思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

法治国家に生きて

2015å¹´07月23æ—¥ | æ³•å­¦

 法治国家において、明文化されたされた条項に従うことが求められるのは当然のことで身近な話しならば、赤信号ならば車両も人も止まらなければならない。よく昔は「信頼の法則」とか言われ私以外の他人も当然にその行動を行なうものと信頼していましたが、過失ではなく「みんなで渡れば怖くない」的ではなく積極的にそれに従わない者、いわゆる故意の意思をもって法を犯(おか)し、我が道とばかりに渡ってしまう人(犯罪者)がいます。

 信号機のない国では当然それは犯罪ではなく、赤信号無視という言葉そのものが意味ある言葉にはなりません。

 「してはならないことはしない」

 「住人の多数がその決まりに付従うことが当然のこと」

しかし、今の世の中、国境や垣根を越えた我が生きる範疇の外界はわが認識を越えた流れの中にあります。

 「そうでしょう」と思ったところで「そうではない」という他者が存在し我が意とは異なる世界がそこにあります。

 なぜそのよう私の意図するところとは異なる者の行為に右往左往しなければならないのか。

 私は法治国家に生きている。眼前に広がる現象の中に「他者」を常に意識するのが法治国家ではないだろうか。ということは、

 他者の予測不可能な私(自己)への不法行為・侵害に常に警戒しなければならない。

 なんとも・・・悲しき世界ではないだろうか。

 「信義則」

 信頼し義務としてそれに付従うのが当然こと。

 冷血に条項に付従った裁断

 「悪いことは悪い」

 大岡裁きはありえないのが今の世の中、「御慈悲を」とひれ伏したところでどうにもなりません。

 法を作ればそれに従うのが、法治国家に生きる国民の義務

 しかし「信頼」すべき条項なのか・・・という疑問が残る。

 交通社会においては「赤信号」がなければ二進も三進もいかない。


 赤信号は「信頼」が背後に存在し、止まるという・・・もう無意識的にブレーキを踏む・・・ことが義務以前のこととしてなくてはなりません。

 しかし信号無視する者はいるのです。

 夜間、他の車両や歩行者がいない交差点の赤信号の燈火。周辺には誰もいない。

 赤信号の向こうには、帰宅すべき我が家がある。

 法益の衡量だという人もいましょうが何んと疲れる話でしょう。

 決められた事は決められた事として「青色燈火を待つ」者もいれば、簡単なことなのに「いいじゃないの」と犯す者がいる。

 その裁断は己のみに生じている事態であることに気がつきます。

 「第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断がかのうであることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうにかんがえられるように、他者との関係であるよりも、自己との関係であることに注目する。カントの定言命法は、主観的な原則としてみずからにてらして吟味する性格のものであり、他者に対する影響や、他者に対する配慮などが入る余地がないのである。」

