の縁起で構成された我は妄想であり、想念であり、至って無我であるとする。

 仏教では時間を考えた場合に、現在だけが実際の存在する時間だという考えを採っている。「西嶋老師前書P38」したがって、あるのは、ありのままの実在だけで、宇宙との一体感もすべてが、あるがままの、ただそれだけになる。

 宇宙との一体感、仏の手のひらで生かされている。この感覚もさらに見きわめることになる。


諸法実相

2006å¹´02月23æ—¥ | ä»æ•™

「ブッダとは誰か」という高尾利数氏の本(柏書房)の「四法印を学ぶ」の中の

   一個のホロンであるひとりの人間が死んで埋葬されれば、それまでその体を構成していた諸成分は土の中で分解し、まさに「肉体は土に帰る」のである。

という文章に何故か惹かれた。
 今は、土葬による埋葬は法律で禁止されているが、昔は土葬が普通であった。
 有機物である人間は、心臓が止まり血液が流れなくなれば、死が到来し土に帰る。脳死であっても血液が流れ各細胞が健在であれば、生きたまま土に帰ることはない。
  肉体という個体は、一定の期間・空間に存在し、肉体の存続という機能を失うと消滅する。しからば、肉体としての存続させるも、生命を支えるもの、また生命を創り出したものは何かなどと考えたくなる。
 肉体に血液が循環している限り、細胞のもつ再生の力が続く限り植物状態でも一定の期間は消滅することはない。
 この再生力とは何であり、どこから来るのか。細胞に必要な養分を吸い上げる力の源は何であるのか。

 素粒子の集まりが、物質を形成し、その物質の集まりが遺伝子なるものを形成しその後は定められたものを形成していく。
 形成されたものの消滅は、再生力の衰えや外部からの遮断である。
 再生力の衰えは、その形成されたものの本来の姿になるべきものの欠陥や再生力を衰えさせる物質の摂取などである。
 バランスのとれた栄養補給が続き、細胞の再生能力が衰えることがなければ、消滅することはない。
 現実はそうはできていない。生あるものは、長短はあるが死するもの。
 現実としてあるのは、ありのままのこの姿である。

 地球規模で考えると物質が、ある作用により動的な動きのあるものを形成し、また複製を造り、一定期間が過ぎるとその造られたものは、元の物質へと戻っていく。
 これが諸法実相、真如、法性というのかもしれない。
 


「もったいない」と魂

2006å¹´02月20æ—¥ | æ­´å²

 あいにくの曇り空であったが、久しぶりに市街地にある薄川のウォーキングコースを散歩した。この川のある地籍は、筑摩、里山辺という地名で万葉からの古い場所である。
 このコースには、万葉歌碑がある。万葉集の巻14-3400「信濃奈流 知具麻能河能・・・」で始まる歌で、訓読にすると「信濃なる ちぐまのかわの細石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」という歌である。

 この歌の「知具麻」については、その多くが、長野市近くの「千曲」と解しこの地の「筑摩」と解する人は少ないが、この松本平では、当然「筑摩」であるとしてこの碑の建立となった。
 しかし「千曲」も「筑摩」も「ちぐま」とは読まない。「千曲」は、「ちくま」と読み「筑摩」は、地名として使う時は「つかま」と発音し、「ちくま」は企業や学校名等の名称で使われるときにそのような読み方をする。
 
 この歌の歌碑はしたがって、長野市近くの戸倉温泉の千曲川河川敷にもある。
 信濃にあるから何処にあってもいいが少々気になる。
 上田に居るころは、読まれている川は千曲川とばかり思っていたが、松本平に暮らしてみると松本平の川であってもおかしくないと思うようになった。理由は以下のとおりである。

 この地「筑摩、里山辺」は、日本書紀の天武天皇の段に「束間温湯(つかまのゆ)」と記載され、遷都も一時考えられた場所でもある。
  続日本紀の延暦18年(799年)には、この地に住んでいた高句麗人の卦婁真老(ケルマオイ)が須々岐(すすき)の姓を賜ったとの記載があり、歌碑のそばを流れる川が、薄川(すすきがわ)と古くから呼ばれているためこの川が「ちぐまのかわ」ではないかというわけである。
 その他にも立派な古墳があったり信濃国府が、一時里山辺の惣社付近にあったとされている。

