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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

どう向き合う?地球温暖化

2013å¹´10月26æ—¥ | åœ°éœ‡

[思考] ブログ村キーワード

 台風27号に続き28号も太平洋も日本列島に向かっており各地で警戒が叫ばれており避難勧告等が出ているところもあり、また台風の直撃はなくとも各地の降水量はかなり増えているようです。そのなか東北にまた地震がありました。

 季節は冬へと向かっているわけですが、今年の冬は寒くなりそうと予想。いつ頃を基準に寒くなりそうなのかわかりませんが、「普通ではない」という気持ちが湧いてくるのを確かです。

 10月1日のNHK時論公論の室山哲也解説委員による「どう向き合う?地球温暖化」という番組が放送されていました。


(10.1NHK時論公論の室山哲也解説委員「どう向き合う?地球温暖化」から)

 IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)が、6年ぶりの報告を出し、「地球温暖化」が、深刻な状況に陥っているとのこと、温暖化にどう向き合うか?という問題提起がなされていました。

・CO2濃度は、上昇し続け、今年5月9日、アメリカハワイで、日平均濃度が400ppmを超えるという記録が出ました。人類が大量のCO2を出し始めた産業革命前の、280ppmから4割も増加しています。

・このまま温暖化が続くと、今世紀末には、この20年間と比べて最大82センチ海面が上昇する可能性が高い

・温暖化の影響が、特に大きいのが、北極海です。去年の海氷面積は、1980年に比べて、半分以下、史上最少となった。

・最近、北極海の氷が解け、船が通れる航路があらわれはじめた。

・北極海周辺は資源の宝庫で、世界の25%の石油、30%の天然ガスがあり、もしも北極海に殺到し、無制限に化石燃料を掘り出し、今までと同じように燃やしつづけたら、大量のCO2が放出され、温暖化がさらに加速される悪循環が始まってしまう。

・地球温暖化は、私たちの想像を超えた、複雑なメカニズムで、揺れ動きながら進行している。


(10.1NHK時論公論の室山哲也解説委員「どう向き合う?地球温暖化」から)
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などが語られ、「温暖化にどう向き合うか?」と気候異常、気象異常の源基である地球温暖化にどのように向き合い、行動しなければならないか?

まずなによりも、

・温室効果ガスそのものの排出を減らし、温暖化の原因を取り除く必要がある。

・そのためには、省エネを進め、再生可能エネルギーの育成、天然ガスなどCO2排出が少ないエネルギーへのシフトが大切です。

・温暖化の被害そのものに対する対策の必要性です。
 残念ながら、温暖化は止まらず、このままでは、高潮や猛暑などで、何らかの被害が出ることを覚悟しなければならない。
 高温に耐える農作物の品種改良も急務で、影響を受けやすいのは、対応力の弱い開発途上国。

 室山解説員は、「日本は先進国の一つとして、国内だけでなく、弱い立場の国々への配慮もしていく必要があります。」「今年11月、地球温暖化を食い止めるための国際会議COP19がポーランドで開かれます。日本は、原発事故後、エネルギー政策の方向性をまとめきれず、温暖化対策を明確に打ち出せていません。」

と語り、「地球温暖化に対して、私たちがどう向き合い、克服していけばいいのか。その姿勢を、いまあらためて考えなおすべき時だということを、もう一度、自らに言い聞かせる必要があります。」と「自らに問う」必要性を最後に語られていました。


(10.1NHK時論公論の室山哲也解説委員「どう向き合う?地球温暖化」から)

 このNHK時論公論は専用サイトがあり過去内容は文立てで番組内容を知ることができます。ほとんどそのままの内容ですが、このような啓発的なことばが国民すべてが共有できているとは絶対にないわけで、放送されてから一か月が過ぎようとしているのですが、何かをしなければならないとの声は、私の知る限り一握りの人々でしかありません。

 自然が私たちに情報として温暖化の現象を提供している。自然に主体があるわけではありませんが、もとにあるという精神的な在る者ならば、その情報にさらなる災厄の継続の意味が問われていると直覚できのではないかと思うのですが・・・・「ベクレてる(放射能汚染されている)んやろなぁ、国会議員に出すお弁当は」・・・・などと耳を疑う言葉に唖然としてしまいます。

 このようなことを言っている自分自身は世間の中に埋没し、できることも限られているわけで、世の中にはできる立場になろうとしたもいるわけですが・・・どうしたことか見えてきません。

NHK解説委員室サイト
NHK時論公論の室山哲也解説委員「どう向き合う?地球温暖化」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/168946.html

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がれきを踏みしめて~気仙沼 港町の絆~・「頑張って」て言いにくい、頑張っている人に・・・

2011å¹´09月20æ—¥ | åœ°éœ‡

 9月19日の日曜日にNHK総合で「明日へ~支えあおう~NHK東日本大震災プロジェクト」という番組で「がれきを踏みしめて~気仙沼 港町の絆~」という番組が放送されていました。

 かつては東洋一の魚市場と言われた宮城県気仙沼、3.11東北日本大震災ですべてが失われました。NHKはこの気仙沼の港町を今から2年前の2009年9月に取材していました。

 港町に集まる漁船、そこに働く人たちの日常を取材したもので、港の施設だけが復興されただけでは、港町は息づかないことを知ることが出来ました。

 番組は、震災後気仙沼港に入る一隻の三重県のカツオ一本釣りの船の姿から始まりました。

 語りは俳優の高橋克実さん。カツオの水揚げに従事する漁夫たちの笑顔に、

 水揚げは落ち込みました。それでも笑顔がこぼれるのは、あの日すべてを奪われたからです。

という語りが流れました。はじめはその言葉になぜと思ったのですが、番組を最後まで見るとそのなぜが解消されていきました。

 2年前のカツオの水揚げ終了後の腹ごしらいです。そしてまず真っ先に向かうところが港町にある銭湯「亀の湯」、





そこにはお帰りなさいと迎える銭湯夫婦がいました。

 気仙沼のお母さんと呼ばれていた斎藤ちか子さん「お帰りなさい」と言われて渡されるのは漁船名が書きこまれたふろ桶。全国の漁師に愛された老舗の銭湯の姿がそこにはありました。