 この文章は、ハンナ・アーレント遺稿集ジェロ-ム・コーン編『責任と判断』(みすず書房)の訳者中山元先生のあとがきの言葉です。

 吾々のいるところは現在であって、その現在というところから時が考えられる。私の時は流れ、私の裁断の時が現われ続ける。

 不法行為に対する制裁には侵害の程度すなわち衡量があり、罰則という処罰規定もそれに合わせて存在します。

 世の中が進むと衡量は二の次、「侵害行為には銃弾を浴びせる」自立的ロボット信号が出来るかもしれません。

 絶対に赤信号は守られるでしょうね。

 誰が設置を決めたのだと言ったところで、完璧に法は守られるに違いなく・・・安全・安心なのです。

 いつだれが何を決めているのか。

 足下の此岸(しがん)か、遥か彼岸(ひがん)にあるのか。

 私はどうも関東系のようで「し」「ひ」の区別が無意識の世界で出来ません。

 しおしがりに行く・・・のです。

 そういう話はさておき、

 領土に対する侵害がある。無視がある。侵害する国・者にその「無視」なる前提がない。無視の言葉が想起されない。即ちこの事態では、

 そこは私の領土・土地ですよ・・・と叫んだところで両者には意味の無い言葉になっています。

 意味ある事がらにするには、互いにしっかりと決めるべきことを決めるしかありません。

 先決事項は武装なのか話し合いなのか・・・。

 相手国・者の出来具合にもよりますが・・・出来の悪いのには・・・とつい先に思ってしまいます。

 止めどない話を続けていますが、結論などというものは・・・ないと言ったところでしょうか。


「良心」の宣誓

2010å¹´11月05æ—¥ | æ³•å­¦

 久しぶりに仕事の合間を見て長野地検松本支部の第一法廷の裁判を傍聴に行きました。

 この日に覚せい剤事件の共犯者二名の被告事件が結審するということで情状・最終弁論を拝聴したく出かけてみました。

 珍しく20名ほどの傍聴人がおり、いつものように一見ヤクザ風の市民タイムスの記者がおり、必ずいるおじさんもしっかり居ました。このおじさん年齢は70歳ぐらいの方ですがいったい何者なのか、不思議な人です。

 そういう私も不思議な人なのですが、今日の審理は裁判官3名、弁護士2名、検事1名で行われました。

 最終的に検察側の求刑は、

 A:懲役5年、罰金50万円、追徴金15万円
 B:懲役4年、罰金50万円、追徴金15万円

でした。求刑からも分かると思いますが、芸能人がよく覚せい剤使用で逮捕される事件がありますが、この事件は上記の求刑内容からして、被告人らに経済的負担も負わせようという内容です。したがって譲渡し関係の被告人ということが分かります。

 金額が低すぎると思われると思いますが、起訴事実の内容が松本市内の暴力団周辺者への宅配便を使って売買したという内容で、3件ほどの事件(本当かウソか知りませんが)でもうけにならない売買で、罰金等を差し引きすると大赤字になる内容なのです。

 被告人はそれぞれ元暴力団で、Aは情状書面として脱退届を提出、Bも一応脱退届を組みに提出したらしいのですが、「そんな奴知らない」との返事で組み内のいざこざですでには紋状態のもののようでした。

 Aの情状では、本年春ごろ知り合った内縁の妻(裁判に備えてか入籍した戸籍謄本を持参提出)が証人台に立ち、このブログでも紹介しました「良心に従って・・・・」の宣誓文を裁判官に対し朗読しました。

 西洋流の二元的良心を思うと状況から「正直」という言葉が軽く聞こえてなりませんでした。出所後は暴力団に関与せず、仕事に専念し社会に貢献したい・・・・。美辞麗句。

 何をもって”正義 ”というのか、考えさせられます。

 共犯者の二人は覚せい剤使用で、網走刑務所に服役した時の知り合いで、出処後知り合いのものから覚せい剤はないかと言われて、知り合いの組員から入手、仲介販売したわけです。何グラムという世界ですので大した額ではありませんが、覚せい剤の悲劇はこう言うところから繋がって行くのです。

 情状証人の妻は検察官質問の際、検事はこの妻がAの逮捕時にAの携帯電話を折るという公務執行妨害と証拠隠滅までしているような質問をしていましたが、どうして現行犯逮捕しなかったのか不思議です。

 最近体が具合が悪くてと証言台で述べていましたが、どう見てもシャブによる影響を感じたのは私だけではないように思いました。

 ということで「良心」の宣誓・・・・”正義 ”はどこにあるのか!

 判決は二週間後、4年6月、3年6月と罰金の実刑判決でしょう。と推定(み)ましたがどうなりますか。


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裁判員制度を再考する。

2010å¹´11月03æ—¥ | æ³•å­¦

 過去には覚せい剤で錯乱状態の男に出くわし殺されそうになったことはありますが、当然人を殺したことはありません。

<引用>

 行為を自己のものとして-----正犯者の意思をもって-----実行しようとするものが正犯者である。「したがって、正犯とは行為支配である。それは、故意すなわち正犯者の決意の中に存する。正犯者は熟考し、実行者として行為する。彼は、犯行をなすかどうか、およびいかになすかを決定する。行為の結果に対して自己の利益の存するということは、自己の手によって活動することの範囲と同様に、行為支配の単なる徴表にすぎず、つねに不可欠の要素ではない。犯行はまた他人の利益のために、あるいは助力によって行うこともできるのである。行為故意は、結果に向けられた、しばしば永続的かつ行為の全系列を包含する」。