 「筑摩」という字は「ちくま」と訓んでもいいが、滋賀県にある同名で有名な「筑摩神社」は「つくま」と訓んでいる。歴史的には滋賀県のほうが古いから「つくま」が古い呼び方だと思う。
 原文の文字を一文字づつみていくと、まず「具」であるが、万葉集での使われ方は、「ぐ」であり巻20-4391防人の歌では「久尓具尓・・・」で「国々(くにぐに)」と、「く」と「ぐ」を区別して使用している。「知」と「麻」は「ち」と「ま」以外はないようである。したがって、「知具麻」は「ちぐま」以外に読みようがない。
 はたして「ちぐまの川」とは、何処なのか知りたいものである。

 この万葉歌は、亡犬養孝先生は、古代人と霊魂との関係で解説されている。
 君は恋人であったろうと思うが、「あなたが踏んだ石ならば、あなただと思い大切にします。石をあなた自身と思って大切にします」という歌で、石にあなたの魂が宿っている。踏むことで魂が付いたということで、他の万葉歌には防人に行き二度と帰れない夫が、妻の下着をつけていう歌もある。
 犬養先生は、「霊魂は命といっていいのです。人間には命があるでしょう。私には私の命がある。その命は、ものに触れるといくらでもわかれて広がっていくということです。万葉びとはそういうことを考えていた。」と話しています。

 環境保存運動で「限られた資源に感謝し、無駄遣いをしない『もったいない』を世界に広げましょう」という考えが、世界中で広がりつつあるらしい。「もったいない」は粗末にするなということだが、日本人(若い人にはないと思うが)には、物には使った人の魂が移ったり、物自身に魂があったり、仏教的に仏性、仏心があると感ずる感覚がある。
 粗末にするなという中身には、この「魂」感覚があるような気がする。これは古代から受け継がれた大切な感覚であり、これからは特に必要なことではないかと思う。


今現在説法と一夜賢者の偈

2006å¹´02月19æ—¥ | å®—æ•™

 阿弥陀経の中に「今現在説法」という言葉があリます。「極楽浄土で今現在、阿弥陀如来が法を説いていらっしゃる。」という意味で、浄土系の各宗派で使われる言葉です。
 経典の内容の簡略したものを「集英社信ずる心1阿弥陀如来花山勝友著」から引用させていただくと、次のように書かれています。

 無量の光明と寿命とを有しているために、”阿弥陀仏”と呼ばれるようになった仏が、この地球からはるか西の方向にある極楽浄土に住んでいて、現在そこで説法しておられますが、この仏が悟りを開かれたのははるか昔のことであって、それ以来長い期間にわたって人々のために教えを説きつづけているのです。

 このような阿弥陀如来がお住まいになる浄土に、往生したいという願いを心から起こすべきです。そのためにも熱心に阿弥陀さものお名前を唱えなさい。
というのが経のもつ意味です。

 昨年このブログで亡東光寺住職東井義雄さんの「仏の声をきく」という話を書きましたが、その中に鈴木章子さんという47歳で癌でお亡くなりになった方のことを紹介しました。
 この方は、北海道の真言宗大谷派ののお寺の奥さんで、この方について松原泰道老師の書籍にも「今現在説法」とともに鈴木さんの詩が紹介されています。

 説法はお寺で
 お坊さまから
 聞くものと思っていましたのに
 肺癌になってみたら
 あそこ ここと
 如来さまのご説法が
 自然に聞こえてまいります
 このベッドの上が
 法座の一等席のようです

 今現在説法

 肺がんになって
 ここ あそこから
 如来様の説法が
 少しづつ
 きこえてきます
 今現在説法
 真只中でございます

というものです。おかげさまで今日も生かされた。仏の手の内にいつもいる。浄土で説かれる阿弥陀様の教えは、本当はこの世にも響き渡ってきてる。
 禅の悟りではありませんが、この境地も一つの境地だと思います。

