思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

バベルの塔の物語

2014å¹´10月31æ—¥ | æ­´å²

 旧約聖書の話しで有名な「バベルの塔」の物語。モーゼの第一書、創世記で語られるこの話は、今に生きる話なのかも知れない。

 むかし、人々は同じ言葉を話していた。ひとびとは東の方から移って、シナルの地に平地を見つけて、そこに住みついた。彼らは言った。「さあ、われわれはひとつの町を建て、頂きが天に達する塔をつくり、それによって我々の名を有名にしよう。」
 人々はレンガを焼き、天に届く塔を築き始めた。神ヤハウエはそれを見て怒った。「よし、降りて行って彼らの言葉を混乱させ、お互いにつうじなくさせてやる。」こうして全世界の言葉は乱れ(パーラル)始め、人々は全地に散らされた。

 今は亡き森本哲郎先生の著書を読んでいると、このバベルの塔の物語が紹介されていた。むかしその塔があった場所は、荒涼な廃墟の地となりそこに住む人々はいまだに神の怒りを受けいるように見えます。同じ神を信じるものたちが、信じるがゆえに日々神の啓示を受けつづけています。

 善きものも悪しきものも、ことごとくそこに示されれますが、その意味を解する力を失ったように見えます。その乱れはその地だけではなく、全地という表現は、地球規模という言葉に変わっています。

 「この物語は、人間が築く文明、文化の原点が、何よりも言葉にある、ということを暗示していよう。人類の文明を破壊させるには、強力な武器をもってするより、言葉を乱すほうが、はるかに効果的であることを神は見抜いていたわけである。たしかに、それは歴史が証明している。軍事的に征服されても、攻撃された民族は滅亡したわけではない。だが、それによって言葉は乱され、アイデンティティを失った民族は、例外なく征服者に呑み込まれて、植民地化の一途をたどった。
 とすれば、何より恐るべきは言葉を乱されること、と言っていいのだろう。ところが、それは物質的な破壊とは違って、容易には気づかれない。だから征服された人々は、しばしば、みずからすすんで相手を同化しようとする。そして気がついたとき、すでに民族独特の文化は消え去り、まるで根なし草のようになったおのれを見出すのだ。それは、母国語というものが、いかに大切なものであるか、言葉がどれほど人間の精神と深く結びついているか、ということを自覚なかった報いなのである。」(『日本・日本語・日本人』新潮選書)

 この本は大野晋・鈴木孝夫・森本哲郎という三名の語る日本論で大野、森本両先生は既に亡くなられています。古い本ですが、言語学に精通する巨匠の語りは今も生きているように思います。上記のバベルの塔の話は、同書の「はじめ」に森本先生が書かれたもので、以前「沖縄島言葉(しまくとぅば)は失われる時」と題して書きましたが、そこには沖縄の人々だけではなく、本島の日本人にも自覚的なものを問う言葉に聞こえます。

 言葉の乱れは、精神の乱れ、世の乱れ。

 バベルの塔の崩壊は、巨大ビルの崩壊にも似ています。

 不思議です。遠い昔の神の怒りに起因することが、現代社会にも回帰し続けている。


歴史ヒストリアの遠野物語を見て

2014å¹´10月30æ—¥ | æ°‘ä¿—å­¦

 柳田國男先生の『遠野物語』が、昨夜NHKの歴史ヒストリアで放送されていました。 今年の6月にEテレ100分de名著『遠野物語』4回シリーズで取り上げられ、それ以前からもこの物語には興味を持っていましたので、遅い時間の放送なので録画し、帰宅後先ほど観終わりました。

「妖怪と神さまの不思議な世界~遠野物語をめぐる心の旅~」心に残る番組でした。

 神々と精霊の楽園。遠野のイメージは日本の原風景がいまだに残っているところがあります。現代社会に生きる私たちは合理的な理解が先行し、遠野物語が語るようなあの世の世界と直結する話や地域の持つ共同体的な結束のようなものが希薄になってきています。

 それはまた、人間存在の終末に忍び寄る「どこへ去るのか?」という不安感にもつながります。「魂のゆくへ」というのが『遠野物語』の背後にあります。それは柳田先生が語る「魂のゆくへ」であって、現代人が失った大事な何かのように思います。