 また雑貨を営む女性が営むトラックがあります。




荷台は何と漁師で大賑わい。そこがそこが魚師たちの束の間の安息場所でした。



そして港町のスナックそこにも魚師の笑顔があり人と人の触れ合いがありました。

 当然のことなのですが、港町は船の停泊場所があればよいというものではなく、また漁港ですから当然全国から漁船が集まり水揚げと、休息を求める場所でもあるのです。

 それが今は見る影もない状態になってしまいました。



 大震災ですべてが無くなった今、そこで暮らしていた人々と漁師の絆はどうなったのか、これが取材の目的でした。

 明治19年創業の銭湯「亀の湯」の経営者の夫婦は、近くのビルの屋上に非難し無事でしたが、施設は震災によりご覧のとおりの状態になってしまいました。

 釜の修理だけで500万円で、銭湯全体を再建するとなるとでは2000万円は掛かるそうです。落胆する夫婦、施設を見つめ考えたのは再建のめどは立たないが、銭湯を掃除しようということでした。そしてボランティアに掃除を頼んだところ来たのは外国人の方々でした。

 一生懸命清掃する外国のボランティアの人々。ボランティアに勇気づけられ、ご主人は湯船にできた亀裂の修理をします。タイルはピカピカに磨き上げました。



 叶うなら亀の湯を再開したい。御主人は次のように言います。

 今までいろいろな人に支援されている。それをお返しするのは自分の持っている仕事を再開することが、一番の答え・・・やっぱり今までやって来たことを止めないでやるということだと思うけれどね・・・・なかなかね・・・・

このような思いの中、今年の7月思わぬ話が入ってきます。大阪の池田氏から仮設の風呂を貸し出したいという話が気仙沼に入ってきました。それを亀の湯に設置したいと気仙沼市が頼みにきたのです。

 しかし脱衣場は測られるものの、ピカピカに磨き上げられた風呂場は見向きもされません。結局は循環ろ過器やボイラーの設置場所になってしまいます。

 脱衣場に仮設風呂を置くにしても高さが問題になり床を剥がすことができましか、という話になりますが老舗4代目のご主人はやるせない気持ちからか了承できません。

 御主人は、綺麗にした湯船と洗い場をそのままに仮設風呂用の循環ろ過器とボイラーを借りたいのですが、池田市は仮設風呂を貸し出すことに支援の主眼を置いています。

 早い話が、行政支援が循環ろ過器とボイラーの貸与ではだめのようです。私自身この話を聴きため息が出てしまいました。

 支援とは、見える支援でなければならないのか?



「そうはいかないんだ向こうは(池田市)、セットでやりたいんだよね。・・・」

 仮設風呂を足掛かりに亀の湯の再建を夢見た御主人ですがそれを叶えてくれる支援ではなかったのです。

 ここの再建のめどが立たなければ取り壊される。御主人は了承します。



 2011å¹´07月31日(日曜日)付の河北新聞社の「3.11大震災特集」のには、「気仙沼の老舗銭湯「亀の湯」 “裸の付き合い”来月復活」という記事が掲載されています。

<記事内容>
 日本大震災で深刻な被害を受けた宮城県気仙沼市の老舗銭湯が8月上旬、無料の入浴施設として期間限定でよみがえる。大阪府池田市の支援を受け、気仙沼市が銭湯のあった場所に被災者向けの入浴施設を整備する。地元住民のほか、気仙沼に水揚げする県外の漁師らが足しげく通った憩いの場が約5カ月ぶりに復活する。
 この銭湯は1886(明治19)年創業の「亀の湯」。かつての魚市場に近い気仙沼湾沿いにあり、カツオやサンマのシーズンは水揚げ作業を終えた漁船員が訪れ、疲れを癒やしてきた。
 3月11日の大津波で外壁やボイラーが全壊。銭湯を守ってきた4代目斎藤克之さん(70)は「被害が大きく私も高齢。100年以上の歴史があり未練はあったが、再開は難しいと思っていた」と話す。
 6月になって、池田市が入浴施設の貸し出しを申し出た。池田市と気仙沼市は青年会議所同士の交流があり、池田青年会議所のメンバー10人がボランティア活動で気仙沼を訪れた際に、池田市の意向を伝えた。
 浴槽や給湯設備は8月5日に届く予定で、亀の湯の脱衣所だった部分に浴槽を置く。お盆前には完成する見通しで、開設期間は3カ月程度になる。
 完成後は気仙沼市が管理し、斎藤さんと妻のちか子さん(65)が業務を担う。ちか子さんは「地域の人たちや漁師たちに同じ場所で再び会えるのが楽しみ」と話している。

<以上>

 この仮設風呂は11月には取り壊されます。その後はどうなるか分かりませんが、番組では震災後初めて気仙沼港に水揚げに来た三重県のカツオ一本釣り漁船の仮設の風呂に入る漁夫の姿が映しだされていました。

生きてて良かったな

生きていたら何でもできるもの

仮設風呂でくつろぐ魚師の方々



魚師の方が、

どれだけ気仙沼が受け入れてくれるかが問題(寄港)
「頑張って」て言いにくい、頑張っている人に・・・

と言っていました。

 短時間の休息、また船は出て行きます。そこには見送る老舗の銭湯のおかみさんの手を振る姿がありました。

 いろいろな問題を抱えて再建に臨む気仙沼の港町の姿。

 震災から半年たっても復興のめどはなかなか立っていません。政府主導の復興が期待できない中で、絆を頼りに力強く前に進む気仙沼の市民の姿が紹介されていました。

 東洋一の魚市場と言われた宮城県気仙沼の港町。

 政争に明け暮れる政治家の皆さんはどのように思っているのでしょう。5000万円のお小遣いに気がつかないお坊ちゃま政治家。知らないで世の中を通ってしまい、政治かもやめない。いいのかなあそれで。