 ところで、間接正犯とは、かような場合に、「正犯者の意思を欠く関与者の助力を実行にひきよせる」ことである。「間接正犯者とは、自己の行為の実行に、他人をあたかも道具のように利用する者である。その前提となるのは、この他人じしんが正犯者でない、すなわち、みずから行為支配の意思をもって行為しないことである」。ヴェーベルはかように論ずるのである。

<引用終わり。『間接正犯の研究』(大塚仁著・有斐閣)p98から>

 刑法では、違法性を阻却する事由の中に「正当業務」というものがあります。医師による医療行為が典型的な例です。刑務官が死刑判決の判決を受け確定した死刑員を処刑場で処刑することも法律で定められた行為であることは明白な事実として世の中ではそのように行われています。

 しかし私は、通説的な「違法性阻却事由」という考え方に反対で、緊急避難のところでも述べましたが、どんなことがあっても「人の生命」を奪うことは違法だという考える者です。

 仕事ですし、国家から命令を受忍する義務があり、違反すると法的な処分等が下されますので従わざるを得ないわけで、責任を阻却というよりも、犯罪論的には、殺人罪に類型化されて「人を殺したる」という構成要件的行為該当以前の裸の「行為」の段階で刑法典には抵触しないのではないかと思うのです。

 これは非常に説明が難しいのですが、法治国家である日本ではそうせざるを得ない状況下にあるわけでいちいち問題視できないことだということです。

 裁判員制度の裁判員は、超法規的な存在で故意ある道具とは思えますが、そのような人々(刑務官)を道具とし、突然、殺人罪の正犯者にされそうになっている人々のように思えるのです。

 公務試験を受け合格し、それなりの研修と心構えを身に付けた人々が仕事として行うのとはわけが違います。

 わたしは宗教を信ずるものですからそんな罪深いことは到底できません。何という愚かな制度を作ったものかろと、たびたび言及していますが、「結審で求刑--死刑」の検察官の声を聴くと・・・・・。であります。過去に長野地方裁判所で女性検事の「死刑」という求刑の声を聴いたことがありますがいやなもんです。
 
 (※結審とは求刑までの段階の審理をいいます。誤りではありません)

 前段の引用文は非常に専門的な文章ですが、間接正犯は大変難しい問題を含んでいます。

 死刑求刑で困惑し、結局無期に懲役になりましたが、これは「監禁罪で「人を拘束」することですから犯罪ですが違法性を阻却されるだけです、と考えてしまうのです。


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ハーバード白熱教室では語られなかった「緊急避難」(1)・カルネアデスの板

2010å¹´11月01æ—¥ | æ³•å­¦

ハーバード白熱教室@東京大学(前編)・ミニョネット号事件
(2010年10月04日 | ハーバード白熱教室)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c60ce989fee0a9a369e533dbf75cd777

でサンデル教授は、「彼らは必要に迫られての行為であったと主張した。君たちがこの訴訟の判事で道徳上の見地からこの事件を裁くとしよう。」と事前に注意点を示し例題を出しました。

 注意点とは「道徳上の見地」即ち「法律論を展開しないこと」という注意です。

 なぜそのように語ったのかを今朝はそのことについて語りたいと思います。

 この問題は、『これからの「正義」と話をしよう』では、第二章 最大幸福現地--功利主義で解説されています。

 白熱教室@東京大学では、

○ 功利主義の道徳的推論

○ カントの権利あるいは義務に基づく道徳的推論

が語られました。

 今朝は、まず最初に法律論を展開します。ここで例題として出されたミニョネット号事件の船長等の行為は刑法学的には「緊急避難」という行為です。が法律的にどのように評価されるか、即ち許されるのか許されないのかということになります。

 緊急避難の典型的な場合としてよく引かれる例に、「カルネアデスの板」があります。 これは、ギリシャの哲学者カルネアデスが、思索的課題として取り上げられた例であるところから付けられた名称です。

 カルネアデスは次のように問います。
 
 たとえば、船が難破して船員が海に投げ出され、漂流しているときに、二人の船員のところに一枚の板きれが流れてきたとする。その板きれは一人がすがるのなら十分であるが、二人を支えるほどの浮力はない。この場合に、一方が他方を故意に追いやり、あるいは沈ませて板きれを確保し救助されたようなとき、助かった者は果たして仲間の死について責任を負うべきかどうか、と。
 