 物語中に語られる死者の物語は、多くの魂のゆくへ語り、死者を弔う側の生きる意味を悟らせます。

 「妖怪と神さまの不思議な世界」

 魂のゆくへと妖怪と神さまの話、同一次元で語られるところにこの物語の後世への遺産的な意味を感じます。合理的な話は一つもありません。

 非合理極まりない話ですがそこに魅かれるならば「魂のゆくへ」はその人には見えてくるのかもしれません。


手短な日常的可能性に入る

2014å¹´10月29æ—¥ | å“²å­¦

「エボラ出血熱」

 人類を滅亡に追い込むような脅威に感じるのですが、昼間の騒がしさの中には話題として挙がっても、いつの間にか断ち切れてしまいます。

 遠い異国の話と身近な出来事には感じられない。ついに日本にも上陸かという話があっても、驚異なる実感が湧かない。

 天災、人災、その様相はさまざまですが、身に直接関わる話でない限りそれを起源とする苦悩は現れてきません。

 手短な日常、それが私の前に現われる今日です。

 間違いなく「無数の自由な可能性」が開かれています。

 何をすることも出来る。

 自分の意思で、自分の意志で。

 手短な日常的可能性だけしか見ていないということは、無意識に行っている私の安全策。

 朝起き、会社に出かけ、何ごとも当たり前に処理し、時間になる帰宅する。

 道中の車の運転は、無意識に行っているわたしの安全策で当たり前に私は我が家に着くことができます。

 可能性はビックリするほど広い範囲に及ぶのですが、その可能性はどういうわけか制限があることに気づきます。そうです可能性の範囲、逸脱した際の身に降りかかるリスク、可能性という未来に向けての思考の世界は「無数の自由な可能性」を語る一方で、「制限付き自由な可能性」も語ることになります。

 何と人は矛盾的自己同一な存在なのでしょう。

 他人の苦しみを我が身のことのように思い、慈愛の精神で生きられる。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。」
              (パスカル『パンセ』347・中公文庫)

 パスカルの足下(あしもと・立脚の背景)には確かに神はいるのですが、実存主義者の最初の人とも言われているようです。(三田誠広著『実存と構造』集英社新書)

 「ケンブリッジ白熱教室」

は何を語ろうとしているのか、面白い故に私にとっての問いが解りません。

 ということで今日も元気に「手短な日常的可能性」に入ることにします。


セイタカアワダチソウのある風景

2014å¹´10月28æ—¥ | é¢¨æ™¯

 今年はセイタカアワダチソウ(背高泡立草)のある風景と題したブログアップは、8月の雑草駆除で出来ないものかと思っていたところ、いつものところにいつものセイタカアワダチソウがその姿を現わし、背面の常念岳とともにご覧の風景写真となりました。

 


(8月の風景、手前の空き地部分が上記のアワダチソウのある場所です) 

 自然の力は人知を超えたところがあることを実感します。戦後の進駐軍の物資に付着した種は、配送先から人の衣服等を介して何時頃かわかりませんが、国営アルプスあづみの公園入口交差点に落下、その地に根を張り今の姿になりました。

 明治にセイタカアワダチソウは観葉植物として輸入されましたが、その後繁殖力は他の植物の脅威となり、外来危惧種になってしまいました。この植物、現在安曇野市有明地区では標高700mまで来ています。

 「来ています」という表現をしましたが、繁殖地を伸ばしているという意味です。

 そこで考えるのがこの植物の繁殖に密接にかかわるその繁殖地の選択。植物に意思があるや否や、おのずから、みずから、か、その地はそこに現れます。

 あるという事実から、存在の本質が、底抜けの深淵があります。

 実在の根源的探求に重なるのですが、実に不可思議な自然の世界です。

 雑草の踏まれても踏まれても存在するその姿は、人に教訓的な意味を与えることは詩文に見ることができます。

 常念岳をバックにセイタカアワダチソウのある風景

 違和感なく、昔からある風景

 月にススキ。常念岳にセイタカアワダチソウ。

 この季節いつも考えさせられます。

 今朝の常念岳は、



向かって左の蝶が岳方面に霧氷を見ることができました。今朝は今年秋一番の冷え込みでした。 


「ケンブリッジ白熱教室」第3回目「FBI対フランス哲学」を見ながらとりあえず思うこと

2014å¹´10月25æ—¥ | å“²å­¦

 Eテレの「ケンブリッジ白熱教室」第3回目「FBI 対 フランス哲学」が昨夜放送されました。「実存」という哲学用語に初めて接したのは何時頃なのかわかりませんが、存在や実在という「今在る」こととどこがどう違うのか、いまだにはっきりと会得していませんが、言葉の持つ概念の雰囲気から、この言葉は体得と言った方が、これこそ的を得た話で、的に中(あた)る、正射正中するといった方がよいように思います。