 わずかな期間でしたが日本の総理大臣であったこと、本当にそれでいいのだろうか。

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確信を避け続ける日本・人間性から浮き出るもの

2011å¹´08月12æ—¥ | åœ°éœ‡

 朝方の午前3時22分ころ福島県沖でマグニチュード6.22、震度5弱の地震がありました。津波の恐れはなく、今のところ原発その他の被害の発生はないようです。

 松本でも同じ規模の地震が最近あったばかりで、震度5弱のいう揺れの怖さは実際に経験しているだけで実が凍る思いがします。

 サイトの「ちび丸地震情報」(見出し写真に使用)で毎日の地震発生状況を見ていると、震度1という小さなものも含め日本全国のどこかで必ず揺れています。

 地震大国とはこういうこと、必ず近い未来に大きな地震が松本市にも発生するという予想がされているだけに準備はしているとはいえ、私の場合平日の昼間は松本平に居る事が多くビルの中か、車の中、時々の居場所における心構えが重要だと当然ながら考えていますが、仕事に集中している時は念頭になく、瞬間の機敏な判断しかそのすべはないと考えています。

 冷静沈着な態度と、「言うは易し」ですが、全ての行動において重要なことに思います。

 機敏な判断=冷静沈着

 培われている知識の中から最善と思われる考えに基づき行動する。

 こころの動揺を抑え行動する。

 本当に言うは易しです。

 さて3.11東日本大震災に関する報道などから受けた印象深い話を時々書いています。そのなかで宗教学者の山折哲雄先生のお話にどういうわけかめぐり会うことが多く、山折先生の言葉を紹介しています。

 地方紙信濃毎日新聞は8月に入り3回にわたり山折先生と歌人の道浦母都子(みちうら・もとこ)先生の「3・11後を生きる」対談を掲載しました。

 その中の2回目(8月2日付け)に次のような会話がありました。

<引用信濃毎日新聞「3・11後を生きる」から>

【道浦】 今回の震災で、日本のテレビや新聞は、遺体の映像や写真を全くといっていいほど映さなかった。海外メディアは映しているので、この落差はなぜだろうと気になります。あるテレビ局幹部に尋ねたら「自粛です」との答え。実態を覆い隠すことになっていないでしょうか。

【山折】 戦争中の新聞には遺体の写真が載っていましたから、日本の報道機関が遭体を生々しい形で表現することをタブーとし始めたのは戦後のはずです。

【道浦】 ベトナム戦争のときには、米軍の空からの攻撃にベトナム人が逃げ惑う映像や、ベトナムの兵士が銃殺される映像がお茶の間に流れた。新聞もテレビも血や死体を映していた。そうした報道と反戦運動の広がりには深い関係があったはずです。でも湾岸戦争やイラク戦争になると戦場も死体も映さなくなっていた。戦争と災害という違いはありますが、実態を報じないことで何かを隠蔽してしまうという意味では同じだと思います。


(上記信毎記事から)

【山折】 死体を映さなくなったことと、日本人が死と向き合うことを避け始めたことは無関係ではないと思います。死に限らず、戦後の日本社会は核心的な問題を避け、嫌なものや汚いもの、危険なものを辺境の地、弱者のいる世界に疎外してきた。

今回の問題の核心は「東北の災害」ということでしょう。例えば福島第1原発で事故が起きたが、あそこでつくった電力は関東の人たちが使っていた。人、物、金、そして意識の東京一極集中を変えなければ、根本的な解決には至らない。

【道浦】 私は東北に住んだことがなく、それゆえか、憧れがあります。若いころ

  北指向にわかに生(あ)れて黄昏の木綿のごとき心を開く

という歌を作りました。石川啄木や斎藤茂吉といった優れた歌人も生まれています。

【山折】 啄木と茂吉、宮沢賢治の3人の詩人に、近代文学の精髄があると私は思う。一方で、東北の文化は縄文的であり、古代的。私は花巻から仙台、東京、京都と住まいを移してきたわけですが、実感としては縄文文化から弥生文化へ、古代から近代へと心理的な移動をした気がしています。

・・・・・・略・・・・・

<以上>

 「確信を避け続ける日本」と題が付けられています。

 リアルな部分を避けようとする。衝撃が強すぎるのでという思いやりからかも知れませんが、一方では真実を隠し伝えるべきものが伝わらない。人間性において必要なものが育たない・・・・そうかも知れません。

 「遺体・屍」それはリアルです。目を覆いたくなりますが、実際はそうなのです。

 現在深夜にNHK総合では太平洋戦争の番組を放送しています。リアルな光景が出てきます、それだけに説得力がある。なぜ戦争に向かうのか。死体が多く発生すると指導者は引くことができない・・・・そんな心理があると語っていました。

 リアルな光景は非常に行動力に影響します。リアルなものを見ても冷静沈着でいられるかと問われると・・・・「そうはいきません」と答えることになるかも知れませんが、指導者は実際の目で見ていません。報告を聞くだけです。現場の人々が一番知っています。

 「こんなことはもう止めよう」

それが人間性から浮き出る出る本音なのだと思います。


被災地に残される痕跡・伝えたい伝承

2011å¹´05月18æ—¥ | åœ°éœ‡

 災害被害地復興支援で行った人が写した宮城県気仙沼市本吉町の様子を知らせる写真が、掲示板に張り出されました。

 現場でしか分からない、話を聞くと現実を目の当たりにし、被災者の声を聞き、できるだけのことをした、その話だけで胸がいっぱいになりました。





 景勝地あり、道路あり、生活があった風景が一瞬に消滅。それが現実としてある。

 昨日の産経新聞に、仙台市の遺跡発掘で、過去にあった津波被害の痕跡から大地震による津波が1000年ごとにあったようです。

 住居跡に残る砂粒の違い等でわかるそうですが、東北学院大学の松本秀明教授が明らかにしたもので、「過去の災害に学んだ津波防災対策を期待したい」という教授は語っていた。

 津波は間違いなく、内陸2.5kmまで到達しているのです。

 別記事ですが、同紙にはまた震災に関しての記事として「よみがえるサイカチの木」と題して千葉県館山市にあるサイカチの木の話が掲載されていました。

<記事>

 房総半島の南端、館山市の中心部に樹齢千年とされるサイカチの老木がある。マメ科の高木で、高さ約8㍍。幹や枝に鋭いトゲがあることから、悪霊から屋敷を守るものとされてきた。木は落雷を受けて幹が大きくえぐれている。しかし、市民はこの木に特別な思いを寄せてきた。1703年の元禄地震で館山は津波に見舞われた。そのとき人々はこの木に登って九死に一生を得たという言い伝えが残っている。