 むろん、この問題を、道徳的な観点や宗教の面からのみ見たとすれば、とうてい許されない行為であるとの見解も当然生じてきます。いかに自分が助かるためとはいえ、他人を殺害してまでその目的を達しようとすることは、道徳的・宗教的規準からみるかぎり非難を免れないものといわなければなりません。
 
 
 しかしここからが法律論になるのですが、法律においても同じような判断がなされるかどうかは、また別論となるのです。わたしたちは同じく社会規範であっても道徳規範ないし宗教規範と、法律規範との差異に留意しなければなりません。
 
 道徳規範ないし宗教規範は、一般通常人にとってこれを遵守することが困難なより高い次元の当為をその内容として有する理想性の強い規範ですが、法律規範は、まさに一般通常人が遵守することに困難を感じない程度の当為しかその内容としていません。
 
 それは法律規範が背後に国家的強制力をもつ規範である以上、当然のことといえます。すなわち、法律のレベルでは、普通の国民が守れそうにもないような過酷な要求はしていないのです。
 
 そこで、この問題について考えてみると、神でも聖人でもない一般通常人においては、自分の生命を助けるためであっても、およそ他の生命を犠牲にしてはいけないと要求することは困難であるし、それを刑罰という国家的制裁をもって強制するとすれば、それは著しく過酷でありますし、また結果的にも不合理です。
 
 つまり、少なくともその「板」によって一人の生命が助けられた筈のところ、法律の存在によって二名ともに死亡(法律に忠実であったときは二名ともに溺死し、一名が法律のこの禁止にそむいて自分だけ助かったときは殺人者として処刑されるので、結果的には同じです)するということになるわけでして、これは法律の本来の存在意義に反する不合理な結果といわなければならないからです。
 
 したがって、法律規範に関するかぎり、このような極限的状況における仲間の殺人行為を犯罪として処罰することは許されないことになるでしょう。37条の緊急避難とは、まさにこのような特殊的状況における法の沈黙を、実定法の上で根拠づけたものに他ならなりません。
 
 ここで話を分かりやすくするために、基礎的な犯罪の処罰過程について解説します。前にもブログに書いたことがありますが、犯罪行為とは刑法各条文の犯罪類型(人を殺す。人のものを盗む等)に該当する違法性と責任性を有する行為、というように判断していき、これを構成要件理論といいます。そして違法性の段階で、違法性がないと判断する事由を違法性阻却事由といい、精神鑑定で有名な精神喪失のような状況あった場合には責任性を阻却する「事由あり」として最終的に犯罪行為ではないと判断されます。

 さて、緊急避難は、一般に違法性阻却事由とされていますが、学説の中には、責任阻却事由であるとする見解や、優越する法益保持のための緊急避難(たとえば人の生命を救うために物を破壊する場合)は違法性阻却事由であり、対等の法益保持のための緊急避難(たとえば人の生命を救うために人の生命を犠牲にする場合)は有真性阻却事由であるとする二分説があります。
 
 ただし、このように、緊急避難を責任阻却とする見解は、緊急避難行為そのものを違法であると位置づけることになり、その結果、緊急避難行為に対して正当防衛をもって対抗できる可能性を認めることになり、妥当でない。すなわち、カルネアデスの板の例でいえば、甲が乙を殺害して自分が助かろうとするとき、甲が緊急避難であれば、乙はそれに対して正当防衛が許されることになる。このような極限状況において、一方を違法、他方を合法とすることは不合理といわなければなりません。
 
 すなわち正当防衛も違法性阻却事由ですから矛盾することになる分けで、殺し合いをすることが正当で容認される行為のようになってしまいます。行なってしまった行為については甲も乙も、いずれも緊急避難があてはまるとすべきで、このような考え方は、助かった者は処罰されないという結果を容認することになりますが、これはいたし方ないことでしょう。そこで、やはり、緊急避難は違法性阻却事由と解するのが妥当とするのが今日の通説です。
 
 次に緊急避難の要件、即ちどのような場合が緊急避難にあたるかということですが、緊急避難が認められるためには、
 
 ①自己または他人の法益の保護が目的であること、
 
 ②現在の危難が存在すること、
 
 ③やむことをえざるにいでたる行為であること、
 
 ④避難によって守られる法益と危害を受ける法益との権衡が保たれていること、
 
のすべての要件がそなわっていることが必要です。(刑法37条1項本文)。

 第一に、自己または他人の法益を保護するための行為でなければならない。
 
 37条一項は、この点について、守られるべき権利を「生命、身体、自由、財産」と限定的に掲げていますが、これらに限定すべき理由はありません。たとえば、名誉や貞操を除外するべきではない。その意味では、条文は例示にすぎないと解されます。
 