 エッセンティアという言葉はエネルギーという言葉の語源にもなっています。

 今在るという存在に疑問を持つことこそ「生きる意味」に苦悩する人間の哲学的な出発に思えます。

 日々の生活を見ていると線路の上を走る列車のように決まったコースを決まった速度で進み、出発点から帰着地への往復をくり返しているようなもので、ある意味決定論に支配され「私たちには自由がない」と結論付けることも出来ます。

 自由だと思って行動しているようにみえても、必然的に動くことになっている、動かざるを得ない、そんな宿命的なようにも見えます。

昨年の6月頃にイギリスBBC制作の番組で動物の変態を題材にした番組がNHK地球ドラマチック「生き物はなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」で放送されていました。

 その番組の中でパスカルの『パンセ』の断章の次の言葉が紹介されていました。

 「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう(358)。」

 「われわれの頭の中には、その一方にさわると、その反対の方にも触るように仕組まれたバネがあるのではないか(70)。」

実に納得のいく言葉で『パンセ』が読み継がれるわけです。

 ここまで話してなんですが、今日のブログは「ケンブリッジ白熱教室」にも言及しますが同番組の紹介ではありません。

 さて、上記の言葉について知っていて、先程人の現象学と書きましたが、パスカルのこの言葉を受けて、哲学者鷲田清一先生は『<ひと>の現象学』の中で次のように書いていることを思い出しました。

<『<ひと>の現象学』(筑摩書房2013.3.20)から>

 あるものを見るとその反対者が透かし見える。ある方向にまっすぐ進んでゆくうち、あるときそれが思いとは逆方向であることに思い当たる……。リヴァーシブルであるということ、つまりこうした反転や可逆性は、はたして思考の襞(ひだ)なのか、それとも新たな現実の発見法なのか。それらは思考の堂々めぐりにすぎないのか、それとも(対立項を含み込んだ)思考の厚みもしくは奥行きをしめすものなのか。
 
 パスカルのいう、思考の、あるいは存在の「両重性」は、「二重の襞」という語の元の意味どおり、対立するものが和解することなく相剋している様をさす。テーゼとアンチテーゼという二項の対立がやがてジンテーゼ(綜合)へと止揚されゆくあのへ-ゲルの弁証法とは異なる、対立する二項がたがいに矛盾し、両立不能のまま軋みあっている状態である。そう、どこまでも解消されない不均衡と不安定。・・・・・<以上p5-p6>

 まさにパスカルは人間は矛盾する存在であり、それは変態しやすい動物で在るということでもあるというのです。虚無的なならざるを得ない、人間は常にそれに悩まされる存在であるというわけです。

 だから神を信じなさい、という話をするわけではありません。善き者にも悪しき者に恵みの雨を降らせる絶対神を信じなさい。苦悩することが「恵みの雨」なんてどのような意味転回をすればそのような発想ができるのか、それこそ懐疑です。

 自然御破壊力の前で、なんと人は悲惨な目に遭うのでしょう。

 善かれと思うことが凡て水泡に帰す。

 人生とはそういうくり返しの決定論や必然論で満たされているように思えてなりません。

 そんな時にニーチェは叫ぶわけです、「神は死んだ!」と・・・・。

 そういう芽が実存主義の根柢にでき、二ーチェの場合は永遠回帰と人生を見るならば「意味への意志」ではなく、「我意志」的な強心なる「力への意志」を叫ぶのです。

 実存主義者サルトルは人間いは本質的なものなどはなく「神の足枷は全くない自由人である」というような叫びに代え「人間は自由の刑に処せられている」というわけです。

 自由なれば何でもして宜しいかというわけですが、生きるにはそれなりのルールに従わなくてはなりません。選択における自由、決定する自由、選ばない自由、反抗の自由・・・。

 自由にはどう見ても責任が伴います、まるで罰のように。よりよい決定の可能性を積極的に選択しなければ、自由にともなう罰的現象が生じしそうです。

 サルトルはポジティブばかりではいけません、現実への積極参加(アンガジュマン)が必要と説くわけです。

 サルトルは自由を叫ぶわけですから、共産主義とはもともと懐を異にしていますが、それがFBIには解らない。反抗の自由もありますし、逆にFBIが懐疑的になるのも不思議ではありません。