 今回の東日本大震災では千葉県も大きな被害を受けた。太平洋に面した旭市は高さ約8㍍の津波に見舞われ13人が死亡、住宅約320棟が全壊した。津波は海岸から300㍍ほど離れた住宅地にも押し寄せた。・・・・

<以下略>

と、市民にとって特別な思いのあるこのサイカチの木の腐食が進み昨年12月には守る会をが発足し保護活動が行われているとのことです。

 人々を救ったサイカチの木の再生に寄せる思いは、東日本大震災後は被災地復興のメッセージでもある、ということです。

 サイカチの木がなぜ目にとまったかと言うと、松本城の城下町に見ることができる木で、過去にブログにも取り上げたことがあるからです。

 新聞記事ではマメ科の高木でトゲのある木という説明しかありませんが、「サイカチの木」は双子葉植物、離弁花類、マメ科、サイカチ属、落葉高木、別名:カワラフジノキという。薬と利用されたり石鹸として利用されたようです。


(松本市内にあるサイカチの木)

 どんな生薬かと言いますと、咳止め、利尿作用の薬となり、江戸期には城下町松本ではよく見られた木なのですが、現在は数えるほどしかありません。

 生活の知恵から伝えられている木ですが、伝承が途絶えると見向きもされなくなってしまいます。

 身近には必ず先人が残した、大切な伝承があるはず。

 地名然り、石碑然り、樹木然り・・・地域史の民俗編には必ず書かれています。

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教えを乞うことと、自分が納得すること

2011å¹´04月04æ—¥ | åœ°éœ‡

 人の言動の心底にある個からの覚知の言葉に共鳴を覚えることがあります。

 感ずるところがあり、心ひかれて夢窓国師の「再住天竜寺語録」、「陞座」を読んでみました。積読になっていた手元の『日本の禅語録七夢窓』(柳田聖山著 講談社)を読みました。 

<引用p210~p211>

・・・若し是れ浅識の流(たぐい)は、此の幻妄に縛せらるることを被つて、休歇有ること無し。
或は、怨に似て親なる者有り、或は親に似て怨なる者有り。怨と親と都(すべ)て定相なし。此れ其の怨親の倶(とも)に是れ幻妄なるしょ所以なり。

【訳】

・・・浅知のものは、幻想にしばられて、休止することを知らぬ。怨みに似た親しみがあり、親しみに似た怨みがあって、怨みと親しみに実体はない。怨みも親しみもともに幻想にすぎぬからである。

<p217>

怨親平等に覚果を成ぜしむ。

【訳】

怨親平等の仏果を完成し、・・・


<p225~p226>

・・・蓋(けだ)し其の国土の安危(あんき)、自他の逆順、皆吾家の戯具(げぐ)為る耳。迷妄の類は、肯て言及せず、夢想を蔽(おお)うて有相と為し、妙用を枉(ま)げて妄用と為す。是の故に世間は否泰相奪ひ、衆生は業債相酬ゆ。
曠劫(こうごう)に輪廻して、因循として今日に至り、未来に沈溺(ちんでき)す。出脱、何時をか待たん。

【私注】
曠劫【こうごう】〔仏語〕:きわめて長い年月
因循【いんじゅん】① 古い習慣や方法などに従うばかりで、それを一向に改めようとしないこと。② 思い切りが悪く、ぐずぐずしていること。

【訳】

・・・言ってみれば、国家の安危も、人々の是非も、すべておのれ自身の玩具にすぎぬ。ところが、愚かな人々は、自分を信じきれないで、何もないのに迷いが有ると思いこみ、霊妙な自己を無駄にして妄動している。そのために、世の中は通と塞が対立し、人々は負債の悪循環をたてぬ。永劫に輪回して、むざむざと今日を生き、未来の穴におちこんで、いつはいだすというか。

<以上>

という言葉を読む。ニーチェのルサンチマンや永劫回帰と重なると言うと専門家には笑われそうで、さらに曲解といわれそうですが、あくまでも自己の思考探究です。

 知識を得て如何ほどになろうかと夢窓国師先生の言われるところですが、得なければ知ることもできず、知らなければ何か納得のいかない我が人生です。

 執着といわれそうですが、偏するよりも自分を取り戻す方が如何ほどかよろしいように思います。物まねを何ぼしても物まねであって、本来の自己もなき世の自己と納得するとき、その言葉群は響くのです。

 また自己の思いにとらわれると、偏して構想なき抜本改革を述べてしまう。現実は多々教えてくれるものです。

 思考には多面な視点の置き方があります。水平思考という考え方もその一つ、逆説的な理解もその一つ、言葉を置き換えるのもその一つ、二人称で自分に働きかけるのもその一つ・・・・。

 昨朝は、坐してからNHK教育「こころの時代~宗教・人生~」宗教学者如来寺住職釈徹宗さんの「かかわり合う場の中で」という番組を見た後、地区の定例会に出席しました。

 釈住職の「苦楽を共にする場の意味とそこにおける関わり」の話にを思い出しながら、地区の定例会の末席に座りました。年予算案の決議をし、そして地区の防災関係の話になりました。有明の山麓には、別荘地があり多くの現役を退いたいろんな部門の専門家が住んでおられます。

 その際、80歳代の元土地改良の専門家の先生(近隣住民)が松本市に巨大地震があった場合の地区の影響について話されました。

 松本平には有名な牛伏寺(ごふくじ)断層という亀裂があります。美ヶ原高原の南に南北に走っています。松本市と塩尻市の境にありここで震度7の巨大地震が起こらないという保障は全くありません。東日本大震災を見れば起きるに違いないと考えた方が良いと思います。

 松本平に震度7が起きると、安曇野平は震度6強、私たちが住む山麓地帯は震度6弱となるとのこと。

 生き残れる可能性は松本平よりも高い確率です。救援隊はどこからくるか、今回の東日本大震災でも、これが一番重要な問題でした。

 いかに住民が震災に対する自覚を持ち、そこに共同体(コミュニティー)内において有機的な相互力が必要かが解ってきます。

 80歳にして意気軒昂、心強い先達さんがいることに感謝です。

 共に生きるとはどういうことか、真剣にコミュニティーに自分をおいて考える時期に来ていると、納得したしだいです。

 