 ここでさらに思うことは、私の好きな「一夜賢者の偈・吉祥なる一夜の偈」です。
 「今日ただいまを熱心に、生きなさい」という意も、智慧を出して、法に従い行動しなさいでは観念の世界で、人としての仏の声の体感を受けません。
 より良き善智識が得がたき場合は、「自灯明」の教えである「己を拠りどころ」としていかなければなりません。

 過去を追うな。未来を願うな。
 過去はすでに捨てられ、未来はいまだに来ていない。
 ただ、いまおこっている事象をその時その時に観察し、
 ゆらぐことなく、動ずることなく、よく見つめて、それを修すべきである。
 今日なすことのみを熱心になせ。(増谷文雄訳)

 今日ただいまという瞬間には、分別知は存在せず、「照見五蘊皆空」自己の心身を構成している色、受、想、行、識の五蘊は瞬間には、ただそれのみの存在です。

 無自性、無我、実体がないということは、すべてが縁起による相対的なもので、無明から老死という現象から、物の存在も縁起によるものだということです。
 己があると認識している意識も縁起からなるもので、科学的な、また生物的なあらゆるものが作用しての「その瞬間」の現象です。

 過去の経験、過去に摂取したもの、生活環境等々と限がありませんが、原因となることが、相依りて今この瞬間を作り出しています。精神に作用しその時の意識なるものを造り、また肉体的結果として現れているかもしれません。
 それは本人には関係のない結果だと考えることもありますが、すべてが何かしかの縁起の結果なのです。だから諸行無常なのです。

これを体感とし悟ることは、今日ただいまから縁起を変えることです。
悟るとは、その縁起の現象を直観で究めることで、今現在説法はその一つの教えです。


煩悩の流れ

2006å¹´02月17æ—¥ | ä»æ•™

 「流れるという動詞」ということで松岡正剛氏の「松岡正剛の千夜千冊」というサイトの中に、亡中村元先生が松岡氏にいわれた話として、
 サンスクリット語には、「流れる」という動詞がなく、静止、動向、流路、介入、流出それぞれを自分でつなげるということらしい。
ということを紹介した。そこでこの「流れる」という言葉が、中村訳でどのように解説されているのか、原始仏典のうちスッタニパータ、ダンマパタ内の「煩悩」との係わりに見られるので紹介する。

スッタニパータ(Sn)1034・1035には、「流れる」という言葉が使われている。中村元訳である岩波文庫「ブッダのことば」から引用すると、
 
 Sn1034
 アジタさんがいった。
 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる(註1)。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎまもるものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説明してください。」
 Sn1035
 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。それは智慧によって塞がれるであろう。」
註1ダンマパダ350では、流れは至(あらゆ)るところに向かって流れる。

この部分をさらに詳しく紹介すると中村先生は、中村元選集代15巻原始仏教の思想ⅠP387~388に次のように書かれている。

 最初期の仏教ではアージーヴィカ教やジャイナ教などの影響を受けて、人間のもつ煩悩や邪悪を、少なくとも表現に関するかぎりは、一種の物質のように考え、『煩悩(または邪悪)の流れ(sotas)があらゆるところに向かって流れる』と説いていた。この文句はそっくりジャイナ教からとりいれたものである。また煩悩そのものを「流れ来ること」(asava)と呼び、後にはのちには仏教教学の術語となり、漢訳仏典では「漏」と訳され、「漏泄」の義と解釈されるようになった。

と解説しているが、このasabaという語についてダンマパダでは次のように訳している。
 
 ダンマパダ253
 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れ(asava)が増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。