 知的な強心者は共産主義者になれるか。

 FBIは苦悩するわけです。

 サルトルの場合は裸の実存です。徹底した現否定、現存在を無化すること。

 人間を「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」というこれぞ変態です。メタモルフォーゼです。

 サルトルの「無」とはこのような「無化」のことで実におもしろいわけです。

 FBIがどんなに叩いても裸の実存ですから何も出てこない。

 とりあえず今朝はこんなことを番組を見ながら考えていました。


額田王という女性を想う

2014å¹´10月24æ—¥ | æ–‡è—

 安曇野から見ることができる野山の木々の紅葉も色濃くなってきました。寒さも一段と冬へと近づきます。

 今朝一番にブックマークしたブログを見ると「万葉集」の話が出ていました。秋のこの季節と雪解けが過ぎもうじき春が来る季節に思い出し必ずブログアップする万葉集の歌があります。その歌とは、額田王(ぬかたのおおきみ)が作られた次の歌です。

<新潮社 新潮日本古典集成『萬葉集一』巻1-16から>

天皇、内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)ひ憐れびしめたまふ時に、額田王の、歌をもちて判(ことわ)れる歌

冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ
さかざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず
草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみち)をば
取りてそ偲ふ 青きをば 置きてそ歎(なげ)く そこし恨(うら)めし
秋山われは

 
(Eテレ「日めくり万葉集」2011.11.1から) 

【訳】
 春がやって来ると、今まで鳴かずにいた鳥も来て鳴く。それに、咲かずにいた花も咲いていい。山が茂っているので、わけ入って取りもしない。草が深いので、手に取ってもしない。秋の山の木の葉を見ては、色づいた葉を手に取って賞美する。青い葉をばそのままに置いて嘆く。その点が残念です。秋山です。私は、

<以上上記書p53>

です。いつも書くことなのですが、「冬ごもり」「春さり来れば」という表現がなぜ「春がやって来る」ことになるのかという最初にこの歌を知った時の思いです。

 「冬ごもり」と聞けば真冬に備えた重装備をイメージし、「春さり」といえば「春が去るから夏だろう」という解釈です。

 木々の花の芽に一杯蓄えられたエネルギーが籠りに籠っているその状態が冬ごもりで、「春さり来れば」は、今現在のこの時点、位置から先に進むことで、彼岸が此岸に重なったようなもので「さりくる」は限りなく今現在に立脚しています。

 徹底した今現在の強調とも言えそうです。「もう春が来ればなんと素晴らしいのでしょう」という悦びの情を表現しているということです。

「春がやって来ると、今まで鳴かずにいた鳥も来て鳴く」という訳になりますが、表現の背景にはその人(額田王)の持つ感性があります。

 額田王の歌は女性の方が大変好きなようですが、君を思う歌には性(さが)的なものがあります。

 額田王はどういう方なのか、その出生は何処と謎多き方です。

 「男ってバカねぇ~」

そんなことも言いそうな方なのです。


「学び」と「鵜呑み」について

2014å¹´10月23æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

 Eテレ「100分de名著」清少納言の『枕草子』全4回が昨夜終了しました。来月は中国の古典洪自誠(こう・じせい)の『菜根譚』となります。この歳になると学び舎がないことからこのような番組が通信教育波の学びの場になります。

 なぜ学ぶのか、性格なのでしょうか知らないことに対する不安、劣等感などと言う人もいるかもしれませんが、知らないよりは知っておいた方が他人とのコミュニケーションが取りやすいのは確かで、知識をひけらかすのでなければ社交の世界も広がります。

 『枕草子』は随筆でした。「春はあけぼの・・・」ではじまるこの古典は必ず高校までの教育で学んでくる作品ですが、伊集院光さんの話ではありませんが最初の数行を知っている、大昔の貴族社会の文学作品程度しか知りません。

 この程度ですから、知っていても知らなくとも還暦の今に歳を重ねることができるのですから、学ばなくとも大きな問題ではないようです。

 さてこのような文芸作品を解説を受け学ぶのですが、今回の講師は日本語学者で埼玉大学名誉教授の山口仲美先生でした。従って文学者という立場から清少納言の人物像や作品の持つ意味が解釈され伝えられます。

 文学作品を批評する。いろいろな立場からの批評があります。社会学者、哲学者、心理学者がそれぞれの立場からその作品と作者を分析し、そこに何か特異なものを見出していきます。