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養生して虎に食われた男・心の貧乏にはなりたくない

2011å¹´03月24æ—¥ | åœ°éœ‡

 余震の連続は体感の中で不安を助長する。目に見えない放射能の水道水への汚染、大地の汚染は数値で不安を助長する。

 ä»Šæœç¾åœ¨è­¦å¯Ÿç™ºè¡¨ã«ã‚ˆã‚‹ã¨ä»Šå›žã®åœ°éœ‡ã¨æ´¥æ³¢ã«ã‚ˆã‚‹æ­»è€…・行方不明者合わせると2万5000人だとのことである。

 宮城県のある被災地で避難場所にもなっている小学校で卒業式が行われて、できないと思っていた卒業式、感謝の気持ちを保護者の母親が語っていた。津波で卒業証書は汚れてしまったが、校長と教頭が丁寧にその汚れをぬぐい取り子供たちに手渡された。

 地震に耐えた証(あかし)勇気を与える証書旨の校長先生の言葉、手にした子供たちの言葉もその励ましに答えるものであった。

 他人事で傍観する私の心に突き刺さるが、その痛みは何かを伝えてくれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 連日連夜、数値が流れる。予想される余震の震度は6弱から6強とのこと、それに答えるように大地は揺れる。

 人間が作り出した、見えない脅威の数値、自然界にも存在する同じものも、人間が数値の脅威に変えてしまった。いつ来るかもしれない死への恐怖である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は何かを知り、何かを学び取らなければならない。「お前は何を学ぶか?」そんな問いを今突きつけられている。

『荘子』に養生して徒らに食われた男の話がある。そんな話を森三樹三郎先生は次のように紹介している。

〔養生して虎に食われた男〕

 魯(ろ)の国に単豹(ぜんぴょう)という男がいて、岩屋にすんで水を飲み、世の人なみの楽しみを求めようとしなかった。このため七十歳になりながら、まだ赤ん坊のような色つやをしていた。ところが不幸にも飢えた虎に出会い、そのために食い殺されてしまった。

 また張毅(ちょうき)という男がいて、富貴の人がすむ邸宅の前を通るときには、必ず小走りして通りすぎ、敬意を表するという礼儀正しい人物であったが、あまり身のふるまいに気を使ったために、四十歳になったとき熱病を起こして死んでしまった。
 
 単豹はわが身の内をよく養ったのであるが、虎がその身の外を食ってしまった。
 
 張毅はその身の外をよく養ったのであるが、病気がその身の内を攻めたのである。

すべて養生には、一つのことだけにとらわれないことが大切なのである。

 世俗の養生法はすべて不十分なものばかりである。完全な養生法とは、自然の道に従う
以外にはない。

<引用『老子・荘子』(森三樹三郎著 講談社学術文庫p237)

 完全な養生はない、自然に従うだけ、一つのことに囚われない心がその道だというのである。

 人間とは不思議なものである。内なる声の中に最低と最高、最悪と最高、幸いと不幸をみる。真実なのかニセモノなのかすべては混合している。

 善いと思ったことが悪いこともある。注意深さが思いがけない落とし穴にはまることもある。

 敵だと思っていた者が実は味方で、仲間だと思っていた者が実は敵だったということもある。

 「真実なのかニセモノなのかすべては混合している。」とはそういう意味で、今の世の中すべての思いは混合して見えているのである。

原始仏教典にこんな偈がある。

<引用>

おのれを害(そこなう)うもの
      南伝 相応部経典 三、二 [人]
      漢訳 雑阿含経 四六、一九

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祓陀)林なる園にあられた。

 その時、コーサラ国の王パセーナディは、世尊を訪れ来たり、世尊のかたわらに坐して、白(もう)して言った。
 
 「世尊よ、どのようなものが人の心の中に生ずる故に、人は苦しみ悩み、不安となるのであろうか。」
 
 「大王よ、人々が苦しみ悩み、不安におちいるのは、三つのものが心の中に生じるからである。その三つとは、何であるか。大王よ、貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。この三つのものが、人の中に生ずるとき、その人は不幸となり、不安となり、苦しみ悩まねばならぬのである。」

 かく説いて、世尊はまたさらに、偈をもって次のように教えた。
  
 「むさぼりと、いかりと、おろかさと、
  この慈しき心、うちに生じて、      
  おのれを害(そこな)うこと、あたかも
  竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」

<以上『仏教の根本経典』増谷文雄著 大蔵出版p139>

最後の「竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」がわからない。

 相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)『ブッダ 神々の対話』(中村元著 岩波文庫)第三篇第一章第二節「人」では、

<引用>

「人」

一 〔あるとき尊師は、〕サーヴァッティー市の〔ジェータ林・(孤独な人々に食を給する長者)の〕園に〔住しておられた〕。

ニ そのとき、コーサラ国のパセーナディ王は、尊師のましますところにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶をして、傍らに坐った。

三 傍らに坐って、コーサラ国のパセーナディ王は、導師に次のように言った、---「尊いお方さま。どれだけの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮しとなるのですか?」

 「大王さま。三つの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。その三つとは何であるか? 貪りという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。また憎しみという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。迷妄は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。以上これらの三つの性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです」と。
 
四 〔尊師は次のように言われた、---〕
  「貪りと怒りと迷妄とが、己れに生じると、悪心ある人を害する。---
   茎の細い植物が、実が生(な)ると、〔害されて倒れる〕ようなものである」と。
   
<以上上記書p165>

 弱気茎の細い植物のような人間、実の重さに耐えず倒れてしまう。この場合の「実」は何ぞや。

貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。

貪りと怒りと迷妄

これらの言葉があらわす思いが、人の心に生じると、不幸となり、不安となり、苦しみ悩み、人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるというのである。