と、「煩悩の汚れ」と訳し、同書P383で、

 ジャイナ教聖典について見ると、苦行者達が修行によって排除してゆく輪廻の暴流のうち、外から押し寄せてくる流れをparissavaと呼び、内に漏れこんだ流れをasava(=asrava)と呼んだ。前者は仏典の古層ではparissayaとなっている。
 仏典の古層(スッタニパータやダンマパダなど)においては、parissayaという語はそのような原義において用いられているが、やがてすっかり用いられなくなる。そしてその後の仏典ではasavaという語のみが用いられるようになった。ただし、ジャイナ教では、汚れや業の「流入」をasavaと読んだのに対して、仏教では、asavaとは汚れのにじみ出ること(漏泄の義)と解釈されるようになった。

 松岡正剛氏へ先生が話されたのは「煩悩」に関連する「流れ」の訳からのことであろうと思う。
 なお、asava(arsava)の字頭の「a]の上部には「-」が付くが、表現できないので承知してください。


自分探しと一夜賢者

2006å¹´02月16æ—¥ | ä»æ•™

 「自分探し、自分はどこにいるのか。」という哲学的命題も、心理学的立場からみれば、意識の発動の源、所在の探求となる。脳にその所在を求めるのが一般的だが、ユング派のマイヤーの言葉を借りれば「全体としての人間は、これら少なくとも六つの段階、脳、心臓、横隔膜、胃、腸、膀胱、最後にさらに体以外(エキストラコルプス)を踏まえ、調和的に機能しつづける」と明言する(ユング心理学概説3意識C.A.マイヤー著・河合隼雄監修 )。

 大般涅槃経の「仏性」を考える時に、「ある」を前提にすると「無我」のもつ意味を失い「セーニカ・バラモンと釈尊の対話」尽くせども現代人には説得しがたい部分が多い。
 私の好きなサイトには、「主体性」についての論及がみられ、あらためて人間の思考の深さを考えさせられる。
 哲学、現象学、論理学、心理学等の人の心や精神や思考を探求する学問などに接しなくとも、人はその一生を終えることもできるが、ひとたびこの深みに落ちると果てしなき心の旅に出かけることになる。
 古代においては、自然環境や人為的な破壊と殺戮、奴隷的環境などからの苦ととの戦いのなかに人は、自然に救いを神という概念に求めた。
 この苦のエネルギーは強く、その反面神の力も絶大である。
 現代社会はどうか、地域差はある。24時間戦時体制の国や貧困の格差、奴族的環境等々。現代社会は、特に普通に生きれば苦渋に満ちた環境に落ち込むこともないが、あえて人間の持つ享楽を求め感情に左右され奈落のそこに落ちていく人々が多いような気がする。
 今は、一夜で天国と地獄の世界に落ちた人間を知ることができる。釈尊が生きた時代よりも私たちは、生、老、病、死を世界的規模で観ることができる。
 釈尊は、苦からの離脱を「心」のあり方に観た。決して形而上学的な存在には、求めなかった。そのもつ意味は、ただ事ではない。

 人は思慮深く時には生きることも必要であるが、人によっては遺伝的に、また人を育てた環境とに縁って精神的な面で耐えられない者もいる。
 玉城康四郎先生が面白いことを言っている。

 「四つの不可思議がブッダによって示されている。それは、仏、瞑想、世界、業異熟である。仏の境界は、果てしなく深く、かつ広く、不可思議というほかはない。瞑想も、どこまで深まっていくか知らず、これまた不可思議である。世界は、何からできており、いつ始まり、いつ終わるのか、これも不思議である。これらの不可思議と並んで、業異熟の不可思議が挙げられている。そして、これらそれぞれ正面(まとも)に思議すれば、精神錯乱をおこす、というのである。この点でも業異熟の量りえないことが思い知らされるであろう。」(1原始仏教 仏教の思想法玉城康四郎著 法蔵館P36)

 玉城先生と中村元先生は同じ仏教学の立場において語られても、その違いが面白い。中村先生は最終的には慈悲心にその場を得たような気がするが、玉城先生はいつまでも自己探求にその場があったような気がする。
 我が人生を考えた時どちらかというと玉城先生に近い人生のような気がする。