 文学作品を対象にしましたが批評は何も文学作品に限られるものではなく、人物批評もあるわけで、

 ヘルダーリンの詩作の価値やニーチェの哲学の真理に対して、前者が統合失調症を患っており、後者が脳性麻痺を病んでいるなどという精神分析を行った批評書などがあるわけで、V・E・フランクルが言うように、だからといって彼らの作品は今後も残り続けますし、逆にその批評書の方がアッという間に失われて行きます。

 批評書と書きましたが解説書も同様で、メインを知るにはどうしてもそのような書籍がないと自分のものとすることができません。あくまでもメインである作品が主であって、批評書、解説書をメインにすることはできないのですが、これがまた、日本の古典や外国物は書かれる文字の理解が直接的ではないため訳本を頼りにするしかありません。

 そこには訳者のもつ感性による解釈があり、実際の作者の思い入れは間接的なものとなってしまいます。

 やはり何につけても専門家にはかないません。

 これといって重要性を述べることは出来ないのですが、学びというものは幾つになっても続けたいものです。それが何の為になるのかという問いを抜きにして続けたいと思います。

 昨日のブログに中村元先生の著書の引用をしましたが、そこに次の言葉がありました。

「『枕草子』は最初に季節を概論して、それから四季折々の風光と人事とを叙していく。随筆にはこのような種類のものが非常に多い。」

たったこの二行ですが、この意味が解るということは学びがあったからこそで、知らなければこの言葉をただ鵜呑みにするしかないのです。

 鵜呑みだけは回避したい。巷にはあまりの持鵜呑みの方々が多い気がします。

 学びの姿勢というものを考えるとき、「鵜呑み」だけは避けたいものです。


美の現象学

2014å¹´10月22æ—¥ | æ€è€ƒæŽ¢ç©¶

 Eテレ「ケンブリッジ白熱教室」の第2回「美と醜悪の現象学」が先週の金曜日(17日)に放送されました。世間の反応はいかなるものかと検索するのですが、サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ほどの反響は今のところないようです。

 番組紹介サイトには、

“美は、世界の人々に憑きまとう亡霊であり、決して実現されないものだ。”
 マーティン博士は、古代ギリシャのプラトンや自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていたサルトルの哲学を用いて、世界的なポップスター・マイケル・ジャクソン、そして私たち自身が追い求める「理想の姿」、美に対する執着と苦悩について考察します。

と書かれています。お題からして「美について論じる」ことになりますから、当然古代ギリシャ哲学の世界から語られていました。

 「美とはどういうものなのか?」

 「美とはどういうことなのか?」

という「モノ・コト」の思考視点が働く話しですが、人の為す現象、人の表現を心底考えると面白いものです。

「美(び)」とは何でしょうか。美しいこと、香(かぐわ)しいこと、愛(あい)らしいこと愛(いと)しいこと、美しき人生となればもう形ばかりのことではないように思いますし、以前ブログにも書きましたが「真善美」の統合が日本語の場合には「美」と表現されます。

 まぁとりあえず一般的な美からいきます。

 自然の美、絵画等の美術的作品、美しいメローディーと表現することも出来ますから、音楽の対象になると思います。それから建築物もデザインが密接にかかわる話ですから美の対象であることは誰も疑わないでしょう。また「美しいしぐさ」などという人間の動作もまた能楽等の分野から本来的な人間のしぐさまで、「美し」は限りなき世界に「ある」ことになります。

「美への飽くなき挑戦」

 ある意味、実存的欲求不満(exisetentielle Frustration)があるのかもしれません。そこには満たすものが満たされない状態があり、充足すべき働きがそこに生じる。マイケル・ジャクソンの挑戦もそんなところにあったのでしょう。

かつてこの思考の部屋ブログに、次の言葉を書いたことがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 古代ギリシャ哲学者でネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノスという哲学者がいます。このプロティノスの観照(テオリア)という言葉があります。中央公論社の『世界の名著2プロティノス、ポルピュリオス、ポロクロス』ではプロティノスは次のように語っています。

・・・まじめな態度で考察をすすめる前に、まず、たわむれに次のように語ってみることにしよう。
 ã€Œã“の世の中のものは、理性的な生きものばかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命(ピュシス)も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが<観照(テオリア)>を求め、これを目指している。そして、すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。ただし、それぞれの観照の仕方や成果にはちがいがあり、或るものの観照は真実を得ているが、別の或るものの観照は、真実の模像もしくは影を得ているにすぎない」と。