 原発の放射能流出の問題に絞ると、現在の不安、不快適な暮らし、人によっては最大の苦しみになっているかもしれない。

 貪るわけでもなく、怒りでもなく、道理に暗く実のないものもあるように思っている、心の迷いの中にあるのか。

 愚かさの真っただ中にいるのか。

 数値で表される、形なきものである。そのものの働きは高ければ早急な細胞破壊になり、緩やかな蓄積も細胞破壊の道筋をたどる。行きつくところはだれもが平等に有する死である。

 養生して虎に食われた男のごとく、死への道筋は多様である。

 すべてに明らかなことは、すべての事実について自分が直面しているということである。

 直面とは考えさせられる時を得ているということである。

 私は、あなたは、何を考え何をしようとしているのか。

 だれがこのストーリーを考えたのだろう。

 ストーリーが描き出そうとしているものは何か。

 しっかり考える時を与えられている。そんな気がする毎日である。

 実は、負のみであるわけがない正を含むものである。恵みの実となるに違いない。そう信じたい。

「養生して虎に食われた男」だけにはなりたくない。

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地震の揺れ 地球を約5周する・真心の行動

2011å¹´03月23æ—¥ | åœ°éœ‡

  気象庁精密地震観測室が長野市松代地区の松代大本営跡にある。日本最大級の地震観測施設で、正式名称は気象庁地震火山部地震津波監視課精密地震観測室(以下精密地震観測室とする)ととても長い名称である。

 群列地震観測システムと呼ばれる観測機構を持っている。同システムは、直径 10kmの円周上に6地点、ほぼ中央に2地点の合計8地点に高精度の地震計を配置し、データはコンピュータ処理され、「1観測点で捉えられない微弱な地震波を検出」、「震源の距離と方向を求める」などを行う。

と説明されています。

 この精密地震観測室の今回の東日本大震災の観測結果が昨日22日16時35分の「NHKニュース」サイトに次の内容で伝えられた。

地震の揺れ 地球を約5周する

 東北の太平洋沿岸で起きた巨大地震で、地震の揺れが地球をおよそ5周していたことが、気象庁の観測で分かりました。
 
 気象庁は「今回の地震がいかに巨大だったかを物語る観測結果だ」としています。

 気象庁は、長野市の地下深くに高感度の地震計を設置し、世界中で起きる地震の揺れを観測しています。
 
 この地震計が捉えた今回のマグニチュード9.0の巨大地震の揺れを分析したところ、太平洋沖の震源地からユーラシア大陸側に伝わった地震波と、反対方向のアメリカ大陸側に伝わった地震波が、それぞれ2時間余りの間隔をおいて長野市で再び観測され、その後、揺れは次第に小さくなりながらも、およそ5回にわたって観測されていたことが分かりました。
 
 気象庁は、今回の巨大地震の揺れは、地震発生から12時間で地球の表面をおよそ5周したものとみています。これは、去年、南米チリで起きた巨大地震の際の観測結果を上回るもので、気象庁は「今回の地震がいかに巨大なものだったかを物語る観測結果だ」としています。また、地震による揺れが収まったあとも、体で感じることのできないかすかな揺れが地球規模で続いていることも分かりました。
 
 これは、地球が1000分の1ミリ単位で伸び縮みする「地球自由振動」という現象で、今後2週間程度続くものとみられるということです。気象庁精密地震観測室の三上直也室長は「地震波が地球を5周もしたことがはっきり読み取れることは、これまでほとんどない。
 
 いわば地球全体が震動したような状態で、今回の地震の巨大さが、地球規模の地震観測データでも裏付けられた」と話しています。

<以上>

 地震波が地球5周するという歴史時代未曽有の地震とも言えそうな事態、被災者に対する救援も米軍等の力を借り行なっている中、高額で商品を売る輩が見られるとのことである。

 一方地震の余波で廃炉になるような事態になった原子力発電所から流出する放射能は、大地に降り注ぎ、定めた基準値に抵触するとの理由から出荷停止になるところも出てきた。

 またこのような事態を見ていると、酪農にも影響が出てきそうとのことである。

 非常事態と叫び、放射線量を提示し、さほど人体に対する影響はない、と毎日のように政府は語るが、物価統制、流通統制等の法的強硬策を地域を限定してでも行うべきではないだろうか。

 ENEOS(JX日鉱日石エネルギー)は、

 仙台製油所   被災により停止 
 鹿島製油所   被災により停止 

ということで、松本平、安曇野平にある給油施設は10分の一の営業のような状態になっている。一方他のメーカーの給油施設は、買い占めなどとういうこともなく夕方の帰宅時にもガランとしている。

 こういう事態を見て、同種企業に対する物流の共同融通を非常事態として推進する政策がとれないものかと思う。

 また農産物等の安全性については、危険性を強調する公報・広報するのではなくどの程度までが安全なのか、危険性だけが耳に残る今の情報発信も、この非常事態には統制する必要があるのではないかと思う。

 真実が隠蔽されることも予想されるなどの論理が働いているのだろうと思うが、「真実」とは何ぞや、人の欲望を満たすことではないことは多くの人が学んでいることではないか。

 不安解消を上手に解決する方法は「真実」を語ることことではなく「真心」を語ることのように思う。

 ã€€ã“れは隠蔽せよ!と言っているのではない。為を思って行動してほしいということである。

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効果と生き甲斐の関係・老子・ユングの言葉

2011å¹´03月20æ—¥ | åœ°éœ‡

 (自然は時々不思議な姿を見せてくれるものである。一昨日前に諏訪に出かけた時に、諏訪湖上空で見た直角雲。)

 異動期で送別会を行うのが例年の慣わしだが、今年は自粛を決定した。同期の少人数も含め気持ち的にも今なすべきことが共通の思いになっている。臨機な対応、指摘されないまでも自主的に行えること、職場はもちろんご近所との共同体の生活においてもとても重要に思える。

 階段や街頭の電燈一本が切れても人待ち姿勢が目立つ。「おまえは大丈夫か。」二人称の叱咤激励を自らの心の中に聞き、一人称の反省を日々重ねる。

 自ら湧き出る欲する心を避け、厳格な倫理性を格律のもとに生きるなどということは、できるものではない。安きに流れたし、そんな心をいくらかでも避けることができれば幸いである。