 第二に、現在の危難に対するものでなければならない。現在の危難とは、現に継続中の危難ばかりでなく、目前に差し迫ったものを含むと解されます。ただし、将来予想されるにとどまる危難は、現在の危難とはいえません。
 
 危難とは、災害、事故のほか、動物による加害行為も含まれます。他人の所有する動物が襲ってきた場合、それが飼主の故意または過失にもとづくときは、飼主の故意行為または過失行為の一端としてとらえることができますから、動物の加害行為も違法な行為として正当防衛による対抗が許されると解されます。しかし、動物が飼主の故意、過失によらずに放たれ、襲ってきた場合、動物に「違法」ということはありえないので、それは危難と解するほかありません。なお、野生動物の場合は、それを殺害しても、そもそも動物傷害罪(261条)の構成要件に該当しませんから、緊急避難を論ずるまでもありません。

 危難の意義に関しては、自ら招いた危難(自招危難)に対しても、緊急避難を認めてよいかどうかについて、学説の争いがあります。たとえば、乱暴な運転をしたため人に衝突しそうになり、それを避けたところ第三者に衝突したような場合、緊急避難として許されるかという問題でです。
 
 最終の時点だけでなく、危難の惹起された状況を全体としてとらえ、自招危難については緊急避難を許すべきでないと思われます。
 
 第三に、やむことをえざるにいでたる行為であることが必要とされる。この点については、正当防衛と緊急避難とで意味あいが異なることに注意しなければなろません。というのは、正当防衛は違法な加害行為老に対する反撃ですから、厳格に、他に避けるべき方法がなかったかを追求するのは酷です。これに対し、緊急避難はなんら危害の発生に関係しない人に対する避難行為を許容することになるのですから、他に避けるべき方法がなかったことが必要とされます。これを補充の原則といいます。

 第四に、法益の権衡が要求されます。すなわち、緊急避難行為として認められるためには、保全しようとする法益が避難行為によって害される法益に優越するか同程度であることが必要とさます。
 
 現在の危難があり、それに対して避難行為がなされたとしても、それが避難行為の程度を超えた場合は過剰避難として違法性は阻却されず、任意的に刑が減軽または免除されるにすぎません(三七条一項但書)。
 
 過剰避難には、補充の原則に反する場合と、法益の権衡を失っている場合とがあります。なお、現在の危難さえなければ、過剰避難の成立する余地も存在しないことは当然です。

 現在の危難が存在しないのに、存在するものと誤信して避難行為をした場合を誤想避難といいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 長々と法律論を述べました。カルネアデスの板における緊急避難は、白熱教室のミニョネット号事件の船員たちの緊急避難でもあるわけです。

 哲学の世界である「道徳責任」はどうかの議論は、一見教条的でもある論旨の推移で簡単に結論が出てしまいます。

 サンデル教授が事前に「法律論」を除外した理由はそこにあります。

 そもそも法律上の結論は、哲学的な議論の中で妥協を求めながら教条的に、また判例を根拠にした判断を基に、各事案を判断しています。

 しかし不思議に思うことがあります。なぜ「人を殺して」無罪なのか、人を殺すことがなぜ違法ではないのか、ということです。

 道徳責任を考えると当然許されるべきことではありません。構成要件とは法益、守られるべきものを規定しています。殺人罪の場合は人の命です。処罰される側からみると、自分の命を守る手段が他にない場合に人を殺しても責任はないのだということです。

 緊急避難の通説的見解では、そもそも責任性が有るのか、無いのか、の検討には至りません。法律的にも違法だと結論づけたいものです。

 そこで次に問題にしたいのは最初の方に述べてた「二分説」です。次回はこれについて述べたいと思います。

 今朝の緊急避難の解説は、私見が入らないように刑法総論の試験の模範解答例として昔参考書にしていた『設例刑法教室Ⅰ総論』(沼野輝彦著 東京法経学院出版)をほとんどそのまま書いてみました。
 
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