<以上>

注釈には次のように語られています。

 ã€€ã“の「観照」は、自分より上位のもの・すぐれたものを「観る」こと。プロティノスにおいては、すべては「一者」より直接的もしくは間接的生れなのである。したがって、すべては自分の産みの親である一者を慕い求めるわけであるが、これが(うみの親を)「観る」という働きになってあらわれるのであって、下位のものは上位のものを観ることによって、その生命を得ているのである。

と説明されていました。思うに、

存在は形成の働きの中で平等にその姿を現わし、花も人間も形づくられるという形成の中においては異なるところはありません。

その平等の顕現の中にある存在は観照を求めている。

「すべては自分の産みの親である一者を慕い求める」

「産みの親」とは「~成り」の働きです。観照も働きのうちにあります。「生命(いのち)を得ている」と読むならば、プロティノスの観照(テオリア)の考え方は、みごとな現象学に思えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「ケンブリッジ白熱教室」の第2回「美と醜悪の現象学」には、このような世界の「美」が語られていたように思います。

 さて「美文」という言葉があります。先ほどの美の中にはこの「美」を入れませんでした。しかしこの「美文」という言葉がある以上個々の範疇化は別として「美しい文章」なるものがあるに違いなく、個人的には私の作文とは違い、いつの間にか文章に引き込まれるそのような文章に出会うことがあります。まさに「私に最も近いもの」なのでしょう。

 西田幾多郎先生の「短歌について」に次の言葉があります。

「人生には唯、短詩の形式によってのみ掴み得る人生の意義というものがある。短詩の形式によって人生を掴むということは、人生を現在の中心から掴むということでなければならぬ。刹那の一点から見るということでなければならぬ。」

 老いぬれど 我が門出を 送られし
 母のみ姿 わすれ難(がたか)り
               寸志

 このような短詩にはどのような美があるのだろうか。ここには先ほどのテオリアがあります。

 まさに「すべては自分の産みの親である一者を慕い求める」という美です。

 「美は存在するのではなく、生成するのです。移ろうのです。あたかも生命そのもののように。美とは、それが美となりうるという可能性を内に秘めているがゆえに美しいのであり、また、それが美が、つねに、美から美ならざるものへと凋落し、崩壊してゆく要因を内に秘めているからこそ美しい。花はやがて咲くから美しいのであり、同時に、やがて散るからこそ美しいのです。この生々流転の姿を全体としてとらえるところに、日本人の美意識が働く、と言ってもいいでしょう。」(森本哲郎著『ことばへの旅第三集』p152から)

 森本哲郎先生(1925年10月13日 - 2014年1月5日)を評論家と紹介するよりも思想家で哲学者でもあると個人的に思っています。時々当該ブログにも著書からの引用をするのですが、とても美しい文章を書く方でした。これを西田先生の短歌に重ねると見えないものが観えてきます。

 しかしながら話はここで閉じるわけにはいけません。そうとは考えない人々が必ずいるのです。

 比較思想家、原始仏教研究家の中村元先生の中村元選集第3巻『日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法Ⅲ』(春秋社)に次のくだりがあります。
 
<日本人は一般的に山川草木を愛し、自然にあこがれた。日本人の衣服の模様には花鳥草木を描き、料理にも季節の物を用い、原形をすっかり破壊するほどには調理ぜず、できるかぎり自然のままのかたちを尊重する。住居についてみても、床の間には生花や盆栽をおき、欄間にも多く花鳥を刻み、襖にも多くは簡素な花鳥を描き、庭にも小さな山水を築く。文芸も自然に対するあたたかな愛と密接に結びついている。『枕草子』は最初に季節を概論して、それから四季折々の風光と人事とを叙していく。随筆にはこのような種類のものが非常に多い。こころみに、日本の歌集のなかから「自然」を詠じたものを除いたならば。あとにどれだけが残るであろうか。俳句も自然界の風物から切り離しては考えられない。

 以上は一般日本人の所感を紹介したのであるが、この見解が国際社会に通用するかどうかは問題である。韓国人は、この傾向を批評して、生花や盆栽は、日本人の残酷性を象徴するものだという。生花は生きた花を鋏で切ってしまう。盆栽は、のびるはずの植物を矮小化してしまう、と。そういう批評を考慮すると、日本人の象徴化を愛するといえば、まちがいであろう。>(以上上記書「第2章 与えられた現実の容認」p24から)

 これは自然美の本質的な感慨を語るものです。西洋文化、東洋文化さらに韓国文化、日本文化いろいろな国々からアイヌ文化、沖縄文化・・・多種多様な文化があります。

「すべては自分の産みの親である一者を慕い求める」

親から子へ、子から親となる。そこには生死の引継ぎがあります。これは万人共通の避けては通れぬものです。ある意味これほどの共通善はないといえるかもしれません。

 流転の中に、生成と消滅の中に如何に美を持てるか。

 そういう問いが作る現象、作られた現象にはあるように思います。

 「ケンブリッジ白熱教室」第2回「美と醜悪の現象学」

なかなか考えさせられる番組でした。


ウイスキーがお好きでしょうか?