 原子力発電所のポンプ車による冷却に一定の効果があるようです。ポンプ車による冷却発想は単純だが、先進国日本の対応は警視庁の放水車が最初というのは悲しい限りである。

 最初の発想はどこから来たのか、誰が考えついたのか聞きたいところである。

 さて上記の文章の中にもあったが、「効果」という言葉がある。「よい結果が現れること」という意味になるようだが、この場合の「よい」は「良い、善い」の反対語の悪いを思考の前提に置かない「よい」で、善し悪しを越えて、本来あるべき姿に落ち着く、均衡、平衡の状態、「程よい」といったときの「よい」という概念の言葉のようである。

 「効果」を表す言葉にどんな言葉があるのか類語辞典を調べてみた。

効く【き・く】
利かす【き・かす】
効き目【き・き・め】
役【やく】例:覚えた英語が役に立つ。
功【こう】
詮【せん】例:忠告しても詮がない。
甲斐【かい】
徴【しるし】例:薬の徴が現れる。
生きる【い・きる】
生き甲斐【い・き・がい】
年甲斐【としがい】
効【こう】例:薬石効なく・・・。
逆効果【ぎゃくこうか】
効用【こうよう】
効力【効力】
効能【こうのう】
効験【こうけん】例:効験あらたかな薬。
験【けん】例:山伏が験を現わす。
速効【そっこう】
実効【じっこう】
特効【とっこう】
偉功【いこう】
奇功【きこう】
薬効【やっこう】
発効【はっこう】
奏功【そうこう】
功を奏する【こう・を・そう・する】
時効【じこう】
失効【しっこう】
死ぬ【し・ぬ】
<以上角川書店『類語国語辞典』から>
※個人的に判りにくいことばには、用例等を付した。

冷却の効果、原子炉の安定・・・今や世界の人々の願いであり復興にも拍車がかかるように思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上記の「効果」の類語の中に「生き甲斐」という言葉が入って入ることに気づく。

 「生き甲斐」は、「生きているの値打ち」「張り」という意味で、用例としては「生き甲斐のある人生を送る」などと使われる。

 「生き甲斐」がなぜ「効果」と類語になるのだろうか。
 効果という言葉の中にその共通項を見いだすと、「あるべき姿」という根源的な深みの中にその意味があるように思う。生きがいとは心の安定であり、心の平衡・均衡であるように思というよりもこじつけたい。

分析心理学者カール・グスタフ・ユングに次のような言葉がある。

<C・G・ユングの言葉>

生涯のおわりにすべきこと

 私が生涯のおわりにあたって、一生をただ無為にすごしただけだったと思うかどうかが問題だ。仏陀も、弟子たちの不毛な理論追究をやめさせようとしたときにその問題を考えたのではないか。

 私の生きている世界が、私に、お前はいかに生きてきたのかとたずねることが、私の生存にとつて重要な意味がある。たしかに私自身は、この世界に対し疑問をもっでいる。しかし、世界が私に対してもっている疑問に対する返答を、私は世界に示さなくてはならない。

 さもなければ、私は単に、世界が私の疑問に答えてくれたことに追従するだけである。世界に対する返答の作成は、私が苦心して実現すべき超個人的な生活課題である。おそらくこれは私の先祖も取り組んだもののはっきり回答できなかった何物かであろう。                                     〔思い出〕

<以上『ユングの名言集』フランツ・アルト編 金森誠也訳 PHPから>


 ・・・・・私に、お前はいかに生きてきたのかとたずぬることが、私の生存にとつて重要な意味がある。・・・・・

と、二人称の呼びかけと、一人称の自戒の言葉がある。

 以前M・チクセントハイの喜びの現象学でいうところのフロー体験について書きかましたが、上記のユングの言葉と生き甲斐の本来的な意味について思考すると、フロー体験よりも更なる深遠な善き生き方に思う。

 社会学者の大澤真幸氏の「裏返しの終末論」を最近紹介したが、ここで述べられる「終末論」は世界の終極ではない。

 宇宙科学・物理がいかようにその真理の追究に結論を出そうが、世界は永遠であり、終極はなく、終末などもない、人は永遠の中に帰るだけである。

 そういうことを踏まえて限られた人生の中でどう生きるか、そして、生きたのか、である。

 昨朝は中国の韓非子を引用したが、老荘思想や道教は古代から日本とかかわりが深い。
 老荘思想は中国仏教に深く関わりをもつものであり、また賀茂真淵の国学の思想の中にも見ることができる(『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社文庫・『近世の国学思想と町人文化』松島栄一著 名著刊行会 第一章賀茂真淵の「からごころ」批判をめぐって」参照)。

 その老子の「至楽(しらく)篇」の中に次の話がある。

<引用>

妻の死に盆をたたいて歌う荘子
                  
 荘子の妻が死んだ。そこで友人の恵施(けいし)が弔問に出かけた。そのとき荘子は両足を投げ出したまま、盆を鼓いて歌をうたっていた。
 
 そこで、恵施はいった。
 
 「夫婦となってつれそい、子を育て、ともに年老いた仲ではないか。その妻が死んでも泣かぬというのはまだしものこと、盆をたたいて歌うとは、ちとひどすぎるのではないか」
 
 すると、荘子は答えた。
 
 「いや、そうではないよ。妻が死んだばかりのときは、わしだって胸がつまる思いがしないわけではなかった。だが、よく考えてみると、人間はもともと生のないところから出てきたのではないか。生がないだけではない。もともと形さえなかったのだ。いや、形ばかりでない。形をつくる気さえなかったのだ。
           
 そのはじめ、天地が混沌(こんとん)の状態にあったとき、そこに変化が生じ、気が生まれた。その気が変化して形をつくり、その形が変化して生となったのだ。ところがいま、も一度変化をくりかえして、形のある生から形のない気へ、気からまだ気のなかった混沌の状態、つまり死に帰っていったのだ。これは春夏秋冬の四季の循環をくりかえすのと全く同じではないか。
                  
 それに、せっかく天地という巨大な部屋(へや)のなかで、いい気持で寝ようとしている人間に、わしが未練がましく大声で泣きわめくようなまねをするのは、われながら天命をさとらぬしわざに思われる。だから、泣くのはやめたのだよ」
 