 仏教関係のブログを呼んでいたら今後「ザゼン」の「ザ」の字を「坐」にしたほうが良いとかかれていた。以前松原泰道さんの本にも書かれていて、私も注意するようになった。 玉城先生だから坐禅の話をするのではないが、この「坐」という字は非常に意味深い。
 古代中国では、人の裁きは神殿の前で行なわれ、いわゆる神判によった。原告、被告は神主である嘉石、肺石の石が置かれている前に座らせられた。したがって坐は当事者として土の上に左右に対して座る情景を表した文字である。一つの事案を座して審議する。一人の人間が坐禅を行なう。土の上には二人の人間が相対しているが、それはまた一人の人間であるのである。他方の「人」字を仏と観るのか、それは個人の思考のなせる技だと思う。そしてその思考する私も生きて、縁起で生ずる今日ただいまだけの私であるような気がする。したがって「我」というものは、縁起の賜物で本来は「無我」であり「あり」と思う「我」は、「非我」なのである。

 今日ただ今の、縁起は未だ来たらざる「無我」を「非我」を、「ある」と思う「我」を生起させる。それを「一夜賢者の偈」「吉祥なる一夜」は、いっているような気がする。


縄張りと境界

2006å¹´02月13æ—¥ | å¤ä»£ç²¾ç¥žå²
 昨年紹介した境界線の争いに勝訴した記念碑のある土地に、マンションが完成した。
  記念碑はどう見ても場にふさわしいとは思われないので、撤去するかと思っていたがフェンスに隙間を作りしっかり残されている。
 境界線で思い出すのが、縄張りという言葉だ。
 そもそも縄を張るという言葉は、古い。
 日本書紀の一書第二に「絡縄(あぜなわ)」という言葉で出てくる。「亘以絡縄(ひきわたすにあぜなわをもってす)」と書かれていて、意味は、「田に亘す縄をもってけだし他人の田を奪い、もって我が田となすことをいう。」である。 

 早い話が、古代に勝手に他人の他の畔(あぜ)に縄を張ることは「罪」で、「縄を張ること」は囲まれた部分の所有権を表すことで、勝手にやることは犯罪であるということである。
 注連縄(しめなわ)も「ここからは、神の領域である」ことを示すもので、縄を張ることだけの行為だが、未だに日本人の深層の中には「立ち入り禁止」の遮蔽物は、細いロープ1本でも機能を果たす。
 他に古代における「境」を示す行為には、畔に櫛(くし)を挿す行為や甕(かめ)を埋める行為があった。 

釈尊の偉大なる死

2006å¹´02月12æ—¥ | ä»æ•™

 最近多くの人々が般若心経に興味をもち始めているようである。書店にも般若心経を解説する本、写経を進める本を多数目にする。
 一般の人は、般若心経が仏教のお経の本でお釈迦様の教えが書かれていると思っている。
 その反面、原始仏典を中心に本来の釈尊の教えを明らかにしようという学者諸氏からは、大乗仏典である般若心経は、梵我一如の反仏教であるとか般若心経の末尾にある「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃて)」のマントラはヒンドゥー経最古の宗教文献であるヴェーダ聖典の聖句であり呪術的世界に全面的に突入するものだなどといわれている。
 
 原始仏典大パリニッパーナ経「偉大なる死」に次のように書かれている。
 釈尊はかつてこのことばを仰せられました。「悪しき者よ。わが修行僧ら、わが聴き手らが明確にして規律正しく、明了にして学識あり、法をたもち、法に従って行ない。正しい実践をなし、適切な行ないをなし、みずから知ったことおよび師から教えられた事を保って解読し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、生じた矛盾を法に従って解決し、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしはニルヴァーナに入りはしないだろう」と。 (筑摩書房原始仏典中村元編・訳から)

 原始仏典に書かれている言葉であるから釈尊の言われた言葉に近いということになる。 無我という基本的な教えと書くと非我が本当だとの批判が直ぐなされるが、このようなことは論外として、大乗仏教の説くところは、法に従い、またみずからが知ったことを基本的な教えを守りながら解読した結果であると承認することが、釈尊の死を偉大なものにするのではないのだろうかと思う。