2014å¹´10月21æ—¥ | å¤ä»£ç²¾ç¥žå²

 お酒は小生飲めませんからお酒の話ではありません。

 日本哲学、日本思想というものがあるのか、さら日本精神というものも有るのか否かを時々ブログアップしています。その中で古代精神史的なものを考えるのですが、比較思想家、原始仏教研究家の中村元先生の著書も参考書として、自己の落ち着きどころを日々思考し表現しているのですが、膨大な中村元選集の中の第3巻『日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法Ⅲ』(春秋社)は非常に参考になります。この本には道元さん、親鸞さんそして日蓮、空海等の日本の仏教界の重鎮の原点の曲解に言及する箇所もあり違和感を受ける方もあるとおもいますが、そこにこそ意味への信仰における概念の転回を図ることになると考えています。

 今朝は引用好きな私は、この著書から次の文章を紹介したいと思います。
 
< 日本人は一般的に山川草木を愛し、自然にあこがれた。日本人の衣服の模様には花鳥草木を描き、料理にも季節の物を用い、原形をすっかり破壊するほどには調理ぜず、できるかぎり自然のままのかたちを尊重する。住居についてみても、床の間には生花や盆栽をおき、欄間にも多く花鳥を刻み、襖にも多くは簡素な花鳥を描き、庭にも小さな山水を築く。文芸も自然に対するあたたかな愛と密接に結びついている。『枕草子』は最初に季節を概論して、それから四季折々の風光と人事とを叙していく。随筆にはこのような種類のものが非常に多い。こころみに、日本の歌集のなかから「自然」を詠じたものを除いたならば。あとにどれだけが残るであろうか。俳句も自然界の風物から切り離しては考えられない。

 以上は一般日本人の所感を紹介したのであるが、この見解が国際社会に通用するかどうかは問題である。韓国人は、この傾向を批評して、生花や盆栽は、日本人の残酷性を象徴するものだという。生花は生きた花を鋏で切ってしまう。盆栽は、のびるはずの植物を矮小化してしまう、と。そういう批評を考慮すると、日本人の象徴化を愛するといえば、まちがいであろう。>(以上上記書「第2章 与えられた現実の容認」p24から)

前半の日本的と後半の韓国的なところ、双方ともそう考えても然り・・・なのです。そもそも日本人の着物の柄には山川草木もありますが、最近古い映像フィルム(白黒)のカラー化を見ていて、そこに写し出される色彩の変化に非常に興味を持つとともに、抽象化の着物柄や庶民の藍色の色彩に、何か総じて取り込む日本人を観た感があります。

 「悉く皆な成仏(悉皆仏成仏)」

 「悉く仏性有り(悉有仏性)」

は日本人の原典の読み違いの産物、さらには明治以降の哲学者によって説かれる「現象即実在」の言における禅的と称せられるものも原典の曲解ともとれる中村論なのですが、概念の転回の視点から学び取るとこれほど「日本人の思惟方法」を象徴するものはありません。

 お茶が美味い。お水が美味い。

 無機物に「お」をつけることができる。中村先生もこの「お」が敬語か否かわかりませんと言うほどに日本人は「お」好きです。

 「ウイスキーがお好きでしょうか?」

 スコッチではなくウイスキーなのですが、この場合の「お」は相手に対する女性が使う「お」なのですか、男性が使うとあの世界になってしまいます。

 今朝はまじめな話をしようと思ったのですが、体調がいま少しすぐれず「お」で終わりますが、「日本人の思惟方法」は転回の中に、深淵があります。


「exisetentielles Vakuum」における真空と虚無

2014å¹´10月19æ—¥ | ã“とば

 『夜と霧』で有名な実存的精神療法家のV・E・フランクルの思想に触れ「意味への信仰」という個人的な宗教的信心にも似た、存在の背景に問われ呼応する<わたし>を置いているのですが、これはフランクルの「意味への意志」ということばを自分のことばにあてているわけです。この場合当てはめているというのと心のただ中に置く、ただ中に中(あ)てているということです。