<以上『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社文庫から>

大道に臥す。姑息な生き方だけはしたくないものである。仏教の中にはそんな心も重なっている。

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為になる自由をもつこと

2011å¹´03月19æ—¥ | åœ°éœ‡

 中国の戦国時代の思想家韓非子の言葉である。いまから2200年も前の人物であり、昔は昔今は今と言われそうな話だが、大切な何かを教えてくれているように思う。
 
<韓非子>

 人の考えはそのときと事情によって変るものである。
 
 山地に住んで谷底まで水を汲みに行かねばならぬ所ではお祭りの手みやげに水を持って行くが、低地に住んで水に苦しんでいる所では人夫をやとって水はけをよくしなけれはならない。また餞饉年の春のはぎかい期になると幼い弟にも飯を食わせないが、豊年の秋には大して縁のない通り過ぎの旅人にも飯を食わせたりする。
 
 これは身内のものに薄情にし、ゆきずりの旅人に依怙ひいきするわけではなく、ただ物の多いと少ないとの実質が違うだけのことである。されば昔の人が物資を軽視して惜しげもなく他人に与えたのも、人情が厚かったのではなくて物資が多かったためであり、今の人が物を争奪するのは性根が賤しいのではなくて物資が少ないためなのである。
 
 同じように昔の天子がその他位を簡単に離れたのは精神が高潔であったからではなく権勢が小さかったに過ぎないし、現代人が役人の地位の一つを大騒ぎして争うのほ、品性が下劣になったのではなくて権勢が大きいからなのだ。
 
 以上のようであるから聖人は物の多少をよく調べ、地位の軽重をよく吟味して政治を行なうので、罰が軽くてもただちに情けぶかいとほならず、刑が重いといってもただちに残酷とはならないのである。
 
 それぞれの場合と事情に応じて行なったまでだからである。ゆえに何事も時勢にもとづいて行なわるべきであり、対策は事情に従って立てられなければならないのである。

<以上『韓非子のことば』黎明書房中国の知恵5・p33から>

 この災害時に物資の不足しているのは被災地である。大震災前まではモノがあふれていたではないか。「もったいない」そんな言葉が叫ばれていた。

 買占めは略奪に近い。そんな気がしてならない。他国から驚異に思われているが、その実は、賤しさが見え隠れしている。

 簡単な言葉だ。

<ゆえに何事も時勢にもとづいて行なわるべきである>

 時世における理性的な自立。己を律する、自律の時なのかも知れない。他人に良かれとする行為に走りなさいという定言命法を語るつもりはないが、自分の欲するところに従うなそれだけの提案であり、「俺は買占めはしない」という格律をもつだけである。

 そこに如何なる不自由があるだろうか。買占めの姿には、他人に惑わされる不自由な自分があるだけである。

<ゆえに何事も時勢にもとづいて行なわるべきである>

時勢の中になぜ不自由を求めるのか?

時勢に従って為すべき使命に、格律に従うだけのことである。このご時勢に宗教家、思想家は簡単に「人間だから・・・」とその浅ましさを簡単に口にしてほしくない。

 人間だから当然なすべきこと、為になる自由をもつべきである。

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危機管理の心・準備の心・本当の使命

2011å¹´03月18æ—¥ | åœ°éœ‡

 危機管理という立場からすれば、想定外の危機というものがあるのかと考えさせられる。自然災害に対する危機管理。日本の場合は地震大国であることは明白な事実。そこには当然危機管理の立場からすれば今回のようなことも起こることは当然に予想され、予想を上回る災害といえるのかと疑問に思う。

 被害区域が広いことこれについては、少しは理解できる。しかし東京電力の原子力発電所についてはどうだろう。自然災害でこれほどまでの被害、もしも原子力発電所を狙ったテロであったならば、非難する余裕もないことが明白になった。

 そして今回はっきりしたことは、破壊された時には所有する企業はその破壊から生ずる甚大な被害に対して自らの力で制止できないということだ。

 なぜ警視庁や自衛隊の力で対処するのか、電力産業という莫大な利益を上げている企業が、放水車が一台もなく、後手後手のような対応になってしまうのか不思議でならない。

 消費者から吸い上げた利益はどこに行ってしまったのか、間接的ではあるが、なぜ消費者がその負担を背負うのか?

 日本人は反省をする間もない危機に立たされている。危機を煽るつもりはないが、各地にある原発も同程度の危機管理であろう。

 火力や風力による発電所の倒壊は、地域が限定され今回のような恐ろしい恐怖を招かない。水力と原発だけは想定外は許されないということをどうして気がつかなかったのか、安全安心神話がいつの間にかつくり出されていた。

 反対する人がいたわけで、私も含めて耳を傾けなかったことを恥じる。各地の電力会社は早急に考えてもらいたい。災害は何時何処に起こるかわからない。地震大国に地震が起きることは当然である。こんな話を聴いたことがある。

 危機管理とは準備でもある。

 当然起こることに対する準備

 いつ起こるかも知れないことに対する準備

 進んで押しひらき乗り切る積極的な準備

 稲作においては、農閑期の翌年の準備をする。そこで培われた準備の心。稲作日本の姿が消えたころから、その準備を危機管理を忘れてしまった。

 未だにのんびりと遊戯に興じている姿を見る。芸能人が遊戯機械を宣伝するCMを数多く見たが今はそのCMを見ない。そもそも不謹慎なCMなのだ享楽は一時的なものであり何ら心の準備にはならない。

 人は本当の使命を尽くすべきである。

 ガルビッシュは凄い、ハーバード白熱教室では、イチローの年俸に対する税金の話があったが、その根底にある公の人々に接する、真のスポーツマンお姿を見る。韓流スターも凄い、自分自身の微々たる姿が恥ずかしくなる。

 日本人は工業国になってから何かを忘れてきたようだ。セレブにどんな姿を見るのか、ドンべりにどんな姿を見るのか?

 長野県内の4市町村では被災者の受け入れを決めて昨夜からもう開始している現在(1600人)。某市長曰く「こういう問題は、県や国のレベルの話だろうが、一刻も争う事態であり決断した」旨のコメント「進んで押しひらく姿に感激している。

 長野県内には数多くの研修宿泊施設が多くある。支援の声が高まっている。

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