 そのような私ですからフランクル関係の著書を読むことになるのですが、今月『生きがい喪失の悩み』(中村友太郎訳・講談社学術文庫)が出版されました。解説者は心理学者諸富祥彦で、この方はEテレ100分de名著フランクル『夜と霧』という番組の講師をされていました。

 フランクルと言うと哲学者の山田邦男先生のフランクル思想を教育哲学として読み解く(個人的には好きですが)立場からの視点を重点にした学びが好きなのですが、上記の『生きがい喪失の悩み』は、心理学的な病理的解釈からの「現代人の病理」としていますがまさに「病の只中」にある人を前提にしたものとなっています。

 『意味を失った人生の苦悩---現代の心理療法』(中村友太郎訳・エンデルレ書店・1982)を文庫化したものでこれまで読んでいない本ですので早々に入手しました。

 しかしフランクル思想を知悉したいと思う人にはフランクル著の翻訳ですので、そこからの読み取りはそれなりの思想的な読み取りができるかと思います。

 哲学的視点から悩める人々を表現すると「実存的虚無」という言葉になりますが、この訳書では「実存的真空」となっています。

 この著『生きがい喪失の悩み』は

序論 生きがいの喪失の悩み(P13~p58)

精神療法を再び人間的なものとするために(p59~p178)

付録 精神医学者は現代文学に対してどのように語っているか(p179~p195)

学術文庫版への訳者あとがき(p196~p195)

解説 フランクル---絶望に効く心理学・諸富祥彦(p200~p221)

等の構成になっています。さきほど「実存的虚無」「実存的真空」という言葉について書きましたが、「虚無」と「真空」という言葉の違いを単なる訳者の日本語選びと解せばそれで問題はないのか疑問が出てきました。

諸富祥彦解説では、

「・・・そして今日では、人間はアルフレート・アドラーの時代のように劣等感情に悩んいるのではなく、むしろまさに、空虚感、つまり実存的真空を伴って現われる無意味さの感情に悩んでいます。・・・」

という書き方をしてます。さきほど「訳者の日本語選びと解せばそれで問題はないでしょう。」と書きましたが、次項索引によると

「exisetentielles Vakuum」=実存的真空

「exisetentielle Frustration」=実存的欲求不満

となっていますので、「exisetentielles Vakuum」を実存的虚無と訳すのは誤りか。

「Vakuum」

この言葉からフランクルの「なにもない」という明白性を受けとることができます。バックボーンがない、拠りどころのない、裸の実存です。

 事実存在(現実存在)と本質存在

 実存の言葉は、九鬼周造先生から使われる言葉ですが考えさせられます。

 10月17日(金)Eテレ「ケンブリッジ白熱教室」2回目「美と醜悪の現象学」が放送されていました。フランス哲学の立場から語られる哲学教室、サルトルの実存主義が語られます。「実存は本質に先立つ」という切り出しナイフを使った話は有名ですが、サルトルは無神論的立場から実在する自分をとことん探究します。

 実在するということは自由であるということで、たえず自己を生成し、未来へ向かって自己を投企する。

 2回目「美と醜悪の現象学」はプラトンの「美」から語られていましたが、実存は足りないものの補い、真空が何もかも呑み込むような、バキュームを想起します。

 暗黒星雲[Dark nebula]

 宮沢賢治の『銀河鉄道』ではジョバンニが「石炭袋」と呼ぶ「空の孔(あな)」です。

 限定された閉鎖的空間の外へとつながる「孔」

 ジョバンニの実存の根柢にあるもの。

 「天の河の中にあいたその孔は、ぎくっとさせるほど深く暗いのだが、童謡の中のジョバンニの言葉は、彼らがときにはその中にさえ突き進んでいかなくてはならない、ということを暗示している。」(大澤真幸著『近代日本思想の肖像』講談社学実文庫p198))

 社会学の立場から読み解き大澤先生の言葉の引用ですが、ジョバンニという架空の物語の主人公、イニシエーション的な通過点として賢治はそれを重ねたのではないか、その場所としての暗黒の「孔」を。

 「空虚感、つまり実存的真空を伴って現われる無意味さの感情に悩み」と諸橋先生は書いていますが、

 「exisetentielles Vakuum」

には虚無を超越するも、働きの根元が根柢の思想にあるように思うのです。フランクルの「exisetentielles Vakuum」は実存的虚無、実存的虚無感と解したい。